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2012年12月

2012年12月31日 (月)

老子超解:第二十一章 含徳について

二十一 含徳について

内なる徳の高い人は、赤ん坊に比せられる。(赤ん坊は)毒虫も刺さず、猛獣も襲わず、猛禽も打ちかからない。骨は弱く、筋肉も柔らかいが、握りはしっかりしている。まだ男女の交接を知らないのに性的可能性があるのは、精力が最高度にあるからである。終日泣き叫んで声も嗄れないのは、身心の調和が最高度にあるからである。
身心の調和を知ることを常といい、常を知ることを明という。寿命を無理に延ばそうとすることを祥といい、気力をかきたてすぎることを強という。
物は強盛であるほど衰退する。これを不道という。不道では終わりも早い。


 
前章を受けて、嬰児の身心の状態を引き合いに出しながら、「抱一」の身心論的な側面をいっそう明確にしようとするのが、通行本で第五十五章になる本章である。
 本章では「含徳」=内なる徳というタームが新たに登場するが、これはまさに前章で説かれた=一を抱懐する「抱一」の別言とみてよい。言い換えれば、外的に強制され、外部的に表出される儒教的な徳に対して、内的に体得され、内部的に抱懐される老子的徳(=得)のあり方を示しているのである。
 そうした含徳の身心状態を老子はひとことで「和」と呼ぶ。これは心身医学で言うホメオスタシスを想起させる概念である。そうした「和」が最高度にあるという嬰児は一見虚弱に見えて実は意外に強靭であることが知られているが、老子はそうした嬰児の身心のあり方を範とする「和」を体得することを「常」と名づける。
 反対に、無理に寿命を延ばそうとしたり、気力をかきたてすぎたりすることは、衰弱を早めるだけだというのである。こうしたの否定=「不道」の警句は、後に政論篇でも戦国時代的な富国強兵策を批判する文脈で改めて繰り返される。

2012年12月29日 (土)

老子超解:第二十章 抱一について

二十 抱一について

惑える身体を落ち着かせて一(なる道)を抱懐し、離れずにいられるか。精神を集中し、身体を柔軟にして、嬰児のようになることはできるか。心の鏡を除去して過ちを犯さないことはできるか。民衆を愛し、国を治めて、名を知られずにいることはできるか。万物の活動が活発になっているときに、(受身に)女性的であることはできるか。あらゆることを知り尽くしていながら、何も(ことさらなことを)しないでいることはできるか。
(後段削除)


 前の三つの章で語られた同ずること=玄同=感覚遮断の状態を身心論のレベルで具象化し、老子にしては珍しい畳みかけるような問いかけの形で迫ってくるのが、通行本で第十章に相当する本章の妙味である。
 ちなみに荘子の「心斎坐忘」は、本章の内容を一つの修養法として高めたものと言えるが、老子の「抱一」はそうした修養実践ではなく、その一歩手前で、超形而上学的な思索実践の内にとどまっている。
 しかも、老子は本章後半で、倫理、統治や行動、知識といった形而下的な領域にも「抱一」のコロラリーを押し広げている。
 すなわち「心の鏡を除去して、過ちを犯さない」とは、規準的な道徳規範によらない老子的な「道得」の言い換えであるし、「民衆を愛し、国を治めて、名を知られずにいる」とは、老子的政論の核心を成す「無為の政治」につながる手がかりである。また「万物の活動が活発になっているときに、受身に女性的である」とは、行動における老子的「無為」の言い換えであり、「あらゆることを知り尽くしていながら、何もことさらなことをしない」とは、老子的知性論の「明知」につながるところである。

 なお、本章第二文では、一般に脆弱さや未熟さの象徴である嬰児の身心の状態が参照すべき理想として引かれているが、これは次章でいっそう明確にされる老子的身心論の白眉である。
 このことはまた、第五章に続いて本章でも再び言及された女性性の称揚とともに、一般に弱さの象徴とみなされるものに逆説的な強さの兆候を認めようとする老子実践哲学の特質をも示している。

2012年12月28日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第21回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第2章 革命家への道

(2)最初の政治活動

flag労働者階級解放闘争同盟
 レーニンにとって初の本格的な政治活動と呼び得るものは、後にレーニンのボリシェヴィキ派と対立するメンシェヴィキ派の指導者となるユーリー・マルトフ(本名ツェデルバウム)の率いるグループと合体して1895年に結成した労働者階級解放闘争同盟(以下、「闘争同盟」と略す)の活動であった。
 その発端となったのは、同年初め、ペテルブルクのほか四都市のマルクス主義者の代表が集まりマルクス主義運動団体の統一について協議したことであった。その際、ロシア・マルクス主義第一世代の大御所プレハーノフが結成した労働解放団のメンバーに意見を求めるため、メンバーが亡命中のスイスに赴くことになった。労働解放団とは、プレハーノフがマルクスの没年1883年にいち早く結成したロシアにおけるマルクス主義団体の先駆けであった。
 レーニンは95年5月、ペテルブルクの組織代表としてスイスにプレハーノフらを訪問した。外国留学を熱望していた彼にとっては、これが念願の初の外国旅行となった。
 プレハーノフらとの面談では、ロシアにもマルクス主義政党を設立する必要性があるという総論では意見が一致したものの、当時いくつもの小グループに分かれていたロシア国内のマルクス主義運動はまとまりが悪く、帰国後にレーニンらが結成した闘争同盟も政党というには程遠いものであった。
 旧ソ連の公式伝記によると、この団体はレーニンが結成したマルクス主義革命政党の前身とされている。後のボリシェヴィキとメンシェヴキの両指導者がそろい踏みしたからそう言うのであろうが、闘争同盟の実態は政党というよりも労働運動の支援団体に近いものであった。実際、この団体はある労働争議を支援して勝利を収めさせている。

flag逮捕と流刑・結婚
 闘争同盟はしかし、長続きしなかった。1895年12月、レーニンを含むメンバーの大半が帝政ロシア当局に一斉検挙されたのだ。帝政ロシアの政治反動は、前年即位したばかりの新帝ニコライ2世―23年後、レーニン政権によって銃殺され、最後の皇帝となる運命にあった―の下でも不変であった。
 レーニンは1年以上も未決勾留された末、97年1月、3年の流刑判決を受けてシベリア送りとなった。レーニンに続いて逮捕されていた恋人クループスカヤも翌年、同じく3年の流刑判決を受けたが、レーニンとの結婚を条件に流刑地の変更を許可され、レーニンのもとへ合流、98年7月に二人は結婚した。流刑地での新婚生活であった。
 しかし、二人には政治犯としての名誉ある処遇が与えられ、国から支給される生活費で十分充足した生活を送ることができ、レーニンはここで初の大著『ロシアにおける資本主義の発達』を書き上げたほどであった。
 この点、いわゆる空想的社会主義の思想を奉じるグループで活動して死刑判決を受けた後、恩赦減刑されて1850年代のシベリアで4年間の流刑生活を送った文豪ドストエフスキーの悲惨な流刑監獄体験とは大きな違いがあった。
 後にこの時の体験に基づいて代表作『死の家の記録』を書いたドストエフスキーは、監獄でロシア民衆の強靭な土俗性に触れたことで、ロシア文化の基層的な土壌を重視する保守思想へ転回を遂げ、かえって西欧的な進歩思想・革命思想とは対決するようになったのだった。レーニンの流刑は監獄でなく一般住宅への賄い付き入居という厚遇であったから、ドストエフスキーのような体験はあり得なかった。
 こうした恵まれたシベリア流刑中にレーニンが書き上げた前記著作はナロードニキ理論に反対し、ロシアにおける資本主義の発達可能性を論証する集大成の意味を持つものであった。
 注目されるのは、その中でロシアの農村問題を改めて詳しく取り上げ、当時のロシア農民層が少数の農村ブルジョワジー(富農)と多数の農村プロレタリアート(貧農)とに階級分裂しつつあることを示したことである。これは、後に彼が貧農との同盟を強調するうえでの伏線となるであろう。

2012年12月27日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第20回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第2章 革命家への道

言っておかねばならないが、彼が1894年頃の労働者、それも未熟練労働者に、まだ十分に成長してもいない労働者に、こんな学問的な厚い書物をいきなり持ち込んで科学的な大著の説明をしようというのだから、可笑しく思われるかもしれない。
―妻ナジェージダ・クループスカヤ

(1)ペテルブルクへ

flagサマーラの倦怠
 弁護士となったレーニンは1892年、サマーラ市内で弁護士活動を開始した。とはいえ、地主稼業と同様、金を稼ぐことには熱意と才覚が乏しかったようで、新人弁護士レーニンのもとに客は集まらなかった。
 しかし、彼はあまり気にするふうでもなく、むしろ閑を利用してマルクス主義研究会を組織し、マルクス理論の研究を本格的に始めたのだった。おそらく彼がマルクス主義者としての自己認識を明確にしたのは、この時期であろう。
 一方で、彼は前に述べた短期の農場経営以来関心を深めていたロシア農村に関する実証的な研究にも着手し、ナロードニキ系運動とコンタクトを取ることもした。
 このようにサマーラ時代は革命家レーニンにとって、パン種の発酵期のような時期であった。ただ、当時のサマーラはヴォルガ河流域の産業都市として発展しつつあったとはいえ、やはり地方都市であり、司法試験受験時に初めて帝都ペテルブルクを体験していた彼にはいささか退屈なのであった。
 こうした点で、レーニンは「民衆の中へ」を合言葉に農村に住み込んで活動したかつてのナロードニキ系運動家たちとは性格を異にし、やはり都市労働者の団結に重点を置くマルクス主義系の運動家であった。彼は93年8月にはサマーラを去り、ペテルブルクへ移っていった。レーニン23歳の時である。

flagマルクス主義研究会での活動
 ペテルブルクへ出たレーニンは、もはや弁護士活動はそっちのけで、首都のマルクス主義研究グループとコンタクトを取り、さっそく活動を始めた。地方から突然現れたこの青年法律家はすでにマルクス理論を我が物としており、首都のマルクス主義者たちからもたちまち一目置かれる存在となった。
 一方で、彼は労働者サークルにも出かけて『資本論』の講読会を開くかたわら、労働者の労働条件や生活意識などを聞き取り調査する実証的な研究も始めた。彼が後に「労働者は自力では組合的意識しか作り上げることができない」と定言的に断言するに至ったのは、この時の体験によるものではないかとも思われる。
 この時期のレーニンに関して重要なのは、デビュー作とも言える論文「市場問題について」を執筆したことである。これはペテルブルクへ出た直後の93年秋にマルクス主義研究会で行った発表のベースになったもので、その趣旨はナロードニキ経済理論との対決にあった。
 ナロードニキは資本主義を飛び越える独自の農民社会主義論を主唱するに当たって、従来「ロシアにおける資本主義は農民大衆を没落させ、国内市場が縮小する一方で、ロシアのような後発国が海外市場に割り込むことは不可能であるから、ロシアにおいて資本主義が高度に発達する余地はない」という理由づけを与えていたからである。
 これに対して、レーニンは、マルクスの『資本論』第2巻第3編「社会的総資本の再生産と流通」で展開された再生産表式論に依拠しながらナロードニキ理論に反証を加え、独立生産者の没落と賃金労働者への転化はかえって国内市場を整備・拡大するものであることを論証した。
 この論文を通じて、レーニンはナロードニキと対置させる形で、マルクス主義者としての自己を鮮明に打ち出したものと言える。この路線は6年後に完成する大著『ロシアにおける資本主義の発達』に結実する。

flag将来の妻クループスカヤ
 レーニンは1894年、ペテルブルクの労働者サークルで、やがて妻となる女性ナジェージダ・コンスタンティノヴナ・クループスカヤと知り合い、交際を始めた。
 彼女は貴族出身のロシア陸軍軍人の父と下級貴族出身の母との間にロシア帝国領ポーランドで生まれた。父はポーランド勤務中、反露活動に関与した疑いをかけられて軍を追われ、一時は工場労働者となった人であった。母は高等女子教育を受けた教養人で、クループスカヤ自身も女子教育を受けて教員となり、レーニンと知り合った当時は、夜間学校の教師をしながらマルクス主義研究会に参加するなど、マルクス主義者としての道を歩む青年女子の一人であった。
 4年ほどの交際の後、共にシベリア流刑中、レーニンと結婚したクループスカヤは夫より1歳年長であった。そして良き伴侶同志として夫と苦難を共にし合った点では、マルクスの妻イェニーと通ずるところがある。
 ただ、レーニンとクループスカヤの間にはマルクスとイェニーの間に見られたような古典的ロマンスの関係はもはや見られなかった。二人の関係は驚くほど今日的な交際関係と、その結果としての対等なパートナーシップ的夫婦関係の性格を持っていた。二人は子どもを持たず、共に社会的に活動するDINKの走りでもあった。そうした点では、マルクス夫妻よりも、事実婚の関係を保ち子どももなかったエンゲルス夫妻のほうに近かったと言えるかもしれない。
 なお、クループスカヤはレーニンと死別した後、史料的価値の高い回想録を公刊している。

