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2012年4月18日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第32回)

第6章 ヨーロッパの巻き返し

〈序説〉
 形成期のヨーロッパはあらゆる意味で先発のイスラーム世界あるいは中国に対しても遅れをとっていた。そのため、「近代」へ向けたヨーロッパの歩みはイスラーム世界と中国へ向けての巻き返しから始まったと言って過言ではない。
 さしあたりはまずイスラーム世界への反攻が課題であった。その出発点はまさにイスラーム勢力の直接的支配下にあったイベリア半島を中心とする南ヨーロッパである。そして、その反攻のエネルギーを元手に「近代」へ向けた最初の膨張を示したのも南ヨーロッパであった。東の辺境にいた日本人が最初に出会ったヨーロッパ人が「南蛮人」、すなわちポルトガル人とスペイン人であったことは決して偶然ではなかったのだ。
 こうした巻き返しの動きはやがてロシアや北ヨーロッパでも始まり、次第に南ヨーロッパを抑えて主流化していくが、総じてヨーロッパの巻き返しは対内的には強力な君主主権国家形成の動因となる同時に、対外的には攻撃的な侵略・植民地化の動力をなした。それはやがて「近代」において、国民国家と帝国主義という形をとって猛威を振るうことになるはずのものであった。
 一方で、イスラーム世界や中国は、古い体制の内在的な限界が露呈してくる中で、ヨーロッパ諸国の攻勢にさらされ、「近代」へ向けて衰退が加速化していくであろう。

一 レコンキスタと十字軍

(1)初期レコンキスタ
 8世紀初頭にゲルマン系西ゴート王国がアラブ・イスラーム勢力によって滅ぼされて以来、イスラーム勢力の支配下に置かれたイベリア半島でキリスト教徒勢力による反攻としての国土回復運動(レコンキスタ)が開始されたのは早く、西ゴート王国が滅んで数年と経たない頃であった。
 ただ、最初期のレコンキスタはぺラヨなる西ゴート残党貴族に率いられた40人ばかりの男女がイベリア半島西北部アストゥリアス山中絶壁の洞窟に立てこもり、蜂蜜でしのぎながら抵抗を続けたという半ば伝説化されたレジスタンスであって、レコンキスタと呼ぶには程遠いものであった。
 かれらはイスラーム勢力の追撃を逃れて718年にはぺラヨを王とするアストゥリアス王国を建てたとされるが、これも正規の王朝というよりはキリスト教徒戦士団の域を出ないものであったろう。
 やがて8世紀半ば過ぎになると、第4章でも見たようにアッバース家に滅ぼされたウマイヤ朝残党がコルドバを都に後ウマイヤ朝を建て、半島北部まで版図を広げていったため、レコンキスタどころではなかった。
 レコンキスタが本格的に始動するのは、後ウマイヤ朝が1031年に滅亡し、イベリア半島のイスラーム勢力が分裂した後のことである。この頃には、10世紀半ば過ぎに半島中北部に勃興したカスティリャ王国が先のアストゥリアス王国の遷都に伴い建設されていたレオン王国を併合して強勢化する一方、半島北部の民族系統不明の先住民バスク人の一派が9世紀に興したナバラ王国から分かれたアラゴン王国も建てられ(1035)、次第に東北部に領土を広げていった。以後のレコンキスタは、このカスティリャ、アラゴン両王国を中心に推進されていくことになる。
 その結果、カスティリャ王国は中部の要地で旧西ゴート王都でもあったトレドの奪回に成功(1081)、アラゴン王国も苦戦の末東北部の要地サラゴサを占領した(1118)。
 しかし、この時期のレコンキスタはここまでであった。半島南部には新たに北アフリカからイスラーム化したアフロ‐アジア語族系先住民アマジグ(いわゆるベルベル)人系のムラービト朝、続いて同系のムワッヒド朝が進出し、キリスト教徒勢力の南進を阻止したからである。

