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2012年10月

2012年10月31日 (水)

指の体操競技

 最近の内外の若手ピアニストたち―さしあたりクラシック分野に限定する―は実によく指が動く。ピアニストというより、アスリート(ピアノアスリート?)と呼んだほうがいいくらいだ。いわゆる「技巧派」揃い、超の付く「超絶技巧派」も珍しくない。ピアノに向かっていた時分、指のもつれに悩まされた者からすると羨ましい限りである。
 たしかに、ピアノはオルガン、さらにはアコーディオンなども含む鍵盤楽器の中でも指の体操的な側面が強く、指の運動神経なしには高度な演奏は無理であろう。
 それはそれとしても、近年の若手技巧派の演奏はどうも機械音のように聞こえることが多い。いわゆるメカニックな演奏スタイルである。私見ではピアノの機械的演奏ほど味気ないものはない。音を出すだけならジョークでなく猫が触っても音が出るのがピアノであるが、それを音楽的に響かせるには単なる技巧を超えたタッチが必要であるはずだが、そういう理想のタッチを徹底追求しようとする若手は少ないように見える。
 その要因として、コンクールの全盛という現実があるだろう。かつてはポピュラー音楽の世界のようにコンクール歴なしの即デビューも可能だったのと異なり、クラシック音楽の世界ではコンクール歴が一般世界の学歴に代わるデビュー・パスポートとして定着してきたため、内外に多数のコンクールが林立している。特にピアノ・コンクールは数が多いので、実質的なデビューに漕ぎ着けるには、内外のコンクールで優勝・入賞歴を重ねる必要がある。
 コンクールでは順位をつける必要から採点評価が行われるので、審査員間の意見対立で順位が決まらない事態を避けるためにも客観評価に偏りやすい。楽器演奏で客観評価と言えば、技巧のレベルである。いきおい、コンクールでは技巧派が上位入賞する傾向が強まり、音楽的には優れていても技巧に難があると、落選の憂き目を見やすい。
 他の楽器の状況はよく知らないが、現代のピアノ・コンクールとは事実上スポーツの競技会と化していると言って過言でないかもしれない。要するに音楽とスポーツの境界が接してきているわけで、将来はピアノ演奏が「指の体操競技」としてオリンピック種目になる日も来るのでは?などと考えてしまうのである。

2012年10月28日 (日)

老子超解:第十三章 儒教批判

十三 儒教批判

大なる道が廃れて、仁義が生じたのだ。(小ざかしい)知恵が現れて、儀礼が始まったのだ。肉親が不和になって、孝行や情愛が必要となったのだ。国家が混乱して、忠臣が現れたのだ。


 老子思想の重要なモチーフの一つは、儒教批判である。ある意味で、老子の思想形成は儒教との対決を通じて実現したと言って過言でない。そうした老子の主要な論敵である儒家に対する批判が最も直截的かつ凝縮的に展開されているのが、通行本で第十八章になる本章である。
 老子からすれば、万物の始原であるが廃れたところから、儒教のような人為的な道徳哲学が生じてくる。儒教における道徳とは、老子的なの体得=道得[とうとく]とは対極にある人工的な規範にすぎない。老子にとって、儒教とは奸智や不和、国乱の表象なのであった。
 実際のところ、孔子は周王朝が崩壊し、人々の精神的よりどころが失われた乱世の時代に出現し、人間社会に新たな秩序を与え直そうとしたのだったが、その際のキータームが「仁」であった。
 しかし、本章冒頭で挙げられる「仁義」は孔子の次世代・孟子が「仁」にそれをより客観化した「義」を加えて提唱した合成的キータームである。老子がこの概念に言及しているということは、彼が孔子ではなく、孟子と同時代かより後代の人であったことを証するところでもある。

2012年10月27日 (土)

マルクス/レーニン小伝(連載第11回)

第1部 カール・マルクス

第4章 革命実践と死

(4)バクーニンとの対決

flag第一インターの分裂
 第一インターの内部ではパリ・コミューンの前後からマルクス‐エンゲルスを支持するグループとロシア出自の無政府主義者ミハイル・バクーニンを支持するグループとの間での対立が激化していた。
 1814年生まれのバクーニンはロシア貴族の出自でマルクスとはほぼ同世代に当たり、マルクスもパリ時代から彼と交流を持っていた。バクーニンはまたマルクス‐エンゲルスの『共産党宣言』最初のロシア語訳者でもあった。
 しかし二人の性格と思想は大きく異なり、マルクスが冷静な理論派であり、社会革命としてのプロレタリア革命の条件・時機と方法を慎重に見極めようとするのに対し、バクーニンは農民やルンペン・プロレタリアートによる一揆的な革命による国家の廃止を追求する主意主義的な直接行動派であったから、二人のそりが合うはずもなかった。
 (2)で触れたバクーニンも参画した平和自由連盟への第一インターの参加をめぐる問題の背後にもマルクスとバクーニンの対立が見え隠れするが、第一インター内部では1869年のバーゼル大会でマルクス派とバクーニン派の対立が表面化した。そしてパリ・コミューン敗北後最初の大会となった第五回バーゼル大会では、ついにバクーニン派除名という事態となった。その理由はバクーニンらがセンターの支配または解体を策動しているというものであった。
 マルクスは総評議会の会合には熱心に出席していたが、大会となると多忙や病気等を理由に初回からすべて欠席していたにもかかわらず、第五回に限ってはエンゲルスとともに初めて大会に乗り込み、バクーニン派除名決議の採択を主導したのであった。バクーニンと対決する彼の意気込みが感じられる行動である。
 バクーニン派除名を決議した第五回大会は、同時に総評議会のニューヨーク移転をも決議した。これはバクーニン派除名による第一インターの内部分裂を新天地アメリカで回復せんとの狙いによるものであったが、運動中心地ヨーロッパを離れたことは第一インターの事実上の活動停止を意味するものにほかならなかった。

flagバクーニン批判草稿
 バクーニンは第一インターを除名された直後の1873年、主著『国家と無政府』を公刊し、マルクス批判を展開した。これに対して、マルクスも74年から75年にかけて同書に全面的に反駁する草稿「バクーニンの著書『国家と無政府』摘要」を執筆したが、公刊するには至らなかった。しかし、この草稿は後期マルクスの国家理論・政治理論の到達点をかなり率直に示している点で重要である。
 バクーニンによるマルクス批判の中心は要するに、マルクス理論に従いプロレタリアートが革命によって支配階級の地位に就いても国家を廃止しないならば必ず抑圧は残るであろうという点にあった。これは国家の廃止を訴える無政府主義者バクーニンにとっては当然の問題意識であった。
 これに対するマルクスの回答は、プロレタリアートが支配階級となってもまだブルジョワ階級が闘争すべき相手として残存し、ブルジョワ的社会組織と経済的諸条件が存続している限りはそれらを力で除去せざるを得ず、そのために国家はなお必要であるというものであった。
 これは前節末尾で留保しておいた問題、すなわちマルクスが「プロレタリアート独裁」と言うときの「独裁」とはいかなる意味かという問題に関連しているが、その答えは革命後の反革命反動に対処するための、言わば「防御的独裁」ということになるであろう。
 かようなマルクスの認識はやはりパリ・コミューンの無残な敗北を目の当たりにした経験に基づくものであったろうし、それはまた彼が執筆した第一インター声明の中でも、全般に穏健的であったコミューンが実行した数少ない抑圧措置であるブルジョワ系新聞に対する発禁処分やパリ大司教以下人質60人余りに対する超法規的処刑をすら擁護してみせたゆえんでもあったであろう。
 しかし、「プロレタリアート独裁」は永遠に続くわけではない。マルクスは75年に書いた論文「ドイツ労働者党綱領に対する評注」(通称「ゴータ綱領批判」)ではさらに一歩を進め、「プロレタリアートの革命的独裁」を現存資本主義社会と将来の共産主義社会との間の「革命的転化の時期」に対応する「政治的な過渡期」の国家形態として定式化している。

flagマルクス的国家論
 ではこうした「過渡期」を過ぎて共産主義社会に到達した暁に、国家はどうなるのか。これについては先のバクーニン批判草稿の中に一つの答えが示されている。
 それによれば、階級支配が消滅する共産主義社会では今日の政治的な意味での国家はなくなる。つまり、(一)統治機能は存在せず、(二)一般的機能の分担は何らの支配をも生じない実務上の問題となり、(三)選挙は今日のような政治的性格を完全に失う。そして共産主義的集団所有の下ではいわゆる人民の意志は消え失せ、協同組合の現実的な意志に席を譲るというのである。
 言い換えれば、共産主義社会では階級支配の道具としての政治国家は廃止される。しかしおよそ国家が廃止されるのでないことは「ゴータ綱領批判」でも「共産主義社会の未来の国家制度」という言い方がなされ、「共産主義社会では国家制度はいかなる変化をたどるであろうか?言い換えれば、そこでは現在の国家の諸機能に類似したいかなる社会的諸機能が残るであろうか?」という問いが立てられていることからも明らかである。この自問に対する自答の一端が先のバクーニン批判草稿に示されていたわけである。
 要するに政治国家としてのプロレタリアート独裁を通過した国家制度の到達点は、政治的性格を失った、言わば統治しない国家、しかも協同組合(生産協同組合)の現実的意志がそのまま国家意志でもあるような経済国家だというのがマルクスの所論である。このことは、若き日の『ドイツ・イデオロギー』の中でより抽象的な形で「共産主義の編成は本質的に言って経済的なもの」と述べられていたところとも符合している。
 しばしばマルクスは、その信奉者からも、拒否者からも、階級廃絶に伴う国家の死滅を説いたと喧伝されてきたが、決してそうではない。正しくは、統治機能を有しない協同組合連合的国家の形成を説いたのである。もちろん、そのような政治国家ならぬ経済国家というものが果たして現実に存立し得るかどうかという問題はまた別である。

2012年10月26日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第10回)

第1部 カール・マルクス

第4章 革命実践と死

(3)パリ・コミューンへの関与

flag普仏戦争への反対
 マルクスが第一インターにおける活動として最も大きな足跡を残したのは1871年のパリ・コミューンへの関与であったが、コミューンの前哨戦として前年に勃発した普仏戦争があった。第一インターは総評議会名で二つの声明を出して戦争に反対した。
 いずれの声明も実質的にマルクスの手になる論説形式の長い声明文である。彼はドイツとフランス双方の労働運動が参加する第一インターにあって両国の労働者階級が分断されないよう相当に腐心している。
 戦争の経緯からすると、スペイン王位継承問題をめぐる対立を契機に、フランスがプロイセン側の挑発に乗せられる形で始まった普仏戦争に関し、第一声明はこの戦争をプロイセンにとっての防衛戦ととらえたうえ、プロイセンがこの戦争をフランス侵略戦争に転化しようとすることに反対するようドイツ労働者階級に求めたものである。
 第二声明は実際にプロイセンがその優勢な軍事力をもってフランス侵略に出ようとする中で、フランス・プロイセン国境のアルザス・ロレーヌ地方のプロイセン併合に反対するようドイツの労働者階級に呼びかけるとともに、フランスの労働者階級に対してはプロイセン軍がパリに迫ろうとする中で、第二帝政崩壊後の新たな共和政(第三共和政)を直ちに倒そうとすることを時期尚早としていさめたのであった。
 こうしたマルクスの努力は実らず、フランスはプロイセンの軍門に下り、ルイ・ボナパルトがプロイセン軍の捕虜となって崩壊した第二帝政に代わって成立した第三共和政政府は71年1月、プロイセンに降伏し、2月にはアルザス・ロレーヌ地方の大部分の割譲を含む屈辱的な仮講和条約をプロイセン中心に統一されたばかりのドイツ帝国との間で締結したのである。
 このような第三共和政の屈従的な外交姿勢に憤激したパリ民衆が3月に武装蜂起し、パリに一種の革命的解放区を設立した。これがパリ・コミューンである。

flagパリ・コミューンへの支援
 マルクスは、普仏戦争に関する第一インター第二声明でも触れていたように、フランスで成立したばかりの第三共和政に対する即時のプロレタリア革命には否定的であり、むしろこのブルジョワ共和政の下で生じ得る自由をプロレタリア革命へ向けた組織化のために利用することを要請していたのであった。彼は前章でも見た「革命の孵化理論」からしても、機の熟さない早まった革命的蜂起の非現実性を強く認識していたからである。
 しかし、パリ民衆は革命的行動に打って出てしまった。これはその経緯からすると、第三共和政の対独屈従外交への怒りに端を発しているので、純粋に「プロレタリア革命」とは言い難い面もあった。しかしマルクスはパリ民衆の蜂起をプロレタリア革命とみなし、その結果成立したパリ・コミューン組織を「労働者階級の政府」と認めて支援に乗り出したのである。
 実際のところ、当時のフランス労働運動の中ではコミューンの6年前に没したプルードンの影響がかなり残っていた一方、マルクスの理論はまだ浸透していなかった。しかし、マルクスはコミューン関係者に対して手紙を通じて精力的に助言した。
 一方、コミューンが局地的な反乱に終わらないよう、マルクスはエンゲルスや次女の夫ポール・ラファルグらとも協力しながら、フランス西南地方でもパリ・コミューンに呼応した民衆蜂起を助長すべく種々の工作を行ったほか、他国の労働者階級に対してもパリ・コミューンとの連帯行動を取るよう手配もした。
 しかし、マルクスの当初の危惧と警告が正しかったことが間もなく証明された。パリ・コミューンは結局、ドイツ軍の支援を受けたフランス政府軍の武力鎮圧作戦の結果、約2万人とも言われる犠牲を出してわずか70日余りで崩壊し去ったのであった。

flagコミューンの敗北とその分析
 パリ・コミューンはこうしてブルジョワ支配体制の前に完全に敗北してしまった。マルクスは再び第一インター総評議会名で長文の声明を出し、コミューンの意義とその敗因について詳細な分析を加えた。
 「それ(コミューン)は本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、その下で労働の経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であった」という有名な命題を含むこの声明は、大きな犠牲を払ったコミューンに対する追悼の色調を帯びているために、コミューンへのやや過大な評価が散見されなくもないが、マルクスはコミューンの敗因分析を否定的な論難の形式で行うのでなく、むしろコミューンへのオマージュの形式で、現実にそうであったコミューンの姿と、本来そうあるべきであったコミューンの理念型とを交錯させながら論じようとしている。
 それとともに、マルクスはこの分析を通じて、『共産党宣言』をはじめ従来の著作では明らかにしてこなかったプロレタリア革命の結果生ずるべき政治制度の一端をも明らかにしたのである。
 マルクスのよく知られた、しかしよく誤解されるテーゼは「コミューンは議会制ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた統治体であった」というものである。マルクスが声明とは別の機会にコミューンを「プロレタリアート独裁」と規定したことから、マルクスは議会制民主主義を否定する共産党独裁政治の支持者であるというような誤解もいまだに根強い。
 たしかにマルクスはお喋りの府にすぎない議会を称賛する単純な議会制の支持者ではなかったが、しかし代議制を否定するものではなかったことは、先の命題のもう少し後のところで、「各地方の農村コミューンは中心都市における代議員会議によってその共同事務を処理すべきであり、かつこれらの地方会議がさらにパリにおける全国代議員会議に代議員を送るべき」云々と複選制に基づく代議政体のあり方に言及していることで判明する。
 しかも、この代議制は代議員が選挙人によっていつでもリコールされ得る命令委任を採るべきものとされている。そして司法官を含む公務員も選挙され、かつリコールされ得るものでなければならない。そのうえ常備軍は廃止される。
 こうしてみれば、マルクスの「プロレタリアート独裁」とは、議会制民主主義よりもずっと急進的な民主主義体制を予定していたとさえ言えるのであり、この「独裁」という語は通常意味されるものとは別様に解されなければならない。これについては、バクーニンのマルクス批判論とも絡めて次節で改めて検討することにしたい。

