« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月

2012年9月30日 (日)

老子超解:第十一章 万物相同

十一 万物相同

世人は美を美としてわきまえているが、それは醜と相同的なのである。また(世人は)善を善としてわきまえているが、それは悪と相同的なのである。
同様に、有と無とは相同的に生じ、難しいものと易しいものとは相同的に成り立ち、長いものと短いものとは相同的に形作られ、高いものと低いものとは相同的に位置づけられ、楽器の音と人間の声とは相同的に和し、前のものと後のものとは相同的に順序づけられている。
そういうわけで、理想の人は(皮相な優劣にとらわれない)無為の立場によって、不言の教えを実践するのである。
(理想の人は)万物が活動してもそれを言葉で表現せず、生産しても所有せず、業績を上げても成果に頼らない。功成っても成功に居座らない。そもそも居座らないからこそ、成功も去らないのだ。


  老子哲学の中でもバックボーンとなる万物相同の思想が、意表を付く力強い教説詩的筆致で語られる章である。通行本では本章が冒頭に近い第二章に置かれているのもうなずける。
 本章で、老子は世俗的な価値観の中では優劣関係をもって分別される美/醜、善/悪、有/無、難/易、長/短、高/低、音/声、前/後といった価値・観念をすべて相同的なものと説く。
 ここで留意すべきは、老子はこれら二項対立概念の差異を全否定しているのではないということである。この点で、そうした二項対立概念を全否定して万物斉同を唱えた荘子の思想とは異なっている。
 荘子の万物斉同論は個物の差異を否定する徹底した一元論の立場へ赴こうとするため、必然的に達観した神秘思想の境位に入っていかざるを得ないのに対して、老子の万物相同の思想は二項対立(広くは個物の差異)を否定し切らないまま、その対立・差異が発生する手前―要するに―へ復帰しようとするのである。

 別の角度から見れば、荘子の万物斉同論は同一性の哲学であるのに対し、老子の万物相同論は差異の哲学の圏域にありながら、差異を素朴に称揚する価値相対的な多元論でお茶を濁す代わりに、差異の根源的な相同性を問い詰めることにより、差異を超克せんとするのである。
 このような思考法はまた、同じく二項対立の超克を目指すヘーゲル的な弁証法とも異なるものである。ヘーゲル弁証法における二項対立の超克は対立関係の止揚を通じて前進的に行われるのに対し、老子にあってはむしろ前対立関係へと遡行することによって復帰的になされる。そこから、老子の万物相同論は、二項対立を超克するうえでヘーゲル弁証法のオールタナティブたり得るのである。
 ところで、第三段以下に現れる「聖人」とは、老子にあっては具体的な人間というよりは、の擬人化、あるいはを体得した人間を象徴している。その意味で、「聖人」は老子にとっての理想的な人間のあり方を示すものであるが、孔子の「聖人」のような理想の王=徳を備えた為政者ではなく、市井の人である。
 その特徴は、まさに本章で説かれた万物相同論を抱懐し、第四段にあるように、饒舌、所有、功績、功労といったものからは無縁の人物、老子的な意味での「無為」の実践者であって、言わば近代的資本家の対極にあるような人物であると言えようか。

2012年9月29日 (土)

「君が代」考

 以前の本連載で「音楽と政治」と題して音楽と政治の浅からぬ関係について述べたことがある。その点、国歌ほど政治と密接な音楽もないだろう。国家を称える賛歌たる国歌は、まさにそれ自体が政治現象である。
 ところで、日本の国歌と言えば「君が代」である。「君が代」をめぐっては周知の政治論争があり、まさに「音楽と政治」の極致である。一方で「君が代」を純粋に音楽として考察しようという風潮には乏しいように見える。
 「君が代」は、音楽的に独特の曲調を示す楽曲である。「君が代」が果たして調性音楽なのかどうかは音楽学上一つの論点であろうが、いわゆるハ長調的な基調を持ちながら無調性的な展開を見せる。ただ、前衛的な現代音楽とは全く違い、不協和音の連続ではなく、協和音を基本とする伝統的な音楽の枠内には納まっている。
 要するに、純粋に音楽的に見たときの「君が代」は、「和洋折衷」などという月並みな言葉では語りつくせない、雅楽と西洋音楽が複合された独特の曲調を持つまことに興味深い音楽ジャンルに属するのである。
 そういうある種の「名曲」が政治的に先鋭な論争の的となってしまう理由は、ひとえにその歌詞にあろう。前にも述べたとおり、音楽が政治的メッセージ性を帯びるのも歌曲の歌詞を通してであった。国歌の歌詞は国により様々だが、国家の成り立ちやその永遠性を称える点にはほぼ共通性がある。日本国歌としての「君が代」はそのタイトルどおり、「天皇の御代」を称え、その「千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」の永続を祈願する歌詞である。
 ちなみに「君が代」の「君」とは「君と僕」の「君」であり、天皇を意味しないなどという“解釈”をどこかで小耳に挟んだことがあるが、それは牽強付会の冗談に等しい“解釈”であろう。
 天皇の御代を称える歌詞は戦前の天皇主権の憲法には完全に合致するが、国民主権に変革された現行憲法には合致しないという批判は当然であろう。国民主権であれば、せめてタイトルは「民が代」として、歌詞もそれにふさわしいものに変更したほうがよいのかもしれない(ただし、国民主権の土台に立った象徴天皇制の永続を謳った歌詞として再解釈する余地がないこともない)。
 もっとも、「君が代」が帝国主義体制の象徴として内外で強制された歴史に鑑みて容認できないというとらえ方をするならば、歌詞にとどまらず楽曲ごと変更すべきだということになろう。
 こういう具合に、国歌とはまさに政治そのものなのだと痛感させられる。これは隣接する芸術である美術の世界ではまず起こり得ない―国旗を一個の美術作品とみるならば同種の問題が起こり得るけれども―音楽の宿命かもしれない。

2012年9月23日 (日)

マルクス/レーニン小伝(連載第5回)

第1部 カール・マルクス

第2章 共産主義者への道

(5)『共産党宣言』まで

flagブリュッセル亡命
 マルクスはルーゲと共同で創刊した『独仏年誌』をルーゲとの決裂により失った後、パリで亡命ドイツ人たちが発行していた『フォーアヴェルツ』という左派系新聞に寄稿するようになっていたが、同紙はプロイセン批判の急先鋒であったため、プロイセン当局はこれを危険視し、フランス政府に厳重な取り締まりを要求してきた。
 当時のフランスはルイ・フィリップのいわゆる7月王政末期に当たり、選挙法改正運動や労働運動、社会主義運動も高まりを見せる中、政府内では保守的な歴史家でもあった外相ギゾーが実権を握っていた。そのため、フランス政府としてもプロイセン政府の要請を容れ、マルクスら同紙関係者のフランス追放を決定した。
 45年1月、フランス内務省から一週間以内のパリ退去を命じられたマルクスは2月、知人と共に隣国ベルギーへ出国した。ベルギーは30年オランダから独立したばかりの新興国で、まだ自由な気風があったからである。
 ただ、次女ラウラを身ごもっていたイェニーとパリで生まれた第一子の幼いジェニーはしばらく残留し、後からマルクスに合流することになった。早くも波乱の人生の始まりが予感された。

flag共産主義者としてのスタート
 マルクスが理論上も実践上も共産主義者として本格的なスタートを切るのは最初の亡命地ブリュッセルにおいてであった。
 1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移転し、二人の本格的な共同研究が始まる。その手始めは、マルクスによれば「ドイツ哲学のイデオロギー的諸見解に対するわれわれ(マルクスとエンゲルス)の対抗的見解を共同して作り上げること、実際上はわれわれの以前の哲学的意識を精算すること」を目的とした共同著作の執筆であった。これが今日『ドイツ・イデオロギー』として公刊されている二人の代表的な共著である。
 ただ、この作品は予定していた出版社側が断りを入れてきたため、未完の草稿のままに終わり、結局二人の生前には公刊されなかった。そういうわけで、この著作は今日でも十分に整理されないまま公刊されているが、その中心は先のマルクス自身の総括にあるように、ヘーゲル以来のドイツ哲学(ドイツ・イデオロギー)を批判すること自体よりも、マルクス‐エンゲルス自身の以前の「哲学的意識」―ドイツ・イデオロギーの圏内にあったヘーゲル左派―を清算して、いよいよ唯物弁証法及びそれを歴史に適用した唯物史観に基づく新しい共産主義思想―それこそがプロレタリアートの精神的武器となるはずのもの―を提示することにあった。
 こうした課題を担った同書が完全な形で公刊されていればマルクス‐エンゲルス(特にマルクス)の共産主義思想に関する基本書となったはずであるが、残念ながら未整理のために、この著作はマルクス‐エンゲルスの著作中最も読解困難なものとなっている。
 とはいえ、いくつかの断片的な形でマルクス(及びエンゲルス)の共産主義の特徴的な命題を引いてみよう。

annoy実践的な唯物論者すなわち共産主義者にとっては現存する世界を革命的に変革すること、眼前に見出される事物を実践的に攻略し変革することこそが問題である。

annoy共産主義とは、われわれにとって創出されるべき一つの状態、それに則って現実が正されるべき一つの理想ではない。われわれが共産主義と呼ぶのは現在の状態を止揚する現実的な運動である。この運動の諸条件は今日現存する前提から生じる。

annoy共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として一挙的かつ同時的にのみ可能なのであり、このことは生産諸力の全般的な発展及びそれと連関する世界交通を前提とする。

