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2012年11月24日 (土)

マルクス/レーニン小伝(連載第16回)

第1部 カール・マルクス

第5章 「復活」の時代

(4)ソ連体制とマルクス

共産党独裁体制
 レーニンを権力の座に就けたロシア10革命の結果登場したのは、ボリシェヴィキ改めロシア共産党(後にソ連邦共産党と改称)による一党独裁体制という怪物であった。
 この体制がマルクス主義を体制教義としたことで、共産党独裁がマルクスの提唱したプロレタリアート独裁(以下、原則として「プロ独」と略す)の具現化であるかのように錯覚されてきたが、このような錯覚はまさにソ連体制が内外の人々をそう信じ込ませようとした宣伝の結果でもある。
 この点、レーニンがカウツキーを「背教者」呼ばわりするきっかけとなった論争は、レーニンのプロレタリアート独裁論をめぐるものであった。レーニンは当初、10月革命を下支えする原動力となったソヴィエト(労働者‐兵士評議会)への全権集中をもってプロ独とみなしていたが、カウツキーは議会主義者としてこのようなレーニンの所論を非民主的と批判したのである。
 これに対するレーニンの反論はプロ独と民主主義を二律背反的にとらえるのは誤りで、プロ独とはプロレタリアにとって最高の民主主義の形態であるというものであった。
 しかし、ここにすでにマルクス理論からの離反が認められる。たしかにマルクスはパリ・コミューンに対する性格づけとしてプロ独という概念を導いたので、彼がこれを反民主的と認識していたはずはない。
 とはいえ、前にも指摘したとおり、マルクスにとってプロ独とは資本主義社会から共産主義社会へ至る過渡期の国家形態にすぎず、しかもその「独裁」とは反革命反動に対する防御的独裁であって、積極的な独裁ではなかった。ところが、レーニンの場合、プロ独の過渡的・防御的性格に対する認識が希薄であり、将来における「国家の死滅」―これもすでに指摘したとおり、マルクスは「国家の死滅」ではなく、政治国家から経済国家への転換を説いたのであるが―が抽象的に予示されはするものの、プロ独が積極的な国家形態として把握されているのである。
 こうした把握の仕方が、やがてレーニンとボリシェヴィキの権力掌握後にはソヴィエトの骨抜きとボリシェヴィキ改め共産党の一党独裁という特異な政治体制への転化を結果したのである。この体制が「ソヴィエト連邦」を名乗るようになったのはレッテル詐欺と言うべきもので、ここでの「ソヴィエト」は10月革命時のソヴィエトとは似て非なるものであった。それは共産党の決定を追認するだけの名目的な会議体と化していたのだ。
 さらに言えば、マルクスのプロ独はまさにパリ・コミューンのようなコミューン(自治体)を基礎として、複選制代議機関を通じて中央政府には最小限度の機能だけが残されるような非中央集権型「独裁」であったのであるが、レーニンにはこのような視座は欠落しており、共産党独裁体制はボリシェヴィキの中央集権型組織をそのまま国家体制に平行移動させた巨大な中央集権国家として立ち現れた。
 こうしたマルクス理論とはかけ離れた体制のあり方について、ローザ・ルクセンブルクは端的に「たしかに独裁ではあるが、プロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治屋たちの独裁、つまりブルジョワ的な意味での独裁である」と切り捨てた。また、遠く日本から固唾を呑んでロシア革命の行方を注視していたアナーキスト・大杉栄も「真相はだんだんに知れてきた。労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自身が、革命の進行を妨げるもっとも有力な反革命的要素であることすらがわかった」と書き付けたのである。
 このレーニン的な意味におけるプロレタリアート独裁国家は、10月革命から60年後の1977年に制定された新憲法前文によると、「ソヴィエト国家はプロレタリアート独裁の任務を果たし終え、全人民国家となった。全人民の前衛たる共産党の指導的役割が大きくなった。」とマルクスが仰天しかねない地点へ到達したのだった。
 マルクスの場合、プロ独を終了した後のプロレタリアートは「階級としての自分自身の支配を廃止する」。そして、その後直接に共産主義社会へ移行していくのであり、プロ独が終わった後になおも「全人民国家」であるとか、「全人民の前衛たる共産党」などがグズグズと残留する余地はない。
 こうして、ソ連体制はマルクスの名においてマルクスとは無縁の森へ迷い込んでいく。そして、共産党の前衛的指導性を高らかに謳い上げた新憲法の制定からわずか14年後に、ソ連体制は終焉したのである。

