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2013年3月

2013年3月29日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第26回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第3章 亡命と運動

(3)哲学への接近

flag反経験批判論
 第一次ロシア革命の挫折は、ボリシェヴィキを含む革命派を動員解除状態に置いてしまった。帝政ロシア当局の激しい弾圧―1906年から10年までに政治犯として死刑判決を受けた者5735人、うち執行された者3741人という数字もある―もさりながら、精神的なアノミーも激しかった。ボリシェヴィキからも脱落者が相当数出たようである。
 そういう一種の価値観の崩壊情況を前にして、レーニンは哲学的レベルまで掘り下げつつ巻き返しを図る必要があると考え始めたようで、彼はそれまで本格的に取り組んだことのなかった哲学―05年からボリシェヴィキに参加するようになっていた友人の作家マキシム・ゴーリキーに宛てた書簡によると、レーニンは哲学分野の素養不足を自覚しており、公に哲学的所見を述べることを差し控えていたという―に接近していくのである。
 当時彼の周辺ではオーストリアの物理学者兼哲学者エルンスト・マッハの影響を受けたボグダーノフやルナチャルスキーらのいわゆる「経験批判論」が有力化してきていた。そのため、唯物論者をもって任じるレーニンからすれば、主観主義的かつ反唯物論的なそうした党内思潮を鋭く牽制しておく必要を感じ取ったようである。その結果誕生した遅ればせの哲学書―かつレーニンのほぼ唯一の哲学的主著―が1905年に出した『唯物論と経験批判論』であった。
 この著作は「一反動哲学についての批判的覚書」という副題を伴うことからもわかるとおり、レーニンが「反動的」とみなした経験批判論者―とりわけボグダーノフ―への反駁書であり、しかも「覚書」とあるように試論にとどまる。
 しばしばエンゲルスの『反デューリング論』と並び称せられることもあるこの著作の主調は、客観的真理の絶対化と客観的真理に対する人間の認識能力への素朴な信頼、そして「意識は存在の反映である」とする機械的反映論であって、エンゲルスの著作と同様、すぐれてドグマティックな書である。
 このような唯物論哲学のレーニン流ドグマ化は、それが政治的なものに適用されたときには、客観的真理を体現するとみなされた体制の絶対化と客観的真理の認識能力に秀でていると自認する党指導部の優越性とが論理的に帰結されるであろう。
 実際のところ、レーニンのこの著作は彼の指導体制を揺るがしかねない新たな党内抗争が持ち上がってきた中で、抗争とも絡めて執筆されたものであった。このように、レーニンの旺盛な執筆活動はほとんど常に彼自身の権力闘争における浮沈状況と密接に連動していた。

(4)レーニン主義政党の構築

flag新たな党内抗争
 第一次ロシア革命の挫折後に持ち上がった新たな党内抗争は、従来のボリシェヴィキvs.メンシェヴィキの対立軸がややずれた形のいささか錯綜したものであった。
 それは当時のストルイピン政権下での激しい弾圧を伴う政治反動に対する党の方針をめぐる争いであって、一方に革命的政党組織の解体を主張する「解党派」があり、もう一方には反動化した国会から党所属議員を引き上げさせることを主張する「召還派」があった。
 このうち前者の「解党派」はプレハーノフを除くメンシェヴィキの新たな衣替えであったが、「召還派」にはボグダーノフのようなボリシェヴィキ中の極左派が加わっていた。
 レーニンは弾圧に怯えて党組織の解体を結果する敗北主義的な「解党派」にも、また一見強硬に見えながらせっかく獲得した国会議席を自ら放棄して党の活動能力を弱める「召還派」にも反対であったが、メンシェヴィキの隠れ蓑である「解党派」よりも、理論的にはボグダーノフらの「召還派」を脅威と感じたことが、ボグダーノフに代表される経験批判論に反駁する哲学書の執筆に走らせたものと思われる。
 こうした対立とは別に、党の統一を守るためにボリシェヴィキとメンシェヴィキの間を仲介するという名目で局外中立に立つトロツキーがいた。
 ユダヤ系の富農の家庭に生まれ、ナロード二キからマルクス主義に転向したトロツキーは、元来はメンシェヴィキに属し、レーニンと対立したこともあったが、この頃には内心ではなおメンシェヴィキの新たな衣である「解党派」をかばいつつ、一種の調停を買って出ていたのである。
 レーニンは一時トロツキーの提案に乗って、1910年1月にパリで開かれた党中央委員会総会ではメンシェヴィキが自らの分派を解散し、解党派や召還派と対決するとの条件で自派ボリシェヴィキをも解散するという決断をすら下した。しかし、こうした形式的なトレードオフの常として、対立はかえって激化するようになり、ついに喧嘩闘争のような稚拙ないさかいさえ生じる始末であった。
 この期に及んで、それまで表面上は党の統一を重視する態度を示していたレーニンも、自らの党を独立させる方向に針路をとるようになる。

flagボリシェヴィキ党の独立
 ボリシェヴィキを独立させるレーニンの試みの手始めは10年、ボリシェヴィキ系の新機関紙や雑誌を立て続けに創刊したことであった。この頃、公式の党機関紙『フペリョート』はメンシェヴィキの手に渡っていたのである。
 次いで翌年、パリ近郊に党学校を設立する。これにはボグダーノフら召還主義者がイタリアのカプリ島に滞在していたゴーリキーを囲んで分派の学校を設立したことへの対抗という意味もあったようだ。
 ちょうどその年の9月、政治反動の象徴ストルイピンが帝政ロシア秘密警察のエージェントであったユダヤ系青年によって暗殺されるという事件があった。これで政治反動が直ちに終わったわけではないとしても、帝政が強力な支配人を失ったことは、革命派にとっては僥倖であった。
 ちなみに、ストルイピンは06年の農業改革法でロシア農村の旧制ミールを解体して農民が土地を所有し独立の農民経営を行い得るようにする自作農育成政策を開始していたが、農民層の反発が強く、進捗していなかった。
 レーニンはストルイピン暗殺という新しい状況をも利用しつつ、12年1月、プラハで党第六回協議会を指導した。これは正式の党大会ではなかったが、20以上の地方組織が代表を送ってきたことから、事実上の党大会に等しかった。
 この協議会では解党派を非難し、同派が党を最終的に脱退したものとみなす旨の決議を採択した。解党派≒メンシェヴィキであったから、この決議はレーニンが事実上メンシェヴィキを切ったことを意味する。この時から、レーニンは自らの党を正式に持ったことになる。
 同時に、新しい党機関紙『プラウダ』が創刊された。ロシア語で真実・正義を意味するタイトルを冠されたこの新聞は、後にソ連共産党機関紙として定着し、タイトルとは裏腹のプロパガンダの場ともなる。
 それにしても、正式の党大会を開かずに一種の非常措置で反対派を追放し、自派だけで党を固めたレーニン流のクーデター的手法は、いずれ来たる新たな革命の中で、彼とボリシェヴィキが権力を掌握する際の予行演習と言ってもよかったが、それは彼自身、この時点ではまだ予想もしていなかったことであった。

2013年3月27日 (水)