 こうした理論的な活動と同時に、二人は共産主義運動の実践にも取り組んだ。『ドイツ・イデオロギー』を書き上げた後の46年2月、彼らはブリュッセルに「共産主義者連絡委員会」を設立し、ヨーロッパ各国の共産主義運動の連帯を目指す。マルクスとエンゲルスがこのような組織を設立したのは、冒険主義的な革命運動でも抽象的な思想運動でもなく、まさに『ドイツ・イデオロギー』の中で提示したような「現実的な運動」としての共産主義を広めるためであった。
 ドイツ人による共産主義運動としてはつとに「正義者同盟」なる秘密結社があったが、一部冒険主義者の起こした無謀な反乱事件に連座して壊滅状態に陥っていたところ、ロンドンで活動していたその残党からマルクス‐エンゲルスの路線に沿った組織再建の相談を受けた二人はこれを承諾し、先の共産主義者連絡委員会も新しい組織「共産主義者同盟」に加盟することになった。
 早くも金欠状態で47年6月に開かれた同盟の第一回ロンドン大会には出席できなかったマルクスであったが、8月には同盟ブリュッセル支部長に推された。そして今度はマルクスも出席した11月から12月にかけては第二回ロンドン大会は、マルクス‐エンゲルスの立てた綱領原則を採択したうえ、大会宣言の起草を二人に委託したのである。この宣言文書があまりにも有名な『共産党宣言』として世に出ることとなった。

flag『共産党宣言』発表
『共産党宣言』(以下、単に『宣言』という)はエンゲルスが先行して書いていた「共産主義の諸原理」という未公刊のQ&A形式の小論をもとに、エンゲルスが作成した草稿にマルクスが手を加えて仕上げたもので、完成したのはようやく48年1月のことであった。
 これは前回見た共産主義者同盟の「理論的にして実践的な綱領」として生まれたものだが、マルクス‐エンゲルスの意図をもはるかに越え、20世紀に入って世界各国で結成された共産党の綱領にも取り込まれた。
 しかし、この『宣言』に対しては、共産主義に肯定的な者も否定的な者も、一つの大きな誤解を共有し合ってきたし、おそらく今でもそうである。その誤解とは、この書は共産主義とは何かを明示する綱領文書だという誤解である。
 ところが、実際には『宣言』が第一章を中心に多くのページを費やすのは、唯物史観に立った資本主義の歴史―未来完了態を含む―なのである。特に「自己の生産物の販路を常にますます拡大しようとする欲望に駆り立てられて、ブルジョワ階級は全地球を駆けめぐる。かれらはどんな所にも巣を作り、どんな所をも開拓し、どんな所とも関係を結ばれねばならない」で始まるくだりは、『宣言』が発表された19世紀中頃にはまだ英国を中心にほぼ西欧及びその植民地に限られていた国際資本主義の全地球規模化(グローバリゼーション)という今日的現象を未来完了的に予示した点で重要な意味を持つ。少し長く小さな文字になるが、続きの部分を引用してみよう。

ブルジョワ階級は、世界市場の搾取を通じて、諸国の生産と消費とを世界主義的なものに作り上げた。反動らには甚だ気の毒であるが、かれらは産業の足元から、民族的な土台を掘り崩したのだ。遠い昔からの民族的な産業は破壊され、今なお毎日破壊されている。これを押しつけるのは新たな産業であり、それを採用するかどうかはすべての文明国民の死活問題となる。しかもそれはもはや国内の原料ではなく、最も遠く離れた地域から産出する原料をも加工する産業であり、そしてまたその産業の製品は国内自体で消費されるばかりでなく、同時にあらゆる大陸でも消費されたのである。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって新たな欲望が立ち現れる。この新たな欲望を満足させるためには最も遠く離れた国や気候の生産物が必要とされる。かつては地方的・民族的に自足し、まとまっていたのに対して、代わってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係が立ち現れるのである。

 一方、「マルクス主義」の名の下に遂行されたロシア10月革命(1917年)以降、世界的に盛行したいわゆる「国有化」政策の典拠ともされてきた『宣言』第二章に見えるプロレタリア革命後における十項目の政策提言も共産主義そのものではなく、むしろプロレタリア革命を経由して共産主義社会へ移行するまでの過渡期に対応するプログラムを列挙したものであった。従って、国有化は共産主義そのものではなく、共産主義へ至る通過点の手続にすぎない。それは資本を民間資本家の手から国家に移し替えた限りではなお資本主義―言わば国有資本主義―の枠内にあるとさえ言えるのである。
 もう一つ、『宣言』に関わる大きな誤解として共産主義=共産党独裁という図式がある。これは共産主義の政治的側面に関わる誤解である。おそらくその誤解の典拠は『宣言』第三章の「プロレタリア階級はその政治的支配を利用してブルジョワ階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し」云々というくだりにあり、さらに後年のマルクスが「プロレタリアートの独裁」という概念を提起したことでいっそう助長され、マルクス自身が独裁政治の理論家にされてしまった。
 しかし、『宣言』が発表された19世紀中頃には政党という近代的な政治用具はまだ発展を見ておらず、政党の発達はマルクス最晩年のヨーロッパでようやく始まるのである。マルクスらが『宣言』をその綱領文書として書いた共産主義者同盟も政党ではなく、共産主義者の国際的運動組織であった。従って「プロレタリア階級の政治的支配」といい、「プロレタリアートの独裁」といい、それらは共産党であれ、その他の何党であれ、政党を通じた支配の埒外にある概念である。
 要するに、それはプロレタリア階級を主体とする革命政権の樹立ということ以上でも以下でもなく、その具体的内実は事実上空欄のままに残されているのである。ただ、後年のマルクスが「独裁」(ディクタトゥール)という重たい用語を持ち出したのは、彼が「本質的に労働者階級の政府」とみなしたパリ・コミューンがブルジョワ支配体制によって無残に粉砕されたのを見て、強力な革命防衛体制の必要性を痛感したことによるものであろう。
 それではマルクス‐エンゲルスの想定する共産主義とは何か━。『宣言』では先行するサン・シモン、フーリエ、オーウェンらの共産主義を「空想的」として批判的に対置しようとする以外、積極的な形では何も示されていないというのが答えである。ただ、プロレタリア階級が革命によって支配階級となり、旧来のブルジョワ的生産様式を廃止し、階級対立を終わらせた後に「ひとりひとりの自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件である」ような「一つの協同体が立ち現れる」と抽象的に定式化されるにとどまるのである。
 このようないささか肩すかしの回答は若きマルクス‐エンゲルスの未熟さに原因があるというよりは、先に見た『ドイツ・イデオロギー』の断片的な命題にもあったように、共産主義を創出されるべき「状態」とかあるべき「理想」ととらえるのでなく、現実を止揚し変革していく「運動」としてとらえるというマルクス‐エンゲルスの視座に由来すると解されるのである。
 彼らは理論の運動家ではなく、運動の理論家たらんとしていたのだ。

2012年9月20日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第4回)

第1部 カール・マルクス

第2章 共産主義者への道

(3)在野知識人へ

flag『ライン新聞』発禁
 『ライン新聞』に対する当局の締め付けはついに発禁処分にまで発展した。プロイセン政府は1843年1月、同紙を同年4月1日付けで発禁とすることを決定した。創刊からわずか1年余りである。
 もっとも、出資者であるブルジョワ層の株主たちは論調を穏健化することで再刊の道を探ろうとしていたが、安易な妥協を嫌うマルクスはそうした延命策を拒否し、辞職の道を選んだのであった。
 この決断について、後年マルクスは「『ライン新聞』に下された死刑宣告を取り消してもらえると信じている同紙経営陣の錯覚をむしろ率先して利用し、公の舞台から書斎に退いた」と述懐している。と言えば25歳での優雅な隠居生活のようにも聞こえるが、実際にはこれ以降マルクスが有給の定職に就くことはなく、在野知識人としての迫害と窮乏の後半生が始まるのである。
 ただ、その前に、彼は長く待望されていた一つの仕事を済ませておく必要があった。

flag結婚とパリ移転
 マルクスは『ライン新聞』編集主幹を辞職した後の1843年5月、7年間も待たせていた婚約者イェニー・フォン・ヴェストファーレンとクロイツナハで結婚した。クロイツナハはトリーアの東にある小さな温泉町で、イェニーは前年に父ルートヴィヒを亡くした後、母とともにこの地に移り住んでいたのだった。
 こうしてカール25歳とイェニー29歳のマルクス夫妻はクロイツナハで新婚生活を開始する。しかし、マルクスは温泉町で優雅に思索にふけるような人間ではなかった。新婚生活は5ヶ月ほどで早々切り上げ、43年10月、マルクスはイェニーを伴いパリへ移転した。これには新たな友人ルーゲも同行し、マルクス夫妻と同居を始めた。
 この時のパリ移転はまだ亡命ではなく、一種の「留学」であった。前にも述べたように、マルクスは「自由人たち」がかぶれ始めていたフランスの社会主義・共産主義に関する素養の欠如を痛感していたため、自ら本場パリへ赴いて直接に学ぶ決意をしていたのである。

flag『独仏年誌』と二つの論文
 マルクスはパリで同行の友人ルーゲとともに新しい理論誌『独仏年誌』を創刊した。この雑誌は結局、第一号と第二号の合併号を出しただけで終わってしまうのであるが、その最初にして最後の合併号には青年マルクスの思想的転回を画する二つの論文「ユダヤ人問題に寄せて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」が掲載されている点で重要である。
 第一の論文はマルクス自身の民族的出自とも関わるユダヤ人解放論に引き寄せつつ、実質上別立てとなっている二つの章のうち、特に第一章においてブルジョワ自由主義との決別を宣した論文であり、それは同時に哲学上の“恩師”バウアーに対する初の公然たる批判を含んでいた。
 本章冒頭で見たマルクス17歳当時の小論にもあったとおり、彼は元来、単純に個人の自由を称揚するような個人主義者ではなかったが、青年期マルクスの思想的バックボーンには郷里トリーアの風土や家庭の気風をも反映したリベラルなブルジョワ自由主義があったことは間違いない。しかし同論文で、マルクスは自らの旧来のバックボーン全体からの転回を宣言したのである。
 その際、バウアーの政教分離を通じた宗教からの解放というテーゼを批判の俎上に載せる第一章においては「ユダヤ人問題」は必ずしもメインテーマではなく、中心はあくまでもブルジョワ自由主義批判、わけても「人権」観念批判に置かれている。従って、そのエッセンスも次の命題にあろう。

いわゆる人権のどれひとつとして利己的な人間、ブルジョワ社会の成員としての人間、すなわち自己自身だけに閉じこもり、私利と私意に閉じこもって共同体から分離された個人であるような人間を超え出るものではない。

