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2012年5月

2012年5月30日 (水)

犯罪と非処罰(連載第26回)

21 政治犯罪

pencil政治犯罪については、そうした犯罪カテゴリーをそもそも認めるかどうか自体が論議の的となる。この点、特定の思想・信条を持つこと、あるいはそうした思想・信条に基づいて表現活動をすることを犯罪とみなすことは許されないという原則は民主主義の鉄則として承認されつつあるが、今日でも少なからぬ諸国でこの鉄則が守られていないため、多数の「良心の囚人」がなお獄中にある。
 「犯罪→刑罰」図式の下でも「思想・信条そのものを犯罪としない」という原則を導くことは論理上可能であるが、それは思想・信条が内心に留保されている限りは犯罪行為には当たらないという形式論理のレベルでなされるため、特定の思想・信条が何らかの表現行為として表出されると、先の原則はたちまち揺らいでくることになる。
 これに対して、「犯罪→非処罰」の構想に立つと、単に特定の思想・信条に基づいて何らかの表現活動をしたというだけで矯正や更生のための処遇を必要とするということは考えられないから、いっそうクリアに「良心の囚人」は否認されるのである。

pencil一方で、特定の思想・信条を実践するために暴力犯罪に出て積極的に社会不安を作り出すことを「テロリズム」と名指して、特別な取締り対象にしようとする動きが世界中に拡散している。
 たしかに「テロリズム」の実践者である「テロリスト」は暴力犯罪に関与する以上、平和的な「良心の囚人」とは異なる。そうだとしても、「テロリズム」とは本質上法的に定義不能な概念である。諸国では相当に苦心して「テロリズム」の法的定義を試みている例もあるが、完全に成功しているものはない。
 「テロリズム」という概念はしょせん政治的な名辞であって、ある犯罪事象を「テロリズム」と名指すこと自体が一つの政治的な行為なのである。
 ちなみに、近年は「サイバーテロリズム」のように、インターネットを通じて電子的攻撃を仕掛けるような行為まで「テロリズム」と名指すことが一般化しているが、このような概念の拡張は語源的にテラー(terror:恐怖)に由来するテロリズム(terrorism)の語義からもはみ出す政治的な拡大解釈である。
 このように本質上法的に定義不能な政治的概念である「テロリズム」に重罰を科するというような特別立法は、まさにベッカリーアの一丁目一番地である罪刑法定主義に反することであり、それは結果として「良心の囚人」を作り出すであろう。同様に、「テロリズム」の未然防止を名目として入国審査時の無条件的な指紋採取や身体照射、盗聴や電子メールの秘密開封などの通信傍受の拡大策は、プライバシーや通信の自由の広範な侵害を招き、ひいては民主主義を掘り崩すであろう。
 以上のように論ずることは、一般に「テロリズム」と名指される犯罪事象を全く放置すべきことを意味するのでないことはもちろんである。この点、「テロリズム」の本質は暴力犯罪であるから、その対応は通常の暴力犯罪に対するのと基本的に異なるところはない。ただ、社会に及ぼす脅威という点では、組織的に実行される「テロリズム」には大きなものがあるが、そうした場合には組織犯罪法を適用すればよいのであり、それ以外に特殊な対策立法を必要とするものではない。

pencilとはいえ、「テロリスト」はその動機に何らかの政治的・宗教的な信念が関わっているのであるから、処遇上一般的な暴力犯罪の犯行者とは異なる留意点がある。それは対象者にいわゆる「転向」や「改宗」を強制ないし誘導するような処遇は許されないということである。
 従って、「テロリスト」に対する処遇、なかでも矯正処遇に当たっては対象者の思想・信条の内容と手段として選択された犯罪行為とを切り離し、手段として選択された犯罪行為に焦点を当てた処遇を課さなければならないのである。
 そうすると、その処遇内容は、結果的に一般的な暴力犯罪の犯行者に対する処遇と重なり合うことになるであろう。ただし、「テロリスト」は犯罪性向は強いも病理性は認められない者がほとんどであるから、第三種矯正処遇に付すべき場合はほとんどないと考えられる。

2012年5月28日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第37回)

第6章 略

三 帝政ロシアの成立と発展

(1)ロシアの自立
 ヨーロッパの巻き返しの動きは北のロシアでも始まった。13世紀以来ロシアを間接支配していたモンゴル系キプチャク・ハーン国は、第4章でも触れたように、早くからイスラーム化していたから、キプチャク・ハーン国に対するキリスト教ロシアの「自立運動」はイスラーム勢力からの一種の「レコンキスタ」と言えなくはない一面を持っていた。
 その中心を担ったのはキプチャク・ハーン国から徴税を請け負って台頭した有力分領のモスクワ公国であった。1462年に即位した大公イヴァン3世は1480年、ハーン国の内紛による分裂に乗じて独立、他の分領も併合して統一国家の体裁を整えた。また彼は先にオスマン帝国によって滅ぼされたビザンツ帝国最後の皇帝の姪を妃に迎え、ビザンツ帝国の継承者をももって任じ、カエサルのロシア語読みであるツァーリ(皇帝)を初めて君号として称した。
 とはいえ、この時代の帝権は封建的な門閥貴族層(ボヤール)によってなお制約されていたため、3世の孫イヴァン4世は大貴族層を粛清する恐怖政治を敷いたことから、「雷帝」の異名で怖れられた。しかし、イヴァン雷帝は強権的手段で中央集権化を推進し、後の帝政ロシアの基礎を築いた。逃亡農奴や部族を離脱した周辺遊牧民など雑多な分子から成るロシア南部の武装自由民コサックを使ってシベリア開拓の先鞭をつけたのも雷帝であった。こうして、モスクワ=ロシアはそれまで東欧の大国であったヤゲウォ朝リトアニア=ポーランド王国(同君連合)に代わって東欧の強国へ浮上していく。
 しかし、雷帝を継いだ息子フョードルは虚弱で、皇后の兄ボリス・ゴドゥノフが実権を握った。間もなくフョードルは世子を残さず死去し、これに先立ってフョードルの弟ドミトリーも不審死を遂げていたため、リューリク朝は断絶した(1598)。そこでゴドゥノフが新帝に推挙されるが、彼はドミトリー謀殺の疑惑を持たれ、政情不安に陥った。
 治世末期、ドミトリー僭称者が引き起こした内乱渦中の1605年、ゴドゥノフ帝は病没する。この偽ドミトリー動乱の背後にはポーランドがあり、ポーランドの軍事介入とモスクワ占領(1610‐12)を招く結果となった。

(2)ロマノフ朝の始まり
 ポーランドの占領に対して有力商人らの呼びかけで組織されたモスクワ解放軍によってポーランド軍が駆逐されると、ゴドゥノフ帝によって排除されていた政敵の大貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフが新帝に推挙され、ここに以後300年余り存続するロマノフ朝が開かれた。
 初代ミハイル時代は商人層も参加する一種の身分制議会であった全国会議が力を持っていたが、二代目アレクセイは帝権の強化を推進したため、全国会議も1649年以降はほとんど開催されなくなった。また、アレクセイはビザンツ帝国滅亡以来独自の教会として発展しつつあったロシア正教会の典礼改革を支持し、保守的な古儀式派を抑圧する一方、帝権による教会統制を強化した。
 対外的には、ポーランドと交戦し、西部領土を回復したほか、西欧化が進んでいたウクライナの併合を通じて西欧文化を摂取し、西欧式軍制の土台も築いた。
 同時に、逃亡農奴の無期限捜索・連れ戻しを許可したことにより、モスクワ公国のイヴァン3世時代から進んでいた農民の農奴化が完成し、ロシア農奴制が確立された。
 こうしてロマノフ朝の基礎はアレクセイの時代に築かれたと言えるが、ロシアが北の大国としてヨーロッパの舞台に登場するにはなお時間を要した。

(3)帝政ロシアへ
 17世紀まではヨーロッパの周縁的な存在であったロシアをヨーロッパの中心に押し込み、キープレーヤーの地位に押し上げたのは、アレクセイの子で、大帝を冠せられるピョートル1世であった。
 二人の異母兄の不安定な治世の後、正式に即位し、野心家の異母姉ソフィアが首謀したとされるクーデター策動を粉砕したピョートルが最初に手がけたのは、来たるべきスウェーデンとの戦争に備えた軍備強化・軍制改革であった。
 この時代のスウェーデンは1523年、デンマーク主導のカルマル同盟からの離脱を指導したグスタフ・ヴァーサが創始したヴァーサ朝の下、30年戦争を勝利に導いたグスタフ・アドルフの手腕により北の大国にのし上がっていた。ロシアが西方へ領土を拡大するには、すでに16世紀末から17世紀初頭にかけて交代して事実上の敗北を喫していたスウェーデンへの再挑戦が避けられなかった。
 その結果、1700年に始まった大北方戦争はやはりスウェーデンと敵対するデンマーク、ポーランドを巻き込んで20年余りに及ぶ大戦となった。この大戦は1721年のニースタット条約をもってロシアの勝利に終わり、ロシアはバルト海東岸への進出を果たした。こうして北方におけるスウェーデンとロシアの主役交代こそが、帝政ロシアの成立を画したと言ってよい。
 元老院から正式にインペラートル(皇帝)の称号を得たピョートルは戦争と平行して文物制度の西欧化を推進し、バルト海に面するネヴァ河口に自らの名にちなんで建設した新都ペテルブルグを「西欧への窓」と位置づけた。そのうえで皇帝中心の中央集権体制の確立、とりわけ官僚制の整備とともに税制改正、産業育成にも努めた。
 ここに西のフランスに比せられるロシア型絶対王政とも呼ぶべき強力な君主主権国家体制が立ち現れた。ただ、フランスと異なるのは、ロシア型絶対王政は特有の農奴制を経済的土台としていたことである。これは農奴制を伴う領主支配制の解体の上に君主主権国家が成立したフランスとは異なり、ロシアでは元来西欧的な領主支配制が未発達であった代わりに、地主貴族制が根を張っていた事情による。ある意味からすれば、重農主義に傾斜した絶対王政なのであった。このような帝政ロシアの構制は19世紀後半の農奴解放に至るまで不変であった。
 ピョートル大帝の築いた帝政ロシアは、1725年の彼の没後に生じた一時的な混乱を経て、ともに宮廷クーデターで登位したエリザベータ・ペトローヴナ(ピョートルの娘)と、ピョートルと並び大帝を冠せられるドイツ出身のエカチェリーナ2世(ピョートルの孫ピョートル3世の皇后)という二人の女帝の手によって継承発展せられていく。
 とりわけ、エカチェリーナ2世は領土拡大に寄与し、オスマン帝国と交戦して黒海沿岸を奪い、プロイセン、オーストリアと組んでポーランド分割を断行した。また東方でも特使ラクスマンを鎖国下の日本の根室に派遣して通商を求めるなど硬軟両様の手法で対外的積極策を採った。
 彼女はまた、ほぼ同時期に並び立ったオーストリアのマリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ2世とともに啓蒙専制君主と呼ばれる新しい君主類型を作った一人であるが、農奴制についてはドン・コサックのプガチョフが指導する大農民反乱(1773‐75)を機にかえってこれを拡大・強化する反啓蒙的な反動政策を断行した。
 なお、エカチェリーナ2世の没後即位した息子のパーヴェルは女子の皇位継承を禁ずる法律を制定したため、ピョートル大帝の没後に皇后から短期間中継ぎ登位したエカチェリーナ1世を含めて計4人、通算在位67年に及び、18世紀のロシアを特徴づけた女帝はエカチェリーナ大帝をもって最後となった。

2012年5月25日 (金)

犯罪と非処罰(連載第25回)

20 交通犯罪(下)
 ―公共交通事故について

pencil現代の科学技術社会を特徴づける事象として、鉄道、船舶、航空機といった公共交通機関の著しい発達があるが、それに伴い、これら公共交通機関による死傷事故も跡を絶たなくなっている。
 こうした公共交通事故は、自動車事故とは異なり、より複雑な機械的システムとそれを運営する法人企業組織を背景として生起してくることから、自動車事故のように、端的な過失犯として処理し切れないことが多い。
 そこで、公共交通事故が発生した場合は、まず事故原因の調査を先行させることが合理的である。そのために中立的な事故調査機関を常設すべきである。この先行調査の結果、ないしはその過程で個々の交通機関要員の業務上過失が明らかとなった場合は、そこで初めて捜査機関に通報され、犯罪として過失責任を究明するための予備的な捜査が開始される段取りとなる。

pencilただし、船舶や航空機の場合は、事故に関わった航海士や操縦士の過失の有無とは別に、航海士や操縦士としての職務上の義務を適切に果たしたかどうかという観点からの審判手続きがあって然るべきである。この点、日本では海難事故については海難審判の手続きが用意されているが、航空事故については同様の手続きが存在しない。しかし、両者の類似性からすれば、「航空審判」という手続きが置かれることが望ましい。
 こうした審判手続きと過失犯としての責任を究明する司法手続きとは目的を異にするとはいえ、両者の結論が完全に齟齬を来たすことは好ましくない。とりわけ、審判手続きでは義務違反なしとされながら、司法手続き上は有罪とされるねじれは当事者に当惑と司法不信をもたらすであろう。そこで、審判手続きは司法手続きに先行して進められる必要があり、審判の結果、実質無罪に相当する義務違反なしとの結論が出た場合には、要員を改めて訴追することは禁止されるべきである。
 なお、要員の業務上過失が認められた場合の処遇については、過失犯を論じた第14章で述べたところが妥当する。

pencilところで、組織を背景として引き起こされる公共交通事故では個々の要員の過失責任を追及するだけでは不十分であったり、個々の要員の過失を立証し切れないことも多い。そこで、こうした場合は組織体の安全対策不備を一つの犯罪行為とみなして対応する必要も出てくる。
 ただし、これはいわゆる組織犯罪とは異なり、法人・団体としての過失犯罪であるので、組織犯罪法の出番とはならず、別の対応が必要となる。同時に、ここでも「犯罪→非処罰」の定式は貫徹される。
 この点、事故を引き起こした運営組織に対しては、再発防止のための具体的な対策の策定を義務づける処分を行うとともに、所要の対策を怠ったことにより得られた利益を没収する処分を併科することがさしあたり有益と考えられる。
 なお、こうした組織に対する処分は単なる行政処分ではなく、司法手続きによって科せられる一種の保安処分である。

2012年5月24日 (木)

犯罪と非処罰(連載第24回)