2012年12月22日 (土)

老子超解:第十九章 感覚遮断

十九 感覚遮断

色彩は視覚を損なう。音楽は聴覚を損なう。料理は味覚を損なう。乗馬狩猟は精神を損なう。得難い財貨は行動を損なう。
こういうわけで、理想の人は腹を充たし、目を充たさない。要するに、あれを捨ててこれを取るのだ。


 
体の穴を塞ぎ、門を閉ざすという「玄同」の実践を箴言の形で説示するのが、通行本第十二章に相当する本章である。本章では要するに感覚刺激的なものへの警戒が強調されている。
 ここから、西田幾多郎の「純粋経験」と老子の「玄同」の相違点も明らかとなる。この両者は共に主客未分の根源的な経験という点で共通性を持つが、西田の「純粋経験」が音楽や絵画への没入といった芸術的経験を主として念頭に置いている―いくらか拡大しても一種芸術の域に達しているような熟練技―のに対し、老子の「玄同」ではむしろ芸術には否定的である。
 老子からすれば、芸術のように五感を刺激する経験はかえって感覚を損なうというのである。同様に、乗馬狩猟のようなスポーツ、珍宝収集のような余技も精神や行動を損なうとして忌避される。

 後段にあるように、玄同を体得した人は、あれ=外的刺激を捨て、これ=内的充溢を取るのである。言わば感覚遮断である。
 これは徹底した内観主義の立場表明であるようにも読めるが、「腹を充たす」という言表から、精神性よりも身体性への関心が窺える。他方、「目を充たす」ことに否定的であるのは、目に見える外観にとらわれ、本質を見失うことへの警戒を説くものである。

 その結果、視覚対象的な他者たる「あれ」ではなく、手元の内観的な「これ」=是態(haecceity)が重視されることから、ある種の実存哲学に通じていくことにもなる。

2012年12月21日 (金)

音楽の自発性

 今月の総選挙結果は、政治ばかりでなく、音楽の世界にも無視できない影響を及ぼすだろう。というのも、躍進した政党は学校現場における国歌斉唱の強制に熱心な政党ばかりだからである。そのため、今後、学校現場での国歌斉唱強制は強まることがあっても弱まることはないであろう。
 従来から東京と大阪という二大中心地を拠点に潮流となっている国歌斉唱強制策に対しては、憲法で保障された思想・信条の自由を害するという批判が向けられてきたが、問題はそれだけに尽きず、音楽の自由―広くは芸術の自由―をも侵害する。
 ただ、日本社会では宴会などでカラオケを事実上強要するような習慣も広く見られるため、楽器演奏はともかくとして、歌唱の強制については案外容認する空気があるかもしれない。
 しかし、音楽は芸術の一環として、各自の自発的な音楽的感性の表現である。だから歌唱にせよ、楽器演奏にせよ、音楽の強制はあり得ない。逆に言えば、強制される「音楽」は音楽ではなく、それは忠誠心試しや嫌がらせ、いじめの手段にさえなりかねない。
 国歌は強い政治性を帯びた音楽であり、通常の歌曲とは性格が異なるが、国歌も音楽である以上、歌唱の強制が音楽の本性に反することは否定できない。
 学校現場での国歌斉唱強制は従来、主として教職員の管理統制手段として利用されてきたが、今回の選挙結果を見ると、今後、児童生徒に対しても国家主義的な思想統制教育の一環として国歌斉唱強制が徹底される可能性も出てくる。
 国歌は専ら国家的行事で演奏されることが予定されている特殊な楽曲であるから、実際に国家的行事で演奏することはあってよい。だが、それは歌唱なしの楽隊による演奏と儀礼的な傾聴の範囲内に収められなければならないし、それが民主的な国における国歌の扱いの標準モデルでもある。
 この点、入学式や卒業式のような学校行事はそもそも国家的行事ですらないのだから、校歌ならともかく―それでも強制は許されないが―、国歌の演奏自体、場違いであると言えるのである。
 かくして、音楽の自発性の保障は、民主主義の証明書でもあるのだ。反対に、政府が選定した特定の音楽を政治的な統制手段として強制する「音楽政治」は、全体主義国家の徴候である。国歌斉唱強制はそうした「音楽政治」そのものではないけれども、その一歩手前であると警戒しておきたい。

2012年12月19日 (水)

天皇の誕生(連載第39回)

第八章 蘇我朝の五十年

(5)王位継承抗争と蘇我入鹿

後継問題の発端
 蘇我馬子大王の期待の星・善徳太子=聖徳太子は621年、父王より先に世を去ってしまう。これで馬子の目算は大きく狂うことになり、やがて後継問題をめぐる深刻な内紛の発端ともなった。
 その理由として、馬子が長生しすぎたこともある。彼は太子が死去した時点ですでに治世29年に達しており、敏達天皇の大臣だった時代から通算すれば50年以上に及ぶ政治歴になるから、すでに80歳を超えていた可能性がある。とすると、574年生まれとされる太子の実年齢ももう一回り高く、死去時には古代の上流階級としては平均寿命を若干上回る50代後半に達していたのではないか。
 ともあれ『書紀』によると、太子が死去した時、人々は身分の上下を超えて悲嘆にくれ、高句麗に帰国していた太子の師・恵慈などは太子の後を追って来年の太子の命日に自らも死にたいと慨嘆し、本当にその日に死んだなどと現実離れした大仰な追悼記事を載せている。
 しかし、太子の死を最も悲嘆したのは馬子老大王自身であったろう。彼には他に少なくとも二人の息子があったが、父の評価においては善徳と比ぶべくもなかったに違いない。
 『書紀』がこうした父王の主観的評価を超えて、身分を問わず崇敬された聖人・聖徳太子というモデルを作り上げたのは、「蘇我朝」の存在を秘匿し、表面上は蘇我氏を皇室に背いた逆臣として描きながらも、特に馬子大王の業績を再評価し、皇統に編入された「聖徳太子」を介して間接的な形で蘇我氏の名誉回復を暗黙裡に図ろうとしたことの反映と考えられる。
 このような政治的狙いが込められた聖徳太子信仰は、おそらく7世紀後葉の天武・持統天皇時代(特に持統天皇時代)に朝廷主導で始まり、内容が希薄な『書紀』の聖徳太子に関する叙述を補足する史料としてよく参照される太子の伝記『上宮記』『法王帝説』や法隆寺金堂薬師如来像光背銘、同釈迦三尊像光背銘、伊予国湯岡碑文、天寿国繍帳銘などの銘文・碑文群も、この時代に集中的に造作されたものと推定されるが、このように権力主導で聖徳太子信仰が広められた理由・経緯については最終章で論ずる。
 さて、こうして期待の星を失った馬子大王は太子より5年ほど余命を保ち、626年に没した。治世34年、おそらく古代人としては怪物的に異例の90歳近い長命であったろう。
 『書紀』は馬子について「性格は武略備わり、政務にもすぐれ、仏法を敬った」云々と天皇紀並みの称賛的な人物評を載せているが、このことも彼が単なる大臣を超えて、実際には君主の座にあったことを暗示しているように思われる。
 また『書紀』は馬子の墓を「桃原墓」と記すが、これは盛り土が失われて巨大な横穴式石室が露出していることで有名な石舞台古墳に比定されている。この古墳の石室の全長は約19メートルと全国でも有数の大きさであり、規模から見ても、古墳が小規模化する古墳時代後期のものとしては大王墓級と言える。この点にも、彼の本当の地位が象徴されていよう。
 馬子大王の死によって再び未亡人となった推古女王は結果的に単独の君主として残り、その限りでは彼女を畿内王権最初の単独女王とみなしても誤りではないが、あくまでも結果的なものであり、ほどなくして彼女自身も死去するまでの暫定的な単独統治であったにすぎなかったと考えられる。

第一次王位継承抗争
 馬子大王は善徳太子死去後、新たな後継指名をする気力も失ったまま没したようで、このことが二次にわたる深刻な王位継承抗争の直接的なきっかけとなった。
 馬子の元来のプランは、当然ながら自慢のワカミタフリ=善徳太子に王位を順当に継承させるというもので、そのために治世15年(607年)には、太子とその子孫の生活費をまかなうべく壬生部[みぶべ]を設置している。
 さらにその5年後には、実姉で欽明妃にして妻・推古女王の母でもあった堅塩媛を欽明陵に改葬する大式典を挙行する。これは本来正妃ではなかった堅塩媛を欽明陵に合葬したのであるが、単なる合葬ではなく、石室の奥の主被葬者の位置に堅塩媛の石棺を安置し、欽明の石棺をその手前に移動するという入替葬であった事実が近年、真の欽明陵に比定される見瀬丸山古墳の調査で確認されている。
 要するに、欽明陵を事実上の“堅塩媛陵”にすり替えてしまおうという図々しくも大胆な策であった。その狙いは、もちろん「蘇我朝」の正式な樹立宣言である。
 この企ては善徳太子の死で挫折を余儀なくされるが、馬子のプランを生かすとすれば、善徳太子の子・山背大兄王を王位に就けることであった。
 この人の母は、聖徳太子の伝記『上宮記』『法王帝説』によると、馬子の娘・刀自古郎女[とじこのいらつめ]というが、これらの伝記は、先述したように聖徳太子伝説を広めるため政策的に造作されたものであり、信用し難い。
 一方、『書紀』は聖徳太子の妃として、推古天皇と前夫・敏達天皇との間の娘・莵道貝蛸皇女(別名・莵道磯貝皇女)の名を挙げながら、山背大兄の実母の名を黙している。しかし、莵道(宇治)は山背国内の一地域であるから、山背大兄の名は母の名にちなんだものと推定され、山背大兄の実母は莵道貝蛸、またの名は莵道磯貝皇女とみてよいと考える。
 こうした出自を持つ山背大兄が大王に就けば、実子のなかった馬子大王・推古女王夫妻にとって共通の孫に当たるから、後継にはふさわしいはずであった。
 ところが、馬子大王亡き後の推古女王はそうは考えなかったようである。彼女はやはり獲加多支鹵大王=欽明の娘という意識が強かったらしく、偉大な父王の直系正統王家の復活が念頭にあった。
 そこで、推古は死去の直前、馬子に暗殺された故・押坂彦人大兄の子で、敏達大王の孫にも当たる田村皇子―この時点で昆支朝は廃されていたから、彼は正確には「皇子」ではない―を病床に呼び出し、「天下を治めることは大任である。私はお前を重く見てきた。それゆえ行動を慎み、物事を明らかに見るように。」と事実上王位を委ねるかに取れる遺言を下した。
 その一方で山背大兄をも呼び出し、「お前はまだ未熟であるから、心中望むところがらあっても口にせず、群臣に従うように。」と自重を促す遺言を下した。
 こうして、推古も馬子大王の死去から2年後の628年に没するのであるが、女王の遺言はややあいまいで、解釈の余地を残したことから、田村皇子後継が女王の遺志であるとして既成事実化を図る馬子のもう一人の息子・蝦夷と、女王の遺言を都合よく解釈して自分に大命が下ったと反論・抗議する山背大兄の間で争いが生ずることになった。叔父と甥の争いである。
 実のところ、蝦夷も馬子大王の王子として、王位継承権がなくはなかったが、父王から後継指名を受けていなかったため、自ら王位を請求することはあえて避け、田村皇子を推していたようである。彼が山背大兄に否定的なのは、兄・善徳太子の子で、雄弁家でもあったらしい山背大兄が王位を継ぐことになれば、自らの立場が弱くなるので、父・彦人大兄に似て影の薄い田村皇子を王位に就け、その下で宰相として実権を握るほうが得策と計算していたためであろう。そして、彼のバックには群臣の大半がついていた。
 一方、山背大兄の後ろ盾は、馬子の実弟に当たる長老・境部摩理勢[さかいべのまりせ]と二、三の王族くらいで、支持者が少なかった。
 この争いは、最終的に蝦夷と摩理勢の抗争に転化した末、蝦夷が摩理勢一族を武力で滅ぼして決着が着き、629年に田村皇子が即位する。これが、正史上の第34代舒明天皇である。

