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2012年4月

2012年4月28日 (土)

犯罪と非処罰(連載第15回)

14 過失犯について

pencil犯罪とは基本的に、意図して犯罪を実行する故意犯であって、不注意で犯罪的結果を引き起こす過失犯は「犯罪→刑罰」図式の下でも例外的な犯罪である。
 ただ日本刑法上、その例外化は犯罪各論のレベルでなされているにとどまり、犯罪総論のレベルで過失犯の成立を例外的に限定しようとする発想は乏しい。そのため、軽過失の場合も含めて過失行為が処罰の対象とされる。ここにも結果―結果だけから見れば、故意犯と過失犯に差はない―に目を奪われがちな応報刑論的発想が窺える。
 しかし、「犯罪→処遇」定式からすると、犯罪として処遇の対象とすべき過失行為は、結果を容易に予見し得たのに不注意で予見せず、漫然と危険行為をし、または必要な結果回避行為を怠る重過失の場合であり、軽過失行為は原則的に民事不法行為として民事責任を問えば足りるのである。
 もっとも、職業上通常より高度の注意義務が課せられている者の過失、すなわち業務上過失の場合は、軽過失も含めて犯罪とみなすことができる。業務者は非業務者が容易に予見し得ない結果に対しても、職業上の知識経験に基づき予見し、結果発生防止のために適切な対応をすることが可能であり、またそうすべきでもあるからである。
 いずれにせよ、過失犯は通常、犯罪性向が低く、一過性のものであるから、その処遇は保護観察で足りると考えられる。ただし、著しい注意散漫のため繰り返し過失犯を犯す過失累犯は第一種矯正処遇に付する必要がある。
 なお、日本の現行法のように、業務上過失を一般的な過失より重く処分する実益は乏しく、業務上過失者に対しては、保護観察に業務上の資格・免許の停止ないし剥奪を併科すべきである。

pencilところで、かつて日本の司法実務では業務上過失を広くとらえ、自動車運転中の過失全般(いわゆる交通事故)を業務上過失と解して、業務上過失致死傷罪を適用することが慣例化していた。
 しかし、これは不当な拡大解釈・適用であった。なぜなら、一概に自動車運転と言っても職業運転手と日曜ドライバーとでは注意義務の内容・程度にも差があり、日曜ドライバーの過失まで「業務上過失」に包括するのは無理があるからである。
 この点、現在の日本刑法上、自動車運転中の過失による死傷事故には、新たに設けられた「自動車運転過失致死傷罪」という特則(刑法211条2項)が適用されるようになった。
 これによって問題が正しく解決されたかと言えば決してそうではない。この特則をもってしてもなお職業運転手の事故と日曜ドライバーの事故、さらには職業運転手が業務上車両を運転中の事故とマイカーを運転中の事故とがすべて「自動車運転過失致死傷罪」に一括されてしまうという問題は残されたままである。
 しかも、自動車運転過失致死傷罪の法定刑(最高で懲役七年)が業務上過失致死傷罪・重過失致死傷罪の法定刑(最高で懲役五年)よりも重いという逆転を来たしている。これによると、例えば日曜ドライバーが軽過失により死傷事故を起こした場合でも、業務上過失致死傷罪や重過失致死傷罪より重く処罰され得るという不合理な処理結果を生じさせてしまう。
 そもそも自動車運転過失とその他の過失とをことさらに区別して前者を重い処分に付すべき決定的な理由はない。非業務上の自動車運転過失(職業運転手がマイカーを運転中の過失も含む)については、重過失の場合に限り一般的な過失致死傷罪を適用して保護観察に付すれば足りるのである。一方、業務上の自動車運転過失については、軽過失の場合を含めて保護観察に付すればよい。

pencil先の自動車運転過失致死傷罪のような規定が立ち現れたのは、理論的・科学的な理由に基づくものではなく、近年の「交通事故厳罰化キャンペーン」のような政治的運動の結果であった。このキャンペーンはまさに「抑止力」や「被害者感情」を高調して刑罰制度の振り子を再び教育から応報のほうへ振り向け直そうとする刑罰反動の一つの象徴にほかならない。
 こうした動向は、いわゆる「危険運転致死傷罪」という新たな重罰規定(刑法208条ノ2)の出現にも如実に示されている。これは酒酔い運転や高速運転など一般に死傷事故を起こしやすい「危険運転」に際して死傷事故を起こした者を最高で二十年の懲役刑という厳罰に処する規定である。
 この規定の問題点は多いが、犯罪総論上の問題としては、たとえ「危険運転」に際しての死傷事故といえどもその実体は過失犯であるのに、これを故意犯に準じて傷害致死罪にほぼ匹敵するほどの重罰を科する点で、故意犯と過失犯の区別をあいまいにし、過失犯の例外性を破ろうとしていることである。
 さらに、本罪の基本行為となる「危険運転」の概念についても、一応規定上個別に列挙されているとはいえ、「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態」とか、「(自動車の)進行を制御することが困難な高速度」、「その進行を制御する技能を有しないで自動車を走行」、あるいは「重大な交通の危険を生じさせる速度」など、道路交通法規・罰条との対応関係も明瞭でなく、恣意的な適用の余地を残すあいまいな構成要件の下に如上のような重罰を導くことは、刑罰制度の明確性を要求する憲法31条にも違反する疑いがあり、それこそ刑罰制度の‘危険運転’の恐れが強い条項なのである。
 仮にこの種の規定を置くとしても、その基本行為については個別具体的な道路交通法規に違反するいくつかの重大な違法運転行為に明確に限定して定めておくことは、罪刑法定主義の最低限の要請である。とすると、こうした規定は一般刑法上よりも道路交通法上に置くほうが明快ということになろう。
 「非処罰」の構想の下でも酒酔い運転のように道路交通法規に違反する違法な運転中に死傷事故を起こした者の処遇のあり方は課題となるが、これは「交通犯罪」の問題として章を改めて論ずることにしたい。

[追記]
本文で紹介した刑法上の新設罰則はその後、2013年に成立、14年より施行された特別刑法「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」に移行された。これはその名称どおり、自動車運転に関連した死傷行為を広く処罰する特別法で、予め政令に定める特定の疾患の影響により死傷事故を起こす病気運転致死傷罪などの新規罰則を追加して、長大な独立立法に仕上げたものである。その点ではまさに「交通事故厳罰化キャンペーン」の集大成と言え、今後さらに新規罰則が追加される可能性もある。しかし、本文で指摘した道路交通法規との対応関係や構成要件の不明確さといった問題点は本質的に解決されていないばかりか、かえってそうした欠陥を拡大再生産している嫌いがある。

2012年4月27日 (金)

犯罪と非処罰(連載第14回)