解釈と編曲のあいだ

 音楽の演奏は、通常楽譜という規準に拘束される。そのため作曲は創作芸術だが、演奏は複製芸術の一種と考えられる。
 ただ、複製は単なるコピーではない。演奏には自ずと演奏者の解釈が加わる。解釈には幅がある。楽譜の指示を守ることが基本的なルールだが、楽譜の指示を守らない演奏をする演奏家もいる。
 この点、作曲者が記譜した音符自体を変えれば解釈の限界を超え編曲ないしは変奏に当たるというのが普通の理解であるが、テンポや強弱の指示を守らないことは編曲か解釈か。
 保守的にとらえれば、これも編曲である。超保守的な見解によれば、演奏者は作曲者が楽譜に表現した内心の意図・感情まで忠実に再現しなければならないとされる。クラシック世界ではこうした見解はなお有力である。かつてクラシック・ピアニストを目指していた頃、そうした不能を強いる超保守的な教師についていたため、すっかり参ってしまった。これが挫折の大きな要因だったとさえ思う。
 現在の私見はこうである。演奏とは楽譜に接した演奏者の感性の表現行為であるから、自己の感性からする楽譜の指示への不服従は許されてよい。音符の書き換えも、楽器構成のような演奏形式を変更しない限り、編曲には当たらない。
 ただ、こうした楽譜の書き換えは言葉どおりの解釈を超えていることも否定できない。しかし編曲には当たらない。その意味で、解釈と編曲のあいだには演奏者に委ねられた自由な隙間があると考えられるのだ。 
 かなり過激な考えかもしれないが、そうでなければ演奏という行為は作曲者自身にしか許されないことになる―まして、内心の意図・感情まで再現しなければならないとすれば。
 これは、なぜ他人が作曲した曲を演奏するという行為も一個の芸術であり得るのかということに関わる根本問題である。

2013年3月23日 (土)

世界歴史鳥瞰(連載第66回)

第8章 略

三 第二次世界大戦と米国の覇権確立(続き)

(3)大戦の特質
 第二次世界大戦はもはや第一次大戦のような単なる帝国主義諸国間の権益獲得競争ではなく、主として大恐慌への対応をめぐる独伊日という後発帝国主義主要三国の暴走的侵略行動に対する先発帝国主義諸国及び新興覇権国家アメリカの介入・抑止戦争を軸とするが、途中参戦を強いられたソ連にとっては対独防衛戦争であり、図らずも巻き込まれた中国にとっては抗日独立戦争であった。
 そして、第二次大戦は、枢軸国側が反共産主義、対する連合国側は反ファシズム・民主主義と両陣営がマニフェストを掲げ合って戦う体制イデオロギーをめぐる戦争(マニフェスト戦争)の本格的な初例でもあった。
 とはいえ、それは高尚な思想党争には程遠く、第一次大戦を上回る大量破壊戦争の極致と言うべき戦争であった。とりわけ航空戦力の発達に伴う戦略爆撃やアメリカによる人類史上初の核兵器の使用により6000万人という戦史上空前の戦没者を出す惨事となった。
 しかも、第二次大戦では、本来の戦闘以外に随伴的な反人道的事変が目立つのも際立った特徴である。この点に関しては両陣営ともほぼ同罪であって、枢軸国側でのナチス・ドイツによるホロコーストや日本軍による南京大虐殺、生体実験、戦時性奴隷(従軍慰安婦)等ばかりでなく、連合国側でもソ連によるポーランド人捕虜虐殺(カチンの森事件)、旧日本軍兵士のシベリア抑留などがあった。
 またアメリカによる原爆使用も、日本の降伏を促すという公式目的の裏に、核兵器の性能実験という狙いが―さらにその裏には人種差別的な大虐殺の要素すらも―隠されていたことは否定できず、その限りでは原爆投下も本来の戦闘目的を超えた反人道的事変に数えられなければならない。
 この種の事変は事の性質上文書記録による確証が残されず、被害側・加害側双方の存命体験者の証言に依存することから、その計画・関与者や遂行目的、犠牲者総数はもちろん、事変の存否自体をめぐっても当事国間に激しい論争が起こりやすく、今なお決着が着いていないものも少なくない。
 しかし、一般論としては、それ自体が反人道的な大量破壊戦争には様々な形態の反人道的事変が随伴しやすいことは歴史的経験則とみなしてよいであろう。その意味で、第二次世界大戦は、人類が恒久的に記憶にとどめなければならない人道問題に関する最大級の歴史的教訓事例である。

(4)大戦の経過と結果
 大戦の戦況は1942年まではおおむね枢軸国側が優勢であったと言ってよい。最初の転機は43年であった。同年2月、前年夏からのスターリングラード攻防戦でドイツ軍がソ連軍に降伏したのをきっかけに枢軸国側が劣勢に転じたのだ。
 同年5月に仏領モロッコとアルジェリアで独伊軍を破った連合国軍が7月、シチリアに上陸すると、イタリアでは反ムッソリーニの動きが広がり、ムッソリーニ政権はついに崩壊、9月には新政府がいち早く無条件降伏した。ただ、ドイツ軍がムッソリーニを救出したうえ、北イタリアを占領してムッソリーニを擁する傀儡サロ共和国を建てた。
 枢軸国側の敗色が濃厚となる明らかな転換点は44年である。この年、まずソ連軍が東部戦線で大攻勢に出てドイツ占領下の東欧諸国を次々と解放していった。一方、西部戦線では同年6月連合国軍がノルマンディー上陸作戦に成功、8月にはパリを解放した。
 連合国軍はさらに45年2月以降、ドイツへ向け進撃し、4月には東から迫っていたソ連軍がベルリンに侵攻する中、追い詰められたヒトラーは自殺した。ドイツは5月、連合国軍とソ連軍に相次いで無条件降伏した。
 同年、太平洋戦線でも大きな変化があった。日本軍は前年までに東南アジアから南太平洋に及ぶ広大な地域を占領していたが、44年に入ると 連合国軍の太平洋戦線をほぼ独力で担っていた米軍は中部太平洋に進攻し、まず7月、サイパン島を攻め落としてここを日本本土空爆の出撃拠点として確保した。10月にはフィリピン南部レイテ島へ上陸し、翌年6月までにフィリピン全島をほぼ奪回した。
 これに先立つ同年3月、米軍は硫黄島を全滅させた後、4月には沖縄本島へ上陸していた。この時の沖縄戦では非戦闘員の一般住民を巻き込む死闘が展開され、全滅に際して住民が集団自殺に追い込まれるなど、特異な大量犠牲を出した。
 ドイツの降伏を受け、45年7月には米英ソ三国首脳がベルリン郊外のポツダムで会談し、中国の蒋介石の同意の下、最後に残った日本に無条件降伏を通告する「ポツダム宣言」を発したが、日本はこれを拒否し、徹底抗戦の構えを崩さなかった。そのため同年3月の東京大空襲以来強まっていた米軍による日本本土空爆作戦が激しさを増すとともに、8月には広島と長崎に原子爆弾が投下され、両都市で20万人を超す死者を出したが、日本はなお降伏しなかった。
 しかし、45年2月の米英ソ三国首脳によるヤルタ会談での密約に基づき、改めてソ連が日本に宣戦布告し、満州や朝鮮、樺太、千島などに進攻するに及び、日本はついにポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。ここに6年にも及んだ第二次世界大戦はようやく終結した。
 こうして全世界に人類史上空前の犠牲を強いた第二次世界大戦も、その犠牲に報いるに値するいくつかの永続的成果をもたらした。
 その第一は領土不拡大・民族自決原則の確立である。この原則は41年8月の大西洋憲章で確認されており、植民帝国主義の公式な終焉をもたらすはずのものであった。
 しかしその履行は先延ばしにされた。敗北した枢軸国側の植民地の解放・独立は進んだが、英仏をはじめなお多くの植民地を抱えていた連合国側の植民地の解放・独立の動きが本格化するのは1960年代を待たねばならなかったし、独ソ不可侵条約に基づいてバルト三国などを不法に併合したソ連の便乗的領土拡大は不問に付されたままであった。
 それでもなお、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制では等閑視されていた地域まで含めた民族自決原則がまがりなりにも打ち出されたことの意義は過小評価できない。
 第二の成果は、新たな国際平和機構として、改めて国際連合(国連)が設立されたことである。これは弱体かつ短命で第二次世界大戦を防げなかったヴェルサイユ体制下の国連連盟の反省に立って、より強固な組織性と持続性を備えた国際機構として構想されたもので、45年4月、連合国のサンフランシスコ会議を経て、10月に正式に発足した。
 こうした設立の経緯からして、国連は連合国主導の機構として始まった。特に平和維持の中心機関である安全保障理事会は米英仏ソ中の五大国中心の運営に偏り、しかも程なくして開始された米ソ両陣営の冷戦という新局面ではほとんど機能不全に陥るという限界を露呈もした。
 そうした限界を抱えつつも、後に日本やドイツのような敗戦枢軸国側の加盟も受け入れて拡大した国連は、植民地の解放・独立を経て全世界のほぼすべての独立国を包摂する国際機構として定着したのである。
 第三の成果は国際法廷で史上初めて戦争犯罪人が裁かれたことである。前述したように、第二次大戦は枢軸国の暴走的侵略戦争に対する介入・抑止戦争という特質を持っていたため、戦後処理も第一次大戦時のような政治的な講和で終わらず、司法的・懲罰的な処理が先行したのである。
 この場合、勝者が敗者を裁く不公平さは免れないが、ナチスの犯罪を裁いたニュルンベルクと日本軍の犯罪を裁いた東京の二つの国際軍事裁判は、その結論いかんよりも、それらを通じて侵略戦争の違法性が明らかにされ、捕虜虐待などの伝統的な戦争犯罪の概念に「平和に対する罪」や「人道に対する罪」といった新たな構成要件が付加されたところに歴史的な意義が認められるのである。