2012年10月25日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第9回)

第1部 カール・マルクス

第4章 革命実践と死

マルクスは、何よりもまず革命家でした。
―盟友フリードリヒ・エンゲルス

(1)共産主義者同盟の活動

flag1848年「革命の年」
 ここで時期を遡って、マルクスが理論的活動と不可分一体のものとして重視した革命的実践活動の軌跡を追ってみよう。
 第2章でも見たとおり、マルクスが初めて革命的実践と呼び得るものに関わったのは最初の亡命地ブリュッセルでの共産主義者同盟の活動であったが、1848年のフランス2月革命を機にブリュッセルを追われると、パリを経てベルリン3月革命後のプロイセンへ戻り、ケルンを拠点に労働者組織の結成に尽力する。
 マルクスとエンゲルスはつとに『共産党宣言』の中でドイツにおける革命の展望として、立ち遅れた半封建的なドイツではプロレアリア革命に先行してまずブルジョワ革命がなくてはならないと論じていた。そしてこの「プロレタリア革命の前奏曲」たるブルジョワ革命の局面では、共産主義者はプロレタリアートを支援しつつ、革命を主導する進歩的ブルジョワジーとも連携するが、同時にブルジョワ革命成就後は一転、プロレタリアートがブルジョワジーに対する闘争を開始することができるように労働者に階級対立の意識を生じさせる努力をするというのである。
 マルクスはこれに関連して、共産主義者同盟員へ向けた呼びかけの中で、ブルジョワ革命後に「新しい公式の諸政府と並行して・・・・独自の革命的な労働者諸政府を打ち立て(る)」ことを求めている。これはいわゆる並行権力論であり、後にロシア革命時のいわゆるソヴィエト(評議会)で実践されたのであるが、1848年のドイツではそもそもブルジョワ革命自体が不首尾に終わってしまったのである。
 こうした結果に至ったのは、マルクスによれば、革命の一つの所産でもあったフランクフルト国民議会が空疎な憲法論議に明け暮れ、またプロイセン・ブルジョワジーが反革命反動らと手を組んだせいであった。
 一方、連続革命の震源地フランスは4月の総選挙でプチ・ブルジョワらと農民層の支持を受けたブルジョワが勝利し第二共和政を開始すると、社会主義者は排除され、すでに単なる失業対策事業と化していた国立工場も閉鎖された。怒ったパリの労働者による6月蜂起―マルクスはこれをプロレタリア革命と認め、『1848年6月の敗北』(後に『フランスにおける階級闘争』として改題公刊)で分析した。―も政府軍によって鎮圧された。これを機に反動化が進み、ルイ・ボナパルトの独裁体制・第二帝政へとなだれ込んでいくのであった。

flag弾圧と分裂・解散
 前章でも先取りしたように、フランスの反動化を契機として周辺諸国の革命も順次挫折していき、マルクスのいたケルンでも共産主義者同盟関係者の検挙に続いて、マルクスにも退去命令が出たため、パリを経由してロンドンへの亡命を余儀なくされたのであった。
 ロンドンは一時マルクスら亡命者のたまり場のようになった。そこで、マルクスとエンゲルスは亡命によって廃刊せざるを得なかった『新ライン新聞』の後継的な新聞『新ライン新聞 政治経済評論』をハンブルグで創刊するとともに、共産主義者同盟の再建に着手した。しかし資金難に加え、同盟の内部分裂も激しくなった。
 この頃、共産主義者同盟の本部はパリからケルンへ移っていたが、1851年中旬から6月にかけて、まだケルンに残留して活動していた有力メンバーが一斉逮捕・起訴された事件―マルクスはこの一件をパンフレット『ケルン共産党裁判の真相』にまとめ、53年にバーゼルとボストンで匿名出版した―を機に事実上壊滅状態に陥ってしまった。こうした経緯にかんがみ、同盟存続の意義は消滅したと判断したマルクスの提案に基づき、52年11月、同盟は解散を宣言した。設立からわずか5年あまりの命脈であった。
 結局のところ、共産主義者同盟も、その綱領文書であったマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』も、1848年の連続革命にはほとんど影響を及ぼさなかったし、その後も組織力の弱さから同盟はプロイセン当局の一撃の下に壊滅してしまったのである。それほどに当時の彼らはマイナーな存在にすぎなかった。

(2)国際労働運動への参画

flag国際労働者協会の創立
1848年の連続革命が挫折した後は、革命運動にとって「冬の時代」が続く。そうした中でマルクスらの共産主義同盟も潰されてしまったのであった。
 共産主義者同盟を失ったマルクスの革命実践にも10年以上のブランクが空くが、1864年になって転機が訪れる。この頃ヨーロッパ労働運動の国際化の機運が生じ、同年9月にロンドンで開かれた国際労働者協会(第一インターナショナル:以下、「第一インター」という)の創立集会に招かれ傍聴していたマルクスは勝手に委員に選出されてしまったのだ。しかも彼は協会創立宣言と規約を起草する小委員会の委員を委ねられることになった。
 この第一インターは10年前の共産主義者同盟とは異なり、革命運動というよりまさに労働運動であった。しかし「冬の時代」にあって共産主義的な運動が各国政府の弾圧を回避しながら存続していくためには、このような穏健化された形態を取るよりほかになかった。
 それでもマルクスは委任された創立宣言文や規約条項を通じて、大要「労働者は政治権力の獲得を偉大な責務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を根絶するという究極目標を、自らの手で勝ち取らなければならない」と述べ、改めてプロレタリア革命のテーゼを繰り返している。
 第一インターの第一回大会は66年にジュネーブで開かれた。この大会は第一インターのわずか十余年の命脈の中で五度開催された大会の中で最も盛況で、組織のあり方や運動方針といった当面の問題から、労働時間、協同組合、労働組合、常備軍といった政治経済上の諸問題に至るまで様々なテーマで活発な討議が行われ、論争家マルクス好みの大会であったはずだが、彼はちょうど『資本論』の執筆が最終段階に達していた折りで出席することができなかった。
 しかしマルクスは翌年、この大会での討議事項に対応する自己の見解を反映させた第一インター中央評議会(後に総評議会)代議員への指示文書を発表している。
 その中で特に注目すべきは労働組合の役割についての指摘である。彼は労働組合が賃金増と労働時間短縮のために果たしてきた役割を高く評価しつつ、「賃労働と資本支配の制度そのものを廃止するために組織された道具」としての労働組合の重要性を指摘し、労働組合が賃金奴隷制そのものに反対して行動する自己の力を十分に理解し、労働者階級の完全な解放という広大な目的のために、労働者階級の組織化の中心として行動することを学ばなければならないと述べるのである。要するに、彼は労働組合による賃上げ・時短闘争のような個別的闘争を重視するとともに、労働組合をプロレタリア革命のための中心的組織たるべきものとも認識していたのである。
 彼は第一回大会前年に第一インターで行った講演『賃金、価格及び利潤』の中ではもっと端的な標語的表現でこう言っている。「かれら(労働者階級)は、「公正な一日の労働に対する公正な一日の賃金!」という保守的な標語の代わりに「賃金制度の廃止!」という革命的なスローガンをかれらの旗に書き記さなければならない」と。そして同じ講演の結びでも「それ(労組)が現行制度の結果に対するゲリラ戦に専念してそれと同時に現行制度を変革しようとしないならば、その組織された力を労働者階級の究極的な解放すなわち賃金制度の究極的な廃止のためのテコとして利用しないならば、一般的に失敗するであろう」と警告している。
 その後の各国労組はマルクスのこの警告を無視し、それどころかプロレタリア革命を自己否定さえして、まさしく「一般的に失敗」したのであったが、資本側から見ればそれは労働組合を完全に体制内化することに成功したことを意味するだろう。

flag平和自由連盟との対決
 初期の第一インターにおけるマルクスの活動で注目されるのは、ヴィクトル・ユゴーやジュゼッペ・ガリバルディ、ミハイル・バクーニンといったそうそうたるメンバーが参加して1867年にジュネーブで設立された国際組織「平和自由連盟」(以下、単に「連盟」という)との対決である。
 この組織の目的は「諸国民間の政治的・経済的条件を決定すること、特にヨーロッパ合衆国を樹立すること」にあるとされていた。参加メンバーを見ると、人道主義の作家ユゴーに、イタリア統一運動の指導者ガリバルディ、無政府主義の巨頭バクーニンと著名ではあるが雑多な顔ぶれにふさわしいあいまいな組織であり、第一インター諸支部やマルクスにも参加を呼びかけていた。
 しかし首尾一貫性を重視するマルクスがこのようなヌエ的な運動組織に関わることはあり得なかった。彼は67年8月、第一インター総評議会での講演で、国際労働者協会の大会はそれ自体が平和大会にほかならないこと、それは諸国の労働者階級の団結こそ究極的な国際間の戦争を不可能とするに違いないからであること、よって労使関係を変革する事業に手を貸そうとしない者は世界平和の真の条件を無視するものであることなどを指摘し、「総評議会代議員は連盟の大会に公式に参加してはならず、国際労働者協会の大会において連盟の大会への公式参加を支持する動議が出されたときはこれに反対するよう指示する」との決定案を提出し、総評議会は全会一致でこれを採択したのであった(ただし、67年のローザンヌ大会はこの総評議会決定を無視して連盟への参加を決議した)。
 こうした対応に見られるように、マルクスは現実の階級構造を無視した幻想的な「諸国民」の連帯ではなく、国境を越えたプロレタリアートの団結こそが世界平和の真の条件であると確信していたのである。
 時代下って今日、階級構造を無視した平和自由連盟流の「平和運動」はなお盛んである。しかも連盟が構想した「ヨーロッパ合衆国」はヨーロッパ連合(EU)という中途半端な形態で実現されつつある。しかし、第一インターの後裔と目される国際労働運動はもはや存在していない。従って―とマルクスなら言うであろう―、真の世界平和への道のりはなお遠いのである。

2012年10月24日 (水)

天皇の誕生(連載第34回)

第七章ノ二 「昆支朝」の継承と発展・(続)

(6)二つの任那問題

幻想の「任那経営」
 『書紀』の継体紀と欽明紀では、任那(加耶)をめぐる外交・軍事問題(任那問題)がことさらに重視されており、その関係記事の分量が内政関係記事を上回っている。
 とりわけ、「任那日本府」なる一種の植民統治機関が突如現われ、これを通じて倭が加耶地方を統治しているかのような叙述も見られるため、「神功皇后」の三韓征伐伝承と合わせて、戦前には日本の朝鮮半島支配を正当化する歴史的根拠として利用されたところであるが、今日でも「任那日本府」を何らかの実態を伴った出先機関とみなそうとするのが依然として通説と言ってよい。
 しかし、「任那日本府」は半島側でも何ら考古学的に立証されないばかりか、『書紀』の叙述自体によってさえ、その設置時期も機構も明らかにされない幻の組織体なのである。
 そもそも畿内王権側では、王家が加耶系から百済系に変更された5世紀後葉以降、加耶地方に対する王朝ルーツとしての関心は低下していた。もっとも、王権内にはなお加耶にルーツを持つ有力氏族が残留していたから、加耶に対する関心が全く失われたわけではなかったかもしれないが、それは王権総体としての関心ではもはやなかった。
 他方、半島内では百済が4世紀末以来、加耶地方への領土的野心を隠さず、常に浸透を図っていたところ、6世紀に入ると、新羅が英主・法興王(在位514年‐539年)の下、軍事力を強化し、加耶地方への進出を図り出したため、百済との軍事衝突が頻発するようになり、5世紀前半以来の百済との友好関係に亀裂が入り始めた。
 一方、加耶地方南部では天孫ニギ族の故国・金官加耶が5世紀後半以降すっかり衰退し、代わって北部の大加耶(慶尚北道高霊)が479年には中国南朝の南斉に遣使するほどの力をつけ、6世紀代には盟主格となる。そして522年には新羅と通婚同盟を結ぶに至る。一方、金官加耶は532年に最後の王・金仇亥(仇衡王)が新羅に自主投降し、新羅の版図に入った。
 この間、倭では531年に継体=男弟大王が死去し、例の辛亥の変が勃発しているので、532年の金官加耶滅亡は継体時代でないはずであるのに、『書紀』では新羅に破られた南加羅(金官加耶)などを再建するとして、近江毛野臣なる人物を派遣する話や、新羅が筑紫君磐井を買収して反乱を起こさせる話などが思わせぶりに記されるが、いずれも疑わしい。近江毛野臣もそれが毛野氏の一族だとすると、毛野氏は関東を本貫とする豪族であるから、近江毛野臣は名無しの素性不明者で、実在性は疑わしい。
 ただ、継体紀で注目されるのは、継体23年条に加耶地方南部の安羅が新しく高堂を建てたとする記事である。安羅は6世紀に入ると衰退した金官加耶に代わって加耶南部で外交的に力をつけた模様で、この「高堂」も一種の国際会議場として提供され、ここに関係当時国の使臣が招かれている。「任那日本府」も安羅に所在したとされるから、これは安羅が設置した「高堂」を『書紀』が都合よく「日本府」にすりかえたものとも考えられる。
 ともあれ、「任那問題」は欽明紀にも引き継がれ、百済を交えた大々的な国際会議(いわゆる任那復興会議)に発展する。そこで注目されるのは、欽明の詔の中で、百済王(武寧王を継いだ聖王)に対して、「任那が滅んだら、汝のよりどころを失う」とか、「任那は爾の国の柱である」といった言い方で、百済に対して「任那復興」を勧めていることである。
 ここに「任那問題」の本質が現れている。要するに、倭(畿内王権)は倭済同盟の中で百済の任那権益をバックアップしていただけで、積極的に自国の国益としては考えていなかったということである。であればこそ、倭側は百済の再三の援軍要請を引き延ばして、欽明15年になってようやく送った援軍も小規模で、大して役に立たなかったのである。
 こうして「任那経営」の幻想性は『書紀』の叙述自体によっても確証され得るのである。従って、562年には大加耶も新羅に滅ぼされ、実質上加耶地方が新羅の領土に編入されたこと(ただし、なお独立を保った小邦も残存したことは『書紀』が7世紀代まで「任那」の遣使を記録することから推測できる)は、倭にとって格別痛手ではなかった。
 それよりも、百済の聖王が551年に新羅と合同して高句麗を攻め、旧都・漢城を奪回しながら新羅に裏切られて漢城を占領された末、554年には対新羅戦で戦死してしまい、約一世紀に及んだ羅済同盟が一転敵対関係に変わったことのほうが、倭にとってははるかに重大な国際関係の変化であった。