(2)十字軍の狂熱と打算
 イベリア半島でのレコンキスタが本格的な展開を見せていた頃、西ヨーロッパでも7世紀以来イスラーム勢力の支配下にあった聖地エルサレムを武力で奪回しようという十字軍運動が盛り上がった。その火付け役がセルジューク・トルコに小アジア領土を奪われたビザンツ帝国であったことはすでに触れたとおりであるが、この運動の性格は本来複雑である。
 まずビザンツ皇帝アレクシオス1世の救援要請を受けた時のローマ教皇ウルバヌス2世にとって、これは折からの神聖ローマ帝国との叙任権闘争に勝利し、ひいては分裂していた東西両教会をローマ教会優位に再統合するチャンスと見えた。それで彼はクレルモン公会議(1095)を通じて十字軍遠征を「聖戦」と規定して巧みに扇動してみせた。
 この扇動に乗せられた西ヨーロッパの人々にとって、十字軍というプロジェクトはキリスト教の優越性を初めて自覚し、かれらが「左手にコーラン、右手に剣」と畏怖したイスラーム勢力に一矢報いる最初のチャンスと思われた。
 こうした言わば「イスラーム・コンプレクス」の反転としての優越感が西ヨーロッパの王侯貴族層のみか少年を含む民衆をもとらえていたことは、公式の第一回十字軍に先立つ1095年に、隠者ピエールや無一文のゴーティエなどと呼ばれる無名の冒険主義者が率いる「民衆十字軍」が組織されたことや、1212年には神の啓示を受けたと称する二人の少年の呼びかけで、少年だけの無謀な十字軍(少年十字軍)さえ組織されたことからも窺える。こうして高揚したキリスト教優越意識は、内に向ってはユダヤ教やキリスト教異端派への差別意識を強めた。
 実際、「民衆十字軍」は出発に先立っていくつかの都市でユダヤ人虐殺やユダヤ人居住区破壊を実行したし、公式の第一回十字軍にしても、到達したエルサレムではイスラーム教徒のみならずユダヤ教徒の殺戮をも敢行したのだった。
 また、当時南仏に広がっていたキリスト教異端派カタリ派(アルビジョワ派)殲滅のため、時の教皇イノケンティウス3世の提唱で1209年から20年間にもわたりアルビジョワ十字軍が送られ、南仏トゥールーズ地方で殺戮・破壊を伴う残酷な弾圧作戦が断行された。
 一方、ベネチアをはじめとする北イタリア商業都市支配層にとって、十字軍は東方貿易の利権を独占するビッグ・チャンスにほかならなかった。実際、かれらは十字軍の物資補給を担うとともに、商圏拡大に余念がなかった。
 経済的利得という点では西ヨーロッパに十分な領地を保有しない野心的な中小封建領主・騎士層にとっても十字軍は東方に新たな領地を獲得するチャンスであった。
 ベネチアの教唆によりビザンツ帝国の転覆とラテン帝国の樹立という十字軍本来の目的から完全に逸脱した結果をもたらした第四回十字軍(1202‐04)は、宗教熱の皮膜の下に隠された経済的野望がまさしく露呈した事件であった。
 成果という点では、公式のものとしては一般に11世紀末から13世紀後半にかけて都合8回(諸説あり)と数えられる十字軍遠征のうちエルサレム奪回という本来の目的を果たしたのは、エルサレム王国のほか、アンティオキア公領、エデッサ伯領、やや遅れてトリポリ伯領という四つの十字軍国家の創設に成功した第一回十字軍(1096‐99)だけであって、その余はすべて失敗または逸脱に終わっている。
 そのエルサレムにしても、第4章で見たように、1187年にはアイユーブ朝創始者サラディンによって再奪回され、第六回十字軍の後、ドイツのフリードリヒ2世とアイユーブ朝の折衝の結果一時キリスト教勢力側に返還されたものの、間もなくトルコ人勢力に再び奪い返されてしまった。
 そして、国家として持続するには生産力・軍事力ともに決定的に不足していた他の十字軍国家も12世紀半ばから13世紀末にかけてイスラーム勢力によって順次滅ぼされていった。
 こうして動機に不純なものを含み、永続的成果を上げることもなかった十字軍ではあったが、フランスに関して言えば、それは王権の伸張という内政面の成果をもたらしたのだった。
 元来、十字軍遠征の主力はフランス人であり、しかも全8回中、4回で国王自ら親征するほどの熱の入れようであった。特に後期の第七回と第八回に参加した聖王を冠されるルイ9世の活躍ぶりは際立っていた。
 こうした国王親征自体も国王の威信を高めるのに役立ったが、戦場を国王と共にすることで新たに国王の家臣となる封建領主が増加したため、自身封建領主の一人であった国王を頂点とする垂直的な封建関係が構築されていった。こうした王権の伸張は、十字軍に参加して戦死し、または行方不明となった領主の所領をしばしば国王が召し上げたことによっても促進された。
 こうして聖王ルイの頃から、フランス王権はとみに伸張していき、やがて彼の孫に当たるフィリップ4世以降は、ローマ教皇をも支配下に置いてしまう。

