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2012年9月 7日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第2回)

第1部 カール・マルクス

第1章 人格形成期(続き)

(3)哲学との出会い

flagベルリン大学転学
 先に述べたように、マルクスは父の意向でボン大学からより著名で都会的なベルリン大学に転学させられた。学部は同じ法学部。父としてはこれで息子が改心して法律の勉学に力を入れて取り組むようになることを期待したのであろうが、かえって逆効果であった。カールがトリーアから遠く離れたベルリンで始めたことと言えば、婚約者イェニーに相変わらずロマンチックな詩を書き送ることと、畑違いの哲学の勉強であった。
 とりわけ後者はマルクスの知的道程においては決定的な意味を持った。その点で、彼は父の転学命令に感謝しなければならなかっただろう。
 彼が特に傾倒したのは、当時まだ一世を風靡していたヘーゲル哲学である。ヘーゲルは奇しくもマルクスが生まれた1818年にベルリン大学教授に着任していたが、31年にコレラで急逝したため、36年にベルリンへやってきたマルクスがヘーゲル教授の講義を聴くことはかなわなかった。しかし当時はまだヘーゲルが没して5年ほどで、ベルリン大学はヘーゲル学派の一大拠点であったのだった。
 ベルリン大学時代のマルクスは法学の講義にはほとんど出ずに、ヘーゲル哲学を中心とした哲学の独習にいそしんだのであるが、どうやらヘーゲルには初めから違和感を覚えたらしく、ヘーゲルの精緻な弁証法的思考に敬服しつつも、彼に言わせればヘーゲル哲学の「グロテスクでごっつい」調子にはついていけないものも感じていた。
 大学の講義には出なかったとはいえ、徹夜の勉学を重ねたマルクスは間もなく健康を損ね、転地療養する羽目となる。一方、ベルリンでも態度が改まらないどころか、畑違いの方向に流れていく息子の将来を案じ、腹も立てていた父ハインリヒは、マルクスが20歳になって間もない38年5月に没した。
 マルクスは父の死を表向き深刻に受け止めながらも、これで彼に弁護士を継がせようとする父の意志から解放されたこともたしかであった。マルクスにとって、最初の「解放闘争」の終了である。

flag「青年ヘーゲル学派」への参画
 マルクスは転地療養から間もなく、ベルリン大学の若手教員や学生が結成した思想グループ「ドクトル・クラブ」に参加する。これは思想家マルクスにとって初めの一歩となる画期的な出来事であった。
 このグループは気鋭の同大学講師ブルーノ・バウアーが指導する進歩的な思想グループで、ヘーゲル哲学から出発しながらも、その現状保守的な性格を批判・超克していこうとする点で、ヘーゲルの教えを忠実に護っていこうとする「ヘーゲル右派」や、中立的で哲学史に重点を置く「ヘーゲル中央派」に対して、「ヘーゲル左派」とも呼ばれ、また「青年ヘーゲル派」とも称される当時のドイツ哲学界では最前衛のグループであった。
 彼らは世界の一切を精神(理性)の自己展開的プロセスとしてとらえるヘーゲルの弁証法が、結局はその精神の本質をキリスト教に求め、なおかつ精神の最高の完成態を国家に見出そうとすることで、ウィーン体制下の反動政治を正当化する結果となっていることを批判し、より主体的な類的人間としての「自己意識」によってキリスト教と現存プロイセン国家を乗り超えていく自由主義的な哲学を構築しようと努めていた。
 こうした志向性を持つグループに、トリーアのフランス的自由主義の風土で育ったマルクスが飛び込んでいったのは自然な流れであった。元来怜悧な無類の論争家であるマルクスは、後から参加しながらグループ内でたちまち頭角を現し、リーダーのバウアーからも頼りにされるほどの中心的な存在となっていった。
 ただ、「青年ヘーゲル学派」が共有する「自己意識の哲学」はなお唯心論的な傾向を免れておらず、後年のマルクスの強固な唯物論的思考とは距離がある。しかし大学時代のマルクスはさしあたりまだ完全な意味での唯物論者とはなっていなかった。
 とはいえ、彼が最も影響を受けたのはバウアーではなく、間もなく反響を呼ぶ宗教批判書『キリスト教の本質』を著すヘーゲル学派内でも最年長かつ最も唯物論的傾向を示していたルートヴィヒ・フォイエルバッハであった。人間が自らの苦悩、願望等の投影として自ら造り上げた神なるものに束縛され、かえって生きた現実としての人間性を喪失してしまう自己疎外を喝破したこの控えめな哲学者こそ、17歳の時のギムナジウム卒業論文では「人間も神によって人類及び自己自身を高めるように定められている」と記していたマルクスを唯物論へ導いたのであった。

