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2012年8月

2012年8月31日 (金)

音楽と政治

 「音楽と政治」は水と油の関係のように思われるが、案外そうでもない。音楽の中でも歌には歌詞があり、その限りでは言葉による表現活動と結ばれているから、歌に政治的・社会的なメッセージを込めることは十分可能である。
 ただ、多くの音楽家はあえてそうすることを避けているように見える。その結果、音楽は政治と無縁のところにあるような外観を呈することになる。もちろん自身のポリシーとして音楽に政治を絡めないということはあり得よう。しかし、音楽の非政治性は本質的なものではない。音楽家が政治を避けるのは、政治に触れればファンが離れたり、まさに政界との摩擦が避け難く、活動に影響が及ぶということが理由であろう。反戦や反原発のように国策に反することを歌う場合にはとりわけそうである。レコード会社や音楽事務所などがそうした不利益を懸念してストップをかけることもあるだろう。
 反対に、権力者によって音楽が利用されることもある。音楽は人の聴覚に訴えかけるだけに、絵画や文学よりも政治的なインパクトがあり、それは統治の道具としても有用なのだ。西洋クラシックは元来、王侯貴族をパトロンとして権力者によって庇護され発展してきたという点では、ポピュラー音楽以上に、政治と密接である。権力者のパトロンを失った現在ではすっかり商業資本に依存しているけれども。
 この点、ポピュラー音楽は権力を持たない民衆の内部から生まれただけに、権力的に取り込むことが難しい面はあるが、巧妙に利用すれば、大衆に馴染みの薄いクラシックよりも大衆動員の道具としての有用性は高いだろう。
 音楽の政治的力能について過大評価は禁物であるが、それは反権力的にも親権力的にも一定以上のインパクトを持つ。それだけに音楽家はかえって政治的には用心深くあらねばならないということは言えるのかもしれない。だが、そのことと音楽が政治と無縁であるようなふりをすることとは別である。
 

2012年8月28日 (火)

天皇の誕生(連載第28回)

第七章 「昆支朝」の発展と継承

(1)男弟大王への継承(続き)

「継体」の分身像
 本章の冒頭で指摘したように、『書紀』が応神天皇の後継者としている「仁徳天皇」については架空説が根強いが、では「仁徳」は一からでっち上げの架空人物かと言うと必ずしもそうではない。
 実は「仁徳」とは―ちょうど「崇神」が「応神」の分身像であったのと同様の意味で―、継体=男弟大王の分身像として設定されたものと考えられるのである。
 その根拠として、まずどちらも徳が高くへりくだった人物として描かれていることが挙げられる。先述したように、継体ははじめ皇位に就くことを固辞し、重臣らが三顧の礼をもってようやく承諾させたとされているが、仁徳紀によれば、仁徳も弟の菟道稚郎子[うじのわきいらつこ]と皇位を譲り合った末、弟が自殺してしまったため、やむなく皇位に就いたというのである。
 この逸話は継体の‘三顧の礼’とは趣きを異にするが、「即位固辞」というモチーフは共通しており、要するに政治的野心のない謙虚な人柄が強調されているわけである。
 第二に、そうした人柄を反映して、両者とも徳治主義の実践者として描かれていることである。この点、継体紀は外交記事が多いためあまり目立たないが、継体天皇の所信は元年3月条の詔で言われる「天は人民を生み、元首を立てて人民を助け養わせ、その生を全うさせる」ということにあり、27年条に記された継体の長いモノローグ形式の詔でも「徳化を流布し、勝れた官人を登用すること」の重要性が強調されている。
 一方、仁徳のほうは「仁徳」という諡号どおり、徳治主義の政治そのものであって、その所信は仁徳7年4月条の詔にあるように、「天が人君を立てるのは、人民のためである」とされ、継体の詔と酷似する。仁徳67年条では、その事績について「天皇は早く起き、遅く寝て、税を軽くし、徳を布き、恵みを施して人民の困窮を救われた」と賞賛されている。
 第三に、そうした徳治政治の成果として、継体=仁徳の治世はどちらも五穀豊穣・天下太平の世として描かれている。
 実は、こうした徳治主義に連なる「天皇」がもう一人いる。それが「崇神」の後継者として登場する「垂仁天皇」である。この「垂仁」(=仁を垂れる)の諡号が「仁徳」と類似していることは直ちに気づかれるであろう。
 結論から言えば、「垂仁」は「仁徳」を再分割して作り出された継体の二つめの分身像にほかならない。垂仁紀には埋め草的な記事が多いため、その徳治主義の事績が鮮明には出てこないが、垂仁35年条に、その治世はやはり百姓が富み、天下太平であったと記されていることに、継体=仁徳との共通性が見られ、結局「継体=仁徳=垂仁」という等式が見えてくるのである。
 このような継体=男弟大王の描き方には、前節で述べたような事情からする誇張的オマージュが認められるとはいえ、男弟大王が「継体」(=体制を継ぐ)という諡号にふさわしく、在位およそ30年(477年頃‐506年)に及んだと見られる父・昆支大王の正統な後継者であったことは間違いないようである。
 儒教思想を踏まえて後知恵的に粉飾された「徳治」はともかくとして、「五穀豊穣」にそれなりの根拠があるのは、男弟大王時代には先代の昆支が開始した灌漑事業や治水事業も大規模かつ高度化したからである。
 例えば、仁徳紀では多くの池や大溝(用水路)、淀川流域の茨田堤[まむたのつつみ]をはじめとする堤防を築造したことが記されているほか、垂仁紀にも池や溝を八百余り築いたとの記事が見える。
 特に『記』の垂仁紀では秦人を動員して茨田堤や多くの堀も築造させたことが記されており、こうした灌漑・治水事業には、応神紀14年条にその祖・弓月君(ゆづきのきみ)が百済から120県の人民を率いて渡来してきたと記される秦氏の水利技能が大いに活用されたことがうかがえる。それはとりもなおさず、百済の水利技術の継承にほかならなかったわけである。
 一方、「徳治」という側面は、専制的であった父・昆支に比べれば、男弟大王が専制的手法を改め、重臣との合議を重視した姿勢を反映した描写であろう。この点、先に引いた継体24年の詔の中でも、「皇位を継いだ者として中興の功を立てようとするならば、どうしても賢明な人々の謀議に頼らざるを得ない」との台詞は、男弟大王の施政方針を最もよく言い表しているように思われる。
 実際、男弟大王は旧加耶系王権時代の軍事氏族であった大伴氏を起用し、時の氏族長・大伴金村は男弟大王の実質的な宰相として重臣たちを束ねていた。この金村は後にある重大事変のキーパーソンともなるであろう。