第二次王位継承抗争
 第一次王位継承抗争の後、蘇我蝦夷によって擁立された舒明天皇(以下、便宜上「舒明大王」または単に「舒明」という)は、蝦夷の目論見どおり、彼の傀儡となったので、641年まで続く舒明時代は蝦夷が全権大臣として独裁した。よって、形の上では再び昆支朝正統王家が復活したように見えながら、実質上は「蘇我朝」の形を変えた継続であった。
 こうした傀儡体制は、ちょうど蝦夷の父・馬子が自ら大王に就く以前、大臣として独裁した崇峻大王時代にならったものであった。この間、舒明は政治の実権をすべて蝦夷に握られ、自らは病弱であったのか、都を離れ、たびたび有馬や伊予の湯に行幸するような有様であった。やがて641年に舒明が死去すると、再び後継問題がよりねじれた形で持ち上がってくる。
 正史上は、舒明死去後、ほとんど間を置かずに正妃の宝皇女が即位したことになっている。これが正史上二人目の女帝とされる第35代皇極天皇である。しかしこの時代に、大王の没後当然のごとくに配偶者たる正妃―しかも、宝皇女は推古と異なり、共同女王の地位にもなかった―が大王に昇格するということは考えにくく、この筋書きには疑問がある。舒明にはこの時点で、馬子大王の娘・法提郎媛[ほてのいらつめ]を母とする古人大兄皇子[ふるひとのおおえのみこ]という大兄称号を持つ長男があったことからしても、「皇極天皇」には疑問が残るのである。
 この頃になると、蝦夷の息子で野心家の入鹿が台頭し、半ば公然と王位を狙っていたので、おそらく蘇我父子は故・舒明の正妃・宝皇女を大王権限代行者のような地位に立てながら、入鹿が王冠を手にするタイミングをうかがっていたものと考えられる。従って、宝皇女は大王ではなく、後代の皇后称制のような形で臨時に大王の職務を代行したにすぎなかったのであろう。
 一方、『書紀』は明確に記していないが、舒明死後、再び山背大兄王が王位を請求し始めた可能性が高い。というのも、彼は舒明即位前の第一次王位継承抗争の際、推古女王から、蝦夷叔父が常に自分のことを心配し、「いつかはきっと皇位が山背に行くのではないか」と言っていたと聞いたという新事実を出して、自説を補強していたからである。
 これに対して、入鹿側は表向き舒明の長男・古人大兄を推すポーズを見せて対抗しながら、実は自身が王位を狙っていたのである。そして、そのチャンスがめぐってきた。
 『書紀』によると、643年9月6日、まず蘇我父子は故・舒明大王を押坂陵に移葬する(押坂は舒明の父・押坂彦人大兄ゆかりの地)。そのちょうど一月後の10月6日、蝦夷は病気を理由に登朝せず、秘かに紫冠を入鹿に授けて大臣の位になぞらえたという。
 この叙述では、蝦夷が単に大臣の位を入鹿に僭称させただけであるが、真実は、この時点で入鹿は一方的に大王即位を宣言したものと推定される。そのことは、『書紀』が注記で、「蘇我臣入鹿は、上宮の王たちの威名が天下に上ることを忌んで、臣下の分を越えて勝手に自分を君主になぞらえようとした」とあることからも、裏づけられる。
 この後、正史上は11月1日、入鹿が山背大兄の根拠・斑鳩に軍を差し向けて「急襲」をしかけ、大兄の上宮王家一族を滅亡させたことになっている。これが、聖人・聖徳太子の子孫を滅亡に追い込んだ入鹿最大の罪状とされているものである。
 しかし、先述したような経緯からとらえ直すと、これは入鹿による「急襲」ではなく、去る10月6日に入鹿が大王即位を強行したことに対して山背大兄側が反発し、本拠地の斑鳩宮に立てこもって抵抗したことから、これを謀反とみなした入鹿大王側が討伐軍を差し向けたものと見たほうが自然である。
 山背大兄は父の善徳=聖徳太子との関わりから同様に聖人視されることも多いが、実際は入鹿にも劣らぬ野心家であり、自らの王位継承のために雄弁に自己を弁護する人でもあった。
 ただ、彼は入鹿よりも優先的な王位継承権を有していながら、おそらく群臣の間で人望がなく、強力な支持基盤も、入鹿のような武力も欠いていた。『書紀』は、彼が入鹿の軍勢に攻撃され、生駒山に逃げ込んだ際、側近から東国の壬生の民を徴発して反撃の兵を挙げるよう進言されたの対して、「勝ち目はあるが、自分は十年間は人民を労務に使役しないと決めている。後世の人民から、自分についたために父母を亡くしたと言われたくないのだ」と言って断り、山を降りて斑鳩寺に入り、兵に攻囲される中、一族とともに自殺したと記している。
 山背大兄がこのように戦わずして一族心中の道を選んだのは、彼が雄弁に正当化したように人民を愛する聖人だったからではなく、武力では入鹿に対して勝ち目はないと観念したためであるにすぎなかったであろう。

入鹿大王体制
 蘇我入鹿は、舒明大王死去後、自ら大王即位を強行したと述べたが、これはもちろん正史・通説とは全く違っている。正史・通説では、入鹿はあくまでも天皇をしのごうとした横暴な逆臣にすぎず、自ら王冠を狙っていたかもしれないが、その野望を「大化の改新」につながる「乙巳の変」が見事に未然防止したという筋書きになっているからである。しかし、この筋書きは『書紀』の叙述自体によって反証することができる。
 まず何よりも、前回引いた注記が、入鹿の君主僭称を明言していることである。もっとも、通説は、本文にこのような記述は見えず、むしろ10月12日の記事では、「蘇我臣入鹿は、独断で上宮の王たちを廃して、古人大兄を天皇にしようと企てた」とあるので、この時点では入鹿はまだ自ら君主を僭称していなかったとする。
 しかし、単にそれだけのことなら、古人大兄は先帝・舒明の長男であるので、天皇に擁立しても重大な問題はないはずであって、入鹿を誅殺した「乙巳の変」の大義名分は失われることになりかねない。
 第二に、その「乙巳の変」の後、蘇我氏とも同族の高向臣国押[たかむこのおみくにおし]という人が漏らした「われら(同族)が君大郎(入鹿)の仇を打つために戦えば、殺されるだろう」という言葉からも、入鹿が「君大郎」という一種の君号を名乗っていたことがわかる。これはちょうど祖父・馬子大王が「アメタラシヒコ」をを称したのと同様、自らの王権を正当化するために創案した新称号であり、祖父と比べるとより中国風の称号である点に違いがあるだけである。
 第三に、入鹿が君主の地位にあったことは、最終的に彼が暗殺されることになる「乙巳の変」の舞台となった外交式典(三韓からの使臣を迎える式典)において、次のように入鹿が天皇よりも遅く、最後に入場していることからも裏づけられる。もしも入鹿が横暴であれ臣下にすぎないならば、先に入場して天皇(この場合は皇極)の入場を待つはずなのである。

皇極四年六月十二日、天皇は大極殿にお出ましになった。古人大兄が傍らに侍した。中臣鎌子連は、入鹿が用心深い性格で、昼夜剣を帯びているのを知っていたため、俳優[わざおき:道化師]に言いつけ、騙して剣を解かせた。入鹿は笑って剣を解いて中に入り、着席した。

 さらに付言すれば、古代・中世の君主はお抱えの道化師を持つ習慣が広く見られたところ、上記の引用箇所から、入鹿にも専従道化師がいたらしいことは、まさに彼自身が君主の座にあったことの傍証ともなる。
 第四に、上宮王家一族討伐後、蘇我父子がその邸宅を宮門[みかど]、男女の子たちを王子[みこ]と呼ばせたとされることである。これに先立って、父子はすでに寿墓を双墓[ならびのはか](大小二つの円墳を連接した瓢型古墳)の形で築造し、蝦夷のものを大陵[おおみささぎ]、入鹿のものを小陵[こみささぎ]と呼ばせていた。このことによって、直接王位には上れなかった父・蝦夷まで遡って大王級の扱いをしようとしたものと考えられる。
 こうした王朝仕立ては、すでに蘇我朝が馬子時代から成立していたと考える説からすれば別段不思議はないが、『書紀』もこの時点では事実上蘇我朝の成立を示唆せざるを得なかったものであろう。
 かくして馬子大王が望んでいた本格的な「蘇我王朝」が、馬子の予期とは異なる蝦夷‐入鹿ラインでいよいよ開始されたのである。
 『書紀』は、公式にはこうした蘇我朝の成立という真実をどこまでも隠し通そうとしている。しかし、『書紀』の編者は注記を含め、断片的な形で真実をほのめかすことを通じて、学問的な良心の声に最小限答えようとしたのであろう。それを探り当てることは、後世の人間に託された任務である。

昆支朝開祖・昆支大王代の5世紀後葉、亡国の危機にあった百済から呼び寄せられて昆支大王の宰相となった木刕満致を祖とする蘇我氏は、6世紀末に王権を簒奪し、蘇我朝を建てた。この蘇我朝の五十余年、中でもその過半を占めた馬子大王時代は、畿内王権が朝廷として整備され、対外的にも本格的な外交デビューを果たした革新の時代でもあった。
蘇我朝開祖・馬子没後の王位継承抗争を経て、孫・入鹿の代になり、いよいよ本格的な「蘇我王朝」の到来かに見えたが、水面下では別の動きが始まっていた。その動きとは何か。

2012年12月16日 (日)

