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2012年9月23日 (日)

マルクス/レーニン小伝(連載第5回)

第1部 カール・マルクス

第2章 共産主義者への道

(5)『共産党宣言』まで

flagブリュッセル亡命
 マルクスはルーゲと共同で創刊した『独仏年誌』をルーゲとの決裂により失った後、パリで亡命ドイツ人たちが発行していた『フォーアヴェルツ』という左派系新聞に寄稿するようになっていたが、同紙はプロイセン批判の急先鋒であったため、プロイセン当局はこれを危険視し、フランス政府に厳重な取り締まりを要求してきた。
 当時のフランスはルイ・フィリップのいわゆる7月王政末期に当たり、選挙法改正運動や労働運動、社会主義運動も高まりを見せる中、政府内では保守的な歴史家でもあった外相ギゾーが実権を握っていた。そのため、フランス政府としてもプロイセン政府の要請を容れ、マルクスら同紙関係者のフランス追放を決定した。
 45年1月、フランス内務省から一週間以内のパリ退去を命じられたマルクスは2月、知人と共に隣国ベルギーへ出国した。ベルギーは30年オランダから独立したばかりの新興国で、まだ自由な気風があったからである。
 ただ、次女ラウラを身ごもっていたイェニーとパリで生まれた第一子の幼いジェニーはしばらく残留し、後からマルクスに合流することになった。早くも波乱の人生の始まりが予感された。

flag共産主義者としてのスタート
 マルクスが理論上も実践上も共産主義者として本格的なスタートを切るのは最初の亡命地ブリュッセルにおいてであった。
 1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移転し、二人の本格的な共同研究が始まる。その手始めは、マルクスによれば「ドイツ哲学のイデオロギー的諸見解に対するわれわれ(マルクスとエンゲルス)の対抗的見解を共同して作り上げること、実際上はわれわれの以前の哲学的意識を精算すること」を目的とした共同著作の執筆であった。これが今日『ドイツ・イデオロギー』として公刊されている二人の代表的な共著である。
 ただ、この作品は予定していた出版社側が断りを入れてきたため、未完の草稿のままに終わり、結局二人の生前には公刊されなかった。そういうわけで、この著作は今日でも十分に整理されないまま公刊されているが、その中心は先のマルクス自身の総括にあるように、ヘーゲル以来のドイツ哲学(ドイツ・イデオロギー)を批判すること自体よりも、マルクス‐エンゲルス自身の以前の「哲学的意識」―ドイツ・イデオロギーの圏内にあったヘーゲル左派―を清算して、いよいよ唯物弁証法及びそれを歴史に適用した唯物史観に基づく新しい共産主義思想―それこそがプロレタリアートの精神的武器となるはずのもの―を提示することにあった。
 こうした課題を担った同書が完全な形で公刊されていればマルクス‐エンゲルス(特にマルクス)の共産主義思想に関する基本書となったはずであるが、残念ながら未整理のために、この著作はマルクス‐エンゲルスの著作中最も読解困難なものとなっている。
 とはいえ、いくつかの断片的な形でマルクス(及びエンゲルス)の共産主義の特徴的な命題を引いてみよう。

annoy実践的な唯物論者すなわち共産主義者にとっては現存する世界を革命的に変革すること、眼前に見出される事物を実践的に攻略し変革することこそが問題である。

annoy共産主義とは、われわれにとって創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。われわれが共産主義と呼ぶのは現在の状態を止揚する現実的な運動である。この運動の諸条件は今日現存する前提から生じる。

annoy共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として一挙的かつ同時的にのみ可能なのであり、このことは生産諸力の全般的な発展及びそれと連関する世界交通を前提とする。

 こうした理論的な活動と同時に、二人は共産主義運動の実践にも取り組んだ。『ドイツ・イデオロギー』を書き上げた後の46年2月、彼らはブリュッセルに「共産主義者連絡委員会」を設立し、ヨーロッパ各国の共産主義運動の連帯を目指す。マルクスとエンゲルスがこのような組織を設立したのは、冒険主義的な革命運動でも抽象的な思想運動でもなく、まさに『ドイツ・イデオロギー』の中で提示したような「現実的な運動」としての共産主義を広めるためであった。
 ドイツ人による共産主義運動としてはつとに「正義者同盟」なる秘密結社があったが、一部冒険主義者の起こした無謀な反乱事件に連座して壊滅状態に陥っていたところ、ロンドンで活動していたその残党からマルクス‐エンゲルスの路線に沿った組織再建の相談を受けた二人はこれを承諾し、先の共産主義者連絡委員会も新しい組織「共産主義者同盟」に加盟することになった。
 早くも金欠状態で47年6月に開かれた同盟の第一回ロンドン大会には出席できなかったマルクスであったが、8月には同盟ブリュッセル支部長に推された。そして今度はマルクスも出席した11月から12月にかけては第二回ロンドン大会は、マルクス‐エンゲルスの立てた綱領原則を採択したうえ、大会宣言の起草を二人に委託したのである。この宣言文書があまりにも有名な『共産党宣言』として世に出ることとなった。

