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2012年12月15日 (土)

マルクス/レーニン小伝(連載第19回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期

(3)逮捕と追放

学生運動への関わり
 レーニンは兄の処刑の翌月、1887年6月にシンビルスク古典中学校を卒業後、同年8月、文豪トルストイの母校でもある近くのカザン大学へ入学する。専攻はマルクスと同じ法学であった。弁護士だった父の意向で法学部へ行かされたマルクスとは異なり、レーニンは自らの意志で法学部を選択したようである。
 しかし、レーニンの大学生活はわずか4か月で突然終わりを告げる。折からロシアの大学では先帝アレクサンドル2世時代のリベラルな改革の成果でもあった大学の自治を否定する84年の新大学令をめぐって、これに反対する運動が広がり、地方のカザン大学にも波及してきていた。この大学令は、暗殺されたアレクサンドル2世を継いだ息子のアレクサンドル3世が導入したものであった。3世は農奴解放を実現したリベラルな父帝とは異なり、反動思想の持ち主で、父帝時代の自由主義的な改革を覆すことに熱中していたのである。
 カザン大学新入生レーニンは87年12月4日に構内で開かれた学生運動の自由を求める集会に参加したが、この集会は大学側の要請で出動した警察によって解散させられ、レーニンも翌日逮捕されると同時に退学処分を申し渡されてしまったのである。彼は2日後に釈放されたものの、当局からカザン市退去命令を受け、母方の親類が住むカザン県コクーシキノ村という僻地に転居を余儀なくされた。
 こうして秀才レーニンは早々と大学を追われたうえ、法的にも追放の身となった。これは同年代のマルクスよりも多難な船出であった。

『資本論』との出会い
 レーニンと『資本論』の出会いについては、旧ソ連の公式伝記によると、兄アレクサンドルが夏季休暇で帰省した際に持ち帰ってレーニンに手渡したのが最初であったとされるが、これも真実とは違うようである。
 むしろ彼が『資本論』と出会ったのは、母の猛烈な運動により88年にカザン市追放命令が解除され、一家で転居したカザン市内で、ある思想サークルに入会したのがきっかけと見られる。そこで『資本論』第1巻に接した早熟な18歳は、たちまちにしてマルクスの虜となったようである。
 姉アンナの回想によると、レーニンはこの時期に早くもマルクス学説の基礎理論とその意義を理解したとされるが、確証はなく、彼が『資本論』を本格的に研究し、自らマルクス主義者となるのは、弁護士資格を取得した後のことと考えられる。
 しかし、帝政ロシアで革命運動と言えば、兄アレクサンドルが参加していたナロードニキ系のものが主流であった時に、レーニンが早くからマルクスの主著に触れたことは、彼をしてナロードニキを経ずに初めからマルクス主義へ到達した最初の世代のロシア人とするうえで大きな契機となったことは、間違いなかろう。
 当時はマルクスの死から5年、エンゲルスもまだ存命中であった。そしてロシアでは後にレーニンの思想上の師となるナロードニキ出身の哲学者ゲオルギー・プレハーノフが一連の著作を通じてマルクス理論の普及を開始していた。そんなロシアの革命思潮・運動における過渡期に、レーニンという人格が形成されつつあったのである。

(4)弁護士資格取得

農場経営失敗
 父イリヤの死後、ウリヤーノフ一家の長となっていた母マリアは、子どもたちの政治活動には干渉しなかったが、大学を追われ、復学許可の運動も実を結ばなかったレーニンの将来に関してはかなり心配していたようで、彼女は1888年5月、サマーラ県アラカエフカ村という所に農場を購入する。
 母は長男アレクサンドルのようにだんだん革命思想に傾いていきそうなウラジーミルに地主の道を示したわけだが、元来外国留学の希望を持っていた彼には満足できない道であった。レーニンは当局に二度留学の許可を申請したが、いずれも却下された。当局はレーニンのような「危険分子」のロシア人青年が外国で反露的活動を組織することを警戒していたものと見られる。
 納得のいかない地主稼業に成功するはずもなく、「地主レーニン」は5か月で挫折した。母もあきらめた模様で、購入した農場は小作人に貸しておいて、一家は10月にはサマーラ市内へ転居した。
 しかし、5か月間の農場経営体験はレーニンに農村問題への関心を掻き立てる役割は果たしたと見え、彼は後にサマーラで農村の実態調査を集中的に行ったほか、ナロードニキ系の活動家ともコンタクトをとるようになった。こうした経験は、革命家レーニンが労働者と貧農の同盟という独自の労農革命論のアイデアをはぐくむうえでも糧となったと考えられる。この点は、農村体験を持ったことがなかったマルクスとレーニンとを分ける大きな分岐点ともなるのである。

司法試験合格
 復学も留学もかなわず、地主にも納まり切らなかったレーニンがどうにか収入の道を得るために残されていたのは、司法試験に合格して弁護士資格を取得することであった。
 しかし、そのためにも当局の許可を必要とする身であったから、彼はまたしても母の力に頼ることになった。そして母が上京のうえ、文部大臣にまで嘆願した結果、一年後にようやく受験の許可が下りたのである。このように、レーニンの母マリアは長男アレクサンドルの一件以来、子どもたちの救出・復権のために駆け回る猛母であった。レーニンもこの母に何度も助けられたのである。
 さて、受験許可が下りたといっても、大学中退者のレーニンは大学法学部の全科目を独習し直さなければならなかった。ここではしかし、レーニンの「学校秀才」ぶりがフルに発揮される。彼はペテルブルク大学の校外生として受験に臨み、1891年秋、一番の成績で合格を果たしたのだった。こういう詰め込み式猛勉強は、秀才レーニンの得意技であったようだ。当時のロシアでは帝国大学が実施する国家検定試験が即司法試験であったため、これによりレーニンは弁護士補の資格を取得することができた。
 この点でも、父から弁護士となることを期待されたマルクスがどうにか大学を卒業はしたものの、中途で法学から哲学の道に逸れ、弁護士資格の代わりに哲学博士号を取得したこととは対照的であった。本質的に学究肌であったマルクスに対して、レーニンはより実務的な人間であったと言えるかもしれない。
 このことは、積極的に党派を形成せず、権力も求めず、無産知識人を貫いたマルクスと、やがて自らの党派を形成し、権力の座に就くレーニンの生き方の決定的な違いにもつながっていくであろう。

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