2012年8月25日 (土)

老子超解:第八章 真空としての道

八 真空としての道

道は真空でありながら、その働きは尽きない。深い淵のようで、万物の宗主に似ている。
それは、鋭さを鈍らせ、もつれを解きほぐし、光を和らげて、塵とも同化する。
たたえた水のように存在する何ものかに似ている。
私は、それを誰が造ったのか知らないが、何やら神にも先立つ物象のようである。


 通行本では第四章に当たる本章では、前章を補足するような形で、真空というもう一つのの性質が語られている。これは次章で本格的に語られる老子の有名なキーワード「無」にもつながる序説的な言表である。
 真空というと、常識的には「何も無い」状態を想起する。実際、古典物理学的な理解によれば、真空とは何も無いことを意味している。しかし、老子によれば、は真空でありながらその働きは無尽蔵であるという。そのうえ、彼は真空を淵や水にもたとえている。
 淵はともかく、水となると、真空という概念とは矛盾するようであるが、老子的理解では矛盾しない。老子の「真空」とは、文字どおり「何も無い」のではなく、何かが「ある」状態なのである。「何か」とは前章などで述べられたような、おぼろげでとらえどころのない物質ということになろう。
 このような「真空」の把握は、どこか現代量子論における最低エネルギー状態という「真空」の理解の仕方に通ずるところはあるかもしれない―ここでも、両者を不用意に結びつけるべきではないが―。
 ちなみに、水の比喩は老子が好むところであるが、中でも水の性質を詩的に表現した第二段の「和光同塵」は日本語でも四文字熟語として定着しているところである。
 ただし、日本語の熟語として定着した「知徳を隠して俗世間と交わる」といった意味づけは、老子本来の「和光同塵」の意味からは外れている。本来は、まさに光を和らげ(屈折現象か)、塵にも吸収されるような水の柔軟な性質をの性質のたとえとして詩的に表現したものであった。
 さて、本章でもう一つ看過できないことは、神の問題がさりげなく扱われていることである。特に、第四段で「道は神に先立つ」と言明されているのは、老子の思想の世俗性を核心的に示している。
 ここで「神」と意訳した原語は「帝」である。古代中国で「帝」とは、天を司る神(天帝)を意味していたが、老子からすれば、万物の根源たるは論理上帝よりも先行するのは当然であり、それは万物の宗主(=帝)に似て非なるものである。
 こうして老子は、世俗性に立ちつつ無神論とも汎神論とも異なる境位へ赴くのである。

2012年8月24日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第1回)

第1部 カール・マルクス

第1章 人格形成期

果たすべき課題も忘れ、諸々の知識の周りをうろつき回っているとは、全く情けない。
―父ハインリヒ・マルクス

(1)中産階級的出自

flagユダヤ系中産階級
 本連載の最初の主人公カール・ハインリヒ・マルクスは、1818年5月5日、ハインリヒとヘンリエッテのマルクス夫妻の第三子として当時プロイセンの西端トリーアの町で生まれた。
 父方のマルクス家もオランダ出身の母方プレスブルク家も共にユダヤ系かつ代々ユダヤ教律法学者(ラビ)という家系であるが、父ハインリヒはむしろ西洋近代法の弁護士として町の有力者の一人であった。
 このようにマルクスの家系はかなり純度の高いユダヤ系ではあったが、一家はカールが生まれた頃にはプロイセンの支配的宗派であったプロテスタントに改宗していたのだった。当時トリーアの町はむしろカトリックが優勢であったのに、マルクス家があえてプロテスタントを選んだのは、大国化しつつあったプロテスタント系領邦国家プロイセンの中で少数派ユダヤ人が社会的に認知されるためには、プロテスタントへの改宗が有利であると考えられたためであろう。
 要するに、マルクス家は民族的解放よりも国民的同化の道を選んだのである。このことは、カールを含むマルクス家の子どもたちの将来にとっても有益な戦略となるはずであった。
 ただ、そうした一家の立身戦略というレベルを越えて、マルクス家がプロテスタントを選択したことには、一家のリベラルな気風という思想的背景もあったと思われる。特に父ハインリヒは決して急進的ではなく、むしろ保守的でさえあったが、フランス革命に傾倒するリベラリストでもあり、進歩的保守主義とも言うべき立場の知識人であった。従って、キリスト教への改宗に当たっても、反動的傾向を免れないカトリックより改革志向的なプロテスタントを選択したということは自然な流れでもあったろう。
 こうしてマルクスがリベラルな進歩的保守主義の気風を持つプロテスタントのユダヤ系中産階級家庭で育ったという事実は、彼の人格形成上も決定的な要素を成していくであろう。

flagトリーアの地政学
 マルクスの人格形成において、17歳までを過ごした出身地トリーアという町の地政学的特殊性も見逃せない。ライン地方でも西端のルクセンブルク国境にあるトリーアはフランス革命からナポレオン時代にかけて、フランスに占領された。その結果として、革命の精神が流入してきた。マルクス家のリベラルな気風もそうしたトリーアの町の特殊性と無縁ではあり得ない。特に1777年生まれの父ハインリヒにとっては、その人格形成期がフランス革命とナポレオンとともにあったと言ってよかった。
 しかし、ナポレオン失墜後のウィーン会議はそうした「自由の時代」を終わらせた。ウィーン会議の結果、トリーアもプロイセン領として編入されたが、その代償として反動的なプロイセン当局の支配下に置かれることとなった。マルクスが生まれた1818年はそうした「反動の時代」の初期に当たっていた。
 とはいえ、トリーア周辺のライン地方は元来、保守的なドイツの中にあっては自由な気風の強い土地柄であり、そこはやがて勃興してくるドイツ資本主義の中心地となるはずであった。トリーアの町自体も、古くからのモーゼルぶどう酒造りとともに、皮革工業や織物工業などで発展しつつあった。
 「反動の時代」にあっても、トリーアから自由な精神が完全に消えてしまったわけではなく、ドイツの中で最もフランス的と言われる町であり続けていたのだった。

