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2013年2月

2013年2月28日 (木)

天皇の誕生(連載第43回)

第十章 天智天皇と天武天皇

後昆支朝初期を代表する天智・天武の兄弟天皇。しかし乙巳の変でも活躍した実力者・中大兄(天智)が668年まで天皇に即位しなかったとする正史は真実であろうか。また壬申の乱の勝者となる天智天皇の実弟・天武天皇は『万葉集』で讃えられたように、本当に神のごとく偉大な天皇であったのだろうか。

(1)孝徳時代の中大兄

見習い期間
 前章でも見たように、乙巳の変では中臣鎌子のオルグ・感化を受けて蘇我入鹿大王暗殺の実行部隊長役を務めた中大兄皇子(諱は葛城皇子)は、孝徳天皇の新政権では当初から後継指名を受けて事実上の皇太子の地位に就いた。
 とはいえ、彼はこの時点ではまだ20歳そこそこであり、いきなり政治の表舞台で実権を握ったわけではなかった。少なくとも孝徳政権前半の中大兄は鎌子を指南役としながら、政務の見習いをしていたものと考えられる。
 孝徳政権初期の中大兄の事績としては、大化2年という早い時期に、公民制移行を進言する上奏文(いわゆる皇太子奏請文)を提出したことが注目される。この上奏文中には公民制を支える一君万民思想が盛り込まれており、「大化の改新」の核心を成す提言となっている。同時に、彼は公民制実現の範として、自ら所有する入部と屯倉を天皇の改新の詔の規定に従って返上している。
 こうした行動がどこまで真実なのかはわからないが、真実だとしても背後に鎌子があって教示していたことは確実と思われ、奏請文の文言にも鎌子の考えが反映されていたことは間違いない。
 この時期の中大兄は、むしろ政治警察の分野で大いに“活躍”している。その手始めは、前章でも触れたように、政変の3か月後に異母兄・古人大兄らの謀反を摘発・討伐したことであった。
 続いて、大化5年には義父でもある右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の「謀反」事件を摘発し、石川麻呂を自殺に追い込んでいる。実際のところ、この事件は石川麻呂の弟・日向の讒言によるでっち上げであり、石川麻呂の自殺後に冤罪が判明、日向が筑紫宰に“左遷”される形で―実質上栄転とも取れる―終わっている。
 これは、中大兄がおそらくは大臣ポストを狙って兄の冤罪を仕組んだ日向の策動に乗せられた恰好になっているが、慎重に吟味せず、武断的に即決処理しようとする中大兄の一面がよく表れている一件である。
 孝徳政権前半期の中大兄の役割は、このように言わば政治警察長官といったところであり、政策的な面ではむしろ左右両大臣のほか、孝徳政権の国博士(国政顧問)であった旻法師や高向玄理らの役割が大きかったと見られる。

無血クーデター
 孝徳政権後半期になると、中大兄は次第に政治的な実力をつけてきたと見られるが、その分、孝徳天皇との不和が表面化してきたようである。
 この頃の中大兄は強固な大王至上主義者に成長しており、情け容赦しない革命家タイプであったのに対して、孝徳天皇は『書紀』の人物評によると「情け深く」「学者好み」の文人タイプであり、両人は性格的にも相容れないところがあったようである。
 孝徳政権末期の653年、中大兄は天皇に難波から飛鳥への遷都を進言するが、天皇が許可しなかったことから、彼は母で孝徳の姉でもある宝皇女や実弟の大海人皇子のほか、孝徳の正妃・間人[はしひと]皇后まで引き連れて飛鳥河辺行宮[あすかのかわらのかりみや]へ移り、公卿大夫・百官の人も皆従ったという。
 その結果、孝徳天皇は難波の宮殿にほとんど独り取り残され、中央政府も機能しなくなった。要するに、中大兄は旧王都の飛鳥に仮の宮を造営し、ここに自らを中心とする臨時政府を置いたのである。これは、乙巳の変の後、実力をつけた中大兄による再クーデターと呼ぶべき一つの政変にほかならなかった。
 このような事態に至った理由について『書紀』は明確に記さないのであるが、先述した性格的な不一致以上に、中大兄が理想とする大王至上制の実施、特に部民制の解体と公民制移行とが孝徳政権下では中途半端に終始しており、豪族らの氏族特権が温存されていたこと―これも「情け深い」孝徳天皇の個人的な性格と無関係ではあるまい―への中大兄(及び鎌子)の不満が背景にあったと考えられる。
 それとともに、対外政策においても、「百済のくびき」を逃れて再び新羅・唐への接近を図っていた孝徳政権の政策に対して、中大兄は後年天皇即位後の外交・軍事政策を見る限り、百済重視に傾斜しており、その点では乙巳の変で打倒した蘇我入鹿大王時代の政策の支持者でさえあったように見える。
 こうした政策的な不満・不一致を背景として、ついに中大兄は無血クーデターによって自ら政権を奪取するに至ったものであろう。
 もっとも、中大兄とて孝徳天皇を強制退位させるほどの強硬策はさすがにとらなかったが、皇后まで飛鳥に連れ去ったのは中大兄らしい冷徹なやり方であり、孝徳天皇は「鉗(かなき:馬の首にはめる木)着け吾が飼う駒は引き出せず吾が飼う駒を人見つらんか」(鉗を着けて引き出せないように大切に飼っていた我が馬をどうして他人が見知るようになって連れ去ったのだろう)と詠み、孤独と失意の中、654年に没したのである。

2013年2月23日 (土)

音楽と検閲

 芸術には制約がある。一つは内的制約である。ことに音楽では楽器の特性や演奏技術の限界に伴う制約を免れることができない。これは不可避の制約であって、音楽という芸術はこの制約内で成立する。
 もう一つは外的制約である。中でもその典型は国家による検閲である。「検閲はあるべきでない」というのが芸術の自由を奉じる自由主義的なさしあたりの模範解答ではある。
 だが、検閲との葛藤が優れた音楽を生み出すこともある。プロコフィエフという例がそれである。プロコフィエフは一度はロシア革命を忌避し、祖国を離れるが、同じ行動をとったラフマニノフとは異なり、後に社会主義ソ連へ帰国し、スターリン時代という芸術にとって最悪の時代環境で作曲活動を展開した。その結果、初期の前衛的作風がソ連の公式的な「社会主義リアリズム」路線に沿った保守的な作風に変化したとされる。
 これを体制への迎合とみなすのはたやすい。実際のところ、検閲を―スターリン時代なら生命の危険をすら―くぐり抜けるための迎合―と言って悪ければ妥協―は否めないが、見方を変えれば、プロコフィエフは検閲とのせめぎあいの中でぎりぎりの独自性を確保したとも言える。結果として、伝統と反伝統の止揚が起き、独特の作風が生み出された。
 こうした点では、プロコフィエフより一回り年少のショスタコーヴィチも似ており、近年はむしろ彼こそは検閲との葛藤から名曲を生み出した作曲家として評価が高まっているが、私見はやや異なる。むしろソ連時代を長く生きた分、ショスタコーヴィチのほうが検閲との葛藤が希薄になり、体制内化傾向は進行していたと考えられるのである(この点では旧評価に近い)。 
 ともあれ、ソ連時代は終わり、検閲も去った・・・かに見えた。だが、現代ロシアでは反政権パンクバンドが抑圧されている。これに対して批判の声を上げるのが自由主義の優等生ではあろうが、検閲との葛藤が今度はポピュラー音楽世界でどんな成果を生み出すか、という見方‐期待も可能ではないかと思う。

