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2012年6月

2012年6月27日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第41回)

第6章 略

五 戦国動乱から幕藩体制へ

(3)徳川幕藩体制の確立
 太閤秀吉は二度目の朝鮮侵攻の最中、1598年に没した。彼が後継体制を磐石に固めないまま世を去ったことで、動乱が再発する恐れが生じた。その恐れは関ヶ原の戦い(1600)で現実のものとなった。しかし、この戦いは長期化せず、周知のとおり秀吉の五大老の一人であった徳川家康の勝利に終わった。彼は1603年、征夷大将軍に就任し、秀吉から与えられていた自らの領地・江戸で幕府を開いた。室町幕府が信長によって滅ぼされて以来、ちょうど三十年ぶりの幕府復活であった。
 信長も秀吉も幕府を開くことがなかったが、源氏系新田氏流を標榜していた―これは仮冒の疑いが強く、実際は三河の一土豪から戦国大名にのし上がった松平氏の出であった―家康は幕府を開いたことで、政権基盤は強力となった。
 徳川氏の体制を特徴づけた幕藩体制はしばしば西欧の封建制と類比されるが、両者は全く似て非なるものである。幕藩体制において藩主として封ぜられた大名は一見封建領主に近い支配権を保持しているように見えるが、実際上は豊臣政権以来の知行制を土台に、幕府は全国の大名に対して減封・改易・国替などの処分を科す権限を持ち、妻子を人質に参勤交代のような平時の奉仕義務まで課することができたのであるから、これは同時代の朝鮮王朝の両班制ほどではないにせよ、官僚制的性格を帯びた準中央集権体制であり、将来の中央集権国家体制への橋渡しと言ってよい体制であった。
 初代・家康から孫の三代・家光の代までに時間をかけて確立されていった幕藩体制は、戦国動乱の元となった領主支配制的社会構制を全否定することなく、その枠組みを残しつつ、幕府を頂点とする集権化を図るという、戦国動乱の巧みな止揚形態と言ってよかった。しかし同時に、この巧みさが最終的には幕藩体制の限界をさらけ出す要因ともなったであろう。
 この幕藩体制の代名詞と言えるのが「鎖国」であるが、これについては少なくとも初代・家康が積極的に企図したことではなかった。彼は、豊臣家を滅ぼしたことによって道義的には主君を裏切ったが、政策的には主君の継承者であって、秀吉と同様にキリスト教は禁じたが海外貿易は奨励したからである。
 「鎖国」とは、参勤交代の制などともに主として三代家光の時に本格化した貿易・情報統制策であって、専ら対内的な体制防御措置であったと言える。それは南蛮貿易で財を築きつつあった西南大名の伸張を、彼らが精神的なよりどころとしようとしたキリスト教―広くは西洋思想―もろとも抑圧する狙いがあった。要するに、「鎖国」は動乱の再発を防止し、幕府の中央権力を確立するための措置であった。
 これに対して、対外的な関係での「鎖国」(=排外主義)が明確に意識されるのは、18世紀末以降、外国船の近海来航が目立ち始めてからのことにすぎなかった。ただ、結果的に日本の「鎖国」は同時期の清の禁教・海禁政策よりも厳しいものとなったため、やがて清が苦渋をもって経験することとなった「西洋の衝撃」(ウェスタン・インパクト)を先延ばしにし、いずれそれが避けられなくなった時にも、その衝撃を最小限に抑える効果は持ったのである。
 こうした「鎖国」はたしかに長期にわたる太平をもたらしはしたが、その裏では同時期の清と同様に―しかし、いささか異なる形で―社会矛盾が進行していた。特に商業の発達を抑え、農業を軸とする収奪体制を通じて幕藩財政を安定させようとするある種農本主義的な政策は、その不徹底さのために、はじめは諸藩の年貢米を取り扱う蔵元のような商人に始まって、株仲間や両替商など、商人資本・金融資本の自生的な発達を止めることはできなかった。江戸や大坂をはじめとする都市が発達し、町人と呼ばれるブルジョワジーの萌芽が生成していった。かれらは、武家に対しても、しばしば債権者として経済的に優位に立ち始める。
 汚職で悪名高い田沼意次は、実はこうした社会の変化をとらえて、従来の農本主義的政策を修正し、商業資本と手を結んだ結果として、「汚職政治家」のイメージが広がったのであった。貿易の拡大にまで踏み込もうとした田沼の政策は通常「改革」とは呼ばれないが、それは一種の重商主義的な志向性を持った改革であったため、「鎖国」下では挫折する運命にあった。
 田沼が出た18世紀後半には農村へも商品経済が浸透し、農民の階層分解と農奴的な水呑百姓の困窮は明白となっていた。結果は農村の荒廃と飢饉であった。農民たちは再び戦国時代のように団結して一揆を起こすようになった。これに都市へ流れた出稼ぎ農民が商家を襲撃・略奪する打ちこわしという新たな抗議形態が加わった。
 こうした社会的危機に対して、幕府は何度か「改革」を試みたが、いずれも小手先のびほう策を通じた体制延命措置にすぎず、本質的な効果は上げられなかった。幕府財政も元禄時代以来、赤字を記録するようになっていた。
 そうした中で、18世紀末以降、ロシアを皮切りに、極東進出を狙うヨーロッパ列強からの公式・非公式のアプローチが活発化し始める。内憂外患とまではいかないが、徳川幕藩体制にとっても、19世紀は終わりの始まりであった。

2012年6月26日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第40回)

第6章 略

五 戦国動乱から幕藩体制へ

(1)戦国動乱と「南蛮人」到来
 ヨーロッパの大航海時代が始まった頃、日本列島は長い動乱の時代に突入していた。前章で見たように、15世紀後半の応仁の乱は室町幕府の威信を失墜させるとともに、幕府の支えであった守護大名の没落をも結果した。守護大名らが党争に明け暮れている間に、彼らの部下である守護代や国人らが領国を簒奪しようとする下克上の風潮が起こってきたためであった。
 そのような下克上の結果、自ら大名にのし上がった者たち―戦国大名―はもはや幕府にとらわれず、自力で簒奪した領地を一円的に支配することができた。彼らは独自の家臣団を編制しつつ領地内で施行される分国法に基づいて支配した。そして自らの分国内では富国強兵を推進し、相互に交戦したのである。
 ここに至って、日本の封建制は西欧型の領主支配制に近いものに変質したと言える。応仁の乱以前の守護領国制の時代にはまだ守護大名の領国支配権は不完全なものにとどまっていたが、領主たる戦国大名の分国支配は完全であったからである。
 とはいえ、西欧型領主制とは異なり、戦国大名の分国支配は荘園制には依拠しなかった。荘園制はすでに守護領国制の時代に守護大名らによって侵食され、形骸化していた。そうした中で、農民層は自治組織(惣)を結成して対抗し、各地で一揆を起こす力量を身につけていった。かれらは国人や地侍と連合して守護大名を打倒するプチ革命を起こすほどになった。一向宗の宗教結社を基盤として一世紀近くも自治支配を維持した加賀の一向一揆はそうした事例の最たるものであった。
 これに対して、戦国大名はこうした農民一揆を武力で鎮圧しつつ、厳正な検地を実施して荘園を自身の分国内に吸収し、収奪体制を固めていったのである。
 「南蛮人」が到来したのは、こうした戦国動乱渦中のことであった。1543年のポルトガル人の種子島漂着は偶然のこととはいえ、その時に初めて持ち込まれたと言われる鉄砲はまさに動乱の時代にはタイムリーな兵器と戦法の革新をもたらしたのであった。
 そして、1549年には設立間もないイエズス会の創設メンバーでもあったザビエル(シャビエル)の来航が続く。彼が望んだ天皇・将軍の布教許可は得られなかったが、彼や彼以降に来航した宣教師の手で西日本を中心にカトリックが布教されていった。カトリックは九州北部を主要な拠点として、いつ終わるとも知れない動乱の中で階級を超えて人々の心をとらえた。その一つの産物がキリスト教に入信したキリシタン大名の出現である。彼らは同時にポルトガルとの中継貿易(南蛮貿易)にも関わり、財を築いた。
 日本人とヨーロッパの出会いはこのように新たに勃興してきた日本型領主支配制が引き起こした社会動乱の渦中で生じたということが、後々「鎖国」への伏線となっていくであろう。