flag「不良秀才」への道
 カールは12歳の時、トリーアの「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム」に入学する。ドイツ伝統のギムナジウム制度は大学進学のための予備課程を兼ねたエリート・コースであるから、カールへの父の期待は大きかったと思われる。
 しかも、このギムナジウムは当時のトリーアの気風を反映したリベラルな校風で知られ、マルクスの最初の知的な訓練がそうした校風の学校で施されたことは、彼の思想形成にも当然大きな影響を及ぼしているはずである。
 ちなみにマルクスのギムナジウムにおける卒業試験の成績は、「良」の物理を除いてすべて最高ランクの「優」というものであった。「秀才」と言ってよい成績ではあるが、ここで科学科目の物理の成績が今一歩であったのは、後年、思想家としてのマルクスが「科学」を重視したことからすると意外に見える。このことはマルクス理論における「科学」の内実を究明するうえで間接的な手がかりとなるかもしれない。
 ともあれ、17歳でギムナジウムを卒業したマルクスは、トリーアから地理的にも比較的近いボン大学法学部へ進学する。法学部に入ったのは弁護士稼業を息子カールにも継いで欲しかった父の半ば命令であった。
 しかし、半強制的に進学させられた法学部は、マルクスにとって居心地のよい場所ではなかったようである。ボン大学在学中のマルクスは詩作に熱中する一方、借金にも手を出し、飲み騒いで大学から謹慎処分を受けたり、果てはケルンで禁制武器を携帯して裁判にかけられたり、と「不良」ぶりを発揮し始める。
 この時期、カールの将来像はまだはっきりしないが、少なくとも父の期待どおりに弁護士への道を無難に歩む見込みがなさそうであることだけははっきりしてきたのだった。

(2)進歩‐保守的な恋愛

flag将来の妻イェニー
 「マルクスの恋愛」などというテーマは、後年の謹厳そうな唯物論者マルクス像には似つかわしくないようにも思えるが、このテーマはマルクスを理解するうえで意外に重要な手がかりとなる。
 マルクスの理論と実践にとってやがて共同研究者兼同志となるエンゲルスとの盟友関係は不可欠の要素であったが、カールと妻イェニーとの夫婦関係も前者と同程度か、ある意味ではそれ以上にマルクスの思想家・革命家としての人生において決定的な重要性を持った。
 その将来の妻イェニーはトリーアの地元貴族ヴェストファーレン家の出で、彼女の父ルートヴィヒも町の有力者であった。マルクス家とは近所同士であり、そのためにカールの姉ゾフィーと親しかったイェニーもカールとは幼なじみであった。
 イェニーの父ルートヴィヒは貴族階級ながらトリーアの風土を反映した啓蒙主義者であり、身分差や民族籍を越えてマルクス家と親しく交流し、マルクスも幼い頃からヴェストファーレン家に出入りしてルートヴィヒから知的な薫陶を受けていたのである。
 このような家庭に育ったイェニーもリベラルな気風の持ち主であったようで、後年カールと結婚した後、ほどなくして無産知識人となるカールを終生支え続け、何人もの子どもを抱えて外国でのどん底生活を共にするだけの覚悟も備えた女性であった。

flag18歳の婚約
 カールと4歳年長のイェニーがいつ頃から親密になったのかは明らかでないが、ボン大学から一時帰省した18歳のカールからの唐突な婚約申し込みにイェニーが応じたことからすると、早くから交際関係はあったように見える。
 それにしても、この婚約はいかにリベラルなトリーアの土地柄とはいえ、まだ封建道徳が色濃く残っていた当時のドイツではいささか大胆なものではあった。まず自由恋愛ということ自体が、富裕な有産階級の間では一般的ではなく、ともすれば不道徳とみなされかねない時代であった。
 それに加え、身分差も問題であった。かなり裕福ではあっても中産階級のマルクス家と田舎貴族とはいえ一応貴族階級に属するヴェストファーレン家とでは家格の違いがあり、事実ヴェストファーレン家では家長ルートヴィヒを除くと、カールとイェニーの婚約は歓迎されなかったようである。
 ただ、肝心なルートヴィヒの承諾が得られたのは、彼が幼年時代から知るカールの才覚を高く評価していたからにほかならなかった。もっともルートヴィヒとて後年のカールの活動を予測していたら、婚約に承諾を与えたかどうか疑わしいのではあるが。
 またふたりの年齢差に関しても、男性優位が常識であった時代、妻が年長となる結婚は王侯貴族同士の政略婚のような場合を除いてはいささか常識破りなものであった。
 このようにマルクスの恋愛には進歩的な面がいくつもあったが、一方でそこには古典的なロマンスの要素も認められた。婚約当時のカールはまだ大学生で、しかもボン大学での「不良」ぶりを見かねた父により遠方のベルリン大学へ転学させられてしまったため、結婚どころではなかった。そこで婚約後のふたりは、カールがベルリンから郷里で結婚の日を待つイェニーに宛てて愛の詩をせっせと書き送り、イェニーはそれを読んでは涙にむせぶといったもどかしい“遠距離恋愛”の関係となった。
 こういう純愛的関係は、ふたりが婚約から7年後にようやく結婚にたどりついた後も変わらず、カールとイェニーのマルクス夫妻は終生連れ添い、乳児のうちに亡くした子を含めて6人の子をもうけ、共に裕福な家庭に育った者同士としては考えられないほどのどん底生活の中にあっても、家庭的幸福は享受し続けたのだった。
 マルクスのこうした進歩‐保守的な恋愛とその結果としての結婚生活は、彼が―決して女性差別主義者ではなかったが―自覚的なフェミニストとなることはなかったことを説明する手がかりとなるかもしれない。その点では、法律婚制度そのものに否定的で、自らひとりの女性と事実婚を実践し、子も残さなかった盟友エンゲルスが近代フェミニズムの先覚者となったのとは対照的であった。

2012年8月21日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第47回)