2013年2月20日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第64回)

第8章 略

二 ファシズムとスターリニズムの暴風(続き)

(3)スターリニズムの対抗
 ソ連では10月革命からわずか7年後の1924年にレーニンが早世した後、レーニンから「粗暴」と懸念されていたグルジア人のスターリンが後継者に納まった。
 初期のソ連では、ソ連における社会主義の建設は西欧各国における社会主義革命の進展を待たねばならないとするレーニンのもう一人の後継候補であったトロツキーの「世界革命論」が主流であった。
 しかし、スターリンはこれに対抗して、ロシア革命が西欧諸国に波及せず、かえって敵視・攻囲される中ではソ連一国だけで社会主義の建設を進めねばならず、またそれは可能でもあるという「一国社会主義論」を提唱し、支持を受けたのである。
 27年の党大会でトロツキーをはじめとする反対派をすみやかに排除したスターリンは、レーニン政権が内戦終結後に導入していたネップを廃止し、マルクス‐レーニン主義を体制教義に定めつつ、一国社会主義論に基づく社会主義の建設に着手する。
 まず国家計画機関による行政主導の計画経済が本格的に開始され、特に重工業化の推進を軸とする第一次五か年計画が28年度から施行された。これはファシズムの経済政策における統制経済とは異なり、全経済活動が党中央と行政機関である国家計画委員会(ゴスプラン)の指令の下に遂行されることから「行政指令経済」とも呼ばれ、資本の無規律な動向に左右される市場経済よりも合理的と宣伝された。
 しかし実際のところ、商品‐貨幣交換経済を本質的に廃止しないままでの計画経済は宣伝されていたほど「計画的」でもなく、それは拡大された統制経済とでも言うべきものにすぎなかった。
 言い換えれば、行政指令経済とは民間資本家に代わって国家が総資本家として生産活動を指揮するという体のもの(国家資本主義)であった。そのうえ賃労働も廃止されないどころか、かえって厳しい労働規律を課せられたうえに出来高払い制を適用され、労働組合も共産党の統制下に置かれ機能しないというありさまであった。
 これが「労働者の楽園」と謳われたソ連の実態であった。しかし、こうしたことが世界に広く知らされたのは、20世紀も末になってソ連邦が正式に解体された後のことにすぎない。
 とはいえ、ソ連が一国社会主義路線の下、ひとまず国際資本主義の舞台から遠ざかったことは、多くの諸国が巻き込まれ痛手を負った大恐慌の混乱からソ連を免れさせる成果はもたらしたのだった。
 深刻なのは農業分野であった。第一次五か年計画が始まった翌年の29年には土地・農具・家畜を集団化・共同化した集団農場(コルホーズ)に村ぐるみで加入させる農業の全面的集団化が開始された。
 この措置は任意の形を取りつつ実際には強制されたため、農民の抵抗は激しかった。しかし、当局は抵抗する農民を反革命的な「富農」と決めつけて弾圧・排除し、政策を強行したため、農民の生産意欲は減退し、サボタージュ的抵抗も広がってかえって農業生産力の低下を招いた。その結果、ウクライナなどの穀倉地帯では大規模な飢餓が発生し、400万ないし500万人ともされる死者を出したと言われる。
 このようにして始まったスターリンの統治は第二次世界大戦をまたいで30年近くに及んだが、その間に基本的な骨格が定まったソ連的特色を持つ社会主義(ソ連型社会主義)とは、全社会団体が国家の下に包摂され、その統制に服するという体のものであった。
 このようにすべてが国家に集中する構制の社会主義(国家社会主義)はファシズムと近似する面もあるが、ソ連における社会主義は少なくとも理論上は国家が死滅するとされる将来の共産主義社会へ至る中間段階であり、マルクスの言う「プロレタリアート独裁」に対応すると説明されていたから、ファシズムにおけるように国家が絶対化されていたわけではなかった。むしろ国家は社会の指導政党と位置づけられた共産党によって吸収されていくような関係(党⊃国家体制)が想定されていたのである。
 ただ、こうした国家社会主義体制も市民的自由を圧迫し、国民を一元的価値の下に強制的に統合していこうとする全体主義的な衝動を隠さない体制であったから、ファシズムと併せてこれを「全体主義体制」とみなすことは必ずしも誤りではない。
 わけてもスターリン時代には全体主義傾向がスターリンの「粗暴」な性格とも相まって極めて暴力的な形で発現した。それが頂点に達したのは30年代後半である。当時、日本の満州侵略とナチス・ドイツの膨張で東西に脅威が迫ると、スターリンは「反ファシズム」を口実とする大量粛清・弾圧に走る。対象者はたいていドイツないし日本のスパイと証拠もなしに断罪された。犠牲の全貌はいまだ判明せず、名誉回復措置も途上である。
 このイワン雷帝張りの大粛清が一段落して40年代に入るとドイツの侵略を受けて独ソ戦が始まる。ソ連ではこれを「大祖国戦争」と銘打って大いにナショナリズムを煽り、愛国主義的な雰囲気を高めた。
 こうしてスターリン式国家社会主義、すなわちスターリニズム―国家社会主義自体はスターリン時代以降の全史を通じてソ連の基調であった―は、反ファシズムという対抗的な形を取りつつ、反転して自らもファシズムに近似していく「逆ファシズム」の体制であったと言えよう。

2013年2月17日 (日)

老子超解:第二十四章 知の無知

二十四 知の無知

知っていても知らないとするのが最上(の知)である。知らないのに知っているとするのは欠点である。理想の人には欠点がないが、それは己の欠点を欠点と自覚するからこそ、欠点がなくなるためである。


 
『論語』に「知っていることを知っているとし、知らないことは知らないとする。これが知るということである」という有名な一句がある。この言述は物事を明確に合理的な疑いを入れない程度にまで知るというデカルト的な「明証」の論語的表現と言ってよい。その点で、これは知‐識の定義規定ともなる。
 通行本では第七十一章になる本章では、第二文でこの論語流知識論がやや表現を変えて引かれている。「知らないのに知っているとするのは欠点である」ということを裏返せば、老子にあっても知‐識は推奨される知的態度なのである。
 しかし、老子にとって最上の知は、第一文にあるように「知っていても知らないとすること」にある。つまり、知識だけでは真の知とは言えないというのである。ソクラテスの有名なモットー「無知の知」をもじれば「知の無知」と言えようか。
 これは前章で説かれた「明」の概念とつながってくる。「明」に復帰‐到達するには知識の助けが必要であるが、そこにとどまっていては「明」には達しない。より高次の非感覚的‐本質的直観としての知‐覚が必要とされる。
 しかし、人はなかなかそうした境地には到達せず、知的な欠点を残したままだが、そうした自己の知的な欠点を欠点と認識しているのが「聖人」=理想の人なのである。老子にとっての「聖人」は儒教が措定するような完全無欠の知識人ではない。欠点をそれと自覚する知的覚醒者である。

