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2012年11月

2012年11月29日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第17回)

第1部 カール・マルクス

第5章 「復活」の時代

(5)正当な再埋葬

flag偶像化と全否定の狭間で
 マルクスは人間として1883年に死んだが、その後「復活」し、“モスクワ教皇庁”となったソ連共産党によって偶像化された末に、なおも生き続けた。
 そのソ連共産党によって指導されたソ連邦はスターリンの下で強盛化し、その後は巨大な官僚制と常備軍に支えられた軍事的覇権国家として、米国とのいわゆる冷戦のライバルの立場で、核軍拡競争に明け暮れていく。そして、発達した「社会主義社会」への到達を謳い上げてから14年後の1991年、ソ連邦はあっけなく解体した。それとともに偶像マルクスも死んだ。彼は二度死んだのである。
 ソ連邦解体後は、資本主義の道を歩み直し始めた新生ロシアを含め、マルクス全否定の風潮が世界的規模で広がった。政体の上ではなおソ連型の共産党独裁体制を維持する中国でも、共産党指導下で事実上資本主義の道を行く路線転換を実現し、公式宣伝の場を除いては、もはやマルクスはお呼びでない。
 こうして今や、マルクスの偶像がバラバラに砕け散って、その破片が散乱している状態であるが、ほとんど誰もそれを顧みようともしない有様である。偶像化から全否定へ。これほど極端な扱いを受けた思想家は、古今東西マルクスをおいてほかにないであろう。
 しかし、マルクスを全否定する者も、彼が『資本論』第1巻の中で端的に示した次のような状況が現代的な形をとって地球的規模で生起してきている事実は、認めざるを得ない。

「工場制度の巨大な突発的拡張可能性とその世界市場への依存性は、必然的に熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生み出し、市場が収縮すれば麻痺状態が現れる。産業生活は中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。機械経営が労働者の就業に、従ってまたその生活状態に与える不確実と不安定は、このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う茶飯事となる。繁栄期を除いて、資本家の間では各自が市場で占める部分をめぐって激烈極まりない闘争が荒れ狂う。その領分の大きさは生産物の安さに比例する。そのために、労働力に取って代わる改良された機械や新たな生産方法の使用における競争が生み出されるほかに、どの循環でも労賃を無理矢理に労働力の価値よりも低く押し下げることによって商品を安くしようとする努力がなされる一時点が必ず現れるのである。」

 今まさに不確実と不安定の只中に置かれた我々は何をなすべきか。まずは散乱したままの偶像マルクスの破片を拾い集めて、彼を正当に再埋葬することである。ここでマルクスの正当な再埋葬とは、偶像化と全否定の狭間にあって、マルクスの「価値」と「反価値」とを総決算したうえで、マルクスを正しく乗り超えていくことと定義しておきたい。

flagマルクスの「価値」
 マルクスは何よりも価値論の理論家であったわけだが、マルクス自身の「価値」とは何であろうか。
 この問いに対する答えは様々であろうが、まず第一に、エンゲルスとともに『共産党宣言』を出した19世紀半ばという早い時期に、資本主義のグローバル化を未来完了的に見通していたことである。その意味で、マルクスはエンゲルスとともに、まさに現代21世紀の出来事の予見者であった。
 一方、主著『資本論』に代表される資本主義の分析を通じて、日常的な意識に上らないような不可視の構造を学理的に析出しようとする方法論を創出した点では、後に人類学の分野で確立された構造主義の先駆者としての価値を持つと言ってよい。
 ただし、すでに指摘したように、彼が資本主義の不可視の構造として析出したと信じた「剰余価値」は学理的なオーバーランによる錯覚であった。けれども、マルクス以降、彼が試みたような資本主義に対する体系的な批判を、マルクスを超えるような仕方で達成し得た者は一人もいないという限りでは、依然として大きな「価値」を保っている。
 さらに共産論の分野では、現実の社会的経済的諸条件を考慮しない―マルクスに言わせれば「空想的」な―共産主義を却下し、共産主義を現実的・科学的なものに練り上げようとした―後述するように、この点は問題含みでもあるが―共産主義の刷新者であった。
 なかでも、「資本主義が発達し切ったところで、共産主義への移行が始まる」という一見逆説的な原則命題は、後世の自称マルクス主義者たちに最も理解されなかった点であるが、このように旧来のものを単純に壊す革命ではなく、旧来のものの胎内に孕まれた新しい要素を解放してやる―言わば「脱構築的」な―革命という考え方は、ポストモダンの脱構築理論の先駆けとしての「価値」を持っていたと読み解くことさえできるように思われる。
 しかし、何と言ってもマルクス最大の「価値」は、在野・無産の知識人を最後まで貫いた彼の生き様そのものにあるのではなかろうか。
 そこには反動的時代状況という制約もあったが、彼は並みの大学教授が決して及ばない学識を持ちながら大学教授のような安定した地位をあえて求めず、なおかつ自ら政党を組織したり、あるいはそれに加入したりして権力の座を追い求めることもせず、まるで中世の托鉢修道士を思わせるような自発的貧困の中にあって、自らプロレタリアートの頭脳となることを期待した理論を提供し続けたのである。
 こんな独異な生き方をした思想家は古今東西マルクスをおいてほかにないと言ってよく、そうした点での彼の希少価値はこれからも決して失われることはないであろう。

flagマルクスの「反価値」
 では、如上のようなマルクスの「価値」に対して、マルクスの「反価値」、言わばバランスシートの負債に相当するものは何であろうか。
 その答えは、マルクスに反対の論者であれば―誤解・曲解も含めて―ほとんど無数に挙がるのであろうが、ここではマルクスを基本的に受容する立場にあっても看過することのできない重要な点に絞ってみていきたい。
 まず、最も重大な問題は、マルクスが想定する共産主義社会の内実とそこへ至る道筋が抽象的なままに終始したことである。「マルクスは未来社会の青写真を描かなかった」と評されるゆえんである。
 もっとも、前に見たように、マルクスは資本主義からプロレタリアート独裁期を経て低次共産主義社会、そして高次共産主義社会へ至る簡単なスケッチを示してはいた。そして、別のところでは共産主義社会の比較的まとまった定義として、「合理的な共同計画に従って意識的に行動する自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合から成る一社会」と総括したこともあった。
 とはいえ、そういう社会を建設するための工程表や設計図をマルクスは残さなかったのも事実である。それは、彼が、先に見たように、空想を排して科学を強調したからである。科学者の役割は現存社会を分析することであって、未来のユートピアを描いてみせることではない。一応そう理由づけることができる。
 しかし、革命という企ては本来、科学よりも建築に近いと言える。革命を企図する以上、設計図を持っていなければ建築技術者たる革命家は仕事にならない。後世のマルクス主義者が置かれた状況は、そういうものであった。いきおい勝手に作った設計図をマルクスのものと称して建物を建てる羽目となった。これではしっかりした建物が立つはずもなく、ソ連をはじめマルクス主義を称した体制は構造計算を誤った欠陥建物のようなものにすぎなかった。
 この設計図なき建築のもととなったマルクスの科学主義は、19世紀後半における自然科学の飛躍的な発展という大状況に対応していることは明らかであるが、自然科学が対象とする自然とは異なり、人間界の制度や慣習を対象とする社会科学では、マルクスも『資本論』第1巻第1版序文で認めていたように、「顕微鏡も化学試薬も役立たない。抽象力がその両方の代わりをしなければならない」。
 そうだとすると、社会科学における「科学」の強調は、抽象的法則性の偏重を生じやすく、それは理論の教条化につながる。そこにエンゲルス以降、マルクス理論の教条化が進んだ要因の根があるとみることができる。
 さらに、彼の無類の論争癖と論争相手を完膚なきまでに論破しなければ気が済まない過剰なまでのポレミカルな性格は、実際、彼の手を離れたマルクス主義にも神学的なポレミクスの性格を与えた。マルクス主義にあっては、他のどの思想体系よりも正統/異端(修正主義)をめぐる論争がことさらに激しく繰り広げられ、マルクス主義を標榜する政党・団体の内部では、時に人命の損失を結果する粛清を伴う激烈な党争も茶飯事となった。
 もちろん、そのすべてをマルクスの責めに帰することはできないが、宗教的思惟とは無縁のはずであったマルクス理論が擬似宗教化を免れなかったことは、マルクスその人の論争スタイルと関連があることも否めない。
 さらに、歴史的な観点からみると、19世紀初頭の西欧に生まれ、同世紀末に西欧で没したマルクスは、典型的に19世紀西欧知識人であった。このことをマルクスの「反価値」と呼ぶのは酷かもしれないが、それはマルクスをほとんど必然的に西欧中心主義に導いた。 彼の活動舞台はほぼ独仏英を中心とした西欧心臓部に限定されており、歴史研究上「アジア的生産様式」に着目したことを別にすれば、アジア・アフリカは視野に収められていなかった。それゆえ、彼のアジア認識は「ロシアを略奪し、焼け野原にしたモンゴル人は、かれらの生産である牧畜にかなった振る舞いをした」(『経済学批判要綱』序説)というレベルのものにとどまったのである。
 実際のところ、モンゴル人は単なる略奪者ではなく、東西交易の強力な保証人にして、帝政ロシアの成立にも少なからず触媒の役割を果たしたのであるが。しかも、皮肉なことに、牧畜の国モンゴルはロシア10月革命後ほどなくして、世界で二番目にマルクス主義を標榜する社会主義国家として歴史に再登場したのであった。
 こうして、マルクスが19世紀西欧知識人であったことはまた、マルクス理論を生産力第一主義から免れ得ないものにした。マルクスが生きていた時代の西欧では、英国を中心に産業革命が進展し、生産力の著しい発展が見られた。彼はその様子を間近で観察しながら思索し、活動していたのである。
 そのため、彼によると、資本主義が発展していけばいずれ資本主義的生産諸関係それ自体が生産諸力の発展の桎梏となるのに対し、プロレタリア革命を経て高次共産主義社会の段階にまで達すれば、「生産諸力も増大し、協同組合的富のすべての源泉がいっそう溢れるほど涌き出るようにな」るはずだったのである。一般的な反共宣伝のマニュアルにおいては、「共産主義社会では生産力は減退し、社会は貧困化する」とされてきたこととは裏腹に、マルクスの説得法は「共産主義社会でこそ生産力は著しく伸びる」だったのである。
 それゆえに・・・・と短絡すべきではないが、ソ連をはじめマルクス主義を標榜した体制(東側陣営)は、生産力の競争において「西側に追いつき、追い越せ」を合言葉に、ひたすら生産力の増強を追求し、環境的持続可能性には無頓着な政策に終始した結果、西側を上回る自然破壊・公害問題を引き起こしたのである。
 今日でも、マルクス主義者は一般に、かれらの論敵である資本主義的成長論者と並んで、環境問題に関する懐疑論派を形成していることが少なくない。
 しかし、ソ連邦解体以降、地球環境問題は最重要の国際的関心事項となった。こうした状況の中では、たしかに我々はもはやマルクスに依存することはできないと言わざるを得ない。マルクスは、歴史の中の人なのである。 (第1部了)

2012年11月27日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第57回)

第7章 略

六 近代中国と近代朝鮮

(1)清の衰亡
 前章でも触れたように、18世紀末以降の清は内憂外患の時代に突入する。内憂の中心は反清運動の激化であったが、外患はヨーロッパ列強による経済支配を伴う領土の侵食である。その両者が相伴うように清に襲いかかってきた。
 最初に外患を持ち込んできたのは英国であった。先述したように、中国茶への銀払いに代えてインド産アヘンを使用するという奇策は成功し、1830年には中国側の入超貿易となり、逆に中国からの銀の大量流出を招いた。結果は、アヘン中毒の蔓延と銀価高騰とであった。
 これへの対策として清朝がアヘン禁輸に踏み切ろうとしたことに対し、1834年にはインドに続いて中国における東インド会社の貿易独占権を廃止し、中国でも貿易自由化を狙っていた英国は1840年、戦争を発動した。結果は英国の勝利に終わり、戦後の南京条約は香港の割譲を含む懲罰的な内容の不平等条約であった。清は同様の条約を米仏とも結ばされたうえ、45年には上海に英国の租界を設定され、領土侵食の決定的なきっかけを与えた。
 さらに、アヘン戦争の続戦とも言える1856年からの英仏とのアロー戦争と戦後の天津条約及び北京条約で、清はいっそうの「開国」を強いられた。
 平行して、極東支配を狙うロシアの攻勢も強まる。ロシアは1858年のアイグン条約で、17世紀末に清と結んだネルチンスク条約を事実上破棄して国境線を拡張し、黒竜江以北を獲得した。さらに1860年にはアロー戦争後に英仏との間を仲介して北京条約を成立させた見返りとして露清北京条約を別途結ばせ、沿海州を獲得し、ウラジオストック軍港を建設、極東進出の新たな基地としたのである。
 こうしてアロー戦争後の中国は欧米列強の餌場と化し、外国製品の輸入による地場産業の破壊に租界の拡大と、列強による侵食は際限がなくなった。
 一方、アヘン禍の拡大や銀価高騰に伴う重税は民衆の生活を圧迫したため、体制への民衆の反感を高め、民衆は結社を組織して抵抗した。中でも科挙試験落第生であった洪秀全が設立した宗教結社・拝上帝会が1851年に起こした太平天国の乱は「滅清興漢」を掲げて漢族のレジスタンス運動の様相を呈し、53年には南京を占領して64年の洪秀全の死を機に鎮圧されるまで10年以上にわたり、南京を中心に事実上の革命自治政府を保持したのであった。
 今度の乱でも清朝正規軍は機能せず、乱の鎮圧に貢献したのはやはり漢人系地主階級の組織した郷勇であった。中でも曽国藩の湘軍や李鴻章の淮軍などである。彼らは太平天国の乱後、功績を認められて中央政界に進出した。そして幼年の同治帝時代に富国強兵を目指して西洋近代技術を取り入れた体制内改革を進める。このいわゆる「洋務運動」の中心にいたのが、前記曽国藩や李鴻章であり、特に後者は朝鮮への内政干渉を強め、同じ狙いを持った日本の明治政府としのぎを削った張本人であった。
 しかし洋務運動は本質的に清朝の延命策であって、真の社会変革を目指す革命運動ではなかった点において、オスマン帝国晩期の「タンジマート」と同様の限界を抱えていた。従って、結局中途半端な結果に終わり、清仏戦争と日清戦争での相次ぐ敗戦を機に挫折していった。
 特に同じように欧米列強の不平等条約下にあった日本に敗れたことは清にとって衝撃であったが、そのことはかえって日本への関心を高めるきっかけとなり、若手知識人の間に日本の明治維新にならってより急進的に西洋近代化を進めて立憲体制を確立しようとする「変法自強運動」を生み出した。この運動は、日清戦争敗北を機に欧米と日本の進出が加速化する中、若い皇帝・光緒帝の心をとらえた。帝は1898年6月、「明定国是の勅令」を発し、運動のリーダー康有為らを起用して改革に乗り出した。
 しかし、この動きに強い警戒心を抱いた体制保守派は同年9月、故・同治帝の生母で宮中に権勢を持っていた西太后を中心に宮廷クーデターで光緒帝を幽閉し、変法自強派を追放した。こうして清朝は西太后を仰ぐ保守派政権の下、再び排外主義に逆行していった。
 そうした逆行を象徴するのが、1900年に始まる義和団事件であった。義和団の前身・義和拳は拳法などの実践を重視する宗教結社で元来白蓮教の流れを汲むため、反清的であったが、地方官憲の工作によって体制支持的な運動に変質させられたことから、一転「扶清滅洋」を叫んで外国公使館を攻囲する挙に出たのだった。
 保守派政権はこの乱に乗じて無謀にも列強に宣戦布告したが、結果は1899年に門戸開放の通牒を発して中国分割競争に割り込んできた米国や日清戦争に勝利して不平等条約を結ばせた日本を含む八か国共同出兵と北京占領であった。そして1901年の北京議定書では巨額賠償金の負担、北京周辺の武装解除、外国軍の北京駐留などの屈辱的な条件で講和させられた。
 この後、政治的に日和見主義であった西太后は光緒帝を復権させ、一転して変法自強派路線の政権を樹立した。新政権は西洋式軍隊(新軍)を創設したほか、大日本帝国憲法をモデルとした憲法大綱を公布し、国会開設まで公約した。しかし、このいわゆる「光緒新政」は変法運動の形をとった体制延命策にすぎず、中途半端なものであったところ、1908年に光緒帝と西太后が相次いで死去すると、またしても改革は頓挫したのであった。後継皇帝は、清朝にとってのみならず中国史上も最後の皇帝となるわずか2歳の宣統帝(溥儀)であった。

