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2012年10月 3日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第52回)

第7章 略

四 帝国主義の攻勢(続き)

(4)帝国主義の展開〈2〉:対象地域[上]
 
帝国主義の展開を地域的に見ると、およそ非ヨーロッパ世界がくまなく列強の餌場とされたと言ってよいが、時期的にはアジア侵略が先行する。このようにアジアが帝国主義の入り口として使われたのは、東インド会社以来、アジアにはヨーロッパが足場を築いていたことからして必然であった。ただ、帝国主義的侵略の対象としてのアジアはもはや単なる貿易基地でなく、原料供給や製品市場としての役割を押し付けられるのである。
 その最も悲惨な例が英領インドであった。インドでは18世紀まで手織り高級綿布が最大の輸出品であったが、英国による領土化が進むと英国産の安価な機械織り綿布の消費地に変えられたことで、インドの伝統的な家内工業として営まれた綿工業は壊滅的打撃を受け、貧困や飢餓すら招いた。
 一方で、アジアが資本輸出先とされた限りではやはり英領インドがそうであったように、道路・鉄道網や通信網のような社会基盤の整備も積極的に行われ、「強制的近代化」が推進されもしたのである。
 なお、英国は南アジアではインド領有に先立って、仏教系の島国スリランカをオランダから奪い、1815年以降領有し、茶を中心とするプランテーションを営んでいた。また、同じ頃、英国は東インド会社を通じて、1769年にシャハ王朝により全土統一されたばかりのネパールにも手を広げ、グルカ戦争(1814‐16)に勝利して領土の大半を獲得した見返りに補償金を支払うことになった。しかし間もなく一部を返還し、補償金も廃止したため、ネパールの完全な領有はならず、ネパールは南アジアでは例外的に独立を保持した。
 一方、インドで英国に敗れたフランスは東南アジアに目を付け、仏教系のインドシナ半島侵略へ向かう。足がかりとなったのはベトナムであった。フランスは1860年代以降、フランス人の一宣教師がその成立に関わった阮朝との数次にわたる条約を通じて1884年までにベトナムを保護国化した。ベトナムに対する宗主権を主張する清との間で戦われた清仏戦争(1884)に勝利したフランスは87年、カンボジアなども包括するフランス領インドシナ連邦を作出、99年にはラオスも編入した。
 これに対抗して、英国も仏教系ビルマの侵略に向かい、18世紀末以来この地を統治していたコンバウン朝と三次にわたる戦争の末、1886年に降伏させ、これに先立つ77年にヴィクトリア女王を皇帝として作出していたインド帝国に合併した。
 英国は東南アジアでは東インド会社の時代から錫やゴム資源の産地であるイスラーム系マレー半島の権益をオランダと争い、1824年の英蘭協約でマラッカ海峡の北側マレー半島を英国の勢力圏とする取り決めを勝ち取った。これに基づいて英領マラヤが作出された。 英国に押し込まれたオランダも17世紀以来拠点としてきたマラッカ海峡南側のインドネシアを引き続き拠点として保持した。そのオランダによってこの地域から閉め出されていたポルトガルもティモール島東部(東ティモール)にわずかな足場を残していた。
 またフィリピンはスペインが依然として領有していたが、1898年に米国との間で戦われた米西戦争に敗れて米国へ割譲された。これによってフィリピンは米国のアジア・太平洋進出の足場となる。
 結局、東南アジアで帝国主義的侵略を免れたのはタイのみであった。それはタイが地政学上、英仏両勢力の緩衝地帯に立地したことに加え、18世紀以来この地を支配していたチャクリー朝(現王室)の外交手腕によるところが大きい。
 以上に対して、欧米列強や日本の領土分割の標的となった中国、専ら日本の餌場とされた朝鮮については固有の問題を含むため、後に改めて言及する。
 次いで、西アジアのうち、オスマン帝国に関わる部分は次々節に回し、まずはイランとアフガニスタンである。このカフカス・中央アジアに接続している地域は、かねてより南下政策を採るロシアが付け狙っていた。
 特にカフカスと接するイランではサファヴィー朝がアフガニスタンのイラン系パシュトゥン族の侵入を受けて崩壊した後、サファヴィー朝を継いだトルコ系アフシャール朝に仕えていたトゥルクメン系軍事貴族から出たカージャール朝が18世紀末からカフカスにまたがって支配していたが、19世紀に入るとロシアは同朝への攻勢を強め、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアなどのカフカス地域を順次攻略していった。
 一方、インド支配を万全のものとするためにもインド西部で接するイランをロシアから防衛したい英国も、カージャール朝への干渉を始めた。英国は対露戦などによるカージャール朝の財政危機に乗じて、英国人実業家に交通・通信・金融から石油に至る利権を譲渡させる手法で経済支配を強めていった。しかし1890年にタバコ専売権の譲渡が決まると、イラン民衆はタバコ・ボイコット運動で抵抗し、これが1905年の立憲革命につながる。
 しかし、07年に英露協商を結んだ両国はイランの分割を画策し、翌年から英国黙認の下にロシアが軍事加入し、革命を挫折させたのである。その結果、ロシアはイラン北西部を、英国は南東部を各々勢力圏としたが、いずれも完全なイラン領有化には成功しなかった。
 一方、英国にとってはインド北部で接するアフガニスタンもインド経営上枢要であった。アフガンでは1747年以来、アフシャール朝から独立したパシュトゥン系ドゥッラーニー部族の王朝が支配していた。
 ここでもロシアの南下に加え、隣国カージャール朝の侵入を防ぐため、英国は19世紀前半と後半の二度にわたり、アフガン領有化を狙って交戦したが、いずれもアフガン部族の山岳ゲリラ戦に苦しめられた。そこで、英国はアフガンの外交権を奪って保護国とするべくインドとの国境線を一方的に定め、1907年の英露協商でロシアと敵対しない限りでアフガンを英国の勢力圏とすることを合意した。
 結局、英国はロシアとともに、イラン・アフガニスタンの完全な植民地化には成功しなかったことになる。これらは現地民衆の抵抗が帝国主義を牽制し得た数少ない実例であった。

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