2013年2月13日 (水)

天皇の誕生(連載第42回)

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」

(4)改新的復古

孝徳政権の成立
 乙巳の変によって軽皇子が王位に就いて開始した新政権の施策は正史・通説上、「大化の改新」と呼ばれ、律令国家の建設へ向けた最初の一歩として高く位置づけられてきた。
 しかし、乙巳の変の当面の目的は、蘇我朝を打倒して敏達大王系統の昆支朝正統王家を復権させることにあった。昆支朝の復活を場所的にも印象づけるため、新政権は政変を機に王都を昆支朝ゆかりの地・難波に遷している。そうした点では、孝徳政権の施策は単純な「改新」ではなく、その本質は「復古」と見るべきである。
 とはいえ、この新政権は蘇我朝成立以前の昆支朝(初代昆支から崇峻までの六代)の単純な復活ではもはやなく、旧昆支朝以来の社会体制を打破しようとする志向性も強いため、これを旧昆支朝と完全に同視することもできない。そこで、軽皇子が大王(孝徳天皇)となって開いて以降の新王朝を旧昆支朝に対して「後昆支朝」と呼ぶことができる。
 この「後昆支朝」の最初を飾る孝徳政権の陣容で注目されるのは、発足当初から孝徳の甥に当たる中大兄が「皇太子」に座っていることである。もっとも、この時代にはまだ皇太子制度は法的に確立されていなかったため、これは早期の後継指名ということであろうが、これによって蘇我朝の命脈を縮める要因ともなった王位継承をめぐる抗争が生じないよう未然防止を図ったものと考えられる。
 それと同時に、故・舒明大王の子で正統王家の中ではより直系に近い中大兄を後継者に固定したことは、中大兄こそが復活王朝の本命視されていたこと、その限りで孝徳政権は中大兄が成長するまでの過渡的な暫定政権の性格を持っていたことを示唆している。
 一方で、同じく大兄称号を持つ中大兄の異母兄・古人大兄は、『書紀』によれば一度は即位を打診されながらこれを断り、出家して吉野へ隠退したとされるが、前にも指摘したとおり、軽皇子擁立は鎌子らの既定方針であったことからして、即位の打診は疑わしく、実母が蘇我馬子大王の娘で、大王即位前の入鹿に利用されたこともあり、蘇我氏と近かった古人大兄は自らにも累が及ぶことを懸念して自発的に吉野へ退避したと考えられる。
 結局、彼は乙巳の変からわずか3か月後に、一部官人らと共謀して謀反を計画したとして中大兄に討たれている。この一件には冤罪の疑いもなくはないが、いずれにせよ古人大兄は早々と排除されたわけである。
 もう一点注目すべき人事は、馬子大王の孫に当たる蘇我倉山田麻呂が右大臣の要職に任命されたことである。この人は乙巳の変の前、中臣鎌子の蘇我氏分断の計略に乗せられて娘を中大兄に嫁がせ、決行直前に中大兄から計画を打ち明けられたうえ、謀議に引っ張り込まれ、入鹿の暗殺舞台となった外交式典で三韓からの上表文を読み上げる役を割り当てられている。
 そうした“功労”とともに、蘇我氏がもはや王家でなく、本来の分際である臣下に降下されたことを明確に示すためにも、あえて蘇我氏の一族を右大臣に抜擢したものと考えられるのである。
 ところで、政変最大の首謀者・中臣鎌子はと言えば、彼は内臣[うちつおみ]として諸官の上にあったとされるものの、内臣という新設の役職はあいまいであり、以後、藤原の氏を賜った天智天皇時代の669年に没するまで表の政治舞台では影の薄い存在に終始する。鎌子の性格として控えめで表に出たがらない人物であった可能性もあるが、政変後は中大兄の個人的な政治的指南役として、大兄の「育成」に徹していたのではないかと思われる。