(2)辛亥革命
 不完全ながらも上からの近代化が進められた結果、西洋的教養を身につけた青年たちが育ち始めていた清末には、そうした若手知識人らによって革命的結社が多数結成された。その中から、貧農出身ながらハワイで米国式教育を受けるチャンスに恵まれた孫文が台頭する。
 彼は1905年、革命的結社を束ねて、日本の東京で「中国同盟会」を結成した。東京が結成の地となったのは、当時の東京には清から多数の留学生が派遣されてきていたことが大きい。
 中国同盟会は孫文の有名な三民主義(民族独立・民権伸張・民生安定)に基づき、「駆除韃虜」「恢復中華」「創立民国」「平均地権」を四大綱領とし、宗教結社と結びついた従来の前近代的な農民主体の抵抗運動とは異なる近代思想に立ったブルジョワ民主革命を明確に志向した点で画期的であった。
 中国同盟会は当初、やみくもな武装蜂起を繰り返したが、当然にも成功しなかった。革命の機運は別のところから現れた。経済問題である。当時、ようやく育ち始めた自前の民族資本家が外国資本から鉄道を中心に利権を取り戻す利権恢復運動を展開していたところ、1911年、清朝政府が外国からの借款を受ける担保として民営鉄道の国有化を打ち出したことに対する四川省での反対運動が9月、暴動に発展した。これが10月には湖北省武昌の新軍による軍事反乱に飛び火し、新軍指揮官が都督として清朝からの独立を宣言するに至った(武昌起義)。
 これを直接の契機として革命運動が全土に広がり、12月までに17省が独立宣言を発した。同月には革命勢力が南京で孫文を臨時大総統に選出し、翌1912年1月1日、南京を首都にアジア初の共和国・中華民国を樹立した(辛亥革命)。
 これに対して、まだ北京を掌握していた清朝は北洋新軍を指揮する軍閥・袁世凱を内閣総理大臣に任命し全権を委ね、革命鎮圧に当たらせるが、彼は「ミイラ取りがミイラになる」のたとえどおり、中華民国側と取引して、清朝を廃する代わりに自身を臨時大総統に就けるという協定を結んでしまった。これで清朝の命運は尽きた。1912年2月、幼帝・宣統帝が廃位され、清朝はあえなく終焉したのである。
 しかし袁に頼ったことは、清朝にとってと同様、中華民国にとっても誤算であった。この政界遊泳術に長けた裏切り者は三民主義などとはおよそ無縁の軍事独裁者であった。彼は民主勢力を武力で弾圧しつつ、列強と癒着して借款を私物化した。彼はまた、日本が第一次世界大戦中、欧米列強が大戦に注力していた間隙を利用して突きつけた一方的な21か条の侵略的要求事項を大筋で飲みもした。
 袁はこれに先立って、1913年の民主勢力の武装蜂起を粉砕した勢いで帝政復活を宣言したが、これはさすがに列強からも反対され、国内でも武装反乱が相次ぎ、撤回に追い込まれた矢先の16年、病死した。
 袁は死んでも以後、中国では各地に袁のコピーのような地方軍閥が割拠・抗争する戦国時代さながらの無政府状態に陥った。この混乱はやがて孫文の後継者・蒋介石と共産主義指導者・毛沢東という二人の個性が台頭してくるまでは終わらないであろう。こうして近代中国の幕開けは苦いものとなったのである。

(3)朝鮮王朝の終焉
 朝鮮王朝は16世紀、豊臣秀吉の二度にわたった侵攻により大きな打撃を受けたのに引き続き、清の圧迫を受けて17世紀前半以降は清の属国としてその間接支配下に置かれながらも、両班制の下に独自の展開を見せていたが、18世紀末頃から王族や王妃一族が政権を独占する「勢道政治」と呼ばれる一種の専制体制が強まった。これは従来の両班制が体制教義である朱子学の理論闘争と絡めた党争に明け暮れ、政治混乱を引き起こしがちであったことへの反作用であった。
 この反動政治は当時、朝鮮にも浸透し始めていたキリスト教を警戒して思想統制を強めるとともに、厳しい鎖国政策を導くこととなった。そのため、従来朝鮮王朝が徳川幕府に送ってきていた使節・朝鮮通信使も、1811年を最後に途絶えてしまうのである。
 一方、朝鮮でも商品経済の発達に伴い、農民の階層分化が進む中、両班制も変質し、勢道政治に食い込んで地方官職を得、党争より収奪・蓄財に走る者も増加していった。
 こうした中で「民乱」と呼ばれる農民反乱が続発するようになる点は、同時代の清や日本とも似る。特に1811‐12年の平安道農民反乱は民乱の時代の始まりを画する大規模な反乱であり、まだこれを粉砕するだけの実力を保持していた王朝にも衝撃を与えた。
 このような民乱と平行して、1840年代からは朝鮮近海にも開国要求を携えた外国船の来航が相次ぎ、日本開国後の1860年代からは特に活発化してきた。そこへまた慶尚道晋州の民乱を引き金として全国に広がった壬戌民乱(1862)も重なるという緊迫の中、1863年に幼少で即位した朝鮮王朝最後の高宗王に代わり、その実父が興宣大院君を号して実権を掌握する。
 王族ながら長く勢道政治の外にあった大院君は政権を掌握するとまず勢道派を一掃し、中下級官吏や中間商人層を積極登用する一種のブルジョワ政治改革を上から断行する一方で、列強の侵入には武力で対抗した。その過程で外国船を打ち払う事件がたびたび発生した。同時に、日本の明治政府からの条約締結交渉をも拒否した。
 しかし、1873年、本来は勢道政治一掃のために非主流的な閔氏から入内した閔妃を中心とする勢力が大院君から権力を奪取し、閔氏政権を樹立する。この新政権が対日妥協的であったことが、76年の江華条約(日朝修好条規)の締結に結びついたことは先に述べた。
 閔氏政権は当初、対外的には日本に追随する一方で、対内的には大院君の改革を否定し、両班地主中心の政治へ戻す反動的な性格を持っていた。これに対して、不平等条約に規定された日本への「開国」によって生活を圧迫された都市貧困層の支持を背景に、俸禄遅配問題を抱えていた新式(西洋式)軍隊の下級兵士たちがクーデターを起こし、大院君を復権させたのが82年の壬午軍乱であった。しかし一か月後、清が介入し、閔氏政権を復旧して大院君を拉致したのであった。
 この一件以降、閔氏政権は借りを作った清に接近し、いわゆる「事大党」を形成するようになる。これに対して日本と連携しながら日本の明治維新をモデルとした近代化を推進しようとする金玉均らは「独立党」を形成し、84年にクーデターを断行したが(甲申事変)、これもわずか三日で清軍に転覆され、またも閔氏政権が復旧された。
 この後、甲午農民運動から日韓併合までの経緯については、前節で日本の帝国主義化に絡めて述べたところ以上に詳述することはしない。結局、朝鮮王朝は19世紀末以降、日本と清の競争的介入の舞台とされ、自主的な変革ないし革命のチャンスを阻害された結果、1910年から35年間続く日本の植民地支配下での独立闘争に時間を費やさねばならなかった。
 これは、朝鮮にとって、中国とはまた違った意味で苦い近代の幕開けであった。その代わり、朝鮮民衆は対日独立闘争を通じて近代精神を獲得していく。この点は、権力主導で上から近代精神が政策的・選択的に注入された日本との大きな歴史的相違であり、そのことは現代でも両国の国民性の差異として現れているように見える。

世界歴史鳥瞰(連載第56回)

第7章 略

五 幕藩体制から大日本帝国へ(続き)

(3)帝国主義への合流〈1〉
 明治維新は対内的な近代国家建設にとどまらず、対外的に近代日本が同時代の欧米列強の後を追って帝国主義に合流する契機ともなった。その合流過程は幕末の不平等条約の改正交渉と平行して、朝鮮への干渉・支配を強化していく中で進行していった。
 そのプロセスは、おおよそ三期に分けることができる。第一期は明治初期にいわゆる征韓論が提起された頃から朝鮮王朝との間で不平等条約の性質を持つ日朝修好条規を締結した1876年まで、第二期は同条規をテコに朝鮮への干渉を強めつつ、憲法制定をはさんで日清戦争に勝利するまで、第三期は日清戦争後、日本にとって初の国際同盟となる日英同盟を経て日露戦争にも勝利して、いよいよ本格的に帝国主義に合流していく時期である。
 第一期は帝国主義合流への前段階と言うべきもので、この時期には日本自身がまだ列強から不平等条約によって押さえ込まれており、条約改正交渉にも失敗した。従って、当初の征韓論も不平士族対策という消極的観点からのもので、それを却下した内治優先派も結局は新政府に対する批判をかわす狙いから江華島事件のような軍事的圧力の下に朝鮮に不平等条約を締結させるに至るのである。同じことは、これに先立って行われた台湾出兵(1872)にもあてはまる。
 清の間接統治下で鎖国していた朝鮮にはかねて欧米列強が開国圧力をかけていたが、かれらの主要な関心は清のほうにさかれていたことに加え、当時の朝鮮では王妃・閔妃の一族を中心とする閔氏政権が親日的な態度をとっていたことも幸いし、さしあたり日本がいち早く不平等条約の締結によって朝鮮を囲い込むことに成功したのであった。
 こうして朝鮮半島に足場を得た日本は帝国主義への合流に向けた第二期へ入っていくが、この時期は長い準備期間、言わば帝国主義の予行演習の期間であり、その最初の演習場が朝鮮半島であった。
 先にも述べたように、この時期の日本は無関税条項や居留地内での日本通貨通用条項まで含み、日本が欧米列強から強制されていた条約以上の不平等な内容を持つ日朝修好条規をテコとしながら、朝鮮を初期資本主義の原始蓄積の道具として有効に活用することができた。といっても、当初は没落士族などを居留地商人として送り込んで英国産綿布の中継貿易で利潤を上げることが中心であったが、朝鮮産の金が安価に日本に流入してきたことは後年、日本における金本位制確立の基礎となった。
 しかし、こうした日本の朝鮮進出は形式上朝鮮の宗主国であった清との利害対立を引き起こさないわけにいかなかった。清は1880年代に入り、朝鮮内部の閔氏派と反閔氏派のクーデター合戦に積極的な軍事介入を始める。日本も1882年に日本公使館が閔氏派の朝鮮軍兵士に襲撃された壬午軍乱後の済物浦条約で駐兵権を獲得していたが、84年に親日派が日本の支援で起こしたクーデターが清の軍事介入で鎮圧された甲申事変後の85年に日清間で締結された天津条約では、両国の朝鮮からの共同撤兵と出兵時の事前通告などが約された。
 こうした清も巻き込んでの朝鮮介入の一方で、日本自身の不平等条約改正交渉は進まず、鹿鳴館での外国人接待のような濫費に走っていたのであった。
 天津条約後は朝鮮に対する清の内政干渉が激しくなる一方、日本の朝鮮進出も強化されていく。特に朝鮮からの米・大豆の日本輸出が大量化し、朝鮮民衆の生活を圧迫したため、朝鮮地方当局が米穀の輸出を禁ずる防穀令を出したことに対し、日本政府は圧力をかけて朝鮮政府から賠償金を獲得した。
 こうした中で宗教結社の東学教団に結集した農民らが1894年、指導者全琫準に率いられて決起すると、当初は地方官の横暴に抗議することが目的であった農民反乱が「逐洋斥倭」を掲げる民族主義的な大反乱に転化していった。この甲午農民運動が革命に発展する様相を呈すると、朝鮮政府は清に援軍を求めた。一方、日本も独断で出兵し、清に共同での反乱鎮圧と朝鮮の内政改革を持ちかけて拒否されたのを機に、清に奇襲攻撃をしかけ、本格的な戦争となった。
 この日清戦争は朝鮮を主戦場に日清両国が交戦するという異常なものであったが、結果は軍備の近代化で上回る日本の勝利であった。同時に農民反乱軍も日本軍によって撃滅された。
 反乱軍は日本が侵攻してきた後、朝鮮政府と停戦協定を結び、地方に一種の自治組織を設置するなど、甲午農民運動には農民革命的な側面も見られたが、結局は日本のために粉砕されたのであった。