「任那四県割譲」問題
 如上の「任那問題」と区別されるべきもう一つの「任那問題」は、辛亥の変の遠因ともなった継体6年の出来事「任那四県割譲」問題である。
 これは同年に百済が使いを送って上哆唎[おこしたり]、下哆唎[あろしたり]、娑陀[さだ]、 牟婁[むろ]の四県を譲るよう要請してきたことをめぐり、大伴金村と哆唎国国守・穂積臣押山はこれを認めようとしたのに対して、太子の勾大兄皇子は「応神天皇以来、宮家を置いてきた国を軽々しく与えてしまってはならない」として反対し、政権内部で意見対立が生じた一件である。
 ここで『書紀』は「任那四県」と記すが、この「四県」とは半島西南部の全羅南道栄山江流域から蟾津江[ソムジンガン]の求礼[クレ]付近の地域に比定されている。そうするとこのあたりは任那ではなく、むしろ旧馬韓の領域であるから、「馬韓四県」と呼ぶべきものであった。
 百済は北方の扶余族が南下して馬韓に建てた小国・伯済が次第に馬韓全域に領土を強大して強国化したものだが、馬韓でも最南部に当たる「四県」のあたりは後代まで未征服であったところ、475年の漢城陥落で王都を南の熊津に遷して以来、東城王代には父・昆支大王の統治する倭の支援の下にこの馬韓最南部への領土拡大を図っていたと思われる。
 ただ、この頃の百済は今だ復興途上にあり、征服地を自力で統治できないため、倭に統治を委任していたものと考えられる。その考古学的根拠として、この地域に倭流の前方後円墳が突如出現することが挙げられる。これはこの「四県」の委任統治に当たった押山のような現地総督級の官人や将軍の墳墓と推定される。勾大兄の指摘した「応神天皇(昆支大王)以来、宮家を置いてきた」云々とは、このような経緯を指しているものであろう。
 一方、継体6年当時の百済王は武寧王であったが、彼の代になると百済に中興の兆しが見え国力を回復したため、「四県」の割譲―正確には「返還」―を要請してきたというのが真相と思われる。
 結局、割譲容認派が勝利し(男弟大王も支持したと思われる)、「四県」は百済に引き渡される。しかしこの問題は尾を引いたらしく、容認派の金村や押山は百済から収賄したと中傷され、20年後に辛亥の変の遠因となったばかりか、30年後には欽明=獲加多支鹵大王が金村を引退させ、親政を開始する口実として使われるといういわくつきの問題であった。
 この「馬韓四県」問題が「任那四県」と記して伝承されたことも、後世になって「任那経営」の幻想を生み出す一つの要因となったかもしれない。

百済王子の出自を持つ昆支大王(応神天皇)を開祖とする「昆支朝」は、子の男弟大王(継体天皇)、孫の獲加多支鹵大王(欽明天皇)へと引き継がれ、特に異母兄から武力で王位を簒奪した獲加多支鹵は支配領域を拡大し、畿内王権を領土国家として大きく成長させることに成功した。
しかし、大王の没後、昆支朝はにわかに斜陽化していく。その過程で始まった「蘇我氏の専横」の真相とはどのようなことであったのだろうか。

2012年10月23日 (火)

天皇の誕生(連載第33回)

第七章ノ二 「昆支朝」の継承と発展・(続)

(5)行政=経済改革

中央行政機構
 昆支大王、男弟大王時代の畿内王権は旧加耶系王権時代以来の地域王権の性格を脱しておらず、中央行政機構も未整備であったが、重臣の合議制は昆支の専制支配を緩和した男弟大王代におそらく百済の佐平制度を参考にして徐々に整備され、大臣・大連の制度が形成されていったものと思われる。しかし、なお百済のような担当部ごとに分かれた中央行政機構は未発達であった。
 これに対して、獲加多支鹵大王=欽明は、様々な職能集団を大王直属の部民として再編することによって、一種の中央行政機構を組織したものと考えられる。
 この点、『書紀』では雄略紀で、宍人部・少子部・史部のほか、陶作部・鞍作部・錦織部・画部、さらには鳥養部、安閑紀では犬養部など様々な大王直属部の設置が記されているが、これらは基本的に欽明時代の行政=経済改革の成果である。
 これらの部の多くは渡来系の職能集団であると同時に、一種の行政部局としての機能も果たし、部ごとの責任者の官人が置かれた。これは後の律令制下での中央行政機構には程遠いが、6世紀半ば頃の倭の社会的条件の枠内では十分進歩的な改革策であり、大王の行政権力と財力の双方を同時に強化する一石二鳥の効果を果たした。
 ただし、ここまでが限界であり、『書紀』は「雄略」の遺言の形で「朝野の衣冠のみはまだはっきりと定めることができなかった。教化刑政も十分広く行われたということはできない」と記すように、「朝野の衣冠」=官人の冠位制度(令)、「教化刑政」=刑罰制度(律)の整備は次の7世紀を待たねばならなかったのである。 

地方行政制度
 欽明時代に畿内王権が領土国家として発展するのに伴い、地方支配を強化するための新しい制度が必要となった。おそらく欽明治世初期には征服地の地方首長から領地をミヤケとして献上させたうえ、そこへ中央から文武の官人を移住・入植させて大王直轄地を経営させるというバターンが通常だったと思われる。
 この点で、例の稲荷山古墳鉄剣に銘文を刻んだ杖刀人首・乎獲居臣や、江田船山大刀に銘文を刻んだ典曹人(文官)无利弖(ムリテ)はそれぞれ関東と九州のミヤケに移住・入植を命ぜられた官人で、相当な規模の墳墓に納まっているところからすると、現地ミヤケの責任者級で事実上の地方長官であったかもしれない。
 しかし、小邦分立傾向が顕著な当時の日本列島ではこうした直轄地経営だけでは地方支配は貫徹できず、欽明の治世後半には地方首長クラスの豪族を国造に任じ、地方行政権を委ねると同時に、国造一族などの有力者を地方伴造に任じ、中央の大王直属職業部や、大王・王族の宮名を冠した名代・子代の部に奉仕させる部民制が整備されていく。

戸籍制度
 欽明時代の今一つの重要な行政=経済改革として、戸籍制度の原型を試行したことが挙げられる。
 『書紀』ではまず、雄略15年のこととして、秦氏の部民を集めて氏族長・秦造酒[はたのみやつこさけ]に管理させたところ、租税を広く積んだので、太秦[うずまさ]の姓を賜ったこと、同16年には漢氏の部民を集めて管理者を決めさせ、姓を直[あたい]と賜ったことが記されているが、欽明元年には秦人、漢人を集めて各地の国郡に配置して戸籍に入れたこと、秦人の戸数は7053戸で秦大津父(はたのおおつち)を秦伴造に任じたことが記される。
 これらは実質的に連続した記事として読め、雄略=欽明の根拠ともなるところであるが、要するに秦氏・漢氏のような渡来系の大氏族集団を再編して戸籍を作成し、統制するようになったことを意味しており、特に秦氏は財政担当職に就いて王室財政にも関与するようになった。
 さらに、欽明30年には吉備の白猪田部(農民)の丁者(壮年者)の戸籍を作成させている。これは課税逃れを防止する目的から試行されたもので、7世紀代に本格導入された戸籍制度の先駆けを成すものと思われる。
 こうした戸籍制度の限定的な試行は当然、文書制度の発生と関わっており、これは先の大王直属部として史部(文書部)が創設されたことと無関係ではないだろう。白猪田部の戸籍を作成した胆津[いつ]という人も、この功績から白猪史[しらいのふびと]の姓を賜っている。

2012年10月22日 (月)

天皇の誕生(連載第32回)

第七章ノ二 「昆支朝」の継承と発展・(続)

(4)列島征服事業

倭の広開土王・欽明
 欽明天皇の和風諡号「天国排開広庭」(あめくにおしはらきひろにわ)とは「天下を押し開き、領土を広げた」との趣旨で、これはまさに倭の広開土王そのものである。
 ただ高句麗の広開土王(好太王)のように事績を記念した碑文こそ存在しないが、実は碑文に相当するような史料がある。それが『書紀』の景行紀の部分なのである。すなわち、景行紀の主人公「景行天皇」とは「雄略天皇」に次ぐ欽明天皇=獲加多支鹵大王の二つ目の分身像である。
 そう考えられる根拠として、まず「景行」(=景気よく行く)という諡号はまさに広開土王だった欽明と符合するし、もう一つの分身像「雄略」のイメージとも重なってくることである。また景行紀にはいわゆる熊襲征伐や東夷征伐に代表されるまさに列島征服事業に関わる記事が豊富に見られることも欽明=景行の根拠となる。
 反面、欽明紀はいわゆる任那問題に関わる外交記事でほとんど埋め尽くされていると言ってよい状態だが、これは6世紀半ば頃の史実をヤマトタケルの説話にも絡めつつ、包括して景行紀に移植する作為が加えられた結果である。
 もう一つ注目されるのは、安閑紀・宣化紀に集中的に現れるミヤケ設置記事である。先述したように、「安閑天皇」と「宣化天皇」は辛亥の変で殺害されたと見られる継体=男弟大王の太子と皇子であるから、両天皇紀は史実に沿っていないとはいえ、単なる埋め草でもなく、ここに主として欽明=獲加多支鹵大王時代の征服地に設置されたミヤケのリストが収められているとみなしてよい。
 それをみると、西はおおむね九州の熊本あたりまで、東は関東の群馬あたりまでが限界となっていることがわかる。これでも、継体=男弟大王代までと比べれば、畿内王権の支配領域は東西に大きく延伸されたことになる。
 こうした広開土王・欽明の積極的な列島征服活動は、大王称号にも変化をもたらしたと見られる。それは先の稲荷山古墳鉄剣に先駆けて熊本県菊水町(現和水町)の江田船山古墳から出土していた大刀銘文中の「治天下獲***歯大王」という文言に示されている。稲荷山鉄剣が発見されるまで、文言中「獲***歯大王」は「蝮弥都歯大王」と読まれ、「多遅比瑞歯別」(たじひのみずはわけ)の和風諡号を与えられた第18代反正天皇に比定されていたが、稲荷山鉄剣の発見後は、これも「獲(加)(多)(支)歯(=鹵)」と補正されて読まれるようになった。
 この江田船山古墳は稲荷山古墳よりもやや新しいと見られているが、そうするとその比較的短い間に畿内王権の領土が広がって、大王は単なる大王から「天の下治めす」大王へと飛躍したのである。
 この時点ではまだ後の天皇即位宣命文に現れる「大八嶋国知ろしめす」といった定型文言はなかったとしても、強力な地域王権の一つにすぎなかった畿内王権がようやく広域を支配する領土国家へ成長しつつあった事実が、「治天下」という新たな修飾語句にも表れていると考えられる。

九州遠征/吉備攻略
 欽明=獲加多支鹵大王の列島征服活動は時期的・地理的に三つに大別することができ、その第一が治世初期の九州遠征である。これは主として辛亥の変から大伴金村の引退までの間、畿内の内政を金村が掌握していた時期に、大王親征の形で実行されたものと見られる。
 ここで注目されるのは、景行12年条でいわゆる熊襲征伐へ向かう景行がまず周芳[すおう]の娑麼[さば](周防の佐波)に軍営を置いていることである。同じ周防国(山口県南部)には、筑紫から都へ上る欽明が御輿を立てたとの伝承が残る古寺・欽明寺や欽明路という地名も残り、後者はJR岩徳線の駅名ともなっている。
 大王の九州遠征では本州側の山間部の佐波に出撃基地のようなものが置かれ、欽明自身はここに陣取って九州へ送る軍団を指揮していたということも考えられる。ちなみに推古天皇の時代、欽明の孫に当たる来目皇子[くめのみこ]が新羅征討将軍として派遣されながら筑紫で死去した時には、佐波に殯宮が設営されたということも示唆的である。
 さて、景行紀に架上された欽明の九州遠征で重要なトピックとなっているのは、九州南部のいわゆる熊襲征伐であり、そこでは景行が熊襲勢力をすべて平定したように叙述されているが、これは相当に割り引いて受け取らなければならない。
 熊襲とは第三章で指摘したように、隼人勢力の中でも最後まで朝廷に抵抗を続けた集団と見られるが、安閑・宣化紀に架上されたミヤケのリストにも後の大隅・薩摩を含む日向地方に関わるものは見当たらないことから、九州南部が6世紀の時点で昆支朝の支配領域に組み込まれていたとは考えにくい。
 ただ、昆支大王時代に日向北部の加耶系王権の首長・諸県君と通婚同盟が締結されたことで、熊襲を含む隼人勢力が割拠する九州南部への進出の道が開かれたのは事実であろう。
 そうすると、景行紀でどうにか史実として受け取れるのは、熊襲勢力とは区別される大分から熊本にかけての「土蜘蛛」(=土豪)勢力の征服である。先のミヤケのリストでも、豊国、火(肥)国ではミヤケの設置が進んでいるからである。
 要するに、欽明の初期九州遠征では磐井戦争にも加勢した九州中・北部地域を中心的に攻略していたものと考えられる。その集大成として、宣化紀元年条に架上される那津宮家[なのつみやけ]の創設があったと見られる。このミヤケは筑紫・肥国・豊国のミヤケを統括する後の大宰府の原型とも推定される総合センター的なミヤケであり、以後同ミヤケを拠点に九州北半部への支配が強化されていったであろう。
 以上に対して、第二の征服活動は吉備攻略である。吉備は第三章でも見たように、強大な吉備加耶系王権が所在したところで、旧加耶系畿内王権とは緊密な連合王国を形成していた可能性を指摘した。
 百済系の昆支朝が成立して以降の吉備王権との関わりははっきりしないが、応神紀22年条に応神が吉備国を巡幸した際、兄弟子孫を料理番として奉仕させた御友別[みともわけ]の子たちに吉備国を割いて各々に治めさせたという説話的な授封記事が見える。
 この記事から読み取れる史実は、吉備に対しては早くも応神=昆支大王代から領土分割などの介入が試みられていたということである。それに伴って吉備出身の官人なども畿内王権に出仕するようになっていたと見られるが、雄略紀7年条にはそうした吉備系官人の讒言にかこつけて、雄略が物部軍団の兵士を派遣して吉備王権の実力者、吉備下道臣一族を皆殺しにしたという苛烈な弾圧の記事も見え、雄略=欽明の武断的手法がよく表れている。
 そしてついに、欽明16年条には吉備五郡に白猪[しらい]屯倉を設置したとあり、治世末期の欽明30年には、この地で初の戸籍作成も試行されるのである。
 こうしてみると、吉備に対しては、かねてよりなし崩しに昆支朝に従属させられつつあった状況を利用し、最終的には武力介入によって征服に至ったものであろう。

