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2013年1月

2013年1月29日 (火)

天皇の誕生(連載第40回)

第九章 乙巳の変と「後昆支朝」

正史・通説上は、“逆臣”蘇我氏を打倒した「大化の改新」の名で上代における明治維新級の革新として称賛されてきた政変は、果たして真に「改新」の名に値するような革命だったのであろうか。

(1)政変までの経緯

戒厳体制
 643年10月に成立した蘇我入鹿大王体制は、同11月に山背大兄の上宮王家を打倒して主要な政敵を排除したかのように見えたが、政情は安定しなかった。
 そもそも祖父・馬子は昆支朝の血を引く姪と結婚して共同女王とし、共治体制を採用して王位簒奪者のイメージを払拭することに腐心したのに対して、入鹿は単純に単独即位を強行したため、王位僭称者のイメージが前面に出てしまう結果となった。
 そのために、山背大兄でなくとも、“君大郎”入鹿への反発は少なくなく、非業の死を遂げた上宮王家への同情も高まるようになったに違いない。民衆の反感も強く、『書紀』によると、政情を風刺したり、時勢の悪化を予測するような童謡も流行した。
 規律の乱れも目立ち、『書紀』は東国の富士川のほとりの人、大生部多[おおふべのおお]という者が「常世の虫」なる虫を祭ると富と長寿が得られると、巫女たちとともに宣伝し、人々に家や財産を投げ出させ、歌い舞わせるという詐欺行為が地方から都にも広がり、大規模な被害を出したことを記す。これはおそらく記録に残る最古の“投資詐欺事件”ではないだろうか。
 こうした不人気と不穏な情勢に対応すべく、入鹿政権は厳重な戒厳体制を敷いた。『書紀』によると、宮殿の外に砦の柵を囲い、門の脇に武器庫を設けたほか、防火設備を整備した。また畝傍山の東にも宮を建て、池を掘って砦とし、ここにも武器庫を置いて矢を貯えた。また、こうした王宮を東国の兵士や配下の漢直[あやのあたい]の軍団などに厳重に警備させた。
 入鹿の大王即位を否定する通説にあっては、こうした厳重な警備体制をもって、唐の侵略に備えたものとみなす向きもあるが、対唐防衛が目的であれば、後に天智天皇がそうしたように、何よりもまず唐軍の上陸地点となる九州北部の防備を固めるはずであるから、王都の厳重警備はあくまでも謀反の動きに備えた戒厳体制であったと見るべきであろう。

百済のくびき
 蘇我朝の対外関係は、馬子時代と蝦夷・入鹿時代とでは大きな違いがある。
 馬子時代は、対外関係はおおむね対隋外交を軸として展開されていた。しかし、隋は高句麗と険悪な関係となり、三次にわたり高句麗征討を企てるが失敗して国力を消耗した末、618年に煬帝が殺害されて滅亡、唐に取って代わる。馬子政権は新生・唐に遣使しなかったようだが、蝦夷が全権を握る舒明時代に入って630年にようやく第一回遣唐使が送られて、翌年には唐からの答礼使を迎えている。ここでも冊封を受けない中国外交という馬子時代の基本方針は維持されている。
 しかし、これ以降、対唐外交は途絶えてしまい、第二回遣唐使は「大化の改新」後の653年まで20年以上も中断したままであった。
 一方、朝鮮半島との関わりでは対新羅関係がポイントとなる。馬子時代の対新羅関係は微妙で、600年には新羅と任那が戦ったので、任那を援助するため、境部臣(摩理勢)を大将軍として一万余の兵を送り、五つの城を攻略すると、新羅王は白旗をあげて降伏し、六つの城を割譲したとされる。
 これに対応する記事は朝鮮側正史の『三国史記』には見えないが、正史を補完する『三国遺事』には真平王(在位579年‐632年)の時代に、倭軍が侵入したとの伝承や歌謡の断片が記録されていることから、史実とみなす見解も多い。
 ただ、任那(加耶)はすでに6世紀半ばすぎまでにほぼ全域が新羅に併合されていたので、新羅‐任那間の大規模な戦争は考えにくく、むしろ新羅との関係がいよいよ悪化してきた旧同盟国・百済との関わりにおいての新羅出兵であったかもしれない。
 この600年の新羅戦で大勝利を収めたとしながら、602年には故・用明大王の子・来目皇子を将軍として再度新羅征討を企てるが、今度は皇子が筑紫で急死したため取り止めとなった。
 治世前半のこうした新羅敵視策に対して、後半期の治世18年になると、新羅の使臣を迎え、盛大に修好している。おそらく、これはこの頃、新羅が隋と連携していたため、対隋関係を重視する対外政策の結果として、対新羅関係も友好に転じたものであろう。
 しかし、治世末期の31年になると、再び新羅征討の話が出て、数万の兵を送ったことになっている。出兵の真偽は別として、この頃には隋が倒れ、唐に取って代わっていたことから、対新羅関係も再び悪化したのかもしれない。
 このように、馬子時代には対隋外交を軸に展開されていた対外関係が、蝦夷・入鹿時代になると、改めて旧同盟国・百済との関係が軸になってくる。これは、第一回遣唐使の翌年、舒明3年(631年)に百済が王族・ 豊璋(百済最後の王となる義慈王の子)を人質として派遣してきたことによるものであろう。
 この頃、半島では高句麗と歴史的な和解を果たした百済が新羅に対抗する展開となっていた中で、百済は倭との同盟を改めて強化し、倭が新羅に接近することのないように牽制するための外交工作として、王族を派遣してきたものと考えられる。
 結局、豊璋は「大化の改新」をまたいで、故国百済がいったん滅亡した後の662年に帰還するまで、30年以上も倭に滞在して、百済の利害を代弁した。豊璋は5世紀の昆支ほどの重みはないとしても、百済大使のような立場にあったと見てよかろう。
 舒明時代には、百済宮・百済大寺といった百済にちなむ大型建造物が相次いで建設され、舒明死去後に遺体を安置した殯宮さえ百済大殯(くだらのおおもがり)と名づけられるなど、百済色がとみに強くなるのは、蘇我氏の出自が百済人であったことを超えて、百済が倭を外交的に統制する「百済のくびき」が極めて強まったことの現れである。
 こうした「百済のくびき」は蝦夷・入鹿時代の対外政策を制約し、新羅との関係を再び険悪なものとするとともに、やがて新羅と結んだ唐との関係をも途絶させ、敵対する結果となったのである。