老子超解:第十八章 玄同について

十八 玄同について

希言(音なき声)こそ自然である。だから(騒がしい)暴風も半日は続かず、豪雨も一日中は続かないのだ。誰がそうさせるのか。天地である。天地でさえ長く(騒がしい)活動を続けることはできないのに、いわんや人間にそんなことができようか。
真に知っている者は言葉を発しないのであって、言葉を発する者は真に知ってはいない。
体の穴を塞ぎ、門を閉ざし、鋭さを鈍らせ、もつれを解きほぐし、光を和らげて、塵とも同ずる。これを玄同という。
それで(こうした玄同の境地に達した人は)親しくすることもできず、疎遠にすることもできない。また利益を与えることもできず、損害を加えることもできない。栄誉を与えることもできず、恥辱にまみれさせることもできない。だから、天下で最も高貴な人となるのである。

 
 
通行本で第二十三章になる本章のキーワードは、前章のキーワード「同ずること」をさらに一段深めた「玄同」である。
 その前提として、はじめの二段で「希言」について語られる。もっとも、第一段は元来、前章の冒頭に位置する章句であるが、本章との関連の方が深いと考えられるので、評者が本章冒頭へ移置したものである。
 「希言」とは、文字どおりには「寡言」のことであるが、老子にあっては単に言葉数の少なさではなく、音なき声、非音声的な言葉を意味している。老子はこと音声言語に関しては深く懐疑的であり、この点で雄弁さを美徳としてきた西洋的な「音声中心主義」とは遠くへだたっている。老子によれば、第一段で暴風や豪雨の後の静けさにたとえられる「希言」こそが、真の知の証しでもあるのである。
 ちなみに、言葉に関しては、『論語』に「巧言は徳を乱る」とあるように、儒教でも「巧言」は不徳とみなされる。ただ、「巧言」とは詐術的な言葉使いのことであって、「徳ある者は必ず言あり」とも説かれるように、儒教において雄弁さは必ずしも否定されることではない。
 言葉を発する口を含む体の穴を塞ぎ、門を閉ざし、水のごとく和光同塵の境地に達すること、これが「玄同」である。それはすなわち、前章で説かれた「同ずること」の具体的な実践の一端でもある。ここに「玄」とはそれ自体老子のキータームであって、要するにの哲学的表現であるから(第四章参照)、「玄同」とは「(に)奥深く同ずること」を意味する。
 第三段でのその描写を見ると、一種のヨーガのような瞑想実践を思わせるものがあるが、老子がそのような瞑想法の実践者であったとする確かな証拠はない。仮に老子がそうした実践をしていたとしても、それはあくまでも個人的な思索実践であって、他人に伝授するような教典を伴うものではなかったろう。
 むしろ本章の眼目は、第四段にあるように、玄同の境地に達することで、あらゆる人間関係、利害得失、栄誉恥辱を超越して天下の貴人となることができるという逆説的な効用を説くことにあろう。老子の意外な世俗性を垣間見せられるところでもある。

2012年12月15日 (土)

マルクス/レーニン小伝(連載第19回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期

(3)逮捕と追放

flag学生運動への関わり
 レーニンは兄の処刑の翌月、1887年6月にシンビルスク古典中学校を卒業後、同年8月、文豪トルストイの母校でもある近くのカザン大学へ入学する。専攻はマルクスと同じ法学であった。弁護士だった父の意向で法学部へ行かされたマルクスとは異なり、レーニンは自らの意志で法学部を選択したようである。
 しかし、レーニンの大学生活はわずか4か月で突然終わりを告げる。折からロシアの大学では先帝アレクサンドル2世時代のリベラルな改革の成果でもあった大学の自治を否定する84年の新大学令をめぐって、これに反対する運動が広がり、地方のカザン大学にも波及してきていた。この大学令は、暗殺されたアレクサンドル2世を継いだ息子のアレクサンドル3世が導入したものであった。3世は農奴解放を実現したリベラルな父帝とは異なり、反動思想の持ち主で、父帝時代の自由主義的な改革を覆すことに熱中していたのである。
 カザン大学新入生レーニンは87年12月4日に構内で開かれた学生運動の自由を求める集会に参加したが、この集会は大学側の要請で出動した警察によって解散させられ、レーニンも翌日逮捕されると同時に退学処分を申し渡されてしまったのである。彼は2日後に釈放されたものの、当局からカザン市退去命令を受け、母方の親類が住むカザン県コクーシキノ村という僻地に転居を余儀なくされた。
 こうして秀才レーニンは早々と大学を追われたうえ、法的にも追放の身となった。これは同年代のマルクスよりも多難な船出であった。

flag『資本論』との出会い
 レーニンと『資本論』の出会いについては、旧ソ連の公式伝記によると、兄アレクサンドルが夏季休暇で帰省した際に持ち帰ってレーニンに手渡したのが最初であったとされるが、これも真実とは違うようである。
 むしろ彼が『資本論』と出会ったのは、母の猛烈な運動により88年にカザン市追放命令が解除され、一家で転居したカザン市内で、ある思想サークルに入会したのがきっかけと見られる。そこで『資本論』第1巻に接した早熟な18歳は、たちまちにしてマルクスの虜となったようである。
 姉アンナの回想によると、レーニンはこの時期に早くもマルクス学説の基礎理論とその意義を理解したとされるが、確証はなく、彼が『資本論』を本格的に研究し、自らマルクス主義者となるのは、弁護士資格を取得した後のことと考えられる。
 しかし、帝政ロシアで革命運動と言えば、兄アレクサンドルが参加していたナロードニキ系のものが主流であった時に、レーニンが早くからマルクスの主著に触れたことは、彼をしてナロードニキを経ずに初めからマルクス主義へ到達した最初の世代のロシア人とするうえで大きな契機となったことは、間違いなかろう。
 当時はマルクスの死から5年、エンゲルスもまだ存命中であった。そしてロシアでは後にレーニンの思想上の師となるナロードニキ出身の哲学者ゲオルギー・プレハーノフが一連の著作を通じてマルクス理論の普及を開始していた。そんなロシアの革命思潮・運動における過渡期に、レーニンという人格が形成されつつあったのである。

(4)弁護士資格取得

flag農場経営失敗
 父イリヤの死後、ウリヤーノフ一家の長となっていた母マリアは、子どもたちの政治活動には干渉しなかったが、大学を追われ、復学許可の運動も実を結ばなかったレーニンの将来に関してはかなり心配していたようで、彼女は1888年5月、サマーラ県アラカエフカ村という所に農場を購入する。
 母は長男アレクサンドルのようにだんだん革命思想に傾いていきそうなウラジーミルに地主の道を示したわけだが、元来外国留学の希望を持っていた彼には満足できない道であった。レーニンは当局に二度留学の許可を申請したが、いずれも却下された。当局はレーニンのような「危険分子」のロシア人青年が外国で反露的活動を組織することを警戒していたものと見られる。
 納得のいかない地主稼業に成功するはずもなく、「地主レーニン」は5か月で挫折した。母もあきらめた模様で、購入した農場は小作人に貸しておいて、一家は10月にはサマーラ市内へ転居した。
 しかし、5か月間の農場経営体験はレーニンに農村問題への関心を掻き立てる役割は果たしたと見え、彼は後にサマーラで農村の実態調査を集中的に行ったほか、ナロードニキ系の活動家ともコンタクトをとるようになった。こうした経験は、革命家レーニンが労働者と貧農の同盟という独自の労農革命論のアイデアをはぐくむうえでも糧となったと考えられる。この点は、農村体験を持ったことがなかったマルクスとレーニンとを分ける大きな分岐点ともなるのである。

flag司法試験合格
 復学も留学もかなわず、地主にも納まり切らなかったレーニンがどうにか収入の道を得るために残されていたのは、司法試験に合格して弁護士資格を取得することであった。
 しかし、そのためにも当局の許可を必要とする身であったから、彼はまたしても母の力に頼ることになった。そして母が上京のうえ、文部大臣にまで嘆願した結果、一年後にようやく受験の許可が下りたのである。このように、レーニンの母マリアは長男アレクサンドルの一件以来、子どもたちの救出・復権のために駆け回る猛母であった。レーニンもこの母に何度も助けられたのである。
 さて、受験許可が下りたといっても、大学中退者のレーニンは大学法学部の全科目を独習し直さなければならなかった。ここではしかし、レーニンの「学校秀才」ぶりがフルに発揮される。彼はペテルブルク大学の校外生として受験に臨み、1891年秋、一番の成績で合格を果たしたのだった。こういう詰め込み式猛勉強は、秀才レーニンの得意技であったようだ。当時のロシアでは帝国大学が実施する国家検定試験が即司法試験であったため、これによりレーニンは弁護士補の資格を取得することができた。
 この点でも、父から弁護士となることを期待されたマルクスがどうにか大学を卒業はしたものの、中途で法学から哲学の道に逸れ、弁護士資格の代わりに哲学博士号を取得したこととは対照的であった。本質的に学究肌であったマルクスに対して、レーニンはより実務的な人間であったと言えるかもしれない。
 このことは、積極的に党派を形成せず、権力も求めず、無産知識人を貫いたマルクスと、やがて自らの党派を形成し、権力の座に就くレーニンの生き方の決定的な違いにもつながっていくであろう。

2012年12月13日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第18回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期

彼は兄をとても慕っていました。
―妹マリア・ウリヤーノヴァ

(1)中産階級的出自

flag混血系中産階級
 本連載のもう一人の主人公ウラジーミル・イリイチ・レーニン(本名ウリヤーノフ)はロシア旧暦で1870年4月10、父イリヤ・ニコラエヴィチと母マリア・アレクサンドロヴナの第三子として、ヴォルガ河畔の町シンビルスク(現ウリヤーノフスク)に生まれた。
 父イリヤは地元で著名な教育家であり、数学・物理学教師から視学官となり、地域の学校教育の発展に尽力したことで、名誉貴族称号を授号された人であった。
 従来、レーニンの父方祖母がモンゴル系少数民族カルムイク人であったとする説が流布されてきたが、近年の研究でこの説は根拠を欠くことが明らかとなった。ただ、モンゴル系説が出ても不思議はないほど、レーニンと父イリヤの風貌にモンゴル的要素が認められなくもないことからすると、確認できない遠祖の中にモンゴル系の血が入っていた可能性はなお残る。それほどに、ロシアがモンゴル帝国の支配を受けたいわゆる「タタールのくびき」の時代は、血統的にもロシア人の中にモンゴル人の血を刻印していたからである。
 ちなみに父方祖父は、解放奴隷出身の仕立屋であった。従って、レーニンの父イリヤの代になって名誉貴族にまで昇格したウリヤーノフ家はアレクサンドル2世による農奴解放の申し子とも言える一族であった。
 一方、母マリア・アレクサンドロヴナはユダヤ系の医師であった父とドイツ人とスウェーデン人の混血であった母の間に生まれ、女性の教育機会が制約されていた時代に、独学で女学校卒業資格と国民学校(小学校)教員免許を取得した勉強家であった。
 このように、レーニンが生まれたウリヤーノフ家は、部分的にユダヤ人の血も引く教育家の混血系中産階級であり、ユダヤ系の法律家一族の出であったマルクスの出自とも少なからず共通点があったと言えるであろう。

flag自由主義者の父
 ウリヤーノフ家とマルクス家のもう一つの共通点として、父が自由主義的な知識人であったことが認められる。マルクスの父ハインリヒがフランス啓蒙思想の影響を受けた自由主義者であったことは第1部で見たが、レーニンの父イリヤも革命詩人ネクラーソフを愛し、教育者としては体罰反対論を実践する自由主義者であった。
 彼はトゥルゲーネフやドストエフスキーら「40年代人」にとって問題であった高邁な理想に燃えながら現実社会では役立たずの「余計者」としてのインテリゲンチャではなく、理想を教育者として実践する19世紀後半の帝政ロシアでは最も良質なインテリゲンチャの一人であった。
 このような父の薫陶を受け、レーニンを含む三男三女の6人の子どもたちは反骨心の強い人間に育ち、長男アレクサンドルをはじめとして全員が政治運動・革命運動に身を投じることになった。しかも、政治犯として刑死した兄アレクサンドルと、病気で夭折した妹オリガを除いて、姉アンナ、もう一人の妹マリア、弟ドミトリーはいずれもレーニンの革命運動に参加し、終生彼を支えた革命家兄弟姉妹という異例の一家であった。
 とはいえ、レーニンの父もマルクスの父と同様、本質的には体制派の進歩的保守主義者にすぎず、子どもたちが革命思想に感化されることを懸念していたと言われるが、本人も体制からはやや疎んじられていたと見え、25年勤続者の定年延長特典を事実上与えられないまま退職を余儀なくされ、1886年1月、失意の中で急死した。レーニン15歳の時であった。こうして父を比較的早くに亡くした点でもマルクスと似る。