(5)米国の覇権確立
 第一次世界大戦後に大英帝国に代わって覇権国家として台頭しつつあったアメリカ合衆国は、続く第二次世界大戦を通じてその覇権を確固たるものとした。
 その際、アメリカの行き方は第一次大戦の時と同様に、まず大戦の初期段階では表向き「中立」の態度をとり、形勢を見計らって戦後処理の基本方針まで示したうえで、おもむろに参戦、勝ち馬に乗るというものであった。
 ただ、第一次世界大戦時のアメリカは全く側面的に参戦したにすぎず、むしろ主導権を取ったのは戦後の講和外交の過程であったのに対し、第二次大戦時のアメリカは正面から実戦参加して高度な科学技術に裏打ちされた圧倒的な軍事力を見せつけたのである。
 わけても、日本に対する核兵器の使用は枢軸国のみならず、ソ連をはじめ連合国のメンバーにも衝撃を与えた。その結果、以後核兵器の保有が大国の証明とみなされるようになり、やがてアメリカのライバルに浮上しつつあったソ連はもとより、英仏、そして独立後の中国も含め、国連の五大国すべてが核開発に走り、核兵器保有国となるという異常な「核の時代」の流れを作り出したのである。
 もちろん、アメリカの覇権はこうした軍事力のみに支えられていたわけではない。アメリカは第一次大戦に引き続き、第二次大戦でも本土が戦場とならなかったために国内経済への打撃はなく、ヨーロッパ戦線で大きな戦争被害を受けた連合国の他のメンバー諸国に対しても優位に立つことができた。
 そうした優位性を背景に、アメリカ中心の自由貿易体制と金融秩序を構築するため、早くも大戦終結前の44年7月にはアメリカのブレトン・ウッズに連合国代表を招集して国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)を設立、さらに戦後の47年には関税障壁の撤廃を目指す関税並びに貿易に関する一般協定(GATT)の調印を主導した。
 このような米ドルを基軸通貨とするIMF‐GATT体制は、いわゆる「ドル危機」を背景に1970年代初頭になって事実上転換されるまで、アメリカ主導の国際資本主義の基本構制となったのである。
 同時に、アメリカはヨーロッパ諸国と日本の戦後復興を資金援助と製品輸入の両面から支援することを通じて、これら諸国を自陣営に取り込み、事実上の従属下に置くことにも成功した。このような囲い込みは、すでに大戦中から始まりかけていた米ソ冷戦におけるいわゆる「西側」陣営の形成を準備したのである。

2013年3月20日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第65回)

第8章 略

三 第二次世界大戦と米国の覇権確立

(1)大戦の要因と経緯〈1〉
 前章でも見たように、第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは上昇気流に乗っていた。暗転したのは、20年代最後の年の10月、ニューヨーク証券取引所の株式相場大暴落がきっかけであった。有名な「大恐慌」の始まりである。翌年からはこれに金融恐慌が追い打ちをかけた。
 当時アメリカはすでに主要24か国の工業生産高の46パーセントを占め、輸入・海外投資合計額は74億ドルにも達していたから、アメリカ経済の突然の落ち込みは国際経済に甚大な波及効果を及ぼした。特に一次産品価格の異常な低落により国際貿易が縮小し、各国は貿易収支改善のため、保護主義によって自国経済を国際経済から分離する自衛策に奔走した。一国社会主義ならぬ「一国資本主義」の皮肉であった。
 この場合、植民地のストックを保持する諸国は有利であった。31年に英連邦を結成した英国は翌年、カナダのオタワに連邦会議を招集し、特恵関税制度を強化した。これによって英連邦内に英国製品の排他的輸出市場を確保しようとしたのだ。英国に続いてフランスも同様のブロック経済化で対応した。
 恐慌震源地アメリカは一部ブロック経済化で対応しつつ、民主党のF・ローズヴェルト大統領が打ち出した「ニューディール政策」により、アメリカの「国是」を破って、政府の経済介入や労働者の保護、社会保障制度の整備など、言わば「アメリカ版社会民主主義」を上から導入することで対応した。
 これに対して、第一次大戦後、米国資本の助けを借りて復興を続けていたドイツは大恐慌で米国資本が引き上げられると壊滅的打撃を受けた。これに対して当時のワイマール体制は適切に対応することができず、デフレ政策の行き過ぎでかえって失業者を増大させる結果となっていた。
 ナチスが政権を獲得したのは、まさにこのような時期であった。そして、前述したようにナチス政権が経済対策を鋭意進めた結果、37年頃までには失業率も改善し、他国に先駆けてひとまず景気回復に成功したのであった。
 深刻なのは日本であった。日本は第一次大戦ではアメリカに次ぐ「勝ち組」として戦争景気に沸き、戦前の債務国から債権国へ転じていた。しかしその反動から戦後は一転不況・恐慌に陥り、運悪く関東大震災(1923)にも直撃されて経済は混乱した。
 そこから立ち直りかけた27年、今度は大蔵大臣の失言をきっかけとする銀行への取り付け騒ぎから金融恐慌に突入した。それが収拾されたのも束の間、大恐慌に直撃されたのだった。しかも、その渦中に金解禁を実施し、第一次大戦中に離脱していた金本位制への復帰を図るという失政を犯したことが金貨の大量流出を招き、火に油を注ぐ結果となってしまった。加えて豊作飢饉による米価暴落で農村恐慌にも見舞われた。
 こうした最悪の経済状況の中、英仏のように植民地を動員したブロック経済化で対応できない日本の進む道は、かねてからの中国侵略をいっそう強化し、植民地を拡大することであった。31年の満州事変とそれに引き続く傀儡国家・満州国の作出は、そのために仕組まれた謀略であった。
 中国側がそうした日本の満州占領の不法性を国際連盟に訴えた結果、連盟のリットン調査団が提出した報告書は、満州における日本の特殊権益を承認しつつも、日本の軍事行動の正当性は承認せず、満州国も傀儡と認定した。33年、連盟総会がリットン報告書に基づいて日本軍の撤退と満州国承認の取り消しを決議すると、これに強く反発した日本は、国際連盟からの脱退を通告した。
 日本に続き、軍備の平等を主張するドイツも同年10月に国際連盟を脱退する。こうして国際連盟から常任理事国でもあった日・独が相次いで脱退したことは、ヴェルサイユ体制の崩壊につながる第一歩であり、ひいては戦争への道であった。その端緒を最初に開いたのは、ドイツであるよりも日本であったと言ってよい。
 日本に続いて大規模な軍事行動を起こしたのは、イタリアであった。イタリアでも大恐慌の影響は農業から貿易へと拡大していたが、ムッソリーニ政権の景気回復策は十分な成果を上げておらず、やはり植民地拡大が狙われていた。その最初の標的は19世紀末に侵略を試みながら敗退していたアフリカのエチオピアであった。イタリアは34年末、イタリア領ソマリア‐エチオピア国境での紛争を口実に侵略の構えを見せた。
 エチオピアは国際連盟に調停を要請し、英仏の調停工作もなされたが、イタリアはこれを無視してエチオピア侵略を開始した。対抗上、連盟はイタリアに対し初の経済制裁を発動するが、その結果、イタリアはナチス・ドイツとの結びつきを強めた。結局、イタリアは36年5月までにエチオピアを占領・併合し、連盟も制裁を解除したため、連盟の威信は大きく低下した。
 一方、日本はこうした動きをにらみ合わせながら、37年7月、いわゆる盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入する。この事件は日中どちらが先に引き金を引いたかでなお論争が残るが、いずれにせよ、当時の情勢では日中戦争の勃発はすでに時間の問題であった。
 同年11月には「反共」を旗印として日独伊防共協定が結ばれ、後の枢軸同盟の基礎が築かれた。直後にドイツのヒトラーは東欧諸国侵略を通じてドイツの自給経済圏を拡大する「生存圏」テーゼを明らかにした。
 これに基づき、ドイツはまず38年3月、オーストリアを併合、この時点では対独宥和策を採っていた英仏の妥協を引き出してドイツ系人口の多いチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を認めさせ、さらに39年3月にはチェコスロバキア解体・保護領化にまで突き進んだ。
 一方、39年2月にイタリア版自給経済圏構想である「地中海帝国」テーゼを打ち出していたムッソリーニのイタリアも4月、東欧のアルバニアを侵略・併合した。