2013年1月22日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第61回)

第8章 略

一 ロシア革命とソ連邦の成立(続き)

(4)革命の余波〈1〉:大戦当事国への波及

①ドイツ革命
 レーニン政権は当初、社会主義の建設は西欧各国での同種革命が進行して初めて成功し得ると考え、コミンテルンを通じて同時革命を促進しようと努めた。特にロシア同様の帝政に支配された第一次大戦での対戦国ドイツは革命の期待が最も持たれた国であった。
 果たして、ドイツでは大戦中の1918年11月、前述のように、出撃命令を拒否する水兵の反乱をきっかけに、ロシア革命当時のソヴィエトに対応する兵士と労働者の自治組織レーテの設立が全国に広がる中、帝政が崩壊し、社会民主党のエーベルトを首班とする臨時政府が樹立された。そしてレーテの多数派は、マルクス主義政党ながら穏健化した社会民主党を支持していた。
 一方、女性指導者ローザ・ルクセンブルクが率いる急進派は社民党から分かれてスパルタクス団を結成していたが、レーテには浸透し切れていなかった。
 この点にロシア革命との決定的な違いがあった。ドイツ革命にあっては、ちょうどロシア革命におけるメンシェヴィキ派が臨時政府を主導し、かつ労働者・兵士の支持を得ていたに等しかったのだ。しかも、スパルタクス団は同じく闘争的マルクス主義者ながらレーニンの論戦相手であったローザの考えを反映して、ボリシェヴィキの革命的前衛主義には否定的で、労働者大衆のゼネストを通じた自然発生的な革命を待望するという受動的な立場を採っていた。
 スパルタクス団は18年1月1日をもって共産党に改称したが、それ以上の革命の進展を恐れた臨時政府は急進革命派の大々的な弾圧に乗り出し、社民党右派ノスケ国防相が動員した反革命義勇軍が革命の暴力的鎮圧作戦を開始した。1月15月にローザがもう一人の共産党創立者カール・リープクネヒトとともに殺害されるに及び、ドイツ革命は終わった。
 結局、スパルタクス団の面々は、ボリシェヴィキのように革命プロセスの主導権を握ることなく、その名の由来となった2000年前のローマの奴隷反乱指導者と同様の運命をたどったのだった。
 こうしてドイツ革命はブルジョワ共和革命の線で収束した。ただ、このドイツ最初のブルジョワ共和体制の綱領文書とも言えるいわゆるワイマール憲法は、フランス人権宣言以来のブルジョワ的諸権利にとどまらず、社会権の保障をも含み、プロレタリアートの利害にも一定配慮された、当時としては最も先進的なブルジョワ民主憲法とみなされた。
 しかし、このワイマール共和体制はローザの記憶に忠実な共産党も、ワイマール体制と表裏一体のヴェルサイユ体制を憎悪する保守派・反動派も満足させない折衷主義的な体制であった。そのため、向こう10年以上にわたり、左右双方からの突き上げを受けて動揺・弱体化した末、最後にナチスによって解体されるのである。

②オーストリア/ハンガリー革命
 ドイツの同盟国オーストリアではチェコスロバキアの独立をきっかけに領内での民族独立革命が相次ぎ、ハプスブルグ家の帝国は解体、1918年11月に共和制へ移行した。
 オーストリアでも労働者評議会の設立が見られたが、それはドイツと同様に穏健な社会民主党に忠実であった。しかも、革命後に成立した臨時政府は初めから社民党とブルジョワ政党との連立の形式を取っていた。ボリシェヴィキ派は少数派にすぎず、ハンガリー人のベラ・クンに鼓舞された19年1月の蜂起も不発に終わった。
 こうして「緩慢な革命」とも評されるオーストリア革命も、労働者の経営参加権の獲得といった部分的成果を残し、ブルジョワ共和革命の線で収束した。
 これに対して、オーストリアから独立したばかりのハンガリーでは、労働者評議会がボリシェヴィキ派に指導されて伸張し、19年3月、ベラ・クンを首班とするソヴィエト共和国の樹立に成功したが、農民層の反発や、隣国ルーマニアの軍事介入のため、わずか133日の命脈に終わった。
 結局、オーストリアとハンガリーではその後、それぞれの経緯をたどって国内の政治反動が進行した末に、ともにナチスの傀儡体制の手に落ちていくのである。