東国遠征
 東国、ことに関東以北は「東夷」の地として畿内王権にとっては長く秘境であったため、東国への遠征は欽明治世後半になってようやく開始されたものと推定される。やはり景行紀に架上されている東国遠征はとりわけ有名なヤマトタケルの英雄物語と結びつけられて、景行紀の重要な柱を成している。
 東国遠征では主に景行天皇の子とされるヤマトタケルが活躍し、景行の親征は記されていないところからすると、東国遠征は専ら畿内から将軍を派遣する形で実行されたものと考えられる。
 東国征服がどこまで達成されたかを確定するのは難題だが、何が達成されなかったかを推定することは比較的容易である。まずミヤケ設置の東限は今日の群馬県南部であるから、それより北の東北地方は未征服であった。東北以北はいわゆる「蝦夷」の地であるが、越国を含む蝦夷の地への畿内王権の本格的な征服活動が史実として確認できるのは、ようやく7世紀半ばのことにすぎない。
 ただし、ヤマトタケルの行軍経路を見ると、太平洋側から陸奥国まで侵入したことになっている。この時期に陸奥まで遠征したということは信じ難いが、今日の岩手南部の日高見(北上)付近までは6世紀半ばから踏査的な遠征軍が派遣されていたということは考えられる。
 いずれにせよ、欽明時代の東国遠征の中心は東海から関東甲信越というところであるが、中でも安閑紀では夷隅、武蔵、毛野など、今日の千葉、埼玉、群馬にかけての地域に畿内王権が介入してミヤケ設置を強制する記事が架上されていることは参考になる。
 『書紀』はこれら東国に割拠する地方勢力を中国的な概念で「東夷」として蛮族視しているが、東国に割拠したのは決して蛮族ではなく、むしろ高句麗的特徴を備えた方墳(その変容形態としての前方後方墳を含む)や、積石塚を墓制とする渡来勢力の流れを汲む豪族であった。
 おそらく4世紀後葉に高句麗が百済に惨敗し、一時国力が衰退した時に相当数の流民が生じ、かれらがはじめ能登半島付近に漂着し―実際、能登半島付近にも高句麗的特徴を備えた方墳が分布している―、そこから関東一円や信州にも拡散、東国以来の古い在地勢力を征服し、混血・土着していったものと見られる。
 特に信州の千曲川流域は高句麗が427年に平壌に遷都する以前の墓制の特徴を濃厚に持つ積石塚古墳が密集するところであり、軍事的にも相当強力な地域王権に発展したらしく、『書紀』の景行紀でもヤマトタケルの言葉を借りて「信濃国は王化に服していない」と征服できなかったことを認めているほどである。
 関東では群馬が最大級の古墳密集地帯であり、ここを拠点に地域王権を形成したのが毛野氏であったが、毛野氏が6世紀半ば頃に西部の上毛野氏と東部の下毛野氏とに分氏されたことは、欽明時代における東国遠征の最大成果と言ってよいであろう。この上下両毛野氏は後に朝廷の要職者となり、系図上天皇系譜に組み込まれる栄誉を得たが、高句麗的な方墳の多いこの両毛地域の古墳の特質から見て、毛野氏の遠祖も高句麗系であった可能性は高い。
 そのほか、関東では房総半島にも方墳を特徴とする古墳の密集地帯がある。この房総勢力も軍事的に相当強力だったらしいことは、ヤマトタケルが相模から上総へ渡ろうとした際、暴風に遭ったのは海神のしわざだとして、愛妾・弟橘媛[おとたちばなひめ]が自ら人身御供となって入水し鎮めたという有名な説話に示唆されている。
 これら東国の征服は欽明時代には完了せず、彼の子孫たちに引き継がれて7世紀初頭頃までには一応の区切りをつけ、やがて東北以北の征服にも移っていったものであろう。

ヤマトタケルの造型
 さて、景行紀では主として東国遠征で景行天皇の皇子とされるヤマトタケルが活躍するが(九州遠征にも一部関わる)、今日ヤマトタケルを実在人物と考える学説はほとんどなく、ヤマトタケルとは畿内王権が東国遠征に派遣した複数の将軍たちのイメージを一人の英雄像に統合したものととらえる説が有力となっている。
 それも現実的な所論として傾聴されるべきであろうが、筆者としては景行43年条に景行天皇が武部[たけるべ]を定めたとあるからには、やはり景行=欽明=獲加多支鹵大王が何らかの政策的な意図をもって特定の人物をモデルとしてヤマトタケルを造型したと考えてみたい。
 まず「タケル」とは獲加多支鹵大王自身の名前の一部を取ったものと考えられるから、ヤマトタケルの第一のモデルは大王自身である。これはもちろん自身の領土拡大の事績を後世に伝えるという政策的な関心と結びついている。それはやがて彼の子孫たちによって畿内王権の地方支配を正当化するイデオロギーとして利用されるようにもなっていく。
 しかしそれだけであろうか。ヤマトタケルは東国遠征からの帰途、病に倒れ、30歳で父より先に早世し、白鳥となって天空に去るというロマン的な悲劇の主人公でもある。ヤマトタケルには獲加多支鹵大王=欽明自身のほかにもう一人、二重のモデルがあったのではないか。
 その二人目のモデルとして想定できるのは、欽明13年に死去したことが記される箭田珠勝大兄皇子[やたのたまかつのおおえのみこ]である。この人は欽明と正妃・石姫との間の長男であるが、生誕記事と死亡記事しかなく、事績が全く伝えられていない。
 彼は大兄称号を持つ以上、太子であったが、父より先に夭折した。この点でも、ヤマトタケルのエピソードと符合するところがある。景行天皇はタケルの死を悲嘆し、安眠できず、食べても味を感じず、昼夜むせび泣いたとあるが、これは太子を失った欽明自身の姿とも重なる。
 もちろん金の卵の太子をヤマトタケルのように危険な東国遠征に出したとは思えず、太子の死因は病気の可能性が高いが、欽明は自らの悲嘆を表現するためにも、自分自身と早世した太子とを二重にモデル化して、ヤマトタケルを造型したものと考えられるのである。

2012年10月19日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第8回)

第1部 カール・マルクス

第3章 『資本論』の誕生

(4)主著『資本論』をめぐって

flag誕生の経緯
 前回述べたように、『政治経済学批判』は売れなかった。「出版の継続は第一分冊の売れ行きにかかっている」。出版直前の知人宛て書簡でマルクスはそう言っていた。商品交換経済を批判的に解析しようというマルクスが商品としての本の売れ行きに将来をかけなければならない皮肉もまた、資本主義的現実なのであった。
 売れなかった大きな理由の一つはマルクスが大学・学界に属する講壇経済学者でなかったことにある。元来マルクスは経済学専攻者ではなく、経済学に関しては門外漢であったから、彼を「経済学者」と呼ぶのは適切でない。実際、先に見たように、彼の「政治経済学批判」も決して新しい経済学体系の構想ではなかったのである。講壇経済学者たちの「黙殺」も当然であった。
 しかし、それ以上にマルクスを打ちのめしたのは、彼が最も伝えたかった同志たちの間でも理解されなかったことである。彼は出版後の知人宛て書簡の中でそのことを恨めしげに書いている。大学・学界に属する権威筋の学者でなく、プロレタリア革命の理論家であるマルクスが自身の理論を最も伝えたかったプロレタリアートに届かなかったことは大きなショックであった。
 その理由はもちろん悪意による「黙殺」ではなく、マルクス理論の難解さにあった。そしてこの難解さゆえの無理解は、後に主著『資本論』ではより成功を収めた後もついて回る―今日に至るまで―マルクス的事象なのであった。
 このような事情から、マルクスは当初の全六部構成の刊行計画を見直さざるを得なくなり、資本に関する第一部のみにしぼって改めてまとめ直すこととし、さらに8年の歳月をかけて研究を進めていった。その間、彼は国際労働者協会の結成に関わり、新たな政治的実践を始めたほか、フランス第二帝政(ルイ・ナポレオン政権)のスパイであったカール・フォークトなる人物による中傷宣伝への対応にも追われるなどしたが、ついに1867年、新たな企画による『資本論』第1巻が世に出ることになった。
 しかし予定されていた第2巻以降は結局、マルクス生前に刊行されることはなかった。第2巻・第3巻はマルクスの遺稿を整理・編集したエンゲルスの手でマルクスの死後公刊され、第4巻はエンゲルスの手も及ばず、20世紀に入ってエンゲルス晩年の弟子であったカール・カウツキーによって別本(邦題『剰余価値学説史』)として編集・公刊された。

flag『資本論』第1巻の意義
 エンゲルスは主著『空想から科学へ』の中でマルクス最大の「発見」として唯物史観と剰余価値とを挙げているが、このうち特に剰余価値論を中心的に打ち出したのが『資本論』第1巻(以下、単に『資本論』という)であった。
 エンゲルスによれば、剰余価値こそ資本主義生産様式とそれによって生み出されたブルジョワ社会の特殊な運動法則にほかならないのであり、マルクス理論を「科学」たらしめる基本概念とされる。しかし結局のところ、この概念はいわゆる「マルクス経済学」の世界を除いては正規の経済学概念として受容されることはなかった。なぜであろうか。
 マルクスが「発見」したとされる剰余価値とは、彼の経済学研究の出発点をなす『経済学・哲学草稿』ではごく常識的に資本による労賃節約として説明されていたものを、より「科学的」に突き詰めて、資本は労働者をしてその生活費(及び繁殖費)をまかなうための必要労働分(例えば4時間労働分)を超えて働かせること(例えばさらなる4時間労働分)を通じて、すなわち剰余労働によって生み出された剰余価値を搾取していると説明し直したものであった。
 この場合、資本としては労働者に必要労働と剰余労働合わせて8時間労働を課しながら実際上は必要労働分の4時間労働相当分の賃金しか支払わず、残り4時間分については実質上タダ働きを強いている。よってこの設例では搾取率(剰余価値率)は四分の四すなわち100パーセントという丸取り的搾取が行われていることになる。言い換えれば、労働力商品の買主たる資本家はこの労働力商品本来の価値(4時間労働分の賃金相当額)を超えて酷使しているのである。
 こうした場合も、通常の資本家(経営者)の意識の上では賃金を抑えて人件費を節約しているにすぎないのであるが、マルクスはこれを「科学的」に解析して、資本はより積極的に剰余価値の生産を基本として回っていることを「発見」したと信じたのである。『資本論』の中で、マルクスは「資本の一般的な必然的傾向性はその現象形態とは区別されなければならない」と指摘する。
 マルクスのこのような方法論は、あたかも現象的には不可視の深層構造を学理的な解析によって析出してみせようとする後の「構造主義」の先駆けのようでもあるが、まさにそこに死角があった。彼が「発見」したと信じたものは、実は錯覚であった―そう言って悪ければ学理的なオーバーランであった。
 たしかに労働力は常に資本によって安く買い叩かれるが、それは人件費の節約という経営実務家の経験的意識で説明したほうが真実に近いのである。ただ、節約によってそこに消極的な価値(利得)が生じることは事実であるが、これを積極的な価値(利得)として「発見」してしまったところにマルクスのオーバーランがあったのである。
 資本は搾取によって積極的に剰余価値を生産し、その一部を蓄積することで自己を増殖するというよりは、搾取による消極的な節約利得が十分留保されるような価格で商品を売ること―また他の必要経費をも節約すること―で自己を維持・拡大していくのである。
 では、この主流派経済学においてはほとんど顧みられることのない剰余価値の概念は全く“無価値”なのかと言えば、決してそうではない。この概念は資本と労働の関係を単に経済的なものから政治的なものへと変換するうえで有効なのであり、その意味では剰余価値は政治学的概念であると言ってもよい。
 実際、マルクスはまさに『資本論』の中で「資本は自己の労働者に対する自己の専制を、他のところではブルジョワジーがあれほどに愛好する分権もそれ以上に愛好する代議制もなしに、私的法律として自分勝手に定式化している」と指摘しているし、より大きくは「アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政官などの権力は、近代社会では資本家の手に移っているのであって、それは彼が単独の資本家として登場するか、それとも株式会社におけるように結合資本家として登場するかにはかかわらない」とも述べて、資本(家)と労働(者)の関係をまさに政治的にとらえようとしている。
 こういう一見独特な把握の仕方の背後には、政治的なものの出発点を労働の場における階級闘争に置こうとするマルクスの視点が控えていることは容易に見て取れるであろう。剰余価値、あるいはもっと端的に搾取は、そうした階級闘争の動因の擬似経済学的な表現にすぎないとさえ言えるのである。
 むしろ『資本論』の社会科学的な真の貢献は剰余価値論よりも、それが労働経済学ないし労働社会学の先駆けをなした点にこそある。実際、この本の表題は『労働論』と改題してもおかしくないほど、「資本」と同等かそれ以上に「労働」を主題としている。そしてマルクスが『資本論』を通じて確立した「労働」そのものと区別された商品としての「労働力」、そしてその労動力商品の売り手たる労働者と買い手たる資本家が相対する「労働市場」という想定などは、今日マルクスに反対したり、完全に無視する論者によっても普通に用いられているところである。
 いずれにせよ『資本論』はマルクスの主著でありながら、前著『政治経済学批判』と同様に難解であり、一般向けの本とは言えない。そのうえに、第2巻以降は他人が編集しての死後出版となった。そのため、後世「マルクス主義者」を自称した人々の間でもいったいどれだけ人がこの『資本論』全巻を細部まで読み込んで完全に理解し得たか甚だ疑わしいのである。
 おそらく『資本論』はまだ完全に読み込まれていない。その中にはまだ十分に掘り尽くされていない可能性の原石が埋まっていると推定されるのである。

2012年10月18日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第7回)