(2)織豊政権と動乱の中断
 実際いつ終わるとも知れない戦国動乱に一時的な中断をもたらしたのは、共に下克上の戦国大名である織田信長と豊臣秀吉であった。 両者通算して約30年に及んだ政権がしばしば「織豊政権」とひとくくりにされるのは、後者が前者を継承した限りでは間違っていないが、その継承関係は表面上のことであって、織田政権と豊臣政権は質的に異なっている。織田信長がまさに戦国動乱の産物であったのに対し、豊臣政権は動乱が止揚されて幕藩体制に収斂されていく過渡期の政権であったからである。
 先行の織田政権の場合、そもそもいつから開始されたとみるべきかが大きな問題である。信長は1568年に京都に攻め上った後、足利義昭を第15代将軍に立て幕府の実権を握ったので、この時点を実質上織田政権の成立とみなすこともできるが、より直接的には不和となった義昭を追放してすでに形骸化して久しい幕府を最終的に滅ぼした(1573)後、朝廷から右近衛大将に叙任された1575年に事実上の最高執権者として立つ。それでもなお、甲斐源氏系の名門武田氏というライバルを打倒する仕事が残されていた。
 それに成功した後も、信長は征夷大将軍として正式に幕府を開かず、後の豊臣秀吉のように朝廷の太政大臣に就くわけでもなく、一代限りで終わる織田政権は結局、最後まで戦国大名としての暫定政権のままであった。
 実際、信長が実質的な最高執権者として展開した指出検地、楽市楽座、関所撤廃、一向一揆鎮圧といった政策は典型的に戦国大名のものであった。キリスト教保護政策とも合わせて、ある意味では「革新的」でさえあった信長は結局、戦国大名層の代表者なのであった。最期に一人の臣下の謀反によって横死を遂げたことも、下克上の戦国大名らしい終わり方ではあった(1582)。
 横死した主君の後を継いだ羽柴秀吉は主君の政策を継承しつつも、それとは異なる手法と政策にもよって戦国動乱の止揚に本格的に着手した。その手始めに、彼は惣無事令を発して大名らに停戦を命じた。そのうえで関白(1585)、次いで太政大臣(1586)と旧来の朝廷の要職を獲得して政権の正当性を担保しようとした。この点では400年前の平氏政権の手法に立ち戻ったとも言えるが、武家とはいえ皇族の子孫であった平氏と異なり、尾張の足軽の出自から実力で太政大臣に華麗な階級上昇を果たした豊臣秀吉は、まさに下克上の時代の象徴であった。
 秀吉は、後に部下となる徳川家康によって継承発展せられる重要な新基軸を打ち出した。その中心は後の幕藩体制の礎石となる年貢の石高を基準とする大名知行制と、それとも密接に関連する兵農分離の徹底である。この政策は結果として諸大名の臣従と身分秩序の固定化をもたらすであろう。要するに、木下藤吉郎は自身を生み出したような下克上の時代にピリオドを打とうとしたのだ。
 また、いわゆるサン・フェリペ号事件を機にスペインによる侵略を警戒して発したキリスト教禁止令(1592)も徳川氏に継承され、最終的には鎖国体制の基礎となった。
 秀吉の政策で徳川氏が明確に拒否したのは、二次にわたった朝鮮侵略である。秀吉本来の企図は―実現の見込みのない―中国大陸(明)征服にあり、朝鮮侵攻はその通過点という位置づけであったとされるが、朝鮮半島を封土として参戦大名らに分封する計画があったことからして、これは領土拡大を通じて戦国動乱に最終的なピリオドを打とうとする彼なりの戦略であったと思われる。
 しかし、それは裏を返せば、大名知行制に基づく全国支配がなお未確立であったことを示してもいる。この点、徳川氏はもっと巧妙であった。

2012年6月19日 (火)

天皇の誕生(連載第24回)

第六章 「昆支朝」の成立 

(3)旧王家の運命

処刑と潜伏
 ここで、昆支のクーデター後の旧加耶系王家の運命について考えてみよう。とはいえ、それを明確に跡づけられるような史料は何も残されていない。ただ、『書紀』の顕宗天皇紀に収められた次のような「弘計[をけ]・億計[おけ]兄弟の物語」がかすかなヒントを与えてくれる。
 まず、この話の発端は第21代雄略天皇の時代に飛ぶ。雄略即位前紀によると、雄略は先帝の安康天皇が雄略の従兄・市辺押磐皇子[いちのへのおしわのみこ]に皇位を譲ろうとしていたことに反発し、同皇子を狩りに誘い出して謀殺した。そこで、同皇子の二人の子・弘計王と億計王の兄弟も従者とともに難をいったん丹波国与謝郡へ逃れたが、追っ手を懸念し、さらに播磨国明石へ逃避し、その地で丹波小子[たにはのわらわ]と変名して地元豪族の家臣となった。
 ある時、酒宴の前に、弟の弘計が「身分を明かすにはちょうどよい機会だ」と切り出し、兄弟は身分を暴露して殺されるのと、隠して災難を逃れるのとどちらがよいかと語り合った末、弟の弘計が代表して身分を明かすことにした。宴席で舞うように求められた時、兄の億計に続いて舞った弘計は叫び歌いながら、自らが押磐皇子の子であることを明かす。
 これに驚愕した地元豪族は兄弟のために仮宮を建て、都に上って時の第22代清寧天皇に報告したところ、子のない天皇は喜び、兄弟を迎え、兄の億計を皇太子とする。そして清寧天皇死去の後、兄弟は譲り合った末に、弟の弘計がはじめに即位し(第23代顕宗天皇)、弟の没後に兄の弘計が即位した(第24代仁賢天皇)というハッピーエンドである。
 このような筆法は、『書紀』の執筆者が歴史叙述と説話の区別も忘れてしまっていたことを示すものであるが、一方で史実の断片をも垣間見せてくれている。それは弘計が身分を明かす際に歌った次のような歌詞である。

 石上の振(布留)の神杉を、本を伐り、末を押し払うようにして、市辺宮に天下を治められた天万国万押磐尊の御子であるぞ、我は。

 弘計・億計兄弟の父である市辺押磐皇子は第17代履中天皇の皇子とされ、従弟の雄略によって皇位継承前に謀殺されたことになっているが、弘計の歌ったところによれば、「市辺宮で天下を治めた」という。
 ここから言えることは、市辺押磐尊=押磐王こそ、昆支のクーデターで打倒された旧加耶系王権、すなわちニニギ朝最後の王ではなかったということである。ただ、それが昆支=応神の時代でなく、雄略の時代の出来事として架上されているのは、『書紀』が応神天皇の年代を200年近くも遡及させる作為を加えているためである。
 雄略による謀殺云々といった物語的皮膜を取り去ってみると、押磐王は昆支のクーデター後に処刑されたのではないかと推定できる。それで王子たちも難を逃れて畿内を離れるのであるが、弘計・億計兄弟がはじめ丹波国へ逃れたというところが一つのポイントである。
 第三章で見たように、ここにはやはり加耶系の丹波王国が所在していたから、王子らは同系の王国領内へ亡命しようとしたと考えられる。しかし、政権を掌握した昆支大王は間もなくこの地域にも遠征軍を送ってきたため、再び身の危険が迫り、兄弟は南下して播磨まで逃れて潜伏したと見れば一応合点がいく。
 昆支は元来、武人であったから、少なくとも治世初期には旧王家関係者を暴力的に排除する武断統治で権力固めを図ったであろうことは想像に難くない。
 昆支大王が旧ニニギ朝王家の根絶を図ったために、この王統の系譜は歴史の闇に埋もれてしまったが、何らかの伝承の形で断片的には残されていたと見られ、それが昆支朝の末裔である8世紀の奈良朝の手で改変・潤色されたうえ、皇統譜に架上・編入されたのが、初代神武天皇に、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までのいわゆる「欠史八代」を加えた九代の天皇系譜ではないかというのが私見である。
 九代と言えば、短命な古代では一代=15年として計算しても135年間であるから、477年頃にクーデターで打倒された旧加耶系王権の始まりはおよそ4世紀中葉の少し前となり、第二章で行った推論とも符合してくるのである。

復権と後裔氏族
 昆支大王によって排除された旧加耶系王家であるが、『書紀』はその復権を示唆するヒントも与えている。その一つが、前回見た「弘計・億計兄弟の物語」のハッピーエンドであるが、もちろんかれらが王家として復位したというのは史実とは思われない。
 むしろ、兄弟のうち兄の億計(仁賢天皇)の娘・手白香皇女[たしらかのひめみこ]が第26代継体天皇の正妃に迎えられたという継体紀の記事のほうが迫真性がある。
 ただ、手白香が実際に継体の正妃であったかどうか筆者は疑問を持つが、この問題の検討は次章に回すとして、彼女は継体天皇との間に後の第29代欽明天皇を産み、実在性も高い。
 その手白香が億計の娘であるということの意味は、昆支大王の治世が終わった後、旧加耶系王家が赦免され、その一族の女性が昆支朝の大王の妃に迎えられるまでに復権を果たしたということである。
 そうだとすると、王家の後裔氏族を見つけ出すことができるはずであるが、その第一候補は第三章で言及しておいた軽氏である。この一族は、前述したように軽樹村坐神社に氏神を奉祭したが、同神社の主祭神がいつしか誉田別命=応神天皇、すなわち昆支大王にすりかわってしまっている。このことは、軽氏として臣籍降下のうえ復権した加耶系王家が、昆支朝への忠誠の証として、自ら本来の氏神に代えて八幡神を奉祭するようになった事実を示唆している。時代に適応し、一族を維持するためには必要な選択であったのであろう。
 ちなみに軽氏の祖は第9代開化天皇の皇子・彦坐王[ひこいますのみこ]の子孫・白髪王[しらかのみこ]とされるが、前述のように、開化天皇までを改変・潤色された旧王朝の王統とすれば、軽氏が開化天皇流とされることは、直系かどうかは別としても、かれらが旧王家の後裔であることを示唆していると読める。
 ちなみに、『万葉集』に詠み人知らずの歌として、「天飛ぶや軽の社の斎槻[いわいつき]幾世まであらむ隠妻[こもりづま]ぞも」というのがある。この「軽の社」は軽樹村坐神社と推定されるが、そうだとすると「隠し妻」という潜伏のイメージが軽の社と絡めて歌い込まれているとも解釈でき、意味深長である。
 軽氏はまた、飛鳥時代になると、「賀留大臣玄理」という人が推古朝に唐(正確には隋)から持ち帰った薬師如来像を本尊として創始したと伝えられる軽寺という氏寺も営んだ。
 「賀留(大)臣」の素性は知られていないが、賀留=軽氏の末裔である可能性は高く、そうだとすれば、軽氏は7世紀に入っても朝廷で遣隋使を出すほどの地位を保っていたようである。
 一方、もう一つ旧加耶系王家後裔の可能性を持つ氏族として布留[ふる]氏がある。第二章でも見たように、加耶は製鉄の地であり、加耶系渡来人は火[プル]氏であるから、布留とは火[プル]の転訛と見られ、まさに布留=火氏なのである。
 この一族と軽氏の関係は断定できないが、王家の有力分家か、あるいは旧加耶系王朝末期に王統の交替があり、布留氏が軽氏に代わって王家そのものであったかもしれない。というのも、先の弘計・億計物語に出てくる弘計の身分告白の歌詞に「石上の振(布留)の神杉」とあるように、兄弟の父・押磐尊が統治したという市辺宮は布留氏が拠点を置いた石上の布留にあったとも読めるからである。
 布留氏は公式には皇別氏族とされ、柿本氏らとともに旧王統第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命[あめたらしくにおしひとのみこと]の後裔とされることも、加耶系王族の可能性を示唆している。
 かれらは石上神宮が物部氏管轄となるのに先立って、市川臣として同神宮神宝管理者に就き、後に一時物部首[もののべのおびと]に降格されるが、天武天皇代に布留宿禰として再昇格している。
 ところで、奈良県明日香村栢森[かやもり]に加夜奈留美命[かやなるみのみこと]神社という神格化された個人名を冠した珍しい神社がある。この加夜奈留美命は『記紀』にも登場せず、いかなる神なのか諸説あって確定していないが、この神は「出雲国造神賀詞」の中でも「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神名備に坐せ・・・」とされているほか、吉備津神社の社伝でも、吉備津神社を加夜臣奈留美命が祀ったのが社の起こりとあり、いろいろなところに顔を出す。
 現時点では確定できないが、「奈留(流)美」の「奈留」とは「奈良」と同様、「国」を意味しており、「美」は「御」と同様の尊称で、加耶系王権の始祖王を神格化したものととらえてみたい。ルーツが同じ吉備にも顔を出すゆえんである。
 すると、加夜奈留美命神社は昆支大王の後継者が旧加耶系王家を赦免・復権させた後、鎮魂の目的で創建したものと推定することもできるのではないだろうか。