 これだけ取り出してくると、あたかも反動的な共同体論の反人権テーゼのようにも響いてしまうが、マルクスは決して人権の否定を唱道しているわけではない。むしろ人間を利己的な個人という原子(モナド)に切り刻んでしまうような観念的人権理念を通じた政治的解放(=ブルジョワ政治革命)の限界性を指摘しているのである。そのような限定された「解放」は真の解放とは言えず、かえって個人の私利私欲を規正するものとしての政治国家の強制権力による人権抑圧を招く自己矛盾―マルクスはこれを「政治国家とブルジョワ社会との現世的な分裂」と定式化する―を来たすことになる。
 こうした矛盾を解きほぐすためにマルクスが政治的解放に対置するのは、この論文の段階ではまだ「人間解放」というヒューマニスティックな抽象命題にとどまっている。
 ただ、彼が論文の結論部分でいくらか具体化して提示した「現実の個体的な人間が抽象的な公民を自己の内に取り戻し、個体的な人間でありながらその経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係の中で類的存在とな」る云々という叙述からすると、マルクスの言う「人間解放」とは人権の否定ではなく、人権を政治的次元にとどまらず、より高い人間的次元―人間の類的存在性―において実現することを目指すテーゼであると解してよいであろう。
 これに対して、同論文第二章は「ユダヤ人問題」を主題的に論じているが、ここではやはりバウアーの「ユダヤ人が解放されるためにはユダヤ教を放棄しなければならない」という命題を内在的に批判しながら、ユダヤ教を廃棄するためにはいかなる社会的基盤を克服すべきかを問うている。
 その際、彼はユダヤ教の基礎を実際的欲求=利己主義ととらえ、それが同時にブルジョワ社会の原理でもあるからこそ、ユダヤ教はブルジョワ社会の完成とともに頂点に達すると論じる。すなわち「ブルジョワ社会はそれ自身の内臓から、絶えずユダヤ教を生み出す」。
 そうであれば、その“ユダヤ人”の源泉となるブルジョワ社会を廃することにより、「ユダヤ人問題」も消失することになる。すなわちここで先の人間解放の照準として、私利私欲に基づくブルジョワ社会体制そのものが定められているわけである。
 この「ユダヤ人問題に寄せて」の第二章には表面上痛烈なユダヤ人‐ユダヤ教批判が書き連ねられていることから、自身ユダヤ系であるマルクス自身の「自己憎悪」の表出と解釈できなくもない際どい文献であるが、マルクスの主旨は反ユダヤ主義の宣伝にあるのではもちろんなく、「ユダヤ人問題」の解を「ユダヤ人問題」として、つまり政治的解放―今日流に言えば民族解放―という特殊命題に求めるのでなく、マルクスによればそれ自体がユダヤ(教)的でさえあるブルジョワ社会からの解放―人間解放―という一般命題に求めようとすることにあったのである。
 それではその人間解放は誰がどのようにして実行し得るのか。これを解明しようとしたのが「ヘーゲル法哲学批判序説」である。
 マルクスによれば、そうした人間解放の実現のためにはその担い手が社会全般と取り違えられ、その普遍的代表者と感じられ認められるような熱狂の一時期を自身の内部及び大衆の内部に作り出さねばならず、そのためには社会の一切の欠陥がその階級の中に集中していなければならず、またその解放が全般的な人間解放と思われるようになっていなければならないと言う。
 そのような階級こそ、プロレタリアートである。なぜなら、社会の急激な解体、ことに中間層の解体によって人為的に作り出される貧民層としてのプロレタリアートは人間性を完全に喪失させられており、人間性の完全な再獲得によってのみ自己自身を回復できるような階級にほかならないからである。そしてこのようなプロレタリアートによる人間解放に精神的な武器を提供することが哲学の任務である。人間解放の頭脳は哲学であり、心臓はプロレタリアートであるとも言う。
 こうしてこの論文の意義は、その表題にもかかわらずヘーゲル法哲学批判自体よりも―序説に続く本論が予定されていたが未公刊に終わった―マルクスによる最初の「プロレタリア革命」命題の提起にあると解することができる。ここに至って、マルクスはブルジョワ自由主義から共産主義へ向けて大きく舵を切ったのだと言えよう。

flag最初のアンガージュマン
 パリ時代のマルクスにとって一つの大きな転機となったのは、この地で初めて政治的な実践、言わばアンガージュマンを経験したことである。
 彼はパリ移転の最大目的であったフランス社会主義・共産主義の研究を文献読解にとどまらず、実際にプルードン、バクーニン、ルイ・ブラン、カベーなど当時のそうそうたる社会主義者・共産主義者らと交流することによって実践した。
 そればかりでなく、彼はドイツ亡命者の集まりや、労働者の集会、民主主義者の会合などにも出席するようになった。特に当時のフランスは1830年の7月革命以来、英国に続く産業革命の進展による産業資本の発達に伴い、労働運動も活発化し始め、その最前線ともなっていたから、そうした運動現場に直接触れたことはマルクスがプロレタリアートによる人間解放という視点を切り拓くに当たって大きな動因となったと考えられる。
 こうして、マルクスはパリで理論家としてのみならず、実践的な革命家としての初めの一歩を踏み出していったのである。
 しかし、こうしたマルクスの実践への傾斜はかつての仲間たちとの完全な決裂をもたらさないわけにはいかなかった。元来、彼がまだこの時点で一応は属していた青年ヘーゲル学派は政治グループではなく哲学グループであった。中でもその重心は宗教(キリスト教)批判にあった。それは聖書の中立性をどこまで認めるかといった神学論争から始まって、マルクスに影響を与えたフォイエルバッハにしてもなお宗教哲学の域にとどまっていたため、マルクスはすでにパリ移転前からフォイエルバッハが政治に目を向けようとしないことに批判的になっていたのだった。
 一方、ルーゲのように政治的関心の高い仲間にあっても、民衆を見下すエリート主義的傾向を免れていなかった。しかし、パリで労働運動とも接触しプロレタリアートによる人間解放を提示するに至ったマルクスにとって、民衆蔑視はもはや容認し難いことであった。彼はルーゲとも早々と決別せざるを得なかった。そのために二人で創刊した『独仏年誌』も創刊合併号をもってあっけなく廃刊となってしまったのだった。
 しかし、こうして次々と決別していった旧友たちに代わって、生涯の盟友となる一人の人物がマルクスのもとに飛び込んでくる。

(4)盟友エンゲルス

flagエンゲルスという人
 フリードリヒ・エンゲルスはマルクスよりも2年遅い1820年、ライン州バルメン(現ブッパータール)に、プロイセンの裕福な紡績工場主の子として生まれた。このようにエンゲルスはプロイセンの正統的なブルジョワ階級の出自であった。
 しかし、エンゲルス家はマルクス家のように知的ではなく、エンゲルスも家業を継ぐことが期待され、正規の大学教育を受けることはできなかった。それでも知的なエンゲルスは1841年にベルリンへ出て砲兵隊に志願する一方で、ベルリン大学の聴講生となり、ここで彼もヘーゲル左派に加わったのである。
 このようにエンゲルスは独学者と言ってよい人であったが、元来知的な彼はたちまち頭角を現し、精力的な論文執筆によって注目されるようになった。特に42年秋、英国のマンチェスターで父が経営していた紡績会社で見習いをするため渡英した後に英国の労働者階級の惨状を実地調査してまとめた『英国における労働者階級の状態』は初期エンゲルスの代表作とみなされている。
 エンゲルスはこの渡英の途中、ケルンの『ライン新聞』編集部に立ち寄り、編集主幹マルクスと初めて面会した。しかし、当時のエンゲルスはマルクスがすでに不和になりつつあったベルリンの「自由人たち」の人脈に連なっていたため、マルクスの態度も冷ややかなものとなり、この最初の対面はすれ違いに終わったのだった。
 とはいえ、当初はエンゲルスの方が知名度が高かったうえ、自覚的な共産主義者となったのも、後にマルクスとの共著『共産党宣言』の素材ともなる論文「共産主義の諸原理」を書いたエンゲルスが先行していた。

flag再会と意気投合
 父親の経営するマンチェスターの紡績工場で見習いを終えて郷里バルメンへ帰国する途中のエンゲルスがパリでマルクスに再会したのは、1844年8月のことであった。
 これより先、エンゲルスは例の『独仏年誌』に論文「国民経済学批判大綱」を発表していた。この論文は初期資本主義の理論家アダム・スミスやデーヴィッド・リカードウらの国民経済学(古典経済学)を批判するための基本的視座を示したもので、これを読んだマルクスは経済学研究の重要性に開眼し、エンゲルスと文通するようになっていた。
 再会して話してみると、二人の見解は近く、後にエンゲルスが「理論上のあらゆる分野で二人の意見が完全に一致していることが明らかとなった」と述懐したほど意気投合した。この劇的再会はマルクスの人生そのものにとって一大転機となり、これ以降二人は生涯の共同研究者兼政治的同志として固い絆で結ばれることになる。マルクスの私的人生が妻イェニーなしにはあり得なかったとすれば、マルクスの理論家・革命家人生はエンゲルスなしにはあり得なかったと言ってよい。
 とりわけ、マルクスが経済学研究の道へ入るうえで、その先鞭をつけたエンゲルスとの出会いは決定的であった。また自らは研究・執筆のかたわら資本家として会社経営を続け、無産知識人として次第に窮乏していくマルクスとその家族を金銭的に支えたのもエンゲルスであった。エンゲルスはそのように実際家であり、学者肌のマルクスに対して編集者的役割も果たすようになる。編集者エンゲルスの才覚は、マルクスの死後やや有害な形をもとって発揮される。
 このように盟友関係は結んでも肌合いに違いのあった二人の完全な共著による単行本は三作と意外に少ないが、その最初のものは例のバウアー一派をイエス・キリスト一家(聖家族)になぞらえて徹底批判した書『聖家族』であった。これはマルクスにとっては最初の単行著作であり、実質は大半をマルクス自身が執筆したにもかかわらず、共著者としてエンゲルスの名が先に掲げられたところにも、当時はエンゲルスの方が知名度も高かったことが示唆されている。
 いずれにせよ、この本はその内容からしても、すでに疎遠になっていたドクトル・クラブ時代以来の旧友たちに対するマルクスの最終的な決別宣言であった。この中で、マルクスは現実社会の問題と取り組もうとせず、純粋思弁哲学へ沈潜していくバウアーらの立場を「批判のための批判」(批判的批判)として鋭く批判し、先に「ヘーゲル法哲学批判序説」で提示したプロレタリアートの人間解放という歴史的使命をより詳しく再確認するとともに、誤った現実を投影したヘーゲル精神弁証法における精神と人間的現実との転倒をも批判し乗り超えていこうとするのである。いよいよマルクスは唯物弁証法の世界に一歩近づいていく。
 『聖家族』は1845年11月、二か月足らずで完成した。しかし、しかし、この記念すべきマルクス‐エンゲルス最初の合作を公刊する前に、マルクスはパリから立ち退かなければならない重大な事態に直面する。

2012年9月17日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第50回)