(4)帝国主義への合流〈2〉
 日清戦争に勝利した日本は、1895年の下関条約で清の朝鮮に対する宗主権を放棄させたうえ、多額の賠償金とともに台湾などの領土を獲得した。しかし、いったん獲得した遼東半島については、この地域への進出を狙うロシアがフランス・ドイツを誘って干渉し、清に返還させた。とはいえ、台湾は実質上、日本初の海外植民地として総督府が置かれ、日本の植民地支配の先例となった。
 また下関条約で、日本が欧米列強に先駆けて、清の開港場における企業経営権などの資本輸出の権利を得たことは、欧米列強の中国進出をいっそう促進する契機となった。日本自身も、96年には不平等条約の性格を持つ日清通商航海条約を改めて結び、朝鮮に続いて清にも経済進出する手がかりを得たのである。
 ところが、戦勝した1895年、日清戦争後における日本の強硬な朝鮮政策を閔妃が妨害しているかのように邪推した日本公使らの独断専行によるとされる閔妃虐殺事件が発生し、朝鮮内外の強い非難を浴びた。かつて対日妥協的な態度で国内的には批判も強かった閔妃は死後「国母」に祭り上げられ、民衆は義兵闘争(レジスタンス)で日本に抵抗を始めた。
 この後、しばらく日本の朝鮮政策は手詰まりに陥る。代わって前面に出てきたのは、極東支配を狙うロシアであった。朝鮮王朝も1897年、国号を「大韓帝国」と改め、独立国家としての矜持を回復しようとした。
 ともあれ、日清戦争の勝利は、その直前1894年の日英通商航海条約を皮切りに、欧米各国との不平等条約の解消にほぼ成功した―ただし、関税自主権の完全な回復は1911年まで持ち越される―ことと合わせ、日本が欧米列強とほぼ対等に帝国主義へ合流していく第三期の突破口となったのだった。
 そのことを象徴する第一の出来事が1899年、清で「扶清滅洋」を掲げる宗教結社・義和団が北京の各国大使館を攻囲した義和団事件に際して露独墺英仏伊米の列強七か国とともに共同出兵し鎮圧に当たったことである。この七強は当時の主要な帝国主義国家であり、日本もこの中に連なる“栄誉”を得た恰好となったのだ。しかも、八か国連合軍兵力の過半を日本が提供したのである。
 次いで1902年の日英同盟である。この同盟は従来、帝国主義筆頭国として「栄光の孤立」を保ってきた英国にとっても一大政策転換となる同盟であるとともに、日本にとっては帝国主義筆頭の大英帝国から同盟相手として認知されたことを意味していた。この一見奇妙な東西二国間同盟が成立した背景には、義和団事件に際し中国東北地方に大軍を送り込み、その後も撤退せず極東支配の強化を狙うロシアに対する日英の警戒心が一致したことがあった。
 この日英同盟の結果として、やはりロシアを警戒する米国の支持の下、日本は1904年、ついにロシアと開戦する。日本軍は苦戦の末、ロシア軍を次々と撃破したものの、戦争遂行能力が限界に達したところへ、1905年にロシア側で革命(第一次ロシア革命)が勃発したことを契機に、米国の仲介で早期の講和が成立した。
 その結果、日本は朝鮮半島における優越的地位を認められたほか、遼東半島南部の租借権と満州利権、南樺太の領有権をも獲得した。特に日本の朝鮮半島における優越的地位は、第二次日英同盟や日仏協約、米国との桂‐タフト協定によっても保証され、国際的にも確固としたものとなった。
 この間、日本は1907年まで三次にわたる日韓協約を通じて韓国に対する支配を着々と強め、1907年には韓国皇帝を退位させ、内政権を掌握した。08年には国策会社・東洋拓殖株式会社を設立して本格植民を開始し、10年に日韓併合を完成させたのである。
 これに対し、朝鮮民衆は閔妃虐殺事件後にも増して強力な義兵闘争で抵抗したが、日本はこれを徹底的に武力鎮圧した。09年の民族主義者・安重根による伊藤博文暗殺事件も、翌年の併合を阻止する力とはならなかった。
 一方、満州方面でも1906年には実質的な植民統治機関・関東都督府の設置、国策会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)の設立と、満州支配の主要機関が早くも出揃う。そして、日露戦争後極東戦略を見直したロシアとは急接近し、1916年まで四次にわたる日露協約で満州、モンゴル方面の両国勢力圏の分割を取り決めたのである。
 1911年には米国を皮切りに関税自主権の回復も完了し、日本はアジア初の近代帝国主義国家として、来たる第一次世界大戦にも参戦していくことになるのであった。

2012年11月24日 (土)

マルクス/レーニン小伝(連載第16回)

第1部 カール・マルクス

第5章 「復活」の時代

(4)ソ連体制とマルクス

flag共産党独裁体制
 レーニンを権力の座に就けたロシア10革命の結果登場したのは、ボリシェヴィキ改めロシア共産党(後にソ連邦共産党と改称)による一党独裁体制という怪物であった。
 この体制がマルクス主義を体制教義としたことで、共産党独裁がマルクスの提唱したプロレタリアート独裁(以下、原則として「プロ独」と略す)の具現化であるかのように錯覚されてきたが、このような錯覚はまさにソ連体制が内外の人々をそう信じ込ませようとした宣伝の結果でもある。
 この点、レーニンがカウツキーを「背教者」呼ばわりするきっかけとなった論争は、レーニンのプロレタリアート独裁論をめぐるものであった。レーニンは当初、10月革命を下支えする原動力となったソヴィエト(労働者‐兵士評議会)への全権集中をもってプロ独とみなしていたが、カウツキーは議会主義者としてこのようなレーニンの所論を非民主的と批判したのである。
 これに対するレーニンの反論はプロ独と民主主義を二律背反的にとらえるのは誤りで、プロ独とはプロレタリアにとって最高の民主主義の形態であるというものであった。
 しかし、ここにすでにマルクス理論からの離反が認められる。たしかにマルクスはパリ・コミューンに対する性格づけとしてプロ独という概念を導いたので、彼がこれを反民主的と認識していたはずはない。
 とはいえ、前にも指摘したとおり、マルクスにとってプロ独とは資本主義社会から共産主義社会へ至る過渡期の国家形態にすぎず、しかもその「独裁」とは反革命反動に対する防御的独裁であって、積極的な独裁ではなかった。ところが、レーニンの場合、プロ独の過渡的・防御的性格に対する認識が希薄であり、将来における「国家の死滅」―これもすでに指摘したとおり、マルクスは「国家の死滅」ではなく、政治国家から経済国家への転換を説いたのであるが―が抽象的に予示されはするものの、プロ独が積極的な国家形態として把握されているのである。
 こうした把握の仕方が、やがてレーニンとボリシェヴィキの権力掌握後にはソヴィエトの骨抜きとボリシェヴィキ改め共産党の一党独裁という特異な政治体制への転化を結果したのである。この体制が「ソヴィエト連邦」を名乗るようになったのはレッテル詐欺と言うべきもので、ここでの「ソヴィエト」は10月革命時のソヴィエトとは似て非なるものであった。それは共産党の決定を追認するだけの名目的な会議体と化していたのだ。
 さらに言えば、マルクスのプロ独はまさにパリ・コミューンのようなコミューン(自治体)を基礎として、複選制代議機関を通じて中央政府には最小限度の機能だけが残されるような非中央集権型「独裁」であったのであるが、レーニンにはこのような視座は欠落しており、共産党独裁体制はボリシェヴィキの中央集権型組織をそのまま国家体制に平行移動させた巨大な中央集権国家として立ち現れた。
 こうしたマルクス理論とはかけ離れた体制のあり方について、ローザ・ルクセンブルクは端的に「たしかに独裁ではあるが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治屋たちの独裁、つまりブルジョワ的な意味での独裁である」と切り捨てた。また、遠く日本から固唾を呑んでロシア革命の行方を注視していたアナーキスト・大杉栄も「真相はだんだんに知れてきた。労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも有力な反革命的要素であることすらがわかった」と書き付けたのである。
 このレーニン的な意味におけるプロレタリアート独裁国家は、10月革命から60年後の1977年に制定された新憲法前文によると、「ソヴィエト国家はプロレタリアート独裁の任務を果たし終え、全人民国家となった。全人民の前衛たる共産党の指導的役割が大きくなった。」とマルクスが仰天しかねない地点へ到達したのだった。
 マルクスの場合、プロ独を終了した後のプロレタリアートは「階級としての自分自身の支配を廃止する」。そして、その後直接に共産主義社会へ移行していくのであり、プロ独が終わった後になおも「全人民国家」であるとか、「全人民の前衛たる共産党」などがグズグズと残留する余地はない。
 こうして、ソ連体制はマルクスの名においてマルクスとは無縁の森へ迷い込んでいく。そして、共産党の前衛的指導性を高らかに謳い上げた新憲法の制定からわずか14年後に、ソ連体制は終焉したのである。

flag国家社会主義
 レーニンは経済政策の面では「統制経済から社会主義へ」という構想を抱いており、第一次世界大戦中の総力戦における統制経済を社会主義体制へ転化させることができると信じたのである。彼はこの信念に基づき、内戦の間、いわゆる「戦時共産主義」と称する統制経済政策を施行し、特に工業生産の国家的集中(国有化)を推進していった。
 しかし、この「戦時共産主義」はその中の最も問題含みのプログラムであった食糧の強制的な割当徴発制が農民層の強い反発を呼び、農民反乱を引き起こしたことから、レーニン政権は内戦終結後、事実上資本主義を復活させる新経済政策(NEP:ネップ)に転換する。
 ただ、これは農民慰撫と経済復興を兼ねた技術的・一時的な政策転換にすぎず、レーニンの真意が生産手段の全般的な国有化にあったことは間違いない。このような国有化政策は、マルクス(及びエンゲルス)も『共産党宣言』の中で提言していたところであるから、この点に関してレーニンはマルクスに忠実であるように見える。
 しかし、レーニンにあっては統制経済と計画経済とが十分に識別されていない。マルクスが想定していたのは、パリ・コミューンの敗因分析に関連づけて言われていたように、「協同組合連合会が共同計画に従って全国的生産を調整し、そのうえでそれをかれら自身の管理下に置」くような計画経済システムであった。つまり、ここでは生産企業である協同組合が連合して自主的に「共同計画」を策定・実施するような体制が予定されているのである。
 ところが、レーニン存命中の1921年に創設され、後継者スターリンの下で本格始動した国家計画委員会(ゴスプラン)は行政機関であり、ここでの「計画」とは官僚の手による国家主導のプランにほかならず、その本質は統制経済である(行政指令経済)。ただ、民間経済を国家が政策的に統制するにとどまらず、一応生産手段の国有化が実現する限りではこれを「社会主義」と呼んでも誤りではなかろうが、それは国家中心の社会主義=国家社会主義であった。
 もっとも、マルクスも資本主義社会から共産主義社会へ移行する過渡期の段階―国家論としてはプロレタリアート独裁に相当する―としては、資本を国家にいったんは集中する国家社会主義体制を想定していたと解し得るかもしれない。
 この点、先の77年ソ連憲法前文は当時のソ連社会の発展段階を「発達した社会主義社会」と規定しつつ、それは「共産主義への道における法則にかなった段階である」とも規定していた。しかし、マルクスに「発達した社会主義」と「共産主義」の段階的区別は存在しない。よって、憲法前文の言う「法則」とは、少なくともマルクス自身の法則ではない。
 結局、ソ連では、マルクスにおいてはせいぜい過渡期の段階にすぎない国家社会主義が遷延し、定在化してしまったのだと考えざるを得ない。「共産主義への道」はすでに空文句と化して久しかったのである。
 ちなみにマルクスより2年先に没したロシアの文豪ドストエフスキーは、問題作『地下室の手記』の中で一人称の主人公にこんなことを言わせている。「人間は何かを達成するプロセスは好きなくせに、目的を達成してしまうことはあまり好まないときている」。ソ連体制はマルクスよりも地下室の主人公の「法則」のほうにかなっていたのではなかろうか。

flag“モスクワ教皇”スターリン
 レーニンが病気のため10月革命のわずか7年後に世を去ると、後を継いだのは晩年のレーニンから「粗暴」と懸念されたグルジア人のスターリン(本名ジュガシビリ)であった。
 スターリンはレーニン存命中から党書記長として台頭していたが、当時の書記長職はせいぜい事務局長といったところで、スターリンは党の実務責任者として「豪腕」を発揮し始めていた。レーニンはスターリンの解任を検討していたが、実現しないまま没した。
 スターリンは十分な知的素養を欠く党専従活動家であり、後のソ連社会で支配層を成す党内官僚の第一世代であった。当然マルクス理論に対する彼の理解度はレーニンにも遠く及ばなかった。彼の得意分野は理論闘争よりも権力闘争にあった。その正反対のキャラクターであったライバルのトロツキー(本名ブロンシュテイン)を退けたスターリンはあっという間に党内権力を確立、以後第二次世界大戦をまたいで1953年に死去するまで、マルクスとは似ても似つかない個人崇拝的な独裁体制を保持したのである。
 レーニンと異なり、理論面では何ら独創性も深味もなかったスターリンは、マルクスとレーニンの異質な理論を教条的につなぎ合わせて「マルクス=レーニン主義」なる体制教義を作り上げ、これをマルクス主義の正統/異端を分ける教理問答集に形骸化させた。そのうえで党組織の官僚化を完成させ、ソ連共産党をマルクス主義の教皇庁に仕上げたのである。こうしてスターリンはいよいよ擬似宗教の度を高めたマルクス主義の言わば初代“モスクワ教皇”の座に就いたのだ。
 レーニンとスターリンの関係については、「レーニンの正しい理論と路線を粗暴な独裁者スターリンが歪めてしまったためにソ連体制は失敗に終わった」とする理解が根強く残る。こうした理解がどこまで妥当であるのかについては、第2部で改めて検証するとして、マルクスとの関係で言えば、マルクス=レーニン主義なる体制教義はマルクスその人とは全く無関係であると断じてよい。
 実際、本当にマルクスが「復活」してマルクス=レーニン主義に接すれば、それは自らとは何ら関係ないとして、あの「ゴータ綱領批判」のような手厳しい批判論文を書き、自らの名を削除するよう求めたに違いないようなシロモノなのである。
 もっとも、マルクス=レーニン主義とマルクスとの乖離は、すでに概観してきたように、レーニンによるマルクス理論からの離反によって生じていたことの延長ではあるが、それにしてもスターリン治下でのマルクス主義の教理問答化は、後に明るみに出る大量粛清などの組織的人権侵害に象徴される「スターリン主義」までマルクスの責任に帰するような「冤罪」にマルクスを巻き込むことになったのは確かである。
 そういう点で、レーニンの後継者にスターリンという特異な人物が座ったことは、そもそもロシア10月革命がマルクスからの離反者レーニンの指導でマルクスの名において実行されたことに続き、マルクスにとって二重の不幸であった。
 それではスターリンの代わりにトロツキーが就任していればより良かったのかと言えば決してそうではない。しかし、この問題もそれを論ずるにふさわしい第2部に譲ることにしたい。

2012年11月23日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第15回)

