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2012年7月

2012年7月31日 (火)

天皇の誕生(連載第27回)

第七章 「昆支朝」の継承と発展

『記紀』では、「昆支朝」の成立を完全に秘匿したうえ、開祖・昆支大王から三代の大王の分身像を多数設定して架空の天皇系譜を作出している。しかし、およそ90年にわたった「昆支朝」三代の時代こそ、畿内王権が全土的「朝廷」へ発展する土台が固まった大時代であった。では、昆支大王が開いた「昆支朝」は実際のところ、どのように継承発展せられていったのだろうか。

(1)男弟大王への継承

「応神」から「継体」へ
 『記紀』によると、第15代応神天皇の後継者はあの日本最大級の古墳、宮内庁治定仁徳天皇陵(大仙陵古墳)で知られる第16代仁徳天皇である。しかし、仁徳に関してはかねてより架空説も強い。実際のところ、応神天皇=昆支大王の後継者とは誰だったのだろうか。
 そのヒントは例の隅田八幡神社所蔵人物画像鏡銘文中にある。先に、この鏡は「日十大王」=昆支大王在世中の503年に、百済の斯馬王(武寧王)が倭の「男弟王」に献呈したものと示しておいたが、ここで改めて銘文全文を読解してみよう。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

 鏡の贈り先「男弟王」が誰を指すかについては、異論もあるが、諱を男大迹(おほど)といった第26代継体天皇を指すものと考えてよかろう。そうすると、銘文の意味は次のようにとることができる。

癸未年八月、日十(昆支)大王の治世中、男弟王が意柴沙加宮に在る時、斯麻は男弟王の長寿を念じて、開中費直と穢人今州利の二人を遣わし、白い上質の銅二百旱を使い、この鏡を作らせたものである。

 ちなみに、斯麻王から鏡作りを仰せつかった二人の官人と見られる人物の読みは難しいが、はじめの「開中費直」は「河内直」と考えられる。河内直は、前述したように、昆支大王の支持基盤であった河内閥の実力者で河内地方の百済系豪族であるが、河内直は百済との外交も担っていたらしく、後代の欽明紀にも一種の外交官として登場する。二人目の「穢人今州利」とは、高句麗に併合された東ワイ出自の百済系官人であろう。
 銘文を上述のように読解した場合、男弟王=継体天皇は昆支大王=応神天皇の直接の継承者と解してよいことになる。なぜなら、『書紀』によれば第26代継体天皇は一代前の第25代武烈天皇が506年に死去したことを受けて507年に即位したとされているが、銘文によれば即位の4年前の503年はまだ「昆支大王年」であり、昆支大王は在位していたことが確認できるからである。
 もっとも、銘文は昆支大王と男弟王の続柄にも男弟王の身分にも触れていないので、断定はできないが、在位中の百済王が高級鏡を贈った相手が一介の王族にすぎないとは考えにくいので、男弟王は503年当時、昆支大王の後継者たる太子だったと推定することは不合理でない。そうすると、継体天皇は即位前、男弟王と呼ばれており、506年の父・昆支大王の死を受けて、507年に即位して「男弟大王」を称したと考えられるのである。
 なお、前出の石渡信一郎氏は男弟王を昆支の実弟と結論づけているが、昆支の弟の渡来はどの史書にも見えず、立証は困難なように思われる。
 ところで、『書紀』は継体天皇即位の経緯について、先帝で暴君であった武烈天皇に子がなかったことから、重臣らははじめ第14代仲哀天皇の五世孫に当たる人を天皇に立てようとしたが、この人を迎えに行ったところ逃亡し行方不明になってしまったため、当時越前三国に在住していた応神天皇の五世孫に当たる男大迹王(男弟王)に白羽の矢を立て、強く固辞されたのを三顧の礼をもってようやく天皇に迎えたと記している。
 このように、継体が先帝武烈の直系ではなく、応神の五世孫というならば、『書紀』の叙述によっても継体は実質的な新王朝開祖とみなしてよいことになる。しかし『書紀』は応神から継体までの系図を何ら示していないのである。そうしたことから、継体天皇とは越前・近江方面から侵攻してきた王位簒奪者ではないかとする見解もかねてより有力である。
 もっとも、鎌倉時代に出た『書紀』の注釈書『釈日本紀』に引用された7世紀代の聖徳太子の伝記『上宮記』逸文中に、凡牟都和希王(応神)の皇子とされる若野毛二俣王に始まり、乎富等大公王(継体)に至る系図が見えることから、これが「五世孫」の根拠だとも反論されている。
 しかし、応神と継体の間が五世代も開いてしまうのは、前にも指摘したとおり、『書紀』が応神(昆支大王)の実年代を200年近くも遡及させる作為を加えたためであるから、このような作為を除去してとらえ直してみれば、応神→継体は直接の父子関係であると考えて何ら不自然さはなく、男弟大王は無事に父・昆支大王から倭(畿内王権)の大王位を継承したと考えられるのである。そうすると、『上宮記』という逸失書物上の系図も、事後的に造作されたものと理解すべきであろう。
 ただ、『書紀』がなぜ継体天皇を実質的な新王朝開祖として提示し、種々の荒唐無稽なサディスト的残虐行為のエピソードで暗黒化された架空の先帝「武烈」と対比しつつ、継体を徳の高い名君として描いているのかということは、継体天皇=男弟天皇の母は誰かという問いと関連してくる。

男弟大王の母
 実際、継体天皇=男弟大王の母とは誰なのであろうか。この点『書紀』によると、継体の母は振媛[ふるひめ]といい、美女であるとの評判を聞き、継体の父・彦主人王[ひこうしのおおきみ]が近江国三尾の別邸から越前三国に使いを出して妃として迎え入れたとされる。
 しかし、振媛は『書紀』が造作した系図上の“母”であるから、本当の母は別に捜さなければならない。その際、案外ヒントを与えてくれるのが、先の『上宮記』逸文中の造作された系図なのである。
 もう一度振り返ると、凡牟都和希王(応神)の子に若野毛二俣王という人物が見え、この系統から継体が出たことになっている。この若野毛二俣王(『記』では稚野毛二派皇子)の母は『書紀』の応神紀では河派仲彦[かわまたなかつひこ]の娘・弟姫[おとひめ]というが、『記』では、咋俣長日子王[くいまたながひこのみこ]の娘・息長真若中比売[おきながまわかなかつひめ]となっている。そして、この咋俣長日子の父は、倭建命[やまとたけるのみこと]が一女性(氏名不詳)をめとって生んだ息長田別王[おきながたわけのみこ]であるという。
 有名なヤマトタケルは全く伝説中の英雄にすぎないから、この系図から最小限受け取れることは、要するに応神=昆支大王は近江の湖東地域を本貫とした豪族・息長氏の娘を妃としたということである。
 さて、そうすると、ここで思い浮かぶのは、応神天皇の母とされてきた息長帯比売=神功皇后のことである。当然ながら、百済で生まれ育った応神=昆支大王の母が息長氏の出であるはずがない。
 しかも、息長帯比売とは「息長のタラシヒメ(=息女)」といった意味の一般名詞にすぎず、彼女の父とされる息長宿禰王も「息長」という氏に「宿禰王」という姓・称号が冠されているだけで、名前が見えない。父娘で名無しなのである。
 結局のところ、こうしたことが示唆しているのは、「神功皇后」とは、昆支大王を「応神天皇」として天皇系譜に組み入れるための系図上のつなぎ役として、父とされる「仲哀天皇」とともに作出された架空人物であったということである。
 真相は、昆支大王は倭に渡来後、息長氏の息女・息長真若中比売を妃として男弟王を生んだということである。よって、男弟大王の母とはこの息長真若中比売にほかならない。
 このことから、男弟大王=継体天皇が近江と深い関わりを持ち、自らも母方の息長系を含む4人もの妃を近江から召し入れた理由の一端が明かされるし、先に人物画像鏡銘文で即位前の男弟王が「意柴沙加宮(おしさかのみや)」にいたという理由も解ける。
 この意柴沙加宮(忍坂宮、押坂宮)とは、現在の奈良県桜井市忍坂[おさか]にあった宮と見られるが、昆支大王在位中から息長氏の畿内における拠点となっていたようであり、7世紀になっても男弟大王の曾孫に当たる押坂彦人大兄皇子[おしさかのひこひとのおおえのみこ]の名や、その子で息長足日広額天皇[おきながたらしひひろぬかのすめらみこと]の和風諡号を持つ第34代舒明天皇の押坂内陵[おさかのうちのみささぎ]といった陵墓名にも冠されている。
 ただ、昆支大王がなぜ妃をめとるほど息長氏と深い結びつきを持つようになったのかはよくわからない。そもそも息長氏の素性もよくわからないが、「息長(または気長)」という氏族名は、琵琶湖や琵琶湖水系を拠点とする海人(水軍)勢力から出発したことを示しているように見える。
 息長氏の墓所と見られる湖東の息長古墳群は決して大規模ではないが、ともかく昆支大王の姻族となって以来、息長氏は有力な皇親として家格が上昇し、遠く天武天皇代の「八色の姓」の制度上も最高位の「真人」を授姓されている。
 実際、いわゆる「大化の改新」により、先の押坂彦人大兄皇子の孫になる孝徳天皇が皇位に就いて以降、その系統内部での若干の入れ替わりはあれ、今日に至るまで「息長系」と呼んでもよい皇統が続いており、当然『書紀』が編纂された奈良朝の諸天皇もこの系統であったから、「息長系」という視点で見た場合の開祖が息長氏の母から生まれた男弟大王=継体天皇であるとの考えに立って、『書紀』は継体を特に取り出して実質的な新王朝開祖たる名君として提示したのではないかと考えられるのである。
 もちろん、そのようにして継体と応神を世代的に引き離すことによって、応神の正体が実は百済王子・昆支であったことを秘匿する一石二鳥の効果も狙われたであろう。