第7章 略

四 帝国主義の攻勢

(1)近代帝国主義
 英国に続いて19世紀以降産業革命が進展したヨーロッパ諸国は、いわゆる帝国主義という国家戦略へ赴く。その結果成立する近代的な「帝国」はかつてのローマ帝国のような「古代帝国」とは全く異なり、資本主義という経済的土台の上に立つ国民国家の対外的膨張形態にほかならなかった。この「帝国」の本質は単なる征服・領土拡張にあるのではなく、資本輸出を軸とする経済支配にあり、征服・領有化は手段にすぎなかった。
 この点、レーニンの帝国主義論の強い影響下に、帝国主義と独占資本主義の連関が強調されてきたが、独占資本主義は帝国主義と論理必然の関係にあるわけではない。例えば19世紀における帝国主義二強とも言える代表的な帝国主義国家となった英・仏よりも、後発で帝国主義国家としては必ずしも十分に展開しなかった米・独、さらには帝国主義の攻勢にさらされる立場から反転して自ら帝国主義国家となった最後発の日本のほうが独占資本主義の形成が進行していたのである。
 むしろ独占資本主義は圧倒的な経済力を誇る英国に対抗しようとした後発資本主義諸国が保護貿易政策とも連動させながら自国の工業生産力を高め、やがて帝国主義へ参入する道を整備する役割を果たしたのだと言えよう。
 近代帝国主義の動因を成したのは独占資本主義より以上に自由貿易主義であったと考えられる。このことを典型的に示しているのが英国のインド領有化の過程である。
 前章でも述べたように、英国のインド支配は18世紀初頭以来、東インド会社の手により独占的に進められていたが、同会社は行政・軍事権まで付与された国策会社であって、重商主義の象徴であった。しかし、アメリカ独立に伴う北米植民地の喪失以後、英国は植民帝国の再編を迫られる一方で、産業革命後の資本主義の急速な発達に伴い国内市場が飽和状態に達すると、新興資本家層から東インド会社のアジア貿易独占に対する批判が高まってきた。
 これに対して、18世紀後半からすでに東インド会社の規制強化に乗り出していた本国政府は1813年、同会社の貿易独占を廃止し、33年には会社の商業活動そのものも全面的に停止させた。そのうえでインド統治法を制定し、従来のベンガル総督をインド総督に格上げしてインド政庁にインド植民地の統治権を集中させた。
 このような自由貿易体制への流れは、本国でも、地主層を守るために安価な輸入穀物に関税を課した穀物法に反対する「反穀物法同盟」の運動とその成果としての穀物法廃止(1846)、さらにはクロムウェル時代以来の航海法の廃止(1849)といった一連の改革とも合流・連動するものでもあった。重商主義帝国時代に出て自由な経済活動の有用性を説いたアダム・スミスの思想が実践に移され始めたとも言える。
 こうして19世紀半ばの英国は、従来の重商主義の植民帝国からインドを軸に中国(清)にも触手を伸ばす自由貿易の植民帝国に転換を遂げていったのである。そうした植民地をも包括する自由貿易体制を構築するうえで植民地を本国政府が直接に統治することが目指されたのは、植民対象地域の経済開発を本国の利益に適うよう上から推進していくためにも、植民地民衆の抵抗を排除して安定的な領土として統治する必要があったからである。この点でも英国が1857年に東インド会社傭兵隊セポイの決起に始まる「インド大反乱」を機に、すでに形骸化していたムガル帝国も東インド会社(解散は1874年)も廃して直接統治体制へ移行したのはその象徴であった。
 ただ、直接的な植民地経営が効率的でないことは当時から認識されており、自由貿易論者で「反穀物同盟」の指導者でもあったリチャード・コブデンなどは植民地の削減を主張していた。こうしたいわゆる「小英国主義」の立場は列強の植民地獲得競争が激しさを増す中では実現の見込みの乏しいものではあったが、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカのように白人が多数を占めるか、支配的である植民地は1867年のカナダを皮切りに、1901年オーストラリア、07年ニュージーランド、10年には南アフリカが自治領としての間接統治に切り替えられていった。こうした白人系植民地優遇策には人種的偏向が認められると言わざるを得ないとはいえ、これは大英帝国がいずれ最終的には植民地を順次吐き出していく先駆けをなすものではあった。

(2)ポルトガル・スペインの後退
 大航海時代以来のポルトガル・スペイン帝国は本質的に重商主義帝国であった。両国はアメリカ大陸(特に中南米)を中心に広大な植民地を保有したが、本国はまだ前資本主義段階にあって資本輸出が可能な条件が整備されていなかった。
 そのうえ両国本土がナポレオンに侵略されたことを契機に中南米植民地でも1810年代以降独立運動が活発化する。その背景にはアメリカ独立戦争・フランス革命の海を越えた思想的影響も認められた。
 特にスペイン植民地でこうした独立運動を担った者の多くは、ボリビアの国名に名を刻むシモン・ボリバルのような現地生まれの白人(クリオーリョ)たちであった。彼らは本国から派遣されてくる特権商人・官吏らに搾取・抑圧されることへの反発を強めていたし、ブルボン朝スペインそのものへの反発もあった。
 ウィーン体制の主導者メッテルニッヒは、こうしたラテンアメリカ独立の動きを抑圧しようとしたが、この地域への経済的進出を狙う英国と勢力圏拡大を狙って米欧大陸間の相互不干渉を提唱するモンロー宣言を出した米国の牽制により成功しなかった。こうした列強の足並みの乱れも利用しながら、ラテンアメリカの独立は着々と進められていった。
 この時期に独立した諸国は、南米のスペイン領土ではパラグアイ(1811)、アルゼンチン(16)、チリ(18)、大コロンビア(19)―さらにここから30年にベネズエラ、コロンビア、エクアドルが、1903年にコロンビアから中米パナマが独立―、中米のスペイン領土ではいずれも1821年に独立したメキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカなど中南米のほぼ全域にわたる。
 なお、カリブ海のイスパニョーラ島東部のドミニカ(共和国)は先に独立した西部のハイチに一時占領された後、1844年にハイチから独立するという特殊な経緯をたどった。またスペインが最後まで保持したキューバは1898年、米西戦争でスペインが敗れた結果、1902年に独立した。
 一方、ポルトガル領土のブラジルは1822年、ナポレオンの侵攻を避けて本国から亡命してきたブラガンサ王家のドン・ペドロを皇帝とする帝国として独立し、逆に本国をブラジル側から統治するようになった点で、スペイン植民地とは異なる経緯を持つ。
 こうしたラテンアメリカの独立国家の多くは、独立後もクリオーリョの大土地所有制と、当初は英国資本、次いで米国への従属が長く続き、先住民のインディオは貧農として搾取・抑圧される構造が今日まで温存されている。
 他方、ラテンアメリカ植民地を失ったポルトガル・スペインの勢力は英国、フランスを中心とする近代帝国主義列強の陰に隠れ、従来にも増して後退を余儀なくされていった。
 こうした主役交代は、南米大陸でも大西洋岸に作られたオランダ領スリナムや、英領ガイアナ、さらに中米の英領ホンジュラス(ベリーズ)といった小植民地の独立が20世紀後半まで持ち越され(ガイアナは1966年、スリナムは1975年、ベリーズは1981年)、南米の仏領ギアナは今日なお維持されていることにも象徴されている。

2012年9月16日 (日)

老子超解:第十章 無の効用

十 無の効用

三十本の棒が車輪の中心部を共有している。その中心の空間から車輪の効用が生ずる。粘土をこねて容器を作る。その中心の空間から容器の効用が生ずる。戸や窓をくり抜いて部屋を作る。その中心の空間から部屋の効用が生ずる。
こうして、有の利益は無の効用によっているのである。


 
通行本で第十一章になる本章は、前章を受けて「無」の効用を具体的に説いていると一応は理解できる。しかし、本章で語られる「無」と前章で語られた「無」との間には内容的な齟齬がある。
 前章で語られた「無」とは「何も無い」のではなく、「何かが在る」のであった。ところが、本章では、車輪の軸穴、容器の内側、部屋の空間というように、「何も無い」部分の物理的な効用が強調されている。そのため、どうも本章は「無」に関する老子本来の言表を離れて、俗流的な理解が生じた後世に付け加わった章ではないかとも思えてくるのである。
 ただ、前章とどうにか整合性を保ち得る読解を試みるとすれば、例に挙がっている三つの「無」はいずれもただ単に「何も無い」のではなく、各々が車輪、容器、部屋という有形の物の不可欠の部分を成すことによって実用的な効用を発揮するものであることを言わんとしていると解することができるかもしれない。
 それにしても、このような説示的言表は、あのぼんやりとしてとらえどころのない物象としての=「無」のイメージを離れ、個物に現れる「無」の効用を功利主義的に語りすぎる点で、個物に対する探求を中止すべきことを説いた老子らしからぬところがあるように思えてならない。その意味で、やや通俗に流れる本章は、『老子』全体の中では必ずしも高く評価できない章である。

2012年9月15日 (土)

不協和音について

 「不協和音」という音楽用語が日常語として使われるときは、人間集団内部の不和・対立を示す良くない意味で用いられる。
 しかし、音楽の世界では、不協和音はごく当たり前に使用され、とりわけ調性を持たない前衛的な現代音楽は不協和音の連続で構成されることも珍しくない。
 不協和音を現代的管理社会からの脱出口として高く評価する見解もある(アドルノ)。たしかに西洋音楽が確立した調性とそれに基づき精緻にコントロールされる和声は、管理社会の象徴と言えなくはない。
 そもそも不協和音は人間社会では不可避的であって―回避すべき不協和音の極点が戦争であろう―、一切の不協和音なしに構成される音楽は人間の音楽としてはかえって不自然である。
 しかし、反対に不協和音を主軸とするとなると、それはもはや「音楽」の範疇を離脱するのではないか。
 「音楽」という漢語はまさに「音を楽しむ」という趣旨であるが、不協和音を楽しむことは難しい。西洋語でも、英語のミュージックは学芸の女神ミューズに由来し、やはり楽しむというニュアンスが含まれる。
 不協和音が軸になると、こうした音楽という性質は失われる。もちろん、そうした前衛音楽を「退廃芸術」と決めつけて弾圧排除したナチの芸術政策に賛成しようとは思わない。それでも、無調・不協和音への傾斜を示す現代音楽はもはや「音楽」ではなく、「音の芸術」という別ジャンルの芸術とみなすべきではないかと考える次第である。
 この点では、ちょうど前衛音楽に相当する抽象画がなお「絵画」の範疇に属するのとはやや事情を異にするであろう。

2012年9月14日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第3回)