20 交通犯罪(上)

pencil交通犯罪は交通手段が発達した現代社会に特有の現象であり、かのベッカリーアの想像を超えた現代型犯罪である。交通犯罪を広く取れば、鉄道や船舶、航空機に関連する犯罪も含まれるが、本稿では最も日常的な自動車に関連するものに限定して論じる。

pencil交通犯罪の大半は過失犯であるが、速度違反や飲酒運転など道路交通法違反の罪は故意犯である。いずれにせよ、交通犯罪に「重罪」はほとんどない。
 ところが、近年の日本では交通犯罪の厳罰化がキャンペーン的に推進され、集中的な刑の引き上げが実行されてきた。交通犯罪は日常的なだけに応報刑論の反動的な揺り戻しの舞台となりやすい一面がある。
 しかし、客観的に見て交通犯罪に真の意味での「重罪」はないのであるから、やみくもな厳罰対応は非科学的な感情論にすぎない。特に交通犯罪の中心を占める自動車運転中の過失による死傷事故は、運転者の過失という人的要素ばかりでなく、道路状態と自動車の性能という物的要素が要因となって引き起こされる。典型的には、見通しの悪い道路で欠陥車を運転している人が不注意であれば、極めて高い確率で死傷事故が発生するであろう。このように自動車運転中の過失による死傷事故は道+自動車+人という三要素が三位一体的に絡み合って惹起される。
 ちなみに、日本では交通事故の裁判上、事故者たる被告人が自動車の欠陥を抗弁として主張することが難しく、不用意に主張しようものなら、かえって責任転嫁の方便として糾弾されかねない。ここには、そうした物的・客観的要素よりも人間の不注意のような人的・主観的要素を偏重する主意主義的・唯心論的な日本社会の思考パターンがみてとれるとともに、日本資本主義の象徴であるクルマがまさしく無瑕疵の物神として崇拝されているようにも見える。

pencilともあれ、人的要素に関しても、事故者を厳罰に処する事後報復的な対応ではなく、そもそも運転適性のない者を事前に運転そのものから遠ざけることの方がはるかに効果的である。具体的には、著しく注意散漫な者や運動神経に制約がある者、アルコール・薬物依存傾向のある者に対しては運転免許を認めないか、少なくとも矯正的な特別講習を義務づけ、問題傾向の顕著な改善が認められるまでは免許を保留とすることである。
 他方、道路交通法規に基づく行政的な交通取締りは、交通事故防止にとって有効ではあるが、あまりに瑣末すぎる規則は誰も守り切れず―しばしば交通警官ですら!―、無意味である。また、あまりに多すぎる交通刑罰法規も刑罰のインフレ状態を結果し、かえって刑罰の効果を失わせる原因となる。
 各種道路交通法違反については、まず速度違反や酒気帯び運転などのように、それ自体に死傷事故の危険が内包されているような危険運転行為に限って犯罪とみなし、その他の細かなルール違反は行政罰に委ねる「非刑罰化」を大胆に推進する必要がある。
 この点、道路交通法上の行政罰として反則金があるが、そうした金銭的ペナルティーだけでなく、運転免許停止・剥奪の制度も整備すべきである。特に速度違反や酒気帯びなどの危険運転の累犯者に対しては、免許剥奪処分が効果的である。ただ、これは行政罰というより保安処分の一種と言える。

pencilところで、近年の交通犯罪厳罰化キャンペーンの中ではとりわけ飲酒運転が標的となってきた。その結果、飲酒運転の罪そのものの刑が引き上げられたことはともかくとしても、飲酒運転をするおそれのある者に対して車両や酒類を提供した者から同乗者にまで連座的に刑事責任を問う規定が出現するに至った。
 これらの者が明白に飲酒運転者と共犯関係にある場合を超えて、飲酒運転をするおそれという事前判断不能な他人の行為にまで責任を負わせるのは、自己の行為についてのみ刑事責任を問われるという個人責任原則をも破る、それこそルール違反の規定と言わざるを得ない。
 実効性という観点からしても、飲酒運転の現場に同席していた同乗者はともかく―同乗者には飲酒運転を幇助した従犯が成立する可能性がある―、車両・酒類提供者にまで飲酒運転の確実な制止役を期待することなど無理な話である。
 そもそも日本のようにモータリゼーションが高度に進んだ大クルマ社会で酒類の販売規制が緩やかであれば、飲酒と運転が容易に結びつくのは必然である。酒類に対する宗教的禁忌などから酒類の製造・販売が禁止されている国、逆に酒類の販売規制は緩やかであるが、モータリゼーションがほとんど進んでいない国では当然にも飲酒運転はまれである。
 そこで、日本でも本気で飲酒運転の撲滅とは言わないまでも大幅な減少を目指すのであれば、酒類の販売規制の強化とともに、脱モータリゼーションにも正面から取り組まなければならない。
 それは無理だというならなぜであろうか。考えられることは、酒類製造・販売業界及び自動車業界の利益を損なうからである。そうだとすると、刑事責任の原則に反してまで強行される実効性も疑わしい厳罰化・連座責任化とは、社会正義などではなく、そうした業界利益の隠れ蓑にすぎないことになりはしまいか。

pencil「非処罰」の構想の下でも、速度違反や酒酔い運転などそれ自体に過失による死傷事故の危険を内包する危険運転は犯罪行為であるが、それらは本質上行政取締上の犯罪であって、多くは犯罪性向の低い犯行者によるものであるから、その処遇としては第一種矯正処遇または保護観察とすれば十分である。ただし、危険運転行為の累犯者は、上述したような運転免許剥奪処分に付するほか、第二種矯正処遇を用意してもよいだろう。
 問題は、こうした危険運転中の過失によって死傷事故を起こした者の処遇である。といっても、第14章で述べたように、軽過失は業務上過失の場合を除き犯罪とすべきでないのであったから、ここで過失とは重過失及び業務上過失の場合である。
 この点、日本刑法上はこうした場合一切をあいまいな構成要件を持つ「危険運転致死傷罪」にくるめて、ほぼ傷害致死罪に匹敵する厳罰を科するわけであるが、この規定の違憲性については第14章で指摘した。
 道路交通法に違反する危険運転行為とその間に犯された過失行為とは一連であっても危険運転行為中に必ず過失行為を犯すと決まっているわけではない以上、本来別個の故意行為と過失行為であるから、両者は併合罪と理解すればよい。
 第5章で論じたように、併合罪については犯罪パッケージの中で犯罪学的に見て最も中核的な犯罪の処遇に従うのであったところ、確率的に過失による死傷事故を起こしやすい危険運転中に事故を起こすのは、元来危険運転行為に内包されていた危険が現実化しただけのことであるから、中核的な犯罪とは速度違反なり酒酔い運転なりの道路交通法違反の罪にほかならない。従って、その罪の処遇、つまり原則的に第一種矯正処遇または保護観察に付することになる。
 ただし、例外として、職業運転手による業務上過失の場合及び過失累犯の場合は、その反社会性ないし犯罪性向の強さを重視して第二種矯正処遇とし、保護観察は除外する加重規定を置くことを考えてもよい。

pencilなお、いわゆるひき逃げへの対応について、現行道路交通法のようにこれを「救護義務違反」として別個に犯罪行為とするのは身柄を拘束されていない被疑者が逃走することを犯罪としない刑法の立場と矛盾する。逃走という方法は司法上正規的な防御権の行使ではないとしても、無罪の推定を受ける被疑者に対しては禁止すべからざる一つの条件反射的な防御行動として犯罪とはみなされないのである。
 ひき逃げも、自動車運転中の過失被疑者の逃走の一形態である以上、それ自体を独立した犯罪として、あるいは加重事由としてとらえることは正しくない。
 この点でも、ひき逃げに対する報復的厳罰化の主張が近年唱えられているが、ひき逃げ防止のためにはむしろ、逃走せず自ら事故を通報し、被害者救護を尽くした事故者は犯罪性向の低さを考慮して、軽い処遇を与えること―刑罰の場合であれば、刑の必要的な減軽事由とする―の方が効果的である。

2012年5月22日 (火)

天皇の誕生(連載第20回)

第五章 「倭の五王」の新解釈

(2)「珍」と「済」の関係

「続柄不明」問題
 『宋書』によると、珍の後、443年に倭国王・済が遣使してきた。ところが、同書は前の珍と済との続柄を記していない。同書は原則として前後の続柄を明記している五王の中で、珍と済の関係だけは何も言及しないため、その沈黙の意味が問題とされてきた。
 ただし、後の唐代に編纂された『梁書』では、珍が「彌」に補正されたうえ、彌と済は親子関係とされている。しかし、これは200年近くも後の時代の史書であって、五王の遣使があった5世紀代の同時代に編纂された『宋書』が続柄を記さなかったということには重大な意味がある。
 これを単なる記載漏れとして片づける説もあるが、妥当とは思われない。なぜなら、冒頭触れたように、『宋書』は五王の他の続柄は原則として明記している以上、珍と済の続柄だけは偶発的に落としたとは考えにくいからである。
 そうすると、結局、宋側では珍と済の続柄を把握できなかったのだとみなさざるを得ない。なぜ把握できなかったかと言えば、済が説明しなかったか、もしくは宋側が済の説明に疑問を持ったためということになろう。
 いずれにせよ、済が珍との関係について単純明快な説明を与えなかった理由については次節で改めて検討することにしよう。

「済」の全うな遣使
 済は、443年と451年の二度遣使した記録が残るが、初めの443年にはただ単に「倭国王」とだけ自称している。これは、前の珍が例の大仰な自称をしたこととは対照的である。済はなぜ珍が希望して果たせなかった「使持節都督」の称号獲得にもう一度トライしようとしなかったのだろうか。
 一つには、先代の珍が誇大な自称をして失敗したことの反省に立って、ということも考えられようが、済が珍とは全く別系統の「倭国王」であったならば、珍のような自称をする必要がなかったということも考えられる。
 ところが、面白いことに、451年遣使の時には、宋側から初めて「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」を除正されている。ただ、これが済の申請に基づくものか記されていない。どうやら済は珍とは異なり、自ら積極的に除正を求める意欲が乏しかったように見える。
 しかも、注目すべきは、宋が授与した「六国諸軍事」の管轄領域から百済が除外されている代わりに、「加羅」が加わったことである。
 百済を除外したのは、宋側ではすでに百済王に「都督諸軍事」の称号を授けていた以上、倭が百済を支配しているはずがないということを知っていたからであるが、一方で畿内王権の王家ルーツであり、小国ながらも独立国であった加羅(加耶)を加えているのは、第三章でも触れたように、宋が朝鮮半島南部の実情を正確に把握していなかったことによるものであろう。
 ちなみに、新羅や任那、秦韓、慕韓(馬韓)まで雑然と一括して―しかも、加羅と実質上重複する任那や、秦韓、馬韓など旧国名も混在する―倭国王の管轄領域に含めていることも不正確であり、これも宋が半島南部の情勢に明るくなかったことの表れと思われる。
 とはいえ、済は珍のように誇大な自称をしないことによって、かえって珍が望んだものにほぼ近い称号を見事ゲットしたわけで、全うな遣使の成果を出したのである。このことも珍との大きな違いであり、総じて言えば、済は前の讃・珍二王とは系統が異なるように思われてくるのである。

(3)「済」と「興」の正体

王朝交替説
 『宋書』によると、済が死去し、後を継いだ子の興が462年に遣使している。済の没年は記されていないが、451年から462年までの間に死去したことは確実である。興の遣使はほぼ父・済の遣使を踏襲したもので、別段新たな称号の除正を求めたこともなかったようである。
 宋側では、皇帝(第4代孝武帝)の詔をもって「倭王の世子興は、累代にわたる忠誠を継いで、海外で宋王朝の藩屏となり、開化し、辺境を平定し、恭しく貢献して、新たに辺境の王位を継いだ」と興をほめ、父・済と同じく「安東将軍・倭国王」を改めて授号している。
 皇帝は興に賛辞を送っているわりには、現状維持的で、先代の済と同様に扱っているのは、済・興父子の連続性の強さを物語っていると言えよう。
 そうすると、従来「倭の五王」とひとくくりにされてきた中でも、最初の讃・珍兄弟とその後の済・興父子(最後の「武」はさしあたり保留にしておく)とはやはり別系統と見たほうがよいように思われる。
 もっとも、先の興に対する孝武帝の詔の中で、「累代にわたる忠誠を継いで」云々とあることから、倭王家は連続的であるとする反論もあろうが、これはあくまでも宋側の認識を示したものであって、しかも詔での外交辞令であるから、そこに客観性を認めることには無理がある。
 そこで、仮に王朝交替を想定するとすれば、それは珍の遣使年とされる438年から、済の最初の遣使年である443年までの間に起きた事変ということになる。しかし、この間に倭国内部で王朝交替を裏づける根拠・史料は乏しく、憶測の域を出ないように思われる。

偽装遣使説
 讃・珍と済・興の間の不連続性を説明するもう一つの―いささか大胆な―仮説は、後の済・興の遣使は百済王による倭王を装った偽装遣使であったのではないかというものである。
 このような特異な遣使の背景事情として想起すべきは、前に述べた毗有王の登場である。彼は、高句麗対策として新羅との同盟という歴史的政策転換を決行したことから、百済のゆるやかな統制下にある侯国であった倭国に対する統制を強化することを企図していた。
 そこへ、倭国王珍による誇大自称による遣使の報が入った。しかし、『三国史記』でも平和的な事績が記録される毗有王はこれに怒って兵を差し向けるような人物ではなく、もっと手の込んだ術策を思いついた。それは、倭国独自の遣使を禁止するにとどまらず、百済側で倭国王名義を冒用して遣使するという方法である。
 これを間接的に裏づけるのは、先述したように、済の遣使はごく全うで、過大な除正を求めるものではなかったこと、一方で、宋側からの「使持節都督」の授号では「百済」が慎重に除外される内容となっていたこと、そして何よりも「済」という百済を想起させる意味深長な一字名を使用していたことである。
 ちなみに、毗有王は本来の百済王名義でも440年と445年に宋へ遣使しており、その間にはさむ形で「倭国王済」名義で遣使していたことになり、彼が高句麗対策として倭を含めて百済‐倭‐南朝というラインを強化しようと腐心していたことを裏づける。
 それにしても、毗有王は何故に百済王名義を直接に名乗らずに「倭国王」名義を冒用するという方法を採ったのであろうか。
 おそらく、東晋時代以来、自身が中国皇帝から冊封を受けていた百済王が宋から同様に冊封を受けていた倭王を侯王として一種の冊封を行うことは「無断二重冊封」として宋側の譴責を受けかねないため、その事実を秘する必要があったためではないかと思われる。
 そのうえで、百済としては倭単独の遣使の継続性を装って、先のような百済を除外した称号を倭国王に帯びさせることによって、かえって百済の独自性を強調するという効果をも狙ったものと推測できるのである。
 さて、このように済・興父子による一連の遣使を百済による偽装遣使ととらえた場合、「済」は毗有王に、「興」は455年に死去した毗有王を継いだ世子・蓋鹵王[がいろおう]に比定することができる。そして、この蓋鹵王による「興」名義での遣使が先の462年のそれであり、彼は「倭国王」として皇帝の賛辞を受けたわけである。