武寧王の先行投資
 では、ここでもう一つの問題、百済の武寧王(斯麻王)はなぜ昆支大王の頭越しに太子時代の男弟王に鏡を贈呈したのだろうかということを考えてみよう。この問いを解くには、まず武寧王と昆支大王の続柄を検討してみる必要がある。
 この点、朝鮮側史料の『三国史記』によると、武寧王は東城王の子で、501年の東城王暗殺を受けて即位したとされる。これによれば、武寧王は昆支大王の孫に当たることになる。
 しかし、1971年に武寧王陵と判明した韓国の忠清南道公州で発見された古墳から出土した買地券に、「斯麻王は癸卯年(523年)に六十三歳で崩御した」という記述がある。これによると、武寧王の生年は数え年で言えば462年になる。
 ところが、昆支は461年に来倭した時にすでに5人の子があったというから、早婚だった古代とはいえ、5人の子持ちならば、どんなに若くとも25歳から30歳ぐらいには達していたと思われるので、昆支の生年代は430年代前半頃になる。そうすると、462年生まれの武寧王とはだいたい親子の年齢差であって、祖父と孫とは考えにくい。
 実は『書紀』には、この武寧王の出生について、一見突拍子もない説明がある。それによると、昆支の兄・蓋鹵王は昆支を送り出す時、妊娠中の側室を弟に与え、「もし女が途中で出産したら、母子同船で国に送り返すように」と命じた。女は果たして、筑紫の各羅島[かからのしま]で出産したので、この子を嶋君[しまきし]といい、兄の命令どうりに母子を送り返した。これが武寧王であるというのである。この説明によると、武寧王は昆支の兄の子であり、昆支から見ると甥に当たることになる。
 この記事は、武寧王の諱(もしくは通称)が斯麻であることの説明をつけるためのこじつけと思われ、信用し難い。ただ、兄の蓋鹵王が側室の一人を与え、昆支との間に斯麻王が生まれたと修正すれば、斯麻王=武寧王とは昆支の子であり、ある程度長じてから祖国へ送り返されたと考えることもできる。ただその場合、子を送り返す理由が不明確になる。蓋鹵王としては女が妊娠中の子が自分の子であるからこそ、もし無事出産したら送り返すように命じたであろうからである。
 そうすると、先ほどの記事を全面的に修正して、元来武寧王は側室を母としてやや遅く生まれた蓋鹵王の子であって、側室を弟に与えた云々は物語性を高めるための興味本位な作話に過ぎないと考えてみるとすっきりするように思われる。
 このように、武寧王を蓋鹵王の子とおいてみると、彼は倭の男弟王とは従兄弟同士の関係ということになるので、例の鏡は王位に就いて間もない武寧王が従弟の男弟王に贈呈したものと解釈できる。
 それにしても、叔父の昆支大王をさしおいて、その太子で従弟の男弟王への贈り物をした武寧王の意図は何であったのだろうか。
 一つには、503年当時、おそらく70歳前後に達し、老境に入っていた叔父の昆支大王の間近い死を見越して、時期倭王の太子・男弟王に先行投資の意味でプレゼントしておいたということが考えられよう。
 しかし、それだけでなく、この時期、昆支大王と武寧王とは微妙な緊張関係にあったように見え、そのことが昆支大王の頭越しの先行投資の強い動機となったのではないだろうか。
 それは武寧王即位の特殊な状況と関わっている。前述したように、昆支大王の息子・東城王は501年に暗殺される。『三国史記』によると、東城王は狩猟中、大雪に遭って宿っていたところへ、王に恨みを抱く高官が差し向けた刺客によって暗殺されたという。
 同書ではそれだけの話であるが、『書紀』では逸失した『百済新撰』を引用する形で、末多王(東城王)が無道を行い、民を苦しめたため、国人は王を捨てて嶋王(武寧王)を立てたという注記を載せている。
 先述したように、東城王は熊津亡命政権を立て直し、王権を強化して百済中興の基礎を作った英主であったが、専制君主でもあったため、晩年には暴君化し、一種の革命により殺害されたとも考えられる。すると、どうしてもこの「革命」の背後に武寧王の関与が疑われてくる。武寧王が蓋鹵王の子だとすれば、彼は東城王の従兄であり、本来王位継承権があるとは思われないから、なおのこと陰謀が想定される。少なくとも、東城王の父・昆支大王の目にはそう映ったであろうことは想像に難くなく、そのために武寧王政権との関係が緊張したのではないだろうか。
 そういうことから、武寧王としても次期倭王の従弟・男弟王には関係改善の期待を大いに抱いており、そのことが鏡の贈呈に込められていると考えられるのである。
 実は、先の鏡はいつどこで出土したのか判明していないというから、倭王権側で正式に受領し、厳重に保管された秘宝ではなかったようである。とすると、これは私的な贈答品として男弟王自身または他の何者かによってどこかで私的に秘蔵されていたということかもしれない。もっとも、現在それが応神=昆支大王を祀る八幡神社に所蔵されているという事実はそれなりに意味深長ではある。

2012年7月24日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第44回)

第7章 略

一 英国の台頭(続き)