(2)大戦の要因と経緯〈2〉
 日独伊がそろって露骨な侵略作戦に歩を進め、大戦の足音が近づく中、39年8月、ドイツとソ連が電撃的な独ソ不可侵条約を結んだ。
 これはポーランドを狙うドイツと東部国境で日本との武力衝突が生じ始めていたソ連の思惑が一致したもので、併せて東欧・バルト海地域での勢力分割を秘密裡に合意する議定書―その存在をソ連当局が公式に認めたのはソ連末期の1989年のことであった―を含んでいた。
 この条約に基づいて同年9月、ドイツはポーランド侵攻に踏み切った。ここに至って英仏もドイツに宣戦布告し、ついに第二次世界大戦の第一弾・ヨーロッパ戦線が開かれたのである。
 これに対して、日中戦争を控えていた日本は独ソ不可侵条約の衝撃もあって、当初大戦不介入を宣明した。しかし、日中戦争は37年9月の第二次国共合作で中国側の抵抗が激しくなったことや、日本を警戒する米英が蒋介石を軍事援助していたことから、長期戦の様相を呈し始めていた。
 そこで40年6月、ヨーロッパ戦線でドイツがフランスを下したのを機に、日本軍部は局面打開のため東南アジア方面への展開を目指す南進政策に着手する。これにより、ビルマやインドネシアを通る米英の蒋介石への軍事物資支援ルートを断つことも狙われたのだ。この新方針に合わせ、40年7月に発足した第二次近衛内閣は日本版自給経済圏構想である「大東亜共栄圏」テーゼを打ち出し、9月には北部仏印へ進攻した。
 こうして各々侵略的な自給経済圏構想を打ち出した独伊日は同年9月、改めて三国同盟を結び、枢軸関係を固めた。
 この間、表向きは中立を保ってきたアメリカも枢軸同盟締結を見て立場を修正し、41年3月には武器貸与法を制定して英国や中国への武器貸与を開始した。
 しかも、同年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連軍を奇襲し独ソ戦が開始されると、アメリカはソ連にさえ軍事援助を実施した。この独ソ戦は第二次大戦の第二弾と言うべき突然の新局面であった。当初は装備で勝るドイツ軍が押していたが、ソ連軍が11月末からのモスクワ攻防戦を乗り切ると、盛り返して長期戦に突入した。
 一方、日本は高まってきた日米開戦の危険を回避するため、41年4月から対米交渉に入るが、一方で同月、南進政策の担保として日ソ中立条約を結んだうえ、7月には南部仏印にも進攻した。これに対しアメリカは英国、中国、オランダとともに日本の在外資産凍結、石油の対日禁輸の制裁措置で対抗した。
 こうした中、41年8月、アメリカのローズヴェルト大統領は大西洋上の軍艦で英国のチャーチル首相と首脳会談を行い、「大西洋憲章」を発表し、民主主義諸国の戦争目的と戦後秩序のあり方を提示した。これは事実上、アメリカの参戦宣言と言ってよいものであった。
 日本では41年10月、ギリギリの対米交渉を続けていた第三次近衛内閣に代わって対米強硬派の陸軍指導者・東條英機将軍を首班とする事実上の軍事政権の性格を帯びた新内閣が成立した。東條内閣も当初は天皇の意向を受け開戦回避の交渉を引き継ぐが、アメリカ側は強硬姿勢を崩さず、日米開戦は必至の情勢となった。2月、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、米英に宣戦布告した。ここに第二次世界大戦の第三弾・太平洋戦線(太平洋戦争)が開かれた。
 42年1月には、「大西洋憲章」に基づき、米英にソ連・中国も加わった26か国が連合国共同宣言に調印し、第二次世界大戦の二大陣営、枢軸国と連合国が出揃った。

2013年3月14日 (木)

天皇の誕生(連載第45回)

第十章 天智天皇と天武天皇

(3)後期天智政権

甲子の宣
 筑紫遷都失敗の後、天智天皇らが筑紫をいつどのように撤収したのかが『書紀』の記述では今一つはっきりしない。ただ、天智は663年9月に百済から救援軍を撤退させた後、翌664年2月9日には「大化の改新」の続編とでも呼ぶべき重要な項目を含む宣言(甲子の宣)を実弟の大海人皇子(後の天武天皇)を通じて発した。
 これは、白江会戦での惨敗、百済滅亡の確定という事態を経て、孝徳天皇死去後10年近く先延ばしにされてきた大王(天皇)至上制の確立へ向けた施策を再開したものと見られる。そこで、この甲子の宣発布の664年から近江遷都を経て天皇が死去する671年までの間を「後期天智政権」と呼ぶことにする。
 この「後期天智政権」の始まりを画する甲子の宣の柱は次の三項目にまとめられる。
 第一は、大化5年の冠位十九階を二十六階に細分化したことである。これは「改新」の時の冠位増設の拡大版にすぎないが、この時期に冠位の大幅な追加増設を急いだのは、天智が百済滅亡に伴う多数の亡命百済人に冠位を大盤振舞いすることを検討していたためである。
 実際、天智は近江遷都後に亡命百済王族、官人ら数十人に一挙に冠位を授けたので、時の人は「橘は己が枝々実れれども玉に貫くとき同じ緒に貫く」(橘の実は各々異なる枝になっているが、玉として緒に通す時は皆一本の緒に通される)という童謡(わざうた)を作って、身分も能力も無視した冠位の乱発をそしったという。こうした政策にも、天智の百済への傾斜ぶりがよく表れている。
 第二は大氏・小氏・伴造等の氏上(氏族長)を定め、大氏の氏上には大刀、小氏の氏上には小刀、伴造等の氏上には楯・弓矢を下賜したことである。
 これは中央豪族を三等級に分けたうえで、その格式に応じて天皇が武具を下賜するもので、実弟の天武天皇時代に導入された八色の姓制度の原型ともなるような貴族等級制度であり、先の冠位制度が氏族横断的な官人の等級制度であったのに対し、氏族三等級制は氏族ごとの格式を区分けし、氏族長を天皇が公式に認証することを通じて、全氏族の上に超越する天皇の至高の存在性を明確にすることに狙いがあった。
 ただ、全氏族についてこうした氏上の選定が徹底するのは天武天皇時代の680年代のことであり、それが八色の姓制度の基礎となっていく。
 第三は、各氏族の民部(かきべ)・家部(やかべ)を朝廷が定め、支給することである。これは伝統的には各氏族に属してきた部の成員である氏族(部曲)と奴隷たる家部とを朝廷が定めて支給することにより、「大化の改新」の目玉でもあった公民制をスローガンにとどまらない制度として確立することを目指したものである。
 天智が以上のような諸施策を白江敗戦から間髪を置かずに発表したことには、重大な内政改革の断行によって、筑紫遷都・敗戦という失政による自身の威信低下を防止する意図も働いていたと考えられる。