第1部 カール・マルクス

第5章 「復活」の時代

(3)ロシア革命とマルクス

flagロシア10月革命
 レーニンの「力への意志」は実際にレーニンを権力の座に導いた。その動因となったのが、あまりに有名な1917年のロシア10月革命であったことは言うを待たない。革命の詳しい経緯については第2部に譲るが、レーニンの指導の下、マルクス主義の名において実行された史上初の革命が果たしてマルクスその人とどう関わるのかをここで先取りして見ておきたい。
 いきなり結論からいけば、全く関係なしと断じて過言でない。すなわちロシア10月革命は徹頭徹尾「レーニンの革命」であった。それはしばしば誤解されてきたようなプロレタリア革命ではなかったのである。
 プロレタリア革命は、マルクスがバクーニン批判の文脈の中で端的に述べているように、「資本主義的生産とともに工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆の中で相当な地位を占めるようになった時にはじめて可能」なものである。これに対して下層階級による一揆的な革命を説くバクーニンは、マルクスからすれば「彼は社会革命について全く何もわかっていない。あるのはそれについての政治的空語だけだ。社会革命の経済的諸条件は、彼にとって存在しない」ということになる。
 レーニンとボリシェヴィキの10月革命はもちろんバクーニン的な一揆ではなかったけれども、それは当時のロシアではまだ「工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆の中で相当な地位を占める」ようになってはいない状況の下で敢行された「早まった革命」であった。10月革命はマルクスのプロレタリア革命論ではなく、レーニンの労農革命論に基づいていたのである。
 この点では、10月革命に反対したメンシェヴィキのほうがマルクスの理論により忠実であった。ユーリー・マルトフが指導し、マルクスと文通していたザスーリチや後にプレハーノフも参加したメンシェヴィキは、ブルジョワ革命の性格を持った2月革命によって誕生した臨時政府を支持し、まずはブルジョワ革命の完成と資本主義の発達を先行させるべきことを主張した。かれらは、ロシアにはまだプロレタリア革命の条件―マルクスの言う社会革命の経済的諸条件―は整っていないことを正しく認識していたからである。
 10月革命に引き続いて勃発した内戦をすべてレーニンの責任に帰するのは公平でなかろうが、マルクスが目撃したパリ・コミューンもそうであったように、革命後に巨大な反革命反動が襲いかかるのは、遡って革命の条件が熟していなかったことの証しである。
 だが、レーニンの「偉大さ」はパリ・コミューンを教訓としつつ、困難な内戦を乗り切り、自身と党の権力を守り抜いた統治能力の高さにあった。この点では、後にも先にもレーニンに匹敵する革命家はいないであろう―強いて匹敵する者を見出すとすれば、キューバ革命の指導者フィデル・カストロかもしれない―。
 こうして本来はマルクス理論に反するロシア10月革命の成功によって、マルクス主義が初めて国家の体制教義に祭り上げられることになった。マルクスの死からわずか34年。これはナザレのイエスの死からローマ帝国によるキリスト教国教化まで4世紀近くを要したのと比べても圧倒的に早い。しかし実像と大きくずれた形でのマルクスの体制受容は、その偶像化をもたらすはずであった。

flagドイツ11月革命の挫折
 ここでロシア10月革命と対比しておきたいのが、ロシア革命に引き続く波及現象として翌1918年11月、マルクスの祖国ドイツでも帝政を崩壊させたドイツ11月革命である。帝政が崩壊するまでの経緯はロシア2月革命と類似するが、その後の展開はロシアの場合とは好対照なものとなった。
 ドイツでは、前述のように一応マルクス主義的綱領を持つドイツ社民党が議会政治の枠内で順調な発展を続け、1912年の総選挙では100を超える議席を獲得して比較第一党の座に就くまでになった。そういう状況の下でのドイツ革命によって成立した臨時政府は社民党政権そのものであった。しかし、この頃の社民党内ではすでにベルンシュタイン流の離脱主義が党内の大勢を制していたため、この臨時政府の施策にはもはやマルクス的なものは何もなかった。
 こうした党の保守化に不服のローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトら党内左派は分裂してドイツ共産党を結成し、革命の一層の進展を求めて街頭闘争に入った。この党の指針はローザの理論に沿っていたが、彼女はレーニンの革命前衛理論に対しては批判的で、党が革命行動を先導するのではなく、労働者大衆のゼネストを通じた自然発生的な革命行動を期待するという消極的な立場をとっていた。
 その点では、マルクスの革命後衛理論に近いとも言えたが、ローザ理論はマルクスが共産主義者に求めた「断固たる推進力」や「洞察力」を軽視し、大衆の自発性への楽観的すぎる信奉に陥っていた限りでは、マルクス理論に対するある種神秘主義的な逸脱を示していた。そのうえ、ローザの場合も社会革命の経済的諸条件に関する認識は十分と言えなかった。
 共産党が肝心の労働者大衆に間にほとんど浸透しない中、社民党右派フリードリヒ・エーベルト率いる臨時政府は共産党に対する武力弾圧に乗り出し、「義勇軍」のような反動的民兵組織をも動員してルクセンブルクやリープクネヒトらを超法規的に処刑する―事実上の虐殺―に至る。
 こうしてドイツ11月革命はマルクス主義政党であるはずの社民党によってプロレタリア革命への進展が暴力的に阻止された末、結局ブルジョワ革命の線で収束した。その結果として、当時としては世界で最も先進的なブルジョワ憲法(ワイマール憲法)を持つ民主共和制(ワイマール体制)が樹立され、初代大統領にエーベルトが就いた。
 けれども、自らの血塗られた手でプロレタリア革命を阻止した社民党はワイマール体制の下、いよいよ離脱主義の度を深め、実質上はプチ・ブルジョワ政党に変質していった。
 こうしてマルクス主義政党社民党の保守化・反共路線によって始まったワイマール体制は、マルクスには思いもよらないナチズムの種子を播き、やがてドイツ国民はその苦い果実を味わうことになるのである。

2012年11月20日 (火)

天皇の誕生(連載第36回)

第八章 「蘇我朝」の五十年

(2)昆支朝の斜陽化

文人大王・敏達
 欽明=獲加多支鹵大王は40年に及ぶ長期治世の後、571年に死去した。後継者は渟中倉太珠敷皇子[ぬなくらのふとたましきのみこ]で、正史上の第30代敏達天皇である(当時、天皇号はまだなかったので、以下では便宜上「敏達大王」または単に「敏達」と表記する)。
 敏達大王は『書紀』の人物評にも「文章や史学を愛した」とあるように、武人だった父とは異なり、文人タイプであった。このような新しいタイプの大王の出現も、ようやく父王代に始まった文字記録の普及と大いに関係しているであろう。
 ただ、敏達は実兄でヤマトタケルのモデルとも推定される本来の次期大王・箭田珠勝大兄皇子[やたのたまかつのおおえのみこ]が早世したことを受けて後継者となったもので、敏達紀によると、父・欽明は大兄の死去から16年もしてようやく後継指名をしている(欽明紀では2年後の指名だが、ここでは敏達紀の記述に従う)。これは父王が次男の文人的な性格が政治向きかどうか懸念していたことの現れとも見られなくもない。敏達が父王死去から1年近く即位しなかったのも、彼の王位継承が必ずしも既定路線でなかったことを暗示している。
 とはいえ、敏達大王は決して政治的に無能ではなく、その治世では父王の領土拡張政策を継承し、特に国造・伴造制を通じた地方支配の確立に努めたことは間違いない。
 外交的には従来対立的であった高句麗との国交を開始しているが、これは百済が554年の聖王戦死以来、新羅と敵対する反面、長年の宿敵・高句麗と同盟する外交方針の大転換を果たしたことが、百済と同盟する倭の対外関係にも反映されるようになったためであろう。
 一方、文人・敏達が優柔不断さを露呈したのが仏教政策である。仏教はすでに父王の時代に百済から伝来していたが、父・欽明はこの問題の扱いに慎重で、重臣に協議させたところ、受容を主張する蘇我稲目と反対する物部尾輿らが対立したことから、稲目に仏像を預けて試行するよう命じた。すると疫病が流行し、若死する者も多かったので、尾輿らの進言を受けて排仏令を出し、仏像を廃棄させ、稲目が私宅を当てていた寺も焼かせた。
 敏達時代には蘇我氏も570年に死去した稲目に代わって、息子の馬子が大臣として後を継いでいたが、馬子は父以上の崇仏派で、高句麗の僧を師として深く仏法に帰依し、私宅に仏殿を作り、初めて三人の尼僧を養成するなど、仏教の布教にも努めていた。
 これに対して、敏達は自身「仏法を信じない」としながら、馬子には仏教を奨励していたが、物部守屋(尾輿の子)ら排仏派が「先帝時代より疫病が絶えないのは、蘇我氏が仏法を広めたことによる」と奏上するや、排仏令を発し、守屋の指揮の下、仏像・仏殿の焼き打ち、三人の尼への鞭打ち刑などの弾圧が加えられた。
 ところが、敏達自身と守屋が伝染病の疱瘡を発症したところへ、馬子が「自分の病は重く、仏の力を蒙らなければ治癒しない」と奏上すると、今度は馬子一人で仏法を行うことを許可し、三人の尼の身柄も馬子に引き渡したという。
 このように仏教の扱いをめぐり二転三転した挙句に、大王自身も病状が重くなり、死去してしまう(585年)。結局、敏達大王は在位13年と父王の三分の一ほどで亡くなり、仏教問題での優柔不断さが崇仏派と排仏派の対立を激化させ、王朝の将来にも禍根を残す結果となったのである。

謀略家・蘇我馬子
 蘇我馬子は父・稲目の後を受けて敏達大王の治世にデビューしているが、敏達時代には仏教弾圧に見られるように、物部氏ら排仏派に押され気味であった。彼が弾圧にも耐えた敬虔な仏教徒とはとうてい思えない、目的のためには殺人も辞さぬ冷酷な謀略家ぶりを発揮し始めるのは敏達死去後のことである。
 先述したように、敏達は伝染病で急死するが、この時点での王位継承順位第一位は、敏達と正妃・広姫(息長真手王の娘)との間の長男・押坂彦人大兄皇子[おしさかひこひとのおおえのみこ]であった。ところが、敏達死去後わずか一か月で即位したのは彼でなく、欽明と蘇我稲目の娘・堅塩媛との間の長男で、敏達の異母弟に当たる大兄皇子であった。これが第31代用明天皇(以下、便宜上「用明大王」または単に「用明」と表記する)である。
 ここに、四代続いた王位の父子継承は崩れ、異母兄弟継承という異例が生じたのである。しかも、『書紀』は用明の諱を「大兄皇子」とするが、彼は本来いわゆる庶流であるから、これは彼が大王に就いたため『書紀』が事後的に大兄称号を取って付けた名で、本来は「池辺皇子」(いけのべのみこ)であった可能性が高い。というのも、用明の宮を「池辺双槻宮」(いけのべのなみつきのみや)と呼んだとあるからである。
 『書紀』は、この「池辺皇子」について芳しくない記事を載せている。すなわち敏達7年条は敏達の娘・菟道皇女[うじのひめみこ]を伊勢神宮に侍らせたが、池辺皇子に犯されたことが発覚したため、解任したというのである。
 『書紀』はこの池辺皇子の素性を一言もしないが、後の用明と同一視する見解が有力である。すると、用明は皇子時代に姪に当たる伊勢神宮斎王を犯すという不祥事を起こしていたことになる(ただし、当時の観念によると、不倫の“主犯”は女性とみなされていたため、池辺皇子の罪は不問に付されたであろう)。
 このような人物が敏達の後継者となったことの背後には、馬子の介在があったことは確実である。というのも、用明は馬子の甥にも当たるばかりか、『書紀』の人物評に「仏法を信じ、神道を尊んだ」とあるように、神仏折衷主義者であったらしいことは、崇仏派・馬子の立場を強める上で仏法に対する態度が不明な押坂彦人大兄より好都合であったからである。
 しかし、この王位継承には当然、反対派も多かった。その筆頭は王位継承順位第一位ながら外された押坂彦人大兄であるはずだが、なぜかこの人の影は驚くほど薄い。よほど人望がなかったか、病弱であったか、何らかの事情があったのであろうが、一応自分の派閥があったらしいことは、後に馬子と物部守屋の対立が激化した時に、水派宮[みまたのみや]を本拠とする同皇子の中立的な陣営の存在が記されていることからわかる。
 彦人大兄以上に強力な反対派は、蘇我稲目のもう一人の娘・小姉君と欽明との間の三男(別伝では二男)に当たる穴穂部皇子と彼を支持する守屋の派閥であった。穴穂部皇子は自身露骨に王位を狙っており、まず手始めに口実を設けて敏達時代に内外の国政を仕切る宰相格であった三輪君逆[みわのきみさかう]を守屋に命じて殺害させ、権力への第一歩を踏み出した。
 一方、用明は治世2年4月の新嘗祭の日に、流行が続いていたらしい伝染病の疱瘡を発症したことから、群臣らに仏法僧の三宝に帰依したいとして、協議するよう命じた。これをめぐって改めて反対を唱える守屋ら排仏派と大王に協力すべきことを主張する馬子との間で対立が激化、守屋を群臣が陥れようとしているとの噂が流れ、守屋が別宅に閉じこもるなど不穏な情勢となる。
 ところが、間もなく用明の病状は重くなり、死去してしまう(587年)。治世わずか2年足らず、ほとんど何の事績も残さなかった。しかも、二代続けて大王が同じ伝染病で死去する事態である。
 ここで再び後継問題が発生し、いよいよ物部守屋は自ら支持する穴穂部皇子を擁立するためのクーデターを計画するが、謀議が事前に馬子側に漏れたため、馬子は先手を打って穴穂部を暗殺してしまう。
 『書紀』はこの時、穴穂部と共に穴穂部と親しい宅部皇子[やかべのみこ]も暗殺されたとし、注記で宅部皇子は宣化天皇の子であるが詳しくはわからないと記す。「宣化天皇」とは遠く50年以上も前に辛亥の変で殺害された欽明の異母兄・檜隅高田皇子のことであるあるが、造作された宣化紀にも宅部皇子の名は見えず、その実在性は疑わしい。すると、この身元不詳の犠牲者は誰なのであろうか。
 筆者は、押坂彦人大兄皇子その人と見る。彼は用明死去時点でもなお最有力の王位継承権者であったにもかかわらず、用明死去直前の馬子・守屋の衝突の渦中で水派宮に中立派の陣営を置いていたことを示す記事を最後に『書紀』の叙述から忽然と姿を消し、以後死亡記事すら見られないのである。
 ただ、通説は室町時代に出た皇室の系図『本朝皇胤紹運録』によれば彦人の子・舒明天皇(在位629年‐641年)の生年が593年とされることから、父の彦人大兄も同年までは存命していたと想定されるとして、彦人大兄暗殺を否定している。しかし、15世紀に編纂された系図の記述の信憑性に絶対の保証はなく、641年に没した舒明の生年が587年以前であったとしても不都合があるとは考えられない。
 馬子が押坂彦人大兄を暗殺したのは、それまで守屋とは距離を置いているかに見えた彦人大兄が穴穂部皇子暗殺後も存命していると、今度は守屋と結託する恐れがあったためと思われる。そこで、彼は穴穂部暗殺に際して、彦人大兄も予防的に消しておいたのである。そうすることで、守屋の拠り所を奪い、孤立させる狙いもあったであろう。これが、謀略家・馬子の冷酷な打算であった。
 『書紀』で彦人大兄が宅部皇子なる架空人物にすりかわったのは、おそらく『書紀』の作為ではなく、後に馬子が中心となって天皇(大王)記などの史書を編纂した際、最も正統的な王位継承権者を謀殺した自らの反逆行為を隠蔽するために、宅部皇子なる架空人物をでっち上げたためと考えられる。
 さて、有力な穴穂部と押坂彦人大兄の両皇子を一挙に葬り去った馬子は返す刀でいよいよ守屋打倒に挙兵するが、その陣容たるや馬子派の数人の皇子に紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏など百済系豪族が参加した寄せ集めの軍勢にすぎず、正規軍の参謀総長格で伝統ある物部軍団を配下に持つ守屋に対して勝ち目はなさそうに見えた。
 実際、馬子勢は三度も退却を強いられたが、一人の舎人の奇跡的な活躍により守屋は戦死、物部軍団は総崩れとなり、敗走した。伝統ある物部本宗家のあっけない滅亡である。