第7章 略

二 アメリカ独立とフランス革命

(6)ナポレオンの独裁と失墜
 ナポレオンは、混迷のうちに挫折したフランス革命をその当事者の立場から後始末する役割を負って歴史に登場したとも言える人物であった。従って、ナポレオンの独裁を単に「反革命」とみるのは正しくない。
 実際、彼は「ナポレオン法典」の名で知られる民法典をはじめとする近代法体系を整備し、主として法制面ではフランス革命の成果を置き土産として残したのである。また、ナポレオンは侵略先の諸国に対して一種の「革命の輸出」めいたこともやってみせたから、彼の失墜後に招集された国際会議「ウィーン会議」では革命前の原状回復を旨とする「正統主義」が高調されたのだった。
 1804年、国民投票によって皇帝位に就いたナポレオンが創始した体制(第一帝政)も単なる反動体制ではなかった。それはブルボン朝のように伝統的権威でなく、ナポレオン個人のカリスマ的権威を基盤に、国民の同意に基づく共和制の要素を伴った新しい君主制であった。このような「国民帝政」とでも呼ばれるべき体制は、後のナチス・ドイツの「第三帝国」の先駆けと言えるような側面を持っていた。
 実際、伝統的権威に依拠し得ないナポレオンは海外侵略を積極的に行い、革命当時の干渉戦争以来高まっていた民衆のナショナルな感情を刺激し、フランス国民を一つにまとめて国民国家に仕上げたのだった。国民国家アメリカが独立戦争を通じて創られたとすれば、国民国家フランスはナポレオン戦争を通じて創られたと言えよう。
 彼はまた、ドイツに侵攻した際、自らを盟主とするライン同盟を結成し(1806)、中世以来の有名無実化した神聖ローマ帝国を解体したことで、将来ドイツをも統一国家の形成に導く礎石を置いた。
 ナポレオンが最終的に失墜するきっかけを作ったのは、ある意味で英国であった。といっても、「百日天下」のナポレオンをウェリントン将軍率いる英国軍が打ち破ったワーテルローの戦いのことではない。それより以前、屈服しない英国に対する制裁措置としてナポレオンが課した大陸封鎖令のことである。これは産業革命期の英国から工業製品などを輸入していた大陸諸国の経済に破壊的打撃を及ぼし、反ナポレオンの機運を高める愚策であった。
 そのうえ、この封鎖による影響が甚大であったロシアがいち早く封鎖破りに出たため、ナポレオンはロシアに対する懲罰遠征を断行したが、これが裏目となり、彼はロシア軍の焦土作戦と冬将軍のために惨敗を喫した。以後の半ば伝説化した彼の後半生の伝記は省略する。
 ともあれ、アメリカ独立で植民地を喪失した英国は、フランスが革命からナポレオン時代に至る激動の中で経済的にも停滞するのを尻目に巻き返しを図り、折からの産業革命の成果を基盤としながら、間もなく七つの海を支配する大英帝国―1801年にはアイルランドを正式に併合して大ブリテン・アイルランド連合王国となっていた―に発展するきっかけをつかみつつあった。
 であればこそ、ナポレオンに蹂躙された諸国にとっては救いの神であった反革命反動の象徴「ウィーン会議」も、英国にとっての関心度は必ずしも高くなかったのである。

2012年8月20日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第46回)

第7章 略

二 アメリカ独立とフランス革命

(4)フランス革命〈1〉
 太陽王ルイ14世没後のブルボン朝フランスは斜陽の時代を迎えた。宮廷の濫費に加えて、戦費増大による財政赤字が深刻化したうえに、対外的には英国に敗れ、押さえ込まれていった。
 そうした中、財政再建に乗り出した太陽王の玄孫ルイ16世はかねてから官職買収などによる成り上がり貴族が増加していたことに目を付け、特権身分への課税強化を図った。この全うな施策は当然にも貴族層の強い反発を招いた。彼らは1614年以来開かれたことのなかった全国三部会の召集を要求し、国王も承諾した。これはしかし、国王側にとって裏目であった。貴族層のみならず、いわゆる第三身分の平民層を活気づかせ、憲法制定の要求を呼び起こしたからである。
 1789年5月5日に開かれた全国三部会で、平民たちはその理論的指導者で『第三身分とは何か』を書いたシェイエス神父に教化され、また直近のアメリカ独立革命にも触発されて、第三身分のみが真に国民を代表していると主張し、自らの部会を国民議会と称した。国王もこれを承認せざるを得なくなり、ここに制憲国民議会が発足し、憲法制定に着手した。
 しかし国王側は譲歩しすぎたことへの不安から軍隊を召集して警戒態勢を取ったことが民衆を刺激し、革命の導火線となる7月のバスティーユ監獄襲撃事件につながる。
 この先、1799年11月のナポレオンによるクーデターで収束するまで10年に及んだ長い革命のプロセスは、大きく〈1〉立憲革命と〈2〉ブルジョワ革命の二段階に分けることができる。
 第一段階の立憲革命は早く取れば1789年6月の国民議会の発足から同年8月の人権宣言の採択を経て、1791年に立憲君主制に基づく憲法が制定されるまでである。
 この立憲革命段階では平民層の突き上げを受けつつ、民主的な貴族層が主導権を取ってフランスではなお残存していた貴族の封建的諸特権の廃止を実行した。人権宣言はその成果であり、宣言の起草を指導したラ・ファイエットはアメリカ独立戦争にも参加した経験を持つこの時期の代表的な指導者であった。
 しかし貴族層は共和制を望まず、立憲君主制を目指していたから、革命の急進化を怖れてルイ16世一家が王妃マリー・アントワネットの母国オーストリアへの亡命を図って失敗した事件(1791)を機に国王への民衆の不信が高まると、憲法制定を急いだ。その結果誕生したフランス最初の1791年憲法はまさに立憲君主制憲法であって、王権は制限されたものの国王はなお議会が可決した法案に対する拒否権を保持するという保守的なものであった。選挙権も有産市民にのみ限られていた。
 ともあれ、この1791年憲法に基づいて召集された一院制の立法議会では共和制を主張するジャコバン派と、ジャコバン派から分離し立憲君主制を支持するフイヤン派が二大党派として対峙した。
 後者のジャコバン派はおおむねブルジョワ層を代表していたが、その内部はプチ・ブルジョワ中心の急進的なモンターニュ派と商工ブルジョワ―言わば本来のブルジョワジー―中心の穏健なジロンド派とに分裂しており、ジロンド派はやがてジャコバン派から分離した。
 こうしたフイヤン対ジャコバンの二大党派の均衡が崩れたのは、オーストリア・プロイセンとの戦争をめぐってであった。当時ドイツの二大領邦国家となっていた両国は革命がドイツに波及することを恐れ、共同してフランスへの軍事介入の意図を露にしていたのだ。
 戦勝が革命を強化するとの考えから開戦を主張するジロンド派と敗戦による革命の挫折を秘かに期待するルイ16世の思惑が一致し、1792年4月、ジロンド派内閣の下、オーストリアに宣戦布告した。
 当初は国王の思惑どおり戦況はフランス不利で、ジロンド派内閣は罷免され、フイヤン派内閣に交代する。立法議会では7月、「祖国の危機」を宣言し、義勇軍を組織して挽回を図っていたところ、プロイセン・オーストリア連合軍司令官がフランス国王の身の安全が保証されない場合のパリ市攻撃を宣言したことから、ルイへの民衆の不信が改めて高まり、パリ民衆と一部義勇兵は8月、国王が滞在するチュイルリー宮殿を襲撃した。
 この「8月蜂起」を機に、立法議会は王権停止と普通選挙に基づく新たな制憲議会(国民公会)の召集を決定、ルイ16世は身柄を拘束された。ここから事態は第二のブルジョワ革命の段階に入る。