唐・新羅との講和
 後期天智政権の外交上の最優先課題は唐・新羅との早期講和であった。敗戦の翌年、664年5月には唐の百済占領軍の使者を迎えて交渉を開始している。
 ただ、この時の交渉は決裂した模様で、天智政権は翌年にかけて対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽(のろし台)を置き、筑紫に水城(貯水した大堤)を築造したほか、亡命百済人の築城専門家を使って長門国や筑紫国に城を築かせるなど、九州北部を中心に入念な防備体制の整備に努めている。
 おそらくこの時点では、いったん外交交渉決裂を受け、唐の侵攻を想定した国防体制整備を進める一方、水面下ではなお唐との交渉を続けていたと見られる。その結果、665年には総勢254人から成る唐の使節団を飛鳥の都に迎えて正式に講和が成立し、早速使節団の送使をそのまま唐に派遣している。
 これによりひとまず唐の脅威は去ることになったが、天智政権は警戒を解くことなく、近江遷都後の669年にも畿内防衛の拠点として高安城を築造するなどしている。
 一方、新羅との講和はやや遅れ、近江遷都後の668年9月のことであった。この時、天智政権の首相格として内大臣の座にあった中臣鎌足(鎌子)が久々に表に現れ、新羅の上臣(首相)・金庾信―6世紀前葉の新羅に併合された旧金官加耶国王の末裔で、対百済戦でも活躍した武人―に船一艘を贈呈しているところを見ると、新羅講和は鎌足が主導し、大臣レベルで行われたものと考えられる。
 このようにして曲折はあったが、白江敗戦後ほぼ5年以内に唐・新羅との講和が実現されたことは、倭国の国防上の脅威を除去すると同時に、敗戦による天智政権の威信喪失を食い止めることにも寄与したことは間違いない。

近江遷都と「日本」
 『書紀』の叙述からすると、後期天智政権は白江敗戦・撤退直後に筑紫で暫定的に始められたものと推定されるが、その後、665年10月には唐の使節団を迎えて菟道で盛大に閲兵したとあるので、この時までにはひとまず畿内(飛鳥)の旧王都へ帰還していたことが確認できる。
 そのうえで、667年3月に近江へ再遷都する。孝徳政権末期の無血クーデターによる飛鳥遷都から数えると四度目の遷都となる。しかも、二度目の畿外遷都である。今回はなぜあえて近江なのかということははっきりしないが、天智は近江を本貫とした息長氏系の舒明大王の子として息長氏王統に連なることからのゆかりであるかもしれない。
 また、いつ頃近江遷都が計画されたのかもよくわからないが、『書紀』の斉明紀には659年3月、「斉明天皇」が近江を視察した記事が見えることから、前期天智天皇の時代から、実母の皇祖母尊の発案で計画されていた可能性もなくはない。
 いずれにせよ、近江にあっても湖と山に挟まれた狭隘な地・大津に王都を置くという異例の遷都プロジェクトを実行した実際的な理由の一つは、やはり国防であったかもしれない。というのも、唐は百済を滅亡させた後も、朝鮮半島支配を通じた極東進出戦略をなおも進めており、668年には新羅と合同でついに軍事強国・高句麗をも滅亡させたからである。
 しかし、遷都理由はそうした当面の政策的な理由ばかりでなく、最終的に百済ルーツを喪失した後の新しい国作りに着手するための人心一新の策という積極的な意味も帯びていたと考えられるのである。
 この点で注目されるのは、『三国史記』新羅本紀文武王10年条(670年)に、「倭国が国号を日本と改めた」とあることである。一般に「日本」という国号の使用は天武天皇時代からと考えられてきたが、実際はもう少し早く、近江遷都と同時に国号改定がなされた可能性を示唆するのがこの記事である。
 記事が記す670年という年代はちょうど新羅と講和した668年とも近いことから、天智政権は対新羅関係で初めて「日本」を号したということも十分に考えられ、『三国史記』の前記記事の信憑性はかなり高いと思われる。
 「日本」という国号の由来については、かつて603年の第二回遣隋使の時に持参して皇帝の不興を買った国書の文言「日出ずる処の天子」に由来すると言われる。そうだとすると、皮肉にも、若き日の天智が参加した乙巳の変で打倒した蘇我朝が発した国書文言が参酌されたことになる。
 思うに、すでに百済を滅亡に追い込み、朝鮮半島統一に邁進していた宿敵・新羅と講和し、百済ルーツ喪失後の独自的な国家として新羅と向き合っていくうえで、60年以上も前の対隋「対等外交」で使われた国書文言が国号として改めて利用されたのではないだろうか。
 こうして、新生「日本」は近江で始まった。そしてこの独自国家「日本」は同時に一つの歴史観の源泉ともなり、そこから王朝ルーツ百済をも含めた朝鮮全体を劣等視し、古来「日本」に従属してきたかのようにみなす史観(朝鮮蕃国史観)が発生した。この史観は『書紀』の基調を成しているばかりか、それを通じて現代の通説古代史、ひいてはそれをベースに構築される歴史教育にも今なお投影され続けているのである。
 天智はこの新生「日本」の「天皇」として改めて天皇至上制を徹底していくため、たわごと・流言禁止令を発して言論統制を敷くなど、独裁体制を固めた。
 そのうえで、670年2月には史上初めての体系的な戸籍制度(庚午年籍)を創設した。これは律令制の先駆けと言えるもので、8世紀の律令制本格導入後も、永久保存が義務づけられたほどの永続性を保った画期的な制度であった。
 この後、『書紀』によると、天智天皇の治世最終年となった671年1月には大海人皇子が詔して冠位・法度を施行したとあり、これは史上初の「令」としての「近江令」を指すとも言われるが、その内容が明確でなく、実在を疑問視する説が強い。
 天智が天皇至上制の切り札として唐風の律令制整備を構想していたことは間違いないが、「近江令」という形で完成されるには至っておらず、さしあたりは同年に新設された太政大臣の制度などを定めた新法令の施行があったにとどまるというのが真相であろう。
 天智があと5年ほど余分に生きていれば「近江令」の完成を見たかもしれないが、血塗られた政変、謀略や対外戦争に心身を費やした天智にはもはや余力が残されておらず、671年9月に発病、12月には死去する。
 享年46歳は上流階級でも短命であった古代人としては決して夭折ではないが、まだ体制が固まったとは言い難い後昆支朝にとって、天智の死はいささか早すぎたのであった。

2013年3月12日 (火)

天皇の誕生(連載第44回)

