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2013年4月21日 (日)

マルクス/レーニン小伝(連載第29回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

(3)ボリシェヴィキの全権掌握

10月革命の性格
 帝政を終わらせた2月革命はたしかに「革命」であったが、2月革命の結果成立した臨時政府を転覆した10月革命は「革命」ではなく、ボリシェヴィキの「クーデター」であったとする見方がある。この見方は10月革命の結果構築されたソ連邦が解体され、10月革命の歴史的意義を否定する見解がロシアでも広がった今日では多数説と言ってよいかもしれない。
 しかし、「10月革命=クーデター説」はすでに10月革命直後から、ボリシェヴィキに追われた臨時政府側やメンシェヴィキ、エス・エル右派―後述するように、エス・エルは左派が分裂し、一時ボリシェヴィキと行動を共にしていた―などの敗北当事者が採っていた立場を引き継いだものにすぎない。
 10月革命は、前述したようにレーニンの言う「戦闘術」に従ってボリシェヴィキ党が綿密に計画・実行した軍事蜂起ではあったが、それだけにとどまったのではない。1917年7月の武装デモ以来、臨時政府が統治能力を喪失し、無秩序が拡大していく中で、底流においては社会革命のうねりが起きていたのである。
 中でも大規模なものは農民革命である。臨時政府が公約していた土地改革が一向に進まない中、農民らは集団で地主貴族の居館を襲撃・焼打ちし―時に地主を殺害し―、地主らが所有する土地や家畜・農具を村落ごとに分配していった。こうした動きが8月から10月にかけてロシア全土に広がりを見せていた。
 レーニン政権が10月革命直後のソヴィエト大会に提案し圧倒的多数で採択された「土地に関する布告」はボリシェヴィキ本来の政策である土地の国有化をいったん棚上げして、さしあたりエス・エルの農業綱領であった「農民要望書」―エス・エル自身が先送りしていた―に沿って、地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を謳っているが、これはすでに進展してきていた農民革命の成果を追認したものにほかならなかった。
 一方、都市労働者の側でも、臨時政府の経済無策により、不況、物不足、物価高騰がおさまらない中、2月革命直後から結成され始めていた労働者自主管理組織としての「工場委員会」が急進化し、労働者自身が工場を占拠して採用・解雇を監督し、在庫や必要物資の管理にも当たる「労働者統制」の動きが広がっていた。
 労働者統制は、レーニンが「4月テーゼ」の中でも「労働者代表ソヴィエトによる統制」という形で提起していたところであったが、改めて11月に公布された「生産と分配に対する労働者統制令」の中で確認されている。
 また、農民・労働者から徴兵されていた兵士らは2月革命直後からソヴィエト内で重要な役割を果たしてきており、とりわけペトログラード・ソヴィエトが3月1日付けで発した「命令第一号」は軍隊内における兵士の自治組織である「兵士委員会」の創設を謳ったものであった。
 この組織は帝政ロシア軍の内部からの解体を招いたが、それはとりもなおさず「兵士の革命」であった。そのおかげで、10月革命蜂起に際して、ボリシェヴィキは自派に忠実な部隊を編成し、かつ大きな抵抗もなしに首都を制圧することもできたのである。
 このように、10月革命は決してレーニンとボリシェヴィキ党の力だけで成し遂げられたものではなく、ローザ的な意味での「自発的」な民衆の革命運動の流れに乗って初めて成功したのであり、何の社会的条件もなしにボリシェヴィキが限られた勢力でクーデターを断行したという前記のような見方はレーニンとボリシェヴィキ党の力量を過大評価するものである。
 しかしその一方で、相互に別個独立して行われていた民衆の革命的行動だけで10月革命が成功したという自然発生的な説明が妥当しないことも事実であり、民衆革命の沸騰点でレーニンとボリシェヴィキ党の計画的な軍事蜂起が革命を収束させ、新たに一定の秩序を作り出したのである。
 それでは、レーニンとボリシェヴィキ党はおよそクーデターと無縁であったのかと言えば、決してそうではなかった。奇妙にも、かれらによる言葉の真の意味での「クーデター」は、政権樹立後に起こされたのである。