(5)革命の余波〈2〉:周辺国への影響

①モンゴル革命
 レーニン政権が期待したロシア革命に呼応する同時革命と呼び得る革命は、意外にもヨーロッパ外の辺境モンゴルに勃発した。
 モンゴルは長く清朝の藩部としてその支配下に置かれていたところ、1911年、中国の辛亥革命に際し、17世紀以来モンゴル人の間で広く崇拝されてきたチベット仏教黄帽派活仏をハーンに推戴して独立を宣言したものの、結局は中国の宗主権の下での自治にとどまった。
 そうした中、ロシア革命後は再び中国が支配回復に乗り出し、自治も取り消されていたところへ、ロシア貴族ウンゲルンの率いる反革命白軍が侵入し、中国軍を駆逐したうえで圧政を敷いたため、20年に創設されたモンゴル人民党がボリシェヴィキの支援で翌21年、革命に成功し、臨時政府を樹立した。
 ただ、この政権は依然として活仏を元首に戴く立憲君主制にとどまったため、活仏没後の24年に改めて共和制を宣言し、社会主義人民共和国となった。以後、モンゴルはソヴィエト連邦に編入されることこそなかったが、ソ連の衛星国として、24年に人民党から改称した人民革命党の一党支配下でソ連型社会主義に沿った近代化が推進されていく。
 このように、モンゴルの社会主義革命は、先行のハンガリー革命とは異なり、その効果が持続的であったことから、モンゴルはロシアに続く世界で二番目の社会主義国となったとみなされた。実際、第二次世界大戦後に東欧諸国が社会主義体制に移行していくまでは、世界の社会主義国は長くソヴィエト連邦とモンゴルの二か国しか存在しなかったのである。

②中国共産党の結成
 辛亥革命後、地方軍閥政権の抗争が続く中、中国でも1921年、コミンテルンの指導下に中国共産党が上海で結成された。これに先立つ19年には、ソヴィエト・ロシア政府が中国における旧帝政ロシア権益の放棄と、民族独立運動への支援を表明していた(カラハン宣言)。
 しかし、中国共産党は新興の少数派で、当時は孫文の国民党が革命運動の中心であったため、コミンテルンもさしあたりはすべての革命勢力を国民党の下に糾合することを望んだ。これを受けて、孫文も24年、第一回国民党全国代表大会で「連ソ・容共・扶助工農」を基本方針としつつ、共産党との共闘体制を組んだ(第一次国共合作)。
 しかし、孫文の死後、後継者となった職業軍人の蒋介石は反共主義者であり、27年4月、上海でクーデターを断行して共産党と国民党左派を暴力的に排除し、南京国民政府を樹立した。
 これによって第一次国共合作は解消され、共産党は27年8月の中央委員会で独自の軍隊(紅軍)の創設を決めた。以後、この紅軍を主体にソヴィエト政権の樹立を目指していく。そうした中で江西省井崗山[せいこうざん]を根拠としていた毛沢東が台頭し、31年11月には江西省瑞金を首府に統一された中華ソヴィエト共和国首席に就く。
 毛は中国共産党主流派とは異なり、中国の現実に配慮し、レーニンにもまして農民の階級的利益を重視する異色のマルクス主義者であったため、一時党指導部を追われた。しかし、33年から国民党の軍事攻勢が強まると、翌年末、共産党は瑞金を放棄し、1万キロ以上を行軍して根拠地を西部の陝西省延安に移した。このいわゆる「長征」の過程で毛は復権し、以後、党内指導権を固めるのである。

③フィンランド内戦
 フィンランドは19世紀以来、ロシア皇帝が大公を兼ねるロシア領土であった限りにおいて、第一次世界大戦の「当事国」でもあったわけだが、ロシア革命に際して独立を宣言し、ボリシェヴィキ政権もこれを承認した。
 その結果、ロシア革命の波動がいち早く伝わることとなり、1918年1月にはボリシェヴィキの支持を受けた赤衛軍が革命を宣言した。これに対し、支配層は白衛軍を組織して反撃を開始したため、ロシアと同様の内戦に突入していった。当初は赤衛軍有利に展開していたが、ベテランのマンネルヘイム将軍(後に大統領)の指揮する白衛軍が効果的に赤衛軍の掃討を進め、5月までには鎮圧に成功した。
 こうしてフィンランド内戦はロシアとは正反対の結果に終わった。その要因として、白衛軍は革命前の帝政ドイツを後ろ盾とするマンネルへイムという練達の指揮官を得たのに対し、赤衛軍にはレーニンに相当するような指導者がおらず、赤衛軍の後ろ盾たるボリシェヴィキは自国でも内戦に直面しており、赤衛軍に対する十分な軍事的な支援をする余裕がなかったことがあったであろう。
 内戦終結後のフィンランドでは共産主義者に対する報復的な白色テロの発動を通じて、20年代末にはファシズムの特徴を持つ反共主義の政治勢力が現れ、国政にも一定の影響力を及ぼすようになる。

2013年1月19日 (土)

老子超解:第二十二章 復帰について

二十二 復帰について

心を極限まで虚にし、静寂を篤く守る。そのようにして、私は万物が盛んに生じながらそれらがもとに復するのを見守るのだ。
そもそも物は絶え間なく活動しても、各々その根本に復帰するのである。根本に復することを静といい、命運に復するともいう。命運に復することを常といい、常を知ることを明というが、常を知らなければ妄動して災難を招く。
常を知れば包容できる。包容は公平に連なり、公平は王に連なり、王は天に連なり、天は道に連なる。道は永遠である。(道に達すれば)肉体は死しても不滅である。


 
「復帰」は第七章で初出した老子存在論の重要なキーワードであった。この「復帰」を改めて焦点化しているのが、通行本第十六章に当たる本章である。
 第一段では、そうした「復帰」を見守る「私」という一人称が登場する。その実践法は冒頭の一文で再び約言された「抱一」の身心状態である。
 このように万物の存在の根元を内省的に凝視するという思索の方法は、あたかもハイデガーが、存在する物を対象的に支配する立場から脱し、万物の存在が明らかになる場にたたずむ脱自‐存在として存在の現れを見守ることを人間の使命とし、これを「存在の牧人」と表現したことを想起させる。

