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2012年10月 8日 (月)

天皇の誕生(連載第31回)

第七章 「昆支朝」の継承と発展

(3)辛亥の変と獲加多支鹵大王(続き)

欽明=獲加多支鹵大王
 前回まで見てきたように、正史上継体天皇=男弟大王の没年や陵墓もあいまいにされているのは、おそらく『書紀』の作為ではなく、まさに欽明自身が二人の異母兄を殺害して王位を簒奪した流血の謀反の事実を後世に対して隠蔽するため、関係証拠を抹消したことから、実際のところ、8世紀の『書紀』編纂者にとっても継体死去後の状況が判然としなくなっており、政変の有無も論定できなかった。それで、彼らは『百済本記』に依拠しつつ、注記で異説をも紹介し、問題の解明を後世に委ねるとして匙を投げてしまっているのだ。
 ここまでは欽明の目論見どおりであった。しかし、彼とて配下の名もない一武人がはるか東国の地で証拠を残してしまうとは思ってもみなかったであろう。ところが、ここに考古学的にも辛亥の変を裏づけられ得る証拠品がある。それが有名な埼玉県の稲荷山古墳出土の次のような鉄剣銘文である。

(表)辛亥年七月中記。乎獲居臣上祖、名意富比コ(土偏に危)。・・・・・以下、裏面途中まで八代の系譜が続く。
(裏)・・・・・・・・・・。世々為杖刀人首、奉事来至今。獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也。

=和訳文=

(表)辛亥年七月中に記す。乎獲居臣の先祖の名はオオビコという。:・・・・・・・以下系譜省略。
(裏)・・・・・・・。代々、杖刀人の長として、奉仕し今日に至る。獲加多支鹵大王の宿営が斯鬼宮にあった時、大王の天下を補佐し(たことのしるしに)、この百練利刀を作らせ、わが奉仕の根源を記すものである。

 通説はこの銘文中の「獲加多支鹵」を第21代雄略天皇の和風諡号「大泊瀬幼武」[おおはつせのわかたけ]の「幼武」に当たるとして、これを雄略天皇に比定し、銘文冒頭の辛亥年とは雄略が在位したとみなされる471年と特定している。
 このような解釈は、『宋書』に登場した「倭王武」をもって同じく「雄略天皇」の「幼武」に当てる通説とも重なる一面的な語呂合わせの論法である。それらは考古学的な証拠に照らして『書紀』を批判的に読解し直そうとするのでなく、『書紀』の叙述を正当化するために考古学的証拠を利用しようとする通説の基本姿勢の表れである。
 こうした通説に真っ向から挑戦し、銘文の辛亥年は471年の次の辛亥年に当たる531年と解すべきこと、「獲加多支鹵」とは雄略ではなく、欽明であることを看破したのは、やはり前出の石渡氏であった。筆者も賛成である。
 その形式上の根拠として、前出石渡氏も重視するように、銘文中使用されている草冠が略された「獲」の異字体の使用例が中国でも朝鮮でも6世紀代であることからして、この字体が日本に入ってきたのも6世紀を下らないと見られ、471年説は成立し難いという点は重要である。
 さらに銘文中、「獲加多支鹵」の宮とされる「斯鬼宮」[しきのみや]は磯城郡にあった欽明の「磯城島金刺宮」[しきしまのかなさしのみや]に近く、雄略の宮とされる「泊瀬朝倉宮」[はつせのあさくらのみや]とは符合しないことも無視できない。
 この問題には鉄剣が出土した稲荷山古墳の年代論も絡んで複雑であるが、531年の次の辛亥年に当たる591年では新しすぎて古墳の年代が合わないので、以上の根拠からだけでも531年説に落ち着かざるを得ないのである。
 そうすると、銘文が言っているのは、531年に乎獲居臣[おわけのおみ]なる杖刀人首(=近衛隊長)が獲加多支鹵大王の天下を補佐したということである。これは辛亥の変に際して、獲加多支鹵大王=欽明の天下取りを助けたということを意味していると読めるわけである。
 もちろん、乎獲居臣は政変に直接言及するほど軽率ではなかったが、特に辛亥年に天下を左治したというような大仰な表現で記念の鉄剣を作らせたのは、重大な政変に彼も参画したことの暗示であり、彼はそのことを「奉仕の根原」とまで表現して誇示しているのである。