13 未遂犯・共犯について

pencil「非処罰」の構想の下では、犯罪の成立に関わる犯罪総論上の問題でも、いくつかの重要な理論的変容が生ずる。
 その一つは未遂犯に関する問題である。犯罪の実行に着手するも所期の結果が発生しなかった場合としての未遂犯は、日本刑法上任意的な刑の減軽事由とされている(刑法43条本文)。
 しかし、例えばAが強固な殺意をもってBの胸をナイフで刺し致命的な傷を負わせたが、Bは奇跡的に一命を取りとめたというように、偶然の事情によって所期の結果が生じなかったにすぎない場合(障害未遂)を含めて任意的減軽事由とするのは、殺人という結果の有無を偏重する応報刑的発想の一つの帰結にほかならない。
 「犯罪→処遇」定式からすれば、障害未遂犯は自己のあずかり知らない全く偶然の事情によって既遂犯となることを免れたにすぎない以上、処遇の上で既遂犯と区別する必要は全くないのである。
  処遇上既遂犯と区別すべき未遂犯とは、例えばAが殺意をもってBの胸をナイフで刺したが、ためらいがあり、強く刺さなかったため、Bは軽傷で済んだというように、故意が弱いために所期の結果が生じなかった場合(減弱未遂)である。
  かかる減弱未遂犯も故意をもって殺人のような重大な犯罪の実行に着手した以上、一般的に犯罪性向が低いとは言えないが、ためらいがあって故意が弱かったため犯罪を完遂できなかったという限りでは、病理性は低く、最大でも第二種矯正処遇が相当であろう。
 なお、こうした減弱未遂犯の処遇は犯罪法総則で画一的に定めるのでなく、各則で各犯罪ごとに個別に定められる。なぜなら、減弱未遂犯の処遇のあり方も、各犯罪の特性に応じて異なるからである。

pencil以上に対して、実行に着手しながらも自己の意思によって実行を中止して自ら結果発生を防止した場合(中止未遂)、日本刑法上は必要的な刑の減免事由とされている(刑法43条但し書き)。これは自ら故意を撤回して中止行為をしたことを有利に斟酌して、最大で刑の免除の恩典を与えようとするものである。
 しかし、中止未遂犯に対して刑を免除して何ら処遇しないのは行き過ぎである。これは中止未遂犯を有利に取り計らおうとするあまりに応報刑論的発想の振り子が不罰の方向にぶれすぎている一例である。刑罰の本質を犯罪への反作用的な報復ととらえる応報刑論にあっては、自ら結果発生防止の努力をした中止未遂犯に報復としての刑罰を加えるのは忍びない場合もあるというわけであろう。
 こういう「温情主義」は片や、殺人が既遂に達すれば一転、日本刑法上は最大で死刑もあり得る「厳罰主義」と表裏一体のものなのである。
 この点、「犯罪→処遇」定式からすると、中止未遂犯といえども犯罪の実行そのものを見合わせたのでなく、いったんは犯罪の実行に着手している以上、微弱なりとも犯罪性向は認められ、最低でも保護観察に付する必要はあると言わざるを得ない。
 一方、犯罪の中止行為者は単にためらうにとどまらず、故意を撤回して結果発生防止の努力をした限り、犯罪性向の低さを示していると言えるから、努力が実らず意に反して結果が発生してしまった場合でも重い処遇には相当しないだろう。
 そうだとすると、結果発生の有無を問わず、犯罪の実行に着手した後、自ら結果発生防止のための中止行為をした者は最大でも第一種矯正処遇にとどめる規定が犯罪法総則上に置かれるべきである。この意味で、「中止未遂犯」という概念は「中止犯」という包括的概念に吸収されることになる。

pencilところで、未遂犯に関わる問題とともに「非処罰」の構想の下で理論的変容が生じ得るのは、共犯に関わる問題、中でも教唆犯に関してである。
 日本刑法上、教唆犯とは「人を教唆して犯罪を実行させた者」と定義されているため(刑法61条1項)、例えばAがBにCの殺害を唆したところ、Bは怖気づいて結局何もしなかったというような場合に、Aに殺人教唆罪は成立しないことになる。
 ここでもやはりC殺害の事は何も起きなかったという結果が重視されている点で、応報刑論的な発想が貫徹されているのである。
 しかし、BがCを殺害しなかったのは、Aのあずかり知らないBの独断によるもので、Aとしては自分の教唆どおりにBがC殺害を実行したものと信じていたのに、BのみならずAも無罪であるというのはいささか納得し難い結論である。
 このような場合、Bが独断でC殺害を取りやめたことによってAがBに殺人を教唆した事実が取り消されるわけではない以上、Aは殺人教唆犯として正犯に準じた処遇を受けるべきなのである。
 従って、教唆犯は現行日本刑法上の規定とは異なり、「人に犯罪の実行を教唆した者」と定義し直されることになる。要するに、教唆犯は正犯とは独立的に成立する犯罪構成要件の修正形態であるということになる。
 ちなみに、先の例で教唆犯A自身が改心してBにC殺害を取りやめるよう明確に指示した場合のように、教唆犯が被教唆者に犯罪の実行を撤回させるに足りるだけの具体的な中止の働きかけをした場合は、仮に被教唆者が指示を無視して実行に及び、結果を生じさせてし待ったとしても、先の中止犯の規定により中止犯としての処遇を与えるべきである。

pencil以上に対して、ある者が正犯を幇助することによって成立する従犯では事情を異にし、正犯から独立して従犯が成立するということはない。
 例えば、AがC殺害を企てていたBから頼まれて所有する拳銃を貸したが、Bは怖気づいて結局何もしなかったという場合、Aの拳銃貸与はBにとって何ら役に立たなかったのであるから、Aに殺人幇助の罪が成立することはない。
 また、Bが計画どおりCを殺害したが、Aから借りた拳銃は使用せず、自分のナイフで刺殺したという場合も、Aの拳銃貸与はBがCを殺害するに当たって役に立っていない以上、Aに殺人幇助の罪は成立しない。
 もっとも、この場合、Aの拳銃貸与がBを勇気づけたというように、精神的な面で役立った限りAに殺人幇助の罪が成立するとされるが、そうした精神的な幇助関係はひとえに正犯側の主観的な事情にかかるものであるから犯罪とみなすべきではない。従って、従犯とは厳密には「正犯を物理的に幇助した者」と定義されるであろう。
 なお、日本刑法上「従犯の刑は、正犯の刑を減軽する」と規定され(刑法63条)、従犯は刑の必要的減軽事由となっている。これは従犯の従属性を考慮して、正犯より常に軽い処分を科す趣旨である。
 この点、「犯罪→処遇」定式からしても、従犯は消極的・受動的な共犯形態であって、一般的に犯罪性向は低いから、第一種矯正処遇または保護観察に相当するとみてよい。
 ただし、犯罪組織のメンバー間での幇助はむしろ犯罪組織内の日常的な「業務」と言える性質を有するから、組織犯罪法が適用される従犯に関しては、正犯に準じた処遇が与えられて然るべきである。

2012年4月24日 (火)