補注 偽装遣使説よりも穏当な仮説として、倭王が百済の統制の下、その指示に従って遣使したとする考え方もあり得よう。ただ、この場合、珍と済の続柄不明問題が解き難くなる。なお、偽装遣使といっても、偽装の事実が宋側に発覚しないよう、実際の遣使は倭人団を使って実施したものであろう。

2012年5月21日 (月)

天皇の誕生(連載第19回)

第五章 「倭の五王」の新解釈

5世紀に入って、中国南朝宋に連続的に遣使したことが記される「倭の五王」。讃・珍・済・興・武と中国式一字名でイニシャルのように記された五王は、果たして一連の「倭国王」であったのであろうか。

(1)「讃」と「珍」の遣使

「讃」の遣使まで
 4世紀には中国側史書から姿を消していた倭の動向が久しぶりに中国側史書で確認されるのは、『宋書』倭国伝に見えるいわゆる「倭の五王」の筆頭「讃」による421年の南朝宋への遣使である。
 これは、邪馬台国女王・台与によると見られる266年の西晋遣使から数えて実におよそ160年ぶりとなる中国外交の再開であり、この長い外交的ブランクも3世紀の邪馬台国と4世紀以降の畿内王権とが連続していないことの傍証の一つとなる。
 このようにおよそ1世紀半ぶりとなる中国外交再開―実質上は新規外交―の背景を考える前提として、それまでの経緯を追ってみたい。
 まず、第三章の末尾で見たように、4世紀末に畿内王権と百済との修好が正式に開かれ、「質」として派遣されてきて外交・諜報工作を担った腆支太子が405年、父・阿莘王死去を受けて王位に就くため、倭兵の護衛を受けて帰国したことは記した。
 王位に就いた腆支がまず初めに取り組んだことは、父王の遺志を継いで、父王の代に高句麗に奪われた半島の覇権を取り戻すことであったが、そのためには強力な水軍を擁する倭をいっそう緊密に百済陣営に組み込み、百済の勢力圏に収めておく必要があった。
 そこで彼は、中国式冊封体制に準じて倭王を授封し、倭を侯国化することで、百済の勢力圏に置くことを企てたのである。百済は後代の5世紀後葉に入ると、支配領域に王・侯を配置して統制する王・侯制を施行するが、その原初形態は5世紀初頭の腆支王代に開始されたと考えられる。ただ、半島領土で王・侯に任ぜられるのは王族であったが、倭という枢要な外地では、倭王を百済王族に準じた地位で処遇しようとしたものであろう。
 私見によれば、こうした百済による倭の侯国化を認証するしるしが、次のような銘文が金象嵌で刻まれた例の石上神宮所蔵七支刀なのである(*は判読不能箇所)。

(表)泰*四年*月十六日丙午正陽造百錬鉄七支刀*辟百兵宜供侯王****作
(裏)先世以来未有此刀百濟王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世

 この銘文冒頭に記された「泰*四年」という年紀について、通説は宋の一つ前の南朝であった東晋の年号「太和四年」(西暦369年)と読み、同年に時の百済王子・貴須(近尚古王の子で、後の近仇首王)が「倭王旨」に献上したものと解釈していることは、第三章でも紹介した(実際上369年説内部でも銘文解釈は様々に分かれている)。
 しかし、東晋の年号は「泰和」ではなく「太和」であり、複雑な象嵌技法で「太」を画数の多い「泰」に造るのも不自然であること、仮に倭が百済の上国であれば、天子の臣下を意味する「侯王」という表現は無礼であること、一般に倭との外交関係記事を重視する『三国史記』には近尚古王代に倭と修好した記事が見えないことなどから、369年説には疑問が多い。
 もっとも、より対等な関係の修好がこの時に開かれたと修正的に解釈する説もあるが、それにしても「侯王」という呼びかけは無礼であるし、また王子ごときが王に献物するというのも真に「対等」とは言えない(百済王と世子の連名と解する説もあるが、立ち入らない)。
 この点、私見によった場合の銘文の読み方としては、「奇生聖音」の箇所を、通説とは異なり、「奇しくも聖音に生き」(計らずも釈尊の加護の下に生きて)と解釈する少数説を採ったうえで、腆支王が倭王を百済の侯王として認証したしるしに下賜したものが七支刀であると解することになる。
 ちなみに、「首」に通ずる「旨」とは、当時まだ漢字が普及していなかった倭の独自の王号ではなく、まさに腆支が百済の侯王たる倭王に授号した王号と推定される。
 このように解した場合、「泰和四年」とは東晋ではなく、百済の独自年号であり、それは腆支王四年(408年)に当たる。これを間接に裏づける記録として、『三国史記』は409年に倭が遣使して夜明珠(蛍光性の宝石か)を贈り、腆支王が優礼して接待したとある。前年の七支刀下賜のことは記事に見えないが、409年の倭の遣使はその前年の侯王叙任への答礼と見ることもできる。
 ところで、腆支王がこのような年号を建元したと推定される根拠として、父の仇であり、同時代のライバルでもあった高句麗の好太王(広開土王)が「永楽」という類似年号を建元していたことへの対抗心に加え、腆支王が一種の「革命」によって王位に就いたことも関係している。
 『三国史記』によると、阿辛王死去後、腆支の二番目の弟・訓解が摂政に就き、腆支太子の帰国を待っていたが、王の末弟・磔礼[せつれい]が訓解を殺して王位を簒奪してしまった。
 一方、腆支は倭にあって父王の訃報に接し、帰国を請い、倭兵の護衛を受けて百済国境へ達すると、王都・漢城からの使いが来て、情勢説明があり、帰国を控えるよう忠告されたので、倭兵を引き留めて警護させ、海中の島で時機を待った。そうするうちに、民衆が王位簒奪者・磔礼を殺害して腆支を王に迎えたという。
 こうした即位の経緯からも、腆支王は人心一新と政情安定を願って、「泰和」という年号を制定したものと思われるのである。
 ちなみに、「百済世子が奇しくも聖音に生きた」という一句には、百済世子として倭の「質」となって命がけで外交工作に携わったうえ、無事帰国したものの、如上のような「革命」の結果王位に就いた波乱の人生を振り返っての感慨が込められており、こうした点でも、これを形式的に貴須王子などに当てはめるよりも合理的ではないだろうか。
 なお、銘文中に「聖音」というような仏教的文言が見られるのは、百済には早くも384年に東晋から仏教が伝来していたことから説明がつく。もっとも、仏教の普及は百済でも6世紀代と見られているが、王族など支配層の間では徐々に浸透し、改まった文脈では仏教的文言も用いられるようになっていたものと思われる。

補注 私見によった場合の銘文解釈は、さしあたり次のようになる。(表)泰和四年*月十六日丙午の正午、百回も鍛えた鉄の七支刀を造った。この刀なら百回の戦でも避けることができ、恭しい侯王にふさわしかろう。(裏)いまだかつてこのような刀はなかった。百済王世子(たる自分)は計らずも釈尊の加護の下に生きたことから、倭王旨のためにこの刀を造り、後世まで伝え示さんとするものである。

「讃」の遣使の背景
 こうして倭(畿内王権)は5世紀初頭、百済の侯国としてその勢力圏に組み込まれたとはいえ、中国の冊封と同様、それは多分にして形式的・儀礼的な臣従にすぎず、内政外交全般が百済の統制下に入ったわけではなかった。
 それでも、特に外交に関しては一定の制約があったと見られ、倭王名義での独自の中国遣使は制限されていたのではないだろうか。その傍証と言えるのは、『宋書』では最初の遣使者・讃を「倭讃」、あるいは単に「讃」としか記しておらず、珍以下の四王とは異なり、王称が付されていないことである。
 そのこととも関連して、初回の421年遣使でも、皇帝(高祖・武帝)は「倭讃」の遠方からの遣使をほめて除授を賜うであろうと詔しながら、具体的には何も除正された形跡がない。次いで、讃は425年にも、司馬曹達なる使者を派遣して、上表文を提出し、特産品を献上したとあるが、ただそれだけで、やはり何の除正も記されない。
 要するに、宋側でも「讃」が独立国の王かどうかを確認できず、正式の冊封は保留したとしか考えられないのである。これは、百済が宋建国の420年に直ちに冊封されたのとは対照的である。
 一方、百済では420年に腆支王が死去し、子の久爾辛[くにしん]が即位するが、この王は弱体で『三国史記』でも何の事績も記されないまま、427年に死去している。
 おそらく、倭王(畿内王権の首長)であったことは間違いない讃は、腆支王死去のタイミングを見計らって、翌421年に独自の中国遣使に踏み切ったつもりであったが、百済の侯王という地位に制約されて、独自に「倭国王」名義を使うことができず、中国側からその心意気は買われたものの、倭国王としての認証すら受けられなかったのである。二度目の遣使では、司馬姓の漢人系(もしくは漢族系百済人)かと思われる使者まで遣わし、上表文も提出したにもかかわらず、結果は得られなかった。こうして、讃による遣使は失敗に終わったのである。

「珍」の誇大自称
 次に『宋書』が記録する倭の遣使は、讃の弟とされる「珍」による438年の遣使である。珍は兄王の失敗を反省してか、今度は一転して、「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」なる大仰な自称をしたうえで、除正を求めたのであった。
 この自称で「使持節都督諸軍事」とは、当該地域の軍事統制権を中国皇帝から授権された総督であることを示しているが、注目されるのはここに「百済」を含めて、倭国王が百済まで軍事的に統制しているように主張したことである。
 これは、この時代、倭が百済の侯国であったことを考えれば、全く逆であった。思うに、珍は宋の皇帝から百済に対する軍事統制権まで含めた除正を受けることで、百済の侯国という地位から脱しようとしたものであろう。
 ところが、宋はすでに百済に冊封していたのであるから、珍の主張の嘘は直ちに見破られた。その証拠に、珍の除正は単なる「安東将軍・倭国王」にとどまったのであった。今度は、一応「倭国王」の認証は得られたものの、百済王が授号されていた「鎮東大将軍」号よりも格下の「安東将軍」号のみで、希望した使持節都督の除正は受けられなかったわけである。
 しかも、倭国王が百済を支配しているかのような自称をしたことは、当の百済にも伝わったであろうことは想像に難くない。時の百済王は、427年の久爾辛王死去を受けて即位した久爾辛王の子(『三国史記』は腆支王の庶子説も併記する)・毗有[ひゆう]王であった。
 この王はかなり有能で、引き続き懸案である対高句麗政策として、4世紀以来敵対関係にあった新羅と同盟する歴史的な外交政策の転換を行った(433)。これによって、半島情勢は大きく変化する。このことが、倭にも大きく影響してくる。
 先述したように、倭(畿内王権)は伊都国を服属させて以来、伊都国の「反新羅」の立場を継承し、大規模な新羅侵攻作戦を展開していた。一方、王族未斯欣を「質」に使った新羅の対倭外交工作も未斯欣の逃亡事件で失敗に帰していた。
 そこで、毗有王としては、祖父(もしくは父)の腆支王が敷いた倭を侯国化する政策をさらに強化して、倭の反新羅政策を改めさせる必要を感じていたであろう。そうした時に、百済を倭が統制しているかのように偽った自称の下、倭王が独断で宋へ遣使したとの報が王の耳に入ってきたのである。

2012年5月18日 (金)

犯罪と非処罰(連載第23回)

19 累犯問題について

pencil前三章で見た性犯罪・薬物犯罪・組織犯罪はいずれも短期間で同一または同種の犯行を繰り返す累犯が多いことで共通性がある。そのほか窃盗罪なども古くから累犯が多く、こうした累犯問題こそが教育刑論を台頭させた要因でもあった。
 しかし、教育刑論も刑罰制度が本質的に持つ応報的な要素を完全に払拭できず、限界を露呈してきたことから、「矯正悲観論」を生み出し、再び応報刑論への反動的揺り戻しを招くようになった。米国で1990年代に導入された「三振アウト法」、すなわち三回重罪を犯すと自動的に終身刑に処す制度はそうした揺り戻しを象徴するものであった。
 日本では、つとに現行刑法上「再犯加重」の制度を備えており(刑法57条)、所定要件を満たす再犯者を加重処罰する政策を採っている。こうした事実上矯正の放棄に等しい累犯への厳罰化政策は刑罰制度を維持する限り避け難い「最終解決」の方法なのである。

pencilまた、近年は特に性犯罪者の再犯防止のためとして、刑務所を出所した者にGPS監視装置を装着して行動を常時監視する政策が各国で導入されるようになっているが、これはさほど罪状が重くなく終身刑や長期の厳罰には処し得ない性犯罪者に対しては比較的短い刑期の中で十分な矯正が行えないまま出所を認めざるを得ないという限界を、出所後の行動追跡によってカバーしようという苦肉の策にほかならない。さらに進んで性犯罪の前科を持つ住民の情報を近隣に開示して警戒を呼びかけるという制度の導入例もある。
 こうして再犯の危険に対処するため対象者のプライバシーを否定し、社会的孤立を強いる策に走らざるを得ないのも、矯正の限界というよりは、応報を本質とする刑罰制度そのものに内在する限界のゆえなのである。
 ただ、性犯罪者の中には小児性愛者のように矯正困難な者も含まれていることから、矯正悲観論の象徴となりやすいことはたしかだが、それは矯正科学の遅れのゆえであって、そうした遅れをもたらす桎梏となっているのも刑罰制度なのである。その意味で、累犯問題は刑罰制度自身の影法師である。

pencilこの点、「非処罰」の構想の下では、格別の累犯対策は必要としない。それは更新付きユニット制を採る「矯正処遇」の制度自体に累犯対策が組み込まれているからである。すなわち対象者の再犯の恐れがなお除去されていないと判断されれば矯正ユニットが更新され、科学的に適切な矯正プログラムが課せられるのである。
 もっとも、科学的な矯正プログラムがいかに進歩しても、再犯防止の究極の決め手は更生保護にある。その意味で、累犯対策は更生保護の最重点課題に位置づけられなければならない。
 中でも量的に多い窃盗犯の再犯防止が重要である。窃盗犯の中には実際、刑務所と一般社会の間を頻繁に往復するような人生を送る者も少なくないため「常習犯」と呼ばれ、日本法上は「常習累犯」として特別法(盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律)で別途加重処罰される。
 しかし、「常習」という表現は非科学的であり、差別的でもある。窃盗累犯は犯罪の性癖を持っているのではなく、場合によってはあえて自ら服役を望んで同一の犯行を反復しているにすぎず、そうした反復性は一般社会で安定的に生活していくことができないことの表れにほかならない。更生保護が特に重要となるゆえんである。
 一方、質的な面では組織犯罪関係者の更生サポートも大きな課題である。かれらの場合は犯罪組織が事実上の「職場」となっていることから、まさに犯罪行為が“職業”と化しており、犯罪への固執性が強い。そこで、更生保護を通じて各自の適性を生かした正業への“転職”を支援していくことが重要となる。

pencilそれにしても、こうした更生保護の充実・成功をもたらすには、社会の構造が大きく変わらなければならない。要するに、更生を妨げ、人を再犯に走らせる究極的要因、すなわち誰しも労働力として評価されなければ生活が困難となる資本主義経済という体制を再検討に付し、人生やり直しがより容易となるような社会体制を構築することである。その点で、累犯問題の解決は社会変革にとっての試金石でもある。