第1部 カール・マルクス

第2章 共産主義者への道

私が1844年の夏にマルクスをパリに訪ねた時、理論上のあらゆる分野で二人の意見が完全に一致していることが明らかとなった。
―盟友フリードリヒ・エンゲルス

(1)17歳の職業観

flagギムナジウム卒業論文
 マルクスは17歳の時、ギムナジウムの卒業論文として『職業選択に関する一青年の考察』という小論を残しているが、この中には二つの点で将来のマルクスを予示させる論点が含まれている。
 一つは職業選択における社会的規定性という問題である。すなわち神によって人類及び自己自身を高めるよう定められている人間には職業選択の自由があるとはいえ、それは既存の社会的諸関係によって制約されているという。従って、誰もが自らにふさわしいと思う職を全く自由に選択できるというわけではない━。
 より一般化すれば、自由に先立つ社会構造という問題を17歳のマルクスはまだ十分に分節化しないままに意識はしていたのだ。ここには無制限の“個人の自由”といった観念論をもてあそぶブルジョワ自由主義と対決する後年のマルクスを彷彿とさせるものがある。
 実際、少数民族ユダヤ系とはいえ、プロテスタントの裕福な中産知識階級の出自という相当に有利な条件に恵まれながら、当時のプロイセンにおける政治反動という状況下で、政治的抑圧と社会的排除の最大標的とされた青年ヘーゲル学派に属することとなったマルクスが志望の大学教員の職に就ける余地は封じられていたのである。
 第二は、人類の福祉と自己自身の完成の両立という論点である。マルクスによれば、これこそが職業選択の規準となるべきものである。つまり社会的に規定される職業選択に際しても、他人の奴隷的道具となったり、徒に自己の利益や名誉を追い求めるのでもなく、人類の福祉に奉仕することを通じて自己自身を高め完成させることができるような職を選択しなければいけない━。
 ここには自己の利益・名誉を追求するあまりに人類の福祉をないがしろにしたり(=個人主義)、逆に人類の福祉を偏重するあまりに自己放棄を強いたりする(=全体主義)のでなく、後にエンゲルスとの共著『共産党宣言』で「一人一人の自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件である」と簡潔に定式化される新しい共産主義思想の萌芽が、職業選択という若者らしい関心に絡めて未だ素朴な形で表現されていると言える。
 以上のような内容を持つ17歳のマルクスの小論をいささか深読みするならば、そこからは「共産主義の無産知識人」という後年のマルクス像がうっすらと浮かび上がってくるのではないだろうか。

(2)新聞編集者として

flag『ライン新聞』への就職
 哲学博士マルクスは、当時のプロイセンの政治情勢の下では結局、大学教員の道を断念せざるを得なかった。就職浪人である。しかし別の方角からチャンスがめぐってきた。
 折りしも1840年に即位したプロイセンの新国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世は、政治的ポーズとはいえ検閲の緩和をはじめとする限定的な民主化措置を打ち出したことから、ライン地方の新興ブルジョワジーの間でかれら自身の利害を代弁するような新しい新聞を創刊しようという動きが生じたのだ。これが1842年1月1日、ケルンで創刊された『ライン新聞』である。
 この新聞の創刊はヘーゲル左派で共産主義的傾向を持つモーゼス・ヘスを中心に進められていたが、編集主幹にはヘスから相談を受けたマルクスの推薦もあり、ドクトル・クラブ時代の仲間でバウアーの義弟にも当たるアドルフ・ルーテンベルクが就任した。
 ボン大学講師を免職された後、浪人としてボンにとどまっていたバウアーらと再び合流していたマルクスも編集部員として誘われたが、ジャーナリストは視野に入れていなかった彼はこの誘いを固辞しつつ、寄稿者となることは承諾した。こうして中途半端ながらも、マルクスはとりあえずフリーランスの著述家として半歩を踏み出したのだった。
 ところが、ほどなくして編集主幹ルーテンベルクがその任に堪えないことが判明し、解任されたため、後任には前任者を推薦した手前、マルクス自身が就くことになった。弱冠24歳の編集主幹である。

flag経済論争への関与
 『ライン新聞』編集主幹としてマルクスが当面したのはもはや抽象的な哲学問題ではなく、現実の経済問題であった。
 最初は木材窃盗取締法をめぐる論争である。これは当時、ライン州では貧農が周辺の森林の木材や枯枝を収集し薪にして生計を補うことが慣習となっていたところ、森林所有者の利益を代弁する州議会が無断で森林に立ち入って木材や枯木を収集する行為も木材窃盗罪に該当するとして刑事罰や民事賠償の対象とすることを決めたことをめぐって、マルクスがこれを厳しく批判する論陣を張った一件である
 彼はこの木材窃盗取締法が貧民の生活を犠牲にしつつ森林所有者の利益を守ろうとする悪法であり、それは人間の権利を尊重するのでなく木を物神として崇拝するに等しいものだと喝破した。そして貧民の木材・枯木収集は実定法に反する行為であっても、本来の法正義に合致する正当な慣習的権利であるとして、その回復を要求したのである。
 この問題の実質はまさに有産階級と無産階級の利害衝突を背景とする経済問題であるが、法律問題の衣を被っていることから、マルクスは彼本来の専攻であった法学の観点から、まるで貧民側弁護士の弁論のような調子で論陣を張ったわけだが、この一件はマルクスがやがて経済学研究に自己のフィールドを移していくうえで最初のきっかけとなる強い印象を残したことは間違いない。
 ここには、彼が後に商品という近代的物象に関して析出した「物神崇拝」のモチーフが、商品とも交錯する「所有権」という近代的法観念に絡めて早くも提示されているのである。
 続いてモーゼル農民問題では、マルクスの郷里にも近いモーゼル地方の伝統的なぶどう酒栽培農民が不況で窮乏し、重税にあえいでいる状況が放置されていることを訴える通信員の諸説について、ライン州当局が事実の歪曲と政府誹謗を理由に訂正を要求してきたことに対し、マルクスは具体的な資料に基づいて記事を擁護するとともに、官僚的な行政の無策を厳しく批判した。
 このモーゼル農民問題は先の木材窃盗問題ほど理論的な問題を含んではいない代わりに州当局との衝突という政治問題を引き起こしたため、『ライン新聞』の先行きに暗雲が立ち込めることとなった。
 この他、マルクスは「土地所有の細分化」や「自由貿易と保護関税」など今日でもアクチュアリティーを持ち得るような種々の経済論争に取り組む中で、自身の法学的‐哲学的な素養だけでは解くことのできない経済問題の困難さを認識するようになる。

flag「自由人たち」との対立
 なかなか有能なマルクス編集主幹の下、『ライン新聞』は部数を伸ばしていったが、モーゼル農民問題以来、当局の監視と検閲も強まってきた。
 一方、ライバル紙『アルゲマイネ・ツァイトゥング』からは、共産主義的偏向との非難攻撃を受けるようになっていた。これにはたしかに理由があった。実際、ベルリンを中心に活動し『ライン新聞』にも寄稿していたかつてのドクトル・クラブでの仲間たち―マルクスの言う「自由人たち」―は当時フランスで流行していた共産主義思想の影響を受けつつ、マルクスに言わせれば「独自の深い内容でなく、ほしいままの過激でしかも安直な形式」の原稿を送りつけるようになっていた。こうした原稿は検閲にもひっかかりやすく、マルクスを悩ませていた。
 もっとも、当時はマルクス自身まだ共産主義者になっておらず、せいぜい左派色の強い自由主義者といった線にとどまっていたから、共産主義には共感できずにいた。というよりも、後年マルクス自身が率直に認めたように、当時のマルクスの素養ではフランスを中心に隆盛となっていた社会主義・共産主義の新しい思潮そのものについても、当否の判断を下すことができなかった。
 そうした公私の事情から、編集主幹マルクスは「自由人たち」の原稿を大量にボツにせざるを得なかった。そして、それは当然にも「自由人たち」との対立を招かざるを得なかった。
 もっとも、「自由人たち」の中ではマルクスにとって格別の存在であったバウアーは自身決して共産主義に接近することはなかったが、結局、マルクスはバウアーとも不和に陥ってしまった。その一方で、かつてハレ大学講師で南部の青年ヘーゲル学派のリーダー格でもあったアーノルト・ルーゲとの交流は深まっていく。

2012年9月11日 (火)

天皇の誕生(連載第29回)

第七章 「昆支朝」の継承と発展

(2)出雲平定と磐井戦争

イトモ征服と石上神宮
 第四章で見たように、出雲西部では本来の「出雲」である杵築大社(後の出雲大社)を拠点とする植民都市イトモの伊都勢力が5世紀後半には繁栄期を迎え、母体である九州糸島半島の伊都国時代のままに新羅侵攻(主に東海岸の寇掠)を続けていた。
 一方、百済は5世紀半ばの毗有王代から高句麗対策上、親新羅に方針転換していたが、475年の高句麗侵攻による王都陥落後は、東城王代に通婚同盟を結んで新羅との関係をいっそう強化していた。
 こうした中で、東城王はおそらく新羅の要請を受けて、父の昆支大王に伊都勢力の取締りないし撃滅を依頼していたと思われ、昆支大王の治世中からイトモ攻略は始まっていたと考えられる。
 ただ、伊都勢力は強力な水軍勢力であったうえに、このイトモ征服戦争は基本的に神聖同盟を結んだ出雲東部の意宇王権の西部進出を軍事的に支援する間接的な方法をとっていたために、完全な征服は必ずしも容易ではなかったように見える。
 しかし、『三国史記』新羅本紀によると、倭の新羅侵攻は500年の長峯鎮攻撃を最後にピタリと止まってしまうことから、6世紀代に入って早い時期にイトモは征服されたものと推定される。
 それが昆支大王治世末期か、男弟大王治世初期かは確定し難いが、後者と考えてみたい。それは垂仁紀に架上されている石上神宮奉納のことと関わる。
 垂仁紀39年10月条は、垂仁天皇の皇子とされる五十瓊敷命[いにしきのみこと]が剣一千口を造らせて石上神宮に奉納した後、同神宮の神宝管理者となったと伝える。その後、五十瓊敷命は年を取ったので妹の大中姫[おおなかつひめ]に神宝管理者の地位を譲ろうとしたが、姫は「女では神宝を納める高い宝庫に登れない」と固辞したため、物部十千根連に委ねたことから、物部氏が以後、神宝管理者となったとの由来説明がある。
 この石上神宮は元来、前章で旧加耶系王家の可能性を指摘した布留氏の本拠でもあり、想像をたくましくすれば、旧加耶系王権末期の王宮跡ということも考えられる。実際、垂仁紀は注記で五十瓊敷命が納めた剣は―布留氏の後裔である―市河という者が管理したという説も引いている。
 いずれにせよ、例の七支刀の所蔵でも知られる石上神宮は後に物部氏が管掌する朝廷の武器庫のような役割を果たすことになり、市河氏(布留氏)がその下で事務方を担ったのかもしれない。
 問題は、『書紀』が垂仁天皇の皇子とする「五十瓊敷命」なる人物。「垂仁」は継体=男弟大王の分身像にすぎないから、その皇子云々という作為も除去してとらえ直すと、「五十瓊敷命」とは「イトニシキ(ン)」=伊都尼師今とも読めそうである。
 「ニシキン」は前に伊都国の由緒説明で指摘したように、新羅とも共通する古い辰韓系首長号であり、伊都国からの流民である伊都勢力の首領も同じ称号を名乗っていたかもしれないとも指摘した。
 すると、ここから言えることは、男弟大王代にイトモを征服した際、伊都勢力の首領を捕虜として畿内へ連行し、石上神宮の神宝管理者の地位を与えたのではないかということである。
 そもそも石上=イソノカミとはイソ(イト)の神とも読め、まさにイソタケルが連想されてくるところである。そうだとすると、石上神宮とはイトモ征服の戦勝記念的な意味を込めて、布留氏の旧本拠に新たに創建し直された神殿であったかもしれない。
 しかも、そういう神社の神宝管理が最終的に物部氏に委ねられたということは、昆支大王代の三輪山宗教改革に尽力して三輪山の神職としてデビューした物部氏のいっそうの地位上昇を示すとともに、物部氏がイトモ征服に軍事的にも貢献したことを裏書きしている。
 この点で注目されるのは、島根県大田市にある物部神社である。出雲西部を超えて石見国領内に大田(意宇田)の地名が残るのも、前述したように東部の意宇王権が西部に進出したことの痕跡であるが、この進出に畿内王権が軍事的にも深く関与し、その先鋒を担ったのが物部氏の軍団ではなかったか。
 そうだとすると、物部神社とはこのイトモ征服戦争に関わった物部軍団の軍営が置かれ、後には畿内王権が出雲の東西に広がった意宇王権を監視し、なし崩しに併合していくうえでの目付的役割を果たした常設の軍事‐行政機関の跡であるということも考えられる。こうしてみると、物部神社の社伝で同神社の社殿が継体8年に天皇の命により創建されたと伝えられることも、単なる伝承と決めつけ難いものがある。
 このことは、石上神宮奉納記事に先立つ垂仁紀26年条で、物部十千根連が出雲の神宝検校のため派遣されたとする記事とも絡めてさらに究明されるべき点である。