(4)古代唯物論研究

flag博士論文執筆
 青年ヘーゲル学派への参画を通じて、マルクスは哲学研究者・大学教員の道を志望するようになっていた。そのための資格要件として、哲学博士号の取得が必要であった。そこで、マルクスは1839年から博士論文の執筆に取りかかる。
 彼が選んだテーマはヘレニズム期の古代哲学、特にエピクロス派、ストア派、懐疑派の研究であった。これはバウアーらの示唆によるもので、「自己意識」をキーワードとする青年ヘーゲル学派にとって古代ギリシャ末のポリス解体期に現れたこれら哲学思潮が通有する個人主義的自己意識―わけても「快楽主義」の祖であるエピクロス派―は導きの糸たり得たからである。
 ただ、マルクスが博士論文『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の相違』で取り上げたのは、そうした自己意識云々よりはエピクロスと彼が継承したデモクリトスの唯物論との比較研究であった。これを見ると、マルクスの唯物論への関心はすでにこの頃から芽生えていたようである。
 「笑う人」の異名を持つデモクリトスは原子論の祖で、宇宙の一切のものをアトム(原子)なる分割不能な微粒子の運動法則の結果として説明しようとした点で、元祖唯物論者とも言える人物であった。デモクリトスの原子論は、極めて原初的な把握の仕方においてではあるが、今日の物理学における素粒子論の先駆けをも成していた。
 これに対して、デモクリトスのおよそ一世紀後に出るエピクロスはデモクリトスの原子論を継承しつつも、万物をアトムの必然的な運動法則で説明することに反対し、アトムの運動の中には不規則な逸脱もあることを主張した。ここから、人間の行為における苦痛からの不規則な逸脱としての快楽(アタラキシア)をもって人生の目的とみなす快楽主義の倫理学も導かれるのである。
 エピクロスはそう考えることで、必然には還元できない自由や偶然の領域を認めつつ、社会的活動からは身を引いて、個人的な快楽―エピクロスの本意からすれば「平静」とでも訳すほうが的確と思われる―に身を委ねるべきことを説くのである。
 前記博士論文において、マルクスはともに唯物論者としてのデモクリトスとエピクロスを比較検討する中で、エピクロスに軍配を上げている。これは、唯物論者にして革命家ともなった後年のマルクスからすると意外な感じを受ける。
 しかし、このことは当時のマルクスがまだ青年ヘーゲル学派の「自己意識の哲学」の影響下にあったためというだけでなく、マルクスの思想形成にあっては終生「自己意識」―ひいてはヒューマニズム―が通奏低音のように鳴り響き続けていくことを予感させるものであった。もっとも、その通奏低音は次第次第に弱くなっていき、最終的にはかなり純度の高い唯物論に到達するのではあるが。

flag博士号取得と「卒業」
 マルクスは1841年、二年半を費やした博士論文を完成させた。問題は提出先であった。この頃、在籍するベルリン大学では大きな異変が起きていた。ベルリン大学創設にも尽力し、ヘーゲル学派全般に好意的であったプロイセンの文部大臣が死去し、後任の保守的な新大臣は大学から自由主義的傾向の教員を追放する方針をとり、ヘーゲル学派排除のためドイツ・ロマン主義の大御所哲学者シェリングをベルリン大学に招聘したのだ。
 一方、ドクトル・クラブにおけるマルクスの「恩師」にして同志でもあったバウアーが39年にボン大学へ転出していたこともあり、結局マルクスは論文をベルリン大学でなく、イェ-ナ大学へ提出することになった。このイェーナ大学もかつてヘーゲルが教鞭を取ったことのあるヘーゲルゆかりの大学であった。
 その結果、彼は41年4月、同大学哲学部から無事博士号を取得する。ボン大学入学時からベルリン大学転学を経ておよそ五年半、23歳になろうとしていた。これでマルクスの学業は修了したわけであるが、結局彼はベルリン大学法学部をまともに卒業することはなく、畑違いの哲学の道に逸れたうえ、在籍していない他大学を「卒業」したのであった。まさにエピクロスの不規則逸脱運動のようであった。
 ちなみに、41年には先のフォイエルバッハが『キリスト教の本質』を出し、バウアーもヘーゲル哲学を無神論とみなすよりラディカルな『無神論者・反キリスト者ヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ』なる書を公刊した。青年ヘーゲル学派はとみに急進化する一方、プロイセン当局は締め付けを強めた。その結果、バウアーは42年、ボン大学講師を免職されてしまう。同様の運命が、首尾よく博士号を取得したばかりのマルクスにも降りかかってくることは避けられそうになかった。

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