2012年5月16日 (水)

犯罪と非処罰(連載第21回)

17 薬物犯罪

pencil薬物犯罪は嗜癖・依存症と密接に関わり、精神保健行政・精神医療とも交錯するため、これを刑罰に“依存”してコントロールしようとすることに限界があることは明白である。
 しかし、日本を含むアジアでは薬物依存を退廃的な性癖とみなし、薬物犯罪に対して必罰主義・厳罰主義―最大で死刑を科する国さえもある―で臨もうとする発想が強い。薬物犯罪に死刑を科することのない日本でも、規制薬物の単純所持や自己使用にかなり重い懲役刑を科する政策を続けている。
 一方で、麻薬の所持や自己使用については非犯罪化しつつ、嗜癖問題としてコントロールしようとする国も欧州を中心に増加してきている。日本でも一部で「大麻解禁論」が提起されている。

pencil一般に、薬物規制の要否やその方法は、薬学・医学の現代的な水準に照らして行われなければならない。従って、薬学的・医学的に見て明白な有害性―とりわけ自己使用を犯罪行為として取り締まるうえでは、薬理作用による他者加害の高度な危険性―が立証されない薬物に関して、単純所持や自己使用を犯罪として取り締まることは無意味である。
 このことは、当該薬物を嗜好品として全面的に自由化することを意味しない。例えば、輸入・販売の方法や購入条件を規制するなど薬事行政上の規制や取締りがなお必要な場合はあるからである。
 一方、薬学的・医学的に明白な有害性が認められる薬物にあっても、その自己使用自体は犯罪というよりも薬物依存症という一つの精神疾患の症候であるから、犯罪としての取締りよりも、精神保健福祉上の保護的対応が不可欠である。

pencilただ、自発的に医療機関を受診する依存症者は少なく、通常は規制薬物の所持容疑で摘発されて自己使用の事実も判明することが多い。そうした点では、規制薬物の単純所持は一つの取っ掛かりとしてなお犯罪として残すが、その処遇は対物的処分としての没収で十分であろう。
 そのうえで、所持者の自己使用が判明した場合は、捜査機関から所管行政機関に通報し、行政機関が対象者に指定医療機関等での治療命令を発するようにするのである。この命令に反して治療を受けようとしない者に対しては、さらに裁判所の命令により指定医療機関等へ強制収容することも可能とする。
 他方、有害な規制薬物の密輸・密売などの営利的な行為は、しばしば犯罪組織の資金獲得手段となるところでもあり、薬物犯罪取締りの中核的対象を成す。
 こうした組織犯罪型薬物犯罪に対する処遇は、組織犯罪対策そのものと重なる部分もあるが、犯罪組織のメンバーのように犯罪性向が類型的に高い犯行者が少なくない一方で、金欲しさからの一過性の売人や運び屋なども含まれることも考えると、第二種以下の矯正処遇または保護観察が相当であろう。

pencil以上のような規制薬物の所持をはじめとする犯罪行為類型については、特別法ではなく、一般法たる犯罪法典上に基本的な規定を置くべきである。
 この点、1907年(明治40年)に制定された日本刑法は当時の時代状況を反映して、あへん煙についてのみ規定を置いているが、犯罪法典上では取り締まり対象となる規制薬物の種類を限定する必要はなく、規制薬物のリストは特別法の定めに委ねてよい。
 日本ではこうした特別法として、覚せい剤取締法、大麻取締法、あへん法、麻薬及び向精神薬取締法など複数の法律が林立しているが、これでは一般市民にとって規制薬物取締体制の全貌が見えにくく、告知機能を十分に果たせない。
 そこで、こうした個別の規制法を統合して、例えば「規制薬物取締法」といった法律に一本化して規制薬物のリストを一覧的に明示すべきである。
 繰り返しになるが、そのリストは薬学・医学の現代的水準に照らして常に検証に付されなければならない。さしあたり大麻がリストから外れる可能性はあるが、反対論も強い。ここで大麻をめぐる高度に科学的な論争に決着をつけることはできないが、重要なことはそうした議論そのものをタブーとして凍結してしまわないことである。

2012年5月15日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第36回)

第6章 略

二 「西洋近代」の黎明(続き)

(5)宗教改革から30年戦争へ
 ルネサンスが〈反〉ではないにせよ、〈脱〉キリスト教的な方向の精神‐文化革命であったとすれば、同時期に並行した宗教改革はキリスト教内部における精神革命と言うべきものであった。それはルネサンスの精神も一部取り込みながら、しかしルネサンスとは違い、社会的動乱を巻き起こすほど「西洋近代」の産みの苦しみと言うべき側面が強かった。
 この宗教改革がルネサンス発祥地の北イタリアではなく、―前哨戦として、かのフィレンツェにおけるサヴォナローラの失敗に終わった宗教改革があったとはいえ―ドイツで始まったのは、失墜の最中にあったローマ教皇にとって、保守的かつ分裂状態のドイツは経済的な収奪の基盤となっていたため、とりわけ農民層のローマ教皇への反発は強く、ルターの主張は農民反乱(大農民戦争)の火をつけるほどにドイツ農民の心をとらえたからであった。
 一方、ルターよりも急進的なカルヴァンがスイスに迎えられたのは、当時のスイスが1291年のウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン三邦の永久同盟以来、ハプスブルグ家の支配に抵抗を続けながら形成されてきた連邦共和国―後に1648年のウェストファリア条約で正式に独立が承認される―として自由な改革的気風を保持していたからであった。とりわけカルヴァンが拠点を置いたジュネーブは新教プロテスタントの総本山となった。
 ルターとカルヴァンには違いもあったが、ひたむきな信仰を通じた神の恩寵と万人祭司主義の教義―ある意味では神への絶対的服従を説くイスラーム教への接近とも言える―は階級を超えて人々の心をとらえて北ヨーロッパを中心に勢力を拡大し、今日にまで至るカトリックとプロテスタントの恒久的分裂を画した。
 しかし、当初は旧教側の反撃も激しかった。1519年から神聖ローマ皇帝を兼ねたスペインのカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)は1529年、シュパイヤーの国会でルター派を禁止し、これに同派が抵抗(プロテスト)したことでプロテスタントの名が生じた。しかし、肝心のローマ教皇がハプスブルグ家を警戒し、フランスと結ぶという誤算から皇帝も譲歩を強いられ、晩年の1555年、アウクスブルクの国会でルター派領邦君主の信仰の自由を容認したのだった。
 こうして宗教改革という波をかぶった旧教側も消極的な反撃にとどまらない積極的な攻勢に出ていく。それはヨーロッパ外のアメリカ大陸やアジアへの布教というキリスト教の「輸出」であった。実は「普遍」を意味するカトリックはこのような世界布教を通じて初めて真にカトリックになったと言ってよかった。
 そもそも大航海と植民自体が「キリスト教と香料」と言われたように、「野蛮人」への布教と改宗という目的を伴っていたが、明白に海外布教を目的として結成されたのが有名なイエズス会である。スペインの軍人イグナティウス・ロヨラがまさにルターの宗教改革運動渦中の1534年にパリで結成したこの修道会は、ローマ教皇の承認の下、宣教師をアメリカ大陸やアジア方面を中心に派遣し、組織的な布教活動を開始した。早くも1549年には日本に到達したフランシスコ・シャビエル(ザビエル)もイエズス会創設メンバーの一人であった。またシャビエルが願って果たせなかった中国布教に17世紀初頭に初めて成功したのも、イエズス会士マテオ・リッチであった。
 こうしてキリスト教の「輸出」は東アジアにまで及び、やがて非ヨーロッパ世界をして「西洋近代」という波に直面させる契機ともなるのである。
 さて、旧教と新教の対立は17世紀に入って新たな局面を迎える。1618年にはハプスブルグ家の支配下にあったボヘミアでカトリック反動政策が強行されようとしたことへのプロテスタント派の蜂起を機に、30年戦争が勃発した。
 この戦争は宗教戦争として始まりながらデンマークやスウェーデンなど北欧の新教系諸国の介入に、旧教国同士フランスとスペインの対立も絡む全ヨーロッパ規模の大戦に転化し、戦場となったドイツを荒廃させたが、講和に際し、副産物としてウェストファリア条約という近代的な多国間条約の先例を産み落としたのだった。

(6)仏宗教戦争と英国国教会
 宗教改革の主要な舞台はドイツであったが、カルヴァン派が浸透したフランス、イングランドでも独特の形で宗教改革の波が起きていた。
 ローマ教会の大分裂以来、ローマ教皇から半ば独立した固有のカトリック(ガリカニスム)が優勢であったフランスでも、ここではユグノーと呼ばれたカルヴァン派が少数派ながら有力となり、1568年以降、王室をはじめとする多数派カトリック側と内戦状態に陥った。その過程では、三代の国王の母として宮中で実力を持ったカトリーヌ・メディシスの謀略でユグノー派が大量虐殺される事件(サン・バルテルミの虐殺)も発生した。
 40年近くに及んだ内戦に終止符を打ったのは、プロテスタントであったブルボン朝創始者アンリ4世で、彼は1589年の即位に当たりカトリックに改宗する一方、ナントの勅令でユグノーの信仰の自由を容認した。しかし、彼の孫・ルイ14世は1685年、この勅令を廃止し、ユグノー弾圧策に転じたため、商工ブルジョワジーに多かった多数のユグノーが国外へ亡命し、経済危機を招いたほどであった。
 これに対して、イングランドでは事情を異にする。イングランドはルターにも先立つ最初の宗教改革者とも言うべき14世紀のウィクリフ以来、彼の説を奉じたロラード派の拠点となっていたが、カトリックの歴代王朝はこれを抑圧していた。とりわけテューダー朝創始者ヘンリー7世はアーサー王太子の妃にカトリックのアラゴン王女を迎えるなど、カトリックの牙城スペインとのパイプを強化した。
 ところが、夭折した兄アーサーに代わってテューダー朝第二代国王となったヘンリー8世は妊娠した愛人アン・ブーリンと再婚するため、兄嫁だったキャサリン王妃と離婚することを望んだ。しかし、ローマ教皇は離婚に否定的な教義に従い、ヘンリーの離婚を認可しなかった。
 曲折の末、ヘンリーは離婚を強行し、教皇から破門されたため、彼は教皇から独立してついに国王を最高首長とする独自の教会組織を立ち上げてしまった(1534)。これによって、今日まで続く英国国教会の分離がプロテスタントよりも一足先に確定した。
 こうして宗教的教義に反してでも個の自由を貫いたヘンリーは―統治者としての彼は個の自由を認めず、自らに反対し、裏切る者を容赦なく処刑したが(アン・ブーリンも同様の運命をたどる)―、新しいルネサンス型人間を自ら体現していたと言えるかもしれない。  さて、ヘンリーを継いだ息子エドワード6世が夭折した後、イングランド初の女王として王位に就いたエドワードの異母姉メアリー1世は、父に捨てられた母キャサリンを慕う敬虔なカトリック教徒であったため、王配にもスペイン王子フェリペ(後のスペイン国王フェリペ2世)を迎え、親スペインのカトリック反動政治を展開した。その過程でプロテスタントを大量処刑したため、「流血メアリー」の汚名を残すこととなった。
 このカトリック反動政治はメアリーの5年ほどの治世をもって終わり、国教会派の異母妹エリザベス1世(アン・ブーリンの娘)の即位により国教会が復活、定着していく。
 しかし、国教会は言わばイングランド版カトリックという体のものであったため、これに飽き足らないスクワイヤー(郷士)を中心とする新興ブルジョワ層に多かったカルヴァン派はピューリタン(清教徒)として批判勢力を成し、17世紀半ばには清教徒革命の原動力ともなっていく。一方、国教会とローマ・カトリックの対立も17世紀末頃までは完全には終息せず、これは後年、名誉革命の要因ともなる。
 というように、イングランドでは国教会をはさんで右にローマ・カトリック、左にピューリタンが三つ巴となって17世紀の社会動乱を引き起こすのである。

2012年5月14日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第35回)

第6章 略

二 「西洋近代」の黎明(続き)

(4)ルネサンス革命
 「西洋近代」の開幕へ向けた精神的・文化的な革命がルネサンスであった。それは要するに、古典古代文化の再発見によって、中世を特徴づけたキリスト教的封建主義の精神文化を超克しようとする精神‐文化革命であったと言ってよい。
 このルネサンスの発祥地は北イタリア、わけてもフィレンツェを中心とする商業都市共和国であったが、なぜ、どのようにしてルネサンスがここで開花したかということについては定説と言えるものはない。
 この点、ルネサンスを準備したのはさしあたり12世紀のパレルモであった。前述したように、この時代のパレルモはシチリア王国の都として東西の文化の十字路たる最先端の学芸都市であった。特に、ここで保護されていたイスラーム文化は9世紀から10世紀にかけてのアッバース朝やサーマーン朝以来、ギリシャ古典の研究蓄積を持っていたし、シチリア王国が傾倒していたギリシャ系ビザンツ文化にとってギリシャ古典文化は先人の文化そのものにほかならなかった。
 シチリア王国はまた地政学上、北イタリア商業都市にとって重要な航路を支配する立場にあったから、北イタリア商業都市にとっても戦略上重要な中継地であり、同時に文化的な中継点でもあったのだ。
 「パレルモからフィレンツェへ」というような図式を描くことは形式的にすぎるかもしれないが、パレルモがなかったとしてもルネサンスが起こり得たかは疑問である。
 一方、北イタリアという場所は、君主主権国家の例外地帯であった。ここでは統一国家そのものが成立しないまま、いくつかの共和制都市国家や公国が混在し、せめぎあう状況であった。しかし、その分とりわけ都市には自由な気風があった。それはもう少し後に台頭してくる商業共和国オランダと似ていた。
 もっとも、イタリアにはローマ教皇がいた。中でもルネサンスをリードしたフィレンツェは、皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)の対立の中で教皇党が勝利し、教皇を中心に繁栄した都市であった。しかし、ルネサンスが生じた14世紀になると、先に述べたように教皇の威信は失墜していた。都市の精神的支柱は別のものに求めなければならなくなったのだ。それがギリシャ‐ローマの古典古代の遺産であった。
 とはいえ、ルネサンスは決して過去の文化遺産に対する反動的ノスタルジーのうねりではなかった。ある意味では、古典古代の遺産は参照すべき素材の一つにすぎず、ルネサンスの内実とその成果は革新であり、冒頭でも指摘したように精神‐文化革命であったのだ。そうしたルネサンスの革命性を象徴する二人の人物を選び出すとすれば、マキャベリとコペルニクスではなかろうか。
 まさにルネサンスの中心地フィレンツェの外交官であったマキャベリは近代政治(学)の祖とされるが、それは彼が主著『君主論』を通じて、国家目的のためには手段を選ばず道徳や宗教にもとらわれず決断的に行動する君主の理想像を描き出すことにより、世俗国家の理念を初めて示したからである。この理念は彼の二世代後に出たフランスのジャン・ボダンが確立した主権概念と合わさって、勃興しつつあった君主主権国家に理論的基礎を与えたのである。
 一方、クラクフ大学に学んだポーランド出身のコペルニクス―彼はヨーロッパ最古の大学である北イタリアのボローニャ大学でも学んだ―は、長く信じられた教会公認学説でもあった天動説に対し、天体観測に基づいて地動説の体系を初めて示したことで、「コペルニクス的転回」の慣用句を生んだ。もっとも、いわゆる「科学革命」の到来はまだ1世紀以上も未来のことであったが、宗教的教義にとらわれない客観的科学精神の端緒を切り拓いたのは―自身司祭でもあった―コペルニクスであったと言ってよい。
 こうしたルネサンス革命の成果は文芸分野の革新的潮流とともに、フランス、オランダ、イングランドなど北ヨーロッパへも広がっていった。