国家社会主義
 レーニンは経済政策の面では「統制経済から社会主義へ」という構想を抱いており、第一次世界大戦中の総力戦における統制経済を社会主義体制へ転化させることができると信じたのである。彼はこの信念に基づき、内戦の間、いわゆる「戦時共産主義」と称する統制経済政策を施行し、特に工業生産の国家的集中(国有化)を推進していった。
 しかし、この「戦時共産主義」はその中の最も問題含みのプログラムであった食糧の強制的な割当徴発制が農民層の強い反発を呼び、農民反乱を引き起こしたことから、レーニン政権は内戦終結後、事実上資本主義を復活させる新経済政策(NEP:ネップ)に転換する。
 ただ、これは農民慰撫と経済復興を兼ねた技術的・一時的な政策転換にすぎず、レーニンの真意が生産手段の全般的な国有化にあったことは間違いない。このような国有化政策は、マルクス(及びエンゲルス)も『共産党宣言』の中で提言していたところであるから、この点に関してレーニンはマルクスに忠実であるように見える。
 しかし、レーニンにあっては統制経済と計画経済とが十分に識別されていない。マルクスが想定していたのは、パリ・コミューンの敗因分析に関連づけて言われていたように、「協同組合連合会が共同計画に従って全国的生産を調整し、そのうえでそれをかれら自身の管理下に置」くような計画経済システムであった。つまり、ここでは生産企業である協同組合が連合して自主的に「共同計画」を策定・実施するような体制が予定されているのである。
 ところが、レーニン存命中の1921年に創設され、後継者スターリンの下で本格始動した国家計画委員会(ゴスプラン)は行政機関であり、ここでの「計画」とは官僚の手による国家主導のプランにほかならず、その本質は統制経済である(行政指令経済)。ただ、民間経済を国家が政策的に統制するにとどまらず、一応生産手段の国有化が実現する限りではこれを「社会主義」と呼んでも誤りではなかろうが、それは国家中心の社会主義=国家社会主義であった。
 もっとも、マルクスも資本主義社会から共産主義社会へ移行する過渡期の段階―国家論としてはプロレタリアート独裁に相当する―としては、資本を国家にいったんは集中する国家社会主義体制を想定していたと解し得るかもしれない。
 この点、先の77年ソ連憲法前文は当時のソ連社会の発展段階を「発達した社会主義社会」と規定しつつ、それは「共産主義への道における法則にかなった段階である」とも規定していた。しかし、マルクスに「発達した社会主義」と「共産主義」の段階的区別は存在しない。よって、憲法前文の言う「法則」とは、少なくともマルクス自身の法則ではない。
 結局、ソ連では、マルクスにおいてはせいぜい過渡期の段階にすぎない国家社会主義が遷延し、定在化してしまったのだと考えざるを得ない。「共産主義への道」はすでに空文句と化して久しかったのである。
 ちなみにマルクスより2年先に没したロシアの文豪ドストエフスキーは、問題作『地下室の手記』の中で一人称の主人公にこんなことを言わせている。「人間は何かを達成するプロセスは好きなくせに、目的を達成してしまうことはあまり好まないときている」。ソ連体制はマルクスよりも地下室の主人公の「法則」のほうにかなっていたのではなかろうか。

“モスクワ教皇”スターリン
 レーニンが病気のため10月革命のわずか7年後に世を去ると、後を継いだのは晩年のレーニンから「粗暴」と懸念されたグルジア人のスターリン(本名ジュガシビリ)であった。
 スターリンはレーニン存命中から党書記長として台頭していたが、当時の書記長職はせいぜい事務局長といったところで、スターリンは党の実務責任者として「豪腕」を発揮し始めていた。レーニンはスターリンの解任を検討していたが、実現しないまま没した。
 スターリンは十分な知的素養を欠く党専従活動家であり、後のソ連社会で支配層を成す党内官僚の第一世代であった。当然マルクス理論に対する彼の理解度はレーニンにも遠く及ばなかった。彼の得意分野は理論闘争よりも権力闘争にあった。その正反対のキャラクターであったライバルのトロツキー(本名ブロンシュテイン)を退けたスターリンはあっという間に党内権力を確立、以後第二次世界大戦をまたいで1953年に死去するまで、マルクスとは似ても似つかない個人崇拝的な独裁体制を保持したのである。
 レーニンと異なり、理論面では何ら独創性も深味もなかったスターリンは、マルクスとレーニンの異質な理論を教条的につなぎ合わせて「マルクス=レーニン主義」なる体制教義を作り上げ、これをマルクス主義の正統/異端を分ける教理問答集に形骸化させた。そのうえで党組織の官僚化を完成させ、ソ連共産党をマルクス主義の教皇庁に仕上げたのである。こうしてスターリンはいよいよ擬似宗教の度を高めたマルクス主義の言わば初代“モスクワ教皇”の座に就いたのだ。
 レーニンとスターリンの関係については、「レーニンの正しい理論と路線を粗暴な独裁者スターリンが歪めてしまったためにソ連体制は失敗に終わった」とする理解が根強く残る。こうした理解がどこまで妥当であるのかについては、第2部で改めて検証するとして、マルクスとの関係で言えば、マルクス=レーニン主義なる体制教義はマルクスその人とは全く無関係であると断じてよい。
 実際、本当にマルクスが「復活」してマルクス=レーニン主義に接すれば、それは自らとは何ら関係ないとして、あの「ゴータ綱領批判」のような手厳しい批判論文を書き、自らの名を削除するよう求めたに違いないようなシロモノなのである。
 もっとも、マルクス=レーニン主義とマルクスとの乖離は、すでに概観してきたように、レーニンによるマルクス理論からの離反によって生じていたことの延長ではあるが、それにしてもスターリン治下でのマルクス主義の教理問答化は、後に明るみに出る大量粛清などの組織的人権侵害に象徴される「スターリン主義」までマルクスの責任に帰するような「冤罪」にマルクスを巻き込むことになったのは確かである。
 そういう点で、レーニンの後継者にスターリンという特異な人物が座ったことは、そもそもロシア10月革命がマルクスからの離反者レーニンの指導でマルクスの名において実行されたことに続き、マルクスにとって二重の不幸であった。
 それではスターリンの代わりにトロツキーが就任していればより良かったのかと言えば決してそうではない。しかし、この問題もそれを論ずるにふさわしい第2部に譲ることにしたい。

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