2012年6月18日 (月)

天皇の誕生(連載第23回)

第六章 「昆支朝」の成立

(2)「昆支朝」成立の経緯

倭国側の事情
 百済王子・昆支が477年頃、倭の畿内王権の王に即位して開いたのが「昆支朝」である。前節で見たように、昆支=応神であるならばあるいは「応神朝」と呼ぶこともできるが、「応神」はあくまでも8世紀になって追贈された諡号にすぎず、同時代的な呼称ではなかった以上、以下では特に必要のない限り「昆支朝」と呼ぶことにする。
 さて、このような「昆支朝」が成立したことについて、百済側の事情は前章で解明を試みたが、一方で倭側ではなぜ昆支のような「外国人」を王に推戴することになったのかという問題が残されている。
 畿内では、第二章・第三章で検討したとおり、加耶系の王権(ニニギ朝)が4世紀前葉以来百数十年間続いていたわけであるが、このように外来の王家を擁する体制が下地としてすでにできていたことがまず大状況として指摘できる。
 そのうえに、畿内王権は5世紀以降、百済の侯国としてその統制を受けるようになっていた。特に同世紀中葉頃からは南朝・宋への偽装遣使のような外交的統制策が導入され、同世紀後葉に至ると、畿内王権は既成事実として百済の属国と化していた。
 このような既成事実化の総仕上げをしたのが、461年以来、百済の総督格で倭に駐在していた昆支王子であり、彼は倭国王に就いた時にはすでに20年近く倭に滞在しており、実質的には渡来人として倭に定住しているに等しい状態にあった。彼は倭の実情を知悉しており、後で見るように倭人女性との間に子もあって、おそらくは在地語もかなり解したであろう。
 そのような中での昆支の倭国王即位は歴史的必然とは言えないまでも、倭側にとっても青天の霹靂ということでは決してなかったのである。
 それにしても、昆支の倭国王即位は通常の王位継承の手続きに従って円満に行われたとは思われない。この点、前記石渡氏は、昆支は加羅(加耶)系倭国に「入り婿」に入ったと解している。同氏は、この加羅系王国を金首露を開祖とする金官加耶国との連合王国ととらえたうえ、金首露=崇神天皇とする独自の見解を示し、例の「日十大王」を「日下[くさか]大王」と読む説に同調しつつ、「日下」とはこの入り婿に入った昆支=応神が開祖として創始した百済系倭国「大東加羅国」のことであるとする。
 この難解な所論の当否はさておいても、「入り婿」というのは王位継承の方法として異例であり、王家が韓族系であったとすれば、なおのこと入り婿という慣習は見られず、受け入れ難いことと思われ、にわかに首肯できない。
 むしろ、昆支の倭国王即位は端的に非合法手段、すなわち武力クーデターによったものと推定してみたい。

河内閥の形成
 昆支が武力クーデターを成功させるには、それなりの軍事動員力と支持勢力とを必要としたはずであるが、渡来人である彼はそれをどのようにして調達したのか。
 この点で注目されるのは、5世紀後半以後、大阪の河内地方を中心に百済系渡来勢力が急増したと見られることである。その考古学的証拠として、この地方を中心として従来の加耶的特徴を持つ竪穴式石室墳や粘土槨墳とは異なる百済系の木棺直葬墳や横穴式石室墳が増加していく。
 それとも関連するもう一つの重要な変化は、騎馬化の進展である。河内地方の5世紀中葉以降の古墳からは騎馬戦用武具が多数出土するほか、馬牧場の遺跡も多く、後に河内地方に馬飼部が集中する理由を裏書きしている。
 これらの事実は、倭(畿内王権)が百済の侯国となって以来、騎馬風習を持った百済人が在地勢力の少なかった河内地方に集中的に渡来・定住するようになったことを示しており、その背景には百済当局による積極的な移民奨励策があったのではないかと考えられる。
 実際、総督として派遣されてきた昆支自身も、河内地方、特に後の安宿[あすかべ]郡に本拠を置いたと見られる。この地域にある飛鳥戸[あすかべ]神社は昆支の子孫とされる飛鳥戸造[あすかべのみやつこ]の氏神を祀る神社であり、その祭神はまさに百済の昆伎王(昆支)であったと推定されているほか、昆支大王陵である誉田山古墳(応神天皇陵)もこの地に所在しているからである。
 実は、本来の飛鳥―言わば元飛鳥―とは、この河内飛鳥なのであって、後にいわゆる飛鳥時代の帝都として定着する奈良側の飛鳥とは、昆支のクーデター後にこの河内飛鳥を本貫とした昆支にちなんで命名されたにすぎない―言わば新飛鳥―と考えられるのである。この点、『記』で河内飛鳥を「近つ飛鳥」、大和飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼ぶのも、河内飛鳥が本来の飛鳥であったことを示唆している。
 このように、河内は5世紀以降、多くの百済系渡来人が集住し、5世紀後葉には百済王弟・昆支を奉じる百済系渡来勢力が形成されるようになっていったことは、後にこの地域随一の豪族となる河内直[かわちのあたい]一族が建てた氏寺を河内寺[こんでら]と名づけたことでもわかる。河内を「コン」と読ませるのは、昆支の「昆」にちなんだ可能性が高く、当時河内と言えば昆支の代名詞であったのではないだろうか。
 ちなみに河内直は百済王族の末裔を称したが、これはおそらく仮冒であり、昆支を支持した百済系渡来勢力の中から台頭した豪族であろう。
 さて、河内地方にはこうした百済系渡来勢力に加えて、例の天孫ニギハヤヒ派、すなわち後に物部氏となる加耶系渡来勢力も本貫を置いていた。かれらの足跡は河内でも最も古い4世紀後半頃からの古墳群である柏原市の玉手山古墳群に見られる。
 この勢力は百済系渡来勢力よりも早く、4世紀前葉か、それ以前に渡来していたが、神武へのニギハヤヒの服属説話にあったように、同系のニニギ朝に一応臣従しながらも独自の勢力を河内地方で保持し、加耶系の土器職人集団を配下に置いて経済的基盤としつつ、新来の百済系勢力とも連合するようになり、自らも百済化していったものと見られる。
 こうして、河内地方には百済‐加耶系の連合体的な軍事‐経済集団―河内閥―が形成されるようになり、これが5世紀後葉には昆支という実力者を奉じて自立化し始めるのである。