第十章 天智天皇と天武天皇

(2)前期天智政権

虚構の「斉明天皇」
 正史は、孝徳天皇死去の後、孝徳の姉で中大兄の生母でもある宝皇女が「第37代斉明天皇」として即位したとする。この人は正史上、すでに乙巳の変の前に夫・舒明天皇の死を受けて「皇極天皇」として即位しており、乙巳の変の直後に弟の軽皇子に譲位したとされるので、二度目の即位=重祚となるわけである。
 そのため、正史上、宝皇女は譲位も重祚も史上初という記録尽くめの女帝ということになっている。しかし、前述したように「皇極天皇」も虚構であり、彼女は舒明死去後、蘇我入鹿の大王即位までの間、大王権限代行者を務めたにすぎないから、「譲位」はなかったし、孝徳死去後に「重祚」したというのも、同様に虚構であると考えられる。
 では新規に彼女が天皇に即位した可能性はあるかというと、これも疑わしい。なぜなら、中大兄は孝徳政権発足当初から後継指名を受けて次期天皇に内定したうえに、653年以来事実上の無血クーデターで飛鳥に自らを中心とする臨時政府を樹立していた以上、孝徳死去後に実母を天皇に擁立する必然性はほとんどなかったからである。年齢的にも中大兄はこの時すでに30歳くらいに達しており、古代の君主としては決して若すぎる年齢ではない。
 従って、中大兄は655年の孝徳天皇死去の後、間をおかずに予定どおり天皇に即位したものと解してさしつかえないだろう。ではなぜ『書紀』は彼が661年に「斉明天皇」が死去した後もなお即位を先送りして皇太子称制のまま政務を執り、自身の死去三年前の668年になってようやく正式に即位したとする迂遠な筋書きを用意したのかという謎に関しては、続く最終章で検討する。
 このように、母の宝皇女が死去する662年までを正史では「斉明天皇」の治世に充てているわけである。この点、孝徳死去後直ちに中大兄が即位したと解する場合、即位年の655年から百済滅亡をまたいで「大化の改新」の続編とも言える「甲子[かっし]の宣」が発せられた664年までを「前期天智政権」ととらえることができる。
 では、この「前期天智政権」において、中大兄の母君は全く政治の埒外にあったのかといえば必ずしもそう考える必要はない。宝皇女は弟の治世であった孝徳政権時代には皇祖母尊[すめみおやのみこと]という称号を与えられていたが、これはこの時代には形式的な尊称にとどまっていたと思われる。それが息子の天智天皇の治世になると、一定以上の政治参与が認められる地位に昇格した可能性はある。
 そもそも天智天皇は生母を敬愛する“母親っ子”であったようで、道教のような新興宗教に傾倒していたらしい老母のわがままを許していた。その典型的な表れが、『書紀』の斉明紀に記され、考古学的にも酒船石[さかふねいし]など飛鳥周辺でいくつか遺跡が確認されている宗教的意図を伴う浪費的な公共工事の多発である。
 『書紀』によると、斉明天皇は工事を好み、大量の人夫を動員して長大な溝や巨大な積み垣などを造営したため、時の人は「たわむれ心の溝工事。無駄な人夫を二万余。垣造りの無駄七万余。宮材は腐り、山頂は潰れた」と批判したという。おそらくこれは、無駄な公共工事と環境破壊を告発する最古の記録ではなかろうか。
 このように『書紀』の描く斉明時代はやや特殊で、孝徳政権時代の「改新」も停滞し、内政面ではこうした浪費的公共工事のほかは、東北・北海道地方の先住民・蝦夷に対する踏査・征服活動が目立つくらいである。乙巳の変後のプロセスが中だるみのように中断してしまうのである。
 「斉明天皇」の在位を疑わない通説では、この時期の特異性を女帝の性格的特異性で説明するようだが、この時期を「前期天智政権」ととらえる立場では、「中だるみ」の原因を別のところに求めなくてはならない。
 思うに、この時期の天智天皇は、658年に先帝・孝徳の遺子で19歳の有間皇子を計略にかけて謀反の罪を着せ処刑するという彼らしいやり方で将来の潜在敵を排除したほかは、648年の新羅・唐の同盟成立後いよいよ緊迫してきた朝鮮半島情勢の下、百済支援にかかりきりになって、重要な内政改革は棚上げにせざるを得なかったのである。百済が滅亡してからいっそうはっきりすることであるが、それほどに天智は親百済主義者なのであった。

百済滅亡
 新羅では、先に「人質」として倭にも滞在したことのあった金春秋が654年に王位に就いた(武烈王)。彼は即位前、唐との同盟を推進し、半島統一への戦略を明確に定めていたから、武烈王の登場は百済、高句麗をいっそう警戒させることになり、655年以降、麗済同盟と新羅の間での軍事衝突が頻発するようになった。
 特に、百済は新羅への攻勢を強め、一時は優位に立ったが、659年の百済の大規模な侵攻をきっかけに、新羅は唐に出兵を要請、翌650年には唐が本格的な遠征軍を組織し、百済征討作戦を開始した。
 この頃の百済側は義慈王の治世であった。彼はその諡号どおり、元は親孝行の高徳な人格者であったというが、晩年になるにつれて暗愚の暴君と化し、対新羅戦での一時的な優位にもかかわらず、体制内部からの腐敗・堕落が進行していた。
 こうした情勢の中、当初、天智政権は新羅・唐とも関係を保っており、658年には新羅船に同乗させる形で留学僧を唐へ送ったほか、翌年には独力で遣唐使を送り、捕虜の蝦夷を皇帝に献上するなど、独自的な動きも見せていた。
 しかし、660年に唐が本格的に百済征討作戦を開始すると、百済情勢は一気に悪化していく。百済側には唐・新羅連合軍を撃退するだけの余力は残されておらず、王都・泗沘は陥落、義慈王は太子・王子らとともに捕虜として唐へ連行されていった。
 こうして、昆支朝・後昆支朝の王朝ルーツでもあった百済はあっけなく歴史の幕をいったん閉じることとなってしまったのである。
 百済滅亡の報は、早速百済の使者によって倭にももたらされた。これは倭にとって、おそらく約一世紀前の任那(加耶)滅亡どころではない衝撃であったに違いない。

筑紫遷都失敗
 百済はひとまず滅亡し、唐の都督府が設置されることになったとはいえ、百済遺民のレジスタンスがなお続いていた。
 特に、王族・鬼室福信は倭に滞在していた義慈王の子・豊璋を百済王に擁立すべく、倭に使者を送り、豊璋の本国帰還と救援軍を要請し、天智政権もこれを了承した。
 ここから先、『書紀』では「斉明天皇」が新羅征討を決断し、老女帝を先頭に、妊娠中の皇女まで含めた主要な皇族全員で、帰還要請のあった豊璋を伴い、筑紫入りするという物々しい大移動を記している。
 正史・通説では、これを「斉明天皇」主導で百済救援への決意を示す「西征」ととらえているが、単に百済のレジスタンスを支援するための援軍であれば、天皇・皇族全員で筑紫入りする必要はなく、軍団だけを派遣すれば足りるので、この総出の筑紫移転は「遷都」と呼ぶべきものである。実際、筑紫入りした「斉明天皇」は行宮ではなく、朝倉橘広庭宮という正宮に居住している。
 この筑紫遷都は天智天皇の「遷都癖」の一環でもあり、この時には「百済再興」を倭国主導で実現するためには倭の王都も半島に近い筑紫に置くべきであるという考えの下、天智天皇が発案したものに違いない。
 それで、老母から妊娠中の娘まで引き連れての遷都となったわけであるが、無理な船旅と環境の変化がたたったのか、老母の皇祖母尊は遷都から半年後の661年7月に没してしまう。
 この先、正史によると、中大兄はなおも皇位に就かずに、白い麻衣(百済の喪服という)を纏って政務を執り、いわゆる「皇太子称制」を近江遷都後の668年まで続けたとされている。しかし、前述したように、中大兄は655年当時からずっと天皇に在位していたと考えてさしつかえない以上、「皇太子称制」も虚構であると考えられる。
 さて、老母亡き後の天智はいったん老母の亡骸とともに大和へ戻り、葬礼を執り行った後、急いで筑紫へ引き返し、百済救援軍の派兵に専念する。要請どおり豊璋を百済へ帰還させた後、663年には二万七千余りの大軍を派遣した。
 しかし、百済のレジスタンス勢力の間では、一時の快進撃にもかかわらず、間もなく豊璋と福信の対立が深まり、謀反のかどで福信が処刑されるなど、内紛が表面化したことや、唐が増派部隊を送って戦線を強したことなどから、戦況は悪化してきた。
 そういう時期に倭の救援軍が到着したのであったが、救援軍は当初こそ一、二の城を落としたものの、今日の錦江河口と推定される白江(白村江)の会戦で済倭連合軍は惨敗した。続いてレジスタンス勢力が根拠を置いていた周留城も落城、豊璋は高句麗に亡命し、彼の子らも新羅に投降した。
 こうして、タイミング遅れの百済救援軍は大した成果を上げることもなく、失敗に終わったのだった。このことは同時に、天智の筑紫遷都の失敗をも意味していた。

