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2013年3月 7日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第24回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第3章 亡命と運動

レーニンの立場の偉大な歴史的意義、すなわち真に革命的な党の団結を強化し、そのバックボーンに筋金を入れるべく断固としてイデオロギー的境界線を引き、必要とあらば分裂も辞さずという彼のポリシーは、当時私にはまだよくわかっていなかった。
―同志レオン・トロツキー

(1)党内抗争と理論闘争

『イスクラ』脱退へ
 レーニンはロシア社会民主労働者党第二回大会で多数派(ボリシェヴィキ)を形成したが、なお僅差であり、不安定であった。
 一般にレーニンのボリシェヴィキ党は第二回党大会で事実上成立していたと理解されているが、レーニンはなおマルトフら少数派メンシェヴィキとの融和のため努力を続けていた。しかし、マルトフらは巻き返しのチャンスを狙い、レーニンへの協力を拒んでいた。
 そのチャンスは1903年10月にジュネーブで開かれたロシア革命的社会民主主義在外連盟第二回大会の場でやって来た。この大会は党大会とは別途、外国亡命中のロシア・マルクス主義者を広く結集する大会であったから、メンシェヴィキにとってPRの場としては最適であった。
 実際、この大会はメンシェヴィキによる「ボリシェヴィキ糾弾大会」のような様相を呈した。妻クループスカヤの回想によると、大会前、レーニンはジュネーブの町で考え事をしながら自転車に乗っていて路面電車と衝突し負傷する事故を起こしたという。負傷を押して連盟大会に出席したレーニンは大会でも糾弾され、傷心して退場した。
 レーニンにとって追い打ちとなったのは、党の完全な分裂を恐れたプレハーノフがメンシェヴィキとの和解を言い出したことであった。たまりかねたレーニンはまたもプレハーノフを立てる形をとりつつ、自ら『イスクラ』編集部から身を引く道を選んだのであった。
 レーニンは幸い11月には党中央委員に補充選出されたため、以後は中央委員会を足場として早期に第三回党大会を招集して揺らいだ党内立場の建て直しを図ることを狙った。レーニンの特徴をなす「力への意志」は、まだ国家権力などおよそ視野に入るべくもなかったこの時期、まずは「党内権力」を目指すあくなき行動として発現し始めていた。
 彼は手始めに、04年5月、論文「一歩前進、二歩後退」を発表してメンシェヴィキの主張を徹底批判した。この論文はその2年前の「何をなすべきか」以来、レーニンが掲げてきた革命前衛理論に立脚しつつ、メンシェヴィキのサークル的体質を厳しく批判し、論文の副題でもある「我が党の危機」、すなわち革命的陣営と非革命的な改良主義的陣営とに党が分裂する危機の責任をもっぱらメンシェヴィキに帰している。そのうえで、彼は革命政党としての団結力を高めるために中央集権的な党の建設を訴えるのである。
 このような論調は当然にもメンシェヴィキを怒らせたのみならず、プレハーノフやその他の中間派のメンバーをも離反させることとなった。その結果、レーニンの党内立場はかえって悪化し、7月には中央委員辞任に追い込まれた。
 しかしレーニンはあきらめず、8月にはスイスでボリシェヴィキ単独の会議を開き、党の革命的団結を固めるための新たな党大会の開催を訴えるアピールを発した。そして年末にはボリシェヴィキ派の新機関紙『フペリョート』を創刊する。ロシア語で「前進」を意味するフペリョートというタイトルには、第二回党大会の後、「一歩前進、二歩後退」を強いられた彼と彼の党派の再びの前進という意味が込められていた。

ローザvs.レーニン論争
 意外なところから、レーニンに論争を挑む者が現れた。ドイツ社会民主党左派のローザ・ルクセンブルク(以下、ローザという)であった。
 ポーランド出身のユダヤ人であった彼女は、後年ドイツ共産党の共同創設者としてドイツ革命の渦中で反革命化した社民党政権が動員した民兵組織の手にかかって虐殺される運命にあった人であるが、彼女が最初に名を上げたのは、第1部でも見たように、エンゲルス没後のドイツ社民党内部に生じたベルンシュタインのいわゆる「修正主義」の思潮に対する批判の急先鋒としてであった。
 レーニンが「修正主義」に反対したのは、ロシアの経済主義にも連なるこれらの思潮は労働者革命の自然発生性を神秘化しているとみなしたからであるが、ローザの場合には全く反対に、労働者大衆の自然発生的な革命運動への絶対的な信頼に基づいて、ベルンシュタインの順応主義的な路線を鋭く批判したのである。
 ローザのこうした自然発生的革命論は論理上、レーニンのエリート主義的な革命前衛理論とも衝突せざるを得ない。実際、彼女が1904年にドイツ社民党機関紙『ノイエ・ツァイト』とすでにレーニンの手を離れていた『イスクラ』に同時発表したレーニン批判論文「ロシア社会民主党の組織問題」は、レーニンの「一歩前進、二歩後退」に現れているレーニン的党組織論の「超中央集権的」な性格を批判の中心にすえている。
 ローザの自然発生的革命論によれば、レーニンのような中央集権的党組織によるプロレタリアートの指導はあり得ず、党の指導的役割は最小限度の受動的なものにとどまるのである。
 ローザが労働者の階級意識獲得の手段として、従ってまた革命の契機として期待をかけるのはゼネラル・ストライキ(ゼネスト)であった。ローザが前記論文の結びに置いた「真の革命的な労働運動によって犯される誤謬は、歴史的には最良の中央委員会の無謬性よりも限りなく実り豊かであり、貴重である」という一文は、彼女の党非組織論を雄弁に要約している。
 ローザの所論は一見すると、マルクスの革命後衛理論に近いようにも見えるが、マルクスは第1部でも見たとおり、共産主義者(=革命家)をプロレタリア運動における断固たる推進的部分かつ洞察力を備えた集団と積極的にとらえるのであり、それは決してローザ的党のように大衆の自然発生的ゼネストの後をついていくだけの受動的徒党ではないのである。
 大衆の自発性に対するローザの無条件的信奉は、彼女のもう一つの重要な持論である資本主義の自動的崩壊論とともに、「神秘主義的マルクス主義」とでも呼ぶべきマルクス理論からの独異な逸脱を示していた。
 ローザはその後もたびたびレーニンと激しい論戦を交わし、ロシア10月革命とその帰結であるボリシェヴィキ独裁に対する最も手厳しい批判者となった。
 しかし、レーニンはローザを決してメンシェヴィキの同類とみなして切り捨てることなく、最も手ごわい批判的同志として遇し、彼女がドイツ共産党の共同創設者カール・リープクネヒトとともに虐殺された時、すでに権力の座に就いていた彼は、二人の死を深く悼んだのである。

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