河内閥のクーデター
 昆支のクーデターは、百済本国の背後的関与と前回見た河内閥の支持の下に断行されたものと考えられる。ただ、クーデター以前に河内閥が独自の王国を形成していたことを示す大古墳群のような証拠はなく、昆支のクーデターはあくまでも既存のニニギ朝内部から勃発した政変であっただろう。
 従来、5世紀を境に畿内における王墓造営地が三輪山周辺から河内へ移動していき、やがて誉田山古墳や大仙陵古墳(宮内庁治定仁徳天皇陵)のような巨大墳墓が出現することをもって「三輪王朝」から「河内王朝」への交替を説く学説も提起されたが、これに対しては、誉田山古墳や大仙陵古墳が従来どおりの竪穴式石室を保っていることから、墓制の連続性が認められ、王朝交替は考え難いとの批判があり、むしろ王朝交替を否定するのが通説となっている。
 たしかに外部からの征服・併合による王朝交替を想定することは困難であるが、昆支を中心とする河内閥が政権を奪取したからには、河内の役割が重要性を増すことは必然であった。おそらく王墓造営地のみならず、王宮も河内かその周辺に造営されたと思われる。この点、『書紀』には応神天皇の宮として奈良県側(橿原市)の明宮[あきらのみや]と難波の大隅宮[おおすみのみや]の二ヶ所が記されていることは示唆的である。
 このことは同時に、クーデターまで加耶系ニニギ朝が拠点としていた奈良県側の地域も決して打ち捨てられたわけではなかったことを示してもいるのである。そして既存王朝内部からの転覆という形の政変で成立した体制であれば、墳墓築造方式も当初は旧体制のものが継承されたと考えられるのである。

専制王権への転換
 こうして昆支のクーデターが既存王朝内部から生じた政変であったとしても、それは王朝交替に匹敵する変化をもたらし、列島全体の歴史を大きく転換する契機ともなった。であればこそ、昆支即位以降の畿内王権を特に「昆支朝」と呼ぶことに意義があるのである。
 まず血統的な面での変化として、従来の加耶系王家から百済系王家へ転換された。旧王家の運命については後で詳しく検証するが、結論として、かれらは(少なくともいったんは)王権から暴力的に排除されたと見られる。
 次に王権の構造的な変化として、旧加耶系王権が在地系の氏族連合体の上に成り立つ脆弱な構造を持っていたのに対して、昆支朝、特に初代昆支の時代には王への権力集中が基本となった。昆支の権力基盤は、前述したような百済系渡来人勢力を中心とする河内閥にあったから、同質性が強く、王権は従来のように在地豪族らに制約されるようなこともなかったのである。
 そうした権力の大きさを背景に、昆支は「大王」を名乗ったが、単なる「王」でなく「大王」を称したのは、彼がそれだけ超越的な王権の確立を目指していたことを示している。
 この点、昆支の故国・百済は元来高句麗と同系で、高句麗から分離し、馬韓領内へ南下してきた扶余族の王家を土着豪族(いわゆる百済八大姓)が担ぐ、ちょうど旧ニニギ朝と同型の制約された脆弱な王権を特徴としており、こうした構造は昆支大王と同時代の東城王代に王権強化が図られるまで続いていた。昆支大王はこうした故国の王権構造の弱さに照らしても、倭ではより専制的な王権の確立を目指したであろうことは想像に難くない。
 彼はそうした王権の大きさを後世まで視覚的表象としても残すべく、故国・百済でも倭でも前例を見ず、自身の息子に抜かれるまでは最大の墳丘長(430メートル)を誇った巨大墳墓を生前寿墓として築造させた。これが今日まで威容を保つ誉田山古墳である。
 こうした専制君主・昆支大王の右腕となったのは、河内閥の百済系豪族と本国から呼び寄せた百済官人であった。特に475年の漢城陥落後は多数の亡命百済人が渡来してきていたと考えられるので、人材には事欠かなかったはずである。
 こうした百済人勢力は同時に騎馬勢力でもあり、クーデターを成功させた後は昆支朝の軍部を形成するようになったと推定される。もっとも彼の後継者の時代になると、物部氏が王権の軍事氏族として台頭してくるが、昆支大王時代の物部氏の前身勢力は河内閥の一角を占める、どちらかと言えば経済集団であったように見える。
 一方、旧王家を担いでいた在地豪族らはと言えば、かれらはもともと外来の王家に絶対的な忠誠を誓っていたわけではなかったから、おそらく新体制に早期に帰順したものと思われるが、政権中枢からは外されたであろう。この勢力の後退は、5世紀後葉頃から奈良盆地で大型墳墓の造営全般が停止してしまうことにも表れている。あるいは厚葬禁止令が出されたかもしれない。
 かくして、昆支大王は強力な王権をもとに、軍事から宗教にも及ぶ大規模な改革に取り組んでいくことになる。

2012年6月17日 (日)

老子超解:第一章 四つの大

一 四つの大

何か混沌とした物があり、天地より先に生じていた。音もなく茫漠とし、独立不変、周行してとどまることもない。それこそ天地の母体と言うべきである。私はその名を知らないが、強いて仮に名づければ道という。強いて真に名づければ大という。大であればここから果てしなく広がり、果てしなく広がれば遠ざかり、遠ざかればまたここへ還ってくるのだ。
かくして道は大、天も大、地も大、王(人)も大である。域中(大宇宙)にはこの四つの大があり、人はその一つに位置を占める(にすぎない)。人は地を範とし、地は天を範とし、天は道を範とし、道は自然を範とするのである。

 
 通行本では第二十五章という位置づけになるこの章には、老子の世界観が簡潔に集約・総括されている。それゆえ、本連載ではあえて冒頭に移置した。
 老子は道・天・地・人をもって宇宙を組成する四つの要素=四大[しだい]に数えている。こうした四大思想は、中国伝来の木・火・土・金・水の五行思想と大きく異なるものである。
 四大の筆頭に来る「道」は老子最大のキーワードであるが、これを「タオ」と読んで老子=タオイズムという公式を立てる欧米現代思想流の解釈には与しない。
 といって和訓で「みち」と読むと、老子が「道」という語で言わんとするところからかけ離れてしまうので、以後、本連載では特に断らない限り、「」と斜体で表記したうえで「トウ」と音読みすることにしたい(行論上、「みち」と訓む場合はその旨を明示する)。
 かかるとは何かということに関しては、これから随所で様々に語られていくが、老子は言葉に固定的な定義なるものを与えないため、について定義づけることは不可能である。そもそも「」という語自体、仮の名づけにすぎないというのである。
 ただ、本章で述べられているところからすると、は天地より先行する何か混沌・茫漠とした物であって、それは天下の母体であるという。
 この点で想起されるのは、「物質」を意味する英語matterがラテン語で「母」を意味するmaterの派生語であるmateriaに由来するという事実である。老子の「」を、まさにこのような母なる物、言わば大文字で始まるMatterと通約してみると、そのイメージが把握できるかもしれない。
 このような大文字のMatter=にあえて現代的な知見をあてはめるならば―必ずしも正しい方法論とは言えないが―、初期宇宙あるいは初期宇宙を組成した原初的物質のようなすべての物の始原を指し示すものと言えるかもしれない。
 従って、四大の最上位に位置するのはなのであって、この点でも中国思想伝来の天を頂点とする世界観とは異なっている。
 ただ、本章末尾では自然を範とすると説かれており、これなら窮極的な第五の要素として「自然」が考えられているようにも読めるが、「無為自然」という道家思想のキーワードにもかかわらず、老子は「自然」という語をめったに用いないので、この箇所は「=自然」という定式化が生じた後世になって注解的に書き加えられた可能性もある。
 こうしたを頂点とする四大の階層序列の中で、人は最下位の位置づけである。このことは、老子が人間を軽視していることを意味しない。それどころか、後に見るように、老子にはある種ヒューマニズムのモチーフが認められる。
 しかし、老子は人間を「世界‐内‐存在」(ハイデガー)どころか、より広汎に「宇宙‐内‐存在」として把握しようとしている。その意味で、老子は人間中心主義を拒否し、最終的にはに同ずることを人間存在の理想のあり方とするのである。