磐井戦争とミヤケ設置
 前回見たイトモ征服の件は継体紀には全く記事が見えないが、継体紀に明記された男弟大王代のもう一つの重要な軍事作戦に九州の磐井勢力に対する征戦がある。この件は継体紀の中でも最も名高いものであるが、その意義を果たして記事のとおりに受け取ってよいかどうかが問題である。
 記事によると、継体21年という治世も晩期になって、朝廷が近江毛野臣なる将軍を司令官として新羅に敗北・併合された任那(加耶)の南加羅[ありひしのから]・喙己呑[とくことん]を再建すべく大軍を派遣しようとしたが、筑紫国造磐井が反逆を企てているのを知った新羅が磐井に贈賄して朝廷軍の妨害を請託したことが発端とされる。
 これを受けて、磐井は肥前・肥後・豊前・豊後などを糾合して蜂起し、海路を遮断して朝鮮半島からの船舶を略奪、毛野臣の軍を妨害する挙に出たというから、磐井の勢力圏と軍事力は相当なものである。
 しかし、この発端(新羅による派兵妨害工作)と結果(九州北部・中部の一斉蜂起)にはズレがある。そもそも新羅による南加羅・喙己呑の併合とは新羅による金官加耶及び周辺小邦の併合を指しているとすれば、それは532年のことであり、継体21年=527年とは符合しない。
 仮に527年以前に新羅が加耶地方の小邦を侵略・併合した事実があったとしても、男弟大王代の畿内王権はすでに百済系に変わっており、加耶地方はもはや王朝ルーツとしての重要性を持ってはいなかったので、大軍を送ってまで再建を図ることは考えにくい。実際に起きたことを見ても、それは単なる妨害工作ではなく、磐井を首領とする九州北部・中部の一斉蜂起であって、一個の戦争―磐井戦争―と呼ぶにふさわしいものであった。結局、磐井の「反乱」に任那問題を絡めたのは『書紀』の作為と見られるのである。
 元来、畿内王権は昆支のクーデター以前、ニニギ朝の時代から九州北部沿岸地域はおおむね支配領域に収めていた。しかし北部内陸地域から中部にかけては未征服のままであったところ、西海道(九州)を重視した昆支大王はこれらの地域にも断続的に遠征軍を派遣していたが、なお征服には至っていなかったと見られる。
 そうした中、6世紀に入ると筑紫の八女付近を拠点とする磐井の勢力が伸張し、九州北部・中部の盟主的存在となった。この点で『書紀』が「筑紫国造磐井」と表記するのは、畿内王権の支配領域が拡大し、地方行政制度が発達してきた6世紀半ば以降の制度である国造制を遡及的に磐井にあてはめる作為である。527年当時の磐井はまだ独立した地方王権であり、その意味で『記』が「竺紫君磐井」と表記するのはより正確であろう。
 ちなみにこの氏族の末裔は7世紀後半になって完全に畿内王権(ヤマト朝廷)に統合された時代にも、唐の捕虜となって生還した官人、筑紫君薩夜麻[さちやま]のようにまだ筑紫君を名乗っていた。
 これだけ強力な筑紫君とは、『筑後国風土記』逸文によれば邪馬台国女王卑弥呼ないし台与にも比定できる甕依姫[みかよりひめ]を祖とする氏族であるとされるから、八女を拠点とすることに照らしても邪馬台国の後裔勢力と推定され、筑紫君の勢力伸張はある意味で300年ぶりの邪馬台国復活に近い出来事であった。
 この勢力の強大さは、九州でも有数の大古墳群で、筑紫君の王墓地とみなされる八女古墳群に象徴される。中でも前記風土記逸文の記述から磐井自身の墳墓と見られている岩戸山古墳は墳丘長では九州最大規模を誇り、周囲に石人や石馬、石盾などをめぐらし、王者的風格を備えた独特の古墳である。
 このような磐井との対決を迫られた戦乱は、昆支朝成立以来最初の一大危機であった。そこで、男弟大王は物部麁鹿火[あらかひ]を大将軍とする軍勢を送り、激戦の末、磐井を斬り、勝利した。ここでも物部軍団が活躍するところから、物部氏は男弟大王の治世を通じて王権の軍部として組織化され、物部氏も軍事氏族としての地位を確立したと見られる。
 より重要なことは、この戦争の事後処理として磐井の息子・葛子[くずこ]が糟谷屯倉―この時点ではミヤケでなく、筑紫君自身の領地―を献上して死罪を免れたということである。講壇学説上も、以後畿内王権の領域拡大・地方支配の要となる行政・経済支配機関ミヤケの設置は、磐井戦争の賠償措置として設置されたこの時が初例と見る見解が有力である。
 磐井戦争の勝利とその事後処理としてのミヤケ設置の報はおそらく九州はもちろん、他の地方にも伝わり、畿内王権の威令を高めるうえで決定的な意味を持ったはずであり、これを治世のほぼ最後の仕事として成功させた男弟大王最大の事績であったと言えよう。

2012年9月 7日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第2回)

第1部 カール・マルクス

第1章 人格形成期(続き)

(3)哲学との出会い

flagベルリン大学転学
 先に述べたように、マルクスは父の意向でボン大学からより著名で都会的なベルリン大学に転学させられた。学部は同じ法学部。父としてはこれで息子が改心して法律の勉学に力を入れて取り組むようになることを期待したのであろうが、かえって逆効果であった。カールがトリーアから遠く離れたベルリンで始めたことと言えば、婚約者イェニーに相変わらずロマンチックな詩を書き送ることと、畑違いの哲学の勉強であった。
 とりわけ後者はマルクスの知的道程においては決定的な意味を持った。その点で、彼は父の転学命令に感謝しなければならなかっただろう。
 彼が特に傾倒したのは、当時まだ一世を風靡していたヘーゲル哲学である。ヘーゲルは奇しくもマルクスが生まれた1818年にベルリン大学教授に着任していたが、31年にコレラで急逝したため、36年にベルリンへやってきたマルクスがヘーゲル教授の講義を聴くことはかなわなかった。しかし当時はまだヘーゲルが没して5年ほどで、ベルリン大学はヘーゲル学派の一大拠点であったのだった。
 ベルリン大学時代のマルクスは法学の講義にはほとんど出ずに、ヘーゲル哲学を中心とした哲学の独習にいそしんだのであるが、どうやらヘーゲルには初めから違和感を覚えたらしく、ヘーゲルの精緻な弁証法的思考に敬服しつつも、彼に言わせればヘーゲル哲学の「グロテスクでごっつい」調子にはついていけないものも感じていた。
 大学の講義には出なかったとはいえ、徹夜の勉学を重ねたマルクスは間もなく健康を損ね、転地療養する羽目となる。一方、ベルリンでも態度が改まらないどころか、畑違いの方向に流れていく息子の将来を案じ、腹も立てていた父ハインリヒは、マルクスが20歳になって間もない38年5月に没した。
 マルクスは父の死を表向き深刻に受け止めながらも、これで彼に弁護士を継がせようとする父の意志から解放されたこともたしかであった。マルクスにとって、最初の「解放闘争」の終了である。

flag「青年ヘーゲル学派」への参画
 マルクスは転地療養から間もなく、ベルリン大学の若手教員や学生が結成した思想グループ「ドクトル・クラブ」に参加する。これは思想家マルクスにとって初めの一歩となる画期的な出来事であった。
 このグループは気鋭の同大学講師ブルーノ・バウアーが指導する進歩的な思想グループで、ヘーゲル哲学から出発しながらも、その現状保守的な性格を批判・超克していこうとする点で、ヘーゲルの教えを忠実に護っていこうとする「ヘーゲル右派」や、中立的で哲学史に重点を置く「ヘーゲル中央派」に対して、「ヘーゲル左派」とも呼ばれ、また「青年ヘーゲル派」とも称される当時のドイツ哲学界では最前衛のグループであった。
 彼らは世界の一切を精神(理性)の自己展開的プロセスとしてとらえるヘーゲルの弁証法が、結局はその精神の本質をキリスト教に求め、なおかつ精神の最高の完成態を国家に見出そうとすることで、ウィーン体制下の反動政治を正当化する結果となっていることを批判し、より主体的な類的人間としての「自己意識」によってキリスト教と現存プロイセン国家を乗り超えていく自由主義的な哲学を構築しようと努めていた。
 こうした志向性を持つグループに、トリーアのフランス的自由主義の風土で育ったマルクスが飛び込んでいったのは自然な流れであった。元来怜悧な無類の論争家であるマルクスは、後から参加しながらグループ内でたちまち頭角を現し、リーダーのバウアーからも頼りにされるほどの中心的な存在となっていった。
 ただ、「青年ヘーゲル学派」が共有する「自己意識の哲学」はなお唯心論的な傾向を免れておらず、後年のマルクスの強固な唯物論的思考とは距離がある。しかし大学時代のマルクスはさしあたりまだ完全な意味での唯物論者とはなっていなかった。
 とはいえ、彼が最も影響を受けたのはバウアーではなく、間もなく反響を呼ぶ宗教批判書『キリスト教の本質』を著すヘーゲル学派内でも最年長かつ最も唯物論的傾向を示していたルートヴィヒ・フォイエルバッハであった。人間が自らの苦悩、願望等の投影として自ら造り上げた神なるものに束縛され、かえって生きた現実としての人間性を喪失してしまう自己疎外を喝破したこの控えめな哲学者こそ、17歳の時のギムナジウム卒業論文では「人間も神によって人類及び自己自身を高めるように定められている」と記していたマルクスを唯物論へ導いたのであった。