2012年5月12日 (土)

犯罪と非処罰(連載第20回)

16 性犯罪(下)

pencil前回取り上げた「性暴力犯」に対して、「性風俗犯」及び「性表現犯」は全く罪質を異にしている。これらは個人の性的自己決定ではなく、公序良俗という社会的秩序を侵害する罪とされているからである。
 このうち「性風俗犯」は多くの諸国で「非犯罪化」や「非刑罰化」が進んでいる。例えば、かつては単なる“不倫”では済まない重罪とされた「姦通罪」は日本をはじめ多くの国で「非犯罪化」され、単に離婚事由や民事不法行為責任の問題とされるようになった。さらに、売買春のような行為ですら、日本も含む多くの国では「非刑罰化」され、行政的取締りや福祉的保護に委ねられるようになった。
 これらの行為が不道徳と評価されなくなったわけではないが、性道徳そのものを刑罰によって保持しようとする発想は先進諸国では過去のものとなりつつある。

pencilしかし、公衆の前で下半身を露出するような行為は別である。日本刑法上、こうした行為は「公然わいせつ罪」(刑法174条)に該当することになる。ただし、「わいせつ」という概念は漠然としており不明確であるから、より限定的に「性的露出罪」というように規定し直される必要がある。
 このような露出犯罪は単に性道徳に反するというのではなく、他人に性的な不快感・嫌悪感を抱かせるからなお犯罪とされるのである。その意味では、この犯罪は「性風俗犯」というよりも、性的強要罪にも近い「準性暴力犯」とみなすことができるであろう。
 そうであれば、「公然」でなくとも、およそ他人の面前で相手の意思に反して下半身を露出するような行為は「性的露出罪」に該当する一方で、ストリップ劇場でのヌードダンスや確信的に全裸で保養することを主義とするヌーディストが集合する特定の場所(海岸や保養施設)で露出するような行為などはむしろ露出を芸能や主義として享受する人々の間でだけ限定的に公然化されるにすぎないのであるから、「性的露出罪」には当たらないと理解すべきである。

pencil「性的露出罪」にはヌードダンスのように表現行為としての要素が認められる場合があるが、より直接に「性表現犯」としての性格を有するのが、日本刑法上では「わいせつ物頒布等の罪」(刑法175条)である。
 この規定はかねて憲法21条で保障される表現の自由を侵害する疑いがあるとして問題視されてきた。たしかに、ここでも「わいせつ」概念は漠然不明確であるうえに、文書や図画等による性的表現行為は性的露出行為と比べても他人に性的嫌悪感を抱かせる程度は一段と低いから、そもそも犯罪行為とすべきかどうかという疑問が生じよう。
 しかし、児童を被写体とするポルノグラフィー(児童ポルノ)や性暴力を描写する図画など一定の視覚的表現物は性暴力を助長する恐れがあると言わざるを得ないから、そうした物の頒布等はなお犯罪として残しておくべきである。
 従って、「性表現犯」に関しては、規制対象とすべき表現物を例示的に限定したうえで、「特定性的表現物頒布等の罪」として規定し直されることが目指される。
 なお、この罪の対象とはならない性的表現物でも、青少年の性的情操を保護する観点から一定の規制を免れないものもあり得るが、それについては鑑賞可能年齢を指定するなどの方法で非刑罰的に対応できるであろう。

pencilところで、児童ポルノの取締りに関しては、表現物自体の取締りだけでなく、児童を性的な被写体として使役することの取締りもなされなければ効果は上がらない。
 この点、ポルノを製作する目的で、18歳未満の未成年者に性的な姿態をとらせることや、保護者と業者が児童ポルノを製作する契約を結んだり、業者が被写体となる児童をあっせんしたりする行為を「未成年者性的使役罪」として犯罪化することが検討されるべきである。
 この罪は性表現犯というよりも、未成年者の保護そのものを目的とする福祉犯としての性格を持つが、犯罪法典上の罪として明示されるだけの現代的意義を持つものである。

pencilさて、以上の「性的露出罪」や「性表現犯」に属する犯罪を犯す者の多くは一過性の犯行者であるから、原則として保護観察で足りる。しかし、同一または同種の行為を反復する一部の累犯者に対しては第一種矯正処遇を与える。また特定性的表現物頒布等の罪に対しては没収を活用すべきであろう。
 これに対し、上述の「未成年者性的使役罪」については犯罪性向が高い犯行者も少なくないから、最大で第二種以下の矯正処遇とすることが適切であろう。

2012年5月11日 (金)

犯罪と非処罰(連載第19回)

16 性犯罪(上)

pencil個別的な犯罪対策の中で、おそらく世界各国において最も厄介な難問となっているのが性犯罪である。ただ、性犯罪といっても、それには大きく「性暴力犯」「性風俗犯」「性表現犯」という三つの系統がある。
 中でも最も実害が大きく、深刻なのが「性暴力犯」であり、通常、性犯罪というときはこれを指している。「性暴力犯」の典型は強姦罪であるが、現代では性的自己決定の意識が高まり、「性暴力」の概念枠は広がる傾向にある。従って、ここでは「非犯罪化」よりも「犯罪化」がモードである。
 この点、日本刑法上は強姦罪(刑法177条)に加え、同様に暴行または脅迫を手段として「姦淫」以外の性的行為を強要する強制わいせつ罪(刑法176条)という規定がかねてより用意されている。
 これに加えて、近年地方自治体条例上で暴行または脅迫よりも弱い手段を用いて性的行為を強要した場合にも、これを「痴漢行為」として処罰する規定を置くことが一般化している。
 しかし、性的自己決定の今日的水準からすれば、このように性暴力の形態を細分化したうえで、強姦を最も重く処罰するという定め方はもはや過去のものである。むしろ、およそ相手方の意思に反して性的行為を強要することを包括して「性的強要罪」として定めるべきである。

pencil以上の性的強要罪は相手方の明確な意思に反して性的行為を強要する型の犯罪であることから、当事者間に性的行為に関する合意がなかったことが犯罪の成否を分けるポイントとなる。そのため、裁判上合意の有無がしばしば激しく争われ、そうした場合には被害者が公開の法廷で厳しい反対尋問にさらされ、新たな屈辱感を味わうこと(いわゆる第二次被害)も少なくない。
 だからといって、当事者間の合意に関する立証基準を緩和すれば、冤罪に直結しかねない。そこで、強要型の性犯罪とは別に、他人を支配下に置いて自己または第三者に対して性的に奉仕させること自体を犯罪とする「性奴隷化罪」を創設することが有益である。
 この場合、被害者は消極的・受動的ではあれ、性的行為に対して同意を与えてはいるのであるが、全体としては性奴隷として加害者の支配下に置かれているのである。
 その際、性的奉仕が有償か無償かは問わない。たとえ被害者が性的奉仕に明確な対価が与えられる売買春営業に雇われていたとしても、雇用主の支配下で逃れることのできない状態に置かれていたような場合は、雇用主に「性奴隷化罪」が成立するのである。
 こうした規定が存在すれば、当事者間に合意がなかったことの立証が困難で、性的強要罪が成立しない場合であっても、性的行為の状況からして「性奴隷化罪」が成立する可能性はあることになり、被害者の負担を軽減することもできるはずである。

pencilところで、日本刑法上強姦罪をはじめとする性暴力犯罪は、被害者の意思を尊重し、原則的に被害者側の告訴を待って訴追できる親告罪とされているが、こうした被害者配慮によってかえって被害者が加害者の報復を恐れて告訴に踏み切れず、立件されないケース(いわゆる暗数)が少なくないと見られる。
 そこで、親告罪という規定は廃しつつ、性暴力犯の捜査・訴追に当たっては、被害者側の明示的な意思に反してはならないという留保をつけておくほうがむしろ被害者のためになるであろう。
 なお、性暴力犯は、異性間のみならず、同性間でも成立する。性的自己決定の観点からすれば、およそ性的行為は完全な合意に基づき、隷属関係なしに行われるのでなければならないからである。

pencilそれでは、「非処罰」の構想の下で、以上のような性暴力犯罪に対する処遇はどう定められるべきか。
 まず、最も重大な性的強要罪には性欲を自律的にコントロールできない病理性の強い犯行者もしばしば見られるため、最大で第三種矯正処遇が相当である。
 ここで問題となるのは、通常の矯正プログラムをもってしては矯正困難な者に対して、去勢効果を持つ薬物を投与することが許されるかどうかである。
 この点、薬物投与の方法によるとしても、対象者の意思に反して去勢を強制することは人道処遇の原則に反し、今日では許されることではない。しかし、厳格な医学的判断と対象者の同意に基づく限り、こうした究極の処分をためらうべき科学的理由も乏しい。
 そこで、第三種矯正処遇のうち、医療的処遇を内容とするB処遇の対象者で、なおかつ終身監置に付された者に対しては例外的に薬物去勢に付する可能性を持たせてよいと考える。その際、去勢の必要性に関する3人以上の精神科医による一致した判断に加えて、本人の同意、さらにそれらを確認する裁判所の許可を得て実施されるべきである。

pencilところで、包括的な性的強要罪が適用される者の中には、一過性の痴漢行為者なども含まれてくるので、保護観察相当の場合もあり得る。そこで性的強要罪の処遇の幅は広く取って、第三種以下の矯正処遇または保護観察ということになるだろう。
 他方、「性奴隷化罪」では一過性ということは考え難く、保護観察相当の場合はないが、犯行者の病理性は性的強要罪の場合ほど高くはないと考えられるから、第二種以下の矯正処遇とすべきであろう。

2012年5月 9日 (水)

天皇の誕生(連載第18回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

(4)出雲東部勢力の興隆

意宇王権とその由来
 正史の中でいわゆる出雲として描かれたきた勢力―言わば大国主のイヅモ―は、前回まで見てきたイトモの伊都勢力とは異なり、東側の意宇[おう]と呼ばれた地域を拠点とする勢力であった。
 通説では漠然と「大きな国の主」の意味だとされている「大国主」も、本来は「オウ(ノ)クニ」(意宇国)の「ヌシ」(首長、王)という意味であって、まさに意宇国を象徴する始祖神なのである。
 ただ、実際にこの意宇国の王家であったのは、今日の出雲大社宮司家(旧出雲国造家)であるが、かれらの始祖神は本来大国主ではなく、アマテラスの子神で、天孫降臨に先立って葦原中国に「国譲り」の交渉に遣わされながら、大国主におもねって3年間も復命しなかったと非難される天穂日命[アメノホヒノミコト]である。
 しかし、『出雲国風土記』では、このアメノホヒ=天乃夫比は、適切に任務を遂行したとされているところを見ると、意宇王家本来の始祖神であるアメノホヒが高天原の不忠な使いの神に格下げされたうえ、大国主が出雲の統一的な始祖神とされたのは、意宇王権が畿内王権に統合され、王家が国造家に格下げされたことに照応する政治的作為と考えられる。
 最盛期の意宇王権がそれこそ相当に「大きな国」であったらしいことは、今日の松江市と安来市を中心とした美保湾一帯に築造された方墳や前方後方墳を特徴とする古墳が300近くに上ることからもわかる。
 この王権の支配地域が東側の伯耆国やそのさらに東の因幡国にまで及んでいた可能性もあることは、大国主が皮を剥がされた兎を治療して助けた有名な「因幡の素兎」の伝説からもみてとれる。
 方墳や前方後方墳などの文化的な連続性という点では、畿内王権の軍部を構成した大来目(久米)軍団の故地・岡山県久米郡一帯とも一体的であることからして、意宇の勢力の一部が伯耆・因幡を経由して、久米方面へも南下していったと想定することもできる。
 この意宇王権の祖が元からの在地勢力か、渡来系勢力かは難問であり、通説は在地勢力であることを当然の前提とするようである。しかし、出雲東部から伯耆にかけて高句麗の方壇積石塚に源流を持つとされる四隅突出型墳丘墓が集中的に分布していること、また久米地方と併せてやはり高句麗的特徴である方墳が多いことからすると、意宇王権の母体も高句麗系渡来勢力であった可能性はある。
 しかし、『出雲国風土記』の始祖神話には、金蛙に幽閉された女が日光の光線を受けて生んだ卵から孵ったのが高句麗始祖・朱蒙であるという高句麗建国神話と同型の神話が見当たらないことから、単純に「高句麗系」とは言い切れないところもある。
 そうした場合、高句麗そのものよりも、3世紀頃までに勃興期の高句麗に征服され、その版図となり、高句麗化した沃沮[よくそ]・東ワイ系の渡来勢力を想定してみたい。
 この部族は、今日の北朝鮮咸鏡南道の東海岸や咸興付近に展開したが、このあたりから舟で日本列島側に出ると、鬱陵島、独島(竹島)から隠岐を経て美保湾一帯に漂着することになり、渡来コースとしても合理的である。
 かれらの渡来の要因として、民族的には高句麗を建てた扶余族とも近縁とされる沃沮・東ワイは、氏族共同体的遺風を克服して国を形成できないまま、高句麗に征服併合されたという点で、小邦分立が続いた加耶地方とはまた違った意味から流民を出しやすかったと考えられる。