 ハイデガーはおそらく西洋哲学者の中で老子を最もよく理解した人であったが、「存在の牧人」テーゼにも、どこか老子的な響きが感じ取れるように思われる。
 もっとも、ハイデガーにおいて「復帰」というモチーフは必ずしも主調ではない。ハイデガーにあっては、あくまでも存在の「現れ」という現象学的モチーフのほうが主調となっている。
 老子の場合は、存在の「現れ」そのものよりも、「現れ」を逆にたどって―言わば、逆向きの現象学―、存在そのものの大元(=)へ復そうとする。なおかつ、第七章で説かれていたように、存在する個物を制御していくことも忘れないのであるから、まさに羊(=個物)を追う牧人のごとくである。

 ここから、本章のエッセンスとも言える「命運に復する」=「常」の意味も、運命への受動的な随順ではなく、より積極的な、本来性としての命運への帰順を意味していると理解できよう。
 それは我執を離れた究極の包容であり―包容は王(=為政者)の条件たる公平につながる―、また肉体の死を超えて生きることをも可能にする究極の脱自‐存在の条件である。

2013年1月18日 (金)

音楽の麻薬的効果

 音楽が人の脳に働きかけてカタルシスをもたらす効果を持つことは、科学的にも証明されている。その点で、音楽は麻薬に等しい。いわゆる音楽療法はそうした音楽の麻薬的効果を心理学的・医学的に応用した新しい治療法である。
 だが、音楽の麻薬的効果には落とし穴もある。それはまさに麻薬と同様、現実逃避の手段となることである。そうした“音楽依存症(?)”は麻薬依存症よりはましという以上のものがあるけれども、実質は同じである。
 ちなみに中国古典の『老子』には、「五音は人の耳をして聾ならしむ」と記されている。「五音」とは要するに音階のある音楽のことであるから、老子は耳に心地良い音楽そのものに否定的なのである。 
 一方、“音楽依存症”に対する解毒剤となり得るのが、不協和音を多用した無調性の現代音楽―音楽ならぬ「音の芸術」―である。こうした“音楽”もやはり脳に働きかけて快より不快、不穏な感情をもたらすが、その効能が音楽への依存的耽溺からの防波堤になるのである。
 従って、音楽の麻薬性を自覚しつつ音楽をカタルシスに活用しながら、そうした「音の芸術」で“依存症”をコントロールしていくことが望ましいだろう。
 実は「音の芸術」は映画やドラマの緊迫した場面などでは効果音的に一部使用されてはいるのだが、例外的・技術的な使用にとどまっており、通常は作曲家や演奏家、評論家といった専門家の間でしか共有されていない。しかし、音楽に対する解毒剤としての「音の芸術」の一般普及も考えていく価値は十分にあると思う。

2013年1月16日 (水)

マルクス/レーニン小伝(連載第23回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第2章 革命家への道

(4)社会民主労働者党への参加

flag結党の経緯
 ロシアにおいても本格的なマルクス主義政党を結成する必要性に関しては、1895年のレーニンとプレハーノフらとの面談で意見の一致を見ていたが、実現を見ないうちにレーニンらが逮捕され、流刑に処せられてしまったことで、いよいよもって実現の目途が立たなくなっていた。
 そうした中、レーニンとは別のグループによって1898年にミンスクで社会民主労働者党第一回党大会が開催された。しかし、この大会にはわずか6組織9代議員しか参加せず、流刑中のレーニンらは当然にも参加することができなかった。しかも、大会は党創立を宣言するだけに終わったうえ、直後に公安当局の摘発を受け、事実上壊滅状態となった。こうしたことから、この大会を正式の創立大会とみなすべきかどうかについては議論がある。
 ちなみに、ミンスク大会の宣言を起草したのはピョートル・ストルーヴェで、彼はまさにレーニンが「何をなすべきか」で批判の俎上に乗せた経済主義の中心人物であった。後にレーニンから変節漢と痛罵された彼は実際、10月革命後の内戦期には反革命の白軍地方政府の外相も務めた。
 そのストルーヴェはレーニンの非妥協的な性格を批判しつつ、彼の立脚点は憎悪にあると指摘した。
 たしかに、帝政ロシアに敬慕する兄を奪われ、自らも入学したばかりの大学を理不尽な仕方で退学させられ、流刑にも処せられ、その後も長い外国亡命生活を強いられたレーニンが帝政ロシアに対する憎悪をその非妥協的な革命運動のエネルギー源としていたということは、十分考えられることである。

flag分裂含みの党再建大会
 ロシア社会民主労働者党の実質的な創立大会と位置づけられ得るのは、レーニンらも参加して1903年7月に当初ブリュッセルで開かれた第二回大会であった。この大会には26組織57代議員が参加し、どうにか大会らしき体裁は保っていたが、開催場所はブリュッセルの麦粉倉庫であった。 
 レーニンは大会に先立ち、党の主導権を握ろうとするプレハーノフが起草した綱領案をめぐってプレハーノフと対立していたところであったが、彼はまたもや大先輩プレハーノフを立てて譲歩したため、綱領案はスムーズに採択された。その綱領案の討議中にベルギー警察の手入れが入りかけたためにロンドンに移された舞台では、大きな波乱が待っていた。
 最初の問題は、党員資格について定める党規約第1条案をめぐり、これを広くとって党組織の指導を受けて党に協力していれば党員とみなすとの案を出したマルトフと、狭く限定して党組織に参加しない限り党員と認めないとする案を出したレーニンが対立したことであった。
 ここでレーニン案が「何をなすべきか」の少数精鋭主義の革命前衛理論を前提としていることは明らかである。彼からすれば、マルトフ案は職業的革命家の組織と労働者大衆組織とを混同するものにほかならなかった。この件に関しては、プレハーノフはレーニン支持に回ったが、結局マルトフ案が採択されることになった。
 ここで早くも表面化してきたレーニンとマルトフの対立は、続いて党中央機関の人事をめぐる討議で頂点に達した。権力闘争では学究肌のマルトフに勝るレーニンは、党機関紙となる『イスクラ』の編集部からプレハーノフに服従するアクセリロードとザスーリチの両ベテランを追放することのほか、中央委員会をレーニンに近いメンバーで固めることにも成功したのである。マルトフは激しく反発したが、及ばなかった。
 こうして、実質上の新党の創立を実現した党第二回大会は、ひとまずレーニンが党の多数派(=ボリシェヴィキ)を掌握し、マルトフらの少数派(=メンシェヴィキ)に勝利する形となった。
 その結果、ロシア社会民主労働者党は実質上のスタート時点から二大派閥に分裂したのだった。この分裂はやがて来たる革命の中で、党内問題を超えた理論上・実践上の対立に発展していくであろう。