天皇の誕生(連載第15回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

(2)伊都勢力の由来と大移動

伊都勢力の由来〈1〉
 イソタケルを紹介する『書紀』の神代編第八段別伝第四書はイソタケルについて次のような説明を与えている。すなわち―
 はじめ五十猛神が天降るときに、たくさんの樹木の種を持参してきた。しかし、韓地[からくに]には植えずにすべて持ち帰り、筑紫から始めて大八洲国[おおやしまのくに:日本列島]の中に撒き殖やして、一つ残らず青山に変えた。このため、五十猛神を名づけて有功[いさおし]の神ともいう。紀伊国に鎮座している大神がそれである。
 これは言わばイソタケルのプロフィールであるが、ここにはイソタケルを部族神とする勢力の来歴と展開の一端が示唆されているのである。
 まず、この勢力が「韓地」からの渡来集団であって、その最初の定住地が筑紫であったこと。これは要するに伊都国の由来に関わることである。従って、イソタケルを部族神とする勢力は、まさに伊都国を構成した勢力―伊都勢力―にほかならない。
 この点、前章で見た『書紀』の伊都国王・五十迹手の服属場面で、仲哀天皇が五十迹手の服属態度をほめて「伊蘇志」[いそし]と名づけたところから、時の人は五十迹手の「本土」[もとのくに]を伊蘇国と呼び、伊都というのはこれが訛ったものとある。
 この点、『筑前国風土記』逸文では、同じ場面で、天皇の誰何に対して五十迹手が「高麗[こま]の国の意呂山[おろやま]に、天より降ってきた日桙[ヒボコ]の末裔、五十迹手であります」と自らの身元を明かしたとされる。
 ヒボコとは、第一章で見た神功皇后の母方の祖にして新羅王子とされたアメノヒボコのことであるから、この逸文の挿話から、アメノヒボコは伊都国王の祖でもあり、かつ伊都勢力の渡来第一世代の族長の形象化でもあったことがみてとれるのである。
 そうすると、伊都勢力の故地は先の五十迹手の名乗りに現れる「高麗の国の意呂山」を含む国ということになるが、これはいったい朝鮮半島のどこに比定されるかが問題となる。
 『風土記』が編まれた8世紀には「高麗」とは朝鮮半島全般を指していたから、特定は容易でないが、朝鮮史料『三国史記』と『三国遺事』によると、かつて新羅の西方、今日の慶尚北道清道伊西面に、伊西古国[いそごこく:『三国史記』]もしくは伊西国[いそこく:『三国遺事』]という小国(以下、原則的に伊西古国で統一する)が存在しており、ここにアメノヒボコが天降ったとされる意呂山とも音韻上通ずる烏禮山[オレサン]という山城が所在するというから、伊都勢力の故地をここに比定することができる。この伊西国ないし伊西古国は『書紀』が伝える五十迹手の「本土」の「伊蘇国」とも音韻上重なっている。
 この伊西古国は、5世紀まで斯蘆国と称した新羅とともに、元来は辰韓に属した小邦であり、言語・習俗ともに新羅と大差はなかったと考えられるから、伊西古国からの渡来第一世代の族長を象徴するアメノヒボコが倭国側で「新羅王子」と伝承されるようになったことは当たらずとも遠からずというところであろう。
 ちなみに、伊都国の由来が新羅とも共通する辰韓系であることは、『魏志』に記された伊都国の官職名「爾支」[ニキまたはニシ]からも立証できる。同書は「爾支」を伊都国筆頭官職名と認識しているが、伊都国が邪馬台国に統属していた当時の「筆頭官職」とは国王自身にほかならないから、これを王号とみなせば、新羅が1世紀から5世紀初頭まで王号としていた「尼師今」[ニシキン]とも音韻上通ずるか、少なくとも同一語源の語とみることができよう。
 ところで、15世紀に編纂された朝鮮地理書『東国輿地勝覧』によると、伊西古国は早くも1世紀代に新羅に討たれてその版図になったとあるが、『三国史記』によれば、3世紀末の297年に伊西古国が新羅の王都・金城を包囲し、新羅側は対抗できなかったところ、竹葉の耳飾りをつけた謎の軍団の応援でようやく撃退したという。そうすると、伊西古国は3世紀末にはまだ健在だったようである。
 ただ、同国は元来領土的野心の強い新羅に圧迫され、流民が出やすかったとも考えられ、その一部集団が九州北部へ移住し、伊都国を建国したということも想定できる。そもそも糸島とは、伊都+志摩の合成語であって、前半の伊都はもちろん伊都国に由来する(後半の志摩は『魏志』にも邪馬台国に属する小邦として登場する「斯馬国」か)。
 こうして、伊西古国が歴史的にも新羅とライバル関係にあったことが、渡来後の伊都国の「反新羅」の気風を強めた―もちろん、そうした政治的動機のみならず、「金銀がある」新羅の寇掠という経済的動機も手伝っていたことは想像に難くないが―と考えられるのである。
 実際、『三国史記』新羅本紀は、新羅始祖王・赫居世居西干[かくきょせいきょせいかん]時代の紀元前50年という年代から最後の紀元500年に至るまで、30回以上もの倭の新羅侵攻を記録するが、紀元前という年代の信憑性はともかくとして、少なくとも伊都国が畿内王権に服属した4世紀後葉以前の侵攻は糸島半島の伊都国が主体となった軍事行動と推定されるのである。

伊都勢力の由来〈2〉
 ここで伊都国の建国年代を考えてみると、福岡県糸島市の三雲遺跡のように弥生時代中・後期の典型的な王墓遺跡を提供していることからみて、伊西古国が新羅に討たれたとされる1世紀代の渡来・建国もあり得なくはない。
 注目されるのは、『後漢書』に記録された安帝永初元年(107年)における倭国王帥升らの遣使である。この帥升は中国史料では「師升」とも表記されていることもあるが、これを王号とみれば先の「爾支」や「尼師今」とも重なってくるので、早ければ2世紀初頭頃に伊都国が後漢に遣使するだけの実力を持っていたとも考えられる。
 その半世紀前の建武中元二年(57年)には、「倭の奴国」が朝貢し、この時に皇帝から下賜された印綬と見られる有名な金印が博多北方の志賀島で発見されている。
 この「奴国」は博多付近にあったクニで、3世紀になると邪馬台国に属していたことが『魏志』で確認できるが、1世紀半ばには奴国が後漢に遣使できるほどの実力を持っていたが、その後2世紀に入ると、西側の伊都国が優勢化したと考えれば、伊都国建国は1世紀後半頃ということになろうか。
 いずれにせよ、第三章でも触れたように、2世紀末の内乱期を経て、伊都国主導で邪馬台国が結成され、伊都国がその主宰国となった。これを反映して、『三国史記』新羅本紀は倭の女王卑弥乎(呼)の遣使・来聘を記している。ただ、その年号が173年となっているのは誤りで、実年代は3世紀代前半まで繰り下げる必要がある。
 しかし、「反新羅」の気風の強い伊都国主導の新羅外交はうまくいかなかったようで、新羅の高官にして王族の昔于老[せきうろう]が倭国の使臣に「倭王を塩焼奴に、王妃を賄婦にしたい」と非礼な冗談を飛ばしたことが倭王の耳に伝わり、怒った倭王(伊都国王であろう)が兵を送って干老を焼殺するという外交紛争に発展した。
 この一件には後日談があり、約20年後、倭国の大臣が来訪した時、于老の妻が王に願って大臣を接待し、泥酔したところを庭に引きずり下ろして焼殺し、旧怨に報いたという。
 ちなみに、昔于老は『書紀』の神功皇后紀の注記にも「宇留助富利智干」[うるそほりちか]なる名前で、神功皇后に降伏し、内宮家[うちつみやけ]としての朝貢を永久に誓った新羅王として登場する。また別伝として、新羅王を惨殺して海岸に埋めた後、使者として残った男を新羅王の妻が誘惑して王の屍の場所を明かさせたうえ、国人と謀って男を殺したのに対して、怒った天皇が大軍を送って新羅を滅ぼそうとしたので、新羅の国人は大いに怖れ、皆で謀って王の妻を殺して謝罪したという、先の于老の逸話を変形させた話も乗せている。これらは、畿内王権が伊都国を服属させた後、伊都国の故事として伝わったものを都合よく加工して「三韓征伐」の根拠に転用した作為と考えられる。
 以上の単于老絡みの紛争記事は、『三国史記』では230年代から250年代にかけてのこととされているから、これは伊都国が主宰した邪馬台国と新羅の間の外交関係に関わることと推定できる。この後、3世紀後葉の邪馬台国解体と伊都国の独立から畿内王権への服属に至る流れは前章で見たとおりである。
 いずれにせよ、畿内中心史観の中では弥生時代の一小国として過小評価されている伊都国は辰韓系伊西古国からの渡来集団が相当古い時期に建てた強国であり、やがてイソタケル信仰を共有する水軍勢力を生み出す母体ともなった由緒あるクニであった。
 事実、イソタケルを祀る神社は糸島市の白木神社や、福岡市の五十猛神社をはじめ、糸島半島付近から九州北部沿岸地域に数多く分布しており、一大率が置かれ、「諸国これを畏怖し」た(『魏志』)伊都国の影響力をしのばせている。