法興寺建立と大王暗殺
 最大の難敵・物部氏を打倒し、今や主要な政敵をすべて亡き者にした蘇我馬子は、暗殺した穴穂部皇子の実弟で穴穂部とともに自身の甥にも当たり、守屋討伐にも参加した泊瀬部皇子[はつせべのみこ]を大王に擁立する。これが正史上の第32代崇峻天皇である(以下では、便宜上「崇峻大王」または単に「崇峻」という。)
 馬子はこのように反仏教的と評すべき血塗られた謀略を敢行する一方で、念願である初の本格的仏教寺院の建立計画にも着手した。これが法興寺(飛鳥寺)の建立事業である。
 崇峻元年(588年)には、百済が仏舎利と僧、寺院建設工、瓦博士、鑪盤博士、画工などを派遣してきたが、これは百済側が法興寺建立を全面的にバックアップする体制をとっていたことを示しており、こうした百済との格別の緊密さからも、蘇我氏の百済ルーツがうかがえるところである。
 ちなみに当時の百済王は554年に対新羅戦で戦死した聖王の子・威徳王であった。法興寺に対する直接の影響関係が判明した王興寺は長く威徳王の二代後の法王の時代に建立されたものと理解されてきたが、近年王興寺遺跡で発見された舎利容器に威徳王が577年に亡き王子のためにこの塔を建てたという内容の銘文が刻まれていたことから、同寺建立年代が30年ほど遡ることになった。そこからまた、王興寺の法興寺に対する直接的な影響関係も判明してきたのである。さらなる研究の進展が待たれることである。
 さて、時の崇峻大王はその峻厳な諡号とは裏腹に、馬子の完全な傀儡であった。『書紀』の天皇紀では通常一行でも記される人物評が全く付されていないほど、影が薄かったと見える。唯一自らの意思で主導したかに見える政策は、治世4年に「任那再建」を打ち出し、二万余の軍を筑紫へ送ったことぐらいである。しかし、実際の半島派兵まではできず、単に使臣を新羅と任那(旧加耶)に派遣するだけの中途半端な結果に終わっている。
 ところが、このように無力な傀儡大王をさえ、馬子は抹殺してしまうのである。前代未聞の臣下による大王暗殺である(592年)。その経緯は、崇峻が貢物の猪を指さして「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が憎いと思う者の首を斬りたいものだ」とつぶやいたことが馬子の耳に入り、大王が自分を疎んじていると警戒した馬子は一族の者を集め、大王暗殺を計画、「東国から調をたてまつってくる」と欺き、偽の儀式を設定したうえで、配下の東漢直駒[やまとのあやのあたいこま]を使って崇峻を暗殺したというものである。
 この点、注記で引用された別伝によると、崇峻暗殺は崇峻の寵愛が衰えたことを恨んだ一人の側室の讒言によるというが、それにしても手際がよすぎるので、一切が馬子側の謀略であった可能性は大いにある。
 さらに周到にも、馬子は崇峻に嫁がせていた娘・河上娘[かわかみのいらつめ]を暗殺実行犯の駒が奪って妻にしたという口実で駒をも殺害し、口封じを図っている。『書紀』はこの一件について、馬子は自分の娘が駒に盗まれたことを知らず、死んだものと思っていたなどととぼけたことを記しているが、大王弑逆という重大犯罪の実行犯殺害は初めから馬子の計画に入っていたことは間違いない。
 こうして、昆支朝は広開土王・欽明の死去から30年も経ずして、彼の子どもたちの代ですっかり斜陽化し、間もなく蘇我氏に乗っ取られてしまうのである。

2012年11月18日 (日)

音楽とショー

 音楽は基本的に音声芸術であるが、ジャンルを問わず、舞台で演奏・歌唱することが常識となっている。従って職業音楽家は通常、コンサート活動によって生活している。
 そのため、音楽家には音楽そのものの技能のほかに、ショーマンシップも必要とされる。となると、容姿や立居振舞、トークといった音楽外の要素も、成功するうえで重要な条件とならざるを得ない。音楽活動とは悪く言えばショーの一種である。 
 しかし、例外的にほぼ録音活動だけで生活した独異なピアニストが今年、没後30周年になるカナダ人のグレン・グールドであった(彼がカナダ人であるというのも、クラシック・ピアノ界ではマージナルな独異の存在であった)。 
 グールドがコンサート活動を中止した理由には独自の音楽哲学があったようだが、一般的に言ってコンサート活動は一回的であり、ミスも修正できない不完全演奏・歌唱も余儀なくされる。またクラシックでは聴衆より音楽家が優位に立ちがちで、名前やコンクール歴による威信で拙劣な演奏・歌唱が不問に付されてしまうことも少なくない。
 一方、近年の商業主義の発達は、コンサートの選曲での聴衆への媚という現象も生んでいる。結果、「名曲」のみが選曲され、大衆受けしない作曲家の難解な作品は外されるという演奏曲目の偏向も著しい。
 ただ、それらは音楽活動の不可避的な傾向として容認すべきだというのが、当の音楽家たちを含めた社会通念なのだろう。しかし、音楽が音声芸術として純化されることは不可能な夢であろうか。
 たしかにインターネット配信全盛でCDが売れない時代、音楽家は録音活動だけでは生活できない。これは資本主義的な壁である。グールド以後、同種の人が見当たらないのも、その証しであろう。
 ただ、依然CDが一定以上売り込めるポピュラー音楽の世界では「録音のみ」の生活も可能かもしれない。チャレンジャーの出現を期待したい。

2012年11月15日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第14回)

第1部 カール・マルクス

第5章 「復活」の時代

マルクス=レーニン主義の理論で武装した共産党は、社会の発展の総合的な展望及びソヴィエト人民の偉大な創造的活動を指導し、共産主義の勝利のためのかれらの闘争に計画的かつ科学的に根拠のある性格を付与する。
―ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法第6条2項

(1)「マルクス主義」の創始

flagエンゲルスの役割
 人間としてのマルクスは死んだが、その後間もなく彼は「復活」した。まるでイエス・キリストのように。
 このようなマルクス理論の擬似宗教化の流れを作り出したのが、いわゆる「マルクス主義」という新思潮であった。そしてその創始者の座に就いたのが、マルクスよりも12年ほど長生した盟友エンゲルスであった。「マルクス主義」はしばしば誤解されるように、マルクス本人が創始したのではなく、エンゲルスによって創始されたと言って過言でない。
 エンゲルスはすでにマルクスの生前からマルクス理論を「科学的社会主義」と規定しつつ、その宣伝者としての役割を果たし始めていた。その成果が『反デューリング論』とその要約版『空想から科学へ』である。
 マルクス死後のエンゲルスは、まずマルクスの遺稿の整理・編集を軸にしながら、「科学的社会主義」すなわちマルクス主義の普及と体系化にも独自の貢献をしている。
 このうち遺稿の整理・編集に関しては、何と言っても未完のままとなっていた『資本論』第2巻及び第3巻を公刊したエンゲルスの功績は大きい。これによってマルクス主義の聖典『資本論』が今日あるような三巻本に仕上がったのである。
 ただ、このエンゲルス編の第2巻・第3巻の内容が果たしてマルクスの真意に沿ったものかどうかについては議論があり、元来マルクスの未確定草稿を使用しているため、エンゲルス自身の解釈を交えた編集の手が加わっていることは間違いないであろう。そういう点でも、後世になってイエスの言葉とされるもの―イエスは「草稿」さえも残さなかったが―を編集して作成された聖書と似た関係にある。
 マルクス主義の体系化に関しては、先に挙げた『反デューリング論』がその最初の試みであり、今日でも「科学的社会主義の百科全書」と評されるドグマティックな著作であるが、より独自性の強い別著『自然の弁証法』は未完ではあるものの、唯物弁証法を自然科学にまで拡大適用していこうとするエンゲルスの野心作であった。
 しかしマルクス自身は弁証法をそこまで拡大的にはとらえていなかったし、エンゲルスが試論的に定式化した(a)量から質への転化(b)対立物の統一(c)否定の否定という弁証法三法則もマルクス自身のものではないが、エンゲルスの言説はマルクスの終生にわたる盟友としての彼の権威によってマルクス主義の正統教義として信じられるようになった。
 一方、マルクス主義の普及に関しては、エンゲルスによるマルクスの遺稿の選択的な出版活動が即「布教」の意義を担っていたが、彼はさらに各国労働運動に対しても、マルクス主義の立場から支援と助言を精力的に行った。
 特に、1891年にはビスマルク体制下の弾圧の中を生き延びたドイツ社会主義労働者党がドイツ社会民主党と党名変更するのに伴い、かつてマルクスが痛烈に批判したゴータ綱領に代わる新綱領を起草するに当たって助言を与え、マルクス理論に沿った綱領(エルフルト綱領)を完成させる手助けをした。この新綱領にはなお穏健な改良主義的要素が残されてはいたが、これによってようやくマルクスの故国ドイツにもマルクス主義政党が誕生することとなったのである。
 こうしてエンゲルスは、キリスト教における第一使徒ペテロとパウロ、さらには後の聖書編纂者の役割をも一人で兼ねる多面的な役割を果たした末、1895年8月、喉頭癌のため死去した(享年74歳)。彼の遺骨は遺言により、ドーヴァー海峡に散骨された。

(2)エンゲルスからレーニンへ

flagエンゲルス没後のマルクス主義
 エルフルト綱領によってドイツ社会民主党がマルクス主義政党として再出発して以来、ドイツがマルクス主義のメッカとなる。従って、エンゲルス没後のマルクス主義をリードしていくのはドイツ社民党のイデオローグたちであった。
 しかし、(1)でも触れたように、エルフルト綱領はマルクス主義に立脚しながらもゴータ綱領以来の穏健な改良主義的要素をなお残しており、この要素は党が議会政党としてめざましい成功を収めるにつれて次第に色濃くなっていく。
 そうした傾向を代表するイデオローグがカール・カウツキーとエドゥアルト・ベルンシュタインであった。二人はともに晩年のエンゲルスの薫陶を受けたマルクス主義第二世代のイデオローグであった。
 このうちベルンシュタインはエンゲルスの死後いち早く1899年に主著『社会主義の諸前提と社会民主主義の諸課題』を発表し、マルクスの唯物史観や剰余価値といった基礎理論に始まり、階級闘争やプロレタリアート独裁といった実践論に至るまですべてを総批判するとともに、ドイツ社民党は資本主義の枠内で労働者の生活状態を改善していくことに努力を集中すべきことを説いたのである。
 こうしたベルンシュタインのマルクス主義内部からの公然たるマルクス批判は当然にも波紋を呼び起こし、彼は「背教者」「異端者」呼ばわりされ、彼と彼を支持するグループには「修正主義」のレッテルが貼られることとなった。
 しかし、フェビアン協会など英国の改良主義的な社会主義の影響を受けていたベルンシュタインの所論は、マルクスの批判的経済理論を捨てて、カール・メンガーらの限界効用理論へ転向するものであったから、実質的にみてマルクス理論の単なる「修正」にとどまらない「離脱」を示しており、正確には「離脱主義」と呼ばれるべきものであった。こうして、彼こそは反マルクス主義的・反共主義的な現存社会民主主義の祖でもあった。
 ベルンシュタインは余りに公然と党の改良主義的穏健化路線を称揚しすぎたため非難を浴びたのだったが、当時彼を批判した一人でもあったカウツキーも、マルクス理論を希釈化して穏健化路線に符丁を合わせていく点では同様の基盤を持っていた。
 エンゲルスがやり残した『資本論』第4巻の編者となったチェコ出身のカウツキーはベルンシュタインほど公然とマルクス理論を放棄しなかったとはいえ、プロレタリア革命論については、これを大幅に抽象化して、資本主義が将来必然的に崩壊する寸前の政権移行事務のようなものに限定しようとする。従って、それまでの間、社民党は議会政治の枠内で活動し、革命の時機が訪れるのを待機していればよいとされる限りで(革命待機論)、穏健化路線の支持者となるのである。
 こうしたカウツキーの立場は、ベルンシュタインのように資本主義を積極に受容する右派、あくまでもプロレタリア革命の道を具体的に追求すべきとするローザ・ルクセンブルクらの左派に対して中央派とも呼ばれるが、実質的にはカウツキーのような立場こそ、マルクス理論を穏健主義的に解釈し直す「修正主義」と呼ばれるのが正確であろう。ただし、カウツキーも最終的に、ベルンシュタインの路線が党内に浸透し始めた1910年代には「離脱主義」へ合流していくのである。

flag革命家レーニン登場
 ドイツのマルクス主義が次第に改良主義的穏健化の道を進んでいく頃、ロシアでは別の動きが始まっていた。元来、ロシアでは1872年にいち早く『資本論』初の外国語訳としてロシア語版の訳者となったニコライ・ダニエリソーン(筆名ニコライ‐オン)、『共産党宣言』のロシア語新版の訳者となったヴェラ・ザスーリチら生前のマルクスとも文通していたナロードニキ系知識人・運動家によってマルクスの紹介がなされていた。
 そうした中で、やはりナロードニキからマルクス主義に転向したゲオルギー・プレハーノフがロシア・マルクス主義の理論指導者として台頭する。プレハーノフの所論はロシアでも1880年代頃から急速に資本主義が勃興し始めた社会変化を反映して、ナロードニキが従前主張してきたような農業国ロシアの特殊性に基づく資本主義を飛び越えた農民革命・農民社会主義ではなく、西欧と同様にマルクス的なプロレタリア革命を通じた社会主義をロシアでも展望することができるとの主張であった。
 その際、彼はまずブルジョワ革命によりロシア帝政が打倒され、自由主義的な「法治国家」が樹立された後、資本主義が高度に発達し、資本主義的諸関係の矛盾が爛熟した時点で、プロレタリア革命により社会主義へ移行するという道筋を描いた点で、マルクス理論を図式化する教条主義的な立場を採っていた。
 こうしたプレハーノフの影響を受けつつ、ロシア・マルクス主義の次世代リーダーとして台頭してくるのが、ウラジーミル・レーニン(本名ウリヤノフ)であった。ナロードニキを経由せずに初めからマルクス主義者となったロシアにおける最初の世代である彼は、弁護士となり、非合法の政治結社を組織したかどで検挙され、流刑を終えた後、頭角を現した。
 彼は1903年、ブリュッセルでプレハーノフらとともにマルクス主義政党・ロシア社会民主労働者党の再建―最初の党組織は1898年にミンスクで別のグループによって結成されたが、直後に当局の弾圧を受けて事実上解体していた―を主導するのである。