老子超解:序文

序文

 本連載は独異な中国古典哲学書『老子』を過去の古典としてではなく、現在を超克し、新たな未来の地平を拓くアクチュアルな革命の哲学として大胆に読み直そうとする企てである。
 『老子』は、しばしば東洋的神秘思想の晦渋な奇書として扱われるが、本連載ではそうした神秘主義的解釈には与しない。むしろ『老子』をより世俗的・実践的ですらある革命思想として読み解いていく。
 他方、『老子』はポスト・モダンの欧米思想界において、いわゆるニューサイエンスの隆盛の中で、「タオ(道)イズム」という把握のもとに新たな脚光を浴びた時期もあったが、本連載はこうした疑似科学的な一種オカルティズムに『老子』を援用することも拒否する。この点では、2000年以上も遡る時代に現れた『老子』の古典性を直視し、同書を現代的神秘思想に仕立て上げようとする恣意的解釈にも与しないのである。
 では、『老子』のアクチュアルな革命の哲学としての意義はどんなところに見出せるのか。その具体的な抽出は各章の解釈に委ねていくとして、ここでは総論的に述べておこう。
 それはまず、『老子』が現代世界を形作る三つの教条、すなわち合理主義・実証主義・現実主義の対極で思考しようとしていることである。
 この三つの教条とは、要するに論理学・科学・政治経済学という三つの主流的学術に対応するが、これらの学術の隆盛は形而上学としての哲学の没落をもたらし、思考の凡庸化・陳腐化を結果している。
 これに対して、『老子』の思考は形而上学のさらに上を行こうとする、言わば超形而上学である。逆に言えば、現代世界とは徹頭徹尾反老子的世界であると言ってよいのであるが、それだけに『老子』は今、最も根源的な批判哲学を提供し得るのである。
 このことは、『老子』が神秘思想としてとらえられがちなゆえんでもあるが、繰り返せば本連載ではそうした神秘主義的解釈を拒否する。
 実際、『老子』の通行本全81章の構成をよく見ると、極めて深遠な内容の哲学が開示される部分と、一転して実践的な政論が展開される部分とに大別できることがわかる。
 そこで、本連載では通行本で上篇37章と下篇44章に分ける構成を廃し、哲理篇47章と政論篇34章という評者独自の構成に組み換えて注解していく。
 これにより、しばしば「老荘思想」としてひとくくりにされる後発書『荘子』との相違が明瞭となる。『荘子』はたしかに『老子』と系譜的なつながりを持つが、決定的に異なるのは『老子』のような政論を伴わないことである。『荘子』は神秘性・宗教性が一段と濃厚である。そのため、本連載は「老荘思想」というくくり方を拒み、『老子』を老子固有の哲学として読み解いていく。
 ところで、『老子』の叙述形式に関する魅力的な特色は、韻を踏む詩文の形で展開されることである。この点では、有名な「子の曰く」の書き出しで始まる儒教のバイブル『論語』とは好対照である。
 しかも『老子』は時折一人称の語りが混じる教説詩の形をとる点でも、師の講説の形で語られる『論語』とは大いに異なる。教説詩という形式の点ではソクラテス以前の哲学者、特に内容的には老子と好対照とも言える存在論を説いたパルメニデスに近いと言えるかもしれない。
 『老子』の各断章には様々な教説が含蓄されているが、それは『論語』や叙述形式の点では『論語』の社会主義版とも言うべき『毛沢東語録』のように、一人の偉大な思想家の権威的な語りとして展開されるのではなく、小さなつぶやきのような詩の形で語られるのである。言わば、大文字の〈主体〉なき語りである。
 このことは、そもそも『老子』の原著者とされる老子その人が伝説的な人物であって、実在性も確証されない影のような人間であることによっていっそう倍加されている。
 おそらく、書物としての『老子』は名もなき一介の在野哲学者が残した何らかの断片的草稿もしくは口述筆記をもとに、後世の人々が徐々に書き足して一応今日の通行本のような形で完成された集団的創作の所産であるに違いない。
 そうした集団的な語りとしての『老子』は、「著作権」なる観念にとらわれない思考の共産・共有という未来の思考のあり方にも強い示唆を与えるものと言えるのではないだろうか。
 さて、前口上はこれくらいにして、早速『老子』の世界に没入していこう。

2012年6月12日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第39回)

第6章 略

四 明から清へ(続き)

(3)最後の王朝・清
 清の北京占領後も、明の残党勢力は若手皇族を立てて南京や広東、台湾など南部で根強い抵抗を続けたため、清がどうにか中国本土を平定した1661年には、皇帝もホンタイジの子・順治帝から、孫の康熙帝の代になっていた。
 しかし、清の全土平定に功績のあった呉三桂をはじめとする漢人三部将を各地に藩王として封じたことが禍根となって、三藩の乱(1673‐81)が勃発した。また台湾では近松門左衛門の浄瑠璃『国姓爺合戦』でも描かれた日本人の血を引く鄭一族が1683年まで抵抗を続けた。結局、台湾を含めた全土支配の確立は、前身の後金建国から4代70年近くを要したことになる。
 そうして体制が固まっても、今度はシベリア・極東方面への東進政策を精力的に追求するロシアに直面しなければならなかった。その結果、清は1689年、ピョートル1世(大帝)時代初期のロシアとの間でネルチンスク条約を締結し、国境線と通商について取り決めた。ロシアとの間では、清が外モンゴルを支配下に収めた後の1727年にもモンゴル方面の国境画定と通商関係を取り決めたキャフタ条約を結んでいる。
 このようにして、清は長い時間をかけながら18世紀の前半までには本拠地の東北部を含む中国本土に加え、史上初めて台湾を直轄地としつつ、モンゴル・西域(新疆)・青海・チベットを藩部に持ち、朝鮮・ベトナム・タイ・ビルマを属国として間接支配する大帝国となっていた。北京を首都として統一的に実効支配が可能な体制としては限界まで膨張していたという点で、清は中国最後の王朝となる予兆があった。
 清の統治体制は、やはり最後の王朝となるにふさわしく、先行諸王朝の集大成とも言うべきものであった。基本的には明の皇帝独裁制を継承しつつ、5代雍正帝[ようせいてい]の時には、元来軍事参謀機関であった軍機房を独立の軍機処に格上げして最高政務機関とし、皇帝を中心とする少数側近政治を強化した。そして同じく明にならい、朱子学を官学と位置づけ、科挙制度を活用した。
 その一方で、かつての同系金のような漢化の方向はとらず、元と同様に異民族王朝の性格を保った。しかし、漢人を権力中枢から遠ざけた元の轍は踏まず、満漢偶数官制を採用して、漢人を体制に取り込み懐柔しながら、漢人男性にも満州人の辮髪を強制するなど、満州人優位の民族政策を採った。また厳しい言論統制を敷き、たびたび大規模な言論弾圧を断行した。
 他方、明末からのイエズス会士を中心とした宣教師の来航はいっそう活発化するとともに、彼らを通じて中国文化がヨーロッパに紹介され、ヨーロッパ人の中国への関心を高めた。こうした「関心」は文化的な方面のみに限らず、後年ヨーロッパ列強の中国への領土的関心を高めることにもなったであろう。
 この間、中国のキリスト教信者も着実に増加し、明末にはすでに15万人に達していたというが、初期の清はキリスト教に寛容であった。それはイエズス会が中国伝道の方針として中国伝統の祭祀(典礼)を尊重しながら布教していたことにもよった。ところが、イエズス会の後に参入してきた他派の宣教師たちはライバル意識もあってイエズス会の方針を教義違反としてローマ教皇に訴え、教皇にイエズス会の布教方法を否認させることに成功した(1704)。
 これに憤慨した康熙帝は、対抗措置としてイエズス会宣教師以外の布教を禁じた。さらに雍正帝は1724年、キリスト教布教を全面的に禁止するに至った。
 このいわゆる「典礼問題」もひとつのきっかけとなって、清はこれ以降対外的に消極策に転じる。それは通商関係にも現れ、6代乾隆帝[けんりゅうてい]時代の1757年にはヨーロッパとの貿易を広州一港に限定したうえ、旧来の朝貢貿易の形式を強制する貿易制限措置を導入した。しかも貿易事務は政府指定の特権商人に委ねられた。
 この時代のヨーロッパの対中貿易は先行のポルトガルやスペインを押しのけて英国がほぼ独占するようになっていたため、貿易制限を不服とする英国はたびたび特使を派遣して開港と自由貿易を要求したが、受け入れられなかった。
 こうして清はなし崩しに事実上の鎖国体制に入っていくのであるが、それは同時期の日本ほど徹底したものではなかったので、やがて武力でもって鎖国を打ち破ろうとするヨーロッパ列強の攻勢が日本より先に強まっていく。
 そのうえに、18世紀後半には表面上の太平の下で社会矛盾が広がっていた。特に建国以来の八旗制度が事実上崩れ、旗地の売買により地主制的なものに変質していた。それに伴い、土地の集中化が進んだ。佃戸制も不変で、遠征の多発化による重税は民生を圧迫した。加えて、太平による人口増は土地・食糧不足を招いた。結果は、お定まりの農民反乱であった。
 特に、乾隆帝晩年院政期の1796年に始まった白蓮教徒の乱は10年にも及び、これを容易に鎮圧できない八旗を中心とする正規軍の弱体化が露呈した。代わって乱の鎮圧に功績のあった郷土義勇軍(郷勇)を組織した地方官や地主層の声望が高まり、彼らの発言力を高めるきっかけをなしたのであった。この大乱がようやく鎮圧されても、「反清復明」を掲げて漢人の民族解放を目指す秘密結社(会党)が深く根を張るようになる。
 このようにして、清朝は内憂外患の19世紀に滑り込んでいくのであった。

2012年6月11日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第38回)