「雄略天皇」の正体
 では、通説が何かと依拠する「雄略天皇」は全くの架空人物かと言うと必ずしもそうではない。「雄略」とは、欽明=獲加多支鹵大王の分身像なのである。
 その根拠として、両者はともに諱が記されず、和風諡号がそのまま名前に転用されていること。このことはどちらも本名を出すことが恐れ憚られるほど―まさに諱=忌み名―偉大な事績を持つ大帝であったことを示している。
 第二に、「雄略」の宮があった泊瀬には欽明も離宮を持っていたこと(欽明31年条に見える泊瀬柴籬宮[はつせのしばかきのみや])。
 第三に、秦氏・漢氏の再編(欽明元年、雄略15・16年)や吉備への介入・征服(欽明16年ミヤケ設置、雄略6年吉備下道臣一族殺害)など、重要な事績に符合性があること。
 実際、欽明=獲加多支鹵大王は、「雄略」(=雄雄しく攻略する)の諡号にもふさわしい勇猛な武人タイプであり、『書紀』に「自分の心だけで専決されるところがあり、誤って人を殺すことも多かった」と評される「雄略」そのものと言ってよい武断政治の人でもあった。この点では、父・男弟大王よりも祖父の昆支大王に似た専制君主であったし、実際、彼は祖父を崇敬していたようである。
 欽明天皇の名は仏教受容とともに記憶されているが、仏教政策はどちらかと言えば受動的・形式的なもので、むしろ彼は祖父の昆支を神格化して後の八幡信仰の原型を作ったものと考えられる。このことは最も古い八幡神社である誉田八幡宮(誉田山古墳に付設された八幡宮)の社殿が社伝によれば欽明の命で創建されたとされている事実に現れている。また八幡宮総本宮の宇佐神宮の社伝でも同神社の由緒として欽明32年に応神天皇が童子の姿で託宣したとされることも同様に欽明と八幡信仰のつながりを示唆する。
 一方で、欽明は自らの出自から言っても旧加耶系王権派に同情的であり、父・男弟大王の和解政策のよりいっそう強力な継承者でもあった。このことは、欽明が主たる宮を河内でなくヤマトの「斯鬼宮」、すなわち旧王権の拠点でもあった磯城郡に置いたことにも現れている。そして彼が祖父をしのぐ40年に及んだ長い治世の後に没して葬られたのもまさに旧王権の王都であり、旧王家末裔の軽氏の本貫地でもあった軽の地であったことにも示されている。
 ちなみに宮内庁治定欽明陵は奈良県明日香村の平田梅山古墳となっているが、墳丘長138メートルの同古墳は巨大化した時期の大王墓とは言い難く、むしろ近年の学界通説は橿原市大軽町の見瀬丸山古墳(墳丘長318メートル)を真の欽明陵と見ている。この古墳の横穴式石室の長さは28メートル余りと全国一であり、墳丘長も奈良県下最大規模という大きさで、地理的にも欽明の出自に符号するものである。
 欽明=獲加多支鹵大王墓は、久しぶりに大阪から奈良へ帰ってきた大王墓で、これ以降、彼の子孫たちの陵墓は再び奈良県側に築造されるようになるのである。

金村失墜と大王親政
 辛亥の変の結果、王位に就いた欽明=獲加多支鹵大王は、『書紀』欽明紀の即位年である539年時点でも「年若干」とされているほどであるから、辛亥年の531年にはおそらくまだ20歳代前半くらいの若さであったと思われる。そうしたことから、少なくとも正史上の欽明即位年とされる539年までは、クーデターの影の立役者であった老宰相・大伴金村が政治上の実権を掌握したものと考えられる。
 何しろ男弟大王の太子とその実弟という最有力者の殺害は大変な衝撃であったことは間違いなく、まさに二朝並立の内乱が起きてもおかしくない状況であったから、最初のおよそ10年間は政情安定化のために軍を掌握していた金村が実権を取ることは合理的であった。また欽明が「宣化天皇」(檜隈高田皇子)の娘・石姫[いしひめ]を正妃に迎えたというのも、殺害した異母兄の遺児を娶って宥和を図る金村主導による政略婚であろう。
 では、この間、欽明自身は何をしていたかと言うと、おそらく彼の本領である武人として軍団を率いて主に九州遠征に従事していたものと思われる。男弟大王の末期、磐井戦争に勝利したとはいえ、敗者の筑紫君を含め、九州勢はまだ完全に屈服したわけではなかったから、引き続き平定のため遠征が必要であったし、欽明自身、政変から日が浅く、政情不安が続く間は、畿内の政治はベテラン宰相に委ねて畿外の軍営にこもっているほうがまだしも安全であったろう。
 欽明が金村から実権を取り戻したのは、正史上の欽明元年とされる540年頃と見てよいであろう。この年に金村は事実上失墜し、辞任に追い込まれているからである。
 この失墜は同年、欽明が新羅征討の可否を重臣らに諮問したところ、物部尾輿が、かつて金村が百済の願いをたやすく聞いて「任那四県」を割譲したことを新羅が恨んでいるので軽々しく討つべきでないと、辛亥の変の遠因ともなった30年近くも前の一件を蒸し返して金村を糾弾するような進言をしたことに端を発する。これに対し、金村は自分が任那を滅ぼしたと群臣が言うので、恐ろしくて出仕できないとして、登庁してこなくなった。欽明は慰留に努めたが、結局金村は引退する。
 この尾輿の金村糾弾→欽明の慰留は作為的であり、欽明自身が「新羅征討協議」にかこつけて金村を引退に追い込み、実権を回復したものと読める。ここに金村引退をもって大王親政が開始されるのである。
 金村に代わって宰相格として欽明の右腕となったのは、蘇我稲目[そがのいなめ]であった。彼は個人的にも欽明に相当に食い込んでいたらしく、自身の2人の娘・堅塩媛[きたしひめ]と小姉君[おあねのきみ]姉妹を同時に欽明妃として嫁がせ、2人で合わせて18人もの皇子・皇女を生ませている。やがてその中から、女王を含む複数の大王が輩出し、蘇我氏が最強の皇親氏族として隆盛する土台となった。
 これほど急激に台頭した蘇我氏の出自とは何かという問題はしばらくおくとして、稲目は金村失墜後30年余りに及んだ大王親政の間、欽明に寄り添い、欽明死去の1年前に没するまで、大王と一心同体で畿内王権の領域拡大と行政・経済改革を主導していくことになるのである。

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