2013年1月11日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第22回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第2章 革命家への道

(3)何をなすべきか

flag新聞『イスクラ』創刊
 レーニンの流刑は1900年1月に満了した。彼はあと一年流刑期間が残されていた妻クループスカヤといったん別居して、ペテルブルク近郊のプスコフという町に落ち着くことになった。
 レーニンの流刑体験はドストエフスキーの場合のように思想的転向の契機とならなかったどころか、かえって彼の念頭には新しい世紀における革命運動の方法についてのアイデアが浮かんできていた。帝政ロシアの側から見れば、レーニンに対するかれらの処分は手ぬるすぎたということになろう。
 しかし、レーニンたちの運動は当時、当局にとっては必ずしも重大視するまでもないマイナーなものに映っていたこともたしかであった。当時なおロシアのマルクス主義運動はナロードニキの影に隠れていたからである。
 レーニンは同時に流刑が満了したマルトフらと再び落ち合い、まずは彼らの主張の宣伝を担うマルクス主義の全国新聞を創刊するプランを話し合うため、プレハーノフらの滞在するスイスへ再び旅立った。
 彼らはジュネーブでプレハーノフにパーヴェル・アクセリロード、ヴェラ・ザスーリチを加えたロシアの言わば革命三長老と面談したが、ここでの問題はプレハーノフの大御所然とした権威主義的態度にあった。彼は新しい新聞の編集で主導権を握ろうとしていたのだ。それを察知し、憤慨したレーニンは帰国も考えたが、結局プレハーノフを立て、彼が6名の編集部員の中で特別に一人二票の編集権を保有するという不公平な取り決めに同意した。
 こうして、レーニンにとって甚だ不本意な変則的方針を採用しながらも、ロシア語で火花を意味する『イスクラ』と名づけられた新しい新聞は1900年12月、ドイツで創刊の運びとなった。翌年6月には流刑が満了したクループスカヤも合流して、通信員を引き受けるようになった。
 こうして誕生した『イスクラ』は、世紀の変わり目前後のロシアにおける新旧の主要なマルクス主義者たちを結集しつつ、ロシアの新しい革命運動のまさに小さな火花となったのである。

flag論文「何をなすべきか」
 『イスクラ』時代のレーニンの代表作は、広範囲な影響を及ぼすことになる「何をなすべきか」であった。
 1902年に発表され、「我々の運動の焦眉の諸課題」といういささか切迫した副題を持つこの論文は、当時世界最大のマルクス主義政党であったドイツ社会民主党の内部で生じていた改良主義的穏健化と、それに影響されてロシアのマルクス主義の間にも現れたいわゆる経済主義、すなわちマルクス主義者の役割をさしあたりプロレタリアートの経済闘争への参加・支援に限定しようとする立場に断固異議を唱え、マルクス没後およそ20年を経て、マルクス主義革命運動に活を入れ直すことを企図したものであった。
 彼はそのために、革命的活動を職業とする人々、すなわち「職業的革命家」という概念を導入する。そして、この職業的革命家の組織は、できるだけ広範かつ公然と組織されるべき労働者の組織とは異なり、少数精鋭かつ秘密の組織でなければならないと主張した。
 その際、レーニンは労働者と―職業革命家の多くを占める―インテリゲンチャとの形式的対等性を前提とするとはいえ、労働者は自力では組合的意識しか作り出せないため、革命的意識はマルクス、エンゲルス、そしてレーニン自身も含まれるインテリゲンチャによって外部から注入されなければならないとする「外部注入テーゼ」を打ち出したのである。
 このようなレーニンのエリート主義的な革命前衛理論は、むしろナロードニキ系の革命理論に近く、マルクスの革命後衛理論からは離反するものであることは、すでに第1部第5章で示しておいたとおりである。
 もっとも、秘密結社性の強調は、帝政ロシア当局による反体制・革命運動に対する体系的抑圧が敷かれていた当時の状況に照応しているため、1905年の第一次革命で抑圧が若干緩和されてからは、レーニン自身によって修正されていく。しかし、職業的革命家の指導性を高く奉じる彼の理論の全体骨格は以後変わることなく、レーニン的党組織論の土台となった。
 レーニンの考えによれば、経済主義者は労働者大衆の自然発生的な運動を信奉するあまりに、最終的に労働運動をブルジョワジーの思想の支配下に引き渡してしまうことになるのである。
 レーニンは当時早くも生じ始めていたそうした危険―彼の危惧はおよそ100年後の今日、まさにブルジョワ思想に吸収されてしまった労働運動主流の情況を見ると、的中している部分も認められるが―に抗して、まず自らを率先して職業的革命家として提示してみせたのである。その意味で「何をなすべきか」は、レーニン自身の『共産党宣言』ならぬ『革命家宣言』であったとみなすことができるであろう。