第6章 略

四 明から清へ

(1)明と中国社会の変容
 ヨーロッパが「西洋近代」の黎明期にさしかかろうとしていた頃、中国大陸では元朝=モンゴル帝国の衰退が顕著となっていた。そして第4章で触れたように、仏教結社の白蓮教と結びついた農民反乱(紅巾の乱)が漢民族のレジスタンスに転化していった。
 そうした中から貧農出身で托鉢僧でもあった紅巾軍の部将・朱元璋[しゅげんしょう]が頭角を現す。彼は江南を基盤として勢力を拡大し、1368年、応天府と名づけた後の南京で帝位に就き、明を建国した。そして1381年までに元朝を中国大陸部から駆逐し、全国統一に成功する。
 こうして誕生した明は一種の農民革命の結果成立した農民王朝であり、従ってまた中国史上初めて穀倉地帯・江南を基盤に創始された―3代永楽帝の時、王都は北京へ遷される―全国王朝であった。
 このような王朝の出自はしかし、その政策の革新性を意味しなかった。太祖・洪武帝となった朱元璋は元朝以上に皇帝独裁の集権制を強化した。この点では、図らずもヨーロッパの君主主権国家体制と共通の方向が目指されたのである。
 一方、洪武帝は佃戸を抱える大地主を抑圧するポーズは見せたものの、大土地所有‐佃戸制に根本的なメスを入れることは避けた。そして財政基盤を固める目的から、人口調査に基づき新たな村落組織・里甲制を導入し、これを単位に厳正な租税台帳・土地台帳に基づいて徴税する収奪体制を整備した。
 明時代を特徴づける海禁政策と室町時代の日本も「勘合貿易」の形で参加した朝貢貿易も、中国中心の中華秩序の再構築を目指す復古的な性格のものであった。この政策は永楽帝の時には1405年以降、宦官・鄭和[ていわ]に実行させた七次にわたる南海遠征のように、ヨーロッパの大航海に先立つ、逆向きの大航海という成果も生んだ。しかし、私貿易の統制は、15世紀初頭に尚氏(第一尚氏)によって統一された琉球王国や、マレー半島のイスラーム系マラッカ王国のように朝貢関係を利用した中継貿易で繁栄する小国も出す一方で、日本人に中国人も加わった倭寇のような略奪的密貿易に悩まされる結果ともなった。
 室町幕府の勘合貿易はこうした倭寇根絶策として始まったが、幕府の衰退後、再び倭寇が増加したことから、明は1567年以降、海禁を緩和せざるを得なくなった。
 その結果、先に1517年以降明と交易を開き、先に明からマカオに居住権を与えられていたポルトガルがもたらす日本産銀と、かねてフィリピンのマニラに拠点を置いていたスペインがもたらすメキシコ産銀とが中国産生糸と引き換えに中国国内に流入・流通するようになった。従来から、江南を中心に発達していた商工業は貨幣経済を浸透させ、特に銀の需要を高めていたのだった。明朝もこうした経済的現実を直視して銀による租税代納を容認し、最終的には唐以来の両税法を改め、あらゆる税を銀納で一本化する一条鞭法を導入するに至った。しかし、こうした銀経済は農村においては銀を入手しにくい佃戸や零細自作農の負担増と階層分解を助長していく。
 このような明朝の晩期は、50年近くも在位した万暦帝の時代でもあった。10歳で即位した同帝の初期は父・隆慶帝の遺命により実権を持った宰相・張居正の改革策が行われたが、彼の死後、万暦帝は伝統の宦官重用に走り、自らは政務を放棄して享楽にふけった。さらに、内外での動乱多発のため軍事費調達を目的とする増税により民生は圧迫され、農民反乱が頻発するようになる。
 他方で、この時代はイエズス会の宣教師が到達し、彼らを通じて中国が初めて本格的にヨーロッパと対面する端緒ともなった。その先陣を切って1582年にマカオに来航したイタリア人のイエズス会士マテオ・リッチは1601年に北京入りして万暦帝に謁見、帝の好遇を得て翌年から北京での布教活動を許可された。彼は中国文化を尊重し、自ら中国語を習得して西洋の学術を翻訳紹介しながら宮廷の士大夫官僚層に信者を獲得していった。この時期の中国に姿を現したヨーロッパはまだ宗教と学問の衣をまとっていたのだった。
 万暦帝没後の明朝は後継問題で揺れるとともに、宦官が絡む官僚間の党争が重なり、混乱を極めた。最後の皇帝・崇禎帝の改革も実らず、各地で農民反乱が勃発、中でも陝西[せんせい]地方の反乱軍は李自成に率いられて北京を占領し(1644)、崇禎帝を自殺に追い込んだ。ここに明朝は事実上崩壊する。農民革命によって成立した王朝が農民革命によって終焉する歴史の皮肉であった。

(2)清の成立
 李自成はしかし、朱元璋とはなり得なかった。彼は北京で新たな国号・順を称し、新王朝を開始しようとしていたが、軍紀の乱れから民衆の不信が募っていた。しかし、そればかりでなく、北京を狙うもう一つの大勢力が東北から迫っていた。清である。
 清は万暦的在世中の1616年、かつて金を建てた女真族の部族指導者アイシンギョロ・ヌルハチ(太祖)が部族を統一して新たに建てた後金を前身とする。彼は部族の軍事・行政組織として八旗を編制して体制の基盤とした。八旗とは各7500人の男子から成る八個軍団で、これに属する旗人には旗地という一種の封土が支給される準封建的な制度であった。
 ヌルハチを継いだ息子ホンタイジ(太宗)は1635年、モンゴルの有力部族チャハル部を征服した際に入手した元朝以来のハーンの玉璽を譲り受け、翌年正式に皇帝位に就いた。そして国号を清、民族名も満州に変更した。
 そのうえで、彼は明と冊封関係にあり、女真族を敵視していた朝鮮を圧迫して服属させた(1637)。朝鮮では清への服属の是非をめぐって党争が起きるが、結局、以後20世紀初頭の終焉まで朝鮮王朝は清の属国として間接統治下に置かれることとなった。ホンタイジはさらにモンゴル諸部族も征服したうえ、明から投降してくる漢人も受け入れつつ、満州八旗に準じた蒙古八旗、漢軍八旗を編制し、軍を増強していった。
 それでも、清は末期にある明を攻め切れずにいたところ、北京を占領した李自成の軍門に降ることを潔しとしない明軍の武将・呉三桂らが明の対清防備の砦であった長城東部の山海関を開いて清軍を引き入れた。これによって清軍は北京入城を果たし、李自成の勢力を駆逐して北京を制圧することに成功した。李自成は逃亡中、民衆に殺害された。

2012年6月 5日 (火)

天皇の誕生(連載第22回)

第六章 「昆支朝」の成立

応神天皇=八幡神は平安時代に入っても「皇大神」「我が朝の大祖」などとして皇室から崇拝されており、『日本書紀』の叙述上も応神紀からは徐々に史実性が増すと考えられている。この応神天皇とは何者であり、どんな王朝の「大祖」であったのか。

(1)「昆支=応神」仮説

「昆支大王」の実在
 前章で「倭の五王」の分析から武=百済王子・昆支との結論を導いたが、倭国王としての昆支の実在を示す傍証として、和歌山県隅田八幡[すだはちまん]神社所蔵の国宝・人物画像鏡銘文にある「癸未年八月日十大王年」という文言が注目される。
 この画像鏡の年代と銘文の意味については諸説あるが、年代については、この鏡は中国の南朝・宋時代に製作された尚方作人物鏡のオマージュと見られており、日本では6世紀前葉から中葉にかけてのいくつかの古墳から尚方作人物鏡が出土することに照らして、6世紀前半の癸未年=503年が妥当と考えられる。
 銘文の詳しい内容は次章で改めて取り上げるが、大要として「癸未年八月日十大王年」に、「斯麻」が「男弟王」の長寿を願ってこの鏡を作らせたというものである。
 鏡の年代を6世紀前半と見た場合、これは「日十大王」の治世中、503年に斯麻(=百済第25代武寧王)が倭の「男弟王」に献呈したものと解する説が有力である。
 この場合、「日十大王」とは503年当時に在位した倭の大王を指しているわけであるが、この「日十」の読み方にも諸説あり、「日十」という日付と解するのがむしろ通説のようである。しかし、そう読むと、「大王年」の部分が宙に浮いてしまうし、製作年を示すのに日付まで入れるのは、この種の儀礼的製品ではかえって細かすぎて不自然な感がある。
 私見はやや人を食ったような解釈になるが、「日十」とは「昆支」の各漢字のかんむり部分だけを抜き出した略字体と解する。実は、銘文の中では他にも「銅」を「同」、「鏡」を「竟」と偏を省略した略字が使われているので、略字体と見ることは必ずしも奇をてらった解釈ではない。
 従って、「日十大王」=「昆支大王」であって、倭国王となった昆支は「昆支大王」と呼ばれていたことが示唆されているのである。
 それでは、なぜ武寧王はわざわざ昆支大王の頭越しに大王より下位の「男弟王」なる人物に鏡を贈ったのかという問題は、贈り主である武寧王と昆支大王の関係、また相手方の「男弟王」の素性とこれら三者の関係を解明しなければ解けない問いであるので、次章に回すことにしたい。

画期的な石渡説
 こうして、昆支大王の実在が考古学的にも証明されそうであるが、さらに進んでこの倭国王としての昆支こそ応神天皇であるとの説を提唱したのが、在野古代史家(元都立高校教諭)石渡[いしわたり]信一郎氏であった。その議論は、『記紀』をはじめとする内外の史書の解読と考古学的証拠を照合した緻密かつ大胆なもので、その詳細は主著『応神陵の被葬者はだれか』(三一書房)にまとめられている。
 従来から、応神天皇を新王朝の開祖と見る説は少なくなかったが、それらは応神が土着の倭人であることを当然視したものであり、応神が渡来人であることを明確に主張するばかりか、その素性として、皇室自身が「ゆかり」をほのめかす百済王家の血統と結びつけて解明しようとする学説は見当たらなかった。
 そうした点で石渡説は画期的であり、現皇室も元をたどっていけば応神に行き着くことからして、応神が明確に百済人であったと結論づける同説は政治的にも大きな波紋を起こす微妙さを孕んでいる。
 私見もこの石渡説の影響下にあり、本連載自体、石渡氏の著作との出会いなくしては生まれなかったと言うべきほどのものである。ただ、最終的に石渡氏と共有しているのは、「武=昆支=応神」という根幹的な定式の部分であって、昆支=応神朝成立の経緯やその後の王朝の展開といった部分では石渡氏とは異なる考えに赴くこととなった。
 そうした違いについては該当箇所で言及することとして、ここでは根幹的な昆支=応神説のもう一つの重要なポイントとなる言語学的根拠についてまとめてみよう。