flag離反主義者レーニン
 レーニンやプレハーノフらによって再建されたロシア社会民主労働者党は、基本的にプレハーノフの理論に沿った綱領を採択したが、レーニンの独創的な知性は、ほとんど初めからプレハーノフの教条主義とは相容れなかった。
 彼は党に参加する前年に書いた有名な論文「何をなすべきか」の中で、労働者は自力では労働組合的意識を超え得ないため、その革命的意識は外部の知識人によってもたらさなければならず、労働者の自発的・自然発生的な労働運動の発展を待っているだけであってはならないとする「外部注入論」を展開するとともに、ロシアのような専制下ではとの留保つきで、革命運動は少数精鋭で秘密裡の職業革命家組織によって主導されなければならないとする「陰謀組織論」を提唱している。
 このようなレーニンのエリート主義的な所論はすでにマルクス理論からの離反を示している。たしかにマルクスも自らの理論をプロレタリアートの階級闘争の武器として提供しようと努めた「外部」の知識人ではあったが、彼は労働組合こそがまさに労働者の日常闘争の現場であると同時に、賃労働制廃止へ向けた革命運動の現場でもあるとみなしていたのであった。従って、マルクスにとって労働者の革命意的意識は外部から注入されるのではなく、内部から醸成されるべきものである(内部醸成論)。
 それゆえ、プロレタリア階級の解放はプロレタリア階級自身の手で闘い取られなければならないである。そして、マルクスのような共産主義者たち―「革命家集団」と置き換えてもよい―は、他の労働者党と比べて特殊な党ではなく、特別な原則を掲げて運動を型にはめようとするものでもなく、ただプロレタリア運動の中の最も断固とした推進的部分にして、洞察力を持った集団にすぎないのであった。このことは、専制下であろうと、民主制下であろうと変わりない。
 レーニンはこのように革命家集団が後方から労働者階級を押していくイメージのマルクスの「革命後衛理論」を、逆に前方から引っ張っていくイメージの「革命前衛理論」にすり替えてしまっている。
 またプロレタリア革命に関しても、やがてレーニンはマルクスが想定していなかった労働者と農民(貧農)との同盟に基づく「労農革命論」を提起し、資本主義が十分に発達し切っていない段階での革命的蜂起の可能性を認めた。これは後年、教条主義的なプレハーノフとも鋭く対立する分岐点となる。
 プレハーノフはカウツキー流の革命待機論者ではなかったけれども、ロシアにおける専制打倒と将来のプロレタリア革命との間に相当の期間を見る―それはむしろマルクスの「革命の孵化理論」に沿うものであった―ことから、結果として待機論に流れる可能性があった。実際、当初レーニンと協力していたプレハーノフはやがてロシアにおける待機論派とも言え、カウツキーによっても支持された社会民主労働者党メンシェヴィキ派へ合流し、レーニンが指導するボリシェヴィキ派とは袂を分かつのである。
 このように、レーニンの理論―レーニン主義―は、マルクスの概念を利用しながらも、とりわけ実践論の領域ではマルクスの理論から離反していくのである。レーニン主義はロシア革命後、レーニンとボリシェヴィキの体制が固まって以降、体制教義の地位を獲得したことで、マルクス主義そのものの正統教義とみなされるようになったが―言わば、ローマ帝国による国教化以降のキリスト教におけるカトリックの地位に匹敵する―、実際のところ、レーニン主義とはマルクス理論に対する離反主義であった。
 レーニンは権力掌握後、ボリシェヴィキに対する厳しい批判者となったカウツキーを「背教者」と名指して非難する論文を発表した。たしかに当時のカウツキーはマルクス主義を離脱しつつあったが、レーニンもまたカウツキーとは違った流儀で「背教者」であったのだ。
 ただ、レーニンがあえて「背教」に出たのは、当時ドイツを中心にマルクス主義が改良主義的穏健化の道をたどっていた現状に満足せず、革命実践に活を入れ直そうとしたためであった。その際、彼はかねて加入したことがなく、その理論に否定的であったナロードニキを一部再評価するのである。そのことは特に農民との同盟を重視する労農革命論に如実に表れているが、陰謀組織論もナロードニキ系過激派組織「土地と自由」の手法にならったものであった。
 こうしたマルクス理論に対するナロードニキ的離反の根底では、資本主義的工業化のめざましい進展の中にあってなお農業国でもあったロシアの現実に直面しつつ、革命と権力獲得を急ぐレーニンの「力への意志」―マルクスには決定的に欠けていたもの―が働いていたはずである。この点で、レーニンはマルクスよりニーチェに近かったと言ってよいかもしれない。

2012年11月12日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第55回)

第7章 略

五 幕藩体制から大日本帝国へ

(1)「鎖国」体制の限界と「開国」
 前章でも言及したように、「鎖国」を続ける徳川幕藩体制も、18世紀末頃から大飢饉の続発と幕府・諸藩財政の悪化により内在的な限界が露呈し始めていた。老中松平定信のいわゆる「寛政の改革」は緊縮財政と救貧・失業対策を組み合わせたプログラムで一時しのぎをしてみせたが、一方で言論統制のような抑圧の厳しさから広い支持を得られず挫折した。
 定信退任後は、大都市にも窮乏が広がり、ついに1837年、幕府直轄の商都大坂で元役人の陽明学者・大塩平八郎が挙兵する事件が発生した。この反乱は背後組織もない大塩の単独行動的な蜂起であり、わずか1日で鎮圧されたが、幕府直轄都市で元幕府役人が公然と幕府に反乱したという点で、まさに幕末を画する象徴的な出来事であった。
 一方、18世紀末以来ロシアを筆頭として欧米各国のアプローチが続いたことに対し、幕府は当初異国船打払令を発して撃退した。このような強硬策の直接の要因となったのは、1808年、英国軍艦フェートン号が長崎に入港し、食糧を要求した事件がきっかけであったと見られる。
 「鎖国」ということが支配層によってはっきり政策として意識されたのは、ようやくこの頃であった。それは対内的にも、「鎖国」を批判した洋学者らを弾圧した蛮社の獄(1839)のようなやり方に表れている。
 しかし、事実上国交のあった清が英国に敗れたアヘン戦争の衝撃も伝わり、老中水野忠邦が指導したいわゆる「天保の改革」の一環として、打払令に代わって薪水給与令が発令された。このようななし崩しは当然にも列強の開国要求をいっそう強めることとなった。その結果が米国(1854)・ロシア(1855)両国との和親条約であり、その延長に1858年、米英蘭露仏五か国と締結した修好通商条約があった。これは日本の関税自主権を奪い、外国の治外法権を認める典型的な不平等条約であった。
 こうした幕府の「開国」への方針転換は、急激な貿易拡大に伴う物価高騰・物流混乱も手伝って、下からの排外的な尊王攘夷運動を盛り上げ、政情不安が広がっていった。一方、幕府側も天皇陵治定事業や公武合体のように、形骸化して久しい天皇王朝の権威を再利用する形で体制の延命を画策した。

(2)明治維新と「近代化」
 ここでよく知られた倒幕へ至る経緯を繰り返すことはしない。ただ、一つ言えることは「開国」は幕藩体制の命脈を確実に縮めたということである。やはり幕藩体制の「鎖国」は骨絡みであったのである。言い換えれば、「開放的幕藩体制」というものは考えられなかったということである。
 倒幕運動の主体となったのは薩摩・長州を二強とするいわゆる雄藩であったが、ここでもその影に英国の介在があった。世界中いたるところに顔を出し、干渉するのがこの時代の大英帝国であったのだ。
 英国は倒幕派に転じた薩長の顧問役のような地位におさまり、王政復古後も新政府に圧力をかけて江戸城無血開城を実現させるなど、倒幕の背後にあってそのプロセスをコントロールしようとしていた。これはライバルのフランスが幕府に食い込んで最後の将軍徳川慶喜の助言者となっていたことへの対抗策でもあった。
 ともあれ、倒幕を通じて近代日本建設の契機となった明治維新という出来事の歴史的意義については、特に西欧ブルジョワ革命との対比で様々に議論されてきた。実際、明治維新とは何だったのかとは困難な問いである。ここではむしろ問いの形を変えて、明治維新とは何でなかったかを考えたほうがよいかもしれない。
 まずそれは単なる倒幕クーデターではなかった。明治維新は体制内の支配権の所在が非合法に変更されるクーデターとは違い、体制そのものの変革とともに文化や価値観の転換をも伴う社会革命の性格を明らかに持っていた。
 しかし、それはブルジョワ革命ではなかった。明治維新の中心的な担い手となったのは、中下層武士や公家を含む体制周縁部に属する青年たちであって、ブルジョワジーではなかった。当時の日本には真の意味でのブルジョワジーはまだ形成されていなかったのだ。
 ただ、江戸時代後期には豪商・豪農を中心としたブルジョワ階級の萌芽は生成していたが、かれらは明治維新の主役とはならなかった。しかし、維新後に彼らの中からブルジョワジー第一世代が誕生し、近代資本主義の担い手となっていった限りで、明治維新とは将来へ向けてブルジョワジーを作り出す契機となった前ブルジョワ革命ではあったと言えるであろう。
 とはいえ、それはフランス革命の第一段階を成したような立憲革命でもなかった。明治政府は当初立憲主義に関心を示さず、維新から20年以上も非立憲的な無議会統治を続けた。そのために自由民権運動を招いたことから、新たな立憲革命を防止し、体制を護持する観点からも明治政府は憲法制定・議会開設に応ぜざるを得なくなった。その結果、1889年に初の憲法が発布され、立憲帝政に修正されたものの、それは天皇神格化と政教一致という前近代的な要素を残した復古的立憲帝政であった。
 こうした面だけをとらえると、明治維新は逆行的な反動革命であったという評価も可能であるが、それは一面的な評価にすぎよう。たしかに明治維新は王政復古からスタートし、神権天皇制に至ったが、それは統治の形式に関わる部分であって、そのような形式の下で非常な急ピッチでの西欧近代化プロジェクトが断行されていったのであるから、それは単なる反動ではなくやはり革新であったと言ってよい。
 しかし、その近代化は「富国強兵」に重点が置かれたため、初めから軍国的色彩の強いものとなった。これには明治維新の主要な担い手が青年武士層であったことも影響していたであろう。その結果、憲法上も軍部に政府から独立した地位が与えられ、後年軍部が独走していく要因を作るとともに、反政党政治の気風が国会開設後も根強く残り、軍部/官僚主導の権威主義的統治の風土を固着させることとなった。
 他方、「富国強兵」テーゼの前半「富国」とは時代柄、資本主義的経済開発を意味していた。実際、今日まで続く日本的特徴を伴った日本型資本主義は明治期に形づくられたと言ってよいが、その特徴とは簡単に言えば、政府主導の官民一体資本主義、言わば「指導された資本主義」(led capitalism)である。これは後年ロシア革命後のソヴィエト連邦が志向したような行政指令経済ほど徹底していないものの、政府が民間資本の形成・発展を法令や非公式の行政指導を通じて強力に主導していく国家資本主義の一類型である。
 このようなモデルが採用されたのも、徳川幕藩体制は幕末を除いてはほとんど工業化に関心を示さなかったことから、そもそも工業資本家が育っていなかったためであった。先に明治維新を前ブルジョワ革命と規定したゆえんである。従って、当初は官営工場の設立から入って、後で民間資本家に払い下げる方式を採らざるを得なかったのである。
 そのため、初期の資本家は政府から特権を付与され、政治・行政と密着するいわゆる「政商」という形態をまとった。このことが現代にまで及ぶ政官財の利権トライアングルとその結果としての構造汚職の体質を醸成した。
 それとともに、急速な資本蓄積・経済開発の足かせとなる労働運動や社会主義・共産主義の思想・運動に対する徹底した抑圧体制が構築されたため、労働者階級政党や社会主義・共産主義政党の発達は著しく阻害されたのである。
 こうした「指導された資本主義」の原始蓄積は地租改正を通じた強度の農民収奪体制を土台として行われた。その過酷な過程で近代的所有権が確立され、地主の権利が強化されるとともに、第二次世界大戦前の日本農業を特徴づけた寄生地主制が形成されていった。

2012年11月11日 (日)

老子超解:第十五章 道と徳

十五 道と徳

道が万物を生じ、徳がこれを養い、物が形成され、器がこれを完成させる。こういうわけで、万物はすべて道を尊敬し、徳を尊重するのだ。道が尊敬され、徳が尊重されるのは、そもそも誰かに命じられたのではなく、いつも自然にそうなるのである。
こうして道が万物を生じ、徳がこれを養い、成長発育させ、形を与え重厚にし、愛護するわけだが、生産しても所有せず、業績を上げてもその成果に頼らず、長となっても采配はしない。これを玄徳という。


 
前章までの儒教批判の矛をひとまず収めて、通行本で第五十一章になる本章からは、老子自身の道徳論が展開されていく。
 もっとも、「道徳」といっても、本章冒頭で直ちに判明するように、老子において「道」と「徳」は、連関しつつも区別される概念である。「道」はもちろん老子最大のキータームであるが、「徳」は「道」の働き、言わば能作を表している。それはによって生成された万物を養って、個物を形成し、それを完成させるような作用である。
 ここで「物」と「器」という対概念が現れるが、これはあたかもアリストテレスの「形相」と「質料」に相応するような対である。しかし、老子にあってはそうした個物の存在論の手前に「道」と「徳」を置く点で、「万学の祖」として個別学術に土台を与えたアリストテレスの現実主義とは異なる超形而上学的な思惟が示されている。
 こうした老子独特の、言わば存在論的な「徳」は、いわゆる「道徳」というときの「徳」とは全く異なり、命令的な規範性を持たず、自然[じねん]的な作用である。それはを体得すれば自ずと備わってくるものであり、そのような徳こそ前章でも言及された最上の徳なのである。規範的な徳の代表格が儒教的な徳であるから、老子的な徳は当然にもそれとは対立的である。
 第二段後半は、を擬人化したうえで、その徳を社会的な文脈で具体化している。そこで「玄徳」として語られ直された、生産しても所有しない「無所有」と、長となっても采配しない「無権力」とは、老子思想の共産主義的モチーフを含蓄しているところでもある。

2012年11月 8日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第13回)