2012年4月23日 (月)

天皇の誕生(連載第14回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

『記紀』神代編の神話は、天孫族と出雲族を二大基軸として展開されているが、それほどに枢要なイヅモの来歴とは何か。また有名な「出雲の国譲り」には何らかの史実が投影されているのであろうか。ここに新説の可能性を探る。

(1)イヅモの由来

二系統の「イヅモ」
 「出雲の国譲り」というキーワードからは、イヅモという一つの国が存在していたかのような印象を受けるし、『記紀』の編纂者もそのように印象づけようとしたのかもしれない。
 しかし、そうした一元的なイヅモ像は『書紀』の叙述自体によって事実上否定されていると言ってよい。これに対して、『記』では一元的イヅモ像が貫徹されているが、この違いは数々の政治的な作為が施されているとはいえ、「歴史書」である『書紀』のほうが、皇室を賛美する歴史物語的な性格の強い『記』よりも史実に接近しようとする意識が強いことによると考えられる。
 さて『書紀』によると、イヅモの国を造った大国主神[オオクニヌシノカミ](この神には数多くの別名があり、『書紀』では基本的に大己貴神[オオナムチノカミ]と呼んでいるが、以下では一般に知られている大国主神で統一する)は、皇祖神・天照大神の弟神・素戔嗚尊(以下、スサノオという)が素行不良のため高天原を追放された後、降り立ったイヅモの国でヤマタノオロチから救った奇稲田姫[クシイナダヒメ]を娶って生んだ子神とされる。
 そして、その大国主神が治める葦原中国[あしはらのなかつくに](イヅモあるいはイヅモを中心とする日本そのもの)を天孫ニニギに治めさせたいと考えた高皇彦霊尊[タカミムスビノミコト]を中心とする高天原の神々は、天孫降臨に先立ち、葦原中国に使いの神を送って大国主神らと交渉し、身を引かせて葦原中国を平定したうえでニニギを降臨させる。これが「国譲り」のあらすじとなっている。
 ここから、イヅモと言えば大国主神を始祖神とする古王国というイメージが生ずるわけであるが、『書紀』は神代編第八段別伝第四書及び第五書でもう一柱、スサノオの子神として五十猛神[イソタケル]という神を登場させている。特に第五書によると、スサノオは「韓郷[からくに]には金銀がある。もし我が子の治める国に舟がなかったらよくないだろう」と言い、自分の体毛から生じた木で舟を作るよう言い残して根の国に入ったという。
 この話からすると、スサノオの子イソタケルが治めるもう一つのイヅモの国があり、自分の体毛で作った舟で「金銀がある韓郷」と往来できるようにしたという筋が浮かび上がる。
 このイソタケルはイソタケまたはイタケルとも呼ばれ、今日の島根県大田[おおだ]市にはイソタケルの上陸地との伝承がある五十猛(いそたけ)という地名が残り、JR山陰線の駅名にもなっているほか、イソタケルを祀る五十猛神社も所在する。大田市は旧石見国に属する地域だが、出雲国の西部と接しており、後に詳しく述べるように、出雲西部にはおそらくはイタケルの同音異写であるイタテ神を祀る神社も少なくない。
 こうしたことからすると、これまで大国主神に代表されてきたいわゆる出雲とは別系統のイソタケルを祭祀するもう一つのイヅモの存在が想起されるのである。しかも、この五十猛=イソタケ、イタケルあるいはイタテという神名と前章で見た伊都国王の形象化である五十迹手=イトテとは音韻的に通ずることにも気づかれるであろう。このことが一体何を意味するかについてはしばらく保留しておく。

イヅモの語源
 ここでイヅモという地名の語源からもアプローチを試みてみよう。イヅモは「出雲」という漢字を当てるのが一般であるから、これなら「雲が出ずる所」といった文学的意味合いになろう。
 しかし、スサノオがヤマタノオロチを退治し、奇稲田姫を伴って結婚の地となるイヅモの須賀というところに着いた時に詠んだ有名な恋歌、「八雲起つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣造る その八重垣を」の原文で、「出雲」の部分は『書紀』で「伊弩毛」、『記』では「伊豆毛」と表記されている。
 「伊弩毛」は本来の音読みに近づけて読めば「イドモ」であるし、「伊豆毛」も「伊豆」は今日「いず」と読み慣らわされているが、「豆」の本来の音読みは「トウ」であるから、これも「イトモ」と読める。
 そうすると、イヅモとは伊弩(または伊豆)+毛と分節でき、語幹のイド(またはイト)は実にあの伊都国の伊都にも通じてこよう。ではなぜイヅモにまたしても伊都国が関わってくるのかについては次節で解明するとして、語尾のモとは何であろうか。
 古語で「モ」と言えば「面」(オモの音変化)が浮かぶ。「面」は表面を意味するが、そこから一定の「地域」をも意味したのではないだろうか。すると、イドモ(イトモ)とは、「伊都面」であり、直訳的には「伊都地域」といった意味合いになる。*「モ」の意味解析については、必ずしも確信はないので、さらなる検討を要する。
 このようにイヅモ=伊都面と解読してみると、先述しておいたもう一つのイヅモ、すなわちイソタケルのイヅモの存在と結び合って、全く新しいイヅモ史が開けてくるのではなかろうか。
 いささか先走って言えば、、本来のイヅモとはこのイソタケルのイヅモ―言わば「元出雲」―であって、われわれがよく知るオオクニヌシのイヅモは後発のイヅモ―言わば「新出雲」―なのである。

2012年4月21日 (土)

犯罪と非処罰(連載第13回)