(4)古代唯物論研究

flag博士論文執筆
 青年ヘーゲル学派への参画を通じて、マルクスは哲学研究者・大学教員の道を志望するようになっていた。そのための資格要件として、哲学博士号の取得が必要であった。そこで、マルクスは1839年から博士論文の執筆に取りかかる。
 彼が選んだテーマはヘレニズム期の古代哲学、特にエピクロス派、ストア派、懐疑派の研究であった。これはバウアーらの示唆によるもので、「自己意識」をキーワードとする青年ヘーゲル学派にとって古代ギリシャ末のポリス解体期に現れたこれら哲学思潮が通有する個人主義的自己意識―わけても「快楽主義」の祖であるエピクロス派―は導きの糸たり得たからである。
 ただ、マルクスが博士論文『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の相違』で取り上げたのは、そうした自己意識云々よりはエピクロスと彼が継承したデモクリトスの唯物論との比較研究であった。これを見ると、マルクスの唯物論への関心はすでにこの頃から芽生えていたようである。
 「笑う人」の異名を持つデモクリトスは原子論の祖で、宇宙の一切のものをアトム(原子)なる分割不能な微粒子の運動法則の結果として説明しようとした点で、元祖唯物論者とも言える人物であった。デモクリトスの原子論は、極めて原初的な把握の仕方においてではあるが、今日の物理学における素粒子論の先駆けをも成していた。
 これに対して、デモクリトスのおよそ一世紀後に出るエピクロスはデモクリトスの原子論を継承しつつも、万物をアトムの必然的な運動法則で説明することに反対し、アトムの運動の中には不規則な逸脱もあることを主張した。ここから、人間の行為における苦痛からの不規則な逸脱としての快楽(アタラキシア)をもって人生の目的とみなす快楽主義の倫理学も導かれるのである。
 エピクロスはそう考えることで、必然には還元できない自由や偶然の領域を認めつつ、社会的活動からは身を引いて、個人的な快楽―エピクロスの本意からすれば「平静」とでも訳すほうが的確と思われる―に身を委ねるべきことを説くのである。
 前記博士論文において、マルクスはともに唯物論者としてのデモクリトスとエピクロスを比較検討する中で、エピクロスに軍配を上げている。これは、唯物論者にして革命家ともなった後年のマルクスからすると意外な感じを受ける。
 しかし、このことは当時のマルクスがまだ青年ヘーゲル学派の「自己意識の哲学」の影響下にあったためというだけでなく、マルクスの思想形成にあっては終生「自己意識」―ひいてはヒューマニズム―が通奏低音のように鳴り響き続けていくことを予感させるものであった。もっとも、その通奏低音は次第次第に弱くなっていき、最終的にはかなり純度の高い唯物論に到達するのではあるが。

flag博士号取得と「卒業」
 マルクスは1841年、二年半を費やした博士論文を完成させた。問題は提出先であった。この頃、在籍するベルリン大学では大きな異変が起きていた。ベルリン大学創設にも尽力し、ヘーゲル学派全般に好意的であったプロイセンの文部大臣が死去し、後任の保守的な新大臣は大学から自由主義的傾向の教員を追放する方針をとり、ヘーゲル学派排除のためドイツ・ロマン主義の大御所哲学者シェリングをベルリン大学に招聘したのだ。
 一方、ドクトル・クラブにおけるマルクスの「恩師」にして同志でもあったバウアーが39年にボン大学へ転出していたこともあり、結局マルクスは論文をベルリン大学でなく、イェ-ナ大学へ提出することになった。このイェーナ大学もかつてヘーゲルが教鞭を取ったことのあるヘーゲルゆかりの大学であった。
 その結果、彼は41年4月、同大学哲学部から無事博士号を取得する。ボン大学入学時からベルリン大学転学を経ておよそ五年半、23歳になろうとしていた。これでマルクスの学業は修了したわけであるが、結局彼はベルリン大学法学部をまともに卒業することはなく、畑違いの哲学の道に逸れたうえ、在籍していない他大学を「卒業」したのであった。まさにエピクロスの不規則逸脱運動のようであった。
 ちなみに、41年には先のフォイエルバッハが『キリスト教の本質』を出し、バウアーもヘーゲル哲学を無神論とみなすよりラディカルな『無神論者・反キリスト者ヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ』なる書を公刊した。青年ヘーゲル学派はとみに急進化する一方、プロイセン当局は締め付けを強めた。その結果、バウアーは42年、ボン大学講師を免職されてしまう。同様の運命が、首尾よく博士号を取得したばかりのマルクスにも降りかかってくることは避けられそうになかった。

2012年9月 4日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第49回)

第7章 略

三 資本主義と労働運動(続き)

(3)労働運動からパリ・コミューンへ
 英国では1824年の団結禁止法廃止後も労働運動の抑圧が続いたとはいえ、1830年代頃から労働運動が本格化していく。当初の労働運動は特に成人労働者の1日10時間労働の実現という時短闘争に力点が置かれていた。その結果、1847年に織物工場の女性・若年労働者に限定された10時間労働法が制定されたが、これに反発する資本家層の巻き返しにあって同法の適用は骨抜きにされた。
 労働運動と並行して1838年以降、男子普通選挙制の要求を軸とする「人民憲章」(ピープルズ・チャーター)への賛同を求める議会請願運動(チャーティスト運動)が盛り上がるが、議会は受け入れず、1848年を最後に挫折した。
 一方、フランスではウィーン会議の結果復活した反動的なブルボン朝が1830年7月の革命で倒れた後、ブルボン朝支流オルレアン家のルイ・フィリップを王とするいわゆる7月王政の下、英国に遅れて産業革命が進展し資本主義が発達するとともに、労働運動も盛んになった。
 同時に、フランスでは英国であまり伸びなかった社会主義・共産主義の思潮と運動が発展した。そのため、保守的なドイツ出身の若きカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスも、パリを初期の拠点としてフランスの社会主義・共産主義の思想家・運動家たちと交流を持ったのである。
 そのマルクスとエンゲルスが万国の労働者の団結の必要性とプロレタリア革命の必然性とを訴えた有名な綱領文書『共産党宣言』を公刊した1848年2月、フランスで革命が勃発し、ルイ・フィリップの7月王政が倒れた。この2月革命の直接の原因は選挙権拡大を求めるデモを政府が弾圧したことにあったが、背景要因としては金融資本と癒着する7月王政に対する産業ブルジョワジーの不満、1845‐46年の凶作による物価高騰、英国発の本格的な資本主義的恐慌の余波などが複合的に絡んでいる。
 しかし、2月革命がそれまでの革命と決定的に異なるのは、ブルジョワ主体の臨時政府に初めて労働者・社会主義勢力が参加したことであった。その結果、生産活動の国家統制を図る国立作業場のような組織も設立された。
 2月革命の波及的影響はその60年前のフランス革命以上に大きく、保守的なプロイセンでも3月革命により国王が譲歩し、自由主義的な内閣が成立した。自由都市フランクフルトでは自由主義者らが「統一と自由」を求めてフランクフルト国民議会を開催した。オーストリアでも3月革命で反動的なウィーン体制の立役者メッテルニッヒが失墜し、英国へ亡命した。その英国でも4月にはチャーティスト運動が空前の盛り上がりを見せ、ロンドンで数万人規模のデモに発展した。
 そのほか、2月革命の直接・間接の余波としての国家統一運動・独立運動が東欧を含むヨーロッパ各地に拡大し、「諸国民の春」と呼ばれる一種の同時革命を惹起したことでも画期的であった。
 しかし、この「春」は束の間であった。震源地フランスで48年4月の総選挙の結果、社会主義化を恐れたプチ・ブルジョワ層と農民層の支持を得たブルジョワ派が圧勝し、第二共和政が樹立されたのを機に、情勢は反革命化する。国立作業場の閉鎖に抗議する労働者の6月暴動が政府軍に粉砕されるに至ると、各国の革命も順次鎮圧され挫折していった。
 フランスではこの後、48年12月の大統領選挙で当選したかのナポレオンの甥ルイ・ナポレオンが伯父と同じ流儀で51年、クーデターによって全権を掌握したうえ、翌52年には国民投票によりナポレオン3世として帝位に就き、第二帝政を開いたことで、フランス革命の二の舞を演じることとなったのだった。
 こうした反動化は他の諸国にも及んだため、1848年の同時革命には何ら影響を与えることのなかった『共産党宣言』の著者マルクスとエンゲルスの身辺にも危険が迫った。転々と亡命を強いられた彼らの最終的な亡命先は当時のヨーロッパにあって最も自由主義的気風の強かった英国のロンドンとなった。
 こうして19世紀後半に入ると、労働運動は国内の反動的状況を打破するためにも国際的な連帯を志向するようになった。1864年に設立され、マルクスとエンゲルスも中心メンバーとして活動した国際労働者協会(第一インターナショナル)は76年に解散するまでの間、内部に深刻な路線対立を抱えながらも、国際労働運動の先駆けとしての役割を果たしたのである。
 この間、スペイン王位継承問題をめぐるプロイセンとの戦争(普仏戦争)に敗れて捕虜となったナポレオン3世の第二帝政が倒れ、第三共和政が成立する(1870)。しかし、年明けの1月、政府がプロイセンに降伏し、2月に仮講和条約を結ぶと、これに反発したパリ市民が3月、武装蜂起して革命的自治政府パリ・コミューンを樹立した。
 この世界初の労働者政府とも称されたパリ・コミューンは実際のところ、文字どおりに労働者が主導したわけでもなく、パリのみの地方政権にすぎなかったが、本来プロレタリア革命を時期尚早と考えていたマルクスも第一インターを通じてコミューンを積極的に支持し、後に彼が定式化した「プロレタリアート独裁」の実例として高く評価したのだった。
 実際、この時フランス全土に革命が拡大し、「フランス労働者共和国」が成立していれば、その後の世界は全く違ったものになっていたかもしれない。しかし、歴史はそうは動かなかった。
 パリ・コミューンは他地域にも成立し始めていた革命的コミューンとの連絡を遮断されたうえ、自身も対プロイセン防衛のために結成された民兵組織・国民衛兵を母体とする解放区的な性格を脱し切れなかったことから、普仏戦争勝利を機に統一された新生ドイツの協力を得た政府軍の武力鎮圧作戦による推定2万人(それ以上とする説もある)の虐殺という結果を残して、わずか70日余りで崩壊し去ったのである。