ボリシェヴィキのクーデター
 10月革命直後、10月26日の第二回ソヴィエト大会でレーニンを首班とする新政府・人民委員会議が創設されたことはすでに述べた。
 人民委員(コミサール)とは政府の閣僚に相当するが、君主の秘書官から派生した「大臣」とは異なり、人民から付託を受けた執政官という意味が込められた新しい行政制度であり、これはスターリン時代の1946年に廃止され、より一般的な閣僚制度に切り替えられるまで、10月革命の産物として存続していた。
 それはともかく、この発足したばかりのレーニン政権は翌27日に旧臨時政府が以前から公約していた制憲会議選挙を11月12日に実施する旨の政令を公布した。
 レーニンとしても、制憲会議選挙は2月革命以来の民衆の要求事項とみなされていたことを考慮したのであった。ということは、この時点でのレーニン政権は制憲会議成立までの暫定政権としての性格を持つにすぎないことを自ら認めていたことになる。
 果たして制憲会議選挙を実施してみると、結果は比例代表制で選出された707議席中、エス・エルが370議席を占め、ボリシェヴィキはわずか四分の一程度の175議席にとどまったのである。この結果は農村部に厚い支持基盤を持つエス・エルの強さと、主として都市労働者層にしか支持されていなかったボリシェヴィキの実力差をはっきりと見せつけるものであった。
 レーニン政権は自ら公約し実施した選挙で明らかに敗北した以上、いったん総辞職すべきであった。ところが、レーニンはエス・エルが選挙直後に分裂し、左派が新党「左翼社会革命党」を結成した事実を挙げて、ソヴィエトによる議員リコールを主張したうえ、制憲会議議員の過半数に当たる400人が首都に到着してから開会するという口実で、11月28日に予定されていた制憲会議の招集を延期した。
 これに抗議する動きが出ると、わずか17議席しか獲得できなかったカデットを「人民の敵の党」と断じ、同党議員を逮捕した。これがクーデターの最初の一歩となる。
 次いで、レーニンは選挙後の分裂を問題視したばかりのエス・エル左派と12月8日に連立協定を結んで政権抱き込みを図った。そのうえで彼は「制憲会議に関するテーゼ」を発表し、制憲会議選挙の有効性について、先のエス・エル分裂問題を繰り返すとともに、選挙が10月革命の規模と意義を人民大衆が理解できない時に実施されたこと―しかし、そういう日程で選挙を実施したのはレーニン政権自身であった―を問題視する。
 そして、制憲会議(議会)はブルジョワ共和国にあっては民主主義の最高形態であるが、「ソヴィエト共和国」―しかし、憲法制定前に政体をレーニン個人が決めることはできないはずである―は、通常のブルジョワ共和国よりも高度な民主主義制度の形態であり、また社会主義への最も苦痛の少ない移行を保障できる唯一の形態であるとの一般論を持ち出し、ソヴィエトのほうが制憲会議に優先する―そう考えるなら、そもそもレーニン政権はなぜ制憲会議選挙をわざわざ実施したのか―と結論づけるのである。
 レーニンはこの「テーゼ」をまず制憲会議のボリシェヴィキ議員団に全会一致で採択させた。その後、取り急ぎ「ロシアを労働者‐兵士‐農民代表ソヴィエト共和国と宣言する。中央及び地方のすべての権力はソヴィエトに属する。」という条項で始まる「勤労被搾取人民の権利宣言」を起草し、これをボリシェヴィキで固められたソヴィエト中央執行委員会に全会一致で採択させた。
 この文書は「権利宣言」と銘打たれていたけれども、内容的には政体のあり方にも及ぶ憲法草案と言ってよいものであって、これを制憲会議の招集前に持ち出したのは、制憲会議を無視するクーデター宣言に等しいものであった。
 しかし、用意周到なレーニンはこれでけりをつけるのではなく、明けて1918年1月5日、公約どおりに制憲会議を招集してみせ、前記「権利宣言」の採択を制憲会議に迫るのである。ここで制憲会議がこれを実際に採択していたら面白いことになったのだが、エス・エルをはじめとする多数派が審議拒否で応じたことは、レーニンに恰好の口実を与えることになった。
 レーニンはボリシェヴィキ議員団を制憲会議から引き上げさせたうえ、同日深夜にはソヴィエト中央執行委員会に「制憲会議の解散に関する布告」を採択させた。そして翌6日には武装部隊を差し向けて制憲会議を強制解散したのである。
 1月12日、第三回全ロシア・ソヴィエト大会は改めて先の「権利宣言」を圧倒的な賛成多数で採択するとともに、レーニン政権の政策をすべて承認し、従来の布告の中から制憲会議に関わる文言をすべて削除することまで決議した。制憲会議は遡って存在そのものをすら否認されたのである。
 こうして選挙に基づいて招集された制憲会議を非合法的な手段で転覆したレーニンとボリシェヴィキ党の「本物」のクーデターは、成功裡に完了した。
 ここで改めて作り出された体制は、クーデター体制にふさわしく抑圧的であった。レーニン政権はすでに前年の12月にはソ連の悪名高き秘密政治警察KGB(国家保安委員会)の前身となる非常委員会(チェ・カー)を創設して、反体制派狩りの準備を整えていた。そして、クーデター後の4月3日には結社登録制、検閲、集会許可制などの言論統制を定める布告も発せられた。
 18年7月にようやく制定された革命後初の憲法「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国憲法」は新生ロシアを「すべての労働者人民の自由な社会主義社会」と規定していたが、それは初めから虚しい空文句であったのだ。

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