12 教育観察について

 pencil「教育観察」は、少年に対する社会内処遇の性格を持つ独立の保護処分である。従って、その対象者は「矯導学校編入」に相当しない程度の非行をした少年が中心となるが、その他に重大な非行をした13歳未満の少年で「特修矯導学校編入」相当でない10歳以上の者並びに10歳未満でそもそも「矯導学校編入」に付し得ない者も含まれる。

pencilいずれにせよ、「教育観察」にあっては成人に対する社会内処遇としての保護観察とは異なり、教育というところに重点が置かれることから、その実務機関は一般の保護観察所とは別に設けられる「少年観察所」であるべきである。
 「少年観察所」は一般の保護観察所に併設してもよいが、組織・運営は分離されていなければならず、「少年観察所」に配属されて「教育観察」の実務に当たる「少年観察官」は保護観察官の中でも少年非行の問題に精通した者が充てられる。

pencil「教育観察」の対象者のほとんどは比較的軽度の非行をした非行傾向の弱い少年であるから、「教育観察」における処遇は矯正のプロセスを省略して更生のためのサポートをすることが中心となる。
 具体的には本人へのカウンセリングのほか保護者への助言も行う。ただ、家庭環境の調整などをするには、該当少年を「未成年者福祉センター」へ委託保護しつつ「教育観察」を行う必要もあるだろう。
 一方、重大な非行をしたが「矯導学校編入」には付し得ない13歳未満の年少少年を対象とする場合は、「教育観察」の枠内で一定の矯正プログラムを課することも必要となる。こうした場合、対象者を少年鑑別所に短期間宿泊させて集中的に処遇する「宿泊処遇」も考えられてよい。

pencil以上の「教育観察」は成人の保護観察とは異なり、少年の成長に応じた教育的な更生サポートを内容とするものであるから、予め期間を定めるには適しない。従って、その終了時期は「教育観察」に当たる「少年観察所」が対象者の更生の度合いを見て判断する。
 ただ、2年を超えて「教育観察」を継続するときは、改めて裁判所の許可を得なければならない。この場合、裁判所は継続観察の要否を調整したうえ、上限となる年限を明示して許可する。これによって「教育観察」が不当に長期にわたることを防ぐことができるのである。

2012年4月20日 (金)

犯罪と非処罰(連載第12回)

11 矯導学校について

pencil「矯導学校」とは、重大な非行をした少年に対して矯正プログラムと一般の教科学習とを両立的に課す寄宿制の特殊な学校である。従って、「矯導学校編入」は「非処罰」の構想の下における少年法上の保護処分としては最も重いものとなり、対象者は重大な非行をした者に限られる。

pencil前章でも先取りしたとおり、「矯導学校」は少年院とは異なり、学校教育法に根拠を持つ正規の学校として位置づけられる。非行をした少年を少年院に収容して正規の学校課程から脱落させてしまうことは、将来の就労可能性を狭めると同時に、劣等意識を植え付け、かえって成人後により本格的な犯罪に走っていく因子を作り出す逆効果であるから、非行をした少年に対しては適切な正規の学校教育の枠内で矯正を促進することの保障が不可欠なのである。
 従って、「矯導学校」の教員は一般の学校教員と同様に、教員養成校を通じて養成される「教諭」としての地位を持つ。ただ、この職は矯正に関する専門的な知見を必要とするため、一般の教諭とは別枠で「矯導学校教諭」の免許制度を創設する必要はある。
 ちなみに、現行少年院で矯正教育に当たるのは「法務教官」であるが、これは「教諭」とは異なる独自の法務専門職であって、「教官」とはいうものの、実態としては刑務官に近い。
 そこで、成人矯正において「刑務官から矯正官へ」の転化が目指されるように、少年矯正においても「法務教官から矯導学校教諭へ」の転化が目指されるのである。

pencilさて、「矯導学校」は対象者の特性に応じて、非行傾向は強いが病理性は弱い者を対象とする「一般矯導学校」と病理性が強い者を対象とする「特修矯導学校」の二種に分かれる。
 いずれであっても、「矯導学校」における教育は、通常の学校課程のように時間割に拘束されず、各生徒の状況に応じて、フリースクール方式の徹底した個別学習メソッドで行われる。とりわけ後者の「特修矯導学校」は成人の場合における「第三種矯正処遇」に相当するもので、そこでは児童精神科医や臨床心理士も加わった精神医療的対応がなされる。
 こうした「矯導学校」も「学校」である以上、学年別に編成され、さしあたりは「初等部」「中等部」「高等部」に分けられるが、矯導という特殊な教育の性質上、「高等部」の後に学年制によらない「続高等部」を設け、場合によっては20歳を超えて継続教育ができるようにすべきである。
 そこで、裁判所が対象者を「矯導学校編入」に付するときは、学校種別と学年とを指定して言い渡す必要があるが、学年については原則として対象者が通常の学校課程において所属すべき学年を指定する。例えば、中学三年生であれば「矯道学校」でも中等部三年に編入するのである。
 ただし、中卒者や高校中退者については、実質的な知的レベルに応じて高等部以下のいずれかの学年を指定するか、上述の「続高等部」を指定する。高校既卒者については上述の「続高等部」を指定する.。

pencil「矯導学校編入」の期間に関しては、成人矯正の場合以上に少年の発達に応じた短期集中処遇が必要であるから、例えば「一般矯導学校」では6ヶ月以上3年以下、矯正に時間を要する「特修矯導学校」でも2年以上5年以下とする。
 こうした処遇期間は裁判所による処遇言渡しの段階では定めず、矯導学校側が上述の年限内で、対象者の改善の度合いや帰住先の家庭環境などを勘案して修了の時期を判断する。
 さらに「矯導学校」を修了した後、2年間は「継続観察期間」として、担任教諭が修了生に対する家庭訪問や面接を通じたアフターサポートを行う。また、帰住先の家庭環境が良好でない場合は、前章でも取り上げた「未成年者福祉センター」への委託保護も行う。

pencil問題となるのは「矯導学校編入」が可能な下限年齢であるが、これについては非行の早発化という現象も考慮に入れ、10代の最年少である10歳からとしておいてよいであろう。
 ただし、13歳未満の年少少年の「矯導学校編入」は病理性が強く、上述の「特修矯導学校編入」が相当な場合に限るべきである。従って、「矯導学校」の初等部は「特修矯導学校」のみに設置されることになる。
 なお、「矯導学校」に在籍可能な上限年齢は満26歳となる。これは少年法適用の上限年齢として先に示した21歳の者が「特修矯導学校」編入の処遇を受けた場合における最長期間満了年齢に相当する。

2012年4月19日 (木)

犯罪と非処罰(連載第11回)

10 少年の処遇について

pencil少年は成人と異なり成長途上にあり、人格的可塑性に富んでいるため、犯罪を犯した少年に対しては成人と異なる処遇を必要とする。
 この公理は「犯罪→刑罰」図式の下でもおおむね共通認識であり、多くの諸国で少年特有の処遇が認められている。日本でも、犯罪に該当する非行をした少年に対して、少年法上刑罰に代えていくつかの「保護処分」に付し得る制度が存在してきたところである。
 しかし、先の定理は「犯罪→刑罰」図式の下ではしばしば「必罰主義」「厳罰主義」の世論によって侵食され、後退を強いられる。とりわけ殺人などの凶悪犯罪に該当する非行をした少年に対しては、死刑を含む「厳罰」が叫ばれがちである。
 そのようにして日本の少年法も後退していき、かねて14歳以上を刑事責任年齢とする一般刑法の規定を修正して16歳未満の少年に対しては刑罰を科し得ないとしていた科刑制限条項の撤廃にとどまらず、故意による生命侵害罪を犯した16歳以上の少年に対しては原則として刑罰を科する規定さえも登場するに至った。
 こうした少年法の後退は応報的要素を払拭し得ない刑罰制度が存在する限り避け難いことであり、究極的には刑事責任年齢の引き下げや撤廃にすら行き着くであろう。