flagエリート教育
 レーニンもマルクスと同様、幼少の頃から学才を示し、最年少9歳で地元シンビルスクの古典中学校に進学した。当時のロシアの古典中学校とは大学進学希望者が通過しなければならなかったギリシャ語・ラテン語の古典教育に力点を置くエリート校であり、ちょうどマルクスが最初の教育を受けたドイツのギムナジウムに相当する教育課程と言える。
 そして、レーニンもまたマルクスと同様に成績優秀者であり、1年次から最終8年次まで首席で通し、最年少17歳で卒業した時には金メダルを授与されている。この点、マルクスの場合、ギムナジウム卒業時の成績では意外にも物理が今一歩であったことと比べても、レーニンは傑出した「学校秀才」として人生をスタートした。この事実は、後年の革命家レーニンがマルクスには見られないエリート主義的な革命理論の主唱者となったことと無関係ではないかもしれない。
 ちなみに、レーニンが在学した当時のシンビルスク古典中学校長は、2月革命後に臨時政府首相にのし上がり、やがてレーニンの政敵として10月革命で政権を追われた後、亡命先の米国で客死したロシア革命を象徴するもう一人の人物アレクサンドル・ケレンスキーの父親であったという事実は、シンビルスクというロシアでも辺境地の進歩的土地柄を象徴する偶然と言えるかもしれない。

(2)兄の刑死

flag畏兄アレクサンドル
 ウリヤーノフ家の長男アレクサンドルもやはりシンビルスク古典中学校から帝都の名門ペテルブルク大学へ進み、化学と生物学を専攻した成績優秀者で、自然科学者としての将来が嘱望されていた。レーニンはこの4歳年長の兄を深く畏敬し、模範とみなし、妹オリガの回想によると、彼は食べ物に至るまで兄にならっていたほどだったという。
 その畏兄アレクサンドルが、1887年3月、突然逮捕された。容疑は、農民社会主義を唱導するナロードニキの流れを汲み、すでに1881年3月に皇帝アレクサンドル2世を暗殺した“実績”を持つ過激組織「人民の意志」のメンバーとして、時の皇帝アレクサンドル3世暗殺謀議に加わったというものであった。
 アレクサンドルは実際、大学在学中、レーニンら家族も知らない間に「人民の意志」に加入していた。皇帝暗殺の謀議に加担したことも真実であったようで、アレクサンドルは法廷でも堂々と自己の行為の正当性を主張し、死刑判決を受けた。そして、息子の助命のため奔走していた母マリアが勧めた恩赦の申請もきっぱり拒否した彼は5月、死刑を執行された。逮捕から処刑までわずか2か月足らずというスピード執行には、当局の見せしめの意味が込められていた。
 旧ソ連の公式伝記によると、レーニンは敬慕する兄の処刑に義憤を感じて革命の道を志したとされるが、これは真実とは違うようである。兄が刑死した当時、レーニンはまだ古典中学校最終学年の17歳にすぎなかった。
 しかし、模範としてきた兄の刑死は、その前年の父の死以上にレーニンにとってショックであったはずで、大学進学直前の多感な時期にそうした体験を持ったことは、レーニンの人格形成上少なからぬ影響を及ぼしたことは事実であろう。

2012年12月11日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第59回)

第7章 略

七 第一次世界大戦と英国の斜陽化(続き)

(4)トルコ革命とオスマン帝国の崩壊
 ヴェルサイユ体制に対する列強の修正主義外交が内発的な革命による体制崩壊という劇的な形をとって発現せざるを得なかったのがオスマン・トルコであった。
 前述したように、大戦に同盟側に立って参戦し、敗戦国となったオスマン・トルコはドイツに次ぐ制裁的処遇を受けることとなった。帝国の中東領土は戦時中、アラブ人の独立運動を利用した英仏に占領されており、その実効支配領域は本来の根拠地アナトリアとバルカン半島東部のトラキアにほぼ制限されていた。そのアナトリア南部も1918年11月には英仏伊米の連合国側によって占領され、翌年5月には領土拡大を狙うギリシャにもアナトリア西部の要地イズミルを占領された。また領内のアルメニア人などの分離独立運動も激化してきた。
 こうした国家存亡の危機の中、オスマン政府は連合国側に対し妥協的な外交姿勢に終始していた。その象徴が政府が20年8月に連合国との間に締結したセーブル条約で、これによるとトルコ領土は分割され三分の一程度にまで切り縮められることになっていた。
 時の皇帝は実質上最後のスルターンとなるメフメット6世であった。彼は敗戦によって08年の青年トルコ革命以来実権を握っていた「統一と進歩委員会」が瓦解したのに乗じ、連合国側に協力してスルターン権力の回復を狙っていたのだった。
 こうしたスルターンの政府に批判的な軍部の中堅将校の中から台頭してきたのが、ムスタファ・ケマルであった。彼は帝国末期の西洋近代化改革の中で設立された西洋式士官学校で教育された職業軍人であり、伊土戦争、バルカン戦争、第一次世界大戦にも従軍し、声望を高めていた。政治的にも「統一と進歩委員会」に加入し、進歩派中堅将校として頭角を現した。
 ケマルは領土保全を訴え、19年5月に「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を設立して連合国に抵抗するが、これに危機感を持った連合国側が20年3月に帝都イスタンブルを占領すると、ケマルは同年4月、アンカラに大国民会議を招集し、スルターンのイスタンブル政府に対する事実上の並行権力を樹立した。さらにアルメニア人の独立運動を鎮圧し、ギリシャ軍も撃退して22年までにイズミル奪回に成功した。
 民衆の声望を高めたアンカラ政府は22年11月、スルターン制を廃止し、メフメット6世を亡命に追い込んだ。名実ともにトルコ政府となったアンカラ政府は23年7月に連合国と再交渉して改めてローザンヌ条約を締結、トルコの領土保全に成功した。
 そして同年10月には共和制を宣言し、ケマルが初代大統領に就いた。翌24年には帝国の名残であったカリフ制も廃止して、以後徹底した政教分離の原則に立った西洋的近代化を国是とする上からの改革が軍部を基盤にケマルが創設した共和人民党の一党支配制の下、強力に推進されていくのである。

(5)英国の後退と米国の躍進
 前にも述べたように、第一次世界大戦は実質上20世紀の始まりを画する転換点となったが、その転換の極点は英米の覇権交代にあった。
 英国は大戦開始の頃、地球全域に本土面積の100倍を超える植民地を保有する史上空前の大帝国となっていたが、米国やドイツなどの後発工業国の保護貿易政策のため、国際競争力を削がれ、基幹産業の鉄鋼生産は19世紀末までに両国に抜かれていた。そのことはまた、英国が19世紀末以降、いっそう精力的に植民地拡大に走った要因でもあった。
 ただ、英国は膨大な植民地を持つことから海外投資の利益で貿易赤字を埋め合わせてなお余りあったし、海運や保険からの収入も豊富であった。従って、英国は「世界の工場」の地位は譲っても「世界の銀行」ではあり続け、ロンドンの金融街シティは世界の金融センターであった。
 ところが、大戦は英国から「世界の銀行」としての地位も奪ってしまった。英国は戦時中の措置やロシア革命などの影響によって海外資産の四分の一を失い、米国に対して8億ポンドを超える債務を負うに至ったのだ。そのうえ、貿易収支の不調から戦時中の金本位制停止措置を戦後も継続したため、国際金融センターとしての地位もロンドンからニューヨークへ譲ることとなったのだった。
 これに対して、米国は戦時中、軍需品や農産物を中心とした連合国向け輸出が急増し、これを土台に自動車、石油などの工業生産力も急伸、鉄鋼、電力は戦後、世界の総生産の過半を占めるまでに成長した。これは英国が戦時中の統制経済政策のために工業生産力を低下させ、さらに設備投資の停止による国際競争力のいっそうの弱化のために輸出額も大幅に減少させたことと好対照であった。
 こうした工業生産力の躍進を背景としつつ、米国は大戦前37億ドルの債務国から大戦後同額の債権国に逆転を遂げたのだ。しかも、米国は敗戦国ドイツへの借款と資本輸出を積極的に行う一方、英仏に対する戦債支払免除には応ぜず、保護貿易で通商障壁を設けるという仕組みで資本の一極集中を可能にしたのである。
 政治・軍事的な面でも、米国は戦時中連合国の武器庫の役割を果たし、戦後はヴェルサイユ体制の構築をリードした。さらに、米国は第一次世界大戦を機に躍進し始めた日本を抑えてアジア・太平洋地域における自らの権益を確保するため、1921年11月から翌年にかけて米英仏日伊の五大国を中心とする主要9か国を集めたワシントン会議を開催し、その中で五大国の主力艦の保有トン数の上限と比率、また向こう10年間の主力艦建造禁止を取り決める海軍軍縮条約を締結した。同時に、五大国にベルギー、オランダ、ポルトガル、中国を加えた9か国条約で、中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を約し、米英仏日の4か国条約では太平洋諸島の現状維持を確認したが、これらはいずれも米国自身のアジア・太平洋地域における権益の維持・拡大を狙いとする平和攻勢であった。なお、4か国条約の締結に伴い、日英同盟は役割を終え、破棄されたが、これも米国にとっては日本を英国から引き離して自国側へ引き寄せるチャンスを獲得するものであった。
 こうした表の外交を通じた覇権の追求とともに、米国は大戦の前後にかけてニカラグア、ハイチ、ドミニカ(共和国)、キューバなど中米地域の内政混乱に乗じて軍事介入し、ラテンアメリカでの勢力圏を拡張することにも余念がなかった。その際、大義名分に掲げられたのは「民主主義の拡大」であり、大戦参戦の時にも「民主主義の擁護」を掲げた米国にとって「民主主義」命題は以後、覇権追求のプロパガンダとして定着していくであろう。
 一方、大戦後の英国は政治的にも精彩を欠くようになった。膨大な植民地はかえって行政・軍事上のコストを増大させ重荷となっていた。そのうえ、英国は大戦に大量の植民地兵を動員したため、協力した植民地は戦後、発言力を高めた。そうしたことの中間決算が1931年のウェストミンスター憲章の制定であった。この中で本国と自治領の対等な関係が定められ、法形式上、英国は従来の植民帝国から英連邦に転換された。その結果、大戦後独立運動が高まってきた最大の植民地インドでも35年の新たなインド統治法により外交・軍事を除いた自治の仕組みが不完全ながらも用意されることになった。
 とはいえ、完全な独立が承認された自治領は例外的で、英国はなおも広大な植民地を保持し続けたが、それでもウェストミンスター憲章は、英国自らがまずは控えめに選択した大英帝国の終わりの始まり、そして最終的には覇権を放棄して小英国へと向かう道の出発点となったのであった。(第7章了)

2012年12月10日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第58回)