第1部 カール・マルクス

第3章 『資本論』の誕生

(3)経済学研究の道

flag漂流からロンドン定住へ
 マルクスはプルードン批判書『哲学の貧困』を公刊した後、そこで展開した経済学的論点をさらに練り上げる研究へ進むはずであったが、それを中断せざるを得ない事情に直面する。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を公刊した1848年、フランスでルイ・フィリップの7月王政が倒れる2月革命が勃発したのだ。
 これは急進的なブルジョワ革命であって、プロレタリア革命ではなかったが、臨時政府には社会主義者のルイ・ブランや労働者代表も参画し、国立工場の設置など部分的に社会主義的施策にも踏み込んだ点では画期的であった。2月革命に引き続いて同年3月にはウィーンとベルリンでも革命が起き(3月革命)、その余波はベーメン、ハンガリーなど東欧を含めた東西ヨーロッパに広く及び「連続革命」の様相を呈した。
 そうした中、フランス臨時政府はまだブリュッセルにいたマルクスにも招請状を送ってきたが、隣国からの革命の波及を恐れたベルギー当局は3月、マルクスに24時間以内の国外退去を命じ、マルクス夫妻を拘束したうえフランス国境へ連行・追放した。
 こうしてマルクスは再びパリへ戻るのであるが、ベルリンの3月革命を受けて故国へ帰国する決心をしたマルクスは間もなくケルンへ移る。次章で詳しく述べるように、マルクスはドイツの3月革命をプロレタリア革命に先立つブルジョワ革命ととらえ、これをプロレタリア革命へ高めるべく助長せんとしていたのである。そこで彼は共産主義者同盟の仲間たちと新たに『新ライン新聞』を創刊して理論的活動拠点とするとともに、労働者組織の結成にも尽力する。
 しかしフランス2月革命が社会主義化を恐れるブルジョワジーの反動化によって挫折すると、周辺諸国の革命も連鎖的に挫折・収束していった。ケルンでも48年7月以降、共産主義者同盟メンバーの逮捕が相次ぎ、49年5月にはマルクスにも退去命令が出された。そこでマルクスは再びパリへ舞い戻るが、前年12月に大統領に就任していたルイ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの甥)の反動体制に変わっていたフランスに、もはや彼の居場所はなかった。結局、マルクスは49年8月、比較的自由で多くの亡命者を受け入れていた英国のロンドンへの亡命を余儀なくされるのである。

flagどん底生活と精力的研究
 ロンドンに定着したマルクスが自由と引き換えに直面したのは、貧困であった。妻イェニーの言葉によると、とりわけロンドン生活初期の1850年から53年にかけては「絶えず心を蝕む不安と、あらゆる種類の窮乏、本当の貧乏が続いた」時期であった。
 ちなみにマルクス夫妻は50年から55年までの間に次男ハインリヒ、三女フランチェスカ、長男エドガーの三児を相次いで病気で失っている。いかに子どもの死亡率が全般に高かった時代とはいえ、これだけの短期間に三児を失ったところには、借金の取立てに追われ、治療代にも事欠いたマルクス一家の苦境が示されている。
 しかし同時に、マルクスの経済学研究が大きく前進したのも、このどん底生活時代であった。50年には共産主義者同盟も弾圧の中で分裂し事実上活動を停止していたから、1850年代のマルクスは政治的実践からはひとまず離れ、懸案の研究に時間をさくことができたのだった。彼は当時世界最大級の蔵書を擁していた大英博物館図書室を研究室代わりに、膨大な先行著作・原資料を読み込み、研究ノートを作成していく。
 一方、スイス亡命を経て、同じくロンドンへ亡命してきたエンゲルスは間もなくマンチェスターへ移り、父親が経営する商会で働きながらマルクスを支えるようになった。彼はマルクスが生活の足しにするため51年から寄稿を始めた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』へ送るマルクス名義の原稿の相当部分を代筆さえしてマルクスが本業の研究に十分時間をさけるように配慮したのだった。

flag『政治経済学批判』の完成
 こうしてどん底の中での研究の結果、1859年に公刊されたのが『政治経済学批判』(以下、単に『批判』という)である。マルクス41歳。大英博物館で研究を始めてから9年の歳月が経っていた。そのわりに本文170ページと薄手の本になったのは、元来マルクスは全六部構成という壮大な大著を企画しており、『批判』はそのうちの第一分冊にすぎなかったためである。
 持ち込み原稿のうえ内容も難解で出版社探しは容易でなかったが、当時マルクス、エンゲルスと交流があり、後にドイツ労働者総同盟を結成するフェルディナント・ラサールの仲介でベルリンの出版社から初版千部で刊行される運びとなった。
 しかし、この自信作は著者の期待に反してほとんど売れず、マルクス生前には初版のみで絶版となってしまった。そのため、予定していた続巻の刊行も断念せざるを得なかった。ただ、『批判』の内容はその8年後にプランを変えて出した主著『資本論』第1巻の中により練り上げられた形で収録されたため、今日では『批判』はその本文よりも序言のほうに重要な意義が認められている。というのも、序言にはマルクスの経済学研究の理論性格と基本視座が自身の言葉で簡潔に要約紹介されているからである。
 そうした序言の概要をも参照しながら中期のマルクスが到達した経済理論の性格を考えると、それは『政治経済学』という表題―同じ題が『資本論』では副題として使われている―が如実に示すように、古典派経済学(政治経済学)に代替する新たな経済学体系なのではなく、資本主義生産様式とそれに照応する経済理論である古典派経済学(政治経済学)への体系的批判理論であった。
 従って、いわゆるマルクス経済学なるものは幻想である―そう言って悪ければ、それは後世の人々がマルクスの名を冠して構築したマルクスその人とは無関係の学問であると言って過言でない。ちょうど政治路線としての「マルクス主義」がマルクスその人とは無関係であるように。
 一方、このマルクス独自の「政治経済学批判」は脱歴史化された「理論経済学」でもなく、その基底には先行的に確立してあった唯物史観が埋め込まれた歴史理論でもあった。それが『批判』序言の中ではやや図式化された形で、有名なアジア的→古代的→封建的→近代ブルジョワ的生産様式という発展段階論、さらに土台としての経済的構造の上に法的かつ経済的な上部構造が構築されるとする社会構造(構制)論として凝縮されている。
 同時にまた、この「政治経済学批判」は単なる経済理論に終始せず、社会革命の条件を探る社会理論をも内包している。すなわち社会の物質的生産諸力がある発展段階で既存の生産諸関係と矛盾を来たし始めた時点で社会革命の時期が始まる。逆言すれば、一つの社会構成体は全生産諸力がその中で完全に発展し尽くされない限り没落することはない。なおかつ新たな高度の生産諸関係はその物質的な存在諸条件が既存社会の胎内で孵化し切らない間は旧来の社会構成体に取って代わることはない。
 この「革命の孵化理論」と呼ぶべき社会理論は公式的な唯物史観テーゼの影に隠れてあまり注目されてこなかったが、これはマルクスにける「革命の科学」と呼んでもよい「政治経済学批判」の重要な一部を成している。
 このように中期のマルクスが到達した「政治経済学批判」は包括的かつ複合的な社会批判理論として姿を現すのである。

2012年10月17日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第54回)

第7章 略

四 帝国主義の攻勢(続き)

(6)オスマン帝国の縮退
 ヨーロッパ列強が帝国主義にのめり込んでいく頃、オスマン帝国はまだ残っていた。まだと表現してよいのは、この帝国はローマ帝国型の古代帝国の生き残りであったからである。
 オスマン帝国の悲劇は、「腐っても鯛」の格言どおり、腐ってもなおその統治能力は相当なものであったことに加え、過去の記憶から本気でオスマン帝国と戦ってこれを打倒しようとする強国は現れなかったために、古代帝国のまま近代まで生き延びてしまったことにあった。その結果、近代に入って帝国主義で武装したヨーロッパ列強の攻勢にさらされ、じわじわと広大な版図の縮小を強いられていった。
 その手始めはヨーロッパ領土のバルカン半島であった。ここでは19世紀に入ってギリシャの独立に絡んで英仏露の干渉を受けることとなった。帝国はギリシャ独立運動支援に回った英仏露三国に敗れ(1827)、ロシアとの間で締結したアドリアノープル条約(1829)でギリシャの独立とともに、カフカス南部やボスポラス、ダーグネルス両海峡の自由通行権をロシアに認めさせられた。後者はロシアの南下政策に弾みをつける内容であった。
 この問題に絡み、オスマン帝国はギリシャ独立運動の鎮圧に際して先にエジプトで自立化していたムハンマド・アリーの援軍を得ていたところ、その報賞としてシリアの割譲を求めたアリー側と1831年から32年にかけて戦争となり(第一次エジプト・トルコ戦争)、オスマン側を支援したロシアに対抗する英仏の圧力で、シリアを割譲させられた。
 次いで39年から40年にかけて、トルコからの完全独立を求めるに至ったアリーと再び戦争となる(第二次エジプト・トルコ戦争)。この時は英露墺普が四国条約をもって介入し、アリー側を破った。結果は専ら英国の外交的勝利と言ってよかった。これにより英国のエジプト支配への道が開かれたからである。それとともに、オスマン帝国に貸しを作ったヨーロッパ列強の干渉を強化することにもなった。
 この頃から1838年の英土通商条約を筆頭に列強との不平等条約の締結が続き、これを通じてトルコがヨーロッパ工業製品の輸出市場にさせられていくのである。
 1853年にロシアが発動してきたクリミア戦争では英仏の支援を受けたオスマン側が勝利したものの、戦後のパリ条約(1856)では、ルーマニアの事実上の独立やセルビア自治の承認などオスマン側にとっては領土縮小につながる結果を強いられた。
 次いで1875年、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナのギリシャ正教徒やブルガリアでの反乱に対するオスマン当局の弾圧を口実に再びロシアが発動した露土戦争後のサン・ステファノ条約(1878)ではルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立とブルガリア自治の強化を強いられ、同条約を改廃したベルリン会議の結果、キプロスの管理権が英国に、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナの行政権はオーストリアへ移管された。
 そのオーストリアがトルコ国内での革命に乗じてボスニア‐ヘルツェゴヴィナを併合した1908年にはブルガリアも独立し、結局オスマン帝国は、旧版図であったセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシャのバルカン同盟と交戦する羽目となった第一次バルカン戦争後のロンドン条約(1913)―同条約でアルバニアの独立も承認された―までに、帝国全盛期の象徴でもあったバルカン半島領土の大半を喪失したのだった。
 オスマン帝国の縮退は北アフリカ・中東領土でも進んだ。もっとも、北アフリカ領土のマグリブ地方では土着化したトルコ人軍閥の統治者がすでに半ば自立化していたし、エジプトの情勢もすでに述べたとおりである。そうした中、マグリブ地方では1830年の占領以来、アルジェリアを中心にしてフランスが植民地化を進め、1881年にはチュニジアも占領、保護国化した。さらに世紀が変わると、先述したようにリビアもイタリアの手に落ちていった。
 名義上はまだオスマン帝国に属したエジプトではムハンマド・アリー朝の外国資本依存が強まっていた。結果は対外債務の累積となり、エジプトが保有していたスエズ運河株は英国に譲渡され、農民の課税が強化された。こうした状況に反発した民族主義者ウラービー大佐の反乱が立憲革命に発展すると、英国はこれを武力で粉砕し(1882)、軍事占領を開始した。そして1914年にはエジプトを正式に保護国化したことはすでに見たとおりである。
 一方、中東領土もアラビア半島を中心に英国の攻勢が強まっていた。特にエジプトを押さえて紅海からインド洋への出口を確保したい英国は1839年、紅海入り口のアデン―すでにムハンマド・アリー朝のエジプトが支配していた―を占領し、ここに海軍基地を建設していた。英国はさらに反対側のペルシャ湾を押さえるため、19世紀末までにオマーンなどを含む湾岸首長国を次々と保護国化したうえ、1899年にはこの地域で最後まで残るオスマン領であったペルシャ湾への出口クウェートの首長を寝返らせ、1914年までに保護国化することに成功した。
 英国はそこからイラク方面へも手を伸ばす構えであったが、ここへはドイツも経済的進出を狙い、オスマン政府よりアナトリアからペルシャ湾岸に至るバグダード鉄道の敷設権を取得した。このドイツの政策は英国の利害と衝突しかねなかったが、反面トルコとドイツの結びつきを深め、後々第一次世界大戦の伏線ともなる。
 ただ中東のオスマン領土は比較的よく保たれ、それがここでも英仏を中心とする列強によって一種の分割にあうのは、第一次世界大戦開始後、オスマン帝国支配下にあったアラブ人勢力の独立運動を列強が利用し始めた後のことである。
 この間、オスマン帝国支配層もヨーロッパ列強の攻勢を拱手傍観していたわけではなかった。彼らは列強に対抗しつつ、内政改革にも取り組んだ。1839年に時のスルターン、アブデュル・メジト1世が発したギュルハネ勅令から改革指導者ミドハト・パシャが起草し、1876年に発布されたアジア初の近代憲法とも目されるミドハト憲法に至るまでの西洋式近代化改革がそれである。
 この改革は日本の明治維新後の近代化と同様、上からの改革であったが、その本質は西洋的制度の限定的な摂取を通じた体制延命策であって、まさに「恩恵的改革(タンジマート)」と呼ばれるにふさわしいものであった。それゆえに改革の結実とも言える憲法も1878年、汎イスラム主義を掲げる反動的なスルターン、アブデュル・ハミト2世によって露土戦争の勃発を口実にわずか2年で停止されてしまった。
 この時代錯誤の反動政策に反発した革新派青年らが結成した「統一と進歩委員会」が1908年に立憲革命を主導し、憲法を復活させたが、これはもはや帝国の再建ではなく、その15年後の終焉へ向けたスタートであった。

2012年10月14日 (日)

老子超解:第十二章 一の体得

十二 一の体得

昔、一を体得した者を挙げると、天は一を体得して清く、地は一を体得して穏やかであり、神は一を体得して霊的であり、谷川は一を体得して充溢し、万物は一を体得して生じ、為政者たちは一を体得して天下の指導者となったのだ。こうしたことをもたらしたのが一にほかならない。
天は清くならなければ、おそらく裂けてしまうだろう。地は穏やかでなければ、おそらく崩れてしまうだろう。神は霊的でなければ、おそらく信仰されなくなるだろう。谷川は充溢していなければ、おそらく枯れてしまうだろう。万物は生ずることがなければ、おそらく滅びてしまうだろう。為政者たちは指導者とならなければ、おそらく失墜してしまうだろう。
そもそも貴きものは賎しきものを基本とし、高きものは低きものを基本としている。こういうわけで、為政者たちは自らみなしご、独り者、ろくでなしと称(して卑下)するのだ。これは賎しきものを基本としているからではないか、違うだろうか。だから数々の誉れとは誉れがないことである。きらきらした玉のようであることは望まず、ごつごつした石のようであるのがよい。


  本章からしばらくは実践哲学的な内容が続く。そのトップには、通行本で第三十九章になる本章がふさわしかろう。本章では、の体得という老子実践哲学の第一原理が始原=を象徴する数詞「一」の体得として説かれているからである。
 
内容的にも、天、地、神、谷川、万物、為政者という「一」の体得者が反復句の形で例示される第一段及び第二段については、特段の解釈は必要なかろう。
  ただ、第一段で注目されるのは、神も「一」=の体得者としては為政者と同列に扱われていることである。これは前にも見たように、は神にも先立つという老子の思想に由来するとともに、神を為政者に先行させつつ、天・地には後行させることによって神の位置づけを明らかにしているのである。
 一方、第三段はやや唐突な急転を示しているが、ここでは前章でも見た万物相同論を踏まえつつ、貴/賎、高/低といった典型的な二項対立概念の相互関係については、一般に劣等的な価値を与えられる賎しきものや低きものに基本的な価値を与えようとする老子一流の逆説が展開されている。
 世俗的価値観においては劣等視されるものに積極的な価値を見出そうとするのが老子哲学の特色なのである。末尾の一句、きらきらした玉よりごつごつした石のようでありたいとは、そのことの詩的な決め科白である。

2012年10月11日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第6回)

第1部 カール・マルクス

第3章 『資本論』の誕生

この年と次の二年間(注:1850年‐53年)は、私どもにとって外的に数々の極めて大きな心配が襲ってきた時期で、たえず心を蝕む不安と、あらゆる種類の窮乏、本当の貧乏が続いた。
―妻イェニー・マルクス