(3)革命の17世紀〈2〉
 復活したステュアート朝(後期ステュアート朝)は、革命前のステュアート朝とは異なる性格のものとなった。まだ立憲君主制は確立されていなかったが、王権はもはや専制的ではあり得なかった。この場合、チャールズ2世が政務より建築や学術、そして女性のほうに関心が高かったことも幸いした。
 オランダとの関係では、チャールズ2世治下の1664年、北アメリカのオランダ植民地を占領したことをきっかけとして第二次英蘭戦争(1665‐67)が勃発するが、イングランドはまたも勝利し、ブレダ条約でニューアムステルダムはイングランド領ニューヨークとなった。
 三度目の英蘭戦争(1672‐74)は、統領が一時空位となったオランダの内紛に乗じ、オランダ侵略の意図を持つルイ14世からの資金援助を期待したチャールズが密約によりルイ14世と結託したことをきっかけに勃発した。しかし、民衆の革命で復活した統領に就いたウィレム3世一派の抵抗により結局、撤退した。
 この戦争の過程で、チャールズのカトリック復活策動と王弟ジェームズの明白なローマ・カトリック主義が露見し、新たな政争の種となった。議会はカトリック教徒を公職から排除する審査法(1673)を制定して対抗する中、カトリック派が国家転覆を企てているとの風説が流布されて国内の反カトリック感情が高まり、無実のカトリック教徒らが処刑される事態も起きた(1678‐81)。
 チャールズ2世に婚内子がなくカトリックの王弟ジェームズの王位継承の公算が高まると、ジェームズの王位継承を阻止する排除法案をめぐって、これを推進するホイッグと反対するトーリーの二大党派が生じ、後の自由党・保守党二大政党政治の原型となる。
 しかし、結局、兄の死後、ジェームズ2世が王位に就く。彼はチャールズ2世の婚外子モンマス公による反乱を鎮圧して権力を固めると、カトリック反動政治に乗り出し、カトリック教徒の復権を狙う「信仰自由宣言」を発した。すでに50歳を超えていたジェームズに待望の王子が生まれると、カトリック王朝復活を懸念した議会は一致してジェームズの追放と彼の甥に当たり、娘メアリーの夫でもあったオランダ統領オラニエ公ウィレムの招聘を決めた(1688)。その結果、ジェームズはフランスへ亡命し、ウィレムがウィリアム3世として妻のメアリーとともに共同国王として即位する(1689)。
 この政変はその40年前の革命とは異なり、無血のうちに終わったため「名誉革命」と呼ばれるが、その実態は革命というより議会勢力によるクーデターであった。しかし、この時にウィリアムとメアリーは国王権力を法的に制限するために議会が提出した「権利の宣言」を承認し、「権利章典」として発布したことから、ここに立憲君主制の礎石が置かれた。同時に、オランダ人がイングランド国王に推戴されたことで、オランダとの関係は連合に転ずる。
 一方、追放されたジェームズを支持する勢力(ジャコバイト)は復権を画策し、ジェームズ自身や彼の子、孫を擁してたびたび反乱を起こすが成功せず、孫チャールズ・エドワード・ステュアートによる反乱(1745‐46)が鎮圧されたのを最後に消滅に向かった。

(4)スペイン継承戦争と七年戦争
 イングランドが覇権国家として浮上するうえでは、17世紀を通じて斜陽のスペインに代わってカトリック派の大国として台頭し、北アメリカにも植民地を拡大していたブルボン朝フランスとの対決が避けられなかった。
 結論からいけば、スコットランド系のステュアート朝下ですでに同君連合を結んでいたスコットランドと1707年には正式に合併して大ブリテン王国となった英国は、18世紀の二つの大戦を通じてフランスに打ち勝つ。
 その最初の戦勝は、名誉革命で王位に就いたウィリアム3世治世末期の1701年に始まるスペイン継承戦争であった。その前哨戦として、フランスによるプファルツ選帝侯領侵攻をきっかけとするアウグスブルク同盟戦争への参戦があったが、これは勝敗不明のまま講和していた。
 スペイン継承戦争は、ハプスブルグ朝スペインが1700年に断絶したため、フランスのルイ14世が孫のフィリップをフェリペ5世としてスペイン王位に就けてフランスとスペインの合同(実質的な吸収合併)を狙ったことに端を発し、イングランド・オーストリア・オランダとスペイン・フランスの間で戦われた大戦であった。この戦争は12年にわたって続いたが、英国の抜け駆け的な秘密交渉の末、1713年のユトレヒト条約をもって終結した。その結果、フェリペ5世の王位は承認されたが、フランス・スペインの合同は承認されなかった。
 戦後、英国はスペインから西地中海のジブラルタル、ミノルカ島を獲得、フランスからはハドソン湾、ノヴァスコシア、ニューファンドランドなどカナダの一部を獲得した。これらの新領土自体はそう広大なものではなかったが、西地中海から大西洋をまたいでカナダをつなぐ領域へ進出した点で重要なステップとなった。
 一方、オランダはと言えば、オランダ統領を兼ねるウィリアム3世が指揮したアウグスブルク同盟戦争以来、長期にわたる対仏戦争が小国の財政を圧迫していたことに加え、17世紀後半以降、オランダがアジアで独占していた香料がヨーロッパであまり売れなくなり、代わってインド綿織物が重要な輸入品となったことから、かねてインドに進出していた英国の後塵を拝するようになっていく。
 英国ではユトレヒト条約締結の翌年1714年にステュアート朝最後のアン女王が世子なく没したため、ステュアート朝初代ジェームズ1世の血を引くドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが招聘され、英国王ジョージ1世として即位、ここにハノーヴァー朝が開かれた。以後の英国は、このドイツ人王朝の下で内閣が議会に責任を負う議院内閣制の仕組みが整備され、その上に大英帝国が発展していくことになる。
 この新たなハノーヴァー朝の下で、英国は1756年から七年戦争を戦う。この戦争はこれに先立ちマリア・テレジアのオーストリア王位継承をめぐってフランス・プロイセンが発動したオーストリア継承戦争(1740‐48)の続戦に当たるもので、英国は前の戦争ではオーストリア側についたが、今度の戦争ではオーストリアが長年の宿敵フランスと同盟する奇策に出たことから、プロイセン支持に回った。
 しかし、英国の真の狙いはここでもフランスとの対決にあった。この頃、英仏の間ではカナダを含む北アメリカやインドでの植民地をめぐる紛争が激化しており、七年戦争の半分は英仏戦争と言ってよいものであった。前章で見たプラッシーの戦いも東インド会社を介した英仏戦争の一環ととらえることができる。
 結果は、英国の勝利であった。1763年のパリ条約で英国はフランスからカナダのほか、ミシシッピ河以東のルイジアナを獲得、ミシシッピ河以西のルイジアナもスペインに割譲させられたフランスは、さしあたり北アメリカにおける全植民地を喪失したのだった。
 これによって、―スペインから領土交換の形でフロリダも獲得した―英国は西インド諸島から北アメリカにまたがって広大な植民地を保有する帝国となった。英国が真の意味で「帝国」―この時期の「帝国」は重商主義的な国策の下にあったため、「重商主義帝国」とも呼ばれる―となったのは、この時である。しかしそれも束の間、北アメリカ植民地が独立の動きを見せ始める。

2012年7月23日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第43回)

第7章 大英帝国の覇権

〈序説〉
 ヨーロッパの巻き返しが一段落して「近代」に入ると、それは横暴な「帝国主義」の形を取り始めた。その主要な担い手も南ヨーロッパから北ヨーロッパに移り、わけても英国が台頭してくる。
 いったいなぜあの一見平凡な形をした北ヨーロッパの島国が、かのローマ帝国もかなわぬ最大時地球面積の五分の一を覆う大帝国に膨張したのであろうか。これは簡単に答えの出せない歴史上の難問であるが、16世紀頃にようやく立ち現れた資本主義という新たな社会経済システムをいち早く熟成させた国内的環境とともに、それを世界の隅々にまで押し付けるだけの軍事力とを併せ持っていたのが英国であったということは言えよう。
 そして大英帝国へ向けての力強い助走を開始した16世紀後半と大英帝国の全盛期を作った19世紀後半は、それぞれエリザベス1世とヴィクトリアという性格の異なる二人の女王の長期治世であったということも、一つの顕著な特徴である。英国を象徴するブリタニア女神像が兜を被り、盾と三叉の矛を構えた女性戦士の形象で表現されたのも決して偶然ではない。
 本章では、おおむねエリザベス朝期から始まり、ヴィクトリア朝期を越えて第一次世界大戦後に至るまで、すなわち誕生前夜から晩年に及ぶ大英帝国の長大なプロフィールをベースとしながら、その間の世界歴史を鳥瞰していく。