(5)フランス革命〈2〉
 1792年9月、国民公会が成立し、王制廃止・共和制樹立が宣言された(第一共和政)。今度の国民公会では先のジロンド派とジャコバン派が二大党派として対峙することになった。
 本来のブルジョワ派と言えるのはジロンド派であったが、国民公会では劣勢であり、急進的なプチ・ブルジョワ系のジャコバン派に主導権を取られていた。そのジャコバン派が主導して1793年1月、廃位された前国王ルイが処刑された。
 ここに至って、革命の波及を恐れたヨーロッパ各国が結束する。英国のピット首相の提唱でオーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなど主要国が参加する第1回対仏大同盟が結成され、軍事介入の構えを見せた。他方、国内でも王党派の扇動する農民反乱が発生した。こうした内外での反革命の動きに対してジャコバン派は公安委員会の設置など革命防衛のための強権措置で臨み、93年6月、これに反対するジロンド派をクーデターで追放した。
 全権を掌握したジャコバン派は農民への土地の分配、封建的諸特権の無償廃止のほか、高まっていたインフレーションに対処するため価格・賃金統制も実施した。さらに―結局未施行に終わったものの―政治参加の枠を拡大する人民主権論に基づく共和制憲法を制定した。
 こうした施策は後代の社会主義を思わせるものがあるが、ジャコバン派の綱領は社会主義ではなく、プチ・ブルジョワ的な急進的平等主義にすぎなかった。
 一方、この間、ジロンド派の巻き返しも激しく、93年7月にはジャコバン派幹部マラーがジロンド派同調者の女性によって暗殺された。また対仏同盟軍もフランスに侵攻してきた。
 内外で危機的状況が高まる中、非常措置が強化され、弁護士ロベスピエールが指導する公安委員会が中心となって反対派大量処刑の恐怖政治が展開され、反革命内乱も鎮圧されたが、恐怖政治はジャコバン派の内紛を絡めて大粛清の様相を呈していく。
 こうしたジャコバン派の迷走に対して、恐怖政治の総帥ロベスピエールを打倒・処刑した94年7月のテルミドールのクーデターは通常「反動」と評されるが、このクーデターは実は本来のブルジョワ革命の線に軌道修正するための「正常化」であったと言える。
 テルミドール体制の下では、ブルジョワジーの要求に従い、経済統制は解除され、経済的自由が回復されたが、インフレが再燃した。しかもテルミドール体制は強力な指導部を欠き、安定しなかった。
 1795年11月、新たに5人の総裁から成るいわゆる総裁政府が発足したが、不安定な集団指導体制であることに変わりなく、巻き返しを図る王党派や急進派の策動が渦巻いていた。
 こうした末期的な混乱の中で急浮上してきたのがナポレオン・ボナパルトであった。このコルシカ島の下級貴族出身の若いフランス士官は革命軍に身を投じ、早くから注目すべき活躍を示していた。本来はジャコバン派と目されるが、彼に政治的定見はなく、テルミドールのクーデターで一時拘束されるも、すぐに釈放され、動乱を生き延びた。そして王党派の武装反乱を鎮圧したほか、イタリア遠征などを通じ第1回対仏大同盟を解体に追い込んで声望を高めた。
 かのシェイエスを含む協力者を得て、ナポレオンは1799年9月(ブリュメール18日)にクーデターを起こし、総裁政府を打倒、臨時統領政府を樹立した。自らは任期10年の第一統領として事実上の独裁者となった。ここに10年に及んだフランス革命は収束する。
 こうして幕を閉じたフランス革命をめぐっては、大量の犠牲者を出したブルジョワ革命段階の恐怖政治は強く批判されながらも、立憲革命段階の人権宣言―今日でもフランス憲法の一部を構成する―については高く評価されるのが一般である。
 たしかにこの法文書は天賦人権論を初めて法典化した点に意義を持つ。その延長上に、ジャコバン派主導の国民公会による奴隷制廃止宣言があった(1794)。それはさらにフランスのカリブ地域におけるプランテーション経営の拠点であったサン・ドマングの黒人奴隷によって1791年に始められた独立運動と、1804年の独立国家ハイチの誕生という重要な副産物をも生んだ。
 にもかかわらず、人権宣言の最大の力点は「神聖かつ不可侵」と宣言された非封建的=近代的な所有権の擁護にこそあったのだった。より広く言えば、新興ブルジョワジーの特権の保障である。これこそフランス革命が、立憲革命からジャコバン派独裁の回り道を経て、ブルジョワ革命に行き着いたゆえんである。
 当時、農民が多数を占めていたフランスにあって階級としての労働者の登場は尚早であった。この時点での労働者は都市商工業者や職人などとともにサンキュロット派としてくくられていた都市民衆の中に混じって、特にジャコバン派のような急進派に利用され、その独裁権掌握にも一役買っていた。
 しかし、プロレタリア革命などは想定外であり、近代的な共産主義の思潮も夜明け前であったから、私有財産制度の廃止を主張するバブーフらの新たな革命の企て(1796)は挫折する運命にあった。
 一方、革命初期には食糧事情の悪化に抗議してパリの女性たちがベルサイユへ向けてデモ行進し、国王一家をパリに連れ戻した「ベルサイユ行進」のような女性の行動も革命の重要なひとこまをなしたにもかかわらず、女性の権利も棚上げにされたままであった。

2012年8月19日 (日)

