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2012年11月29日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第17回)

第1部 カール・マルクス

第5章 「復活」の時代

(5)正当な再埋葬

偶像化と全否定の狭間で
 マルクスは人間として1883年に死んだが、その後「復活」し、“モスクワ教皇庁”となったソ連共産党によって偶像化された末に、なおも生き続けた。
 そのソ連共産党によって指導されたソ連邦はスターリンの下で強盛化し、その後は巨大な官僚制と常備軍に支えられた軍事的覇権国家として、米国とのいわゆる冷戦のライバルの立場で、核軍拡競争に明け暮れていく。そして、発達した「社会主義社会」への到達を謳い上げてから14年後の1991年、ソ連邦はあっけなく解体した。それとともに偶像マルクスも死んだ。彼は二度死んだのである。
 ソ連邦解体後は、資本主義の道を歩み直し始めた新生ロシアを含め、マルクス全否定の風潮が世界的規模で広がった。政体の上ではなおソ連型の共産党独裁体制を維持する中国でも、共産党指導下で事実上資本主義の道を行く路線転換を実現し、公式宣伝の場を除いては、もはやマルクスはお呼びでない。
 こうして今や、マルクスの偶像がバラバラに砕け散って、その破片が散乱している状態であるが、ほとんど誰もそれを顧みようともしない有様である。偶像化から全否定へ。これほど極端な扱いを受けた思想家は、古今東西マルクスをおいてほかにないであろう。
 しかし、マルクスを全否定する者も、彼が『資本論』第1巻の中で端的に示した次のような状況が現代的な形をとって地球的規模で生起してきている事実は、認めざるを得ない。

「工場制度の巨大な突発的拡張可能性とその世界市場への依存性は、必然的に熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生み出し、市場が収縮すれば麻痺状態が現れる。産業生活は中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。機械経営が労働者の就業に、従ってまたその生活状態に与える不確実と不安定は、このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う茶飯事となる。繁栄期を除いて、資本家の間では各自が市場で占める部分をめぐって激烈極まりない闘争が荒れ狂う。その領分の大きさは生産物の安さに比例する。そのために、労働力に取って代わる改良された機械や新たな生産方法の使用における競争が生み出されるほかに、どの循環でも労賃を無理矢理に労働力の価値よりも低く押し下げることによって商品を安くしようとする努力がなされる一時点が必ず現れるのである。」

 今まさに不確実と不安定の只中に置かれた我々は何をなすべきか。まずは散乱したままの偶像マルクスの破片を拾い集めて、彼を正当に再埋葬することである。ここでマルクスの正当な再埋葬とは、偶像化と全否定の狭間にあって、マルクスの「価値」と「反価値」とを総決算したうえで、マルクスを正しく乗り超えていくことと定義しておきたい。

マルクスの「価値」
 マルクスは何よりも価値論の理論家であったわけだが、マルクス自身の「価値」とは何であろうか。
 この問いに対する答えは様々であろうが、まず第一に、エンゲルスとともに『共産党宣言』を出した19世紀半ばという早い時期に、資本主義のグローバル化を未来完了的に見通していたことである。その意味で、マルクスはエンゲルスとともに、まさに現代21世紀の出来事の予見者であった。
 一方、主著『資本論』に代表される資本主義の分析を通じて、日常的な意識に上らないような不可視の構造を学理的に析出しようとする方法論を創出した点では、後に人類学の分野で確立された構造主義の先駆者としての価値を持つと言ってよい。
 ただし、すでに指摘したように、彼が資本主義の不可視の構造として析出したと信じた「剰余価値」は学理的なオーバーランによる錯覚であった。けれども、マルクス以降、彼が試みたような資本主義に対する体系的な批判を、マルクスを超えるような仕方で達成し得た者は一人もいないという限りでは、依然として大きな「価値」を保っている。
 さらに共産論の分野では、現実の社会的経済的諸条件を考慮しない―マルクスに言わせれば「空想的」な―共産主義を却下し、共産主義を現実的・科学的なものに練り上げようとした―後述するように、この点は問題含みでもあるが―共産主義の刷新者であった。
 なかでも、「資本主義が発達し切ったところで、共産主義への移行が始まる」という一見逆説的な原則命題は、後世の自称マルクス主義者たちに最も理解されなかった点であるが、このように旧来のものを単純に壊す革命ではなく、旧来のものの胎内に孕まれた新しい要素を解放してやる―言わば「脱構築的」な―革命という考え方は、ポストモダンの脱構築理論の先駆けとしての「価値」を持っていたと読み解くことさえできるように思われる。
 しかし、何と言ってもマルクス最大の「価値」は、在野・無産の知識人を最後まで貫いた彼の生き様そのものにあるのではなかろうか。
 そこには反動的時代状況という制約もあったが、彼は並みの大学教授が決して及ばない学識を持ちながら大学教授のような安定した地位をあえて求めず、なおかつ自ら政党を組織したり、あるいはそれに加入したりして権力の座を追い求めることもせず、まるで中世の托鉢修道士を思わせるような自発的貧困の中にあって、自らプロレタリアートの頭脳となることを期待した理論を提供し続けたのである。
 こんな独異な生き方をした思想家は古今東西マルクスをおいてほかにないと言ってよく、そうした点での彼の希少価値はこれからも決して失われることはないであろう。