一 英国の台頭

(1)先行者オランダ共和国
 大英帝国にはその手本となったオランダ共和国という先行者があった。ヨーロッパの海外膨張の重心をポルトガル・スペインの手から奪ってフランス・英国へ手渡すつなぎ役を果たしたのはオランダであったと言ってよい。オランダがそのような役割を果たすことになったのは、まさにスペインからの独立によって誕生したのがオランダであったからである。
 スペインは1580年にはアヴィシュ朝が断絶したライバルのポルトガルをも併合し、「その領土に太陽の沈む場所はない」と豪語する大国となった。しかしまさにその翌年の1581年、スペイン領ネーデルラント(オランダ)のうち新教カルヴァン派の多かった北部七州がネーデルラント連邦共和国として独立を宣言したのである。1568年から始まっていた独立戦争はまだ終結していなかったが、1609年には停戦が成立し、30年戦争後のウェストファリア条約で正式にネーデルラントの独立が承認された。
 この独特の国は独立運動指導者オラニエ公を統領としてレヘントと呼ばれるアムステルダムを中心とする都市商人貴族層が政治を動かす連邦共和制国家として出発し、中央権力の弱さを特徴とした。東インド会社の設立は英国より二年遅れであったが、オランダ東インド会社は政府の統制を受けることなく、他の追随を許さぬ圧倒的な資本力でアジアやアメリカ、アフリカへも進出し、植民地を築いた。
 特にアジアでは香料生産地を抱えるインドネシアを押さえてジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点とし、1623年にはモルッカ諸島アンボイナ島にあった英国商館員を処刑したいわゆるアンボイナ事件を機に英国人をインドネシア方面から放逐した。また対日貿易でも江戸幕府に巧みに取り入っていち早く平戸に商館を建てる権利を獲得し、遅れて参入してきた英国を退けて1623年には日本撤退に追い込み、やがて「鎖国」下での対日貿易を独占する。
 オランダは北アメリカでも北東部のニューアムステルダム(現ニューヨーク)を中心とする植民地ニューネーデルラントを建設した。アフリカでは南端にケープ植民地を建設し、ここに土着したオランダ人(ブール人)は本国からも独立して今日の南アフリカ共和国の建設者となった。
 16世紀のエリザベス朝イングランドは反カトリックの立場からカルヴァン派の多かったオランダのカトリック大国スペインからの独立を支援したのであるが、17世紀のイングランドはオランダの後を追いかけ貿易利権をめぐって抗争するライバルとなっていた。

(2)革命の17世紀〈1〉
 イングランドが大英帝国へ向けての助走を開始したのは、先述したように16世紀後半のエリザベス朝時代であった。1588年、スペインの誇る無敵艦隊を破ったことは、その出発の合図となった。そして1600年、オランダにも先駆けて東インド会社に特許状を与えたのも最晩年のエリザベス1世であった。
 スペインはネーデルラント独立戦争に膨大な国費を投じていたうえに、中南米の銀山が枯渇し始めたことも追い打ちとなって、17世紀には早くも斜陽化の道をたどり始めていた。
 一方、イングランドの17世紀は一世紀間に二度の革命を経験するという激動の世紀となったが、この世紀の社会変革がイングランドを次の世紀には世界帝国へ押し上げる環境整備をしてくれたのである。
 最初の革命は「清教徒革命」と呼ばれる文字どおりの流血革命であった。在位45年に及んだエリザベスが独身のまま世子なくして没した後、テューダー朝開祖ヘンリー7世の血を引くスコットランド国王ジェームズ6世が招聘されてジェームズ1世として開いたステュアート朝の初代ジェームズと2代チャールズ1世父子は王権神授説を信奉する専制君主であった。
 もっとも、前のテューダー朝も負けず劣らず専制的ではあったが、その専制は一定の国民的信頼に基づいていたのに対し(特にエリザベス朝)、外部招聘王朝であったステュアート朝は同様の信頼を欠いていた。そのことが王権を監視する議会制度の発達を促したのだった。
 ところがチャールズ1世は議会の意義を理解せず、議会無視・国教会密着の寵臣政治を展開した。結果、国王と議会はついに武力衝突し、内戦に突入した。この内戦は議会派の勝利に終わり、チャールズは処刑された(1649)。
 代わって政権を掌握したのは、新教系清教徒(ピューリタン)の議会指導者オリバー・クロムウェルであった。そのためにこの革命は宗教的側面から「清教徒革命」と呼ばれるが、社会経済的に見れば、当時の議会(庶民院)で勢力を伸ばしていたクロムウェルのような郷士=地主階級主体のブルジョワ革命であった。
 しかしクロムウェルが始めたイングランド史上初の共和制は民主主義には程遠く、内戦勝利の原動力となった議会派の「新型軍」を権力ベースとする軍事独裁であった。そうした強権体制の下、クロムウェルは「最初の英帝国主義者」と呼ぶに値する“実績”を残した。 彼はすでにエリザベス朝時代から植民が始まっていた隣島アイルランドを侵略・征服した(1649‐53)。このケルト系の島には当時統一政権はまだ存在せず、土着豪族の割拠状態であったが、プロテスタントのスコットランド人入植者が多かった北部アルスター地方(北アイルランド)を除くと、カトリックが優勢であったため、新たな支配者となったイングランドとの間には民族的・宗教的対立が深まり、これが近代におけるアイルランド独立運動―完全な独立はクロムウェルの侵攻からちょうど300年後の1949年であった―、さらに現代まで持ち越された北アイルランド問題の遠因となった。
 クロムウェルはさらにオランダの海上覇権に対抗すべく、自国海運業を保護する中世以来の航海法を改めて制定した(1651)。この法律はオランダに対する事実上の宣戦布告という象徴的な意味を持ったが、予想どおり始まった英蘭戦争(1652‐54)にイングランドは勝利する。この戦争は17世紀に三度にわたった対オランダ戦の最初のものとなった。続いて彼は先発ながらオランダに遅れを取っていた東インド会社の組織改革にも着手し、利益配当制を導入して営利企業性を強めた。
 クロムウェルはまた、スペインとの関係でも西インド諸島の領有権を争い、ジャマイカ島を占領した(1655)。これは小さな一歩のように見えるが、次の世紀には西インド諸島に砂糖プランテーションを中心とする植民拠点を構築するきっかけとなった。
 クロムウェルは1653年には終身護国卿に就き、カエサルよろしく終身独政権を手にしていたが、カエサルと違い、暗殺者ではなく病魔によって命を奪われた(1658)。
 後を継いだ息子リチャードは父の体制を維持するだけの意思も能力も持ち合わせていなかった。クーデターが起き、1660年に召集された議会はチャールズ1世の息子でフランス亡命中のチャールズ1世の息子チャールズ(2世)を呼び戻すことを決議、ここにステュアート朝が復活した。

2012年7月22日 (日)

老子超解:第五章 道の女性性

五 道の女性性

谷間の神髄は不滅である。このことを玄牝[げんぴん]という。
玄牝の門、これを天地の根という。連綿として存在するかのように、その働きはとどまることがない。


 通行本では第六章に当たる本章は、短いながら最も晦渋な章であるが、前章で提出された「玄」というキーワードに関わっていることは明らかである。まず冒頭で、女性性の暗喩である「谷間」のイメージで「玄」が言い表され、「玄牝」(玄なる女性性)なるヴァリアントが示される。
 本章ではへの直截的な言及はないが、後段で言われる「玄牝の門」とは女性器の暗喩であると同時に、前章で言われた「衆妙の門」の別言でもあり、従ってこれもの比喩と解釈できる。
 仮にに性があるとすれば、それは女性なのである。このことは、前にが母なる物質(大文字のMatter)としてとらえられていたことと符合している。
 このように、老子は女性性を称揚する。ここから二千年以上も前の老子を近代的なフェミニズムと結びつけることは時代錯誤的であるが、老子が同時代的にはむしろ主流であった女卑思想から遠いところにあったことは間違いない。
 このことは、当時の女卑的な思潮を代表する儒家とは好対照であるとともに、女性器を根源的なものとみなす点で、ジャック・デリダが摘示したように西洋哲学の根底に脈打つ「男根中心主義」とも対照的な老子の哲学の独異な特徴をなしている。
 このことからも、老子のは、デリダがその基底に「男根中心主義」をみてとった西洋形而上学の「ロゴス」と置き換えることはできない。ロゴス=論理は究極において言語=名―本質的に男性的なもの―に集約されていくが、はそうした言語=名で明示されるような何ものかではないのであった。

2012年7月17日 (火)

天皇の誕生(連載第26回)