(3)シチリア王国の成立
 十字軍とレコンキスタとをつなぐような位置にある出来事が、12世紀のシチリア王国の成立である。
 シチリア島はそれまで2世紀余りにわたり、統治者を変えながらもイスラーム勢力の支配下にあったが、11世紀半ば頃に南イタリアへ渡来したノルマンディー公国出身のノルマン人騎士オートヴィル家のロベール・ギスカールと弟ロジェールによって攻略された。特にロジェール(ルッジェーロ)は1091年までにシチリア王国の基礎を築いた。
 このようなイスラーム勢力の支配下にあったシチリア島攻略のためのノルマン人の戦いも、一種の十字軍としてローマ教皇の―神聖ローマ帝国やビザンツ帝国との確執・紛議をも絡めた―全面的な支援の下に行われたものであった。
 ちなみに、第一回十字軍にはロベール・ギスカールの子ボヘモントも参加しており、彼は1098年、シリアに十字軍国家の一つアンティオキア侯国を建てている。
 しかし、シチリアのノルマン人の活動は一過性の「十字軍」では終わらなかった。ルッジェーロの子ルッジェーロ2世はシチリアを基盤に、かねて伯父ロベール・ギスカールが征服していたナポリ周辺の南イタリア領(旧ビザンツ領)も継承して1130年、正式にシチリア王として戴冠し、ここにシチリアから南イタリアへまたがるいわゆるシチリア王国が成立した。
 ただ、この王国は既存のイスラーム教徒を排斥せず、むしろ保護したため、イスラーム文化が保存された一方で、王国の版図には旧ビザンツ領も含まれたことから、ビザンツ文化も承継された。
 こうして首都パレルモはローマ文化、ギリシャ=ビザンツ文化にイスラーム文化が出会う文明の十字路のような活況を呈し、当代最先端の学芸都市としてキリスト教圏、イスラーム教圏双方の知識人を引き寄せたのである。
 王国では早くにノルマン起源は忘却され、宮廷はビザンツ風に染まり、領内にはユスティニアヌス法典に範を取った法令が施行されていた。実際、王国はビザンツ帝国に取って代わる野望を抱いていたが、ルッジェーロの孫グリエルモ2世に男子相続人がなく、一人娘を神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家に嫁がせたたため、グリエルモの没後、王国は神聖ローマ帝国の版図となった。
 その後、ホーエンシュタウフェン王家も断絶し、皇帝不在の大空位時代(1256‐73)に入ると、旧シチリア領はローマ教皇の要請でフランスのルイ9世の弟アンジュー伯シャルルの手に渡る(1268)。
 しかし、1282年にアンジュー家の圧政に抗議するシチリア島民が反仏暴動(シチリアの晩鐘)を起こしたのを機に、シチリア島は暴動の背後にあったイベリア半島のアラゴン王国の版図に入った。アラゴンは15世紀半ばにはナポリも取り、結果としてシチリア・南イタリアもレコンキスタ国家スペインに収斂されたのである。
 ただし、15世紀末以降、再征服を狙うフランスが反撃に出て、60年以上に及んだイタリア戦争に発展していく。

(4)レコンキスタの勝利
 間歇的なブームとしての側面が強かった十字軍とは異なり、歴史的・持続的なレジスタンスの性格を持ったレコンキスタは、ポルトガル及びスペインという新興国家の形成過程そのものでもあった。
 その先陣を切ったのはポルトガルである。ポルトガルはカスティリャ王国のレコンキスタに参加し、ポルトゥカーレ及びコインブラ伯に叙せられたフランスのカペー王家支流ブルゴーニュ家のアンリの子アフォンソ・エンリケスが1139年にアフォンソ1世として独立王朝(ブルゴーニュ朝)を建てたことに始まるが、正式にはローマ教皇の仲介でカスティリャ王国が独立を承認した1143年が建国年である。そして、1147年に、首都となるリスボンを奪回し、13世紀中頃までには一足先にレコンキスタを完了したのである。ポルトガルは1385年以降、新たなアヴィシュ朝の下で全盛を迎える。
 一方、カスティリャ王国は13世紀前半、アラゴンやナバラと連合してムワッヒド朝を攻め、南部の要地コルドバとセビリアを攻略する一方、アラゴン王国も東部地中海沿岸のバレンシアまで南進していく。
 しかし、イスラーム勢力側も粘り、メディナから移住したアラブ系アル・アフマル家が13世紀前半、グラナダを首都に建てたナスル朝がイベリア半島におけるイスラーム勢力の最後の砦として持ちこたえる。
 ナスル朝の領域はグラナダを中心に東西約380キロ、北は沿岸から約110キロ程度という小国であったが、カスティリャ王国に貢納しつつ巧みな自衛策で250年以上も命脈を保ち、14世紀後半に全盛を迎える。
 この間、アラゴンはカスティリャと比べ、国土面積の狭さを地中海方面への進出で補い、前節でも触れたようにシチリアからナポリなど南イタリアを領土に組み込んでいった。またアラゴン、カスティリャとも国内的には王権の強化が図られた結果として貴族勢力や都市との抗争が激しくなった。
 そこで共通の問題を解決し、ナスル朝のために停滞していたレコンキスタを完遂するべく、両国の統合が進められ、1469年のアラゴン王子フェルナンドとカスティリャ王女イサベルの結婚を機に1479年、両国が合同してスペイン王国が成立した。
 この合同によってナスル朝への攻勢は強まり、王朝の内政混乱も加わって、ナスル朝は終焉した。1491年に降伏条約が締結され、翌1492年、グラナダはスペイン側に明け渡された。
 ここにレコンキスタは完了する。ぺラヨがアストゥリアス王国を建てたとされる718年から起算すると、実に774年にわたった運動の勝利であった。同時に、それは「イスラーム的ヨーロッパ」という文明的実験の終焉でもあった。

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