言語学的検証
 応神天皇の諱は「誉田別」[ほむたわけ]といい、和風諡号も「誉田天皇」(ほむたのすめらみこと)であるが、この「ほむた」の由来について、『書紀』では応神の腕に生まれつきホムタ(鞆:弓を射るときに左手首に当てる丸型の革製道具)に似た筋肉が付いていたことによるなどと、それこそ鞆のように取ってつけたような説明を与えているが、これは『書紀』が問題含みの人名や地名の由来説明としてよく見せる一種の語呂合わせにすぎない。
 一方、宮内庁治定応神天皇陵である誉田御廟山古墳の「誉田」は「こんだ」と読むことからして、「誉田」はかつて「コンダ」とも読まれていたことが知られるのである。
 この「コンダ」が昆支[コンヂ]の転訛であることは比較的容易に推測できるであろうが、これはまた「ホムタ」とも転訛し得るのである。なぜなら、語頭のkとhとは音声学的に入れ替わりやすいからである(石渡氏も挙げている例として、『書紀』神代紀に岐神[ふなとのかみ]を元は来名戸の祖神[くなとのさえのかみ]といったとある)。
 ところで、「ほむたわけ」の「わけ」(=別)は、他にも初期天皇の皇子名によく見られる語尾で、その意味について、景行紀では景行天皇の70人余りの皇子が地方に封ぜられて各国に赴いた別王[わけのみこ]の子孫のこととされているが、この説明は応神にはあてはまらないし、やはり語呂合わせの感が強い。
 むしろ「ワケ」とは軍事指導者の称号で、姓の一種とする説が有力である。この点、昆支は中国南朝から「征虜将軍」の称号を授与された武人でもあったから、百済の総督格として赴任していた倭でも軍事指導者「ワケ」の姓を与えられていたと見ても不自然ではなかろう。
 そうすると、「誉田別」とは「昆支将軍」といった意味合いになってくるので、誉田別=応神天皇とはまさに倭国王となった武人・昆支の姿にほかならないである。
 「日十大王」の文字が刻まれたかの人物画像鏡が八幡神=応神天皇を祀る隅田八幡神社に所蔵されているという事実も、日十大王=昆支大王と応神天皇の同一性を暗示しているのではなかろうか。

2012年6月 4日 (月)

天皇の誕生(連載第21回)

第五章 「倭の五王」の新解釈

(4)「武」の解明  

「武」の独自性
 『宋書』によると、興が死去した後、その弟・武が立ち、宋にとっても王朝最末期の478年(その前年の遣使記録もあるが詳細不明)に遣使してきたことが記録される。この「五王」最後を飾る武の遣使にはいくつか独自な点がある。
 まず、かつて済が叙任されていた「使持節都督六国諸軍事」に、珍以来再び「百済」を加えて、「使持節都督七国諸軍事」を自称したうえ、「安東大将軍、倭国王」を名乗り、上表文中では新たに「開府儀同三司」という称号も請求したことである。
 ここで「開府儀同三司」とは宋朝中央政府の三大高官である三司(大尉、司徒、司空)と受ける儀礼が同格で、府(官庁)を開設できる地位という意味の名誉称号であり、宋朝でこの称号を帯びていた外国王は四人しかおらず、その一人が時の高句麗王・長寿王であった。つまり、武は同時代に在位した高句麗王と同等の称号を嘱望したのである。
 もう一つは、武が『宋書』でもほぼ全文が引用されるほどの本格的な駢儷体[べんれいたい]漢文でしたためた上表文を提出し、その中で高句麗を特に敵視して、その無道性を訴え、高句麗征討の決意を述べつつ、開府儀同三司の称号を請求していることである。
 このことが意味するのは、武自らに高度な漢文素養があったか、もしくはそうした素養を持つ官人を擁していたらしいこと、さらに高句麗に対して並々ならぬ敵愾心と対抗意識を燃やしていたらしいことである。
 これに対して、宋側では武をさほど高くは評価せず、「安東大将軍、倭国王」は請求どおりに授号したものの、「七国諸軍事」は認めず、済と同じ「六国諸軍事」にとどまり、開府儀同三司も認めなかった。
 こうした過少な成果をもって、武の遣使外交を失敗と見る向きもあるが、武の遣使の目的は改めて「倭国王」を認証してもらうことに主眼があり、それ以上のことは積極的に希望していなかったようにも思われるのである。その証拠に、武はあれほど熱意を込めた上表文を提出しておきながら、以後中国遣使自体を中止してしまい、倭の中国外交は再び1世紀以上も途絶することになるからである。

百済亡国の危機
 では、このような独自性を持つ武―我々の仮説によれば興=百済蓋鹵王の弟に当たる―とはいったい誰なのかという問題はしばらくおくとして、ここで武が遣使した478年前後の朝鮮半島情勢を見ておきたい。
 半島では、高句麗が、4世紀末に百済を破って南は臨津江と漢江中流域にまで領土を伸張させた広開土王の事業を継承した長寿王代の427年に王都を中国大陸側の集安から朝鮮半島内の平壌へ遷し、南進政策を本格化させていた。その名のとおり、長寿を保ち80年近くも在位した長寿王は本来の宗主である中国北朝・魏のみならず、南朝・宋にも遣使して、例の開府儀同三司の称号を得るような二股外交を展開する巧みさも示した。
 これに対して、ちょうど高句麗の平壌遷都の同年に即位した百済の毗有王が外交政策を転換し、新羅との同盟に踏み切ったことにより、それまでの高句麗・新羅対百済の対立が高句麗対百済・新羅の対立軸に転化したことは既に述べた。
 こうした中で毗有王は宗主である南朝・宋との関係をいっそう強化する一方、百済の侯国であった倭に対する統制強化も図って、前回見たような「偽装遣使」を始めたのであった。
 455年に父・毗有王の死を受けて即位した蓋鹵王も父王の政策を継承し、高句麗の南進阻止に努めるが、高句麗の脅威は全く減じることはなかった。そこで、彼は472年、高句麗の基本的な宗主であった北魏へ初めて遣使し、高句麗の非道性を訴えるとともに、救援軍の派遣を要請したが、北魏側は高句麗をかばう態度を見せ、軍の派遣を拒否した。
 こうした中、475年、高句麗はついに百済の王都・漢城に侵攻し、これを陥落させたうえ、蓋鹵王を殺害する挙に出た。百済側は抗戦できず、蓋鹵王の子・文周を王に擁立しつつ、南の熊津[ゆうしん]に遷都して亡命政権を樹立する事態となり、百済は亡国の危機に直面したのである。
 しかし、この熊津亡命政権も安定せず、477年には文周王が暗殺され、その子で13歳の三斤王[さんきんおう]が即位する。この少年王の下で、百済八代姓の一つ、解氏が実権を握り、独裁政治を行った。
 武が遣使した478年とは、このように高句麗が強大化し、全盛期を迎える中、百済は亡国の危機に立たされるという緊迫と混乱の極みにあった時期に当たっていたのである。

「武」の正体〈1〉
 さて、それでは倭の五王の最後を飾る「武」とはいったい誰であろうか。通説によると、「武」とは第21代雄略天皇の名、大泊瀬幼武[おおはつせのわかたけ]の「武」と符合するとして雄略天皇に比定したうえ、そこから遡って残りの四王を『書紀』に登場する天皇にあてはめようとする(その具体的な比定については諸説がある)。
 しかし、大泊瀬幼武は天皇の諱(本名)ではなく、没後に追贈された諡であるので、それがたまたま一字だけ符合する(ただし、『記』では「若建」と表記される)だけで同一視するのは、語呂合わせに等しいと言わざるを得ないであろう。
 この点、先の百済仮冒遣使説によると、『宋書』で興の弟と記される武は興=蓋鹵王の弟ということになる。ところが、朝鮮側史書の『三国史記』には蓋鹵王の弟は見えないため、『三国史記』による限り、武の該当者なしということになる。
 しかし、ここで『書紀』が一つの手がかりを与えてくれる。それは、雄略4年4月条に、『百済新撰』という今日では逸失した史書を引用する形で、加須利君[かすりのきみ](=蓋鹵王)が弟の昆支君[こんぢのきみ]を遣わしたとして、百済王弟昆支渡来の記事が見えることである。この昆支は『三国史記』では蓋鹵王の子として登場し、『書紀』(及びそれが依拠する『百済新撰』)とは食い違っている。いずれが正しいのであろうか。
 この点、『宋書』百済国伝は458年の余慶(蓋鹵王)の遣使を記録するが、その時に同時に軍号を授号された重臣の一人に余昆の名が見える。この余昆は、昆支と同一人物と見られるが(余は高句麗と同系の扶余族出自である百済王家が扶余の「余」を取って姓としていたもの)、この時、この人物は百済の称号である「左賢王」を号したうえ、宋からは「征虜将軍」を授号されている。
 ここに「左賢王」とは、百済を含む北方騎馬民族系国家では君主の後継者で、軍権を掌握する高い位であるうえ、宋から受けた「征虜将軍」は蓋鹵王自身が授号された「鎮東大将軍」に次ぐ格式の軍号であるから、この昆支は相当な地位にあったことになる。
 一方、同時に授号された百済重臣に『三国史記』では蓋鹵王の子で、昆支の兄とされる後の文周王と見られる余都という人物がいるが、彼は余昆の「征虜将軍」より下位の「輔国将軍」を授号されている。
 すると、弟の方が兄よりも高い位を持ち、上位の将軍号を授与されたことになり、長幼の序に反するので、むしろ『書紀』の記述どおり昆支は蓋鹵王の弟で、蓋鹵王の子・文周は昆支の甥に当たると解した方が自然である。
 すると、蓋鹵王は『書紀』の記述どおり、王弟・昆支を辛丑年(461年)に派遣してきたと読むことになるが、この昆支派遣の目的について、『書紀』は『百済新撰』を引きつつ、天皇への奉仕のためとする。
 しかし、『書紀』は元来、神功皇后の「三韓征伐」以来、百済を含めた朝鮮半島が倭の支配下にあったとの筋書きであるから、倭を上国として百済が奉仕するという話になるが、これは、百済に関しては従来述べてきたとおり正反対であり、この時期には倭が百済の侯国なのであった。
 ただ、百済史書と見られる『百済新撰』にも同様の表現が見られるのは、おそらくこの書は7世紀後半の百済滅亡後に倭へ亡命してきた百済知識人によって編纂され、朝廷に提出された「和製」の百済史書の一つ(他に『百済記』や『百済本記』もあった)であるため、朝廷への政治的配慮から倭を上国として叙述されていたものと見られる。
 実際のところ、蓋鹵王は父・毗有王の政策を継承発展させて、王・侯制を強化し、侯国・倭への統制をいっそう強めるため、一種の総督として王弟の左賢王・昆支を派遣してきたものと考えられるのである。『書紀』によると、昆支にはすでに5人の子があったというから、「子連れ」での本格的な常駐であったようだ。
 としても、昆支が「倭国王・武」を名乗って宋に遣使したということが果たしてあり得るであろうか。