音楽は教えられるか

 音楽は教えられるか━。この問いに対する答えはクラシック音楽家とポピュラー音楽家とで大きく食い違うだろう。音楽大学(欧米では音楽院)を頂点とし、師弟関係で成り立つ教育体系が整備されているクラシック世界では、疑いなく音楽は教えられるものであるとみなされている。ために、クラシック音楽家を目指す者は幼少時から体系的な音楽教育を施され、所定の課程を修了しなければ正式な音楽家として認証されることはまずない。
 かつて柄にも合わずピアニストを目指した私も経験したことだが、クラシック音楽の教育は極めて厳しい修行に等しいもので、音ならぬ音の連続である。退屈な練習曲や好きでもない楽曲を課題として出され、教師の指示どおりに演奏できなければ小言の嵐。すっかり嫌気が差してしまった。音に耐え抜かねばプロになれないというなら、なれなくとも結構。そんな心境に駆られたのだった。
 だが、繰り返せば、音楽は本当に教えられるか。楽器の演奏技術のような運動的な側面については、ちょうどスポーツの技のように教えることは可能かもしれない。しかし、音楽的な表現そのものは各人の感性の聴覚的表出だとするなら、それは本質上教育不能なものではないか。この点、教育課程も師弟関係も存在せず、路上ライブからメジャーデビューへというシンデレラ・ストーリーが現実にあり得て―超狭き門とはいえ―、かえって音大卒の資格が全く意味を持たないポピュラー音楽の世界こそ、真の音楽を体現しているように思われてならない。
 クラシック音楽の世界で音楽が教えられるものであることが当然視されるのは、この世界は他人が作曲した楽曲を演奏することが中心を占める複製芸術だからであろう。ポピュラー音楽ではシンガーソングライターに代表されるように、自作自演は普通のことであるし、他人の楽曲も特定個人に提供されることが多い。各人の音楽的感性だけが統べる世界なのだ。
 ただ、複製芸術であっても、楽曲の解釈をめぐっては演奏者の感性が投影される余地があり、中には解釈の限界を超えてほとんど編曲に近い演奏をする“異端”もいるが、日本人には少ない。日本の音楽教師は弟子が異端的演奏に走ることを極度に嫌う傾向が強い。日本にとって西洋クラシック音楽は海外から入った輸入文化であるだけに、かえって「本場」以上に“正統”への幻想的ななこだわりがあるのかもしれない。 

2012年8月18日 (土)

犯罪と非処罰・目次

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より該当記事をご覧いただけます。

前言 ページ1

1 序論 ページ2

2 社会は犯罪に対して責任を負わねばならない ページ3

3 責任能力概念の揚棄 ページ4

4 法定原則 ページ5

5 処遇の種類 ページ6

6 矯正処遇について ページ7

7 刑務官から矯正官へ ページ8

8 保護観察について ページ9

9 更生保護について ページ10

10 少年の処遇について ページ11

11 矯導学校について ページ12

12 教育観察について ページ13

13 未遂犯・共犯について ページ14

14 過失犯について ページ15

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(上)― ページ16

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(中)― ページ17

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(下)― ページ18

16 性犯罪(上) ページ19

16 性犯罪(下) ページ20

17 薬物犯罪 ページ21

18 組織犯罪 ページ22(非表示)

19 累犯問題について ページ23

20 交通犯罪(上) ページ24

20 交通犯罪(下)―公共交通事故について― ページ25

21 政治犯罪 ページ26

22 汚職について ページ27


※ これ以降の記事につきましては、全面改訂を予定しているため、現在すべて非表示としております。

23 無罪の推定について ページ28

24 未決拘束について ページ29

25 被疑者取調べの規制 ページ30

26 司法取引・訴追免除について ページ31

27 盗聴・盗撮について ページ32

28 捜査監督裁判官について ページ33

29 司法警察員資格制について ページ34

30 検死・科学鑑定について ページ35

31 公訴時効について ページ36

32 民衆公訴について―検察制度の廃止― ページ37

33 訴追弁護士について ページ38

34 事実審理と処遇審理 ページ39

35 司法参加について ページ40

36 当事者主義と職権主義 ページ41

37 少年司法について ページ42

38 証拠開示について ページ43

39 証拠の適格性 ページ44

40 情況証拠・共犯者証言・被害者証言 ページ45

41 上訴審・再審について ページ46

42 犯罪被害者について(上) ページ47

42 犯罪被害者について(下) ページ48

43 犯罪情報について ページ49

44 法律家はどうあるべきか ページ50

45 結論 ページ51

2012年8月12日 (日)

老子超解:第七章 道の性質

七 道の性質

視ようとしても見えない。これを名づけて夷という。聴こうとしても聞こえない。これを名づけて希という。捕らえようとしてもつかめない。これを名づけて微という。これら三者はそれ以上突き詰めることはできず、本来混和して一つになっているものである。
その上が特に明るいわけでも、その下が暗いわけでもない。おぼろおぼろとして名づけることもできず、無物の状態へ復帰していく。これを無状の状、無物の象といい、また惚恍ともいう。
前から迎えてもその顔は見えず、後からついていってもその背中は見えない。遠い過去の道を把持し、それによって現前する存在を制御すれば、始原を知ることができるのだ。これを道紀という。


 
をめぐる老子の思索はまだ続いていくが、通行本で第十四章に当たる本章では、の物質性が説かれた前章の内容を敷衍しつつ、の基本的な性質について中間総括的な内容が示されている。
 キーワードは夷(形なきこと)、希(音なきこと)、微(微妙なこと)である。この三者は中段では無状の状(姿なき状[すがた])、無物の象(形なき象[かたち])、惚恍などと言い換えられている。いずれも、前章で語られたぼんやりとしてとらえどころのない物質としてのの形容である。
 本章で初出する重要な点は、中段に現れる「無物の状態へ復帰していく」という言表である。「無」はよく知られた老子のキーワードであるが、それ以上に重要なのは「復帰」という語である。
 「無」とはの存在論的な別言であるが、老子にとって=無とは未来に向けて獲得するものではなく、過去へ立ち戻って体得するものなのである。ただし、かかる「復帰」とは単純に過去へ回帰する「復古」とも異なる。
 その微妙な理を巧みな比喩で表現しようとしたのが後段である。を擬人化したうえ、前から迎えても顔は見えないとは、単純に過去へ回帰しようとしてもを体得することはできないことを意味し、後ろからついていっても背中が見えないとは、未来へ向けてを追い求めてもやはり体得できないことを示している。
 要するに、末尾で総括されるように、老子は現在に身を置きつつ、過去のへ立ち戻って、現前する存在―いわゆる現存在としての人間も含まれよう―を制御すべきことを説くのである。言い換えれば、現前する個物の差異にとらわれることなく、万物の根源たる過去のを把持せよというのである。
 こうした老子的「復帰」の独異性を「復古」と区別する意味で、「遡行的思惟」と呼ぶことができる。そうした思惟の導きの糸となるの認識論的な規準性のことを、本章末尾ではひとことで「道紀」[とうき]と表現している。ただ、このような老子らしからぬものものしい用語は老子自身の言葉でなく、後世に作出されたものかもしれない。

2012年8月11日 (土)