pencilこれに対して、「非処罰」の構想の下では、少年法の理念はより高いレベルで実現を見るであろう。それと同時に、「犯罪→処遇」定式により、成人を含めて「処遇」という概念の下に統一されることから、少年法の適用年齢に関してはより柔軟化することが可能となる。
 この点、刑罰制度における刑事責任年齢という画一的な概念は時代の現実にも合わない結果を生み出している。例えば、日本刑法上の刑事責任年齢の下限は14歳とされるが、現行刑法が公布された1907年(明治40年)当時の14歳と現代の14歳の社会的立場は全く異なっている。
 1907年当時、高等教育を受ける子どもは一部上流階級子弟に限られ、大多数は旧制小学校卒業後、直ちに働き始めたから、14歳は立派な「社会人」であった。しかし、現代の14歳は例外なく義務教育の中学校に在籍しており、14歳の「社会人」が存在したら、それはかえって学校教育法、児童福祉法違反等の疑いを生ずることになる。
 さらに現代日本では高等学校も事実上の義務教育に近い扱いを受けていることからすると、高校以下の学校課程に在籍している者が圧倒的多数を占める18歳未満の少年は成人と明確に区別して少年法の絶対的適用年齢とするのが社会の現実に合っているのである。
 この点、18歳は過渡的年齢であって、日本の場合多くは高校生であるが、一部は大学生や有職者が含まれている。そこで18歳についてはケース・バイ・ケースで少年法を適用すべきであろう。
 これに対して、19歳は法律上未成年者ではあるが、大多数は高校を卒業しており、有職者も少なくないことからしても、20歳と大差は認められず、19歳の「少年」に対しては原則として少年法の適用を排除して成人並みの処遇をすべきである。ただし、例外として、知的障碍や発達障碍が認められ、少年法の適用が相当な者には少年法を適用する。
 同様に、成人に達しており本来は少年法の適用がない者であっても、知的障碍や発達障碍のために成長が遅れており、少年に準じて扱うほうが相当な者には少年法を適用する余地を認める必要がある。そのためにも、少年法の適用年齢の上限は、少なくとも21歳程度まで拡大されるべきである。

pencilこうして柔軟化された少年法の適用を受ける者に対する「保護処分」は、基本的に「矯導学校編入」と「教育観察」の二種類である。これに成人と同様に、対物的処分としての「没収」を加えて三種類とみなすこともできる。
 はじめの「矯導学校編入」は成人の「矯正処遇」に対応する処遇であり、現行少年法上では「少年院送致」に類似する処遇である。しかし、「矯導学校」が「少年院」と決定的に異なるのは、学校教育法上正規の「学校」として位置づけられる点である。
 一方、「教育観察」は少年版保護観察と言うべきものであり、現行法上すでに存在する少年に対する独立処分としての保護観察にほぼ相当する制度であるが、より「教育」に重点を置き、学校教育との連携を強化する。

pencilなお、少額物品の万引きのような微罪や、犯罪には該当しない非行をして補導された少年に対しては、これを裁判所に送致して司法審理の対象とすることは教育上も有益とは言えないことから、このような場合は警察から直接に然るべき専門機関へ送致して福祉的な保護対応をするべきである。
 そうした福祉機関としては、現行児童相談所の専門性と機能を大幅に拡充した「未成年者福祉センター」のような制度を整備することが考えられる。

2012年4月18日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第32回)

第6章 ヨーロッパの巻き返し

〈序説〉
 形成期のヨーロッパはあらゆる意味で先発のイスラーム世界あるいは中国に対しても遅れをとっていた。そのため、「近代」へ向けたヨーロッパの歩みはイスラーム世界と中国へ向けての巻き返しから始まったと言って過言ではない。
 さしあたりはまずイスラーム世界への反攻が課題であった。その出発点はまさにイスラーム勢力の直接的支配下にあったイベリア半島を中心とする南ヨーロッパである。そして、その反攻のエネルギーを元手に「近代」へ向けた最初の膨張を示したのも南ヨーロッパであった。東の辺境にいた日本人が最初に出会ったヨーロッパ人が「南蛮人」、すなわちポルトガル人とスペイン人であったことは決して偶然ではなかったのだ。
 こうした巻き返しの動きはやがてロシアや北ヨーロッパでも始まり、次第に南ヨーロッパを抑えて主流化していくが、総じてヨーロッパの巻き返しは対内的には強力な君主主権国家形成の動因となる同時に、対外的には攻撃的な侵略・植民地化の動力をなした。それはやがて「近代」において、国民国家と帝国主義という形をとって猛威を振るうことになるはずのものであった。
 一方で、イスラーム世界や中国は、古い体制の内在的な限界が露呈してくる中で、ヨーロッパ諸国の攻勢にさらされ、「近代」へ向けて衰退が加速化していくであろう。

一 レコンキスタと十字軍

(1)初期レコンキスタ
 8世紀初頭にゲルマン系西ゴート王国がアラブ・イスラーム勢力によって滅ぼされて以来、イスラーム勢力の支配下に置かれたイベリア半島でキリスト教徒勢力による反攻としての国土回復運動(レコンキスタ)が開始されたのは早く、西ゴート王国が滅んで数年と経たない頃であった。
 ただ、最初期のレコンキスタはぺラヨなる西ゴート残党貴族に率いられた40人ばかりの男女がイベリア半島西北部アストゥリアス山中絶壁の洞窟に立てこもり、蜂蜜でしのぎながら抵抗を続けたという半ば伝説化されたレジスタンスであって、レコンキスタと呼ぶには程遠いものであった。
 かれらはイスラーム勢力の追撃を逃れて718年にはぺラヨを王とするアストゥリアス王国を建てたとされるが、これも正規の王朝というよりはキリスト教徒戦士団の域を出ないものであったろう。
 やがて8世紀半ば過ぎになると、第4章でも見たようにアッバース家に滅ぼされたウマイヤ朝残党がコルドバを都に後ウマイヤ朝を建て、半島北部まで版図を広げていったため、レコンキスタどころではなかった。
 レコンキスタが本格的に始動するのは、後ウマイヤ朝が1031年に滅亡し、イベリア半島のイスラーム勢力が分裂した後のことである。この頃には、10世紀半ば過ぎに半島中北部に勃興したカスティリャ王国が先のアストゥリアス王国の遷都に伴い建設されていたレオン王国を併合して強勢化する一方、半島北部の民族系統不明の先住民バスク人の一派が9世紀に興したナバラ王国から分かれたアラゴン王国も建てられ(1035)、次第に東北部に領土を広げていった。以後のレコンキスタは、このカスティリャ、アラゴン両王国を中心に推進されていくことになる。
 その結果、カスティリャ王国は中部の要地で旧西ゴート王都でもあったトレドの奪回に成功(1081)、アラゴン王国も苦戦の末東北部の要地サラゴサを占領した(1118)。
 しかし、この時期のレコンキスタはここまでであった。半島南部には新たに北アフリカからイスラーム化したアフロ‐アジア語族系先住民アマジグ(いわゆるベルベル)人系のムラービト朝、続いて同系のムワッヒド朝が進出し、キリスト教徒勢力の南進を阻止したからである。

