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2012年11月 8日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第13回)

第1部 カール・マルクス

第4章 革命実践と死 

(6)最後の日々

第一インターの解散
 バクーニン派除名を決議した第一インター1872年ハーグ大会は、総評議会のニューヨーク移転をも決議した。これは第一インターの事実上の終焉を意味していたが、果たして76年のフィラデルフィア大会はインターの正式な解散を決議した。64年の結成からわずか12年での幕切れであった。
 こうして第一インターの短命さは、その後何度か結成し直された労働インターナショナル組織の短命さの先例ともなった。このことはマルクスが重視した国際労働運動の困難さ、特にそのセクト主義的分裂傾向を止揚することの難しさを示すものでもあった。第一インターの失敗は一方で、マルクスの理論がいまだ各国労働運動の間に浸透しておらず、マルクス支持派が十分な勢力を持っていないことも証明した。
 それにつけても、晩年のマルクスが最も力を込めて取り組んだ革命実践が第一インターの活動であったから、その挫折はマルクスに重くのしかかった。振り返れば、若き日の共産主義者同盟の活動以来、マルクスが関わった革命実践の中で長続きしたものは一つもなかった。改めて革命実践の難しさをかみしめつつ、彼は老境に入っていくのである。
 すでに長年の貧困の中で骨身を削るような研究に苦労の多い実践も重ね、マルクスの健康状態は悪化し始めており、長生は望めそうになかった。

最後の経済学研究
 マルクスが最後まで決して歩みを止めようとしなかったのが、経済学研究であった。彼は『資本論』第1巻の続巻の公刊を目指して鋭意草稿を執筆していたが、1870年代からは特にロシア農村の研究に取り組み始めていた。
 マルクスが注目していたのは、ロシア農村(ミール)に残る伝統的な農民の土地共有慣習であった。彼はロシアの知人などを通じてロシアの土地制度に関する公式統計や刊行物を取り寄せて読解を進め、エンゲルスによれば「(『資本論』第3巻の)地代に関する篇では第1部(第1巻)の工業賃労働の所で英国が演じたのと同じ役割をロシアが演ずるはずであった」が、マルクスの健康状態がそれを許さなかったのである。
 それでもマルクスはこの頃、まだ資本主義の発達が遅れていたロシアにおける農民革命の可能性を視野に入れるようになっていた。そうすることによって、彼は当時のロシアに台頭していたミールを土台とする農民社会主義を目指すナロードニキ派の思想に図らずも接近しつつあったのである。実際、マルクスは、ナロードニキ分派に属し、後年ロシア初のマルクス主義政党・社会民主労働者党メンシェヴィキ派に転じた女性活動家ヴェラ・ザスーリチと文通していた。ちなみに彼女は82年に出た『共産党宣言』ロシア語新版の訳者ともなった。
 マルクスとエンゲルスはこのザスーリチ訳『共産党宣言』に寄せた序文の中で、「ロシア革命が西欧におけるプロレタリア革命への合図となり、その結果両者が互いに補い合うならば、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点として役立ち得る」とするロシア革命テーゼを仮定的な形で提出するに至った。
 ただし、マルクスはロシアの土地共有制が政府によって上から解体され消滅する可能性も考慮していた。実際、マルクスの死後、ほどなくしてロシアはその方向に進み、資本主義の急速な発達を見たのであるが、なお農業を主軸とする農業国である現実に変わりはなかった。ロシアのこうした微妙さが、後にマルクス主義の革命家レーニンの特殊な革命戦略「労農革命論」を導き出すことになる。
 マルクスがもう少し長生し、実際にロシア農村研究を完成させていれば、彼のロシア革命論もさらに進展したかもしれないが、それはかなわなかったのである。

失意と死
 もはや衰えを隠せなくなっていたマルクスの心身に最後のとどめを刺したのは、妻と長女の相次ぐ死であった。
 まず1881年12月、長年の私的な同志とも言うべき妻イェニーが肝臓癌のため死去した(享年67歳)。これだけでもマルクスには打撃であったが、続いて83年1月にはフランスの社会主義者シャルル・ロンゲの妻となっていた長女ジェニーが死去。これでマルクスは6人中4人の子に先立たれたことになる。
 こうして失意の底に沈んだマルクスは長女の死から間もない1883年3月14日、ロンドンの自宅で生涯を閉じたのである。享年64歳。死因は妻イェニーと同じ肝臓癌であった。同月17日の埋葬式には、エンゲルスをはじめ約20人の近しい人たちが参列するだけの簡素なものであった。
 エンゲルスは弔辞の中で、マルクスを「現代最大の思想家」と称えたが、実際のところ生前のマルクスは晩年になってようやく知る人ぞ知るという程度のマージナルな存在にすぎず、エンゲルスの賛辞には誇張が含まれている。何よりもおよそ30年の亡命生活を送り、そこに骨も埋めた英国において、彼は影響力を持っていなかった。
 マルクスの死の翌年に結成され、シドニーとベアトリスのウェッブ夫妻を理論的支柱とし、後に議会政治の枠内で大成功を収める英国労働党の前身組織の一つともなったフェビアン協会は、マルクスとは無縁の穏健な改良主義的社会主義の団体であった。
 ところで、ここに面白い偶然が二つある。一つは、マルクスの生没年はロシア農奴制の厳しい批判者でもあった文豪トゥルゲーネフと全く同じであったこと。もう一つはマルクスの没年1883年には、やがて20世紀の資本主義経済学の泰斗となるジョン‐メイナード・ケインズが同じ英国で生誕していることである。後にマルクス理論から離脱していったいわゆる「修正主義者」たちがマルクスに代わってすがるのが、このケインズなのであった。

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