大王至上制
 通常「大化の改新」と呼ばれる施策は、ひとことで言えば「大王至上制」の確立ということに尽きる。孝徳政権は単に正統王家の形式的な復活だけで満足せず、将来にわたって二度と王権が簒奪されることのないように政治・行政面でもイデオロギー面でも、大王を唯一至高の超越的な統治者として位置づけるという旧昆支朝や蘇我朝も踏み込むことのなかった国家制度の確立を目指したのである。
 「大化の改新」と呼ばれる施策の律令制的な「改新」の部分はこの大王至上制に関わるものであって、その最大の目的は昆支王統の恒久化ということにあった。その点で、この「改新」はどこまでも王権永続化のための手段的なものにすぎず、『書紀』が描き出すような律令国家の建設を自覚的に目指した革新などではなかったのである。
 また、それは半世紀余りにわたった蘇我朝時代を全否定するものでもなく、むしろその成果面を利用しながらの「改新」でもあったのである。
 こうした大王至上制の柱となる具体的な政策の第一は公民制への移行、すなわち従来人民が氏族別に領有された部民制を廃して、全人民を公民として大王が領有する制度の導入である。
 従来、各氏族が大王に奉仕しながらも各々人民(及び土地)を領有するという部民制は、各豪族が元来は支配地域の王でもあるような小邦分立状態を止揚して領土国家化を図ってきた畿内王権にとってはさしあたり現実的な支配体制であったが、かえってそれを足場として蘇我氏のように中央の王権簒奪を断行することも可能であったことから、そうした可能性を封じるためにも、人民(農民)を包括的に大王に隷属させる総体的奴隷制の一形態として、公民制への移行が構想されたものと考えられる。
 これを表現するためのイデオロギーが、大化2年3月の中大兄の奏請文の形を借りて発せられた「天に双日なく、国に二王なし。この故に、天下を兼ね併せて万民を使い給うべきは、ただ天皇のみ」という一君万民思想であった。
 さらに、この一君万民思想を担保する習俗改革としての厚葬禁止令がある。これにより、大王を頂点として階級ごとに墓の規模が規制され、豪族が大王気取りの大墳墓に納まることは許されなくなり、地方豪族までもが大墳墓築造を競い合った「古墳時代」は正式に終わりを告げたのである。
 第二は、部民制解体に伴う冠位制度の充実と中央政府機構の整備である。このうち冠位制度は、すでに蘇我朝時代に導入済みのものを7種13階に再編したうえ、冠や服の色を細かく区分けして等級をより明確にしただけである。
 一方、中央政府機構は従来の部民制と結合した大王直轄職業部に代えて、より律令制に近い官庁制度の構築を目指したもので、後の体系的な「八省百官」には程遠いが、「刑部尚書」「衛部」「祠官頭(かむづかさのかみ)」などの官庁が萌芽的に現れている。
 第三は、旧昆支朝の欽明時代以来、畿内王権による地方支配の要となっていた国造制の廃止と評[こおり]制への移行である。
 評は後の律令制下では「郡[こおり]」に改正される地方行政単位の前身で、これによって従来、国造という人を単位に委ねられていた地方行政権が評という観念的な行政単位に凝集され、より中央集権的な地方支配の制度に変更されることになった。そのうえで、評にはほぼ同等の権限を持つ評督と助督という二頭制を敷き、在地豪族を競合的に任命してその弱体化を図ったのである。
 これと関連して、国造らの軍事力を削ぐため、国造が保有する武器を接収して中央政府が所管する武器庫で管理する一種の刀狩が実施された。
 以上の大王至上制の象徴的な表現として、「天皇」号の使用が孝徳政権時代に開始されたものと推定される。この点、「天皇」号使用の起源については諸説あるが、史料上は孝徳天皇の詔から「明神[あきつみかみ]として天下を治められる日本倭根子天皇」という定型文言が現れる。
 このうち天皇を神の化身とまでみなす「明神(現御神)」の観念は時代下って7世紀以降に現れるもので、この文言を孝徳時代に遡らせたのは『書紀』の作為と考えられるが、孝徳時代から新たに「大王」号よりいっそう超越的な「天皇」号が孝徳の好んだ側近学者によって創案された可能性はある。ただし、孝徳時代には必ずしも「テンノウ」と音読みせず、通常は「スメラミコト」と訓読みしたものであろう。
 この「スメラ」の原意・語源については古くから議論があるが、いずれにせよ「高さ」に関わる修飾語であることは間違いなく、これが「天」の字と通ずるものであろう。従って、「スメラミコト」とは「崇高な貴人」といった極めて超越的な意味を持つ君号となる。かつて蘇我朝創始者の馬子が「アメタラシヒコ(天足彦)」を称したが、これをさらに洗練させたのが「スメラミコト(天皇)」であった。
 そして、孝徳政権はまさに「天皇」の超越的権力を視覚的にも表現するため、昆支朝にとってゆかりの深い難波に遷都して壮大な難波長柄豊碕宮[なにわのながらのとよさきのみや]を創建したのである。
 とはいえ、以上の大王至上制は主として政治・行政面及びイデオロギー面の、言わば社会の上部構造的次元にとどまる「改新」であって、最も重要な経済的土台となる土地を大王に集中する公地制については未着手であった。『書紀』は公地制を前提とする班田収受法の施行も孝徳朝に遡らせているが、これについてはかねてより強く疑われている。
 しかも、大王至上制の柱となる公民制ですら、完全実施には程遠かったようであり、豪族らの特権はなお温存されていた。よって、この「改新」は多分にして上滑りの精神論にとどまる面があったと言わざるを得ないのである。このことは、さらなる政変の勃発を予想させた。

脱・百済のくびき
 孝徳政権は、対外政策についても変更を加え、蘇我朝末期に始まった「百済のくびき」からの脱却を試みている。その最初の一歩は、新羅との関係改善である。
 まず、乙巳の変から2年後の647年には新羅から「人質」として金春秋を受け入れている。春秋は後に百済を滅ぼした武烈王(在位654年‐661年)となる大物で、「人質」としての彼の任務は、去る642年に百済の侵攻を受けて以来、窮地に陥っていた新羅の状況を救うため、倭を百済から引き剥がす外交工作にあったと思われる。
 この工作は一定の効果を上げたと見え、春秋は間もなく対唐交渉を本格化させるため、倭を離任して入唐し、代わりに649年にはより序列下位の金多遂が新たな「人質」として送られてきた。
 このような新羅との関係改善をきっかけとして、孝徳政権末期の653年と翌年に連続して遣唐使を送り、20数年間中断していた対唐外交を再開した。ただし、ここでも蘇我朝時代(特に馬子時代の対隋外交)と同様、冊封を受けない「対等外交」の方針が踏襲されている。
 こうして百済のくびきを脱して、新羅・唐へ接近していく外交政策は、結果的には対隋関係を軸に新羅とも友好関係を結んだ蘇我馬子大王時代の政策への回帰にほかならなかった。この点では、馬子大王時代に達成されかけていた自立的な外交国家としての地位を孝徳政権が再び回復しようとしていたと言うことも許されよう。
 しかし、後昆支朝にとっても王朝ルーツである百済との関係を完全に断ち切ることは、百済が存続している限り不可能であり、倭の完全な外交的自立は、そう遠くない百済の最終的な滅亡を待たねばならなかった。

 
蘇我朝を打倒した乙巳の変の結果、昆支王統が復活し、装いも新たに後昆支朝が開かれた。後昆支朝は大王権力の強化に努め、以後、これが不動の天皇王朝として恒久化されていく。やがて勃発した壬申の乱も、それは後昆支朝内部での皇位継承戦争にすぎなかった。
とはいえ、壬申の乱は初期後昆支朝体制のもろさを露呈する動乱ではあった。では、乱の要因を作った天智・天武の兄弟天皇の治世とはどのようなものであったのか。

2013年2月12日 (火)

天皇の誕生(連載第41回)