(4)パリ・コミューン以後
 パリ・コミューンの無残な挫折を見た諸国の労働運動は労働者階級政党の結成と議会参加という合法主義の方向を目指すようになった。その先陣を切ったのは普仏戦争後プロイセンを中心に統一を果たしたドイツで結成された社会主義労働者党であった。
 この党の最初の綱領(ゴータ綱領)はマルクスに手厳しく批判されたほど微温的であったにもかかわらず、「アメとムチ」政策のドイツ宰相ビスマルクは党と無関係の皇帝狙撃事件を口実に社会主義者取締法を制定して「ムチ」を振るった。しかし、党は抑圧の中、壊滅することなく生き延び、かえって巧みな戦術で党勢拡大を実現した。
 その結果、1890年の総選挙では史上最多得票を得て議会に地歩を築き、社会主義者取締法の廃止も勝ち取った。同年、社会民主党に党名変更し、翌年にはマルクスの死後ようやく労働運動にも浸透し始めていたマルクス理論を取り込んだ新たなエルフルト綱領を採択し、ヨーロッパ最大級の労働者階級政党として台頭していく。
 同様の動きはさらに北方にも広がりを見せた。19世紀初頭、ナポレオンの部将であったベルナドット元帥を招聘して創始されたベルナドッテ朝の下、資本主義と議会政治が発達してきたスウェーデンでは1889年、マルクス主義に基づく社会民主労働者党が結成された。この党は諸国の同種政党としてはいち早く20世紀初頭に選挙を通じて政権に就き、やがてマルクス主義から転換し政権政党として長期的な成功を収める。
 一方、フランスではパリ・コミューンの挫折後、労働運動は冬の時代を迎え、復調するのは1890年代であったが、フランスの労働運動は政党によらず、直接行動やゼネストを通じた革命を目指すサンディカリスムの方向に流れていた。議会参加を目指す労働者階級政党としては1880年に結成され、マルクスも綱領作成に協力したフランス労働者党があったが、この党が実働したのは1890年代の間だけであった。
 しかし、1905年になってマルクス主義者から穏健な改良主義者までが結集したフランス社会党が結成される。この党は文字どおりの労働者階級政党とは言えないが、議会制を通じた社会主義の道という新たなテーゼを示した。
 これに対して、マルクスが1883年に骨を埋めることとなった英国ではホイッグ党を前身とし、リベラルな商工ブルジョワジーを主な支持基盤とする自由党が、トーリー党を前身とし、地主階級や貴族層を主な支持基盤とする保守党に対抗して労働者階級の利害を一定は代弁し、1871年には労働組合の合法化を実現するなどしてきたため、労働者階級政党の結成は遅れた。
 しかし、1900年に主要な労働者団体・政党が合同して労働者代表委員会を設立し、06年の総選挙後、正式に労働党と改称する。以後、労働党は議会政党として発展し、やがて自由党を押しのけて保守党と並ぶ二大政党の一つとなる。ただ、この党の綱領は当初から、シドニーとベアトリスのウェッブ夫妻に代表される知識人グループ「フェビアン協会」の穏健な改良主義的社会主義の影響を受け、マルクス主義とは一線を画していた。
 こうした議会主義の労働運動が各国で多かれ少なかれ成功を収めると、労働運動の国際的連帯への志向性は鈍りがちとなる。1889年に第一インターナショナルの後継組織として結成された社会主義インターナショナル(第二インター)も、メンバー政党は次第に議会政治を通じて資本主義の枠組みに安住し、自国の帝国主義をも受容するようになったため、帝国主義諸国間の戦争であった第一次世界大戦を機に消滅してしまうのである。
 他方、そうした労働者階級政党主流派の穏健化・保守化路線に反発し、あくまでもマルクス‐エンゲルスによって予示されたプロレタリア革命による資本主義の転覆を通じて共産主義社会を展望しようとするグループも、20世紀に入って勢いを増していくであろう。

2012年9月 3日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第48回)

第7章 略

三 資本主義と労働運動

(1)産業革命と資本主義
 英国が18世紀に新興の重商主義帝国として前進を続けていたとき、並行して起きていたのは産業革命であった。産業革命が「革命」たり得たのは、その推進力となった動力の発明もさりながら、動力と労働力の集約によって誕生した機械制工場制度という新しい生産手段を軸とする工業資本主義の勃興をもたらした側面においてである。
 もちろん商業資本主義と工業資本主義とは現実の経済システムにおいては相即不離の関係にあるが、工業資本主義こそは近代的な意味における資本主義の中核を成すものであった。
 英国がいち早くそうした工業資本主義の発展場となったのは、機械制工業を支える技術革新の数々が18世紀の英国に集中したという幸運によるところが大きい。それはおそらくニュートンに代表される17世紀「科学革命」の中心地が英国であったこととも無関係ではないと思われる。
 中でも18世紀発明史の先陣を切った蒸気機関は紡績機などにも取り付けられて機械の発達を促すとともに、19世紀に入ると汽船や蒸気機関車の開発により交通革命を誘発した。この交通革命はまた輸送の時間とコストという古代以来破れなかった商取引にとっての大きな壁を乗り越えることを可能とし、商業活動の飛躍的な発達をもたらしたのだった。それはまた自由貿易主義への転換ももたらした。
 このようにして英国は、19世紀中頃には世界における石炭総生産量の三分の二、鉄の二分の一、自家用を除く綿布の二分の一を生産する「世界の工場」であり、世界中の様々な製品を売りさばく「世界の百貨店」でもあった。ポンドは世界の基軸通貨となり、英国が採用した金本位制が貨幣単位の国際標準となった。
 ヴィクトリア朝時代の1851年、ヴィクトリア女王の王配アルバート公の肝いりで開催された初の国際万国博覧会ロンドン万博は、当時の英国の工業技術力を世界に誇示するエポックとなるイベントであった。

(2)労働者階級の誕生
 産業革命の結果生まれた機械制工場制度は工業製品のみならず、それを製造する労働に従事し、賃金を受け取って生活する賃労働者の群れをも生み出した。その人的給源となったのは、没落した手工業者や地方から流れてきた農民、アイルランド人などであった。
 ちなみに英国はナポレオン失墜後のウィーン会議で自らそれによって国富を蓄積していた奴隷貿易の廃止を提言し、いち早く1833年には奴隷制を廃止した。 
 他方、この頃の英国ではもう一つの洗練された新しい奴隷制度、すなわち「賃金奴隷制度」が花盛りとなっていたのだ。初期の賃労働者は劣悪な環境下の低賃金・長時間労働で搾取される、まさに奴隷的な存在であった。かれらが集住するようになった都市のスラムの生活環境もまた酷いものであった。
 これに対して、労働者たちも忍従ばかりしていたわけではない。早くも1790年代から団結して労働条件の改善を求める労働運動の芽生えが見られたが、当局は団結禁止法(1799・1800)を制定して労働運動の抑圧を図った。
 その一方で、今日の労働基準法の原型に当たる工場法が1802年以降、徐々に整備されていくが、当初は機械化に伴い熟練した職人労働に代わって広く利用されるようになっていた児童労働の規制が中心であった。
 特に第7代シャフツベリー伯アシュリー・クーパー―自身は地主貴族として農村労働者を搾取していることが暴露された―の尽力によって1833年に制定された一般工場法は本格的な工場法の最初のもので、同法によって9歳から13歳までの児童労働者の8時間労働、14歳以上18歳以下の労働者の12時間労働が規定されたほか、労働基準を監督する工場監督官の制度も導入された。
 これに先立つ1824年には団結禁止法は廃止されていたが、その後も当局は一般法を適用して労働者の団結やストライキを圧迫し続けた。そうした抑圧の下、労働運動を継続していく中で、労働者たちは階級としての意識に目覚めていったのである。

2012年9月 1日 (土)

老子超解:第九章 無について

九 無について

復帰するということが道の動き方である。弱いということが道の効用である。
天下の万物は有より生じ、有は無より生じる。
道が一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生ずる。万物は陰を負って陽を抱き、(この二つを媒介する)沖気がこれを調和させているのである。


 老子哲学の中で最も刺激的な論議を提起してきた「無」の思想を展開する章であるが、老子が「無」について正面から語るのは、通行本で第四十章に当たる本章だけと言ってよい。一般的な解釈とは裏腹に、老子にとって「無」は必ずしも決定的なキーワードではない。
 老子にとっての「無」とは、あくまでもの存在論的な別言にすぎない。前章で序説的に語られていた真空というの性質をひとことで「無」と表現するのである。従って、老子的な「無」とは「何も無い」ことではなく、老子的な真空の概念に従って「何かが在る」状態である。
 そうした意味では、老子的「無」はゼロではない。従ってまた、しばしば虚無主義の系譜に位置づけられることも多い老子の思想は、西洋思想の文脈におけるニヒリズムとも異質である。老子の「無」は、むしろ日本の西田幾多郎が単なる有の対偶としての無=相対無とは区別して、相対的な有/無の対立を超える根拠として提起した「絶対無」に近いものと言えるだろう。
 ただし、「絶対無」を心の本体として観念した西田の場合は唯心論的傾向が強いのに対し、無としてのを物質的に把握しようとする老子の場合は唯物論的傾向が強いという点は無視できない両者の差異である。
 ちなみに、第三段は通行本では第四十二章の冒頭に現れる章句であるが、内容的には本章第二段の命題を受けて、それを陰陽思想によりつつ敷衍しようとしているところであるから、あえて本章末尾へ移置してみた。陰陽家ではなかった老子が陰陽思想に触れるのはここだけであるが、それは同時代の中国人にとっても晦渋であった自説を理解させるために、あえて同時代人にはよりなじみやすかった陰陽家的説明を試みたものではなかろうか。
 ただし、ここでも陰と陽の対立の手前にある一者=を想定しつつ、沖気という媒介概念によって陰陽二元論を克服しようとするのは老子独自の考えであり、これは第一段冒頭で再び繰り返されている「復帰」の思想とも関わってくるところである。
 なお、第一段第二文で弱さをの効用としているのは、弱さという価値を積極的に肯定する老子倫理学の一端である。

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31