第1部 カール・マルクス

第4章 革命実践と死 

(6)最後の日々

flag第一インターの解散
 バクーニン派除名を決議した第一インター1872年ハーグ大会は、総評議会のニューヨーク移転をも決議した。これは第一インターの事実上の終焉を意味していたが、果たして76年のフィラデルフィア大会はインターの正式な解散を決議した。64年の結成からわずか12年での幕切れであった。
 こうして第一インターの短命さは、その後何度か結成し直された労働インターナショナル組織の短命さの先例ともなった。このことはマルクスが重視した国際労働運動の困難さ、特にそのセクト主義的分裂傾向を止揚することの難しさを示すものでもあった。第一インターの失敗は一方で、マルクスの理論がいまだ各国労働運動の間に浸透しておらず、マルクス支持派が十分な勢力を持っていないことも証明した。
 それにつけても、晩年のマルクスが最も力を込めて取り組んだ革命実践が第一インターの活動であったから、その挫折はマルクスに重くのしかかった。振り返れば、若き日の共産主義者同盟の活動以来、マルクスが関わった革命実践の中で長続きしたものは一つもなかった。改めて革命実践の難しさをかみしめつつ、彼は老境に入っていくのである。
 すでに長年の貧困の中で骨身を削るような研究に苦労の多い実践も重ね、マルクスの健康状態は悪化し始めており、長生は望めそうになかった。

flag最後の経済学研究
 マルクスが最後まで決して歩みを止めようとしなかったのが、経済学研究であった。彼は『資本論』第1巻の続巻の公刊を目指して鋭意草稿を執筆していたが、1870年代からは特にロシア農村の研究に取り組み始めていた。
 マルクスが注目していたのは、ロシア農村(ミール)に残る伝統的な農民の土地共有慣習であった。彼はロシアの知人などを通じてロシアの土地制度に関する公式統計や刊行物を取り寄せて読解を進め、エンゲルスによれば「(『資本論』第3巻の)地代に関する篇では第1部(第1巻)の工業賃労働の所で英国が演じたのと同じ役割をロシアが演ずるはずであった」が、マルクスの健康状態がそれを許さなかったのである。
 それでもマルクスはこの頃、まだ資本主義の発達が遅れていたロシアにおける農民革命の可能性を視野に入れるようになっていた。そうすることによって、彼は当時のロシアに台頭していたミールを土台とする農民社会主義を目指すナロードニキ派の思想に図らずも接近しつつあったのである。実際、マルクスは、ナロードニキ分派に属し、後年ロシア初のマルクス主義政党・社会民主労働者党メンシェヴィキ派に転じた女性活動家ヴェラ・ザスーリチと文通していた。ちなみに彼女は82年に出た『共産党宣言』ロシア語新版の訳者ともなった。
 マルクスとエンゲルスはこのザスーリチ訳『共産党宣言』に寄せた序文の中で、「ロシア革命が西欧におけるプロレタリア革命への合図となり、その結果両者が互いに補い合うならば、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点として役立ち得る」とするロシア革命テーゼを仮定的な形で提出するに至った。
 ただし、マルクスはロシアの土地共有制が政府によって上から解体され消滅する可能性も考慮していた。実際、マルクスの死後、ほどなくしてロシアはその方向に進み、資本主義の急速な発達を見たのであるが、なお農業を主軸とする農業国である現実に変わりはなかった。ロシアのこうした微妙さが、後にマルクス主義の革命家レーニンの特殊な革命戦略「労農革命論」を導き出すことになる。
 マルクスがもう少し長生し、実際にロシア農村研究を完成させていれば、彼のロシア革命論もさらに進展したかもしれないが、それはかなわなかったのである。

flag失意と死
 もはや衰えを隠せなくなっていたマルクスの心身に最後のとどめを刺したのは、妻と長女の相次ぐ死であった。
 まず1881年12月、長年の私的な同志とも言うべき妻イェニーが肝臓癌のため死去した(享年67歳)。これだけでもマルクスには打撃であったが、続いて83年1月にはフランスの社会主義者シャルル・ロンゲの妻となっていた長女ジェニーが死去。これでマルクスは6人中4人の子に先立たれたことになる。
 こうして失意の底に沈んだマルクスは長女の死から間もない1883年3月14日、ロンドンの自宅で生涯を閉じたのである。享年64歳。死因は妻イェニーと同じ肝臓癌であった。同月17日の埋葬式には、エンゲルスをはじめ約20人の近しい人たちが参列するだけの簡素なものであった。
 エンゲルスは弔辞の中で、マルクスを「現代最大の思想家」と称えたが、実際のところ生前のマルクスは晩年になってようやく知る人ぞ知るという程度のマージナルな存在にすぎず、エンゲルスの賛辞には誇張が含まれている。何よりもおよそ30年の亡命生活を送り、そこに骨も埋めた英国において、彼は影響力を持っていなかった。
 マルクスの死の翌年に結成され、シドニーとベアトリスのウェッブ夫妻を理論的支柱とし、後に議会政治の枠内で大成功を収める英国労働党の前身組織の一つともなったフェビアン協会は、マルクスとは無縁の穏健な改良主義的社会主義の団体であった。
 ところで、ここに面白い偶然が二つある。一つは、マルクスの生没年はロシア農奴制の厳しい批判者でもあった文豪トゥルゲーネフと全く同じであったこと。もう一つはマルクスの没年1883年には、やがて20世紀の資本主義経済学の泰斗となるジョン‐メイナード・ケインズが同じ英国で生誕していることである。後にマルクス理論から離脱していったいわゆる「修正主義者」たちがマルクスに代わってすがるのが、このケインズなのであった。

2012年11月 7日 (水)

天皇の誕生(連載第35回)

第八章 「蘇我朝」の五十年

6世紀末から7世紀前半までの畿内王権で独裁者となる蘇我氏とはどのような氏族であったのか。また、正史上「蘇我氏の専横」と呼ばれる時代、蘇我氏はあくまでも臣下として独裁したのか、それとも自ら王位簒奪者となったのか。

(1)蘇我氏の出自

虚構の系図
 本章の主人公となる蘇我氏が実質的に政治の表舞台に登場してくるのは、前章でも言及したように、獲加多支鹵大王=欽明が親政を開始した後に、宰相格の大臣として大王を支え、2人の娘を大王に嫁がせて有力な外戚となった稲目の代からである。このように急速に台頭した蘇我氏の出自について、『書紀』は明確に記していないため、蘇我氏は謎に包まれた氏族とも言われてきた。
 もっとも、『記』によると、蘇我氏は波多氏、許勢氏、平群氏、木氏、葛城氏らとともに第8代考元天皇の曾孫・建内宿禰[たけうちのすくね]を共通祖先とし、その子・蘇賀石河宿禰が直接の祖になるとされる。この点、蘇我氏の公式系譜である『蘇我石川両氏系図』も、同様に武内(建内)宿禰を遠祖とする次のような系図を掲げている。

武内宿禰━蘇我石川宿禰━満智━韓子━高麗━稲目━馬子(下略)

 しかし、今日、このようなもっともらしい系譜をそのまま信じる学説はほとんどない。とりわけ遠祖とされる武内宿禰は景行紀から応神紀まで200年以上も生きて活躍するという全く伝承上の人物であるうえに、この人物を天皇系譜に組み入れたことは政治的意図に基づく作為と言ってよい。
 ただ、作為的とはいえ、上掲系図から読み取れるのは、韓子とか高麗のように渡来系を思わせる名前が見えることに照らし、この一族の祖はやはり朝鮮半島からの渡来人ではないかということである。
 しかし通説によると、蘇我氏は渡来人集団を統括する役職に就いていたが、自身は渡来系でなく、ヤマトの在地土着豪族であるとされる。果たして、こうした理解に疑問の余地はないのであろうか。

木満致起源説再考
 門脇禎二氏は、かつて蘇我氏の公式系図上に見える蘇我満智をもって百済重臣の木満致(木刕満致)に当て、蘇我氏はこの木満致が渡来して興した一族であるとする大胆な説を提起した。
 この木刕満致は、百済八大姓のうち木氏と刕氏の複姓氏族であり、『三国史記』では475年の漢山陥落後に熊津に南下・亡命する文周王に随行したことが記録されているが、『書紀』の応神紀25年条にも応神天皇が百済から呼び寄せたとの記事がある。
 ただ、記事の人物紹介の中で、直支王(百済第18代腆支王)の子・久爾辛の治世の時、年若い王に代わって国政を握り、王母と通じて無礼が多かったとあるのは、年代的なズレがあり、信用できない。木刕満致は5世紀後葉の文周王時代に登場する以上、5世紀前葉の久爾辛時代に国政を専行したとは考え難いからである。
 一方、記事の注記で『百済記』を引き、木満致の出自について、木羅斤資[もくらこんし]が新羅を討った時にその国の女をめとって産んだとあるのは注目される。これが真実とすれば、木満致は母方から新羅人の血を引いていることになるからである。
 この注記では、本文と異なり、木満致は百済に来て日本と往来したが、任那を専らにしたため、天皇(応神)が呼び寄せ、職制を与えたとされていることは重要である。
 この点、『書紀』では履中紀に蘇賀(我)満智宿禰が平群氏や物部氏らとともに国政に携わったことが簡単に記されているが、「履中天皇」は応神(昆支)と継体(男弟)の直接的な父子関係を隠すため、中間の埋め草に設定された架空人物と考えられるので、この国政参与はやはり応神=昆支大王代のことに振り替えて読むべきだろう。
 さらに、平安時代に斎部[いんべ]氏が出した史料『古語拾遺』には蘇我麻(満)智宿禰が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理する職責に就いたとの記事が見える。この三蔵は後代の制度であるから正確でないが、要するに満致は財政担当職を担ったという趣旨である。、古代国家の王室財政担当者は宮宰格であるから、木満致=蘇我満智は昆支が倭王即位後に百済から呼び寄せられて王室財政を任され、実質的な宰相として大王を補佐したものと考えられるのである。
 ちなみに、蘇我馬子の子に倉麻呂、その子にいわゆる「大化の改新」の首謀者の一人ともなる倉山田石川麻呂がいることからも、蘇我氏が倉(蔵)に関わる氏族であったことがうかがえる。
 そうすると、『記』が葛城氏や木(紀)氏らとともに蘇我氏の遠祖を武内宿禰とするのは、いずれも昆支大王代に呼び寄せられたか、すでに5世紀前半頃から渡来して昆支の支持基盤となった河内閥を形成した百済系豪族とともに、渡来系の出自を抹消し、一括して天皇系譜に編入する『記』の政治的作為であったと見るべきであろう。よって、先の蘇我氏系図上、蘇我氏の直接の祖とされる蘇我石川宿禰と蘇我満智は同一人物とみなしてよい。
 この石川とは、おそらく渡来直後に木満致が本貫を置いた河内側の石川にちなんだもので、その後彼自身かその子孫がヤマト側の曽我川流域に進出して、この一帯も石川と呼ばれるようになると同時に、氏も曽我(蘇我)を称するようになったものであろう。
 ところで、継体紀3年条にあまり注目されないが、ここで注目すべき記事がある。それによると、同年二月、使いを百済に使わしたとあり、注記で『百済本記』を引いて、「久羅麻致支弥(クラマチノキミ)」が日本から来たが詳しくはわからない」としている。この「久羅麻致支弥」を「倉麻(満)致君」もしくは「木羅麻(満)致君」と読めば、木満致=蘇我満智が使臣として故国・百済に遣わされたことを示唆していると解釈できるのではないだろうか。
 一方、雄略紀9年条には、系図上は満智の子になる蘇我韓子宿禰が重臣間のトラブルに巻き込まれ、百済王から国境を見せたいと招かれた際、百済の地で一種の決闘により命を落とすという説話的なエピソードが見える。しかし、前章で論じたように、雄略=欽明であるから、この記事は架上・潤色であろう。
 こうした記事と継体紀には蘇我氏が登場しないこととを考え合わせると、木満智は倭で失墜して故国・百済へ帰国し、そのまま倭に帰還せず故国で死去したのではないかと推定できる。このことは、継体=男弟大王代には百済系河内閥の権勢が先代の時よりも低下したことが関係しているのかもしれない。ただ、木満致は倭に長期滞在中、倭人女性をめとって倭にも子孫を残し、そこから稲目やその子・馬子らが輩出したと見ても不合理ではあるまい。
 この点、欽明紀では逆に、紀臣奈率[きのおみなそつ]とか、物部施徳[もののべのせとく]などのように、百済の官位を持つ倭系の氏族が使臣として少なからず登場するが、百済系の昆支朝成立以来、倭済同盟が強化され、百済から倭へ、逆に倭から百済へという形で人の相互移住の波が起き、各々の宮廷で官職に就き、そのまま子孫が土着していったケースも少なくなかったと見られ、蘇我氏もそうした氏族の一つであったと考えられるのである。
 こうして、蘇我氏=木満致起源説には相応の根拠を見出せるのであるが、現在この説はすっかり下火である。その背景として、プロローグでも指摘したような新皇国史観の影響があり、何としても倭国は大王家(天皇家)もそれを支えた豪族も含め、古来の土着人によって形成されたネイティブな国であるととらえようとする傾向が強まっていることがあるのであろう。
 しかし、近年、蘇我氏の百済人起源説を補強するような考古学的発見があった。蘇我氏全盛期を築く蘇我馬子が建立した蘇我氏の氏寺にして日本初の仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)の原型が従来想定されていた高句麗よりも、直接に百済後期の代表的寺院・王興寺にあることが判明したのである。両者は瓦の文様や塔の構造といった主要な点で一致しており、同一の建築技術者によって建立された可能性が高いという。
 このことは従来から、文献上でも『扶桑略記』(平安時代の私撰仏教史書)に、法興寺の仏舎利を塔の芯礎に納め、刹柱を立てる儀式で、嶋大臣(馬子)ら百余名が百済服を着用したことが記されているように、風俗的にも蘇我氏の百済人起源を裏づける史料が存在していたことと相まって、ますますその裏づけを強めるものと思われる。

2012年11月 4日 (日)

老子超解:第十四章 実と華

十四 実と華

徳高き人は徳を意識しないからこそ、徳があるのだ。徳低き人は徳を失うまいとするからこそ、徳がないのだ。
徳高き人は無為にして、何かをしたとしない。仁に篤い人は何かをするが、何かをしたとしない。義に篤い人は何かをして何かをしたとする。礼に篤い人は何かをして、相手がそれに応じないとなれば、腕まくりして相手を引っ張る。
こうして、道を失った後に(低い)徳が生じ、徳を失った後に仁が生じ、仁を失った後に義が生じ、義を失った後に礼が生じたのだ。そもそも礼なるものは信義が薄いことにほかならず、争乱の第一歩である。また皮相な知識は道の仮象であって、愚行の始まりである。
こういうわけで、真に立派な人は重厚な立場に立ち、軽薄な立場に立たない。真理の立場に立ち、仮象の立場に立たないのである。つまり仮象を捨てて真理を取るのだ。