第7章 略

七 第一次世界大戦と英国の斜陽化

(1)大戦の要因と経緯
 最終的にアジアの新興国・日本の参入にまで至った帝国主義国家間の競争は、次第に二大陣営に収斂していく。
 その一方には、ヨーロッパの新興国ドイツを中心に、オーストリア・イタリアが参加する三国同盟があった。これは1882年以来の同盟で、元来はドイツが普仏戦争以来のライバル・フランスを孤立化させるために結成したものであったが、オーストリアとロシアがバルカン半島をめぐって対立していたことから、保険的な意味でドイツはロシアとの間にも87年、再保障条約を結んでいた。
 ところが、90年、ドイツが積極的な海外膨張に乗り出す前提として、ロシアとの再保障条約の更新を打ち切ったことから、フランスとロシアが急接近し、94年の露仏同盟に至る。これはフランスに外交的孤立を脱却する道を開いた。
 他方、ドイツがアフリカ分割に割り込みを図り、モロッコ事件を引き起こしたことに警戒心を抱いた英仏も急接近して1904年の英仏協商に至ったことはすでに述べた。そのうえ、日露戦争に敗れて極東戦略を縮小したロシアは中央アジア方面での英国との権益分割を可能とするため、07年に英露協商を結んだ。
 このようにして、露仏・英仏・英露の二国間同盟・協商の連環関係は英仏露の三国協商を形成し、これと先のドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟が二大陣営を成すことになるのである。
 こうした二大陣営の形成は新たな戦争を予感させた。その導火線となったのはバルカン問題であり、直接の発端は前述したオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合(1908)であった。この一方的な措置はこの地域の編入を望んでいた新興国セルビアを反発させ、同じスラブ系のロシアを後ろ盾に呼び込む結果となった。以後、二次のバルカン戦争を通じてセルビアとオーストリアの対立がまず先行的に先鋭化していく。
 ついに火を噴いたのは1914年6月、オーストリアの皇太子夫妻がボスニアの州都サラエボでセルビア民族主義者の一青年に暗殺された事件の後であった。この件にセルビア政府当局は関与していなかったが、オーストリアはドイツの支援の下、セルビアに宣戦布告、セルビアを支援するロシアが参戦の構えを見せると、ドイツもロシア・フランスに宣戦布告した。ドイツがフランスに侵攻すると、フランスとの協商関係に基づき英国もドイツに宣戦布告、続いて英国と同盟を結ぶ日本も参戦となった。さらに英仏が反露親独のオスマン・トルコに宣戦布告したことから、トルコも同盟側で参戦することとなった。
 こうして日本を含む帝国主義諸国家は落ち目のオスマン帝国をも巻き込んで、空前規模の世界大戦に突入していったのである。

(2)大戦の特質
 第一次世界大戦の軸となったのは、セルビア・オーストリアの対立の背後にあったロシア・ドイツ間の戦争であったが、この戦争は当時植民地化の進展によって少数に限られていた世界の独立国の半数以上が参戦し、トルコや日本、さらには英国側に自動参戦させられた英領インドなどの植民地まで巻き込みつつ、洋の東西にまたがる史上空前規模の大戦となった。
 とはいえ、日本などは側面的に参戦したにすぎず、戦線の中心はヨーロッパにあり、戦争被害もヨーロッパに集中したという限りでは、拡大された「ヨーロッパ戦争」であるとも言えた。
 それは、たしかにヨーロッパ帝国主義列強間の権益獲得競争のなれの果てではあったが、そうした経済的側面だけにとどまらず、この大戦には国民国家内部のナショナリズムの噴火という政治的側面があったことを見逃すことはできない。大戦がアフリカでもアジアでもなく、民族問題の火薬庫バルカン半島で始まったことがそれを象徴している。
 この政治的側面こそが、徴兵制軍隊(国軍)と戦争宣伝を通じて当事国が総力を挙げて国民全体を戦争に動員していくいわゆる「総力戦」の性格を戦争に付与したのだった。
 一方、大戦の技術的な特質として、兵器の技術革新による破壊力の増大があった。これは石油・電気に象徴される19世紀末の第二次産業革命を背景とするもので、とりわけ米国とドイツがその中心となったため、両国では近代的軍需産業が発達した。それで、大戦は後れて参戦した米国とドイツの新兵器の見本市のような様相をも呈したのだった。その結果が、推定死者数約1000万人(非戦闘員を含む)という人類史上記録的な―続く第二次世界大戦に破られるまでは―大量破壊であった。
 第一次世界大戦がこうした大量破壊を伴う国際資本主義の暴力的再編を促進する一大転換点となったことは明らかであり、実質的にはこれをもって「戦争の世紀」であると同時に「資本主義の世紀」でもある20世紀の始まりと言ってよいのである。

(3)大戦の経過と結果
 大戦が開かれると、本来ドイツ・オーストリアと友の三国同盟側にいながら、オーストリアとの間に領土問題を抱えていたイタリアが、英国などからトリエステなどかねてイタリアが領有権を主張していたいわゆる「未回収のイタリア」の領有を密約されたことで、英国側についてオーストリアに宣戦布告する寝返りがあり、当初は同盟国側に不利とも見えた。
 しかし、連合国側のロシアが連戦連敗し、戦況は同盟国側が優勢ながらも決着はつかず、長期の膠着状態に入った。転機は1917年の米国の参戦とロシアで起きた革命であった。米国はそれまで「中立」を標榜しつつ、連合国側に物資・兵器を提供しており、言わば連合国側の武器庫の役割を果たしていた。
 一方、ロシアのいわゆる10月革命で成立したレーニン率いるボリシェヴィキ政府は「平和に関する布告」を発し、全当事国に即時講和を呼びかける平和攻勢に出るとともに、秘密条約の暴露を約した。これに対抗する形で、18年1月、米国のウィルソン大統領は秘密外交の廃止、海洋の自由、民族自決、軍備縮小などを柱とする14か条の平和原則を発表した。3月にはロシアがブレスト‐リトフスク条約を締結してドイツと単独講和に踏み切り、戦線を離脱した。
 ドイツは戦時中、軍部が政権を掌握し、戦争継続体制をとっていたが、18年秋の大攻勢に失敗した後、同盟側のオスマン・トルコやオーストリアが次々と単独休戦に入ると、軍部は戦争の継続を断念し、議会に政権を移譲した。そうした中、同年11月、海軍の無謀な出撃命令に反旗を翻し、即時講和を求める水兵の反乱が革命に転化し、ドイツ帝政は崩壊した。新共和国政府は直ちに連合国側と休戦協定を結び、ここに大戦はようやく終結したのである。
 1919年、パリ講和会議でヴェルサイユ条約を中心とする一連の条約から成るいわゆるヴェルサイユ体制(以下、「ヴェ体制」と略す)が構築された。この体制は先のウィルソンの14か条を基本的枠組みとしつつ、戦後の新たな国際秩序を画するものであり、その中でも民族自決原則の確認と、国際連盟という新しい国際平和機構の設立は重要な成果であるはずであった。ところが、ヴェ体制には早晩それが骨抜きにならざるを得なかった重大な欠陥がいくつか内在していた。
 その一つはヴェ体制の基調を成すドイツ単独責任論であった。第一次世界大戦は講和・休戦で終了しており、勝敗がはっきりしない戦争であったにもかかわらず、終わってみれば専らドイツが制裁を受ける形となった。ドイツは全植民地を放出させられ、多額の賠償金負担、軍備制限などを科せられた。こうした制裁の内容はドイツ自身が喧伝したほど過大なものではなかったとはいえ、ドイツ国民をアノミーに陥れ、やがて国粋主義からファシズムへ突き進む素地を作った、
 第二は、民族自決原則の不徹底である。元来ウィルソン14か条にも「植民地再配分の調整」という項目が潜り込まされていたように、ヴェ体制は帝国主義と本質的に決別するものではなかった。従って、民族自決原則も、それが正面から適用されたのは、新たに独立が認められた東欧を中心とするヨーロッパ8か国(フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、セルブ・クロアチア・スロヴェーン)に限られ、アジアやアフリカの植民地には適用されなかったのである。
 そのおかげで「勝ち組」となったのが、日本であった。日本は対華21か条でも狙われていたとおり、ドイツが放出させられた中国山東省の権益を承継し、さらにドイツ領南洋諸島を委任統治領として獲得したほか、韓国併合も問題視されることはなかった。
 これに対し、韓国では終戦直後の19年3月1日、民族自決原則の適用を期待して全土的に独立要求運動(3・1運動)が起き、波及的に中国でも同年5月4日、日本の山東権益獲得に対する抗議運動(5・4運動)を引き起こしたが、いずれも大勢を根本的に変えることはできなかった。
 一方、オスマン帝国領に属した中東地域に関しても連合国側は巧妙であった。かれらはまず、大戦開始後、表向きはオスマン帝国領内のアラブ人の独立運動を支援する姿勢を示し、メッカのアラブ人指導者フサインと英国のエジプト高等弁務官マクマホンとの間でアラブ諸国の独立への支援が約された。そうしておいて、連合国側は大戦後に英国がイラクを、フランスがシリアを勢力圏に置き、パレスチナを国際管理下に置く秘密協定を結んだ。
 しかも、英国は17年11月、パレスチナ帰還運動を進めるユダヤ人勢力に対しても、将来パレスチナへのユダヤ人国家樹立を認めるバルフォア宣言を発し、今日まで及ぶパレスチナ紛争の原因を作り出したのである。
 結局、この地域ではイラク・パレスチナが英国の、シリアがフランスの委任統治領とされ、民族自決原則は反故にされてしまった。ただ、フサインのヒジャーズ王国を打倒した有力者イブン・サウードの新体制ヒジャーズ・ナジュド王国は27年、英国から独立を承認された(32年にサウジアラビア王国)。またイラクでは21年にフサインの子ファイサルを王とするイラク王国を成立させた。英国が保護国化していたエジプトも22年の条件付き独立を経て、36年になって正式に独立が認められた。しかし、両王国とも英国の間接支配下に置かれた。
 ヴェ体制の欠陥の第三は、国際連盟組織の不備である。まず連盟生みの親と言うべき米国は条約の批准が上院で否決されたことから、そもそも加盟しなかった。中心国の英仏もしばしば連盟規約順守の意志に欠けていた。常任理事国となった日本や25年のロカルノ条約で加盟が認められ常任理事国となったドイツも30年代には相次いで脱退していく。ロシア革命後のソヴィエト連邦は34年になって加盟が認められたが、39年にはフィンランド侵攻を理由に除名された。
 結局、国際連盟は事実上西ヨーロッパ中心の国際機関の性格を脱することなく、いくつかの紛争予防活動や人道活動を除いてはさしたる成果を上げず、ヴェ体制をなし崩しにしようとするドイツをはじめ、各国が自国の利害をむき出しにしたいわゆる修正主義外交を抑え切れず、ひいては次の第二次世界大戦を抑止することもできなかったのである。  

2012年12月 8日 (土)

老子超解:第十七章 同ずること

十七 同ずること

(第一段削除)
道に従う者は道に同じ、徳に達する者は徳に同ずる。失徳する者は失徳に同ずる。道に同ずる者は道もまた喜んでこれを受け入れ、徳に同ずる者は徳もまた喜んでこれを受け入れ、失徳に同ずる者は失徳もまた喜んでこれを受け入れるのである。
(第三段削除)