第六章 「昆支朝」の成立

(5)昆支大王の宗教改革

崇神紀の祭祀記事
 昆支大王の事績の中でも永続性を保った最大級のものが、宗教改革であった。それを抽出する手がかりは崇神紀に埋め込まれている崇神6年から7年にかけての祭祀記事である。この記事はなかなか複雑で、分析も困難であるが、大筋として次のような二段に分かれる。
 まず崇神(=応神)の治世になり、疫病や百姓の流離・反逆などが相次いだことから、天照大神と倭大国魂神[ヤマトノオオクニタマノカミ]を天皇の御殿に祀ったが、両神の共存に不安があったので、両神を各々別の皇女に託して祀らせたところ、倭大国魂を祀った皇女は髪が抜け、体が痩せてよく祀れなかったという序曲で始まる。
 そこで、崇神は改めて自ら占うと、大物主神[オオモノヌシノカミ]が倭迹迹日百襲姫命に神がかりして、自分を祀れとのお告げがあったのでそのとおりにしたが、しるしはなかった。そのため天皇自ら斎戒沐浴して祈ると、夜の夢に大物主が現れ、「自分を我が子・大田田根子に祀らせればおさまるだろう」と告げられた。さらに三人の臣下の夢にも一人の貴人が現れて、「大田田根子を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市[いちしのながおち]を倭大国魂神を祀る祭主とすれば天下は平らぐだろう」とお告げがあったので、さっそく大田田根子を探し出し連れてきた。
 そして、物部連の祖・伊香色雄[いかがしこお]を神班物者[かみのものあかつひと](神への供物を分かつ人)に任じたうえで、お告げどおりに田田根子を大物主神を祀る祭主とし、長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすると、天下泰平になったという。
 このように「崇神」という諡号の由来ともなっている崇神=応神の敬虔ぶりは単なる神秘的なエピソードではなく、まさに昆支大王の「革命」とも言うべき宗教改革を暗示するものなのである。

三輪山出雲神道の成立
 上の記事に現れる宗教改革とは、要するにヤマト最大の霊山である三輪山周辺地域の宗教体系を強制的に改変したことを意味する。元来、三輪山周辺の伝統的な信仰はアマテラスに象徴されるような太陽信仰であったと考えられるが、昆支大王は当初、この伝統的な信仰に修正を加えて、アマテラスとヤマトノオオクニタマなる神の習合を図ろうとしたようである。これが先の「序曲」の部分である。
 このヤマトノオオクニタマは今日、やはり三輪山に近い大和[おおやまと]神社に祀られている。「倭」が冠されている神名からして土着的な神のようにも見えるが、元は単に「大国魂神」と言ったのであろう。そうだとすると、大国=意宇国であり、これも例の出雲東部の意宇王権系の神であったと考えられる。実際、『書紀』の神代紀では別伝を引用する形で出雲の大国主神の別名として「大国玉(魂)神」とある。
 しかし、伝統的な信仰と出雲神道の習合はうまくいかず、昆支は三輪山信仰そのものを改変する大胆な挙に出たものと思われる。それが大物主神の祭祀である。
 実は『書紀』別伝によると、この大物主神も大国主神の別名とされるが、『記』の本文ではいわゆる「国譲り」に先立って、次のような場面がある。
 大国主神が、共に天下を造った少彦名命[スクナビコナノミコト]が常世(不老長生の国)に去った後、出雲国の浜辺で「自分以外に天下を治められる者はいない」と豪語したところ、不思議な光が海を照らし、忽然と浮かんで「私があればこそお前は大きな国を造ることができたのだ」という声がした。この神が、大国主自身の「幸魂奇魂」[さきみたまくしみたま]というもので、「日本国の三諸山(三輪山)に住みたい」との願いに従い、宮を造って住まわせたのが大三輪の神であるという大神[おおみわ]神社の由来が語られている。
 要するに、大物主神も大国魂神も、大国主自体というよりも、大国主神の魂を取り出した「魂神」(みたまのかみ)であって、これが出雲神道を三輪山へ移植するうえでクッションのような役割を果たしていることがわかる。
 現に大物主神を祀る大神[おおみわ]神社には大物主大神とは別個に大己貴[オオナムチ]大神(=大国主神)が合祀され、倭大国魂神を祀る大和神社でもやはり大国主神の別名である八千矛[やちほこ]大神を別途合祀しているのである。
 一方で、アマテラスはと言えば、三輪山周辺では影が薄く、わずかに大神神社の摂社としてアマテラスを祀る桧原神社が目に付く程度であり、脇に追いやられている。皇祖神=天照大神が明確に打ち出されるのは、時代下って7世紀も末のことと考えられるのである。
 こうして、昆支大王の宗教改革の狙いとは、ヤマト土着信仰の聖山であった三輪山に出雲神道を移植し、強制するということであったのである。

宗教改革の背景
 こうして、王権主導で信仰体系を改変してしまうというまるでアメン神信仰をアテン神信仰に転換した古代エジプトのアメンホテプ4世(アクエンアテン)ばりの宗教改革が断行されたのは、旧加耶系王権を支えていた三輪山周辺の在地勢力への支配統制を強めるためと考えられる。
 かれらは一応昆支の新体制に帰順はしたものの、政権中枢からは排除され、不満分子としてくすぶっており、そのことが王権の不安定化要素となっていたと考えられる。崇神紀が宗教改革の要因として、「百姓の流離・反逆」に触れていることもその暗示と読める。
 その一方で、宗教改革の過程では後の物部氏となる例のニギハヤヒ派が一役買ったようであり、その功績で一族の伊香色雄が枢要な神殿の神官職に任ぜられたものと見られる。このように物部氏が神官職として台頭したということは、同氏の立氏過程を知るうえで重要な手がかりであり、「物部」という氏族名も伊香色雄が就いた「神班物者」にちなんで、この時に下賜されたものなのかもしれない。
 ところで、昆支の宗教改革がイクナートンのそれと異なるのは、後者の急進的な一神教改革が結局一代限りで終わったのに対し、多神教自体は維持した前者のそれはその効果が永続化したことである。7世紀末に天照大神信仰が事実上の国教となって復権しても、大神神社や大和神社など皇室にとって重要性の高い神社は今日に至るまで出雲系のままで、出雲大社も皇室から尊重されているのである。
 それにしても、昆支大王が出雲神道の三輪山移植という施策を断行するには、出雲の意宇王権との深い同盟関係が必要であり、最終的に宗教改革が完了したのは、治世後半期のことと推定される。
 では、その意宇王権との同盟関係はどのようなものであったのだろうか。