2013年3月 8日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第25回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第3章 亡命と運動

(2)第一次ロシア革命と挫折

flag第一次革命のうねり
 1904年2月、帝政ロシアはかねてより極東・満州方面の権益を争ってきた日本から宣戦を布告され、日露戦争が始まった。
 この戦争は大国ロシア側に有利なはずであったが、蓋を開けてみればロシア側の連戦連敗という予想外の事態となった。反戦運動が高まりを見せる中、翌年元旦、旅順の要塞が日本軍によって落とされた。
 旅順陥落の報に接したレーニンは、「進歩的で進んだアジアが、遅れた反動的なヨーロッパに取り返しのつかない打撃を与えた」と評価し、ロシアのプロレタリアートは「専制を壊滅させた日本のブルジョワジーが果たしているこの革命的な役割」を直視すると記している。
 実際、前年12月からロシアの労働者らはストライキを展開し、旅順陥落後の05年1月8日にはゼネストに発展する。その中心にあったのが、ロシア正教司祭ガポンが組織した労働者団体「ペテルブルク・ロシア工場労働者会議」であった。
 この団体は元来、ロシアでもようやく現れてきた労働運動の高まりに対応して、モスクワの秘密警察部長ズバートフが考案した「警察社会主義」とも呼ばれる政策に沿って警察の資金で組織された官製労働者団体の一つであった。従って、ガポンも秘密警察のエージェントにほかならなかった。
 ところが、今やこうした国策的狙いを超えて「本物」のストに突入し、ついに1月9日にはガポンを代表者として、憲法制定会議の招集、政治的自由、8時間労働制など立憲的な要求事情を掲げた請願書を皇帝に提出するため、数万人の労働者、農民らが皇帝の宮殿である冬宮に向けて決死のデモ行進をかけるという事態となったのだ。
 これに対して、警察と軍隊は冬宮前広場でデモ隊を阻止するため発砲し、千人以上の死者を出した。このような帝政ロシア当局による前例のない流血弾圧は、この時まではまだ民衆の間に残されていた皇帝への敬愛の念を踏みにじってしまった。
 この「血の日曜日事件」は第一次ロシア革命の合図となり、以後労働者、農民、兵士、企業家ブルジョワジーに少数民族も加わった全社会的な革命的蜂起が開始されるのである。

flagボリシェヴィキの主導権掌握
 騒然たる革命的状況の最中、レーニンが待ち望んでいた第三回党大会が1905年4月、ロンドンに招集された。これに先立って大会招集の阻止に失敗していたメンシェヴィキは脱落していたため、今般の大会はボリシェヴィキの独壇場であった。
 そのため、第二回党大会で採択されていたマルトフ提案による党規約第1条がレーニンの考えに従い党員資格を厳しく制限する規定に改正された。そして党中央委員会が単一の中央機関として承認された。
 こうして、ボリシェヴィキは第三回党大会を通じて党の主導権を掌握したが、用心深いレーニンはなおメンシェヴィキを完全に排除せず、再合同―もちろんボリシェヴィキ主導で―へ向けた努力は続けるのであった。
 この大会の決議事項の中で、当面する革命との関わりにおいて重要なのは、例のガポンによる社会主義諸政党に向けた協力の呼びかけに呼応し、帝政打倒・臨時政府樹立を柱とする革命行動を承認したことである。レーニンは大会に先立つ2月にジュネーブを訪問したガポンと面談して協力を約束していたのである。
 大会後、レーニンは6月に発生したロシア海軍の軍艦ポチョームキンの水兵反乱にも触発されつつ、大論文「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」を発表し、革命の結果発足するであろうブルジョワ臨時政府にプロレタリアートは参加すべきでないとするメンシェヴィキの主張に反対し、プロレタリアートはプチ・ブルジョワジーを率いてブルジョワジーを排除しつつ、自ら民主主義革命を実行し革命権力を樹立すべしとする戦略を提示した。
 この「プロレタリア民主主義」という新概念は、ブルジョワ革命を飛び越えたプロレタリア革命を想定している点で、マルクスの「革命の孵化理論」を踏まえないレーニン独自の「早まった革命」の枠組みを成すテーゼにほかならない。彼はすでに「血の日曜日」の三日後に書き上げた一論文の中で、「武装した人民だけが人民の自由の真の支柱たり得る」という簡潔なテーゼを打ち出し、武装蜂起の準備を進めていたのである。
 現実の革命は05年9月のポーツマス条約をもって日露戦争が講和に漕ぎ着けた後、10月の全国ゼネストでクライマックスに達した。ついに皇帝ニコライ2世は譲歩し、立法権を持つ国会の開設や市民的自由を認める「十月詔書」を発布して、事態の収拾を図らざるを得なくなった。これを「革命の最初の勝利」ととらえたレーニンは翌11月、5年ぶりに帰国し、首都ペテルブルクに到着した。
 しかし、レーニンがどんなに革命を急いでも当時のロシア社会民主労働者党は真っ二つに分裂しており、とうてい革命を指導することなどできる状態になかった。代わって、ペテルブルクには労働者代表の革命的自治組織ソヴィエトが初めて登場した。ここで指導力を発揮したのがトロツキーであった。
 レーニンもソヴィエトに着目し、これを臨時政府の萌芽と積極に評価したが、この組織を利用し切れるだけの準備が党側に整っていなかった。レーニンは2月、モスクワの労働者の蜂起に参加したが力及ばず、政府軍の武力鎮圧の前に敗北を喫した。
 体制側はこうした弾圧の一方で、12月に国会選挙法を公布した。しかしそれは制限・間接選挙という非民主的なもので、プロレタリアートの大半は選挙権を認められず、国会(第一国会)は自由主義的なブルジョワ系新党・立憲民主党(カデット)が多数を占めた。ボリシェヴィキとメンシェヴィキはともに選挙ボイコットで臨んだ。
 せっかくの革命とその結果を党が生かし切れないもどかしい状況の中、党の再合同・結束強化の必要性を痛感したレーニンはメンシェヴィキに改めて呼びかけ、06年4月にスウェーデンのストックホルムで開催された第四回党大会でメンシェヴィキとの再合同を実現させた。
 過去最大の62組織143代議員が出席した大会は代議員の過半数をメンシェヴィキ系が占めたにもかかわらず、この大会で初めてレーニンの最も有名な鉄則「民主集中制」が採択されたのである。

flag弾圧と亡命
 体制側は06年4月、取り急ぎ憲法を制定し、革命の幕引きを図ろうとしていた。この憲法は同時代の大日本帝国憲法とも類似した欽定憲法であり、一応二院制的な国会が開設されたものの、立法の最終的な裁可権はあくまでも皇帝に留保されるという保守的かつ非民主的な内容のものであった。
 この憲法発布の四日後に開会した第一国会は、2月‐3月期に実施された選挙の結果、先述したようにブルジョワ政党のカデットが第一党の座を占めたとはいえ、過半数には届かず、第二党には1901年に結党されたナロードニキ系社会革命党(エス・エル)からさらに分かれたより穏健なトルドヴィキがつけていた。
 ところが、このトルドヴィキがその出自にふさわしく社会主義的な農地改革法案を提出したことから国会は紛糾し、農民運動の激化を恐れた政府は7月、第一国会を二か月余りで強引に解散してしまった。
 ちなみにボリシェヴィキは国会外からこの法案への支持を表明していたが、これも農民勢力との同盟を目指すレーニンの戦略に基づいていたことは言うまでもない。
 明けて07年1月‐2月期に行われた第二国会の選挙では、レーニンの方針転換により党は選挙参加の道を選んだ。その結果、第二国会は同じく選挙参加を選択したエス・エルを含む革命派が躍進し、カデットは大敗した。このような選挙結果を体制側が容認するはずはなかった。
 時の首相ピョートル・ストルイピンは6月、非常措置を発動して社会民主党議員らを拘束したうえ、再び国会を解散した。そのうえで選挙法を改悪して再選挙を実施した結果、11月に開会した第三国会では穏健自由主義派のオクチャブリスト党が第一党となり、体制の目論見どおり保守的な国会を実現したのである。
 こうして、第一次ロシア革命は辛うじて立憲革命という性格を残しつつも挫折に終わったのであった。以後は公安畑出身のストルイピン首相の下、革命派に対する徹底的な弾圧が展開されていく。
 レーニンはすでに反革命反動化の波が高まりつつあった前年夏に妻クループスカヤとともにロシア帝国支配下の自治領であったフィンランドへ移っていたが、そこにもレーニンを重要政治犯として指名手配していた帝政ロシア当局の手が迫ってきていた。
 夫妻はフィンランド人農民の案内で凍った海を決死で歩いて渡り、船でいったんスウェーデンへ脱出し、そこからベルリン経由で―論敵ローザ宅で一泊した―ジュネーブへ帰り着くという007張りの脱出劇を演じなければならなかった。
 一方、ペテルブルク・ソヴィエトが挫折した後、逮捕されたトロツキーはシベリアへ終身流刑に処せられていたが、間もなく脱走に成功し、ウィーンへ逃れていった。