flag貧農への呼びかけ
 論文「何をなすべきか」の発表に続く1903年春、レーニンはかねてより取り組んでいた農民問題に中間総括を与えるパンフレット「地方貧民へ」を公刊した。
 レーニンは早くから農民問題に注目しており、現存する最初の著作も農民生活に関する論文であった。1894年に書いた最初の本格的な政治論文「人民の友とは何か」の中でも、ロシアにおけるプロレタリアートの勝利のためには、農村プロレタリアートの支持が不可欠であることを指摘していた。そして最初の大著『ロシアにおける資本主義の発達』でロシア農村における農民の二極分解の実態を分析し、貧農の増大という現象に留目したのである。
 そうした分析を踏まえたうえで、1903年のパンレフレットでは、「地主に対してのみならず、富農に対しても同じように闘うための、貧農全体と都市労働者の同盟」というテーゼと明確に打ち出すのである。これこそ、レーニン独自の労農革命論の土台を成すテーゼである。
 ちなみに、マルクスも特にフランスにおける農村プロレタリアートの存在に着目してはいたが、元来土地所有権の獲得(=農地解放)を宿願とするゆえにブルジョワ思想に傾斜しがちな農民と都市労働者の同盟という視座はマルクスに存在しなかった。これに対して、レーニンは農業国ロシアの実情を踏まえ、あえて労農同盟というテーゼを提起するのである。
 この点で、彼は革命前衛理論と並ぶマルクス理論からのもう一つの重要な離反を試みたのである。そして、ここでもレーニンはその経済理論に反対したナロードニキに一歩にじり寄ったとも言える。
 しかし、本来は土地の国有化を目指すはずのプロレタリア革命を農民革命と接合することには理論上の無理があり、レーニンの労農同盟論は依然としてロシア社会の中で中心的な位置を占めるに至っていなかった労働者が勢力を拡大するために農民を味方につけるという革命戦略的な意味合いが強いものと考えられる。
 そうした意味で、「地方貧民へ」は前年の「何をなすべきか」とセットで、レーニン革命戦略論の一部を成すものと読み取ることも許されるであろう。

2013年1月 8日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第60回)

第8章 アメリカ合衆国とソヴィエト連邦

〈序説〉
 大英帝国の覇権の時代が終わろうとしていた頃、代わって覇権国家として台頭してきたのがアメリカ合衆国であり、続いてその挑戦者としてソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)が急浮上してくる。後に東西冷戦の代名詞となるこのライバル大国同士は、実のところ、かなり共有する特質を備えていた。
 まず、両者は共に非西欧圏に属しながら西欧文明に多くを負う後発の辺境国家であった。しかも、共に大人口・多民族の大陸型国家であり、このことはまた、共に海外植民地の獲得をほとんど必要としないという共通点に結びつく。
 さらに、両者は共に革命によって誕生した連邦共和制国家であり、このことは国家が次第に王冠を戴かなくなり、共和制がモードとなる新時代の幕開けを象徴していた。その分、両者は共に独自のイデオロギーを標榜するマニフェスト国家でもあり、実はこの共通点こそが、やがて陣営を作って対立し合う両国最大の相違点の大元でもあったのだった。
 このように、アメリカ合衆国とソヴィエト連邦の台頭は、旧来の軍事=経済力に加え、イデオロギーが国家間の覇権競争の重要な賭け金となる20世紀という新時代を象徴していたし、20世紀はこのイデオロギーをめぐる抗争が国民国家の内外で火を噴き、それ以前のどの世紀よりも大量の人的犠牲を引き起こした異常な世紀でもあった。
 ただ、最終的にこの国際的イデオロギー党争が単に核兵器をめぐる愚かな軍拡競争に堕していった時、核戦争の勃発ではなく、東西冷戦の終焉がもたらされたことは、祝福すべきことであった。