出雲西部への進出
 イヅモの歴史とは、東側の意宇王権が5世紀後半頃から実力をつけ、西側のイトモへ進出していくところから始まると言ってよい。
 ただ、意宇王権はその神話の豊饒さから見て、すぐれた神権政治勢力ではあったが、軍事的にさほど強大であったとは思われない。それがイヅモ全土の支配者に成長し得たことには、畿内王権の軍事援助が切り札となったとしか考えられないのである。
 その軍事援助がどのようにして行われたかは改めて後述するとして、この意宇王権の西側進出を裏づける最も大きな事実は、何と言ってもイトモの拠点たる杵築大社の祭神がイソタケルから大国主にすりかわってしまったことである。この事実は、どのような方法によってかはともかくとして、意宇王権がイトモの伊都勢力を征服したことを示している。
 では、それ以前の意宇王権自身の宗教的拠点はどこかと言えば、東側のまさに旧意宇郡にある熊野大社であったと考えられる。実は、平安時代初期までは熊野大社のほうが信仰を集めており、杵築大社(出雲大社)はマイナーな存在であった。
 このように熊野大社こそが意宇王権のメッカであったことの名残は、今日でも鑽火祭[さんかさい]という祭事で、火を鑽り出すのに使う燧臼[ひきりうす]と燧杵[ひきりきね]を、出雲大社宮司自らが持参する大きな餅と引き換えに熊野大社から授かるというならわしに表れている。この際、熊野大社側では下級神職が応対し、餅の大きさや形に文句をつけるという習慣がある。この儀式上は明らかに出雲大社のほうが熊野大社より格下なのである。
 意宇王権が西側へ進出していったことのもう一つの痕跡として、出雲を越えて石見にも大田という地名が今なお残されていることである。現に、イトモの伊都勢力の象徴である五十猛神社は大田市内に所在する。
 この「大田」も今日では「おおだ」と読ませるが、『和名抄』では「邑陀」と表記され、本来は「おうだ」(=意宇田)と読まれるべきものであろう。この地名は、意宇王権が最終的に石見国東部までその支配下に収めるに至ったことを暗示している。
 また、『出雲国風土記』意宇郡条に収められた有名な「国引き」の物語では、志羅紀(新羅)から余った岬を網で引き寄せたのが、去受[こず]の折絶[おりたえ](現平田市)から支豆支(杵築)の御埼にかけて、すなわち出雲国西部地域だとされているが、ここで言う「志羅紀」を辰韓系伊都勢力と解釈してみると、「国引き」も、東側の意宇王権が西側のイトモとその周辺地域を伊都勢力から奪取したことの暗喩と読むこともできそうである。
 こうした意宇王権によるイトモ征服が最終的に完了するのは早く見ても6世紀初頭のことであり、それには畿内王権との同盟というプロセスを経なければならなかったのである。

「国譲り」の真相
 日本神話のキーワードとも言える「出雲の国譲り」とは、上記のような意宇に拠点を置いた出雲東部勢力が植民市イトモに拠った西部勢力(伊都勢力)を征服し、統一イヅモを建てる過程で、またはその前提として、畿内王権と同盟関係を結び、軍事援助を受けたことを契機として、なし崩し的に畿内王権に統合されるようになっていった歴史的なプロセスの全体をドラマチックに神話化したものにすぎない。
 それは軍事的な征服によるものではなかったから、神話にあるように交渉による「国譲り」というプロットにまとめられることになったし、出雲の神々は独自の地位を与えられ、そのメッカとなった出雲大社は後々皇室からも尊重されたのである。
 しかし一方で、出雲の神々はスサノオという高天原系の悪神の系譜に組み込まれ、本来の祖先神であるアメノホヒは高天原からの不忠な使い役に格下げされたうえ、大国主なる仮想的な祖先神を設定されるという形で、イヅモは神代からヤマトに従属していたことにされたのであった。
 畿内王権が意宇王権を単純に軍事的に征服するのではなく、このように手の込んだ統合の方法を採用した事情として、当時の畿内王権自身もイトモの勢力を撃滅しなければならない独自の理由を抱えており、そのために同盟相手を必要としたということと、畿内王権自身の宗教政策として意宇王権の宗教を利用すべく、一種の神聖同盟を目指したということの二つがあると考えられるのであるが、こうしたことを解明する前提として、次章で改めて5世紀代における畿内王権の動向を把握しておかねばならない次第である。

いわゆる出雲とは、九州の伊都国が畿内王権に征服された後、同国から拡散・移住した勢力(伊都勢力)が5世紀前半、出雲西部(今日の出雲大社周辺)に建てた植民市イトモを、東部から発祥した意宇王権が6世紀初頭頃に畿内王権と同盟しつつ征服した結果として成立したクニである。
では、この5世紀前半から6世紀初頭にかけての畿内王権側では何が起きていたのであろうか。

2012年5月 8日 (火)

天皇の誕生(連載第17回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

(3)イソタケルと出雲西部勢力

植民市イトモ
 前回見た伊都勢力の移動ルートの中で、本章の主題にとって最も重要なのが「日本海ルート」である。
 元来、伊都国の勢力圏は九州北部沿岸地域を通って、本州側の長門付近まで及んでいた可能性がある。というのも、大加羅王子(大加羅は5世紀後葉以降に台頭する加耶諸国の一つ)を名乗る渡来人・都怒我阿羅斯等[ツヌガアラシト]が穴門(長門)に漂着した際、国王を自称する伊都都比古[イツツヒコ]が阿羅斯等を足止めしようとしたという逸話が『書紀』の垂仁紀に記されているからである。
 この時、阿羅斯等は伊都都比古が王であるはずがないと判断し、自発的に穴門を離れたというが、この伊都都比古(=伊都の比古)は伊都国の王ではないにせよ、長門を管轄する伊都国王の代官であった可能性はある。というのも、『魏志』には伊都国の副官に「柄渠觚」(ヒコ?)があると記しており、これは「比古」とも通ずるからである。
 また、前に見た五十迹手の服属場面でも、彼は仲哀天皇を穴門の引島(彦島)―代官比古が駐在していた島か―に迎えているので、少なくとも下関付近までは伊都国の勢力圏であったかもしれない。
 そのため、五十迹手を服属させた仲哀天皇も長門に宮を建てたとされるように、畿内王権も伊都国征服に当たっては長門の征服を試みたようである。
 そこで、日本海ルートを辿った伊都勢力は、征服された長門を越えて石見から出雲西部へ移動し、この一帯に定住したものと見られるのである。
 そのことは、前に述べた石見の五十猛の地名や五十猛神社の存在、さらに『延喜式』神名帳によると、出雲国にイソタケルを祀る韓国イダテ神社が六社も存在することで裏づけられる。ここでは「韓国」とイソタケルが渡来神であることが明示されている。
 このように、日本海ルートを辿った伊都勢力が入植した所(おおむね後の出雲郡を中心とする地域)がイトモ(=伊都面)と名づけられたのであり、実はこれこそが元来のイヅモの由来と考えられるのである。
 このイトモが旧伊都国のような世襲の王を擁するクニに発展したかどうかは不明で、さしあたりは水軍勢力の首領に統率された軍事的な植民市であった可能性が高いが、首領は伊都国の伝統に従い、「爾支」ないし「尼師今」のような首長号を名乗ったと見られる(これについては第七章で改めて触れる)。
 このような植民市イトモが伊都勢力の大移動の渦中で建設されたのは、以下で検証する理由から5世紀前半の中頃のことと推定される。

出雲大社の前身社
 大国主大神を盛大に祭祀する出雲大社は今日、まさにイヅモの象徴として君臨しているが、同大社が現名・出雲大社を名乗るようになったのは明治初期からのことにすぎず、古代以来、杵築[きづき]大社と呼ばれていたことが『延喜式』神名帳でも確認できる。
 しかも、出雲大社の祭神が大国主であることが史料上確認できるのは、イヅモが畿内王権の支配下に入り、出雲国造新任時に朝廷で奏上する「出雲国造神賀詞」が確立されて以降のことにすぎない。すると、出雲大社の前身たる杵築大社の原祭神とはいったい何だったのであろうか。
 そのことを推定させるかすかな手がかりとして、今日でも出雲大社の式内社としてスサノオを祀る素鵞社[そがのやしろ]が『延喜式』神名帳で韓国イダテ神社を式内社に持つ出雲神社の論社(推定神社)とみなされていることが注目される。
 この推定が正しいとすれば、出雲大社の前身たる杵築大社の原祭神はやはりイダテ、すなわちイソタケルであったと見てよいのではないだろうか。
 いずれにせよ、杵築大社は植民市イトモの宗教的中心であると同時に、海に近い立地からして水軍の出撃基地でもあった可能性があり、イトモとはこの杵築大社を中心として伊都勢力が周辺の沿岸地域を強力な水軍力によって支配した一種の軍事的な都市国家であったと見てよいと思われる。

新羅侵攻の継承
 伊都国がそのルーツである辰韓系伊西古国と斯盧国(新羅)との歴史的な反目を背景として「反新羅」の旗色を鮮明にし、たびたび新羅侵攻を繰り返していたことは前節で述べたが、日本海ルートを辿ってイトモを建てた伊都勢力もこの「反新羅」の大義を忘れていなかったと見られる。
 『三国史記』新羅本紀によると、5世紀代に入ってもなお倭の侵攻が20回近くも記録されているが、同世紀半ばを過ぎると、一定の外交関係を前提とした紛争と思われるものはほとんど見られなくなるとともに、王都・金城を攻囲するような大規模な侵攻も影を潜め、新羅東海岸を海賊的に寇掠するような侵攻が多くなる。
 これは4世紀後葉に伊都国を服属させて以来、旧伊都国の水軍力を利用しつつ大規模な新羅侵攻を敢行していた畿内王権が何らかの理由(後述)で5世紀半ばより反新羅の姿勢を改め、新羅侵攻を停止する一方で、イトモの伊都勢力―出雲西部勢力―は5世紀後半になっても海賊的な新羅襲撃を繰り返していたことを示している。
 かれらは伊都国時代の古い思考を捨てることができなかったことに加え、「金銀のある新羅」でおそらくは奴隷を含む物資を確保する経済的動機からも、杵築大社を出撃基地として一種の海賊活動を展開していたものであろう。
 畿内王権がまだ全国的な王権に発展しておらず、やがて東側から台頭してくるもう一つの出雲勢力―出雲東部勢力―もまだ伸張していなかった5世紀後半は、イトモにとって繁栄の時代であったかもしれないが、世紀の変わり目頃になると、かれらの命運は―そうとは意識されないまま―もう尽きかけていた。
 おそらく、植民市イトモの繁栄は、由緒ある伊都勢力にとっては、最後の輝きであったかもしれない。

2012年5月 7日 (月)

天皇の誕生(連載第16回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

(2)伊都勢力の由来と大移動(続き)

伊都勢力の東遷・拡散
 ここでイソタケルについて紹介する『書紀』の別伝第四書にもう一度立ち戻ってみると、イソタケルは持ち帰った樹木の種を筑紫から始めて大八洲国に播き殖やして、一つ残らず青山に変えたというのであった。
 このことが暗示しているのは、伊都国を母体とする伊都勢力がやがて大移動し、東遷・拡散していった現象である。
 こうした大移動が発生したのは、伊都国が畿内王権に服属した後、5世紀前半のことと推定される。その要因としては、伊都国の中でも畿内王権への服属を潔しとしないグループが本国を離れて順次東遷・拡散していったことが考えられる。
 伊都勢力は沿岸部の伊都国から発祥したため、本質上流動的な水軍勢力であり、移住先で古墳群を形成するようなことはなかったが、イソタケル信仰を広く伝播させた。事実、イソタケルを祀る神社は全国に数多く、まさに「大八洲国」に広がっている。
 ただ、この拡散は必ずしもランダムではなく、いくつかのルートに整理することができる。そのルートを大別すると、糸島半島から瀬戸内海を辿って播磨を中間到着点としつつ、さらに近江から若狭湾を通って但馬方面へ抜ける「内陸ルート」と、同じく瀬戸内海を辿って紀伊半島に入り、さらに伊勢から太平洋沿いに伊豆半島へ移動する「太平洋ルート」、また長門から日本海沿いに石見、出雲西部へ移動する「日本海ルート」と三つのルートを確認できる。
 はじめに「内陸ルート」を見ると、このルートは『書紀』でアメノヒボコが辿ったと記される経路と重なる。アメノヒボコはまず播磨へ渡来してきたというが、この播磨には前章でも触れたとおり、まさに因達里[いだてのさと]という古地名があり、イソタケルと実質上同一神である射楯神を祀る射楯兵主神社が所在するし、伊都村というそのものズバリの地名もあった。
 今日の姫路市を中心とするこの一帯には、新羅神社など新羅にまつわる社名や古地名も多いが、アメノヒボコゆかりの「新羅」とはまさに辰韓系伊西古国の系譜に連なる伊都勢力の足跡を示すものと言える。
 アメノヒボコはその後、近江へ移るが、その通り近江にもイソタケルを祀る神社が散在しており、特に若狭へ連なる湖西地域には「新羅」にまつわる社名・古地名が集中する。
 一方、アメノヒボコが最終的に定住したという但馬には、一宮として有名な出石神社がアメノヒボコを祀っている。この出石とは『書紀』でアメノヒボコが持参したと記される七種の宝物の一つ、「出石の小刀」に由来するというのが通説であるが、「いずし」を分析すると、『記』では「伊豆志」と表記されていることからして、伊都県主の祖・五十迹手を仲哀天皇がほめて名づけたという「伊蘇志」とも通ずるところがあるので、これも伊都勢力にちなむ地名と解釈することができるのではないだろうか。
 ちなみに、アメノヒボコが但馬の在地豪族・太耳の娘・麻多烏[またお]をめとって生んだ但馬諸助[たじまもろすく]の五世孫が神功皇后の母・葛城高額媛になるということは第一章でもすでに見たが、この系譜伝承は、要するに神功皇后の母方が伊都勢力の血を引いているという事実を示しているわけであり、神功皇后が「新羅神」として神格化されるのも、この辰韓系伊都勢力との血縁においてなのである。
 以上の「内陸ルート」と途中まで同一経路を辿って分岐したのが、「太平洋ルート」である。これは瀬戸内海から播磨へ入らずに、直接に紀伊半島へ入るルートである。
 『書紀』の別伝第四書によると、イソタケルは紀伊に鎮座しているというのであった。実際、紀伊には名草郡(和歌山県西部)に属した地域を中心に、イソタケルを祀る神社が集中する。特に、伊太祁曾[いたきそ]神社伊達[いだて]神社は名神大社と社格も高い。
 紀伊国は木国であり、樹木の神でもあるイソタケルが木材の一代生産地・紀伊国に鎮座するのは自然である。おそらく水軍勢力である伊都勢力の一部が紀伊を定住地に選んだのは、船材に用いる樹木が豊富であったことによるのであろう。
 ちなみに、旧名草郡の東側には、その名もズバリ伊都郡が今日でも残されているのも偶然とは思えない。おそらく律令制施行前には名草郡とも一体の伊都勢力集住地域だったのではないだろうか。
 この紀伊伊都勢力の一部は、さらに太平洋沿岸を回って伊勢にも入ったようである。この伊勢という地名自体が伊蘇の転訛と考えられ、現に伊勢には有名な五十鈴川があるが、この「五十」もイソないしイトとも読めるところである。そして、伊勢にもイソタケルを祀る神社はかなり分布している。
 伊勢は、周知のとおり天照大神を祀る伊勢神宮の本拠であるが、伊勢が天照大神のメッカとなったのは、朝廷によって天照大神を皇祖神とする信仰が事実上の国教的地位をもって強制されるようになった7世紀末以降のことであって、それ以前は長くイソタケルの聖地だったのではないだろうか。少なくとも、垂仁紀に架上されている伊勢神宮の由緒をそのまま受け取ることはできない。
 ただし、伊勢神宮の前身と見られる最初の斎宮を五十鈴川のほとりに建て、「磯宮」[いそのみや]といったと記されるのは示唆的で、伊勢一帯が本来、イソ(五十)と呼ばれていたことを推測させる。
 ところで、伊勢から遠州灘を渡れば伊豆半島に到達するが、この伊豆半島にも来宮[きのみや]神社を中心にイソタケルを祀る神社が多く分布しており、イソタケルのみを単独で祀る神社もあるほどである。
 この「来宮」とは「木宮」とも表記できるところで、本来は木材または船に関わる社名であろう。応神紀に応神天皇が伊豆国に命じて官船「枯野」を建造させたとあるように、古代の伊豆は造船工房でもあった。
 そもそも伊豆という地名も、イトないしイソの転訛であることはもうおわかりであろう。「伊豆国」とは、まさに東日本における「伊都国」そのものなのである。
 最後に、日本海沿いに長門から石見を経て出雲西部へ移動する三本目の「日本海ルート」であるが、これはまさに本章の主題と直接に関わってくることであるので、節を改めて論じることにしたい。