2013年3月 7日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第24回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第3章 亡命と運動

レーニンの立場の偉大な歴史的意義、すなわち真に革命的な党の団結を強化し、そのバックボーンに筋金を入れるべく断固としてイデオロギー的境界線を引き、必要とあらば分裂も辞さずという彼のポリシーは、当時私にはまだよくわかっていなかった。
―同志レオン・トロツキー

(1)党内抗争と理論闘争

flag『イスクラ』脱退へ
 レーニンはロシア社会民主労働者党第二回大会で多数派(ボリシェヴィキ)を形成したが、なお僅差であり、不安定であった。
 一般にレーニンのボリシェヴィキ党は第二回党大会で事実上成立していたと理解されているが、レーニンはなおマルトフら少数派メンシェヴィキとの融和のため努力を続けていた。しかし、マルトフらは巻き返しのチャンスを狙い、レーニンへの協力を拒んでいた。
 そのチャンスは1903年10月にジュネーブで開かれたロシア革命的社会民主主義在外連盟第二回大会の場でやって来た。この大会は党大会とは別途、外国亡命中のロシア・マルクス主義者を広く結集する大会であったから、メンシェヴィキにとってPRの場としては最適であった。
 実際、この大会はメンシェヴィキによる「ボリシェヴィキ糾弾大会」のような様相を呈した。妻クループスカヤの回想によると、大会前、レーニンはジュネーブの町で考え事をしながら自転車に乗っていて路面電車と衝突し負傷する事故を起こしたという。負傷を押して連盟大会に出席したレーニンは大会でも糾弾され、傷心して退場した。
 レーニンにとって追い打ちとなったのは、党の完全な分裂を恐れたプレハーノフがメンシェヴィキとの和解を言い出したことであった。たまりかねたレーニンはまたもプレハーノフを立てる形をとりつつ、自ら『イスクラ』編集部から身を引く道を選んだのであった。
 レーニンは幸い11月には党中央委員に補充選出されたため、以後は中央委員会を足場として早期に第三回党大会を招集して揺らいだ党内立場の建て直しを図ることを狙った。レーニンの特徴をなす「力への意志」は、まだ国家権力などおよそ視野に入るべくもなかったこの時期、まずは「党内権力」を目指すあくなき行動として発現し始めていた。
 彼は手始めに、04年5月、論文「一歩前進、二歩後退」を発表してメンシェヴィキの主張を徹底批判した。この論文はその2年前の「何をなすべきか」以来、レーニンが掲げてきた革命前衛理論に立脚しつつ、メンシェヴィキのサークル的体質を厳しく批判し、論文の副題でもある「我が党の危機」、すなわち革命的陣営と非革命的な改良主義的陣営とに党が分裂する危機の責任をもっぱらメンシェヴィキに帰している。そのうえで、彼は革命政党としての団結力を高めるために中央集権的な党の建設を訴えるのである。
 このような論調は当然にもメンシェヴィキを怒らせたのみならず、プレハーノフやその他の中間派のメンバーをも離反させることとなった。その結果、レーニンの党内立場はかえって悪化し、7月には中央委員辞任に追い込まれた。
 しかしレーニンはあきらめず、8月にはスイスでボリシェヴィキ単独の会議を開き、党の革命的団結を固めるための新たな党大会の開催を訴えるアピールを発した。そして年末にはボリシェヴィキ派の新機関紙『フペリョート』を創刊する。ロシア語で「前進」を意味するフペリョートというタイトルには、第二回党大会の後、「一歩前進、二歩後退」を強いられた彼と彼の党派の再びの前進という意味が込められていた。

flagローザvs.レーニン論争
 意外なところから、レーニンに論争を挑む者が現れた。ドイツ社会民主党左派のローザ・ルクセンブルク(以下、ローザという)であった。
 ポーランド出身のユダヤ人であった彼女は、後年ドイツ共産党の共同創設者としてドイツ革命の渦中で反革命化した社民党政権が動員した民兵組織の手にかかって虐殺される運命にあった人であるが、彼女が最初に名を上げたのは、第1部でも見たように、エンゲルス没後のドイツ社民党内部に生じたベルンシュタインのいわゆる「修正主義」の思潮に対する批判の急先鋒としてであった。
 レーニンが「修正主義」に反対したのは、ロシアの経済主義にも連なるこれらの思潮は労働者革命の自然発生性を神秘化しているとみなしたからであるが、ローザの場合には全く反対に、労働者大衆の自然発生的な革命運動への絶対的な信頼に基づいて、ベルンシュタインの順応主義的な路線を鋭く批判したのである。
 ローザのこうした自然発生的革命論は論理上、レーニンのエリート主義的な革命前衛理論とも衝突せざるを得ない。実際、彼女が1904年にドイツ社民党機関紙『ノイエ・ツァイト』とすでにレーニンの手を離れていた『イスクラ』に同時発表したレーニン批判論文「ロシア社会民主党の組織問題」は、レーニンの「一歩前進、二歩後退」に現れているレーニン的党組織論の「超中央集権的」な性格を批判の中心にすえている。
 ローザの自然発生的革命論によれば、レーニンのような中央集権的党組織によるプロレタリアートの指導はあり得ず、党の指導的役割は最小限度の受動的なものにとどまるのである。
 ローザが労働者の階級意識獲得の手段として、従ってまた革命の契機として期待をかけるのはゼネラル・ストライキ(ゼネスト)であった。ローザが前記論文の結びに置いた「真の革命的な労働運動によって犯される誤謬は、歴史的には最良の中央委員会の無謬性よりも限りなく実り豊かであり、貴重である」という一文は、彼女の党非組織論を雄弁に要約している。
 ローザの所論は一見すると、マルクスの革命後衛理論に近いようにも見えるが、マルクスは第1部でも見たとおり、共産主義者(=革命家)をプロレタリア運動における断固たる推進的部分かつ洞察力を備えた集団と積極的にとらえるのであり、それは決してローザ的党のように大衆の自然発生的ゼネストの後をついていくだけの受動的徒党ではないのである。
 大衆の自発性に対するローザの無条件的信奉は、彼女のもう一つの重要な持論である資本主義の自動的崩壊論とともに、「神秘主義的マルクス主義」とでも呼ぶべきマルクス理論からの独異な逸脱を示していた。
 ローザはその後もたびたびレーニンと激しい論戦を交わし、ロシア10月革命とその帰結であるボリシェヴィキ独裁に対する最も手厳しい批判者となった。
 しかし、レーニンはローザを決してメンシェヴィキの同類とみなして切り捨てることなく、最も手ごわい批判的同志として遇し、彼女がドイツ共産党の共同創設者カール・リープクネヒトとともに虐殺された時、すでに権力の座に就いていた彼は、二人の死を深く悼んだのである。

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