 同ずることは、の実践において中心的な概念である。「同化」と言い換えてもよいが、あえて「同ずる」という動詞形で訳出するのは、そこに実践的な意味をにじませてみたいからである。
 その同ずることとは、ひとことで言えば、主観と客観の分裂を超克することである。つまり、として客体的に把握しようとするのでなく、主体もの内へ没入してそれと一体化してしまうのである。この意味でも、客体を主体の内へ回収・併合するニュアンスの強い「同化」という訳語は避けたいのである。
 これは、よりくだけた表現によれば、体で覚える「体得」ということに近い。前に老子の「道徳」は「道得」であると評したゆえんである。逆に、失徳ですら、失徳と同ずるマイナス方向の「体得」なのである。
 こうした主観/客観二元論の超克は、西田幾多郎のキーターム「純粋経験」に通ずるものがあると言えるが、老子の「同ずること」と西田の「純粋経験」の違いについては、いずれ明らかにされるであろう。

 ともあれ、主観/客観の分裂をいとも簡単に乗り超えてしまう老子哲学の特色は、存在論と認識論が明別されないところにある。こうした未分化な哲学は先史時代的思惟への「復帰」を示すところでもあり、そのことがまた神秘思想として解釈されがちなゆえんでもあるが、評者の理解によれば、これぞまさに老子の超形而上学的な特色なのである。
 通行本第二十三章に当たる本章は、そうした老子哲学の真髄に触れる一章である。

2012年12月 7日 (金)

脱第九

 毎年恒例「第九」の季節がまためぐってきた。「第九」自体に年末との必然的な関係はないのに、なぜ日本では「第九」演奏会が12月の恒例行事なのかについては種々解説するサイト等もあるので、そちらへ譲るとして、ここではそろそろ「脱原発」ならぬ「脱第九」できないかを少々考えてみたい。
 「第九」を聴かないと年が越せないというほど「第九」に傾倒しているならともかく、年末にふさわしい合唱音楽は他にいくらもあるだろう。むろんクラシック以外の分野に転じてもよいが、さしあたりクラシックにとどめても、モーツァルトのレクイエムなどはどうだろう。
 ただ、レクイエムの死のモチーフと、必然的にモーツァルトにしては暗い基調の曲は年越しにふさわしくないというならば、すでによく年末に演奏されてきているヘンデルのメサイアはどうか。特にここに収められているハレルヤは、これも理由はよくわからないが、卒業式などでしばしば演奏される曲なので、よく知られているはずである。
 ベートーベンの信奉者からするとやや通俗的な感じがするかもしれないヘンデルは実際、同年生まれのライバル的なバロック大家バッハとは異なり、18世紀当時としては今日のポピュラーに近い音楽―正確に同じではないが―を作った作曲家で、クラシックになじみのない人でも親しみやすい曲が多い。
 しかし、重厚長大にあくまでもこだわるなら、いっそマーラーの「第八」(通称「千人の交響曲」)はいかがであろう。もっとも、これはその巨大編成がネックとなるであろうが。
 いずれにせよ、特定の曲を年末恒例の定番曲にすることはない。そもそも年末の「第九」現象とは、皆が右に倣って一斉に同じ行動をとるという日本的慣習の一環でもあるのではないかと筆者は睨んでいるのだが、そういう画一性は音楽のような芸術には最もそぐわないことである。
 その点では、毎年異なる曲で構成されるNHK紅白歌合戦のほうがまだしも恒例性の中に多様性が確保されていると言えるかもしれない。これは期間限定の流行歌の世界ならではのことなのであろうが、クラシックの側もいくらか見習ってよいのではないか。 

2012年12月 4日 (火)

天皇の誕生(連載第38回)

第八章 「蘇我朝」の五十年

(4)聖徳太子の実像

聖徳太子架空説
 蘇我馬子と言えば正史上必ずコンビで語られるのが、有名な聖徳太子である。『書紀』によると、聖徳太子は用明天皇の皇子で、推古天皇の甥に当たり、かつ女婿でもあることから、推古の皇太子兼摂政として政治の全権を委ねられたとされる。
 しかし、『書紀』の聖徳太子像は、生まれて程なく物を言ったとか、成人してからは一度に十人の訴えを聞き取れたとか、その他現実離れした聖人伝説に満ちている一方、摂政として全権を掌握していたというわりには具体的な実績に乏しく、実在性そのものに疑念が生じても致し方ないところである。
 実際、従来から在野の古代史家を中心に聖徳太子架空説が提起されており、前出の石渡氏もその一人である(同氏は聖徳太子を蘇我馬子及び用明天皇の分身像と解する大胆な説を提唱しているが、ここでは立ち入らない)。近年は、講壇史学の側でも聖徳太子架空説が現れ、論争となっている。
 とはいえ、『書紀』の聖徳太子は一から造作されたものとも思われない。推古天皇‐馬子大臣という『書紀』の筋書きを前提とする限り、女帝の聖人のような義理の息子は、心もとない女帝が全権を委ねる後継者にふさわしいし、馬子にとっても生前親しかったらしい甥の故・用明天皇の子で、仏教にも深く帰依していた聖徳太子は利用しやすい相手であり、好都合であったろう。
 単に伝説性が強いというだけでは、架空と断定することはできない。それは、実在人物のある一面だけを取り出して、何らかの狙いに下に誇張したものかもしれないからである。
 『書紀』の聖徳太子の設定に不自然さがあるとすれば、それは20歳前後の青年が叔母の摂政になったというプロットであろう。これは太子の天才的早熟さを強調するための作為と見られるが、逆に叔母兼義母が年若い甥兼女婿の摂政となったという筋書きのほうがまだもっともらしく見えたであろう。実際、太子がそれほどに早熟の天才的聖人であったならば、「摂政」ではなく、直接に「天皇」に即位してもよかったはずなのである。
 このように、『書紀』の聖徳太子は架空とまでは言い難いとしても、その設定に不自然さがあり、再考すべき余地は十分にある。

蘇我善徳太子
 ここで再び『隋書』の記述に戻ると、同書は600年遣使当時の倭に太子がおり、名づけて「利歌弥多弗利」と呼んだと記す。この「利歌弥多弗利」とは「和歌弥多弗利」(ワカミタフリ)の誤記と見られている。「ワカミタフリ」は後代には皇族の子女全般の尊称となるが、7世紀初頭には大王の太子の意味であったようだ。
 正史・通説とは異なり、この当時の体制を馬子大王・推古女王共治体制ととらえると、この体制の太子とは普通に考えて馬子大王自身の長男ということになろう。
 この点、蘇我氏の公式系図上、馬子の長男は推古天皇の次の舒明天皇時代の大臣として全権を掌握した蘇我蝦夷となっているが、『書紀』には通説上はほとんど無私されている次の注目すべき一節がある。596年11月、いよいよ法興寺が落成し、馬子の息子・善徳臣が寺司(管長)になったという記事である。内容は難しくないので、漢文の読み下し文で引用してみよう。

四年の冬十一月、法興寺を造り竟りぬ。則ち馬子大臣の男善徳臣を以ちて寺司に拝す。是の日、恵慈、恵聡二僧、始めて法興寺に住り。

 ここに「蘇我善徳」という蘇我氏公式系図には現れない馬子の息子が登場する。『書紀』の中でも善徳の名が見えるのは、この記事が唯一である。『書紀』は善徳を「馬子の男(息子)」としか記さないが、『元興寺伽藍縁起』(法興寺の由緒をまとめた書物)では、この善徳を馬子の長子と明記しているので、馬子には公式系図には現れない長男があって、国家プロジェクトとして建立された法興寺の事務方トップに任命されていたのである。
 しかも、『書紀』で同寺の住職となったことが記される二人の僧のうち、恵慈は高句麗出身で聖徳太子の仏教の師であるし、百済出身の恵聡も恵慈とともに仏教を広め、『書紀』で「三宝の棟梁」とまで称賛される高僧であった。
 このように渡来系の高僧らを擁して法興寺のトップに就いたという馬子の長男・善徳こそ、馬子大王体制のワカミタフリ=聖徳太子その人ではなかったかと推定できるのである。言わば「蘇我善徳太子」である。
 そうすると、『書紀』は善徳太子の存在を秘匿したうえ、用明天皇の皇子たる聖徳太子として天皇系譜に編入する一方で、偉大な聖人・聖徳太子を法興寺の寺司にするわけにもいかないので、この寺司人事の記事中でだけ、さりげなく「馬子の息子・善徳臣」として臣下級に格下げして言及しておくという作為を加えたことになるが、これも神武以来の連続的皇統という筋書きに立って「蘇我朝」の成立を秘匿する同書のプランに合わせた苦肉の策であろう。
 なお、聖徳太子を父の用明天皇が可愛がり、宮殿の南の上宮[かみつみや]に住まわせたところから、彼を上宮太子、また彼の一族を上宮王家とも呼ぶということは、「善徳太子」の父・馬子が親しかった甥の用明大王のもとに若い善徳を預けて育成させていた事実の反映かもしれない。
 この善徳太子に関して確実に言えることは、彼が仏法を専門的に学び、仏教に深く帰依していたということぐらいで、それ以外の具体的な政治上の事績は不明である。
 『書紀』では特に十七条憲法の制定を聖徳太子の代表的な事績として挙げているが、元来これを疑う説も強く、結局のところ、馬子大王体制の業績のほぼすべてはまさに馬子大王と共治した推古女王―通説では過小評価されているが―のそれであって、善徳太子は全権を委ねられた「摂政」などではなかったと考えるほかない。
 ただ、蘇我王朝の本格的な樹立をもくろむ馬子大王にとって、善徳太子が期待の星であったことは間違いない。
 この点、昆支朝では従来、太子のことを「大兄」と呼んでいたが、善徳太子が「ワカミタフリ」を号したのは、馬子が新たな王号「アメタラシヒコ」を称したことと同様、新体制ならではの新たな称号を太子にも付与して、新王朝の成立を誇示したものであろう。

2012年12月 3日 (月)

天皇の誕生(連載第37回)