 前章で端的に語られた儒教批判がより具体的に展開されているのが、通行本で第三十八章になる本章である。具体化されているぶん、批判の舌鋒も痛烈である。特に第二段が出色であろう。
 第一段では、老子的な「道得」と儒教的な「道徳」の違いが総論的に対照されている。言い換えれば、「体得」と「修得」の違いであって、体得された徳は意識されないが、修得された徳は常に意識され、それを保持することに汲汲としていなければならない。
 この第一段を受けて、第二段では徳高き人、すなわちを体得した人と、仁、義、礼という儒教のキーとなる徳を修得した人の性格類型が対比的に説かれている。それによると、を体得した人は(老子的な意味で)無為であるが、仁→義→礼と儒教の中心的な道徳に近づくにつれ、それらを修得した人は作為的な悪性格になるというのである。
 ことに礼に篤い人は、相手が礼に報いないとなると憤るということは、案外日常的にも経験するところではないだろうか。なぜそうかと言えば、第三段で痛烈に摘示されるように、儒教道徳の柱とも言える礼とは真の意味での信義の薄さの表現だからである。礼を尽くすという形式が真心よりも優先されるのである。
 もっとも、孔子が唱えた礼の根本にある仁とは本来、人と人との間にある自然な親愛の情をいうのであるが、それが礼として形式化される過程で、本来の仁が昇華されて真心のこもらない儀礼と化しがちであることを、老子は見抜いているのである。
 さらに第三段では、儒教的な知のあり方が「前識」=皮相な知識として批判されている。老子からすれば、万物の根本たるに到達しない儒教的な礼楽に関する瑣末な知識はの「華」=仮象にすぎないのである。
 ここで老子は真理を意味する「実」と対照させて、「はなやぎ」を意味する「華」に「皮相なもの」というネガティブな意味合いを与えている。こうした「実」と「華」という二元論的発想は、プラトンが有名な洞窟の比喩で説いた「イデア界」と「現象界」の区別を想起させる。
 しかし、プラトンのイデア界が感覚と対立する理性の世界であるのに対して、老子の「実」は理性と感覚の対立を超えたの体得という超形而上学的境地に到達する点に違いがある。
 なお、「華」という語は後に周知の「中華思想」の中核概念となった。老子の時代には「中華思想」はまだ確立されていなかったが、老子の哲学はある意味で反中華的である。このことは、彼が元来は漢民族の地ではなかった南方の楚に出自するということと関連しているのかどうかは定かでないが、老子の哲学が儒教と異なり、南方中国の所産であることはたしかである。

2012年11月 2日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第12回)

第1部 カール・マルクス

第4章 革命実践と死

(5)労働者諸政党との関わり

flagマルクスと政党
 マルクスの晩年になると、ようやくヨーロッパ各国で議会制が発達してくるのに照応して近代的な政党組織・運動も活発化し始める。それに伴い、労働者階級も政党作りを模索するようになった。マルクスの故国ドイツでも1869年には中部の都市アイゼナハで社会民主労働者党(アイゼナハ派)が結成される。この党は、ラサールによって63年に結成されていたドイツ労働者総同盟から分裂してできたものであった。
 しかし、マルクスはこの党の結成にも運営にも直接関わることはなかった。それは単に彼自身は労働者でなかった、というよりなれなかった―彼は長く寄稿し、ほぼ唯一の収入源としていた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』が南北戦争渦中で南部の奴隷制諸州への妥協的姿勢を強めたことから61年、同紙への寄稿を打ち切り、翌年にはある鉄道事務所に就職しようとしたが、マルクスによれば「悪筆」が原因で不採用となった―ということ以上に、マルクスが党派的活動には相当慎重な見解を持っていたことによるであろう。
 マルクスは若き日に『共産党宣言』を高らかに発したにもかかわらず、終生自ら共産党を結成しようとはしなかったし、その種の政党に加入しようともしなかった。逆説的ではあるが、マルクスにとって「共産党」は存在しない。このことは、まさに『共産党宣言』の中でも、「共産党」という語は表題で使われているだけで、本文では「共産主義者」(複数形)という語が専ら用いられていることに表れている。
 マルクスによれば、共産主義者は他の労働者党に比べて特殊な党でもなければ、特殊な原則を掲げてプロレタリア運動を型にはめようとするものでもなく、他のプロレタリア党からはただ二つの点で区別されるにすぎない。
 その一つは「プロレタリアの種々の国民的闘争において、国籍とは無関係な、プロレタリア階級全体の共通利益を強調し、貫徹する」こと(国際性)、今一つは「プロレタリア階級とブルジョワ階級の間の闘争が経過する種々の発展段階において常に運動全体の利益を代表する」こと(総代表性)である。
 このような「区別」からすれば、共産主義者の役割は「実践上は全諸国の労働者党の中で最も断固とした、常に推進的な部分」であること、「理論上はプロレタリア階級の他の集団にましてプロレタリア運動の条件、進行及び一般的結果を洞察する力量」を持つことにあるものとされる。
 従って、共産主義者マルクスにとっても、自ら共産主義政党を結成したり、それに加入したりすることよりも、諸国の労働運動を代表する国際労働運動に関わりつつ、各国労働運動を推進し、洞察する仕事のほうが優先順位が高いことになる。そのために、マルクスと労働者諸政党との関わりは間接的で、時として批判的なものとさえならざるを得なかったのである。

flagドイツ社労党との批判的関わり
 マルクスの政党との関わりが最も特徴的な形で現れたのが、故国ドイツの労働者政党との関わりである。先述したように、ドイツでは1869年に社会民主労働者党が結成された後も、このアイゼナハ派とまだ優勢なラサール派の対立がしばらく続いたが、やがてラサール派の勢力が弱まった75年に両派合同の機運が生じ、改めて社会主義労働者党が結成された。
 この新党の綱領はその発祥地の名を取って「ゴータ綱領」と呼ばれたが、それはラサール派との合同という政治的成果を優先したため、まさにラサールの思想を強く反映した穏健な内容に仕上がっていた。そのため、これに目を通したマルクスは大いに不満であり、早速に批判論文「ドイツ労働者党綱領に対する評注」を執筆した。この論文は生前には公刊されなかったが、エンゲルスがマルクス死後の91年になって公表したものである。
 この論文はゴータ綱領の批判的分析を通して、今は亡きラサール―彼は64年、一女性をめぐって決闘死を遂げていた―の思想と対決する意義をも持っていた。
 1825年生まれでマルクスより一回り年下のラサールはベルリン大学出身の労働運動家で、やはりヘーゲル哲学に傾倒した一人であった。しかし彼の場合、マルクスとは違ってヘーゲル右派的立場から観念的歴史観に基づいて強力な国家を理想化していたため、当然にもプロレタリア革命には反対であり、ストライキなど労働者の経済闘争さえも否定したのである。
 代わって彼が提唱したのは、労働者の生活改善の手段としての国庫補助による生産協同組合という構想であった。そのため、彼は「アメとムチ」政策の鉄拳宰相ビスマルクにすら接近していく。こうしてラサールは今日ではむしろ主流を成しているとも言える保守的な右派労働運動の祖と言うべき人物でもあった。
 同時にラサールはまた、「平均的労賃は生命の維持と生殖のために一国民において習慣的に必要とされる不可欠の生計費に常に限定される」とする有名な「賃金鉄則」や、「労働者は労働の全収益を取得すべきである」とする労働収益論のような誤った、もしくはあいまいな命題を引っさげた「理論家」でもあった。
 生前のラサールはマルクスとも交流し、あの『政治経済学批判』の公刊に際しては出版社探しの労を取ってくれた「恩人」でもあったから、マルクスもラサール生前には彼を公然批判することを避けていたふしもあるが、ラサール死して十余年、なおドイツ労働界に残るラサールの影響を除去することは、まさに諸国の労働運動の中で最も断固たる推進的部分にして、他のプロレタリア集団にもまして強力な洞察力を持つべき共産主義者としての自らの使命と認識したことが、「全く唾棄すべき、また党の士気を阻喪させる綱領」(マルクス)に対する徹底批判の動機となったものであろう。

flag「ゴータ綱領批判」をめぐって
 ドイツ社労党綱領を批判したマルクスの論文「ゴータ綱領批判」は、ほとんど逐条的な形式で細かな字句の使い方に至るまで立ち入って綱領文言を「添削」しているが、それに付随する形で『共産党宣言』でもほとんど空欄とされていた共産主義の定義やその内実について初めてかなり具体的に開陳している点で重要な文献である。
 それによると、資本主義社会からプロレタリア革命・プロレタリアの革命的独裁の時期を経て到達する共産主義社会とは「生産手段の共有を基礎とする協同組合的な社会」と定義づけられる。しかも、この共産主義社会は「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」(低次共産主義社会)と「それ自身の基礎の上に発達した共産主義社会」(高次共産主義社会)の二段階に整理されている。
 このうち「経済的にも、道徳的にも、精神的にも、この共産主義社会が生まれてきた母胎である古い社会の母斑をまだ付着させている」と形容される低次共産主義社会では、なおブルジョワ的な等価交換原理が残存するものの、商品交換は廃され、各人は賃労働で得た賃金で商品を購入するのではなく、自らの労働量(労働時間)に相当する量の物資―そこから社会共同目的に供出される分が控除される―を取得することができる。例えば8時間労働をした労働者Wは、資本主義社会におけるように8時間労働で得た賃金の範囲内で商品Cを購買するのでなく、同等の8時間労働に相当する量の物品G(t8)―以下、当該物品の労働時間量をこのように表記する―を取得するのである。
 こうした等労働量交換の仕組みを担保するための手段として、マルクスは一定量の労働を給付したことを証する「労働証明書」なる一種の有価証券の制度を提唱している。それによると、例えば先の例で、労働者Wは8時間労働分の労働証明書の発行を受け、これと引き換えに消費財G(t8)を取得する。従って、8時間労働分の労働証明書では10時間労働に相当する消費財G(t10)は―それを分割できない限り―取得できないことになる。
 このような低次共産主義の段階ではすでに階級格差は廃されているが、個人の能力や既婚・単身の別や子どもの有無・人数などによる格差はなお残される。しかしそうした権利内容の不平等は、マルクスによれば「長い産みの苦しみの後に資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けることができない」のである。
 それでは「共産主義社会のより高い段階」である発達した共産主義社会(高次共産主義社会)とはどういうものか。これについては、マルクスのいつになく美文調の文学的表現をそのまま引用してみよう。
「すなわち、分業の下への諸個人の奴隷的な従属がなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立もなくなった後で、諸個人の全面的な発達に伴い、かれらの生産諸力も増大し、協同組合的富のあらゆる源泉がいっそう溢れ出るほど湧き出るようになった後で、―そのとき初めて、ブルジョワ的権利の狭い限界が完全に乗り越えられ、そして社会はその旗に次のように書き記すことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」
 このような共産主義の最高段階に達すると、低次共産主義社会における等労働量交換も廃され、人々は各自の能力に応じて労働し、かつ各自の必要に応じて消費することができるようになるのである。言い換えれば、それは労働(生産)と消費(分配)とが完全に分離された社会にほかならない。
 なお、マルクスはあえて明言しないが、共産主義社会では貨幣制度(正確には商品‐貨幣交換)も廃されることが暗黙の前提とされている。
 このようなマルクスの「二段階共産主義」テーゼをいかに受け止めるべきかは、なかなか難しい問題である。実はマルクスが提唱する低次共産主義社会における「労働証明書」とはロバート・オーウェンの「労働貨幣」にヒントを得たものであるし、高次共産主義社会の標語「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」も、マルクスがパリ遊学時代に交流を持ったフランスの初期共産主義者カベーのユートピア小説『イカリア旅行記』から採られている。
 しかし、オーウェンやカベーは、つとに『共産党宣言』の中で「空想的社会主義(共産主義)」として却下されていたはずのものであった。そしてエンゲルスによれば、マルクスは唯物史観と剰余価値の「発見」を通じて「空想から科学へ」到達していたはずであった。すると、マルクスは晩年に至って、今度は「科学から空想へ」逆戻りをしてしまったのであろうか━。
 また、『ドイツ・イデオロギー』では共産主義は創出されるべき一つの状態とかあるべき一つの理想ではなく、現実的な運動であると言明されていたはずであるのに、「ゴータ綱領批判」のマルクスは共産主義社会を創出されるべき状態またはあるべき理想として描き出そうとしてはいないだろうか━。
 こうした揚げ足取り的な疑問はさておくとしても、等労働量交換原理を基礎として労働証明書で消費が規律される低次共産主義社会と労働と消費とが完全に分離される高次共産主義社会とでは、単に低次・高次という程度問題を超えた基本原理の相違があり、その間には新たな社会革命を必要とするのではないだろうか━。
 また、そもそも『共産党宣言』でも提示されていた生産手段が国有化される過渡期の状態から「協同組合的な社会」である共産主義社会への移行―それは国家論としてみれば政治国家から経済国家への転換に対応する―はいかにして可能なのであろうか━。
 このように数々の疑問が浮かぶわけであるが、マルクスをして「ゴータ綱領批判」の中で、付随的な形ではあれ従来の自説に抵触しかねないような共産主義テーゼを吐露せしめたものは、ラサール主義によって弛緩させられたドイツ社労党とその綱領に対する失望と憤懣とであったであろうことは、想像に難くない。

flagフランス労働者党との積極的関わり
 ドイツ社労党との関わりが批判的なものであった反面、マルクスがより積極的な関わりを持ったのは故国ドイツよりもフランスの労働者政党のほうであった。
 フランスでは、先述したように、1871年にパリ・コミューンが敗北した後、コミューン関係者に対する大量処刑・投獄が行われ、革命運動は一気に再び冬の時代に入っていた。しかし、第三共和政は75年に憲法を制定した後、コミューン関係者を大赦するなど抑圧を緩和する姿勢を示したことから、フランスでも労働者政党を結成する動きが生じた。その最初の試みは、当時のフランスにおける数少ないマルクス理論の紹介者であったジュール・ゲードとマルクスの次女ラウラの夫でもあったポール・ラファルグを中心に結成されたフランス労働者党であった。
 マルクスとエンゲルスはラファルグを通じて党綱領の作成に関して相談を受けたことから、80年5月、ロンドンにマルクス、エンゲルスとラファルグ、ゲードが集まって党綱領の起草について協議したのであった。
 その際、マルクスが口述したものをゲードが筆記した綱領前文では、プロレタリアートの解放は生産手段の集団所有によってのみ可能であること、そしてそのような集団所有は一つの確固とした政党に組織されたプロレタリア階級の革命的な行動を通じてのみ立ち現れること、同時にプロレタリア階級は普通選挙への参加を通じて当面の要求を実現することも必要であることなどが明記された。
 前文に続いて、マルクスとエンゲルスの見解も反映しつつ当面の最小限要求事項を掲げる「政治綱領」と「経済綱領」とを含む綱領は、80年11月の党全国大会で一部修正のうえ採択された。
 こうして正式に発足したフランス労働者党はマルクス理論に依拠した初の近代的政党であった。しかしマルクスは間もなく、自身の理論を教条的に理解するゲードやラファルグとも関係が悪化していくのであった。この時吐露されたマルクスの有名な言明が、「もし彼らの政治がマルクス主義を代表しているなら、私自身は決してマルクス主義者ではない」であった。

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