(2)十字軍の狂熱と打算
 イベリア半島でのレコンキスタが本格的な展開を見せていた頃、西ヨーロッパでも7世紀以来イスラーム勢力の支配下にあった聖地エルサレムを武力で奪回しようという十字軍運動が盛り上がった。その火付け役がセルジューク・トルコに小アジア領土を奪われたビザンツ帝国であったことはすでに触れたとおりであるが、この運動の性格は本来複雑である。
 まずビザンツ皇帝アレクシオス1世の救援要請を受けた時のローマ教皇ウルバヌス2世にとって、これは折からの神聖ローマ帝国との叙任権闘争に勝利し、ひいては分裂していた東西両教会をローマ教会優位に再統合するチャンスと見えた。それで彼はクレルモン公会議(1095)を通じて十字軍遠征を「聖戦」と規定して巧みに扇動してみせた。
 この扇動に乗せられた西ヨーロッパの人々にとって、十字軍というプロジェクトはキリスト教の優越性を初めて自覚し、かれらが「左手にコーラン、右手に剣」と畏怖したイスラーム勢力に一矢報いる最初のチャンスと思われた。
 こうした言わば「イスラーム・コンプレクス」の反転としての優越感が西ヨーロッパの王侯貴族層のみか少年を含む民衆をもとらえていたことは、公式の第一回十字軍に先立つ1095年に、隠者ピエールや無一文のゴーティエなどと呼ばれる無名の冒険主義者が率いる「民衆十字軍」が組織されたことや、1212年には神の啓示を受けたと称する二人の少年の呼びかけで、少年だけの無謀な十字軍(少年十字軍)さえ組織されたことからも窺える。こうして高揚したキリスト教優越意識は、内に向ってはユダヤ教やキリスト教異端派への差別意識を強めた。
 実際、「民衆十字軍」は出発に先立っていくつかの都市でユダヤ人虐殺やユダヤ人居住区破壊を実行したし、公式の第一回十字軍にしても、到達したエルサレムではイスラーム教徒のみならずユダヤ教徒の殺戮をも敢行したのだった。
 また、当時南仏に広がっていたキリスト教異端派カタリ派(アルビジョワ派)殲滅のため、時の教皇イノケンティウス3世の提唱で1209年から20年間にもわたりアルビジョワ十字軍が送られ、南仏トゥールーズ地方で殺戮・破壊を伴う残酷な弾圧作戦が断行された。
 一方、ベネチアをはじめとする北イタリア商業都市支配層にとって、十字軍は東方貿易の利権を独占するビッグ・チャンスにほかならなかった。実際、かれらは十字軍の物資補給を担うとともに、商圏拡大に余念がなかった。
 経済的利得という点では西ヨーロッパに十分な領地を保有しない野心的な中小封建領主・騎士層にとっても十字軍は東方に新たな領地を獲得するチャンスであった。
 ベネチアの教唆によりビザンツ帝国の転覆とラテン帝国の樹立という十字軍本来の目的から完全に逸脱した結果をもたらした第四回十字軍(1202‐04)は、宗教熱の皮膜の下に隠された経済的野望がまさしく露呈した事件であった。
 成果という点では、公式のものとしては一般に11世紀末から13世紀後半にかけて都合8回(諸説あり)と数えられる十字軍遠征のうちエルサレム奪回という本来の目的を果たしたのは、エルサレム王国のほか、アンティオキア公領、エデッサ伯領、やや遅れてトリポリ伯領という四つの十字軍国家の創設に成功した第一回十字軍(1096‐99)だけであって、その余はすべて失敗または逸脱に終わっている。
 そのエルサレムにしても、第4章で見たように、1187年にはアイユーブ朝創始者サラディンによって再奪回され、第六回十字軍の後、ドイツのフリードリヒ2世とアイユーブ朝の折衝の結果一時キリスト教勢力側に返還されたものの、間もなくトルコ人勢力に再び奪い返されてしまった。
 そして、国家として持続するには生産力・軍事力ともに決定的に不足していた他の十字軍国家も12世紀半ばから13世紀末にかけてイスラーム勢力によって順次滅ぼされていった。
 こうして動機に不純なものを含み、永続的成果を上げることもなかった十字軍ではあったが、フランスに関して言えば、それは王権の伸張という内政面の成果をもたらしたのだった。
 元来、十字軍遠征の主力はフランス人であり、しかも全8回中、4回で国王自ら親征するほどの熱の入れようであった。特に後期の第七回と第八回に参加した聖王を冠されるルイ9世の活躍ぶりは際立っていた。
 こうした国王親征自体も国王の威信を高めるのに役立ったが、戦場を国王と共にすることで新たに国王の家臣となる封建領主が増加したため、自身封建領主の一人であった国王を頂点とする垂直的な封建関係が構築されていった。こうした王権の伸張は、十字軍に参加して戦死し、または行方不明となった領主の所領をしばしば国王が召し上げたことによっても促進された。
 こうして聖王ルイの頃から、フランス王権はとみに伸張していき、やがて彼の孫に当たるフィリップ4世以降は、ローマ教皇をも支配下に置いてしまう。

(3)シチリア王国の成立
 十字軍とレコンキスタとをつなぐような位置にある出来事が、12世紀のシチリア王国の成立である。
 シチリア島はそれまで2世紀余りにわたり、統治者を変えながらもイスラーム勢力の支配下にあったが、11世紀半ば頃に南イタリアへ渡来したノルマンディー公国出身のノルマン人騎士オートヴィル家のロベール・ギスカールと弟ロジェールによって攻略された。特にロジェール(ルッジェーロ)は1091年までにシチリア王国の基礎を築いた。
 このようなイスラーム勢力の支配下にあったシチリア島攻略のためのノルマン人の戦いも、一種の十字軍としてローマ教皇の―神聖ローマ帝国やビザンツ帝国との確執・紛議をも絡めた―全面的な支援の下に行われたものであった。
 ちなみに、第一回十字軍にはロベール・ギスカールの子ボヘモントも参加しており、彼は1098年、シリアに十字軍国家の一つアンティオキア侯国を建てている。
 しかし、シチリアのノルマン人の活動は一過性の「十字軍」では終わらなかった。ルッジェーロの子ルッジェーロ2世はシチリアを基盤に、かねて伯父ロベール・ギスカールが征服していたナポリ周辺の南イタリア領(旧ビザンツ領)も継承して1130年、正式にシチリア王として戴冠し、ここにシチリアから南イタリアへまたがるいわゆるシチリア王国が成立した。
 ただ、この王国は既存のイスラーム教徒を排斥せず、むしろ保護したため、イスラーム文化が保存された一方で、王国の版図には旧ビザンツ領も含まれたことから、ビザンツ文化も承継された。
 こうして首都パレルモはローマ文化、ギリシャ=ビザンツ文化にイスラーム文化が出会う文明の十字路のような活況を呈し、当代最先端の学芸都市としてキリスト教圏、イスラーム教圏双方の知識人を引き寄せたのである。
 王国では早くにノルマン起源は忘却され、宮廷はビザンツ風に染まり、領内にはユスティニアヌス法典に範を取った法令が施行されていた。実際、王国はビザンツ帝国に取って代わる野望を抱いていたが、ルッジェーロの孫グリエルモ2世に男子相続人がなく、一人娘を神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家に嫁がせたたため、グリエルモの没後、王国は神聖ローマ帝国の版図となった。
 その後、ホーエンシュタウフェン王家も断絶し、皇帝不在の大空位時代(1256‐73)に入ると、旧シチリア領はローマ教皇の要請でフランスのルイ9世の弟アンジュー伯シャルルの手に渡る(1268)。
 しかし、1282年にアンジュー家の圧政に抗議するシチリア島民が反仏暴動(シチリアの晩鐘)を起こしたのを機に、シチリア島は暴動の背後にあったイベリア半島のアラゴン王国の版図に入った。アラゴンは15世紀半ばにはナポリも取り、結果としてシチリア・南イタリアもレコンキスタ国家スペインに収斂されたのである。
 ただし、15世紀末以降、再征服を狙うフランスが反撃に出て、60年以上に及んだイタリア戦争に発展していく。

