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2012年10月18日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第7回)

第1部 カール・マルクス

第3章 『資本論』の誕生

(3)経済学研究の道

漂流からロンドン定住へ
 マルクスはプルードン批判書『哲学の貧困』を公刊した後、そこで展開した経済学的論点をさらに練り上げる研究へ進むはずであったが、それを中断せざるを得ない事情に直面する。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を公刊した1848年、フランスでルイ・フィリップの7月王政が倒れる2月革命が勃発したのだ。
 これは急進的なブルジョワ革命であって、プロレタリア革命ではなかったが、臨時政府には社会主義者のルイ・ブランや労働者代表も参画し、国立工場の設置など部分的に社会主義的施策にも踏み込んだ点では画期的であった。2月革命に引き続いて同年3月にはウィーンとベルリンでも革命が起き(3月革命)、その余波はベーメン、ハンガリーなど東欧を含めた東西ヨーロッパに広く及び「連続革命」の様相を呈した。
 そうした中、フランス臨時政府はまだブリュッセルにいたマルクスにも招請状を送ってきたが、隣国からの革命の波及を恐れたベルギー当局は3月、マルクスに24時間以内の国外退去を命じ、マルクス夫妻を拘束したうえフランス国境へ連行・追放した。
 こうしてマルクスは再びパリへ戻るのであるが、ベルリンの3月革命を受けて故国へ帰国する決心をしたマルクスは間もなくケルンへ移る。次章で詳しく述べるように、マルクスはドイツの3月革命をプロレタリア革命に先立つブルジョワ革命ととらえ、これをプロレタリア革命へ高めるべく助長せんとしていたのである。そこで彼は共産主義者同盟の仲間たちと新たに『新ライン新聞』を創刊して理論的活動拠点とするとともに、労働者組織の結成にも尽力する。
 しかしフランス2月革命が社会主義化を恐れるブルジョワジーの反動化によって挫折すると、周辺諸国の革命も連鎖的に挫折・収束していった。ケルンでも48年7月以降、共産主義者同盟メンバーの逮捕が相次ぎ、49年5月にはマルクスにも退去命令が出された。そこでマルクスは再びパリへ舞い戻るが、前年12月に大統領に就任していたルイ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの甥)の反動体制に変わっていたフランスに、もはや彼の居場所はなかった。結局、マルクスは49年8月、比較的自由で多くの亡命者を受け入れていた英国のロンドンへの亡命を余儀なくされるのである。

どん底生活と精力的研究
 ロンドンに定着したマルクスが自由と引き換えに直面したのは、貧困であった。妻イェニーの言葉によると、とりわけロンドン生活初期の1850年から53年にかけては「絶えず心を蝕む不安と、あらゆる種類の窮乏、本当の貧乏が続いた」時期であった。
 ちなみにマルクス夫妻は50年から55年までの間に次男ハインリヒ、三女フランチェスカ、長男エドガーの三児を相次いで病気で失っている。いかに子どもの死亡率が全般に高かった時代とはいえ、これだけの短期間に三児を失ったところには、借金の取立てに追われ、治療代にも事欠いたマルクス一家の苦境が示されている。
 しかし同時に、マルクスの経済学研究が大きく前進したのも、このどん底生活時代であった。50年には共産主義者同盟も弾圧の中で分裂し事実上活動を停止していたから、1850年代のマルクスは政治的実践からはひとまず離れ、懸案の研究に時間をさくことができたのだった。彼は当時世界最大級の蔵書を擁していた大英博物館図書室を研究室代わりに、膨大な先行著作・原資料を読み込み、研究ノートを作成していく。
 一方、スイス亡命を経て、同じくロンドンへ亡命してきたエンゲルスは間もなくマンチェスターへ移り、父親が経営する商会で働きながらマルクスを支えるようになった。彼はマルクスが生活の足しにするため51年から寄稿を始めた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』へ送るマルクス名義の原稿の相当部分を代筆さえしてマルクスが本業の研究に十分時間をさけるように配慮したのだった。

『政治経済学批判』の完成
 こうしてどん底の中での研究の結果、1859年に公刊されたのが『政治経済学批判』(以下、単に『批判』という)である。マルクス41歳。大英博物館で研究を始めてから9年の歳月が経っていた。そのわりに本文170ページと薄手の本になったのは、元来マルクスは全六部構成という壮大な大著を企画しており、『批判』はそのうちの第一分冊にすぎなかったためである。
 持ち込み原稿のうえ内容も難解で出版社探しは容易でなかったが、当時マルクス、エンゲルスと交流があり、後にドイツ労働者総同盟を結成するフェルディナント・ラサールの仲介でベルリンの出版社から初版千部で刊行される運びとなった。
 しかし、この自信作は著者の期待に反してほとんど売れず、マルクス生前には初版のみで絶版となってしまった。そのため、予定していた続巻の刊行も断念せざるを得なかった。ただ、『批判』の内容はその8年後にプランを変えて出した主著『資本論』第1巻の中により練り上げられた形で収録されたため、今日では『批判』はその本文よりも序言のほうに重要な意義が認められている。というのも、序言にはマルクスの経済学研究の理論性格と基本視座が自身の言葉で簡潔に要約紹介されているからである。
 そうした序言の概要をも参照しながら中期のマルクスが到達した経済理論の性格を考えると、それは『政治経済学』という表題―同じ題が『資本論』では副題として使われている―が如実に示すように、古典派経済学(政治経済学)に代替する新たな経済学体系なのではなく、資本主義生産様式とそれに照応する経済理論である古典派経済学(政治経済学)への体系的批判理論であった。
 従って、いわゆるマルクス経済学なるものは幻想である―そう言って悪ければ、それは後世の人々がマルクスの名を冠して構築したマルクスその人とは無関係の学問であると言って過言でない。ちょうど政治路線としての「マルクス主義」がマルクスその人とは無関係であるように。
 一方、このマルクス独自の「政治経済学批判」は脱歴史化された「理論経済学」でもなく、その基底には先行的に確立してあった唯物史観が埋め込まれた歴史理論でもあった。それが『批判』序言の中ではやや図式化された形で、有名なアジア的→古代的→封建的→近代ブルジョワ的生産様式という発展段階論、さらに土台としての経済的構造の上に法的かつ経済的な上部構造が構築されるとする社会構造(構制)論として凝縮されている。
 同時にまた、この「政治経済学批判」は単なる経済理論に終始せず、社会革命の条件を探る社会理論をも内包している。すなわち社会の物質的生産諸力がある発展段階で既存の生産諸関係と矛盾を来たし始めた時点で社会革命の時期が始まる。逆言すれば、一つの社会構成体は全生産諸力がその中で完全に発展し尽くされない限り没落することはない。なおかつ新たな高度の生産諸関係はその物質的な存在諸条件が既存社会の胎内で孵化し切らない間は旧来の社会構成体に取って代わることはない。
 この「革命の孵化理論」と呼ぶべき社会理論は公式的な唯物史観テーゼの影に隠れてあまり注目されてこなかったが、これはマルクスにける「革命の科学」と呼んでもよい「政治経済学批判」の重要な一部を成している。
 このように中期のマルクスが到達した「政治経済学批判」は包括的かつ複合的な社会批判理論として姿を現すのである。

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