畿内‐出雲神聖同盟
 昆支大王にとって初期の一大課題は、畿内王権の支配領域を拡大することにあったから、(4)でも見たように、彼は日本海沿岸にも遠征軍を送っている。特に丹波方面の遠征軍が但馬を越えて因幡、伯耆へ入ればそこは意宇王権の勢力圏であったから、意宇王権と接触が生じても不思議はない。
 ただ、昆支大王時代は遠征用騎馬軍団が未整備であったから、強力な他勢力に対しては直接的な武力征服ではなく、一定の軍事力を背景とした通婚同盟によるのが一般であったと見られるが、意宇王権に対しては宗教を共有し合うという一種の神聖同盟の方式が採られたと考えられる。これは第四章でも見たように、意宇王権が優れた神権政治勢力であったとともに、昆支政権が国教としてふさわしい宗教体系を持ち合わせていなかったことによる例外的な同盟方式であったろう。
 古代国家では「宗教を制する者が政治を制する」という法則は昆支も熟知していたはずであるが、彼の故国・百済は北方の扶余族が南下して馬韓に建てた国家であるため、統一的な伝統宗教は存在しなかったと見られるし、中国仏教はすでに4世紀末に百済に伝来していたもののまだ普及していなかった。そういう事情から、昆支は豊饒な神話世界を擁していた意宇王権系の神々を共通の信仰対象とする宗教的な同盟を締結したものと考えられるのである。
 その同盟の一つの政治的帰結は、大田田根子なる人物を大物主を祀る三輪山の神官長として任命したことであった。この大田田根子とは大物主と活玉依姫[いくたまよりひめ]の神婚によって生まれた子で、河内の茅渟県[ちぬのあがた]の陶邑[すえむら]にいたところを見出して迎えたという。陶邑とは加耶式土器の須恵器の一大生産地であり、物部氏の勢力圏でもあった。この伝承は、おそらく神班物者となった物部氏が陶邑から祭祀用土器を搬入したことが関係しているのかもしれない。
 こうした大田田根子の神婚出自譚に隠されているのは、大田田根子とは「意宇田田根子」であり(『記』では「意富多多泥古」と表記される)、この人物はまさに意宇王権系の人物だったという事実である。この点、筆者は大田田根子は意宇王権の王族で、神聖同盟に基づいて三輪山の神官長に任命された人物と推定する。いずれにせよ、この大田田根子の末裔が後に朝廷でも要職者を多数輩出する三輪氏(大三輪君)である。
 その他、大物主神の末裔氏族として賀茂君がある。これも君号が付いている氏族であるから、やはり三輪氏と同様、意宇王権王族の一派の可能性がある。賀茂氏は「出雲国造神賀詞」でも、「倭ノ大物主櫛甕玉命と御名をたたえて、大御和の神奈備に坐せ、己ノ命の御子阿遅須伎高孫根ノ命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ・・・」と詞べられるように、高鴨神社を主祭し、やはり要職者を輩出する家門となった。
 また、垂仁紀には初め出雲から力士として招かれ、後に土師部(土器職人)を束ね、初めて殉葬に代えて埴輪を発案したとの伝承の残る野見宿禰[のみのすくね]の記事も架上されている。この野見宿禰は相撲または柔道の祖ともされ、後に土師連の姓を賜り、時代下って菅原氏に改姓して、菅原道真を出す家門となった。
 こうした土師部のような職人集団も含め、畿内‐出雲神聖同盟の結果として、大勢の人が出雲から畿内へ移住してきたことがうかがわれ、その中にはヤマトの名門貴族となる家系も現れたのである。
 ただ、この同盟は当初から畿内王権優位の構造を持っていたようで、そのことが神話構成上も、スサノオとか大国主のように本来は意宇王権の祖先神ではない神々を作出されるなど、出雲神道そのものに対する畿内王権主導の改変の跡がうかがえることに表れている。
 また、もう一つ注目されるのは、崇神紀60年7月条と垂仁紀26年8月条と二度にわたって出てくる出雲の神宝検校の記事である。内容的には伝承的であり、特に紹介するほどのこともないが、この神宝とは出雲国造の祖先神とされる武日照命[タケヒナテルノミコト]が天から持ってきた神宝とのことで、こうした宗教的に由緒ある神宝を畿内王権が検校する権限を持っていたとすれば、これも畿内側優位の従属的な同盟関係を前提としてのことと理解される。
 なお、垂仁紀に架上された二度目の検校には伊香色雄の子・物部十千根連[もののべのとおちねのむらじ]が派遣されており、物部氏と畿内‐出雲同盟との結びつきの強さを改めて示している。
 こうした同盟関係の非対称性がやがてなし崩しに意宇王権が畿内王権に吸収されていく「国譲り」の素地となったのである。

百済から総督格として派遣され、倭に事実上定住していた百済王子・昆支は5世紀後葉、クーデターで畿内加耶系王権(ニニギ朝)を打倒した後、昆支大王となって王権を強化し、騎馬化を進めて畿内王権の領域を拡大した。さらに出雲東部の意宇王権と結んで三輪山の宗教改革も断行した。この昆支大王こそが、天皇系譜上の「応神天皇」にほかならない。
では、彼が創始した「昆支朝」は6世紀代にかけてどのように継承発展せられていったのであろうか。

 

2012年7月15日 (日)

老子超解:第四章 玄について

四 玄について

道として示すことのできる道は、真の道ではない。名として示すことのできる名は真の名ではないのだ。
名づけ得ぬものこそ天地の始まりであり、(道と)名づけられて万物の母となる。
そこで、常に無欲のままであれば、(道の)微妙な本質をとらえることができるも、意欲したままでいると、(道の)表面的な仮象しかとらえることができない。
この(本質と仮象の)両者は同じ所に由来し、名を異にするだけである。その同じ出所を玄と言い、玄の玄こそはあらゆる事物の微妙な本質の門なのである。

 
 前章で、には本来名が無いと述べられていたことが敷衍的に展開されると同時に、老子的認識論の基礎が簡明に示されているのが本章である。通行本では本章が冒頭第一章に位置づけられているのも、に関して存在論的‐認識論的に重要な事柄が凝縮されているためであろう。
 第二段で整理されているように、は本来無名であるが、仮に道と名づけられて始めて万物の根源という意味を持ち得るのである。ここで改めて名家との相違が明らかにされる。
 本来名づけ得ぬは、とは云々という述定的な形で示すことができるような何ものかではない。は道[みち]として求めて得られる超絶的‐宗教的な境地でもない。この意味で、老子は求道者ではない。
 の微妙な本質を把握するためには、それを意欲して追い求めるのではなく、無欲のままでいなければならないという。前章では個物の区別を追求することを禁欲すべきことが説かれていたが、同じことはについても妥当するのである。
 言い換えれば、企図を持たない言わば脱力的な本質直観こそ老子が励行する認識法であって、もし企図を持った追求的、求道的な方法によるなら、の表面的な仮象しかとらえることができないのである。
 老子によれば、こうした本質と仮象とは同じ一つの出所、すなわち「玄」から生ずる。この「玄」は他の章でも随所に現れる老子の隠れたキーワードの一つである。
 ただし、ここで言う「玄」とは、「幽玄」というときの文学的・美学的な観念とは全く異なり、本質と仮象とを統一する哲学的な概念である。その点で、これはプラトンにおいて本質と存在とを統一する永遠普遍の実在として観念される「イデア」を思わせるものがある。
 しかし、老子の「玄」は、より実践的な認識の方法論的目標として、ここでも仮の名として示されているにすぎないのである。そうした「玄の玄」、すなわち「窮極の玄」とは、原文で「衆妙の門」と表現されるまさにの認識論的な別言と解することができるであろう。

2012年7月 9日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第42回)

第6章 略

六 イスラーム勢力の後退

(1)オスマン帝国の後退
 大航海を通じてポルトガル、次いでスペインが台頭していった16世紀は、オスマン帝国にとっても全盛期であった。それゆえ、地中海権益をめぐってスペインを中心とする西欧連合軍と対決したレパントの海戦(1571)は必然とも言える。この海戦では連合軍側が勝利したものの、これでオスマン帝国が直ちに衰退を始めたわけではまだなかった。
 オスマン帝国は1683年には再びヨーロッパ中央部へ侵攻してウィーンを攻囲する実力を備えていた。しかし、この時代のオーストリアは30年戦争を経て一時後退していたにもかかわらず、オスマン帝国はオーストリアを支援するため結成されたポーランド、ベネチア、ロシアなどから成るヨーロッパ連合軍の前に敗退した。その154年前のウィーン攻囲戦では冬将軍到来のため撤退を余儀なくされたのとは異なり、今度は正真正銘の敗北であった。この頃には、ヨーロッパの軍事的な技術革新が始まっており、かつてヨーロッパが畏怖したオスマン帝国の軍事力を上回るようになっていたのだ。
 この敗戦をきっかけに、オスマン側はハンガリーをオーストリアへ割譲させられた(1699)。それはオスマン帝国が終焉へ向けて次第にその広大な版図を切り縮められていく嚆矢となった。
 18世紀に入ると、黒海付近で国境を接する帝政ロシアが台頭してくる。特に18世紀後半、エカチェリーナ2世が発動した二度の露土戦争で黒海北岸とクリミア半島を割譲させられたことは、黒海ルートの東西貿易権益の喪失という経済的打撃をもたらした。そしてオスマン帝国に対する新興ロシア帝国の勝利は、ヨーロッパ列強に対してはオスマン版図攻略の合図ともなった。
 こうなると、スレイマン大帝時代にはオスマン帝国の優位性の象徴であった特恵条約も逆転してヨーロッパ優位の不平等条約に転化していくのは必至であった。
 こうして実力をつけたヨーロッパからの巻き返しに加えて、帝国内部でも社会矛盾が生じていた。軍備増強に伴う財政難や地方騎士にとって負担の多いティマール制に代わる徴税請負人制度の導入の結果、過酷な徴税による農民や遊牧民の窮迫が生ずる一方で、徴税請負人が地主化し、大農場(チフトリキ)を経営するなどの現象を生じた。地方ではこうした封建的地主名士(アーヤーン)の権勢が強まり、かつて封建的分裂の中にあったヨーロッパが羨望した中央集権体制は崩れ始めていた。
 こうした中、セリム3世は西欧式軍隊の創設とアーヤーンからの徴税請負権の没収を柱とする改革案「新制」を発表するが、イェニチェリを中心とする軍部とアーヤーン層の反対により挫折し、退位を余儀なくされた。
 この間、エジプトでは1798年のナポレオン侵攻後の混乱を収拾したオスマン帝国のアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリーがカイロ市民の支持を得て総督に就くと、帝国はこれを追認せざるを得なかった。以後、帝国は事実上の独立政権としてエジプトの近代化を独自に推進していくムハンマド・アリー政権に振り回され、これにヨーロッパ列強の干渉が絡み、斜陽化が進んでいくのである。