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」

(2)真の政変首謀者

中臣鎌子と軽皇子
 内では戒厳体制の閉塞、外では百済のくびきがのしかかる中、入鹿大王体制は早くも行き詰まりを見せていた。こうした中で、小さな謀議の芽が生じた。その中心にいたのが、平安朝で栄華を築く大貴族・藤原氏の祖となる中臣鎌子(後に改名して鎌足)であった。
 『記紀』によれば、中臣氏の神話上の祖は天孫ニニギの降臨に随行した天児屋命[アマノコヤネノミコト]とされる。そうだとすると、中臣氏の祖は4世紀初頭頃の加耶系渡来集団の一員に遡る可能性がある。
 中臣とはナカツオミの縮小形で、「中」つまり神と人との間を仲介する神官職からスタートした氏族である。史実性を確認できるこの氏族の政界デビューは欽明時代、物部尾輿とともに排仏派のリーダーとして蘇我稲目と対立した中臣連鎌子(乙巳の変首謀者とは同姓同名の先祖)からであるが、そうすると早くから反蘇我派の立場にあったわけである。
 ただ、中臣氏は崇仏派の蘇我朝下でも没落することなく適応して、入鹿大王代まで生き延びており、当時からサバイバル戦術に長けた氏族でもあった。ちなみに、蘇我蝦夷と山背大兄が対立した第一次王位継承抗争では、中臣連弥気[みけ]という重臣(乙巳の変首謀者・鎌子の父)が蝦夷に従い、田村皇子(舒明)を支持している。
 入鹿大王代の中臣氏の氏族長格だったのが鎌子で、彼は入鹿即位後の644年1月、神祇伯に任ぜられるも、再三固辞して就任しなかった。これはおそらく入鹿側の中臣氏取り込み工作であったろうが、すでにこの頃からクーデター計画を温めていた鎌子は乗らなかったのであろう。
 通説では、この中臣鎌子が舒明天皇の子・中大兄皇子とコンビを組んで、鎌子‐中大兄ラインで乙巳の変を主導したと説明されているが、『書紀』の叙述を仔細に読むと、相当に違っている。
 鎌子が最初に接触したのは中大兄ではなく、中大兄の叔父に当たる軽皇子(後の孝徳天皇)―後述するように、彼の父は大王ではなかったから、正確には「皇子」ではない―であった。なぜなら、「中臣鎌子は以前から軽皇子と親しかった」からである。
 そこで、鎌子は軽皇子の邸宅に泊まって、内密に計画を打ち明けたようである。一方、軽皇子も鎌子の人となりを高く評価していたことから、自分の寵妃の一人を鎌子に与えて答えるのであった。鎌子が舎人を介して軽皇子に「皇子が天下の王たることを阻む者は誰もいないでしょう」と伝言したという逸話は、謀議の当初から軽皇子の大王擁立が既定路線となっていたことを示すものである。
 軽皇子の母方には蘇我氏の血が混じるが、父は押坂彦人大兄の子で舒明の異母兄・茅渟王[ちぬのおおきみ]であり、軽皇子は敏達大王直系として昆支朝正統王家に連なる人物である。そうした出自から、彼は誰よりも正統王家復活の志に燃えていたと思われ、さしあたり蘇我朝打倒後の大王にはふさわしい人物と言えた。そのうえ、これまでほとんど目立たなかった人物であり、入鹿側に謀議を察知されにくい点でも、好都合であった。
 おそらく、この頃の入鹿は当面、謀反の危険性が最も高いと彼がにらんでいた舒明の子・古人大兄を抹殺するタイミングを計ることに気を取られていたはずである。入鹿は古人大兄を山背大兄との王位継承抗争の時に隠れ蓑に利用したが、自ら大王に就いた今や、用済みとなっていたからである。従って、彼は軽皇子周辺の動きには最後まで気がついていなかったようである。そして、鎌子もこの時期にはまだ中堅の官人にすぎなかったから、入鹿大王のもともと狭い視野には入っていなかった。

中大兄皇子の役割
 正史・通説が説明する中大兄皇子の乙巳の変における役割は、明らかに過大評価されている。彼は641年に死去した父・舒明天皇の葬礼の際、16歳で弔辞を読んだと記されているから、乙巳の変の645年にはせいぜい20歳くらいの青年であり、重大な謀議で中心的な役割を果たすほどの年齢ではなかった。
 実際、乙巳の変での彼の役割は入鹿暗殺の実行部隊長といったところで、自らも入鹿に直接切りつけているほどである。ただ、中大兄も舒明と正妃・宝皇女(正史上の「皇極天皇」)の間の長男として、正統王家の一員であり、蹴鞠の催しで、中大兄の脱げた靴を鎌子が拾い上げたてまつったことをきっかけに交流が始まったという有名な逸話の信憑性はともかく、鎌子の重要なオルグ対象であったことは間違いない。
 そして、中大兄は鎌子の感化を受けて次第にある種の革命家のような存在に成長していくのであるが、彼が実際に政治的な実力をつけ始めるのは、乙巳の変の結果成立した孝徳朝時代の後半期に入ってからのことと考えられる。
 このように、せいぜい政変の表の実行部隊長程度の任務にとどまった中大兄の役割が『書紀』で過大評価されるのは、彼が後に天皇(天智天皇)に就いたことに加え、『書紀』の編纂準備過程に深く関与したと考えられる持統天皇が彼の娘であったことも強く影響したものであろう。

(3)政変の真相

数々の作為
 前回見たように、入鹿大王にとって死角となっていたところでクーデター謀議が着々と進められ、ついに乙巳年の645年6月12日、決行の日を迎える。
 『書紀』はこの乙巳の変について劇的な描写を交えて詳細に描いており、この変を大きな歴史的転換点として重視していることがわかる。しかし、そこには数々の作為がちりばめられている。
 まず全体構図として、「皇極天皇」が君主として主宰する三韓からの使節を迎える式典という舞台設定となっているのは、すでに述べたように、蘇我朝の存在を秘匿するために作り出された構図自体の作為である。
 もっとも、故・舒明大王の未亡人で、入鹿の大王即位までの間、臨時に大王権限代行者を務めていた宝皇女が重要な外交式典に列席していたということは十分あり得る設定であるが、それは君主としてではなく、あくまでも蘇我朝要人の一人としての列席である。
 実際には、鎌子らの計略により、道化師の示唆でいつも護身用に身につけていた刀を外したうえで一番最後に入場・着席した入鹿こそが時の君主にほかならなかったことは前述した。
 従って、中大兄らに突然切りつけられた入鹿が天皇の御座近くに這い寄り、「日嗣の位においでになるのは天子のみであります。私はいったい何の罪があってこのような目に遭うのでありましょうか。お調べくださいますよう。」と天皇に直々の裁断を懇願したとされるのももっともらしい作為である。もし入鹿が切りつけたれた時に何か独白したとすれば、「日嗣の位にあるのは私だけである。お前たちはいったい何のいわれがあって私をこのような目に遭わせるのか。調べさせるぞ。」であっただろう。
 ところで、この時、「皇極天皇」のそばに侍していた古人大兄が入鹿暗殺後に私宅に走り込み、「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した。私も心が痛む。」と言って寝所に閉じこもってしまったとあるのも疑問である。
 これも先述したように、入鹿は用済みとなった古人大兄を抹殺するタイミングを計っていたはずであり、古人大兄は入鹿の大王即位後は政治活動を禁止され、私宅に軟禁されていたのではないだろうか。そうだとすると、彼は自発的に寝所に「閉じこもった」のではなく、「閉じ込められていた」のである。従って、彼が式典に列席していた可能性は乏しい。
 こうして結局、入鹿に続いて父の蝦夷も殺され、馬子大王以来、6世紀末から半世紀余りに及んだ蘇我朝は滅んだ。
 なお、蝦夷らが殺される直前に燃やしたとされる天皇記・国記とは馬子大王代に編纂された史書のことで、これを蘇我氏が所持していたのは、まさにかれらがこの時点では王家であったことの証しである。