(1)初期の経済学研究

flag『経済学・哲学草稿』
 前章でも触れたように、パリ遊学時代にエンゲルスの論文「国民経済学批判大綱」に接したマルクスは経済学研究の重要性を認識し、以後スミスやリカードウを中心に古典派経済学の研究を鋭意進めていく。その予備的な成果が今日『経済学・哲学草稿』(以下、単に『草稿』という)として公刊されている初期の著作に収められている。
 これは経済学及び哲学にわたる種々の主題を試論的に展開するまさに草稿であって、マルクス生前には公刊されず、1932年になってソ連の研究所の手で編集・公刊されたものであるから、二次性と断片性を免れないのであるが、この草稿には青年マルクスの思想的キーワードと目される「疎外」の概念が鮮明な形で現れる点で、ヒューマニスト・マルクスの到達点を画する作品とみなされている。
 この「疎外」概念は、マルクスの最初の思想的転回点となった論文「ユダヤ人問題に寄せて」の中で、貨幣の本質に絡めて「貨幣は人間の労働と人間の現存在とが人間から疎外されたものであり、この疎遠な存在が人間を支配し、人間はそれを礼拝する」という形で提示されていた。
 『草稿』にあっては、このテーゼを資本主義社会における賃労働全般にまで拡大し、「疎外された労働」という定式化を試みている。それはまだ十分に分節化されていないため、熟した定式ではないが、要するに資本主義の下では労働者は他人の利潤追求の道具として他人に属する物の生産に従事することを個人的な生活、ひいては生命を保続するための手段とせざるを得ないことによって、共同存在という人間性の本質を喪失させられてしまうという批判理論である。
 これを労働者を雇用する資本の側から見れば、労働者も他の商品と同様に、その価値が需要と供給によって変動する一つの商品とみなされ、労働者が死滅してしまうことのないようかれらの生活のために支払われるべき労賃は他の生産手段の維持・修繕等に支出される費用とともに、節約すべき必要経費であるにすぎないという。
 このような概念規定には、後にマルクスが仕上げることになる有名な「剰余価値」の概念とその論理的前提となる労働力=商品論のモチーフがすでに認められるが、『草稿』の段階ではまだヒューマニスティックな倫理学的把握を出ておらず、後年のマルクスが強調する「科学的」把握には到達していなかった。
 しかし、これ以降本格的に推進されるマルクスの経済学研究は、「疎外」概念を―マルクスによれば科学的に―突き詰めていくことに全力が傾注されると言ってよいのである。その際、ヒューマニズムは彼の経済学研究の通奏低音として鳴り響き続ける。そういう意味ではマルクスの「科学」とは通常言われるような歴史の科学でも経済の科学でもなく、人間の科学(人間科学)となるはずである。

(2)プルードンとの対決

flagプルードンとの出会い
 マルクスが経済学研究をいっそう進展させるに当たっては、フランスの社会主義者ピエール・ジョセフ・プルードンとの出会いが重要な契機となっている。
 1809年生まれでマルクスよりも一回り年長のプルードンは貧困家庭に生まれ、印刷工として生計を立てながら独学でフリーランスの反体制的な著述家となり、後には投獄も経験した政治的闘士でもあった。マルクスのパリ遊学時代には「財産、それは盗みだ」のセリフで有名な主著『財産とは何か』がセンセーションを呼び、プルードンはフランスを中心に社会評論家として声望を持っていた。
 彼はまた論文「政府とは何か」の中で、「政府に統治されるとは、そうするだけの権利も見識も美徳もない連中によって監視され、検分され、スパイされ、指示され、法的に強制され、番号化され、規制され、登録され、教化され、説教され、統制され、調査され、評価され、査定され、検閲されることの謂いである」と論じるアナーキズムの祖でもあった。
 当初プルードンの『財産とは何か』に感銘を受けた一人であったマルクスはパリでプルードンの知遇を得て交流を深め、特に経済問題について徹底した意見交換をしたという。
 しかし、この出会いはエンゲルスとのそれのようにはいかなかった。プルードンとマルクスの間には大きな溝があったからである。面白いことに、裕福な有産階級出身のエリート・マルクスがすでにプロレタリアートによる人間解放という視座を引っ提げていたのに対し、無産階級出身の独学者プルードンにとっては皆が平等に小財産を持ち、互いに助け合いながら自治的に社会を営む連合主義が理想なのであった。これでは二人の息は合わないはずであった。

flag『貧困の哲学』対『哲学の貧困』
 マルクスとの理論的相違の深さを十分に認識していなかったプルードンは1846年に出した大著『経済的諸矛盾の体系、あるいは貧困の哲学』(以下、『貧困の哲学』という)を前年ブリュッセルに亡命していたマルクスに早速送付し、称賛を期待しつつ批評を求めた。
 この本は古典派経済学と既成の社会主義理論についてプルードンなりに体系的な批判を加えたつもりのものであったが、すでにプルードンに批判的になっていたマルクスはこれを好機ととらえ、翌47年、全面的な批判の書『哲学の貧困‐プルードンの貧困の哲学に対する回答』をフランス語で公刊したのである。
 ちなみに、本のタイトル『哲学の貧困』は言うまでもなくプルードンの書『貧困の哲学』を逆さまにもじったもので、多くの友人を離反させてしまうマルクス独特の皮肉っぽいポレミックな性格がよく示されている。
 この本におけるマルクスのプルードン批判の骨子は大きく二つあり、一つはプルードンがリカードウを生半可に解釈して導き出した「一定量の労働は同一量の労働によって作られた生産物の価値に等しい」との命題への批判である。
 マルクスによれば、この命題は全くの誤謬である。労働はそれ自体商品であるから、商品としての労働を生産するのに要する労働時間によってその価値が測られるのであり、その労働時間とは労働の不断の維持のため、すなわち労働者を生活させ、その子孫を繁殖させ得るために不可欠な物品を生産するのに必要な労働時間のことにほかならないという。
 従って、この労働時間によって測られた価値としての賃金と、この賃金の下で労働者によって生産された物の価値とは等しくならない。それどころか、労働の自然価格は賃金の最低限をなしている。裏を返せば、労働者は賃金に見合った価値以上の価値を創造させられている。
 こうしたマルクスの「回答」は、価値を創造する人間の肉体的・精神的力量としての「労働力」と価値を創造する働きそのものである「労働」とが混同されていたり、労働(力)の自然(通常)価値は最低賃金に等しいといった誤謬命題にとらわれていたりする理論的な欠陥をなお免れていないものの、ここには「疎外」という倫理的概念を科学的とされる「剰余価値」理論へ練り上げていく手がかりが芽生えている。
 マルクスのプルードン批判のもう一つの論点は、プルードンがヘーゲル弁証法の貧弱な援用を通じて―この点こそが本のタイトル『哲学の貧困』の由来である―、現存社会の悪い面を除去し良い面を助長するといった社会改良主義にとどまろうとする不徹底さへの批判である。これに対して、マルクスは未公刊に終わった『ドイツ・イデオロギー』で展開していた唯物史観を改めて対置し、プロレタリア革命の必然性を論じる。彼によれば、プルードンは科学者としてブルジョワとプロレタリアとの上を天駆けようと欲しているが、実際は資本と労働の間を、経済学と共産主義の間を絶えず揺れ動くプチ・ブルジョワにすぎない。
 最後に、革命前夜における社会科学の最後の言葉として、「戦闘か然らずんば死か、血みどろの闘争か然らずんば無か」というフランスのフェミニスト女流作家ジョルジュ・サンド―マルクスとも交流があった―の名言を引いて締めくくられるこの書はマルクスにとって初の経済理論書であり、彼の本格的な経済学研究の出発点に位置づけられる作品となったのである。

2012年10月 8日 (月)

天皇の誕生(連載第31回)

第七章 「昆支朝」の継承と発展

(3)辛亥の変と獲加多支鹵大王(続き)

欽明=獲加多支鹵大王
 前回まで見てきたように、正史上継体天皇=男弟大王の没年や陵墓もあいまいにされているのは、おそらく『書紀』の作為ではなく、まさに欽明自身が二人の異母兄を殺害して王位を簒奪した流血の謀反の事実を後世に対して隠蔽するため、関係証拠を抹消したことから、実際のところ、8世紀の『書紀』編纂者にとっても継体死去後の状況が判然としなくなっており、政変の有無も論定できなかった。それで、彼らは『百済本記』に依拠しつつ、注記で異説をも紹介し、問題の解明を後世に委ねるとして匙を投げてしまっているのだ。
 ここまでは欽明の目論見どおりであった。しかし、彼とて配下の名もない一武人がはるか東国の地で証拠を残してしまうとは思ってもみなかったであろう。ところが、ここに考古学的にも辛亥の変を裏づけられ得る証拠品がある。それが有名な埼玉県の稲荷山古墳出土の次のような鉄剣銘文である。

(表)辛亥年七月中記。乎獲居臣上祖、名意富比コ(土偏に危)。・・・・・以下、裏面途中まで八代の系譜が続く。
(裏)・・・・・・・・・・。世々為杖刀人首、奉事来至今。獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也。

=和訳文=

(表)辛亥年七月中に記す。乎獲居臣の先祖の名はオオビコという。:・・・・・・・以下系譜省略。
(裏)・・・・・・・。代々、杖刀人の長として、奉仕し今日に至る。獲加多支鹵大王の宿営が斯鬼宮にあった時、大王の天下を補佐し(たことのしるしに)、この百練利刀を作らせ、わが奉仕の根源を記すものである。

 通説はこの銘文中の「獲加多支鹵」を第21代雄略天皇の和風諡号「大泊瀬幼武」[おおはつせのわかたけ]の「幼武」に当たるとして、これを雄略天皇に比定し、銘文冒頭の辛亥年とは雄略が在位したとみなされる471年と特定している。
 このような解釈は、『宋書』に登場した「倭王武」をもって同じく「雄略天皇」の「幼武」に当てる通説とも重なる一面的な語呂合わせの論法である。それらは考古学的な証拠に照らして『書紀』を批判的に読解し直そうとするのでなく、『書紀』の叙述を正当化するために考古学的証拠を利用しようとする通説の基本姿勢の表れである。
 こうした通説に真っ向から挑戦し、銘文の辛亥年は471年の次の辛亥年に当たる531年と解すべきこと、「獲加多支鹵」とは雄略ではなく、欽明であることを看破したのは、やはり前出の石渡氏であった。筆者も賛成である。
 その形式上の根拠として、前出石渡氏も重視するように、銘文中使用されている草冠が略された「獲」の異字体の使用例が中国でも朝鮮でも6世紀代であることからして、この字体が日本に入ってきたのも6世紀を下らないと見られ、471年説は成立し難いという点は重要である。
 さらに銘文中、「獲加多支鹵」の宮とされる「斯鬼宮」[しきのみや]は磯城郡にあった欽明の「磯城島金刺宮」[しきしまのかなさしのみや]に近く、雄略の宮とされる「泊瀬朝倉宮」[はつせのあさくらのみや]とは符合しないことも無視できない。
 この問題には鉄剣が出土した稲荷山古墳の年代論も絡んで複雑であるが、531年の次の辛亥年に当たる591年では新しすぎて古墳の年代が合わないので、以上の根拠からだけでも531年説に落ち着かざるを得ないのである。
 そうすると、銘文が言っているのは、531年に乎獲居臣[おわけのおみ]なる杖刀人首(=近衛隊長)が獲加多支鹵大王の天下を補佐したということである。これは辛亥の変に際して、獲加多支鹵大王=欽明の天下取りを助けたということを意味していると読めるわけである。
 もちろん、乎獲居臣は政変に直接言及するほど軽率ではなかったが、特に辛亥年に天下を左治したというような大仰な表現で記念の鉄剣を作らせたのは、重大な政変に彼も参画したことの暗示であり、彼はそのことを「奉仕の根原」とまで表現して誇示しているのである。

「雄略天皇」の正体
 では、通説が何かと依拠する「雄略天皇」は全くの架空人物かと言うと必ずしもそうではない。「雄略」とは、欽明=獲加多支鹵大王の分身像なのである。
 その根拠として、両者はともに諱が記されず、和風諡号がそのまま名前に転用されていること。このことはどちらも本名を出すことが恐れ憚られるほど―まさに諱=忌み名―偉大な事績を持つ大帝であったことを示している。
 第二に、「雄略」の宮があった泊瀬には欽明も離宮を持っていたこと(欽明31年条に見える泊瀬柴籬宮[はつせのしばかきのみや])。
 第三に、秦氏・漢氏の再編(欽明元年、雄略15・16年)や吉備への介入・征服(欽明16年ミヤケ設置、雄略6年吉備下道臣一族殺害)など、重要な事績に符合性があること。
 実際、欽明=獲加多支鹵大王は、「雄略」(=雄雄しく攻略する)の諡号にもふさわしい勇猛な武人タイプであり、『書紀』に「自分の心だけで専決されるところがあり、誤って人を殺すことも多かった」と評される「雄略」そのものと言ってよい武断政治の人でもあった。この点では、父・男弟大王よりも祖父の昆支大王に似た専制君主であったし、実際、彼は祖父を崇敬していたようである。
 欽明天皇の名は仏教受容とともに記憶されているが、仏教政策はどちらかと言えば受動的・形式的なもので、むしろ彼は祖父の昆支を神格化して後の八幡信仰の原型を作ったものと考えられる。このことは最も古い八幡神社である誉田八幡宮(誉田山古墳に付設された八幡宮)の社殿が社伝によれば欽明の命で創建されたとされている事実に現れている。また八幡宮総本宮の宇佐神宮の社伝でも同神社の由緒として欽明32年に応神天皇が童子の姿で託宣したとされることも同様に欽明と八幡信仰のつながりを示唆する。
 一方で、欽明は自らの出自から言っても旧加耶系王権派に同情的であり、父・男弟大王の和解政策のよりいっそう強力な継承者でもあった。このことは、欽明が主たる宮を河内でなくヤマトの「斯鬼宮」、すなわち旧王権の拠点でもあった磯城郡に置いたことにも現れている。そして彼が祖父をしのぐ40年に及んだ長い治世の後に没して葬られたのもまさに旧王権の王都であり、旧王家末裔の軽氏の本貫地でもあった軽の地であったことにも示されている。
 ちなみに宮内庁治定欽明陵は奈良県明日香村の平田梅山古墳となっているが、墳丘長138メートルの同古墳は巨大化した時期の大王墓とは言い難く、むしろ近年の学界通説は橿原市大軽町の見瀬丸山古墳(墳丘長318メートル)を真の欽明陵と見ている。この古墳の横穴式石室の長さは28メートル余りと全国一であり、墳丘長も奈良県下最大規模という大きさで、地理的にも欽明の出自に符号するものである。
 欽明=獲加多支鹵大王墓は、久しぶりに大阪から奈良へ帰ってきた大王墓で、これ以降、彼の子孫たちの陵墓は再び奈良県側に築造されるようになるのである。