(2)ムガル帝国の衰退
 東のイスラーム帝国としてインドを支配していたムガル帝国は、16世紀後半に出た大帝を冠せられる3代アクバルの時に、中央集権制(州県制)と、位階に応じて軍事奉仕義務を課すマンサブダーリー(位階制)、徴税権付きの領地を分封するジャーギール(給与地制)といった封建的諸制度を組み合わせた―その点でオスマン帝国に類似する―支配体制の基礎が固まり、17世紀後半に出た6代アウラングゼーブの時代までがおおむね全盛期であった。
 特にアウラングゼーブ時代には、南インド方面まで領土を広げ、帝国版図は最大化した。しかし、アウラングゼーブは一方で、アクバル以来の宗教的寛容政策を変更し、厳格なスンナ派イスラームの立場に立って、インドでは依然多数派のヒンドゥー教を抑圧したためにヒンドゥー教徒の反発を招いた。しかも、彼の治世になると、アクバル時代にジャーギール制の下で徴税権を与えられていた貴族層の封建領主化と、その下で徴税を請け負うようになっていたザミンダール(徴税請負人)の地方豪族化、そして彼らによる農民収奪が激しくなっており、武断主義者アウラングゼーブもこれら貴族層・豪族層の増長を抑圧し切れなかった。
 アウラングゼーブの治世末期には諸勢力の反乱が頻発し、軍事費膨張から財政難も加わって、帝国は衰退の兆しを見せ始めた。彼が半世紀近い治世の後、1707年に没すると、ムスリム諸侯やヒンドゥー教マラーター族の独立などが相次いで、帝国は事実上分裂に向った。
 こうした中で、インドはアジアへ進出してきた英国とフランスの東インド会社が権益を争う餌場と化していく。当時、両者は香料諸島を支配下に収めたオランダ東インド会社に対抗できず、インド亜大陸に照準を合わせていたのだった。
 特に英国東インド会社は1717年、ムガル帝国からベンガル地方における輸出関税免除の特権を得たのを皮切りにインドでの活動を強化し、南インドでの三次にわたるカーナティック戦争と北インドでのプラッシーの戦いを通じてフランスを退けてインド権益を確立する。そして1765年には、分裂が進み、すでに名目上の存在と化していたムガル帝国からベンガル、ビハール、オリッサの徴税及び財政権(ディワーニー)を得てインド支配を固めた。
 以後、本国政府も乗り出し、1773年の「ノースの規制法」によりベンガル知事を総督に格上げして本国政府がインド経営全体を管轄する体制を整備する。そして初代ベンガル総督ウォレン・ヘイスティングスの下で、やがて次の世紀に完成する英国のインド領有化ヘ向けた「改革」が断行される。名ばかりのムガル皇帝が居残るインドは、こうして英国が大英帝国として跳躍するための最重要の踏み台となったのである。(第6章了)

2012年7月 8日 (日)

老子超解:第三章 始制有名

三 始制有名

道には本来名が無い。(以下、削除)
始原の措定によって名が生ずるのである。名が既存のものとなったら、(そこから生ずる個物の区別を追求することをやめて)とどまることを知るべきである。とどまることを知れば、安泰だからである。
道の天下におけるありさまは、ちょうど大河や海の谷川に対する関係のようなものである。


 
通行本では第三十二章になるこの章は、本来もう少し長文であるが、おそらくは後世に書き加えられたと思われるつながりの宜しきを得ない文を除去してみると、本章では老子の基礎存在論に関わる重要な命題が示されていることがわかる。
 冒頭まず、は本来無名であると明示される。第一章で述べられていたように、「」とは仮の名にすぎないのであった。
 
ここで意識されているのは、老子と同時代の諸子百家の一つに数えられる名家であろう。名家は言わば東洋的論理学の祖であって、言葉(名)とそれが指示する実体(実)との論理的な対応関係を潔癖に整序せんとするあまり、有名な「白馬非馬論」のように、色を指示する「白」と形を指示する「馬」とは論理上区別されるから「白馬」と「馬」は別物であるとして、「白馬は馬に非ず」と論ずるようなソフィスト的詭弁に陥った。
 老子によれば、こうした白とか馬とかといった個物の区別は「始めて制して」生ずるものである。ここに「制」とは、「制度」とか「強制」という語によく表れているように、物事を定め強いることである。例えば、豊かなたてがみを持ち、四本足で疾走する面長の生き物が「馬」と名づけられたのは、もはやいつと特定できない言語という制度による始原の強制の結果である。そして、それが変更不能な個物の名称として定着しているわけである。
 老子はこうして措定された個物の区別の探求を禁欲すべしという。これはまさに名家への批判となっている。名家にあっては、措定された個物の区別を逐一探求しようとするからである。
 「とどまることを知る」とは、個物の区別に対する探求をいったん括弧にくくる、一種の現象学的な判断中止(エポケー)であり、ここから老子特有の非‐差別の思想も導き出されるのである。
 西洋哲学の文脈からみれば、老子の哲学は唯名論に対立し、すべての個物の根源たるなる普遍概念―第三段では、これを大河や海の谷川に対する関係にたとえている―を観念する一種の実念論に近いものという見方ができるかもしれない。
 しかし、老子の「」は、西洋実念論の祖とも言うべきプラトンの「イデア」とは異なり、観念化された実在概念ではない。は第一章でも述べられていたとおり、物質そのものなのであった。
 このような反唯名論的かつ唯物論的という哲学的ねじれは、老子の哲学の独異な特色と言えよう。

2012年7月 3日 (火)

天皇の誕生(連載第25回)

第六章 「昆支朝」の成立

(4)昆支大王と倭の自立化

領域拡大
 やや皮肉なことであるが、百済王子であった昆支が倭王に就いてまず着手したのは、475年の王都陥落以来、亡国の危機にあった百済から倭を自立化させ、内発的に発展させることであった。そこで、彼が最初に取り組むべきはとにかくクーデターでもぎとった畿内王権の支配領域を拡大することであった。
 旧来の加耶系王権は王家ルーツの加耶地方がそうであったように、統一国家作りには積極的でなかったように見えるが、昆支大王は早くから高句麗と半島統一の覇権を競い合った百済の出身だけに、倭王としても領域拡大・国土統一に積極的であったと見られる。
 昆支は「武」を名乗って南朝・宋に遣使した時の上表文で、「昔から祖先は自ら甲冑をつらぬき、山川を駆け回り、各地の平定に余念がなかった。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服させること六十六国、渡って海北を平定すること九十五国」などと「祖先」の功績を吹聴してみせたが、このような各地の征服活動こそ彼自身がこれから開始すべき大事業なのであった。
 昆支の領域拡大事業の第一歩は、崇神紀10年のいわゆる四道将軍説話に示されている(崇神天皇が応神天皇(昆支大王)の分身像であることは、第一章で示した)。
 そこでは崇神=応神天皇が、北陸、東海、西海、丹波の四地方へ遠征軍を派遣したことが伝承風に記される。前章で述べた出雲の意宇王権との同盟関係も、こうした遠征活動の過程で形成されたものと考えられる。
 なかでも西海道(九州)は重視されていたようで、応神9年には後代の豪族・蘇我氏らの祖とされる武内宿禰[たけのうちのすくね]を筑紫に派遣して人民を監察させた記事が見られるほか、同13年には日向加耶系王権の諸県君の娘・髪長媛を召して通婚同盟を結ぶなど、九州南部への勢力拡大も図られている。