マルクスの「反価値」
 では、如上のようなマルクスの「価値」に対して、マルクスの「反価値」、言わばバランスシートの負債に相当するものは何であろうか。
 その答えは、マルクスに反対の論者であれば―誤解・曲解も含めて―ほとんど無数に挙がるのであろうが、ここではマルクスを基本的に受容する立場にあっても看過することのできない重要な点に絞ってみていきたい。
 まず、最も重大な問題は、マルクスが想定する共産主義社会の内実とそこへ至る道筋が抽象的なままに終始したことである。「マルクスは未来社会の青写真を描かなかった」と評されるゆえんである。
 もっとも、前に見たように、マルクスは資本主義からプロレタリアート独裁期を経て低次共産主義社会、そして高次共産主義社会へ至る簡単なスケッチを示してはいた。そして、別のところでは共産主義社会の比較的まとまった定義として、「合理的な共同計画に従って意識的に行動する自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合から成る一社会」と総括したこともあった。
 とはいえ、そういう社会を建設するための工程表や設計図をマルクスは残さなかったのも事実である。それは、彼が、先に見たように、空想を排して科学を強調したからである。科学者の役割は現存社会を分析することであって、未来のユートピアを描いてみせることではない。一応そう理由づけることができる。
 しかし、革命という企ては本来、科学よりも建築に近いと言える。革命を企図する以上、設計図を持っていなければ建築技術者たる革命家は仕事にならない。後世のマルクス主義者が置かれた状況は、そういうものであった。いきおい勝手に作った設計図をマルクスのものと称して建物を建てる羽目となった。これではしっかりした建物が立つはずもなく、ソ連をはじめマルクス主義を称した体制は構造計算を誤った欠陥建物のようなものにすぎなかった。
 この設計図なき建築のもととなったマルクスの科学主義は、19世紀後半における自然科学の飛躍的な発展という大状況に対応していることは明らかであるが、自然科学が対象とする自然とは異なり、人間界の制度や慣習を対象とする社会科学では、マルクスも『資本論』第1巻第1版序文で認めていたように、「顕微鏡も化学試薬も役立たない。抽象力がその両方の代わりをしなければならない」。
 そうだとすると、社会科学における「科学」の強調は、抽象的法則性の偏重を生じやすく、それは理論の教条化につながる。そこにエンゲルス以降、マルクス理論の教条化が進んだ要因の根があるとみることができる。
 さらに、彼の無類の論争癖と論争相手を完膚なきまでに論破しなければ気が済まない過剰なまでのポレミカルな性格は、実際、彼の手を離れたマルクス主義にも神学的なポレミクスの性格を与えた。マルクス主義にあっては、他のどの思想体系よりも正統/異端(修正主義)をめぐる論争がことさらに激しく繰り広げられ、マルクス主義を標榜する政党・団体の内部では、時に人命の損失を結果する粛清を伴う激烈な党争も茶飯事となった。
 もちろん、そのすべてをマルクスの責めに帰することはできないが、宗教的思惟とは無縁のはずであったマルクス理論が擬似宗教化を免れなかったことは、マルクスその人の論争スタイルと関連があることも否めない。
 さらに、歴史的な観点からみると、19世紀初頭の西欧に生まれ、同世紀末に西欧で没したマルクスは、典型的に19世紀西欧知識人であった。このことをマルクスの「反価値」と呼ぶのは酷かもしれないが、それはマルクスをほとんど必然的に西欧中心主義に導いた。 彼の活動舞台はほぼ独仏英を中心とした西欧心臓部に限定されており、歴史研究上「アジア的生産様式」に着目したことを別にすれば、アジア・アフリカは視野に収められていなかった。それゆえ、彼のアジア認識は「ロシアを略奪し、焼け野原にしたモンゴル人は、かれらの生産である牧畜にかなった振る舞いをした」(『経済学批判要綱』序説)というレベルのものにとどまったのである。
 実際のところ、モンゴル人は単なる略奪者ではなく、東西交易の強力な保証人にして、帝政ロシアの成立にも少なからず触媒の役割を果たしたのであるが。しかも、皮肉なことに、牧畜の国モンゴルはロシア10月革命後ほどなくして、世界で二番目にマルクス主義を標榜する社会主義国家として歴史に再登場したのであった。
 こうして、マルクスが19世紀西欧知識人であったことはまた、マルクス理論を生産力第一主義から免れ得ないものにした。マルクスが生きていた時代の西欧では、英国を中心に産業革命が進展し、生産力の著しい発展が見られた。彼はその様子を間近で観察しながら思索し、活動していたのである。
 そのため、彼によると、資本主義が発展していけばいずれ資本主義的生産諸関係それ自体が生産諸力の発展の桎梏となるのに対し、プロレタリア革命を経て高次共産主義社会の段階にまで達すれば、「生産諸力も増大し、協同組合的富のすべての源泉がいっそう溢れるほど涌き出るようにな」るはずだったのである。一般的な反共宣伝のマニュアルにおいては、「共産主義社会では生産力は減退し、社会は貧困化する」とされてきたこととは裏腹に、マルクスの説得法は「共産主義社会でこそ生産力は著しく伸びる」だったのである。
 それゆえに・・・・と短絡すべきではないが、ソ連をはじめマルクス主義を標榜した体制(東側陣営)は、生産力の競争において「西側に追いつき、追い越せ」を合言葉に、ひたすら生産力の増強を追求し、環境的持続可能性には無頓着な政策に終始した結果、西側を上回る自然破壊・公害問題を引き起こしたのである。
 今日でも、マルクス主義者は一般に、かれらの論敵である資本主義的成長論者と並んで、環境問題に関する懐疑論派を形成していることが少なくない。
 しかし、ソ連邦解体以降、地球環境問題は最重要の国際的関心事項となった。こうした状況の中では、たしかに我々はもはやマルクスに依存することはできないと言わざるを得ない。マルクスは、歴史の中の人なのである。 (第1部了)

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