金村失墜と大王親政
 辛亥の変の結果、王位に就いた欽明=獲加多支鹵大王は、『書紀』欽明紀の即位年である539年時点でも「年若干」とされているほどであるから、辛亥年の531年にはおそらくまだ20歳代前半くらいの若さであったと思われる。そうしたことから、少なくとも正史上の欽明即位年とされる539年までは、クーデターの影の立役者であった老宰相・大伴金村が政治上の実権を掌握したものと考えられる。
 何しろ男弟大王の太子とその実弟という最有力者の殺害は大変な衝撃であったことは間違いなく、まさに二朝並立の内乱が起きてもおかしくない状況であったから、最初のおよそ10年間は政情安定化のために軍を掌握していた金村が実権を取ることは合理的であった。また欽明が「宣化天皇」(檜隈高田皇子)の娘・石姫[いしひめ]を正妃に迎えたというのも、殺害した異母兄の遺児を娶って宥和を図る金村主導による政略婚であろう。
 では、この間、欽明自身は何をしていたかと言うと、おそらく彼の本領である武人として軍団を率いて主に九州遠征に従事していたものと思われる。男弟大王の末期、磐井戦争に勝利したとはいえ、敗者の筑紫君を含め、九州勢はまだ完全に屈服したわけではなかったから、引き続き平定のため遠征が必要であったし、欽明自身、政変から日が浅く、政情不安が続く間は、畿内の政治はベテラン宰相に委ねて畿外の軍営にこもっているほうがまだしも安全であったろう。
 欽明が金村が実権を取り戻したのは、正史上の欽明元年とされる540年頃と見てよいであろう。この年に金村は事実上失墜し、辞任に追い込まれているからである。
 この失墜は同年、欽明が新羅征討の可否を重臣らに諮問したところ、物部尾輿が、かつて金村が百済の願いをたやすく聞いて「任那四県」を割譲したことを新羅が恨んでいるので軽々しく討つべきでないと、辛亥の変の遠因ともなった30年近くも前の一件を蒸し返して金村を糾弾するような進言をしたことに端を発する。これに対し、金村は自分が任那を滅ぼしたと群臣が言うので、恐ろしくて出仕できないとして、登庁してこなくなった。欽明は慰留に努めたが、結局金村は引退する。
 この尾輿の金村糾弾→欽明の慰留は作為的であり、欽明自身が「新羅征討協議」にかこつけて金村を引退に追い込み、実権を回復したものと読める。ここに金村引退をもって大王親政が開始されるのである。
 金村に代わって宰相格として欽明の右腕となったのは、蘇我稲目[そがのいなめ]であった。彼は個人的にも欽明に相当に食い込んでいたらしく、自身の2人の娘・堅塩媛[きたしひめ]と小姉君[おあねのきみ]姉妹を同時に欽明妃として嫁がせ、2人で合わせて18人もの皇子・皇女を生ませている。やがてその中から、女王を含む複数の大王が輩出し、蘇我氏が最強の皇親氏族として隆盛する土台となった。
 これほど急激に台頭した蘇我氏の出自とは何かという問題はしばらくおくとして、稲目は金村失墜後30年余りに及んだ大王親政の間、欽明に寄り添い、欽明死去の1年前に没するまで、大王と一心同体で畿内王権の領域拡大と行政・経済改革を主導していくことになるのである。

2012年10月 7日 (日)

天皇の誕生(連載第30回)

第七章 「昆支朝」の継承と発展

(3)辛亥の変と獲加多支鹵大王

男弟大王の死
 男弟大王の治世期間は約30年に及んだ父・昆支大王のそれに及ばなかったが、やはり20年かそれ以上の長期にわたった。ただ、男弟大王の死」はそれ自体が二つの大きな論争点の源泉となっている。
 一つは、男弟大王陵の比定問題である。『書紀』によると、男弟大王=継体天皇は531年に死去し、「藍野陵」[あいののみささぎ]に葬られたという。この「藍野陵」について、宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を治定している。
 しかし、この古墳の年代は5世紀中頃と見られており、6世紀前葉に築造された継体陵とは時代的な開きがある。また『延喜式』で藍野陵の所在地は摂津国嶋上[しまのかみ]郡とされているところ、太田茶臼山古墳の所在するあたりは嶋下[しまのしも]郡であり、地理的にもズレがある。そこで、近年の学界通説は、高槻市の今城塚[いましろづか]古墳を真の継体陵とみなすようになっている。この古墳は6世紀代の後期古墳の特徴を持ち、地理的にも「藍野陵」に匹敵するからだという。
 しかし、太田茶臼山古墳は墳丘長226メートル、一方の今城塚古墳はそれより小さい同190メートルと、昆支大王の誉田山古墳(宮内庁治定応神天皇陵)以来、とみに大型化した大王墓としてはどちらもふさわしくない。
 著者は、前出の石渡氏の所論に従い、真の男弟大王陵は、あの日本最大級の大仙陵古墳、すなわち宮内庁治定仁徳天皇陵にほかならないと考える。
 まず、第一の根拠として、先述したように、仁徳は継体の分身像だからである。仁徳紀67年には仁徳が陵地を定めて生前寿墓を築造したことが記されている。巨大な生前寿墓の築造は父・昆支大王も新たな大王権力の強大さを誇示するために行ったが、男弟大王はその大王権力の正統な継承者として、王権の継続的発展を世に知らしめるため、父の墳墓を越える空前の大墳墓(ただし、体積では昆支の誉田山古墳が最大)を築造したものと考えられる。
 第二に、考古学的証拠として、石渡氏も指摘するように、米国のボストン美術館に所蔵されている仁徳天皇陵出土品とされる鏡が百済の武寧王陵出土の鏡と同系ないし同笵と判明したことは、武寧王陵と大仙陵古墳=男弟大王陵の同時代性を示している。ちなみに、武寧王陵の棺の素材は日本にしか自生しないコウヤマキであることも判明しており、この時期の倭済同盟の緊密さを物語っている。
 ただ、大仙陵古墳の所在地は現在の堺市であり、「藍野陵」とは地理的に大きくずれることが同古墳を真の男弟大王陵とみなすことの最大のネックとなるであろうが、この問題については後に改めて検討する。
 さて、「男弟大王の死」をめぐるもう一つの論争点、それは大王の没年である。『書紀』によると、継体は531年、支配階級でも短命だった古代では異例の82歳という高齢で死去したとされる。ところが、『書紀』は同時に、注記でわざわざ534年死去説も紹介したうえ、531年説は『百済本記』の記述によったと説明する。倭王の没年を同定するのに百済の史料を基準にするというのも奇妙ではあるが、6世紀の倭と百済はそれほどに一体的であったのである。
 一方、『記』によると、継体は527年に43歳で死去したとされ、没年も『書紀』より早く、年齢の点では『書紀』と一世代以上もへだたる数字を挙げている。
 このように、男弟大王の没年や没年齢が史料によってまちまちなのは、大王の死をめぐって何らかの秘密が隠されているのではないかという疑いを提起する。特に『書紀』が採用する531年説によると、継体の皇子で後継者の第27代安閑天皇の即位年が534年とされることとの関係で、この3年近い空位をどう説明するかが問題となる。

辛亥の変
 実は、先の継体天皇の死に関する『書紀』の注記は『百済本記』を引いて、「聞くところによると、日本の天皇及び皇太子・皇子が皆亡くなった」と記している。このただならぬ「天皇家全員死亡」の原因については何も記されていないので、古代ではまれでなかった伝染病による大量死といったこともあり得るが、それにしても「全員死亡」は異常事態であるから、この記述と安閑天皇即位年のズレを考慮すると、531年(辛亥年)に一つの政変が起きたとも推定できる。これを仮説上、「辛亥の変」と呼ぶ。
 この説の最初の提唱者・林屋辰三郎氏によると、「変」の内容はこうである。大伴金村主導の継体朝は朝鮮政策の失敗やそれと絡む磐井の乱などで信望を失ったため、継体の若き皇子・天国排開広庭尊[あめくにおしはらきひろにわのみこと]を支持するグループがクーデターで同皇子を大王に擁立したが(欽明天皇)、これに反発・対抗する金村らは534年、本来の太子である勾大兄皇子[まがりのおおえのみこ]とその実弟・檜隅高田皇子[ひのくまのたかたのみこ]を相次いで大王に擁立し(安閑天皇と宣化天皇)、531年から欽明で統一される540年まで二朝並立で内乱が続いたとする。
 しかし、この説がクーデターの理由とする「継体朝の信望失墜」は磐井の件を『書紀』の叙述どおりに受け取っている点に疑問がある。前述したように、朝鮮政策(任那問題)と磐井を絡めるのは妥当でなく、むしろ「磐井戦争」での勝利は畿内王権の威令を高めたはずだからである。
 たしかに二朝並立は魅力的な説明ではあるが、安閑と宣化が順次高齢で即位して数年で死去するなど不自然な点があり、その不自然さを糊塗するために、父・継体の没年齢を82歳という高齢に設定した―皇子の即位年齢も当然高くなる―ように見える。
 筆者はむしろ『書紀』が引く『百済本記』の「全員死亡」を素直に受け取り、天国排開広庭尊とその支持グループが531年、継体=男弟大王の死去直後にクーデターを起こし、二人の異母兄、すなわち勾大兄と檜隅高田の両皇子を殺害して大王位を簒奪したものと読み解いてみたい。
 辛亥の変に関するこのような新たな説は、つとに前出石渡氏が提唱しているところであるが、同氏自身は前述したように、継体=男弟大王を応神=昆支大王の実弟と見たうえ、欽明は応神の子とし、辛亥の変を叔父・継体の王統に対する欽明のクーデターと解している、しかし、私見は継体を応神の弟とする前提に賛同できないので、この点では石渡説と袂を分かつことになる。
 ではなぜそのような大規模な流血クーデターが継体死去後に勃発したかと言えば、それは天国排開広庭尊=欽明天皇(以下、この節では「欽明」という)の出自と関わる。
 欽明の母は手白香皇女[たしらかのひめみこ]といい、正史上は第24代仁賢天皇の皇女とされるが、これは例の弘計・億計物語に絡めた説話上の系譜であって、この女性は旧加耶系王家の一族(布留氏?)と推定される。従って「皇女」ではない。
 『書紀』によると、同皇女は大伴金村のすすめで継体が正妃に迎えたというが、彼女を正妃にすると旧王家の皇親としての再興につながりかねないので、正妃にしたとは考えにくい。ただ、男弟大王は父と異なり、旧王族への赦免と和解措置―加夜奈留美命神社のような鎮魂社の建立もその一環と解される―を進めていたから、その流れで旧王家一族の女性を妃の一人に迎えた可能性はある。
 そのような経緯から誕生したのが欽明であり、彼は旧王家と現王家双方の血を引く自らの出自に誇りを持っていたから、若く未熟ではあったが、王位への野心を抱くようになった。
 一方、政変の標的として殺害された二皇子の母は目子媛[めのこひめ]といい、尾張連草香[おわりのむらじくさか]の娘とされる。尾張氏は東海地方の王家と言ってよい一族で、その祖は物部氏と同じニギハヤヒである。すると、これも加耶系渡来勢力・天孫ニギハヤヒ派の分派で、河内を本貫とした物部氏の勢力とは分かれて東海地方へ進出し、地域王権を形成していたものであろう。
 昆支大王代以来の領域拡大政策の中で、東海へ勢力圏を広げるための通婚同盟としていち早く昆支の後継者・男弟王の妃として召し入れられたのが目子媛であり、この通婚同盟の枢要性に照らしても、彼女こそが男弟大王の正妃であったと考えられる。
 従って、目子媛の産んだ長男・勾大兄が太子であって、彼が皇太子制度が確立する以前、太子であることを意味した称号・大兄を名乗るのもそのためである。そもそもこの大兄称号自体、大勢いた男弟大王の皇子の中から後継者を指名するために始まったものなのかもしれない。
 こうした構図の中で、野心家・欽明が父・男弟大王死去後の空隙を狙って異母兄らに対して起こした謀反が辛亥の変であると考えられる。しかも、この時欽明側を強力にサポートしたのは、意外にも老宰相・大伴金村であったと思われる。というのも、彼にはそうすべき二つの理由があったからである。
 一つは彼自身、由緒ある旧加耶系王権派氏族として旧王家の血を引く欽明に親近感を抱いていたこと、もう一つは男弟大王治世末期に遡るいわゆる「任那四県割譲問題」をめぐって、金村は勾大兄一派と対立したことがあり、その関係から勾大兄が大王位に就けば自らも排除される恐れがあったことである。
 この「任那四県割譲問題」については後に改めて立ち入って検討するが、さしあたり『書紀』の叙述に従えば、昆支大王代から畿内王権が朝鮮半島西南部(正確には任那でない)に保有した権益を百済に譲渡するかどうかをめぐる政権内部の意見対立であり、譲渡を認める百済寄りの立場をとった金村らと反対の勾大兄らが対立し、金村らは百済から収賄したように中傷されたのであった。結局、四県は百済に譲渡されるが、この一件以来、金村と勾大兄は敵対関係にあったと考えられる。
 このようにして、辛亥の変は前出林屋説とは逆に、欽明‐金村ライン主導で断行されたと見ておきたい。大伴氏は元来軍事氏族であり、配下に軍団を擁していたから、クーデター部隊を結成することは容易であり、これに新興の物部軍団からも物部尾輿のような若手―後年、金村と対立するようになる―を抱き込んで電撃クーデターを断行したものであろう。
 さて、前回男弟大王陵の比定に関連して保留しておいた問題、すなわち大仙陵古墳が真の男弟大王陵だとしたら、『書紀』で継体陵とされる「藍野陵」は誰の墓であろうかという問いである。これに対しては、クーデターで殺害された勾大兄皇子の陵墓と答えておきたい。そして、それこそが学界通説の継体陵とされる今城塚古墳であろう。

2012年10月 4日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第53回)

第7章 略

四 帝国主義の攻勢(続き)