ピアノとジェンダー

 無謀にも、クラシック・ピアニストを夢見ていた時期があった。まさに夢に終わったが、その理由(≒言い訳)の一つとして、男子がピアノ!?という周囲の好奇の視線に耐えられなかったことがある。今でもあまり変わっていないと思うが、日本ではピアノは女子の習い事とみなされている。
 「日本では」と限定したのは、ピアノの本場・西欧では全く逆だからだ。かの地では、歴史的に著名ピアニストの大半は男性で占められ、今日でも女流は少数派である。実際、クラシック・ピアノの国際コンクールとしては最高峰とみなされるショパン・コンクールでも、直近2010年度優勝者のユリアンナ・アブデーエワは1965年度優勝者マルタ・アルゲリッチ以来、9大会ぶり(5年ごとの開催)の女性優勝者であった。この点、国際的に評価の高い日本人ピアニストはほとんどが女性であるのと対照的である。
 この逆転はなぜ、どのようにして生じたのだろうか。音楽史の専門でないから憶測の域を出ないが、明治維新後に西欧からピアノという楽器が入ってきたときに、伝統的な邦楽器に比べエレガントなイメージから新興ブルジョワ階級女子のハイカラな習い事として受容され、戦後民主化の過程でピアノが大衆化されていく中でも、「女子の習い事」という位置づけだけは維持されたということかもしれない。
 しかし、ピアノという楽器は周知のとおり相当に大型な楽器で、大きな音量を出すにはかなりの体力を要する。また、ピアノ曲の中には1オクターブ(8度)を越える広い範囲のキーを一気に把握しなければならない和音を要求されるものも少なくない。それは一般に体力に制約があり、手も小さい女性には不利である。要するに、ピアノという楽器は大柄で団扇みたいな手をした西欧人男性を想定して作られた楽器なのである。そういうわけで、「本場」ではピアノ業界は男性中心となる。
 とはいえ、女子も大型化し、サッカーをやろうという時代、西欧でも女性ピアニストは増えてきている。一方、日本では女子業界への男子進出の一環か、国際コンクールで上位入賞する若手の男性ピアニストも育ってきた。その点では、「ピアノとジェンダー」に関しては東西クロスの形で確実に変化の波が起きていると言ってよいだろう。 

2012年8月 8日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第45回)

第7章 略

二 アメリカ独立とフランス革命

(1)北アメリカ植民地の形成
 カナダを含む新大陸・北アメリカへの西欧諸国からの植民はイングランド、オランダ、フランスを中心に17世紀初頭頃から本格化した。
 各々の植民活動の担い手や形態には特色があったが、最も国策的かつ準封建的な性格を帯びた植民活動を展開したのがカナダとアメリカ南部を中心に植民したフランスであり、反対に最も自治的かつ自由な植民活動を展開したのがアメリカ東部を中心に植民したイングランドであった。
 こうした英仏の北アメリカ植民活動の相違は、北アメリカ先住民―中南米の先住民インディオと同様に誤ってインディアンと呼ばれた古モンゴロイド種族―に対する態度の違いとしても現れた。すなわちフランス植民地人がカトリック宣教師や毛皮商人などとして内陸まで分け入り、先住民とおおむね友好的な関係を結んだのに対し、イングランド植民地人はアメリカ東部沿岸で先住民の土地を侵奪する必要があったことに加え、その信仰形式からも先住民を蛮族視しがちであった。
 イングランドの北アメリカ植民を中心的に担ったのは、有名な巡礼始祖(ピルグリム・ファーザーズ)に象徴されるようなピューリタンであった。かれらは清教徒革命以前のステュアート朝の下では抑圧されたため、アメリカ大陸への移住は一種の政治亡命を意味した。ただ、アメリカへの移住動機は決してそうした宗教的・政治的なものばかりでなく、むしろ経済的なものが多分にしてあったようである。
 いずれにせよ、北東部のプリマス、マサチューセッツを中心とするいわゆるニューイングランドがイングランドの北アメリカ植民の最初の拠点となり、ここで育まれたピューリタニズムと当初の厳格で排他的な宗教統治は今日のアメリカ社会にも引き継がれる強い宗教的心情の基層を成すものと言える。
 その後、カトリック系のメリーランドや新教一派フレンド教会系のペンシルヴェニアなどの特殊な植民地も加わったほか、前節でも触れたように17世紀後半にはオランダ植民地ニューネーデルラントを併合している。こうして、1732年の南部ジョージア植民地の建設をもって、最初期の13植民地が出揃う。
 なお、国王から特許状を得た植民専門会社・ロンドン会社によっていち早くステュアート朝最初期の1607年に建設されていた南東部のヴァージニア植民地は、17世紀末に王立アフリカ会社が設立され、奴隷貿易が盛んになると、アフリカから「輸入」された奴隷を使役したタバコなどの大農場(プランテーション)経営の中心地となった。これがその後、今日に至るまでアメリカ社会に禍根を残す人種問題の淵源となった黒人奴隷制の発端である。

(2)アメリカ合衆国の成立
 北アメリカの英国植民地は、如上のような事情からして当初は高度の自治権が保障されていた。経済的にも本国の産業・貿易を保護するための重商主義政策はゆるやかにしか施行されていなかった。
 ところが、七年戦争はこうした状況を一変させた。強大化した「重商主義帝国」は北アメリカ植民地に対する統制強化に乗り出す。それはとりわけ植民地に対する課税強化に現れた。
 これに対し、本国議会に代表を送っていなかった植民地側は、「代表なくして課税なし」の命題を掲げて抵抗し、課税法を次々と廃止に追い込んでいった。しかし、茶税の廃止だけは本国政府が強く抵抗した。
 本国政府が茶税にこだわったのは、当時本国で中国茶の需要が急速に伸び、英国側はその代金を銀で支払う入超貿易に陥っていたことによるが、一方で東インド会社がアメリカへ輸出する場合の茶税については免除する露骨な優遇措置を講じた。このような植民地自治の危機に際し、先住民との紛争を抱えていたジョージアを除く東部12植民地代表はフィラデルフィアで第一回大陸会議を開催し(1774)、団結して本国との通商を断絶した。戦争は不可避であった。
 こうしてアメリカ独立戦争は1775年、レキシントンとコンコードでの武力衝突に始まり、翌年ジョージアも加わった第二回大陸会議の結果としての独立宣言、そして1781年ヨークタウンでの米仏連合軍側勝利を経て、1783年のパリ講和会議における独立承認をもって終わる。
 英国がアメリカ独立承認に追い込まれたのは、大陸軍に敗れたこと以上に、失地回復を狙うフランスがアメリカ独立を支持して参戦してきたことが大きい。英国としては大陸と連合したフランスと再び交戦するよりも、先にフランスから獲得したカナダは押さえたうえでアメリカの独立を認めたほうが得策だったわけである。
 しかし、経済的に見ると、カナダを除いて北アメリカという最大の植民地を喪失したことは英国にとって打撃であって、中国茶の銀払いの負担はいよいよ重くなった。このことが英国をして改めてインドの重要性を認識させることとなり、茶の支払いにインド産アヘンを充てるという奇策に結びつき、ひいては清とのアヘン戦争の遠因ともなったのだった。
 いずれにせよ、英国は従来の重商主義的植民帝国の見直しに取り組まなければならなくなり、ここで新たにインドを軸に、しかも自由貿易への転換が図られる契機となるのであるが、それはさしあたりもう少し先のことになる。