一 ロシア革命とソ連邦の成立

(1)革命の胎動
 通常、単にロシア革命といった場合は1917年の革命を指すが、この革命には19世紀半ば過ぎのアレクサンドル2世による一連の改革にまで遡る長い前史があった。
 前述したように、帝政ロシアはクリミア戦争でオスマン・トルコ支援に回った英仏に敗れた。国力の差を痛感したアレクサンドル2世は社会経済構造にも踏み込む上からの大改革に乗り出す。リベラルな考えの持ち主であったアレクサンドルの改革の柱は、農奴解放であった。ロシア農奴制は同時代のアメリカ黒人奴隷制に匹敵するロシアの宿痾であった。
 しかし、穏健なアレクサンドルはこの歴史的な改革を内戦も辞さない強硬策ではなく、説得で乗り切ろうとしたため、1861年の農奴解放は農奴を手放す地主階級にとって有利な内容を残す不徹底なものとなった。
 一方で、アレクサンドル2世時代には、ロシアでも工業化の芽生えが見られ、資本主義の胎動が始まった。そうした状況の中で、知識人の間では、ロシアの伝統的な農村共同体(ミール)をベースとして社会主義革命を展望しようとするナロードニキの運動がまず1870年代に活発化する。しかし、この運動は当の農民の間に浸透していかない中で、次第に皇帝を標的とした冒険主義的テロリズムに走るようになり、1881年には運動分派のテロリストによる爆弾テロでアレクサンドル2世が暗殺された。
 後を継いだ息子のアレクサンドル3世は父のリベラル路線を全否定する反動路線を展開した。彼は秘密警察を使って反体制派を抑圧する一方で、殖産興業によってロシアの近代化を推進した。そのため、1880年代以降、外資依存という限界を抱えながら、ロシアでもようやく資本主義の発達が促進されていった。その結果、最後の皇帝となるニコライ2世時代の1890年代には重工業化が進み、鉄鋼業のように世界有数の規模に育つ分野も生まれた。同時に、極東地域での権益拡大を目指し、帝国主義的侵出も積極的に進められた。
 こうした新しい状況の下、労働運動が活発化し、マルクス主義に立脚するロシア社会民主労働者党が1898年に結党される。しかし、この党は1903年の第二回党大会で早くも路線対立から分裂し、マルクスのプロレタリア革命理論に忠実に、まずブルジョワ革命を通じて資本主義が高度な発達を見た後にプロレタリア革命の機が熟すると主張するメンシェヴィキ派と、ロシアの特殊性を重視し、労働者と農民とを基盤とする少数精鋭革命家集団の武装蜂起による早期の革命の必然性を主張するボリシェヴィキ派の二派が形成された。後者の中心人物が後に革命指導者となるレーニンであった。
 他方、従来のナロードニキの流れを汲む農村社会主義運動の側も、1901年に社会革命党(通称エスエル)を結成したため、以後のロシア革命運動は、この社会革命党と社会民主労働者党の二大潮流の交錯の中で展開されていくことになる。
 とはいえ、20世紀初頭までの帝政ロシアはまだ磐石であり、革命など空想の世界のように思われた。山を動かしたのは、1904年に始まる日露戦争であった。ロシアはこの戦争で、大方の予想を裏切りアジアの新興国日本の前に敗北を重ねた。
 この戦争渦中の1905年、労働者・市民の平和的な請願運動に軍が発砲し、多数の死傷者を出した「血の日曜日事件」をきっかけに、停戦と憲法制定、国会開設の要求を掲げて蜂起した民衆運動は、事態の早期収拾を急ぐニコライ2世から国会の開設や市民的自由の保障を公約する「10月詔書」を引き出した。
 これに基づいて1906年に初の憲法が制定された。ただ、その本質は日本の大日本帝国憲法と同じく欽定憲法であり、立憲帝政はひとまず実現したものの、議会制民主主義には程遠かった。以後、帝政側は民衆蜂起の中で初めて組織された労働者自治組織ソヴィエトのような急進的運動を抑圧しつつ、憲法も形骸化させるべく精力を傾注していくのであった。
 そうした点で、第一次ロシア革命と呼ばれるこの1905年民衆蜂起は不首尾に終わったが、ともかくも憲法制定は実現した点で、これをロシアにおける立憲革命と位置づけることはできるであろう。
 この後、内務省官僚出身のストルイピン首相の下、革命派弾圧とともに、伝統的なミールを解体して近代的な土地所有権を確立し自作農を創設するための農地改革が進められるが、これは農民の強い抵抗により挫折し、1911年にはストルイピンも暗殺された。
 一方、1912年、レナ金山での労働者への発砲虐殺事件をきっかけに、一時下火となっていた労働運動が再燃し、特にレーニンのボリシェヴィキ派が実質上独立の党として声望を高めていくのである。

(2)革命の経緯と経過
 1917年のロシア革命は、第一次世界大戦の予期せざる副産物であった。その意味で、第二次ロシア革命は第一次世界大戦なくしては起こり得なかったと言ってよい。
 前章でも見たように、第一次世界大戦で連合国側の中心にあったロシアは連戦連敗を重ね、戦争の長期化に伴い兵士の犠牲も拡大するにつれ、厭戦・反戦ムードが高まっていった。 
 一方、1916年には、かねて秘密にされてきた皇太子の血友病に関して悩んでいたアレクサンドラ皇后を通じてニコライ2世にも取り入り、国政に介入するようになっていた宗教家の“怪僧”ラスプーチンが暗殺されるなど、政情不安も広がり、帝政への疑念がかつてなく高まっていた。
 そうした中、国際婦人デーの1917年3月8日、食糧難に抗議する首都ペトログラード(旧ペテルブルク)の女性労働者のストとデモをきっかけにゼネストが全国に拡大した。これに兵士も参加して各地に再びソヴィエトが組織された。こうした騒然たる状況の中、国会はニコライ2世を退位させ、臨時政府を発足させた。後継皇帝は立てられず、約300年に及んだロマノフ朝帝政ロシアはここに幕を下ろした。
 当初、臨時政府は立憲民主党などリベラルなブルジョワ保守勢力を中心とした構成で、言論・出版・集会の自由、身分・宗教・民族による差別の撤廃、普通選挙による憲法制定会議の招集など、さしあたりはブルジョワ民主主義のプログラムを公表した。このことからも、このロシア旧暦で2月革命と呼ばれる革命は、ロシアにおけるブルジョワ革命と位置づけることができる。
 ただ、臨時政府は、戦争に関しては継続・戦勝を目指す立場をとった。これに対して、ソヴィエトの設立が各地に広がり、臨時政府との並行権力状況が生じる中、4月に亡命先のスイスから帰国したレーニンは即時停戦と労働者・農民から成るソヴィエトによる権力掌握を呼びかけるいわゆる「4月テーゼ」を発表し、反響を呼んだ。労働者・兵士の間では「臨時政府打倒」「すべての権力をソヴィエトへ」を叫ぶデモも発生した。これに対抗して、臨時政府側も社会革命党右派ケレンスキーを首班とする立憲革命党・社会革命党・メンシェヴィキなどから成る連立政権を発足させる。
 しかし、これに先立ってケレンスキーが軍事大臣として指揮したドイツへの攻勢が大失敗に終わり、臨時政府の退陣を求める武装デモが激化する中、9月に主戦派軍人の反革命クーデターの企てがソヴィエト勢力の手で鎮圧されると、11月7日、レーニンらは武装蜂起して臨時政府を打倒、レーニンを首班とする人民委員会議(閣僚会議)を樹立した。
 2月革命に対し、この旧暦10月25日の第二革命は10月革命と呼ばれ、一般にロシア革命のクライマックスとみなされている。たしかに、それは労働者・兵士が組織したソヴィエトに支持されたボリシェヴィキ党主導の革命であり、これによりブルジョワ共和体制がわずか8か月で倒れたのであった。
 この革命はマルクス的な意味でのプロレタリア革命とは異なるが、ソヴィエト勢力の支持を背景とする社会主義革命の実質を備えてはいた。そして、ボリシェヴィキと当初協力関係にあった社会革命党左派とで構成した全ロシア‐ソヴィエト会議で採択された全交戦国に即時講和を呼びかける「平和に関する布告」や、地主の土地の無償収用を定めた「土地に関する布告」も、さしあたり民衆の意思に沿うものであった。
 問題はその先にあった。11月中旬以降に順次実施された憲法制定会議選挙では、社会革命党が第一党となり、レーニンのボリシェヴィキ党は第二党に甘んじたのだった。この結果に満足しないレーニンらは、翌18年1月、憲法制定会議を実力で封鎖して社会革命党を排除した。通常10月革命の付随的措置としてしか理解されていないこの出来事は、憲法制定会議発足までの暫定政権の予定であったレーニン政権を本格政権化して、ボリシェヴィキが一党支配を固めるためのクーデターにほかならなかった。
 このボリシェヴィキ党によるクーデターは反革命的な方向のものではなく、革命勢力内部におけるボリシェヴィキの全権掌握を意味していたから、全体として革命は挫折したわけではなかったけれども、これによって2月革命以来の革命のプロセスが非民主的な形でボリシェヴィキ党に乗っ取られたに等しい結果となった。この事実は、やがて成立するソヴィエト連邦の基本性格にも強く反映されていったであろう。