2012年5月 6日 (日)

犯罪と非処罰(連載第18回)

15 生命に対する罪
 ―生と死の自己決定について(下)―

pencil臓器移植は死のプロセスに入ってから生じ得る問題であるが、死のプロセスに入る以前にいわゆる延命処置を拒否して自然に来たるべき死を迎えることは「尊厳死」と呼ばれ、その可否が古くから議論されてきた。
 「尊厳死」に否定的な見解は、人工的な延命処置が可能な限りはそれを続けることが医師の務めであり、医師が延命を中止して患者に死をもたらすのは殺人罪(嘱託殺人罪)にほかならないと主張する。
 しかし、自らの死に方を選択する自由を尊重する考えからは、患者が人工的延命処置を受忍して医の倫理のために奉仕させられることは本末転倒である。そこで、意思表示がまだ可能な間に延命処置を拒否して尊厳死を望む旨の意思表明(リヴィング・ウィル)を残しておく慣習が普及していった。
 こうしたリヴィング・ウィルが示された患者に対して医師が延命処置を中止して死をもたらすことは嘱託殺人罪に当たらないという考え方が諸国で受容されるようになってきたことは、一つの進歩であろう。
 ただ、そもそも延命処置とは、回復の見込みがなく、いずれ確実に死を迎える患者を人工的に生かし続けることであるから、医師が延命処置を中止することが即殺人罪に当たるという論理は、いささか形式論にすぎるのである。
 もちろん、医師は独断で延命処置を中止すべきではないが、それは純粋に医の倫理上の問題であって、殺人罪の成否という次元の問題ではない。元来、無益な延命処置は死を間近にした患者の心身の負担を倍加するだけで医学的にもプラスにならないのであるから、無益な延命処置そのものをしないことを医療的慣習として確立すれば、「尊厳死」という問題自体が解消されていくであろう。

pencilより深刻な問題は、死苦を逃れるため、あるいは回復の見込みのない難病の苦しみから解放されるために死を望む患者に対して、医師が致死性薬物の注射などの方法によって積極的に死をもたらす「安楽死」の可否である。
 これは「尊厳死」と異なり、患者はまだ自力での生存可能性が残されている段階で人為的に死をもたらすことであるから、医師がまさに嘱託殺人罪(独断なら殺人罪そのもの)に問われかねないわけである。
 「尊厳死」が認められるならば「安楽死」も認められて然るべきと短絡するわけにはいかない。なぜなら「尊厳死」は死に方の自由の問題であったが、「安楽死」は死ぬこと自体の自由を認めるべきかどうかという問題だからである。
 死の自己決定という場合、それは死に方、言い換えれば死の迎え方の選択であって、死ぬこと自体の選択ではない。死ぬこと自体の選択の最たるものは自殺であるが、自殺は他殺と異なり、今日では多くの国で犯罪とみなされないとはいえ、倫理上は反価値的と認識されている。
 ただ、「安楽死」を望む人が一定存在するのは、一部の病気の末期では肉体的にも精神的にも死苦が生じるからである、しかし今日、こうした死苦を鎮痛剤の投与や放射線照射によって緩和したり、精神療法によって精神的な苦痛を軽減したりするターミナル・ケアが進歩し普及してきた。
 このようなケアは回復を目指す治療とは異なるが、単なる延命処置とも異なり、死を前にした患者ができる限り苦痛なく安らかな死を迎えることをサポートする医療行為の一種である。こうしたターミナル・ケアの技術が進歩し、さらに普及していけば、死苦は大幅に軽減され、もはや「安楽死」を望む患者もほとんどいなくなるであろう。
 そうしてみると、「安楽死」を認めなければならない決定的理由は現状でも乏しく、「安楽死」が嘱託殺人罪等に該当することは否定できないであろう。
 ただし、ターミナル・ケアも効果なく、患者の死苦はなお激しいというやむにやまれぬ状況で、患者の依頼を断り切れず、医師が安楽死を決断したというような場合に、医師を嘱託殺人罪に問うべきかという究極の問いは残される。
 かの「生命の神秘化」の立場からすれば、こうした場合にあっても、問題の医師は訴追され処罰されねばならないのであろう。しかし、「非処罰」の構想の下では、この善意の医師は訴追を免除されるべきである。この医師は倫理的なジレンマに立たされてあえて違法な決断をしたのであって、矯正すべき犯罪性向は認められないからである。

pencil以上の「尊厳死」「安楽死」をめぐる問題はえてして医療現場に倫理的な葛藤を引き起こしがちであるので、問題の解決を法解釈・運用に委ねることなく、例えば「尊厳死及び安楽死に関する法律」といった特別法を制定して法の立場を明確にしておくべきである。

2012年5月 5日 (土)

犯罪と非処罰(連載第17回)

15 生命に対する罪
 ―生と死の自己決定について(中)―

pencil前回見たように、出生前の胎児を「殺す」堕胎罪を非犯罪化するとしても、出生した人間を殺せば殺人罪であることは言うまでもない。殺人罪は最も自明の犯罪と認識されてきたが、近年は「殺人」の概念にも変容が生じてきている。
 「殺人」と言えば、かつては殺意をもって他人を心臓死させることと決まっていたが、近年は「脳死」の概念が登場してきたため、「殺人」の定義も見直しを迫られているのだ。
 「脳死」の概念はほとんど専ら脳死者からの臓器摘出・移植という高度医療を可能とする文脈で引き合いに出されるため、「脳死」は果たして人の死と認められるか否かをめぐって激しい論争が提起される。
 日本ではこの論争に決着をつけることができず、言わば移植医療との妥協により、法に基づいて正当な移植医療が実施される場合に限り、脳死者からの臓器摘出を合法化するという便法が採られた。
 しかし、これでは一般刑法上は人の死を心臓死としてとらえながら、特別法上、脳死を人の死と認める結果、法的に死の定義が二重化されるという首尾一貫しない事態となる。それは移植医に殺人罪の免責特権を与えるに等しいという点でも不当である。
 死の定義をめぐる心臓死説と脳死説の対立関係を止揚することは可能であり、また必要なことでもある。そのためには、死を心臓死か脳死かというある一時点の事象としてとらえるのでなく、脳死から心臓死までの時間的なプロセスとしてとらえる「プロセスとしての死」という発想に切り替えることである。
 心臓死説は脳死状態でも心臓は動いていてぬくもりもある“人”を死体とみなすことは容認できないという考えに基づいているが、これは多分にかの「生命の神秘化」と関わっている。脳科学の発達に伴い、人間の生命活動を実質的に統括しているのは心臓以上に脳であることが判明するにつれ、その司令センターたる脳の機能停止をもって人の死の重要な要素とみなそうとする考えが医学的に定着してきた。
 もちろん、病態によっては脳死を経由せず短時間または瞬時に心臓死へ至ることもあり、俗に「即死」と呼ばれる。しかし、場合によっては、脳死から心臓死まで時間的なプロセスをたどる病態もあり、そうした時間差を利用して行われるのが移植医療である。「プロセスとしての死」という概念によれば、脳死者からの臓器摘出は生体でなく死体からの摘出となるから、殺人罪(または傷害致死罪)に当たらないことは当然である。これは形としては死体損壊罪となるが、法の定める正当な手続きに従い、移植医療の一環として実施された限り、完全に合法的な医療行為である。
 一方、殺意をもって他人に暴行を加え、脳死状態にさせれば殺人罪は既遂に達するのであり、未遂ではない。しかし、脳死状態にある被害者を山林などに捨てることは死体遺棄罪であって、生きている人を棄てる遺棄罪ではないのである。

pencilこうして「プロセスとしての死」という死の規定によると、死の概念に幅が生じるので、各人がどのような死に方をするか、つまり自分らしい死に方を選択する余地が生まれてくる。
 この点、日本で最初の臓器移植法は原則として本人の生前の意思表示が書面で示されていた場合に限り認められていたのであったが、別の角度から見れば、これは死に際して臓器を他人に提供するという死に方の選択を尊重する方法によっていたとも言える。
 しかし、この方法では当然にも移植対象たり得る臓器の決定的な不足という問題を引き起こすことから、移植医療側の強い要望もあり、原則として家族の同意だけで臓器提供・移植を可能とする法改正が実現したのは周知のとおりである。
 この法改正は移植医療を容認する限り、必然的な帰結ではあった。しかし、これによって個人的な信条から臓器提供を望まない人の自己決定が妨げられる恐れも出てくるが、この問題はあまり議論されておらず、むしろ臓器提供を決断するかどうかの選択を迫られる家族の負担問題に議論が集中しがちである(たしかに家族の負担問題も重要ではあるが、これについては負担を緩和する方策も検討されており、ここでは特に言及しない)。
 家族の同意だけで臓器提供ができるということは、本人の生前における臓器提供拒否の意思表示を認めないという趣旨ではない以上、本人が生前に臓器提供を拒否する意思を口頭または書面で明示していた場合には臓器摘出は違法とされるべきである。
 この基本ルールは臓器移植法上明文で定められるにとどまらず、書面上の意思表示を簡便に行えるよう、「臓器提供拒否カード」を正式に発行したうえ、拒否者登録制度を整備し、医療現場でも登録情報を迅速に検索できるようにすべきであろう。
 反面、原則として家族の同意だけで臓器提供が可能な法制の下では、もはや「臓器提供意思表示カード」は正式のものとしては不要となるはずである。

2012年5月 4日 (金)

犯罪と非処罰(連載第16回)

15 生命に対する罪
 ―生と死の自己決定について(上)―

pencil刑罰制度は人の生と死の定義をも司っているため、犯罪各論の領域における生命に対する罪は最も重要な位置を占めている。言うなれば、刑罰制度とは生命を司る神の代理人でもあるのだ。
 刑罰制度の生命への対し方は、実際、生命の神秘化である。明言するかどうかは別として、刑罰制度は生命を神からの授かり物とみなす。そのため、生命に対する罪は「涜神罪」―今日では多くの国では廃れている―に準じた地位にある。
 これに対して、近年は生命の始まりと終わり、すなわち生と死とに対する各人の自己決定を重視する考え方も台頭してきている。この考え方は当然にも「生命の神秘化」とは対立関係に立つ。そこから生命に対する罪のあり方をめぐって種々の難問が生じてくるのである。

pencilまず生命の始まりをめぐっては、人の出生に関わる堕胎罪にまつわる難問がある。胎児はまだ人ではないが、一個の生命体であることは間違いない。そこで、その胎児を「殺す」堕胎は今日でも日本を含む少なからぬ諸国で犯罪として規定されている。
 堕胎罪とは、裏を返せば、妊娠した女性に出産を強制することである。出産は女性に肉体的な負担―死に至ることもある―を強いるばかりでなく、人生設計をも大きく左右する一大事である。堕胎罪を厳格に適用すれば、極端には、レイプされた結果妊娠した女性もレイプ犯の子を出産して母とならなければならない・・・・。
 女性の権利の尊重に対する意識が向上するにつれ、出産を強制する刑罰への批判は高まらざるを得ない。むしろ妊娠中絶を女性の自己決定権として認める考えが優勢となるのである。
 もっとも、ここで言う自己決定とは、自分自身が生まれることの自己決定ではなく―それは不可能な自己決定である―、他人を産み出すことの自己決定ではあるが、胎児は女性の体内で母体とほぼ一体的である以上、出産するかどうかということは、第一次的には女性自身の自己決定の範疇に属すると言ってよいだろう。
 この点、日本刑法上には堕胎罪の規定が存置されているにもかかわらず、母体保護法によって妊娠中絶が認められている。同法では中絶が可能な事由を限定しているが、実際上はほぼ無制約に中絶が容認されているため、刑法上の堕胎罪は事実上非犯罪化されているに等しい。
 それならば、さらに進んで堕胎罪を法的にも非犯罪化するのが筋であろう。刑法上にはなお堕胎罪の規定を存置して、中絶する女性に罪の意識を抱かせることは女性の自己決定を十分尊重する仕方とは言えないからである。
 ただし、女性の同意なくして強制的に堕胎する不同意堕胎罪だけはなお犯罪として維持する必要がある。不同意堕胎は通常の中絶とは全く状況を異にし、産まないことを強制する形でかえって女性の自己決定を妨げる行為にほかならないからである。

2012年5月 2日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第34回)

第6章 略

二 「西洋近代」の黎明(続き)