flag『共産党宣言』発表
『共産党宣言』(以下、単に『宣言』という)はエンゲルスが先行して書いていた「共産主義の諸原理」という未公刊のQ&A形式の小論をもとに、エンゲルスが作成した草稿にマルクスが手を加えて仕上げたもので、完成したのはようやく48年1月のことであった。
 これは前回見た共産主義者同盟の「理論的にして実践的な綱領」として生まれたものだが、マルクス‐エンゲルスの意図をもはるかに越え、20世紀に入って世界各国で結成された共産党の綱領にも取り込まれた。
 しかし、この『宣言』に対しては、共産主義に肯定的な者も否定的な者も、一つの大きな誤解を共有し合ってきたし、おそらく今でもそうである。その誤解とは、この書は共産主義とは何かを明示する綱領文書だという誤解である。
 ところが、実際には『宣言』が第一章を中心に多くのページを費やすのは、唯物史観に立った資本主義の歴史―未来完了態を含む―なのである。特に「自己の生産物の販路を常にますます拡大しようとする欲望に駆り立てられて、ブルジョワ階級は全地球を駆けめぐる。かれらはどんな所にも巣を作り、どんな所をも開拓し、どんな所とも関係を結ばれねばならない」で始まるくだりは、『宣言』が発表された19世紀中頃にはまだ英国を中心にほぼ西欧及びその植民地に限られていた国際資本主義の全地球規模化(グローバリゼーション)という今日的現象を未来完了的に予示した点で重要な意味を持つ。少し長く小さな文字になるが、続きの部分を引用してみよう。

ブルジョワ階級は、世界市場の搾取を通じて、諸国の生産と消費とを世界主義的なものに作り上げた。反動らには甚だ気の毒であるが、かれらは産業の足元から、民族的な土台を掘り崩したのだ。遠い昔からの民族的な産業は破壊され、今なお毎日破壊されている。これを押しつけるのは新たな産業であり、それを採用するかどうかはすべての文明国民の死活問題となる。しかもそれはもはや国内の原料ではなく、最も遠く離れた地域から産出する原料をも加工する産業であり、そしてまたその産業の製品は国内自体で消費されるばかりでなく、同時にあらゆる大陸でも消費されたのである。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって新たな欲望が立ち現れる。この新たな欲望を満足させるためには最も遠く離れた国や気候の生産物が必要とされる。かつては地方的・民族的に自足し、まとまっていたのに対して、代わってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係が立ち現れるのである。

 一方、「マルクス主義」の名の下に遂行されたロシア10月革命(1917年)以降、世界的に盛行したいわゆる「国有化」政策の典拠ともされてきた『宣言』第二章に見えるプロレタリア革命後における十項目の政策提言も共産主義そのものではなく、むしろプロレタリア革命を経由して共産主義社会へ移行するまでの過渡期に対応するプログラムを列挙したものであった。従って、国有化は共産主義そのものではなく、共産主義へ至る通過点の手続にすぎない。それは資本を民間資本家の手から国家に移し替えた限りではなお資本主義―言わば国有資本主義―の枠内にあるとさえ言えるのである。
 もう一つ、『宣言』に関わる大きな誤解として共産主義=共産党独裁という図式がある。これは共産主義の政治的側面に関わる誤解である。おそらくその誤解の典拠は『宣言』第三章の「プロレタリア階級はその政治的支配を利用してブルジョワ階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し」云々というくだりにあり、さらに後年のマルクスが「プロレタリアートの独裁」という概念を提起したことでいっそう助長され、マルクス自身が独裁政治の理論家にされてしまった。
 しかし、『宣言』が発表された19世紀中頃には政党という近代的な政治用具はまだ発展を見ておらず、政党の発達はマルクス最晩年のヨーロッパでようやく始まるのである。マルクスらが『宣言』をその綱領文書として書いた共産主義者同盟も政党ではなく、共産主義者の国際的運動組織であった。従って「プロレタリア階級の政治的支配」といい、「プロレタリアートの独裁」といい、それらは共産党であれ、その他の何党であれ、政党を通じた支配の埒外にある概念である。
 要するに、それはプロレタリア階級を主体とする革命政権の樹立ということ以上でも以下でもなく、その具体的内実は事実上空欄のままに残されているのである。ただ、後年のマルクスが「独裁」(ディクタトゥール)という重たい用語を持ち出したのは、彼が「本質的に労働者階級の政府」とみなしたパリ・コミューンがブルジョワ支配体制によって無残に粉砕されたのを見て、強力な革命防衛体制の必要性を痛感したことによるものであろう。
 それではマルクス‐エンゲルスの想定する共産主義とは何か━。『宣言』では先行するサン・シモン、フーリエ、オーウェンらの共産主義を「空想的」として批判的に対置しようとする以外、積極的な形では何も示されていないというのが答えである。ただ、プロレタリア階級が革命によって支配階級となり、旧来のブルジョワ的生産様式を廃止し、階級対立を終わらせた後に「ひとりひとりの自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件である」ような「一つの協同体が立ち現れる」と抽象的に定式化されるにとどまるのである。
 このようないささか肩すかしの回答は若きマルクス‐エンゲルスの未熟さに原因があるというよりは、先に見た『ドイツ・イデオロギー』の断片的な命題にもあったように、共産主義を創出されるべき「状態」とかあるべき「理想」ととらえるのでなく、現実を止揚し変革していく「運動」としてとらえるというマルクス‐エンゲルスの視座に由来すると解されるのである。
 彼らは理論の運動家ではなく、運動の理論家たらんとしていたのだ。

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