暴君殺
 こうして中臣鎌子らが断行した入鹿暗殺とは結局のところ、専制君主を誅殺する暴君殺であった。従って、『書紀』の叙述の中で、突然の惨劇に驚いて、「これはいったいどういうことか。」と問い詰めた「皇極天皇」に対して、息子の中大兄が平伏して「鞍作は王子たちをすべて滅ぼして帝位を傾けようとしております。鞍作をもって天子に代えられましょうか。」と述べたとされる部分は当たらずとも遠からずといったところである。
 当たらずというのは、入鹿が帝位簒奪の野心を持ってはいるがまだ帝位には就いていないという前提で描写されている点である。ただ、これは蘇我朝の存在を秘匿する『書紀』の筋書きからすれば当然のことである。
 遠からずというのは、中大兄の言葉によって、この政変は単に横暴な逆臣を誅したにとどまらず、皇統をめぐる抗争、すなわち歴史ある皇室が蘇我朝に完全に取って代えられるのかという大問題に関わっていたことが示唆されている点である。
 それにしても、政変首謀者らの行動は、即位の経緯に疑義はあるにせよ、現に君主の座にある者を殺害した以上、大逆行為であった。もし失敗すれば死罪は免れないところであったし、日本には古来、暴君殺を正当化するような政治理論が存在しないことからしても、この政変に関与した者たちの行為を擁護することは難しいはずであった。
 そのため、政変後に動乱が起きることも想定し、中大兄は法興寺を押さえて砦として備える一方、蘇我氏の配下にあった漢直[あやのあたい]も族党を召集し、蝦夷を立てて挙兵しようとしたが、結局不発に終わる。
 旧軍事氏族の物部本宗家滅亡後、蘇我朝の軍部を担っていた漢直以外に誰も蘇我朝を守るために決起しようとしなかったのは、入鹿大王の人望のなさの表れであろう。彼は、すでに裸の王様だったのである。

2013年2月 7日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第63回)

第8章 略

二 ファシズムとスターリニズムの暴風(続き)

(2)ファシズムの展開(続き)

③南欧の権威ファシズム
 南欧のファシズムは、カトリック教会や軍部といった伝統的支配層の権威に依拠して展開された点に特徴がある。従って、それはファシズムとしては比較的「穏健」な傾向にあり、代表的指導者もポルトガルのサラザールは大学教授(政治経済学者)、スペインのフランコは職業軍人と社会的エリート層から出ているのが特徴である。
 南欧のファシズムで先行したのはポルトガルであった。ポルトガルでは1910年の革命で共和制へ移行したが、政情は安定せず、1926年のクーデターで反動的な軍事政権が樹立されていた。
 そうした中で1932年、政治経済学者でカトリック保守派のサラザールが軍政を引き継ぐ形で首相に就くと、彼は翌33年、新憲法に基づき「新国家(エスタード・ノーヴォ)」と呼ばれるファシズム体制を開始した。
 この体制は「神、祖国そして家族」という保守的キャッチフレーズの下、唯一の合法的政治運動体・国民同盟を通じてサラザールが事実上終身的に独裁支配するもので、単純な保守反動体制とは異なっていた。
 実際、ポルトガルは第二次世界大戦では中立を保ったこともあって、「新国家」体制は高齢のサラザールが健康上の理由から68年に引退した後も後継首相の下でさらに6年延命され、最終的に74年の軍事革命(リスボンの春)で崩壊するまで40年余り、同時代に成立したファシズム体制の中では最も長期を保ったのである。
 一方、スペインでは王政下の1925年、クーデターで政権を奪取したプリモ・デ・リベーラ将軍が軍事政権の枠組みでイタリア・ファシズムにならった政策を実施したが、折からの世界大恐慌への対応に失敗したこの政権は30年に倒れ、翌年には共和革命により第二共和制が成立した。
 その後、ファシズムの脅威に直面して、第一次世界大戦への賛否をめぐって対立していた共産党とより穏健な社会党の同盟・人民戦線の結成を促すコミンテルンの新たな方針に沿って、36年2月の総選挙で人民戦線派が勝利し、左派連合政権が成立した。
 しかし人民戦線内部の結束は弱く、政権は安定しないうえ、社会主義化に対するカトリック保守層や軍部の危機感を背景に、36年7月、軍事反乱が発生した。その過程で反乱軍側の中心人物の一人で、かねて人民戦線政府から陸軍参謀総長職を解任され左遷されていたフランコ将軍が台頭する。
 この反乱は内戦に発展し、ファシスト政権下のイタリアとドイツはフランコ側を支援し、人民戦線政府側は世界の有志が国際義勇軍を組織して支援した。英仏は不干渉委員会を設置して静観する一方、コミンテルンを指導するソ連の人民戦線側支援も後手に回ったため、結局3年近く続いた凄惨な内戦は39年、反乱軍側の勝利に終わり、フランコが国家元首に就いた。
 こうして成立したフランコ政権の最大支持基盤は当然にも出身母体の軍部であったが、それは単純な軍事政権とも異なり、「君主不在の君主国」という名目の下に、フランコが終身総統として独裁支配する体制であった。
 フランコ体制の翼賛政党・ファランヘ党は元来、プリモ・デ・リベーラ将軍の息子ホセ・アントニオが33年に結成した同名のファシスト政党をフランコが内戦終結に先立つ37年、他党と強制合併したもので、その政治的な比重はさほど高くなかったとはいえ、フランコ体制は決して軍部だけで成り立っていたわけではなく、やはりファシズム体制の特徴を備えていた。
 スペインも第二次世界大戦中、やや日和見的ながらも事実上中立の立場をとったことから、フランコ体制は大戦を乗り越えて、フランコが82歳で死去した1975年まで持続したのであった。
 このように、南欧のファシズム体制はいずれも長命で、しかも国際的批判を押して植民地政策に固執し続けたことから、ポルトガル・スペイン両国がアフリカを中心に保持した植民地の多くは1970年代半ばまで独立が持ち越されることになった。