第八章 「蘇我朝」の五十年

(3)蘇我革命体制

蘇我馬子の即位
 蘇我馬子は崇峻大王を傀儡として擁立した時点で、事実上の大王に就いたも同然であった。とりわけ法興寺のような大規模宗教施設の創建は古代国家においては王の権力を象徴する事業であったから、崇峻でなく馬子がこれを主導したということは、同時代人の目にはもはや馬子が大王の座にあるも同然と映ったろう。そしてついに大王暗殺と来れば、いよいよ馬子自身が王位に就くものと誰もが固唾を呑んで見守っていたに違いない。
 しかし、正史は崇峻の次の天皇(大王)を女性の豊御食炊屋姫尊[とよみけかしきやひめのみこと]、すなわち第33代推古天皇に当て、教科書的には彼女が「初の女性天皇」とされてきた。
 この豊御食炊屋姫は欽明と蘇我稲目の娘・堅塩媛との間の娘(諱は額田部皇女)で、馬子にとっては姪に当たる。彼女は初め、異母兄・敏達大王の正妃(後妻)となるが、死別して未亡人となっていた。
 豊御食炊屋姫が馬子派として叔父の謀略にも関与していたことは、馬子が穴穂部皇子らを暗殺した時に彼女が馬子の命令を詔の形式で暗殺実行犯らに伝える大王権限代行者のような役割を果たしたほか、崇峻擁立の際にも群臣らとともに泊瀬部皇子に大王即位を勧める役割を果たしていることから窺える。
 とはいえ、6世紀代の単独女王は百済系の昆支朝にとっては時期尚早で受け入れ難いものであったろう。実際、百済は滅亡まで女王を一人も輩出しなかったし、この点は百済王室と同じく扶余族系国家・高句麗も同様であった(新羅は3人の単独女王を輩出したが、それも7世紀半ば以降のことである)。扶余族は相当に強い男性優位の観念を持っていたと考えられ、このことは倭の昆支朝にもあてはまったはずである。
 そのうえ、「推古女帝」の存在を否定する裏づけとなり得る史料がある。それが『隋書』倭国伝に記された倭の600年遣使記事である。それによると、この時、隋に遣使してきた倭王の姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌と号したという。そして王の妻は雞彌と称し、後宮に女六、七百人があったとも記す。
 ここから直ちにわかることは、600年当時の倭王は妻と数百人の女性を擁する後宮を持つ男性だったということである。600年は『書紀』の編年では推古8年に当たるから、時の倭王は女性だったはずで、『隋書』の記述とは矛盾する。ところが、『書紀』にはこの600年遣隋使のことが全く記録されておらず、初の遣隋使は607年とされていることから、『書紀』が600年遣使の記事を落としたことの意味が問われる。
 この問題については種々の見解があるが、「推古女王」の実在を前提としながら『隋書』の記述との整合性を確保する最も現実的な考えは、中国は元来女王に否定的であり―後の唐代に出た武則天が史上唯一の女帝―、女王名義の遣使では対等な存在として認知されない恐れがあることから―後述するように、この時の倭は隋との「対等外交」を目指していた―、あえて男王名義で遣使したというものである。そうすると『隋書』の記述と矛盾することになるため、『書紀』では600年遣使を隠したと解釈できる。
 これも一つの見解であろうが、先述したように、女王に否定的であるのは当時の倭王権も同様であったという点は見落とせないであろう。であればこそ、『書紀』は「推古天皇」の単独即位を記す一方で、国政は甥で女婿でもある聖徳太子を摂政としてすべて委任したとし、推古を統治しない象徴的女帝に格下げしてしまうのである。ところが、推古紀を見ると、推古自身も相当に国政に関与しており、むしろ聖徳太子の事績のほうが曖昧なくらいであるので、ここには『書紀』の叙述内部に矛盾が認められるのである。
 結局、蘇我馬子は崇峻暗殺後、自らが王位に就いたと推定するほうが簡明で無理なく説明がつく。そういう観点から改めて先の『隋書』の記述をとらえ直したときに注目されるのは、倭王が「阿輩雞彌」[オホ(オ)キミ]と並べて称した「阿毎多利思比孤」[アメタリ(ラ)シヒコ]という称号である。
 隋側ではこれを包括して倭王の姓名と認識したようだが、実際にはアメタラシヒコ(天足彦)という新たな王号と考えられる。これはおそらく、王位簒奪者・馬子が自らの王権を正当化するために、従来からのオオキミ(大王)に加えて、新たに創始した王号であろう。
 ちなみに、タラシの「タラ」とは百済=クダラの「ダラ(タラ)」と同語源で、百済語で邑城を意味するという説によれば、「アメタラシヒコ」とは「天の邑城の日子」といった趣旨の、まさに中国皇帝の「天子」に匹敵するような意味を帯びることになり、ここに対等外交の狙いが強く反映されていると読み取ることもできる。

推古共治女王
 先の『隋書』の記述でもう一つ注目したいのは、王の妻が「雞彌」[キミ]と号するとされる点である。王がオオキミ、王の妻もキミという君号を称したということは、王の妻が単なる王妃ではなく、自身も女王であったことを示唆している。
 ここから、豊御食炊屋姫尊=推古は馬子大王の妻であると同時に、自らも女王であったのではないかとの推定が成り立つ。つまり夫・馬子との共治女王である。もっとも、オオキミとキミという組み合わせからして、夫たるオオキミに対して妻のキミが劣位にあったとすれば、推古は完全に対等な共治女王ではなく、副王のような立場であったかもしれない。
 いずれにせよ、馬子大王としては、露骨な王位簒奪者のイメージを払拭し、形式上は昆支朝との継承関係を担保しつつ、自らの政権の正当性を主張するためにも、偉大な欽明の娘で、かつ蘇我氏の血を引く姪にも当たる豊御食炊屋姫尊との共同統治を必要としていた。 
 そのために、馬子は彼女と結婚したうえで、大王と女王として共同即位したと考えられるのである。この点、古代においては叔父と姪の婚姻は何らタブーではなかったうえに、豊御食炊屋姫尊も異母兄・敏達大王の未亡人として当時は独身であったから、二人の結婚に障害はなかった。
 こうして崇峻大王暗殺後の新体制は、蘇我馬子大王と推古女王夫妻による共同統治体制となったと考えられるのである。従って、これにより昆支大王以来、6代およそ120年にわたって続いてきた昆支朝はひとまず途絶し、実質的な「蘇我朝」が出現したわけである。
 しかし、初代神武天皇以来の連続的皇統という筋書きに立つ『記紀』は、当然にもこの「蘇我朝」の成立を完全に秘匿した。その結果、共治女王たる推古だけが―中国史書や『書紀』自体の叙述とも矛盾を含む形で―単独女帝として提示されることになったのである。

革新的な施策
 馬子大王の政権は、従来の昆支朝の下で推進されてきた領土国家化を土台としながら、いくつもの点で昆支朝が実行することのなかった―できなかった―革新的な施策にも踏み出した一種の革命体制であった。
 その施策とは第一に、仏教を国教化したことである。排仏派の巨頭・物部氏を打倒したことで仏教普及への障害は除去されていたから、馬子政権は596年に落成した法興寺をはじめ、四天王寺、法隆寺など多数の仏教寺院の建立を推進し、百済・高句麗から多くの僧を招聘して、仏教を国の精神的支柱にすえることができた。
 第二に、昆支朝開祖・昆支大王が「武」名義で478年、当時の南朝宋に一度だけ遣使して以来、途絶していた中国外交をおよそ120年ぶりに再開し、589年以来南北朝を統一していた隋との国交を開いたことである。
 ただし、一足先に対隋外交を開き、冊封を受けていた百済とは異なり、冊封を受けない野心的な対等外交を目指したことが革新的な点であった。これは607年の第2回遣隋使に持参させ、時の皇帝・煬帝の不興を買った「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で始まる“無礼な”国書にも如実に示されているところである。こうした冊封によらない対等外交は、蘇我朝が滅んだ後も、古代日本の中国外交の基本方針として定着していく。
 第三に、冠位制度を創始し(冠位十二階)、後の律令制につながる古代官僚制度の基礎を築いたことである。
 従来の昆支朝は百済系であったにもかかわらず、百済式の律令的官僚制度を移入することはなかった。それだけ倭では国より氏に奉仕する氏族制が強固であったためで、官僚制度の導入に消極的であった昆支朝歴代大王はむしろ現実的であったのであるが、馬子政権はこうした後進的な現実を克服し、隋から対等な国家として認知されるためにも、冠位制度の採用に踏み切ったのである。
 この点、『書紀』では冠位十二階の制定を603年とするが、『隋書』では600年遣使の項で十二等級の冠位制度の存在に言及されていることから、冠位制度は600年以前の早い段階で導入済みであったようである。
 ちなみに、蘇我氏に対しては冠位が与えられておらず、蘇我氏への冠位授与は蘇我本宗家を滅亡させたいわゆる「大化の改新」の後であるのは、「改新」以前の蘇我氏が単なる臣下でなく、まさに王家そのものであった事実を暗示している。
 ところで、聖徳太子の自作とされる有名な「十七条憲法」は今日、後世の造作とみなす見解が強いが、内容的には官人に対する執務指針の訓示であるから、冠位制度の制定と合わせて、そうした指針が通達された可能性は十分にあるだろう。
 第四に、初めて歴史書を編纂したことである。この点、『書紀』は推古28年に、聖徳太子と馬子が天皇記・国記、臣・連・伴造・国造などその他多くの部民・公民らの本記を記録したことを記す。要するに国史のほか、大王・豪族の家伝にも及ぶ大規模な編纂事業である。
 馬子大王体制は一種の革命体制であったから、歴史にも手を加え、新しい歴史観の下、体制の正当性と永続性を担保しようとしていたことは想像に難くない。そこで、おそらくは『記紀』に先駆けた史上初の歴史書編纂に着手したものであろう。
 ただし、このうち肝心な天皇記(大王記)は後の「大化の改新」の際、蘇我氏によって焼却されてしまい、国記だけは一人の文書官の手で火中から拾い出されて残ったとされるから、この国記はその後、『記紀』の基礎史料の一つとして参照された可能性はあろう。
 第五に―これには多くの反論が予想されるが―、初めて王都を「ヤマト」と名づけたことである。
 この点については、3世紀代から「ヤマト王権」が成立していたとする近年の多数説からすれば、道断の邪説と非難されるかもしれない。しかし、倭国の王都がヤマトであることが史料的に裏づけられるのは、先の『隋書』における「邪靡堆に都する、すなわち魏志にいわゆる邪馬台なり」という記述が初めてなのである。同時に、これは例の邪馬台国畿内説の初出原典と言ってもよい記述となっている。
 この部分は倭の600年遣隋使から隋側が聴取したところを記録したものに違いなく、要するに当時の馬子政権の公式説明をベースとしているわけである。この点、歴史書編纂にも力を入れた馬子大王のことであるから、おそらく邪馬台国の故事も意識しており、隋との対等外交を目指す狙いからも、「歴史の古さ」をアピールするため、中国側史書にも登場する邪馬台国と畿内王権を直結させたうえ、邪馬台にちなんで王都を「ヤマト」と名づけたのではなかろうか。
 実際、畿内にはヤマトという地名は本来存在しないのであって、このことは例えば『書紀』の神武紀で神武天皇が征服を試みている畿内の原地名に「ヤマト」は見当たらないことからもわかるのである。
 第六に、初めて王宮を朝廷の形式に造営したことである。これは建築史上のみならず、政治史的にも重要な革新であった。
 従来の王宮は単に大王の居館にすぎなかったと見られるが、馬子大王体制にとっての王宮は、隋からの外交使節を迎え入れるためにも、中国風の殿舎を伴った朝廷(朝庭)でなければならなかった。そうした朝庭型王宮の初めてのものが小墾田宮[おはりだのみや]であり、603年に稲目以来蘇我氏の邸宅であったものを王宮として造営し直し、608年には隋の使者を迎えている。
 この小墾田宮は残念ながら未発見であるが、『書紀』の記述から後の朝堂院の原型と言えるような構造をしていたと推定されている。このような本格的王宮の造営は、やがて内政面でも朝廷の制度が整備されていく土台ともなったであろう。
 如上のような革新的な施策を通じて、馬子大王体制は畿内王権を単なる日本列島の閉鎖的領土国家にとどまらない、“ヤマトに都する”自立した外交国家として離陸させることに成功したのであった。

2012年12月 1日 (土)

老子超解:第十六章 水のごとき善

十六 水のごとき善

最高の善は水のごときものである。水は万物によく利益を与え、しかも争わない。そして衆人が嫌う場所(低地)にとどまっている。こうして(水こそは)道に近いのである。
(中段削除)
そもそも争わないからこそ、過ちもないのだ。


 前章の補章的な意義を持つ通行本第八章に当たる本章は、「上善は水のごとし」の有名な一句で始まる。このような水の比喩は老子が好んで用いるところであり、第八章でも水の性質を表現する「和光同塵」の熟語で登場した。老子は水の哲学者でもある。
 水の哲学者と言えば、「万物の根源は水なり」と説いたタレスが思い浮かぶ。タレスは文字どおり水そのものを万物の根源=アルケーとしてとらえたのであったが、老子にあって水はそのもの、あるいは前章で説かれたの作用としての徳―本章では「上善」と言い換えられる―の直喩として使われている。
 本章で新たに登場するキータームは「不争」である。これもまた老子実践哲学の柱であるが、老子はまさに争乱の戦国時代にあって、あえて「不争」を説いた反時代者でもあった。
 要するに水の持つ養分性と淡白さとが、老子的徳の性質に相応するのである。簡にして要を得た本章について、これ以上余分な講釈は要しまい。

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