(3)革命の結果
 10月革命がボリシェヴィキ改め共産党の全権掌握という結果に収斂したことは、革命の支持基盤であったソヴィエト組織の形骸化を招いた。ソヴィエト組織は解体まではされなかったものの、レーニン政権が目指す共産党独裁体制に適合するよう、党の決定の追認機関にすりかえられていく。ソヴィエトの名は新しい国名にも冠されたにもかかわらず、現実のソヴィエト制度は共産党に操縦された名目上の人民代表機関と化したのであった(名目ソヴィエト体制)。
 一方、反体制派に対する弾圧も激化した。1917年12月には早くも後の悪名高い秘密警察機関・国家保安委員会(KGB)の前身組織・非常委員会(チェカー)が設置され、適正手続を無視した超法規的逮捕・処刑が横行する。帝位を剥奪され、市民となった前皇帝ニコライ2世一家は、未成年子もろとも裁判なしに銃殺された。皮肉にも、帝政に対する革命の結果、帝政に勝るとも劣らぬ圧政が立ち現れようとしていたのだった。
 しかし、反撃も開始された。飢餓対策で導入された食糧独裁令(徴発令)に反対して、先に政権から排除されていた社会革命党が蜂起したのをきっかけに、旧帝政派なども加わった反革命軍(白軍)と革命防衛軍(赤軍)が熾烈に戦う内戦に突入していく。
 これに付け込み、革命の波及を警戒する英仏米日など16か国が軍事介入して白軍の支援に乗り出した。こうして、ロシアは革命を機に講和し、第一次世界大戦から離脱して平和を回復したのも束の間、今度は反革命列強との対外戦争を含む内戦に耐えなければならなかった。
 これに対して、レーニン政権は「戦時共産主義」と称する戦時統制経済を導入し、工業の国有化を推進して社会主義の建設を急いだ。これはレーニンの「戦時統制経済から社会主義へ」という経済思想に沿った政策であったが、結果は経済の大混乱であった。
 しかし、ボリシェヴィキの巧妙さは、その組織能力の高さにあった。ロシア共産党は内戦中、旧ロシア帝国内各地に設立された地域的・民族的共産党を次々と吸収していくと同時に、国際的にも19年3月、モスクワで共産主義インターナショナル(コミンテルン)を結成し、各国共産党・共産主義団体をコミンテルンの支部化して、実質上はロシア共産党の傘下に収めた。
 こうして内戦を通じてかえって共産党独裁体制を固めたレーニン政権は21年4月頃までに反革命軍をほぼ制圧し終えた。以後、経済復興を兼ねて一転市場経済を復活させる「新経済政策(ネップ)」を施行し、生産力の回復に努めた。こうしたご都合主義的な政策の弾力性もボリシェヴィキの権力維持の秘訣であったろう。
 そして、22年にはロシアを中心に、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカスの四つのソヴィエト共和国が連合してソヴィエト社会主義共和国連邦が正式に発足した。以後、ソヴィエト連邦は干渉戦争に参加した日本に対する防御上、シベリアに樹立していた緩衝国家・極東共和国や中央アジア諸国、さらに第二次世界大戦中ドイツとの密約に基づいて併合したバルト三国やベッサラビア(モルドヴァ)も加えて、旧ロシア帝国版図を上回る領土を持つに至った。
 最終的にユーラシア大陸に広くまたがる15の共和国で構成したソヴィエト連邦において、各構成共和国は独立した国家主権を持たず、実質は最大面積・人口を擁するロシア共和国を盟主とする一個の帝国であり、それは社会主義の名において再編・復活したロシア帝国にほかならなかった(ツァーリなき帝国)。
 このような新しい「帝国」のあり方は、第二次世界大戦後に主流化する植民地支配によらず従属的同盟関係を通じて他国・多民族を勢力圏に収める「新帝国主義」の過渡的・先駆的な意義を持っていたとも言えるだろう。

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