④日本の擬似ファシズム
 日本ではヨーロッパ諸国のような形でファシズムが体制化することはなかった。しばしば「天皇制ファシズム」と呼ばれる現象は第一次大戦中から着々と進められていった中国侵略と中国側の抗日運動の広がりの結果不可避となった日中戦争に備えるため、軍部主導でなし崩しに構築されていった思想統制を含む戦時動員体制の代名詞にすぎない。
 それはまた1918年の米騒動を契機として、それまでの藩閥寡頭政治に代わってようやく登場したブルジョワ政党政治を戦争遂行の障害要因とみなす軍部が、31年の満州事変を一つの画期点として、次第にブルジョワ政党政治を圧倒し去っていく過程でもあった。
 その過程は最終的に、1940年の大政翼賛会の結成で完成を見る。この一種の一党支配体制はファシズム体制と類似するが、それは外見上の類似性であって、その本質はあくまでも戦時動員体制であった。
 ただ、あえてヨーロッパのファシズム体制の中に相応するものを見出すとすれば、スペインのフランコ体制であるが、しかし日本の軍部にはフランコに相当するような際立った指導者は最後まで出現しなかったし、大政翼賛会も寄せ集めの選挙団体にすぎず、フランコ体制下におけるファランヘ党のようなファシスト政党とは全く違っていたのである。
 日本における真性のファシズムは北一輝に代表される思想運動としてはたしかに存在していたが、それはイタリアやドイツのように大衆運動としては発展を見ず、むしろノン・キャリアの青年将校の間に浸透して2・26事件(1936)のようなクーデター騒動を引き起こした。しかし、そうした非主流的な下級将校のファッショ行動は、かえって軍部主流派によって抑圧されてしまったのである。
 とはいえ、戦時動員体制が最終的には単なる軍事独裁にとどまらないファシズム様の症候を示した―その意味で、これを「擬似ファシズム」と呼び得る―のは、並行して文民政治家の側にファッショ的な体制変革運動が見られたからである。その中心人物が、日中戦争開始時の首相で都合三次にわたって首相を務めた近衛文麿であった。
 近衛は藤原摂関家末裔の華族で、実際貴族院を中心に活動した少壮政治家であった。彼も真性のファシストとは言えないが、元来ファッショ的な意味で「革新」志向の持ち主ではあり、強烈な指導力には欠けたが、カリスマ性がないこともなく、一定の大衆的人気も備えていた。彼が戦争期に同一人物としては最多の三度も首相を務めたのも、昭和天皇の信任ばかりでなく、各方面からの期待の高さのゆえもあった。
 近衛はイタリアやドイツのファシズム体制を一つの歴史的必然としてとらえ、日本もその流れに乗るべくファッショ的な国民組織の結成を目指す「新体制運動」のリーダーでもあった。大政翼賛会はこの運動の重要な成果であり、その初代総裁には近衛自身が納まったのである。
 ただ、近衛はその出自からしても天皇制護持論者であって、この「新体制」というのもしょせんは天皇制そのものをファッショ的に色づけしようとするものにすぎず、真性のファシズム体制とは言い難いものではあるが、日本の戦時動員体制にファッショ的な性格を与えたのがこの運動であったことも否定し難いのである。
 そして、そのリーダーであった近衛が敗戦後間もなく自ら命を絶ったことも、同じ行動をとったヒトラーの姿と重なるところがなくはない。

2013年2月 6日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第62回)

第8章 略

二 ファシズムとスターリニズムの暴風

(1)ファシズムの発生と拡散
 
18世紀以降西欧で発展してきた身分に基づかない均質な国民から成る国家という「国民国家」の観念は、第一次世界大戦を通じて現実のものとして確立され、日本のような非西欧世界に属する国でも受容されるに至った。
 それは一方で―徴兵制の確立ともセットの形で―普通選挙制度の導入を通じた大衆民主主義を促進しながら、他方では国家の観念が絶対化され、国家至上・国粋主義の思想と運動を生み出した。この方向の極点がいわゆるファシズムであった。
 その意味では、対極にあるものとみなされがちな大衆民主主義とファシズムとは血を分けたきょうだい同士なのであり、実際ファシズムはしばしば大衆民主主義の助けを借りつつ台頭したのである。
 ファシズムがまずイタリアとドイツで同時発現したのは、両国はともに長く統一国家の形成が進まず、19世紀後半になってようやく統一即国民国家として歩み始めたという経緯からして、国家の観念的絶対化が生じやすい条件を備えていたためと考えられる。
 加えて、イタリアの場合、大戦の勝者でありながら戦後十分な領土的見返りを受けられなかったことへの国民的不満、敗戦国ドイツの場合は大戦後のアノミー状態に、両国とも戦後のインフレによる生活難が追い打ちをかけ、強力な国家への願望が高まっていた。
 ファシズムの発現の仕方と程度は各国で様々であり、ファシズムが体制化せず、野党や議会外勢力にとどまった国もあれば、日本のように体制化はしても文字どおりのファシズムとしてではなく、擬似的な症候として発現した国もある。
 しかし、政治面では国家の絶対化とそこから国家の廃止・消滅を唱導するアナーキズムや共産主義への激しい弾圧、経済面ではおおむね資本主義の枠内での統制経済政策と官製労働団体を通じた労働者統制、そして権威主義的なカリスマ型指導者によって体現されることをほぼ共通の特徴とする反議会主義的な国家体制は、ロシア革命の自国への波及を恐れるブルジョワ階級のみならず、英雄的な指導者による救済を待望するプロレタリア階級の心をもとらえ、階級横断的な支持の下、とりわけ戦間期の後発資本主義諸国の間に広く拡散していったのである。
 体制化したファシズムの中には独伊の侵略や浸透に伴う傀儡政権の形をとったものもあったが、次節ではこの傀儡型ファシズムや野党・議会外勢力にとどまったファシズムは除外し、独自の体制として成立したファシズムの代表格に絞って見ていく。

(2)ファシズムの展開

①イタリアの国家ファシズム
 イタリアのファシズムは、「ファシズムにとって国家は先行的なものであり、個人と集団はこれに対して従属的関係に立つ」というテーゼに代表されるように、国家主義から急進化した最もオーソドックスな「本家本元」のファシズムであった。
 イタリアでは第一次世界大戦への参戦を通じてナショナリズムが盛り上がっていたが、当時中立の立場を明示していたマルクス主義政党・社会党の機関紙編集長も務めたベニト・ムッソリーニは党の方針に反発し、参戦論を唱えて党を除名され、戦後の1919年に政治団体「戦闘者ファッシ」を結成した。
 これがイタリア・ファシスト勢力の最初の核となり、かれらは21年5月の総選挙で初めて議席を獲得した。そして同年秋に国家ファシスト党を正式に結党、翌年10月には「ローマ進軍」の武装デモ行進を契機に、早くもムッソリーニ政権が誕生するのである。
 このようなファシスト勢力の急激な躍進の要因として、当時一方では労働運動や社会党から分かれたボリシェヴィキ派の共産党の活動も活発化しており、社会主義革命に対する脅威を共有し始めていた地主層・軍部・官僚などの支配層にとってファシスト勢力は革命の防波堤と映ったことが大きかった。そのうえ、示威行動に屈してムッソリーニを首相に任命した時の国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世の責任も重い。
 以後、ムッソリーニは20年代後半までに一党支配体制を固めた。29年にはイタリア統一に際し教皇領の編入に反発してイタリア王国と断絶状態にあったローマ教皇庁とラテラノ条約を締結し、ローマ教皇庁の支配領域をバチカン市国として独立させることで、今日まで持続する歴史的な和解を実現した。
 こうしてムッソリーニ政権は来たる第二次世界大戦中の43年に崩壊するまで、20年余りにわたる長期政権となったため、良くも悪くもこのファシスト政権を通じて国民国家イタリアが完成されるのである。この事実は、ファシズムと絶縁した今日のイタリアの政治と社会にも影を落としているであろう。