(3)アメリカ独立=革命の意義
 アメリカ合衆国の誕生を本国英国からの独立戦争を通じた「革命」としてとらえたときには、この独立=革命の性格はブルジョワ革命というよりも立憲共和革命であった。その結果誕生したアメリカ合衆国という体制は、いくつかの点で全く新しい構制を備えていた。
 第一は、成文憲法の存在である。国家の基本的なあり方を定めた法文書としてはすでに英国の「マグナカルタ」や「権利章典」が先行していたが、より明確に国家の基本構制を定めた法文書としてまとめられた合衆国憲法(1788)は立憲主義という新しい政治思想潮流のエポックをなす「作品」―今日までほぼその原形を保っている―であった。
 ただ、当初の合衆国憲法には基本的人権に関する条項が欠如していたため、1791年に修正条項が追加されたが、この部分は後行のフランス革命の産物である「人権宣言」よりも若干遅れての制定であった。
 第二は、連邦共和制という政体である。元来アメリカの各植民地は別個独立に形成されていったため、各々が独立の小国家に近い存在であったところ、英国からの独立戦争の過程で中央政府を樹立する機運が生じ、最終的に合衆国憲法では権限を制約された連邦と司法権を含む高度の自治権を保障された州の二元構制が定められた。このような微妙さが成文憲法を必要としたのである。それはまた、連邦政府の権限のあり方をめぐる論争が今日でも絶えないゆえんでもあろう。
 一方、連邦政府を選挙された大統領が指導するというのも新しい点であり、類似の状況で16世紀末にスペインから独立したネーデルラント連邦共和国(オランダ)のように、世襲の統領を戴き、最終的には君主制へ逆行してしまったのとは大きく異なっている。
 第三は国民国家という政治的枠組みである。これは憲法制定に先立つ「独立宣言」の中でうたわれているように、共に天賦人権を享有する平等なる国民によって構成される国家という定理として、立憲主義と並んでやがて世界的なモードとなっていった。
 ただし、初期のアメリカ国民国家においては、アメリカ先住民と黒人奴隷、広く言えば非白人は排除されていた。このことは、憲法に続いて1790年に制定された帰化法上帰化可能な者、すなわちアメリカ国民たり得る条件を「自由白人(フリー・ホワイト)」に限ったことで明確にされた。
 その結果、アメリカ南部の黒人奴隷制は19世紀半ばすぎのリンカーン大統領による奴隷解放宣言まで持ち越された一方、アメリカ民主主義の完成者としてジャクソニアン・デモクラシーの名で知られるジャクソン大統領が導入したインディアン強制移住法(1830)に基づく実質的な先住民絶滅政策は20世紀初頭まで存続した。連邦公民権法によって人種平等が法的に確認されるのは、その制定に取り組んだケネディ大統領が暗殺された後の1964年のことであった。
 今日の国民国家は、アメリカを含めてもはや人種差別を前提としないが、その代わりに少数民族や外国人・移民への差別・迫害といった形でなお「排除の論理」を内包させていることは、初期アメリカの人種主義的国民国家の歴史とも決して無縁ではない。

2012年8月 5日 (日)

老子超解:第六章 物質としての道

六 物質としての道

すぐれた徳を擁する人のありさまは、ただ道に従うことである。道も一つの物質であるが、ぼんやりとしてとらえどころがない。ぼんやりとしてとらえどころがない中に、物質が存在するのだ。とらえどころがなくぼんやりとしているが、その中に象[かたち]がある。奥深くほのかな中に精髄があるのだ。その精髄は極めて純粋であって、その中に信[まこと]がある。
古来、(道という)その名が消えてしまったことはなく、万物の始まりを統べているのだ。私は何によって万物の始まりが確かにそうだと知るのか。(繰り返せば)これ(道)によってである。


 通行本では第二十一章に当たる本章では、の物質性がかなり明確に述べられている。このことから、またしてもを西洋形而上学の「ロゴス」に置き換えることはできないことがはっきりするであろう。「ロゴス」は究極において言語=名に集約されるからである。
 
後段冒頭で言われているように、という不滅の名を通じて認識されるのではあるが、再三述べられていたように、老子にとってとは仮の名にすぎないのであった(だからこそ、老子はあえて「その」「これ」といった指示詞で言い表す)。
 そうした意味で、老子のはロゴス的「真理」ではない。本章前段末尾にあるように、の精髄は「真」ならぬ「信」なのである。
 ここには、やや唯心的ないし宗教的な響きが感じられる。実際、の物質性は通常、唯物論においてイメージされるような明確な形を伴ったモノではなくして、本章で老子にしてはやや多弁に語られているように、ぼんやりとしてとらえどころのない「象」としての奥深くほのかな「物」なのである。
 このようにいささか神秘的な「物象」のイメージが、ポスト近代としての現代に至って、従来の唯物論的物理学に反発するニューサイエンスの思潮に刺激を与えることになったことは理解できる。
 たしかにの物質性は肉眼で見えるモノではなく、素粒子のような微細な物質をイメージさせるので、量子力学を中心とする現代物理学に何らかのインスピレーションを与える可能性はある。しかし、二千年以上も前の老子を現代物理学に結びつけようとするのは、もちろん時代錯誤の越権である。
 むしろ、万物の根源としての物質という把握からは、を古代ギリシャの自然哲学に現れる概念「アルケー」に擬することができるかもしれない。ただし、「アルケー」もギリシャ的思惟においてやはりロゴスの論理的な必然性によって推測された根源と理解される点では、ロゴスの圏域にあるのであり、老子のとは異質的である。
 なお、前段冒頭の一文は、老子における「徳」のありようが、いわゆる「道徳」ではなく、「体得」に近いものであることが先取り的に述べられている点で重要であるが、文脈上やや取ってつけた観もあり、後世の加筆であるかもしれない。

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