「武」の正体〈2〉
 「武」という一字名は、百済本国でも軍事を掌握する左賢王の称号を持ち、すでに宋から「征虜将軍」の軍号を授与された武人でもあった昆支がいかにも選択しそうな一字名である。
 ところが、武=昆支と解すると、『三国史記』の叙述とは完全に矛盾してしまう。というのは、彼は漢城陥落・蓋鹵王殺害の後、477年4月に兄・文周王が建てた熊津亡命政権の内臣佐平(百済王廷の首相格)に任命された後、わずか3ヶ月後の同年7月には死去したとあるからである。この死亡記事が正しいとすれば、昆支が倭国王として478年に宋に遣使できたはずがないことは明らかである。
 しかし、昆支は本当に「死んだ」のだろうか。『三国史記』は彼の死因も死亡の状況も一切伝えていない。一般的に言って、漢城陥落から熊津亡命の時期は、百済の亡国危機であり、この間の記録の信頼性には限界があるので、要人の死亡記事も鵜呑みにできない。
 この点、当時の熊津亡命政権は極めて不安定で、高句麗がその気になってさらに南下・追撃してくれば命運が尽きかねない状況であったから、そういう事態も計算に入れて、百済としては侯国・倭に海外亡命政権の受け皿として目を付けても不思議はない。そこで、すでに461年以来、倭に駐在して現地で一定の基盤を築いていた昆支を倭国王に擁立し、「百済系倭国」を建てるという戦略が立てられたのではないだろうか。
 そうだとすると、昆支はいったん帰国して477年4月に百済の内臣佐平に就いたが、3ヶ月で倭に舞い戻って、今度は倭国王に就いたということになる。従って、477年7月の昆支の「死亡」とは、彼が倭国王に就いたため、百済王籍を正式に離脱したことを意味しているのではないだろうか。
 すると、彼は477年に倭国王に即位し、同年もしくは478年にはさっそく宋へ遣使して「倭国王・武」として冊封を受けたのである。これは従って、もはや従来のような倭国王名義を使用しての偽装遣使ではなく、名実ともに倭国王としての遣使であった。
 こう解することで、武の遣使の独自性として指摘したことの多くが解けてこよう。まず、彼が一度「倭国王」として認証されただけで満足したのは、まさにそのことに意味があったからである。
 また、百済を含めた「七国諸軍事」の除正を求めたのは、478年当時は文周王暗殺の後、少年王・三斤の下で解氏独裁が行われており、百済は内政も混乱し、まさに亡国の瀬戸際にあったから、昆支は倭国王として、従来とは逆に倭側から百済を統制する意図を持っていたものであろう。
 さらに、上表文で高句麗をことさらに敵視し、対抗上高句麗王と同じ開府儀同三司の称号を請求したのも、高句麗による漢城陥落・蓋鹵王殺害という事変の後ではごく当然であったろう。
 特に注目されるのは、上表文中で「父兄」の死に言及し、「父兄の志」を継いで高句麗征討の決意を述べていることである。ここで父とは文中「亡孝済」とも記される済=毗有王を指しているが、兄にも言及するのは殺害された蓋鹵王をしのんでのことであろう。
 ちなみに、この上表文は高句麗の無道性を強調し、高句麗が海路を妨害するので宋に到達できないことを縷々訴える文面や、自国を辺境の地とし、王自身を愚臣としてへりくだる筆法などの点で、蓋鹵王が472年に援軍を要請するため北魏皇帝に提出した上表文と酷似しており、同書を参照していた可能性もある。これも、倭国王・武が蓋鹵王の弟・昆支だとすれば、ごく自然に理解できることであろう。
 このような「武=昆支」という定式はつとに在野古代史家・石渡信一郎氏が提唱しているところであるが、次章では改めてこの定式を倭王権の系譜とも絡めながら、さらに考察していくことにする。

5世紀代の「倭の五王」とは、一連の倭国王ではない。讃と珍はたしかに倭国王(畿内王権の王)であるが、済と興は倭国を侯国として統制した百済王による倭国王名義の冒用である。そして、最後の武は正式に倭国王として即位した百済王子・昆支であるという意外な結論に到達した。
では、その昆支の新王朝とはどのようにして開かれ、どのような政策を展開していったのであろうか。

2012年6月 1日 (金)

犯罪と非処罰(連載第27回)

22 汚職について

pencil汚職の罪とは、古典的な理解によると、公務員の賄賂犯罪のことであったが、今日ではより広く公共的な職務を持つ者による地位を利用した利得行為全般―賄賂はその代表例の一つにすぎない―を包括するようになっている。
 このような考え方に立つと、汚職の罪に関して本質的な官民差は認められず、いわゆるみなし公務員に限らず、法人企業・団体の役員や弁護士・医師などの公共的な職務に従事する有資格者に至るまで、統一的に汚職の罪の主体とされるべきことになる。
 従って、例えば一般企業の取締役が賄賂を受け取れば、公務員と同様に汚職の罪が成立するし、賄賂を供与した側もその共犯の罪に問われるのである。一方で、公務員が監督する事業者から金品を受け取ったり、接待のようなサービス提供を受けたりした場合、賄賂性がなくとも汚職の罪が成立することになる。

pencilこうした汚職はたしかに「犯罪」ではあるが、窃盗や殺人などの一般犯罪とは全く罪質を異にし、その本質は公共的な職務に内在する公正性保持の倫理コードに対する背反である。
 従って、その処遇としても矯正処遇に付するほどの必要性は乏しく、むしろ公職・役職からの一定期間または恒久的な追放処分のほうが事理に適っている。それに加えて、利得の没収または追徴を必要的に併科することで、汚職が割に合わないことを銘記させる効果が上がるであろう。

pencilこのような汚職の罪の特性からすると、その対策としても警察・検察のような捜査機関に依存した取締りより、オンブズマン制度を通じた汚職防止策のほうが効果的である。
 このような「汚職防止オンブズマン」は捜査機関ではなく、その基本的任務は汚職防止の観点からの監察にあり、内部通報や外部からの情報提供を受けて問題事案を調査し、是正勧告を発することにある。
 そのために必要と認めるときは、オンブズマンは裁判官の発する令状に基づいて関係者を召喚し、関係証拠物件の提出を求める権限を持つ。さらに犯罪としての解明を要すると判断したときは、捜査機関に告発し、正式捜査を求めることもできる。
 それと同時に、汚職防止のための法制や個別的な対策について調査研究し、提言することもオンブズマンの重要な任務である。

pencilところで従来、国会議員の政治資金獲得と結びついた政・官・財の癒着から生じる汚職はジャーナリズム用語で「疑獄」と称され、その摘発は捜査機関にとって「巨悪」へのチャレンジとして称賛される傾向もあった。日本ではとりわけそうした疑獄捜査の花形として検察庁の特別捜査部(特捜検察)が英雄視されてきた。
 しかし、行政・司法に属する捜査機関が国民代表たる立法府メンバーとしての国会議員を標的とした捜査活動にのめリ込むことは、権力分立を危うくし、ひいては民主主義に対する脅威ともなる一方で、国会の自立的な自浄作用を鈍らせ、かえって政治腐敗を構造化させる原因ともなる。

pencilそこで国会議員の絡む汚職事件に関しては、国会自身が解明し、かつ審理もする体制を構築すべきである。その目的のために、国会(二院制の場合は各議院)は民間の弁護士から成る「特別検事団」を選定し、捜査を委託することができるようにする。同検事団は必要があれば強制捜査を行い、捜査の結果、問題の国会議員とその他の共謀者・共犯者らを訴追することができる。
 この場合、起訴された事件の審理に当たるのは、通常の裁判所ではなく、国会自体に設置される「特別弾劾裁判所」である。この裁判所の裁判官は法律家の資格を有し、またはそれに準ずる法的素養を備えた国会議員の中から任命され、同僚議員の審理に当たるのである。こうした特別弾劾裁判の結果、有罪判決を受けた被告人議員は除名されたうえ、公民権停止も併科される。
 なお、特別弾劾裁判は通常の裁判とは異なり、国会という場で相当入念な第一審が展開されること、また政情を左右する重大な裁判でもあり、迅速に判決を確定させる必要性からも、被告人議員からの上告だけが許される片面的二審制とすべきである。

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