軍備増強
 こうした遠征を可能にするための軍備増強も大きな課題であった。特に遠征用騎馬軍団の整備である。
 応神15年に、百済王が使者を遣わして良馬二匹を奉り、これを大和の軽の坂上の厩で飼育させたとの記事がある。昆支大王は故国・百済から軍馬を導入して騎馬軍団作りを急いでいたように読める。
 かつて、5世紀後葉頃から西日本を中心に急速な騎馬化が進むことをもって、朝鮮半島から「騎馬民族」が来襲・征服したとの説が唱えられたこともあったが、事実は昆支大王が政策的に騎馬戦力の整備を追求した結果なのである。
 一方、昆支大王は倭がかねてより得意とした水軍についても引き続き強化を図り、応神5年には伊豆国に命じて長さ十丈の大型高速船を建造し、「枯野」と名づけたとの記事がある。おそらく大王の旗艦であろう。同31年になると、この枯野号が老朽化したため、これに代えて諸国に命じて500の船を建造・献上させたとある。
 このようにして、昆支は水陸双方の軍備増強に努め、畿内王権の地力を強化したのである。

灌漑事業
 昆支大王が推進したもう一つの事業は灌漑であった。当然ながら、これは農業生産力の発展を目的とする経済開発である。
 応神7年には、先の武内宿禰に命じて、諸々の韓人を率いて池を造らせ、これを「韓人池[からひとのいけ]」といったとあるように、当初の灌漑事業には、高い灌漑技術を持った百済人を中心とする渡来人らが動員されたことがうかがえる。
 元来、百済は王権の脆弱性をカバーするためにも、早くから中国式の諸制度・文物を導入していたが、この王権主導による大規模な灌漑、水利開発もその一つであり、まさにウィットフォーゲルが指摘した東洋的専制主義の特徴である「水力社会」が、百済を経て倭にも移入され、やがて東洋的な専制官僚国家の基礎を成すに至るのである。
 こうした灌漑用の池造りは、引き続き応神11年にも、剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池を造ったとあり、崇神紀62年への架上としても、依網池、苅坂池、反折池を造ったなどと、昆支大王が晩年になってもなお精力的に灌漑事業を推進する様子が示唆されている。
 この事業は、彼の後継者の時代にはさらに大規模化して継承されていくであろう。

倭済同盟
 昆支大王は、外交面でも倭の自立化を図った。即位直後に「武」名義で南朝・宋へ遣使した際に、百済への軍事統制権を含めた都督称号を請求したことにも表れていたように、彼は従来、倭が百済の侯国という位置づけであったことを改め、倭側から百済を統制する意図を持っていたようである。
 百済では477年9月、熊津亡命政権の文周王が暗殺され、その子で13歳の三斤王が即位したが、その下で豪族・解氏の独裁政治が極まったことは第五章で見た。
 その三斤王も479年11月に夭折すると、昆支大王はすかさず百済の内政に介入し、倭に滞在していた息子・末多王[またおう]を百済王に即位させるべく送り出している。これが百済第24代東城王である。
 『書紀』ではこのことが雄略紀23年条に架上されている。それによると、百済の文斤王(三斤王)が亡くなったことから、天皇は昆支王の5人の子の中で二番目の末多王が若いのに聡明であることを見て呼び出し、親しく頭をなでてねんごろに戒め、筑紫国の兵士500人を付けて送り出し、百済王に就けたという。
 本来、応神紀に掲載されるべきものが雄略紀に架上されているのは、『書紀』が応神天皇の実年代を200年以上も遡及させて提示する作為を加えたために生じたズレであるので、「雄略」を応神天皇=昆支大王に置き換えて、昆支の聡明な息子を励まし、護衛隊付きで百済へ送り出したのは、まさに父・昆支自身であったと読めば合点がいくであろう。
 こうして百済王に就いた末多=東城王は父の見込みどおり英主となり、王権を強化し、高句麗対策として新羅と通婚同盟で関係を強化して、亡命政権の立て直しを図った。
 特に、彼は百済では従来、王権が在地豪族勢力により制約されてきたことを反省し、地方に22の檐魯[たんろ](邑城)を設け、王族を配して王・侯制をいっそう徹底させる大改革を行った。
 こうして東城王は501年に暗殺されるまで、20年以上にわたる長期政権を保ち、父の昆支大王とほぼ同時代的に並び立ったから、この時期には父子で倭済同盟が強化され、両国はほぼ一体のものとして統治されたであろう。ちなみに、百済を倭で「くだら」と訓むようになったのは、先の檐魯をクンダラともいったことに由来すると見られる。これは昆支‐東城の父子同盟時代に、東城王の新制が倭にも伝えられた結果ではないだろうか。
 この倭済同盟では父の統治する倭が優位性を持っていたと考えられる。これ以降、もはや倭は百済の侯国ではなくなり、自立した独立国として発展していくのである。

遣使外交の中止
 倭の外交的自立を促したもう一つの政策は中国南朝への遣使外交の中止である。昆支大王の中国遣使は「武」名義による478年遣使が最初にして最後のものであった。その後、479年には新王朝・南斉から「鎮東大将軍」、502年には南斉に取って代わった梁から「征東(大)将軍」に順次進号が認められているが、中国側の王朝交替に伴う書類上の処理にすぎず、実際の遣使に基づく進号ではない。
 第五章でも指摘したとおり、彼としては「倭国王」の称号さえ認証されればさしあたり必要にして十分であったので、以後、国内的な領域拡大に専念するためにも面倒な遣使外交は中止したのであろう。
 ただ、中国南朝側でも5世紀末から6世紀にかけてめまぐるしく王朝が交替し、政情が安定しなくなったことも遣使外交中止と関連するかもしれないが、百済の東城王は引き続き南朝外交を継続しているところを見ると、昆支大王の遣使中止には固有の事情があったと考えられる。
 いずれにせよ、中国遣使外交中止は彼の子孫たちにも継承され、倭が再び―別の形で―中国外交を再開するのは、100年以上も後の7世紀代に入ってからのことであった。

2012年7月 1日 (日)

老子超解:第二章 小なる大

二 小なる大

大なる道は右に左に広がり行きわたるものである。万物はそれを頼って生ずるのであるが、(道は)そのことを言葉にしない。そうした功を成しても、功名は求めない。万物を養っても主人とならない。常に無欲であるからには、小と名づけるべきである。しかし、万物がそこに帰しても主人とならないからには、(やはり)大と名づけるべきである。(道が)大成するのは決して大成しようとしないからこそなのである

 
 通行本では第三十四章になる本章では、の基本性質が擬人化された形で比較的簡明に述べられている。
 それによると、万物の根源たるは万物を養いながら決して主人にはならないという。このことから直ちに了解されるのは、とは「創造主」ではないということである。すなわち、の神性は否定されるのである。
 これによって、老子の哲学は神を観念する宗教思想ではなく、世俗思想であることも明らかとなる。
 宇宙の四大の最上位にあるは常に無欲であるがゆえに、小と名づけるべきだともいう。この「無欲」は、老子の実践哲学上のキーワードである「無為」をやや主意主義的にとらえたほぼ同義語とみなしてよいものであるが、ここで言う「無欲」とは「欲望がない」といった通常語義の「無欲」とは異なり、「企図しない」というくらいの意味合いである。
 天地創造説が典型的に示すように、創造主たる神は企図する。しかし、は企図しない。は万物を統べていながら偉大なる創造主たらんとしない小なる謙虚さにおいて、やはり大だというのである。随所に見られる老子一流の逆説である。
 なお、前章で見たように、とはMatter=物質でありながら、老子は本章のほか随所でしばしばを擬人化している。ただ、ここでも擬人化されたは人格神のような神の現世的な映現ではなく、究極的にに同ずる現世の人間存在の理想的なあり方を示しているのである。

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