②ドイツの人種ファシズム
 ドイツのファシズムは世紀末から高まっていた反ユダヤ主義の風潮に、社会進化論に根差す人種差別思想が加味された人種ファシズムと呼ぶべき最も危険な形態をとって発現した。
 それはドイツ・ファシズムの中核を担うこととなったナチス(民族社会主義労働者党)のキーワード「民族共同体」と、「全人類の最も貴重な、無傷で残されている構成要素(アーリヤ人種)を維持し、促進させることを最高課題とみなすような国家を形成すること」を「ドイツ民族の使命」とする最高指導者アドルフ・ヒトラーの言葉に集約されている。
 ナチスは元来、1919年にミュンヘンで結成された小さな反ユダヤ主義傾向の極右政党「ドイツ労働者党」を前身とするが、後から加入したオーストリア出身のドイツ軍諜報員ヒトラーが党を乗っ取る形で独自の政党組織に育てたのであった。
 ヒトラーは23年、ムッソリーニの「ローマ進軍」を真似たミュンヘン一揆に失敗し、投獄されたが、短期間で釈放され、以後は議会参加を通じた合法戦術に転換する。
 転機は世界恐慌後の30年9月、失業者300万人という状況の中で実施された総選挙であった。この選挙でナチスは一挙に100を超える議席を獲得し、第二党に躍進した。さらに32年7月の総選挙では、ついにワイマール体制の中核・社民党を抜いて第一党の座に就いた。
 時の大統領は25年に死去した社民党のエーベルトを継いだヒンデンブルクであった。彼は対戦中の参謀総長で帝政回帰的な反動思想の持ち主でもあり、ワイマール体制の反動化は明らかであった。不人気の短命内閣が続いた後、33年、大統領はヒトラーを首相に任命し、ナチス・保守連立政権を発足させた。
 政権獲得後のナチスは、ヒトラー内閣発足の一か月後に起きた国会議事堂放火事件を共産党の犯行と宣伝したうえ、これを口実とする緊急大統領令を通じた憲法基本権条項の停止、選挙をはさんで授権法による政府の全権掌握、他政党の強制解散、そしてヒンデンブルクの死去を受けたヒトラーの総統就任と、イタリアのファシズム体制を上回る独裁体制構築へ急進していく。
 しかし、ナチスを特徴づける絶滅政策のような人種差別政策は初期にはまだ表面化していなかった。むしろ初期のナチスは大恐慌後の景気回復策として大規模な公共投資に加え、軍拡を軸にゴム・石油・繊維などの重要戦略物資を合成財に置き換えて国内自給を目指す「4か年計画」のように野心的な戦争経済政策を打ち出し、一定の成果を上げたことで、国内的にはなお残されていたナチスへの疑念を払拭し、国民的な支持を強固にした。
 ナチスの凶暴な側面が露わになるのは第二次世界大戦勃発後、特に東欧への侵略を進めた結果、領内に大規模なユダヤ人口を抱え込んでからであった。ナチスは「ユダヤ人問題の最終解決」として、推定500万人とも言われるユダヤ人の集団抹殺(ホロコースト)を実行した。平行してスラブ民族やインドからの移住民集団と見られる東欧の少数民族ロマ族、さらには社会的劣等分子と決めつけられた心身障碍者や同性愛者なども同様に集団抹殺の対象とした。
 しかし、こうしたなりふり構わぬ凶暴な国家犯罪への暴走は、ナチスの終わりの始まりでもあった。最盛期にはあれほど磐石に見えたナチス体制も、終わってみればイタリア・ファシズム体制より短い10年余りの命脈であり、より「穏健」な南欧のファシズム体制のように、第二次世界大戦を越えて20世紀後半まで持続するようなことはなかったのである。

2013年2月 2日 (土)

老子超解:第二十三章 襲常について

二十三 襲常について

世界には始まりがあり、それこそ世界の母というべきである。その母を体得したならば、その子(である万物)を把握できる。その子を把握し、かえってその母を守れば、生を終えるまで安泰である。
感覚器官を塞ぎ、閉じれば、一生疲れない。感覚器官を開き、とかくのことをしていると、一生救われない。
微小なものを見ることを明といい、柔弱を守ることを強という。(啓蒙の)光を用いて、明に復帰すれば、身の災いを残すこともないのだ。これを常に襲るという。

 
 
通行本第五十二章に当たる本章前半は、中間総括的な意義を持つ。
 まず第一段ではという語こそ登場しないが、世界の始まりとしての母=について語られていることは明らかである。次いで第二段は、そうしたに同ずることにつながる感覚遮断について再言されている。

 本章で新出するのは、第三段で説かれる「明」の概念である。「明」については前の二つの章でも「常を知ることを明という」とあったが、本章では「微小なものを見ること」という新たな定義が加わる。
 微小知覚というと、ライプニッツが唱えた意識化されないような知覚としてのpetite perception(プティ・ペルセプシオン)を想起するが、老子の「明」は意識化された知覚でありながら、まさにのような始原的なるものを非感覚的‐本質的に直観するような「明察」を意味している。
 このような老子的知覚は決して反啓蒙的ではなく、むしろ啓蒙の光を用いることで復帰的にもたらされるようなものである。この意味で、老子にあって啓蒙は明察に復帰‐到達するための手段であり、目的ではない。
 そして、本章ではそうして「明」に復帰することを「襲常」(常に従う)と表現する。前章での言表と合わせると、「常を知ることを明といい、明に復帰することを常によるという」となり、やや循環論法的であるが、「常」と「明」とは老子にあっては相即不離の関係にあるのである。
 なお、第三段では「強」の概念も登場するが、やや唐突な紛れ込みの観もあり、後に該当章で改めて言及される。

2013年2月 1日 (金)

「楽才」について

 「音楽家の子が音楽家になるとは限らないが、音楽家は音楽家の子であることが多い」。これは―「法則的な」と呼んでよい―事実である。
 一般に音楽家というと、他のどんな職業にもまして天性の「才能」で決まると思われている。しかし、「音楽的才能=楽才」とは、決して先天的な能力ではない。それは主として後天的に開発される技能である。だから、音楽家は音楽家―アマチュアも含む―の家庭から輩出されることが多い。 
 当然だが、音楽家の家庭には音楽がある。音楽家の子は生まれる前から音楽を聴いている。そして最初の音楽教師は親自身である。本人を最もよく知る人に教わることができるメリットがある。このことが、「楽才」の基礎となる。
 外部教師に付く段階に達しても、音楽家の親は教育上有益な情報を持っている。単なる「お稽古事」ではない的確な音楽専門教育を子に施せるわけである。
 ただ、以上はクラシック音楽家のことであって、ポピュラー音楽家となると、やや事情が違う。こちらはひとえに大衆的人気が支えであるから、「楽才」などなくとも一流アーティストになれる可能性がある。ある意味で、民主的な解放世界だ。
 とはいえ、大衆的な「人気者」となるための要素も、「楽才」とは異質ながら、芸能資本や支援者らによって後天的に開発される一つの力能ではあるだろう。

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