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2012年12月28日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第21回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第2章 革命家への道

(2)最初の政治活動

労働者階級解放闘争同盟
 レーニンにとって初の本格的な政治活動と呼び得るものは、後にレーニンのボリシェヴィキ派と対立するメンシェヴィキ派の指導者となるユーリー・マルトフ(本名ツェデルバウム)の率いるグループと合体して1895年に結成した労働者階級解放闘争同盟(以下、「闘争同盟」と略す)の活動であった。
 その発端となったのは、同年初め、ペテルブルクのほか四都市のマルクス主義者の代表が集まりマルクス主義運動団体の統一について協議したことであった。その際、ロシア・マルクス主義第一世代の大御所プレハーノフが結成した労働解放団のメンバーに意見を求めるため、メンバーが亡命中のスイスに赴くことになった。労働解放団とは、プレハーノフがマルクスの没年1883年にいち早く結成したロシアにおけるマルクス主義団体の先駆けであった。
 レーニンは95年5月、ペテルブルクの組織代表としてスイスにプレハーノフらを訪問した。外国留学を熱望していた彼にとっては、これが念願の初の外国旅行となった。
 プレハーノフらとの面談では、ロシアにもマルクス主義政党を設立する必要性があるという総論では意見が一致したものの、当時いくつもの小グループに分かれていたロシア国内のマルクス主義運動はまとまりが悪く、帰国後にレーニンらが結成した闘争同盟も政党というには程遠いものであった。
 旧ソ連の公式伝記によると、この団体はレーニンが結成したマルクス主義革命政党の前身とされている。後のボリシェヴィキとメンシェヴキの両指導者がそろい踏みしたからそう言うのであろうが、闘争同盟の実態は政党というよりも労働運動の支援団体に近いものであった。実際、この団体はある労働争議を支援して勝利を収めさせている。

逮捕と流刑・結婚
 闘争同盟はしかし、長続きしなかった。1895年12月、レーニンを含むメンバーの大半が帝政ロシア当局に一斉検挙されたのだ。帝政ロシアの政治反動は、前年即位したばかりの新帝ニコライ2世―23年後、レーニン政権によって銃殺され、最後の皇帝となる運命にあった―の下でも不変であった。
 レーニンは1年以上も未決勾留された末、97年1月、3年の流刑判決を受けてシベリア送りとなった。レーニンに続いて逮捕されていた恋人クループスカヤも翌年、同じく3年の流刑判決を受けたが、レーニンとの結婚を条件に流刑地の変更を許可され、レーニンのもとへ合流、98年7月に二人は結婚した。流刑地での新婚生活であった。
 しかし、二人には政治犯としての名誉ある処遇が与えられ、国から支給される生活費で十分充足した生活を送ることができ、レーニンはここで初の大著『ロシアにおける資本主義の発達』を書き上げたほどであった。
 この点、いわゆる空想的社会主義の思想を奉じるグループで活動して死刑判決を受けた後、恩赦減刑されて1850年代のシベリアで4年間の流刑生活を送った文豪ドストエフスキーの悲惨な流刑監獄体験とは大きな違いがあった。
 後にこの時の体験に基づいて代表作『死の家の記録』を書いたドストエフスキーは、監獄でロシア民衆の強靭な土俗性に触れたことで、ロシア文化の基層的な土壌を重視する保守思想へ転回を遂げ、かえって西欧的な進歩思想・革命思想とは対決するようになったのだった。レーニンの流刑は監獄でなく一般住宅への賄い付き入居という厚遇であったから、ドストエフスキーのような体験はあり得なかった。
 こうした恵まれたシベリア流刑中にレーニンが書き上げた前記著作はナロードニキ理論に反対し、ロシアにおける資本主義の発達可能性を論証する集大成の意味を持つものであった。
 注目されるのは、その中でロシアの農村問題を改めて詳しく取り上げ、当時のロシア農民層が少数の農村ブルジョワジー(富農)と多数の農村プロレタリアート(貧農)とに階級分裂しつつあることを示したことである。これは、後に彼が貧農との同盟を強調するうえでの伏線となるであろう。

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