(5)帝国主義の展開〈3〉:対象地域[下]
 アジアに続いて帝国主義の標的となるのは、アフリカ大陸であった。この地域が本格的な列強の分割対象となるのはそう古いことではなく、1880年代以降であった。それは西海岸を中心とした旧来の奴隷貿易が終焉した後のことであり、今度はアフリカ大陸に改めて原料・天然資源やヨーロッパ向け農産物の供給地としての役割が押し付けられるのである。
 反面、アフリカにはあまり積極的な資本輸出はなされなかったため、アジア地域に比べて社会基盤の整備は進まず、モノ・カルチャーを軸とした搾取的性格の強い植民地支配となった。
 一方、とりわけサハラ以南のいわゆるブラックアフリカではヨーロッパの本格的な侵略を受けるまで自給自足の伝統的共同体を土台とした小王国―その中にはヨーロッパに奴隷を売り渡して利益を上げるという芳しくない活動に関与した王国も含まれていた―が自存し栄えていた。そうした「アフリカ的充足」を根こそぎ奪い去ったのがヨーロッパ列強の帝国主義的侵略であり、その後遺症は今日にまで及んでいる。
 列強のアフリカ分割にきっかけを与えたのは当時のヨーロッパでは新興の小国ベルギーであった。時の国王レオポルド2世はアフリカ中央部コンゴへの進出を狙って1878年から事実上の植民地化を始めていたが、これに82年、ポルトガルが異を唱え、英国もこれを支持したことから、ドイツ宰相ビスマルクの仲介でベルリン会議が開催された(1884‐85)。この会議の結果、ある国がアフリカ領土への実体的な支配―原因のいかんは問わない―を確立すれば、領土の併合が認められるという「実効支配の原則」を含むアフリカ分割の大原則が取り決められた。
 以後アフリカ分割は急ピッチで進められる。ここでも主導者となった英国は、ウィーン会議の結果領有していた南アフリカのケープ植民地から1880年代初めにムハンマド・アリー朝を抑えて事実上の保護国としていたエジプトへ突き抜ける東アフリカ縦断政策を採用した。その過程で南アフリカの最大部族ズールー族やスーダンのムハンマド・アフマドが創始したマフディー勢力、さらに南アフリカ土着の白人ブール人らと交戦し、英国はいずれも勝利する。
 一方、これに対抗するフランスは、7月王政時代の1834年に当時名義上オスマン帝国に属したアルジェリアを併合し、サハラ砂漠への出口を確保していた。そのうえで、英領とされたナイジェリアなどを除き、西アフリカを広く押さえて広大なフランス領西アフリカを作出した(1894)。
 そこから赤道アフリカを抜けて東海岸のジブチ、さらに東南の大島マダガスカルとその周辺島嶼部をつなぐアフリカ横断がフランスの政策であったが、これは当然にも英国の縦断政策とぶつかり、スーダンのファショダで武力衝突を引き起こした(1898)。ここではフランスが譲歩し、スーダンは英領に確定する。結局、フランスのアフリカ横断は成らなかったのである。
 これに対して、ドイツは先のベルリン会議に乗じて南西アフリカ(ナミビア)、カメルーン、トーゴ、東アフリカ(タンザニア)に植民地を獲得したが、いずれも経済的価値には乏しく、帝国の威信を示す象徴的な意味が強かった。そこで1890年代末から、「世界政策」を掲げて植民地獲得競争に本格参入を試みるが、出遅れ感は否めず、むしろ技術力を生かして海軍を中心とする軍拡に進んだため、英国との間で大型戦艦の建艦競争を生じるとともに、ドイツを警戒する英仏の接近と英仏協商の結成(1904)を結果した。
 その英仏協商の結果、フランスのモロッコ領有が保証されたことにドイツが反発し、1904年と1911年の二度にわたり独仏戦争危機(モロッコ事件)が生じたが、結局1912年、モロッコはフランスの保護国として確定する。
 一連のアフリカ分割のきっかけを作ったベルギーは先のベルリン会議の結果、コンゴの領有をレオポルド2世の私領地という変則的な形で事実上承認されていたが、現地民に対する無法な搾取・抑圧が問題視され、1908年になって正式にベルギー領に編入された。
 ベルギーに異を唱えたポルトガルも東アフリカ(モザンビーク)のほか、アンゴラをはじめ従前からの西海岸地域の植民地を保持したが、英仏に匹敵するほどではなかった。スペインの植民地はいっそう狭小で、モロッコの一部にリオデオロ(西サハラ)を併せたスペイン領西アフリカと赤道ギニアなどにとどまった。
 一方、1882年以来ドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたイタリアも紅海沿岸のエリトリア、ソマリランド(ソマリア)を獲得、さらにエチオピア侵略も狙うが、1896年のアドワの戦いで敗退した。しかし20世紀に入ると、イタリア・トルコ戦争(1911‐12)に勝利して、オスマン帝国からリビアを奪った。
 1914年には、最後の仕上げとして英国がエジプトを正式に保護国化して、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割は完了したのである。その結果、アフリカ大陸で独立国として残ったのは、米国の黒人解放奴隷が移住・入植して1847年に建国したアフリカ初の共和国リベリアと、600年以上の歴史を持つエチオピア帝国の二か国のみであった。
 こうしたアフリカ分割と並行して進められていたのが、太平洋諸島の分割であった。この地域ではまたしても英国がいち早く1788年以降、オーストラリアを流刑植民地として領有したほか、1840年以降はニュージーランドをも領有した。
 しかし、それ以外の諸島の分割が本格化したのは1880年代にアフリカ分割に乗り遅れたドイツがニューギニア島北東部の領有を宣言してからであった。結果、インドネシアを拠点としていたオランダや英国の参入を呼び起こし、結局同島は三国で分割されることとなった。これを機にフランスも太平洋地域に進出し、フランス領ポリネシアなどを作出した。
 さらに、この地域にはアフリカ分割には加わることのなかった米国も進出してくる。特に18世紀末以来のカメハメハ王朝の下で独自の立憲君主制が成立していたハワイを在留米国人のクーデター(1893)を機に併合した(1898)。また米西戦争で勝利した結果、スペインからグアムを獲得した。
 このようにオーストラリア大陸を除けば狭小な島嶼部から成り、さして経済的価値も高いと言えない太平洋諸島までが列強の分割対象となったことは、国民国家の競争的海外膨張という帝国主義の政治的側面をよく表している。
 こうした分割の結果、オーストラリアのアボリジニやニュージーランドのマオリなどの先住民のほか、東南アジアのマレー人とも同系のオーストロネシア語族に属する諸民族が長く伝統的な生活様式を守ってきた太平洋地域も、―英国の保護領にとどまったトンガを例外として―列強の領有に帰したのである。

2012年10月 3日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第52回)

第7章 略

四 帝国主義の攻勢(続き)

(4)帝国主義の展開〈2〉:対象地域[上]
 
帝国主義の展開を地域的に見ると、およそ非ヨーロッパ世界がくまなく列強の餌場とされたと言ってよいが、時期的にはアジア侵略が先行する。このようにアジアが帝国主義の入り口として使われたのは、東インド会社以来、アジアにはヨーロッパが足場を築いていたことからして必然であった。ただ、帝国主義的侵略の対象としてのアジアはもはや単なる貿易基地でなく、原料供給や製品市場としての役割を押し付けられるのである。
 その最も悲惨な例が英領インドであった。インドでは18世紀まで手織り高級綿布が最大の輸出品であったが、英国による領土化が進むと英国産の安価な機械織り綿布の消費地に変えられたことで、インドの伝統的な家内工業として営まれた綿工業は壊滅的打撃を受け、貧困や飢餓すら招いた。
 一方で、アジアが資本輸出先とされた限りではやはり英領インドがそうであったように、道路・鉄道網や通信網のような社会基盤の整備も積極的に行われ、「強制的近代化」が推進されもしたのである。
 なお、英国は南アジアではインド領有に先立って、仏教系の島国スリランカをオランダから奪い、1815年以降領有し、茶を中心とするプランテーションを営んでいた。また、同じ頃、英国は東インド会社を通じて、1769年にシャハ王朝により全土統一されたばかりのネパールにも手を広げ、グルカ戦争(1814‐16)に勝利して領土の大半を獲得した見返りに補償金を支払うことになった。しかし間もなく一部を返還し、補償金も廃止したため、ネパールの完全な領有はならず、ネパールは南アジアでは例外的に独立を保持した。
 一方、インドで英国に敗れたフランスは東南アジアに目を付け、仏教系のインドシナ半島侵略へ向かう。足がかりとなったのはベトナムであった。フランスは1860年代以降、フランス人の一宣教師がその成立に関わった阮朝との数次にわたる条約を通じて1884年までにベトナムを保護国化した。ベトナムに対する宗主権を主張する清との間で戦われた清仏戦争(1884)に勝利したフランスは87年、カンボジアなども包括するフランス領インドシナ連邦を作出、99年にはラオスも編入した。
 これに対抗して、英国も仏教系ビルマの侵略に向かい、18世紀末以来この地を統治していたコンバウン朝と三次にわたる戦争の末、1886年に降伏させ、これに先立つ77年にヴィクトリア女王を皇帝として作出していたインド帝国に合併した。
 英国は東南アジアでは東インド会社の時代から錫やゴム資源の産地であるイスラーム系マレー半島の権益をオランダと争い、1824年の英蘭協約でマラッカ海峡の北側マレー半島を英国の勢力圏とする取り決めを勝ち取った。これに基づいて英領マラヤが作出された。 英国に押し込まれたオランダも17世紀以来拠点としてきたマラッカ海峡南側のインドネシアを引き続き拠点として保持した。そのオランダによってこの地域から閉め出されていたポルトガルもティモール島東部(東ティモール)にわずかな足場を残していた。
 またフィリピンはスペインが依然として領有していたが、1898年に米国との間で戦われた米西戦争に敗れて米国へ割譲された。これによってフィリピンは米国のアジア・太平洋進出の足場となる。
 結局、東南アジアで帝国主義的侵略を免れたのはタイのみであった。それはタイが地政学上、英仏両勢力の緩衝地帯に立地したことに加え、18世紀以来この地を支配していたチャクリー朝(現王室)の外交手腕によるところが大きい。
 以上に対して、欧米列強や日本の領土分割の標的となった中国、専ら日本の餌場とされた朝鮮については固有の問題を含むため、後に改めて言及する。
 次いで、西アジアのうち、オスマン帝国に関わる部分は次々節に回し、まずはイランとアフガニスタンである。このカフカス・中央アジアに接続している地域は、かねてより南下政策を採るロシアが付け狙っていた。
 特にカフカスと接するイランではサファヴィー朝がアフガニスタンのイラン系パシュトゥン族の侵入を受けて崩壊した後、サファヴィー朝を継いだトルコ系アフシャール朝に仕えていたトゥルクメン系軍事貴族から出たカージャール朝が18世紀末からカフカスにまたがって支配していたが、19世紀に入るとロシアは同朝への攻勢を強め、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアなどのカフカス地域を順次攻略していった。
 一方、インド支配を万全のものとするためにもインド西部で接するイランをロシアから防衛したい英国も、カージャール朝への干渉を始めた。英国は対露戦などによるカージャール朝の財政危機に乗じて、英国人実業家に交通・通信・金融から石油に至る利権を譲渡させる手法で経済支配を強めていった。しかし1890年にタバコ専売権の譲渡が決まると、イラン民衆はタバコ・ボイコット運動で抵抗し、これが1905年の立憲革命につながる。
 しかし、07年に英露協商を結んだ両国はイランの分割を画策し、翌年から英国黙認の下にロシアが軍事加入し、革命を挫折させたのである。その結果、ロシアはイラン北西部を、英国は南東部を各々勢力圏としたが、いずれも完全なイラン領有化には成功しなかった。
 一方、英国にとってはインド北部で接するアフガニスタンもインド経営上枢要であった。アフガンでは1747年以来、アフシャール朝から独立したパシュトゥン系ドゥッラーニー部族の王朝が支配していた。
 ここでもロシアの南下に加え、隣国カージャール朝の侵入を防ぐため、英国は19世紀前半と後半の二度にわたり、アフガン領有化を狙って交戦したが、いずれもアフガン部族の山岳ゲリラ戦に苦しめられた。そこで、英国はアフガンの外交権を奪って保護国とするべくインドとの国境線を一方的に定め、1907年の英露協商でロシアと敵対しない限りでアフガンを英国の勢力圏とすることを合意した。
 結局、英国はロシアとともに、イラン・アフガニスタンの完全な植民地化には成功しなかったことになる。これらは現地民衆の抵抗が帝国主義を牽制し得た数少ない実例であった。

2012年10月 2日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第51回)

第7章 略

四 帝国主義の攻勢(続き)

(3)帝国主義の展開〈1〉:参入国
 帝国主義はおおむね19世紀半ばすぎから本格化すると言ってよいが、それが異常と言えるほどの植民地獲得競争に過熱していくのは、英国に続いてヨーロッパ各国、さらには米国や日本にまで産業革命の波が及び、資本主義の急速な世界拡散現象が生じたことによるところが大きい。
 しかしそればかりでなく、資本主義的上部構造としての国民国家の発達とその威信をかけた競争的海外膨張という政治的要因も認められる。それを促進した触媒としては古代以来の国際慣習「大国は小国を呑む」がまだ有効だったということ以上に、初の近代的国民国家アメリカ合衆国が範例を示した人種主義的優越思想も大いに寄与していたであろう。
 こうした帝国主義の展開において先導役となるのはやはり大英帝国であるが、その後をフランスが追い上げ、遅れて1871年に統一されたドイツ、さらに1861年にサルデーニャ王国を中心に統一されたイタリアも合流する。
 プロイセンとの戦争に敗れたオーストリアは1867年以降ハンガリーに一定の自治を与えつつ、オーストリア‐ハンガリー帝国を形成して中欧の多民族大国となるが、その主要な領土的関心はオスマン版図であったバルカン半島に向けられており、海外植民地獲得には積極的な関心を持たなかった。
 その他、オランダは従前からのインドネシア支配を継続し、オランダから1830年に独立したベルギー(承認は39年)もやがてアフリカのコンゴを拠点に、それぞれ小国ながら「小帝国主義」を展開した。
 一方、ラテンアメリカ植民地を喪失したポルトガル、スペインも従前からのアフリカ植民地を中心に改めて近代帝国主義に参入し直す。しかも、この両国は第二次世界大戦前から大戦を越えて1970年代に至るまでファシズム体制が続き、それらの独裁体制が各々終焉する前後の頃までアフリカ植民地を固守し続けたのである。
 ところで、北方のロシアは16世紀以来、シベリア開発を独占的に行ってきたが、19世紀半ば頃から東シベリア総督を置いて極東進出を本格化する。その過程で中国分割に参入した。また陸続きの中央アジアへも手を伸ばし、19世紀後半にはその地にあった三つのウズベク系ハーン国を滅ぼし、または保護国化した。しかしロシアは広大な大陸型国家のため、海外植民地獲得には熱意を示さなかった。
 これに対して、非ヨーロッパ地域からはまず米国が参入してくる。米国は19世紀に入って当初は本土の拡大を追求していたが、同世紀半ば頃からは南部と西部で隣接するメキシコに対する攻勢を強め、1845年にはテキサスを併合、翌年46年から48年までメキシコと戦って48年にはカリフォルニアを獲得した。この結果、太平洋岸へ領土が拡大されたことで太平洋・東アジア方面への関心を高める。まだ「鎖国」下にあった日本に開国を迫っていち早く通商条約を締結したのも、この時期のことであった。
 米国はその後、黒人奴隷制の存廃をめぐって南北が分裂する危機を迎えたが、南北戦争(1861‐65)で奴隷制廃止派の北部が勝利してこの危機を乗り切り、再建を果たした後、西部開拓が一段落した19世紀末から、太平洋・東アジアと中南米を中心に帝国主義に参入していく。ただ、米国も広大な大陸国家であるため、海外植民地獲得にはあまり熱心でなく、以後フィリピンなどを例外として、植民地支配によらない帝国主義が米国の基調となった。
 最後に、明治維新を経て近代国家体制を急速に整備した日本がアジアから帝国主義に参入するというハプニングをもって帝国主義の展開はひとまず一段落するのである。

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