(2)君主主権国家の成立〈1〉
 「西洋近代」の幕開けを政治的な面で画したのは、16世紀以降ヨーロッパ各国で順次進んでいく中央集権国家の誕生という体制変革であった。
 これは通常「絶対王政」と呼ばれる支配体制の成立に相応するが、この用語は通常考えられているほどに一般化できるものではない。 
 一般に「絶対王政」の特徴とされる官僚制・常備軍・重商主義という三要件すべてが典型的に当てはまるのはブルボン朝フランスぐらいである。
 「絶対王政」の先駆けとされるハプスブルグ朝スペインでは官僚よりカトリック聖職者が支柱であったし、しばしば「イギリス絶対王政」の例とされるテューダー朝は先の三要件すべてを欠いていたと言ってよい。ドイツに至っては領邦ごとの分裂がおさまらず、ドイツ全体を束ねる「絶対王政」の成立など望むべくもなかった。
 もしこれらの体制すべての共通項となる最大公約数的なものを抽出するとすれば、それは国王が至高の主権者=君主として支配する集権的体制=君主主権国家ということに尽きる。いわゆる「絶対王政」とは、こうした君主主権国家の一つの典型的な―それゆえにかえって例外的な―あり方ととらえることができる。
 このような君主主権国家体制は、中世の主役であったローマ教皇の超越的な権威が14世紀を通じて失墜していった後、ヨーロッパ域内初の大戦と言えるイタリア戦争(1494‐1559)に際し、各国が自国の利害関係に基づいて国王を中心に外交的・軍事的駆け引きを展開する中で確立されていく。
 君主主権国家における国王はもはや封建領主の第一人者でなく、国家の代表者であり、国家そのものであった。ブルボン朝ルイ14世の言葉としてよく知られた「朕は国家なり」はそのことを端的に言い表している。
 こうした主権者=君主に必要な資質は、古代の王のような軍事的統率力よりもカリスマ性であった。「太陽王」の異名を持ち、バロック舞踊家でもあったルイ14世はそうしたカリスマ性を持った君主の典型でもあった。
 また、君主主権国家の時代にあっては―ゲルマン的伝統を固守して女子の王位継承権を認めなかったフランスはここでは例外となるが―テューダー朝イングランドのエリザベス1世、時代下ってオーストリアのマリア・テレジア、帝政ロシアのエカチェリーナ2世など安定的な長期政権を保った女王・女帝がしばしば輩出したのも、性別にかかわらないカリスマ性という要素が君主の資質として重要性を増したことに起因するのではなかろうか。
 いずれにせよ、こうした君主主権国家の先駆けもやはり、レコンキスタを通じて王権が強化されたポルトガルとスペインであった。わけても1516年に即位したカルロス1世に始まるハプスブルグ朝スペインである。
 一方、レコンキスタの外にあった諸国の場合、君主主権国家成立までのプロセスはもっと複雑かつ劇的であった。最終的に「絶対王政」へ進んだフランスの場合、(1)でも指摘したように、十字軍運動を通じて王権が伸張し、すで聖王ルイ9世の時には「国王は神及び国王自身以外の何者にも属さず」という国王の最高性を強調する格言が生まれていた。
 この格言はルイの孫に当たるフィリップ4世の時代にさしあたりローマ教皇との関係で実行に移された。事の発端はフィリップがイングランドとの戦争での戦費調達のため教会財産に課税しようとしたことをめぐるものであったが、ローマ教皇の優越性を主張する教皇ボニファティウス8世に対して、フィリップ側は教皇の身柄拘束という強硬手段で応えた(1303:アナーニ事件)。その後、フィリップは自らが推したフランス出身の教皇をフランスに足止めしてしまった。
 以後、ローマ教皇は1309年から1377年までアヴィニヨンでフランス国王の統制下に置かれる(教皇のバビロン捕囚)。この「捕囚」が1378年に解消しても、今度は聖界のイタリア派とフランス派の間で対立が生じ、1417年まで対立教皇がローマとアヴィニヨンに並び立つ大分裂を招いた。教皇の威信低下は明白であった。
 ところで、フィリップはボニファティウスへの対抗上、聖俗封建領主に都市ブルジョワ代表を加えた全国三部会を初めて召集し(1302)、フィリップを支持する決議を採択させた。一方、イングランドでも、一足先の1295年、フィリップの敵手でもあったエドワード1世がスコットランド侵略戦争の戦費調達の必要から、都市ブルジョワ代表を加えた二院制の萌芽としての模範議会を召集していた。
 こうした三部会や模範議会に象徴される身分制議会という構制―その先駆けもスペインのコルテス制であった―国王と領主支配制の外にあった都市ブルジョワジー(主に商人層)との緊密な結びつきを前提として初めて成立するものであった。

(3)君主主権国家の成立〈2〉
 中世の主役ローマ教皇が失墜し、国王の権力が増大しても、領主支配制が強力なフランスや13世紀以降のイングランドで君主主権国家がはっきりと姿を現すには、領主支配制の崩壊を待たなければならなかった。その要因として種々のことが指摘されているが、領主支配制を本質的に崩壊へ導いたのは、ようやくヨーロッパでも発達し始めた貨幣経済であったと言ってよい。
 先述したように、十字軍運動を通じて国王が家臣を増やすに当たって採ったのは物理的に限界のある領地の授封の代わりに定期金を給付することであった。一種の給与制への移行である。このような方法は1339年に始まる英仏百年戦争を機に一層高まった。この給付金制度が全般化していけば、それは官僚制へ行き着いたであろうが、さしあたりは宮廷に密着した貴族制が発達する。
 国王側がこうした給付金制度の財源を持ち得たのは、やはり自治都市との結びつきによるところが大きかった。この結合は当初は国王‐都市間の封建契約によったが、次第に都市は国王の直轄下に組み込まれていったのである。
 一方、封建領主らも12~13世紀頃からは従来の賦役に代えて貨幣地代を導入し始めていたが、14世紀に入ると技術革新の欠如から三圃制農業が行き詰まり、農業生産力の限界に直面していたところへ、ペストの大流行による人口減・労働力不足が重なり、領主らは地代軽減や農奴解放を取り計らわねばならなくなった。農奴たちは先鋭化して反乱を起こし、「アダムが耕し、イヴが紡いでいた時にいったい誰がジェントルマンだったのか」(1381年ワット・タイラーの乱)と階級闘争命題を掲げるまでになっていた。
 最後に、(1)でも触れた中南米からの銀の流入によるインフレは額面固定型の地代収入に依存する封建領主にトドメを刺した。要するに、領主支配制は貨幣経済の発達に自己を適応させることができなかった。領主支配制とは所詮、現物経済の所産であったのだ。落ち目の封建領主の身の振り先が王朝貴族化、言わば宮廷への「就職」であった。
 こうした領主支配制の崩壊期と重なった英仏百年戦争とそれに伴うフランスのオルレアン‐アルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦、続いてイングランドのランカスター派とヨーク派の内戦(通称ばら戦争)は、封建領主同士の殺し合いによってその人減らしをすることに自ら貢献した。
 フランスではジャンヌ・ダルクという風雲少女の手を借りつつではあるが、英仏戦争を逆転勝利へ導いたヴァロワ朝シャルル7世以降、中央集権化が促進される。ヴァロワ朝期にはまだ「絶対王政」は出現しないが、この時代が1589年以降のブルボン朝「絶対王政」を準備したのだった。
 一方、イングランドでは幼少の甥エドワード5世を謀殺して王位を簒奪した疑惑を持たれていたヨーク派のリチャード3世を武装蜂起して打倒し、ばら戦争を終結させたウェールズ系のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーが1485年にヘンリー7世としてテューダー朝を創始したが、この実質的な簒奪王朝が真に安定するのは、息子のヘンリー8世の時代になってからであった。
 ヘンリー8世は後でも触れるように、自らの離婚問題を機にローマ教皇から独立し、国王を至上とする新たな国教会の創始者にさえなった。彼の死後、短い混乱期を経て、ヘンリーと離婚問題のもととなった再婚相手アン・ブーリンとの間の娘エリザベス1世の時、イングランド型君主主権国家が姿を現す。
 これに対して、部族太公制の伝統に制約された領邦制が続くドイツは事情を異にする。ここでは13世紀後半に皇帝が不在となる「大空位時代」を経て、「教皇のバビロン捕囚」中の1356年、時の皇帝カール4世が発した金印勅書により選帝侯制度と皇帝選挙の手続きが明確にされると同時に、皇帝の選挙票決に教皇の承認を必要としないことも定められた。
 これにより神聖ローマ皇帝はローマ教皇の権威から自立化するとともに、7人に限られた選帝侯には各自の領邦内における一種の主権が保障されたために、以後ドイツでは約300にも上った領邦単位で君主主権国家が構築されていくことになった。
 そうした領邦の中には、今日までオーストリアとスイスの間の山あいに存続するリヒテンシュタインのような小邦も含まれ、この国では立憲君主制となった現在でも、君主である公の権限が欧州の君主制国家の中では最も強いことが特徴である。
 反面、神聖ローマ帝国は15世紀前半から19世紀初頭の終焉まで、オーストリアのハプスブルグ家が帝位を独占したことで、いっそう名目的な存在となり、実質上はオーストリアの代名詞と化していった。そして、三十年戦争を経て18世紀前半以降、オーストリアは最有力の領邦君主国として台頭するのである。
 一方、ドイツでは特にエルベ河以東のプロイセン地方で封建領主が農奴の土地を直営地化し、旧式の賦役労働を強化して農奴制を再構築するいわゆる再版農奴制の典型として、直営地農場経営(グーツヘルシャフト)という封建反動が生じ、後にこうした封建農場所有者=グーツヘルから出た地主貴族(ユンカー)が権勢を持った。
 このようなプロイセンを併合したブランデンブルグ選帝侯ホーエンツォレルン家が18世紀初頭に建てたプロイセン王国はオーストリアと並ぶ領邦君主国として強勢化し、やがてオーストリアをも抑えてドイツ統一を主導するのである。

2012年5月 1日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第33回)

第6章 略

二 「西洋近代」の黎明

(1)大航海と植民
 レコンキスタの過程で形成されたポルトガルとスペイン両国は、レコンキスタが完了すると、蓄積されたエネルギーを今度は海外進出へ振り向け始めた。こうして大航海・植民の時代が幕を開けるが、このヨーロッパ初の本格的な海外膨張が「西洋近代」の第一歩となったのだった。
 この点でも先行したのはポルトガルであった。アヴィシュ朝初代ジョアン1世の子エンリケ(航海王子)は航海術の研究を進めて航海士を養成し、大西洋諸島や西アフリカ海岸の探検を指揮した。
 1世の曾孫ジョアン2世はこうした海外発展政策をより本格化させた、その結実が1488年のバルトロメウ・ディアスによる喜望峰到達と1498年のヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰回り東インド航路の発見とであった。
 こうしたことが可能になったのも、十字軍の結果活発化した東方貿易を通じてイスラーム世界の航海・造船技術や地理学などの先端学術がヨーロッパに伝来したことが大きかった。
 ポルトガルによるインド航路開拓はイタリア商業都市が担っていた地中海経由の東方貿易の比重を低下させるとともに、すでに先行してインド洋に確立されていたムスリム商人の商圏へ割り込み、まだ優勢だったオスマン帝国を介さずに、アジアから直接に安価な香料を入手する可能性を開くことを意味した。
 こうした利害対立がオスマン帝国やベネチアが支援するインド(グジャラート王国)、エジプト(マムルーク朝)対ポルトガルの戦争となって表出したのが、1509年のインド西海岸ディウ沖の戦いであったが、ポルトガルはアルメイダ率いる艦隊の力により勝利を収めた。以後、ポルトガルはゴア、マラッカ、コロンボなど南アジア・東南アジア沿岸部を押さえ、1557年にはマカオに居住権を得て、東アジアにも進出した。
 一方、ポルトガルに一歩出遅れたスペインは西回りインド航路の開拓を目指した。それはスペインの支援を受けたジェノバ人コロンブスによる大西洋横断によって実現し、そこから彼がインドの一部と誤認したアメリカ大陸の「発見」という副産物をももたらしたのだった。
 この結果、ポルトガル・スペイン間で領域紛争が起きたことから、1494年にトルデシリャス条約を締結して両国間で世界分割の基準線を定めた。やがてスペインの後援で世界周航に成功する船隊を率いたマゼランによってフィリピンが「発見」されると、両国の紛争は東インド方面でも激化したため、1529年のサラゴサ条約で両国はスペインのフィリピン領有とポルトガルのモルッカ諸島領有を相互に承認した。
 さて、コロンブスによるアメリカ大陸「発見」はスペイン・ポルトガル両国に中南米・カリブ海諸島征服の道をも開いた。とりわけスペインは、ポルトガルが取ったブラジルを除く中南米のほぼ全域を領土に収めた。こうした征服活動は下級貴族や軍人出身のコンキスタドールと呼ばれる専従征服者に率いられた小集団が姦計と暴力を駆使して進めていった。
 スペイン人征服者らが誤ってインディオ(インド人)と名づけた先住民―ベーリング海峡がまだ陸続きだった1万年以上前にアジアからアメリカ大陸部へ大移動したモンゴロイド種族の末裔と見られる―から侵奪した領域をエンコミエンダと呼ばれる寄託制度を通じて支配し、先住民を鉱山労働などで酷使したため、スペイン人が持ち込んだ疫病とも相まって先住民人口を激減させた。
 こうした強制労働と水銀を用いた新しい製錬技術とが結びついて特に銀の産出が1570年代から飛躍的に伸び、大量の銀がヨーロッパに流入したため、ヨーロッパで激しいインフレーションが引き起こされた。このことは本質的に現物経済であったヨーロッパ封建制に打撃を与え、地中海貿易・バルト海貿易から大西洋貿易へという貿易体制の大転換とも相まって、来たるべき資本主義への道を整備したとも言われる。
 一方、カリブ海諸島では、スペインが北アフリカから伝わった砂糖栽培を中心に大農場(プランテーション)経営を行った。当初はやはり先住民を酷使したが、かれらの人口が激減すると、今度は西アフリカから捕縛・連行した黒人を奴隷として使役するようになる。西アフリカに早くから拠点を有したポルトガルはこうした奴隷貿易でも利益を上げた。そのポルトガルも南米大陸唯一の広大な植民地ブラジルで16世紀からアフリカ黒人奴隷を使った砂糖プランテーションを経営していた。
 こうしたアメリカ先住民・アフリカ黒人の奴隷化を理論上も正当化するために「文明⇔野蛮」の二項対立論が編み出され、哲学的論争の的ともなった。
 しかし、そうした二項対立図式を超えて、中南米にはラテン文化が移植され、先住民や黒人奴隷の子孫であるアフリカ系住民をも包摂する形で今日まで永続化するラテン・アメリカが形成されていった。他方で、アメリカ大陸からはトウモロコシ、ジャガイモ、トマト、タバコ、落花生、トウガラシ、カカオ等々のアメリカ原産の栽培植物がヨーロッパに持ち込まれ、ヨーロッパの貧弱だった食文化に大転換をもたらしたのである。

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