(4)レコンキスタの勝利
 間歇的なブームとしての側面が強かった十字軍とは異なり、歴史的・持続的なレジスタンスの性格を持ったレコンキスタは、ポルトガル及びスペインという新興国家の形成過程そのものでもあった。
 その先陣を切ったのはポルトガルである。ポルトガルはカスティリャ王国のレコンキスタに参加し、ポルトゥカーレ及びコインブラ伯に叙せられたフランスのカペー王家支流ブルゴーニュ家のアンリの子アフォンソ・エンリケスが1139年にアフォンソ1世として独立王朝(ブルゴーニュ朝)を建てたことに始まるが、正式にはローマ教皇の仲介でカスティリャ王国が独立を承認した1143年が建国年である。そして、1147年に、首都となるリスボンを奪回し、13世紀中頃までには一足先にレコンキスタを完了したのである。ポルトガルは1385年以降、新たなアヴィシュ朝の下で全盛を迎える。
 一方、カスティリャ王国は13世紀前半、アラゴンやナバラと連合してムワッヒド朝を攻め、南部の要地コルドバとセビリアを攻略する一方、アラゴン王国も東部地中海沿岸のバレンシアまで南進していく。
 しかし、イスラーム勢力側も粘り、メディナから移住したアラブ系アル・アフマル家が13世紀前半、グラナダを首都に建てたナスル朝がイベリア半島におけるイスラーム勢力の最後の砦として持ちこたえる。
 ナスル朝の領域はグラナダを中心に東西約380キロ、北は沿岸から約110キロ程度という小国であったが、カスティリャ王国に貢納しつつ巧みな自衛策で250年以上も命脈を保ち、14世紀後半に全盛を迎える。
 この間、アラゴンはカスティリャと比べ、国土面積の狭さを地中海方面への進出で補い、前節でも触れたようにシチリアからナポリなど南イタリアを領土に組み込んでいった。またアラゴン、カスティリャとも国内的には王権の強化が図られた結果として貴族勢力や都市との抗争が激しくなった。
 そこで共通の問題を解決し、ナスル朝のために停滞していたレコンキスタを完遂するべく、両国の統合が進められ、1469年のアラゴン王子フェルナンドとカスティリャ王女イサベルの結婚を機に1479年、両国が合同してスペイン王国が成立した。
 この合同によってナスル朝への攻勢は強まり、王朝の内政混乱も加わって、ナスル朝は終焉した。1491年に降伏条約が締結され、翌1492年、グラナダはスペイン側に明け渡された。
 ここにレコンキスタは完了する。ぺラヨがアストゥリアス王国を建てたとされる718年から起算すると、実に774年にわたった運動の勝利であった。同時に、それは「イスラーム的ヨーロッパ」という文明的実験の終焉でもあった。

2012年4月13日 (金)

犯罪と非処罰(連載第10回)

9 更生保護について

pencil保護観察も広い意味での更生保護に含まれるが、本章で言う更生保護は狭い意味におけるそれ、すなわち「矯正処遇」を完了した者に保障される社会復帰のサポートのことである。
 「矯正処遇」は、最も軽い「第一種」でも更新されれば最長で5年に及び、「第二種」と「第三種」では1Uがそれぞれ3年と5年と比較的長いうえに、更新された場合の上限もともに10年と長期にわたるため、社会復帰に当たっては十分なサポートを必要とする。
 一方、「矯正処遇」は更新付きユニット制を採る反面として、今日の自由刑におけるような「仮釈放」の制度を持たないため、「矯正センター」からの退所者を保護観察に付することはできない。そこで、非権力的サービスとしての更生保護が厚く保障されなければならないのである。

pencilかかる狭義の更生保護は社会サービス体系の一環を成すものであるから、犯罪と処遇の対応関係を法定する「犯罪法典」とは別立ての「更生保護法」に根拠を置き、同法に基づいて設立される公益法人である「更生保護協会」が実施機関となる。
 その対象者は、基本的に「第二種矯正処遇」または「第三種矯正処遇」を受けて「矯正センター」を退所した者であるが、「第一種矯正処遇」で更新を受けて退所した者も含む。また「第三種矯正処遇」に引き続く「終身監置」の「本解除」を受けた者で、緊急的な保護を必要とする者も含めてよいであろう。
 こうした更生保護は任意のサービスであるから、サービスを希望する者は退所前に「矯正センター」を通じて、または退所後に直接に前記「更生保護協会」に申請する。申請を受けた協会では、その傘下にあって更生保護の実務を担う各地の「更生保護会」を指定し、サービスを提供する。
 そのサービスの中心は住居の提供と就労支援であるが、家族関係などの環境調整やカウンセリングが必要なケースもある。従って、「更生保護会」には常勤職のソーシャルワーカー(以下、SWと略す)のほか、非常勤を含むカウンセラーも配置される必要がある。
 「更生保護会」に配置されるSW、すなわち「更生保護SW」という専門職はまだ全く確立されていないが、これは通常のSWとは異なり、犯罪と処遇に関する深い知見を要するため、独立した専門資格として養成することを検討しなければならないであろう。

pencil更生保護サービスの中で最も困難なのは、就労支援である。この点で問題となるのは、現在「前科者」に対して法律上課せられる多種多様な職業上の資格制限である。こうした制限は日本法上とりわけ多く、その総数や数百に及ぶとも言われる。このことが一般就職の困難な「前科者」の就労可能性をいっそう狭め、ひいては生活難や自暴自棄からの再犯を誘発していることは明白である。
 「非処罰」の構想の下における「処遇」は「処罰」ではないから、そもそも「前科」という概念自体が消滅する。従って、特定の犯罪により有罪判決が確定したこと自体が特定の職業上の適格性を喪失させるような場合(例えば、弁護士法違反の罪で有罪判決が確定した弁護士など)を除き、職業上の資格制限は存在しない。
 とはいえ、「前科」の概念は消えても犯罪を犯したという「犯歴」そのものを消すことはできない以上、社会一般に伏在する「犯罪者」への差別的偏見にさらされる更生保護対象者の就労は決して容易でないと想定される。
 そこで、更生保護サービスにおいても、単に就労を斡旋する消極的支援にとどまらず、更生保護対象者自らが集団的な自助事業を起こすことを助成したり、適性が認められた者は「更生保護会」の職員として雇用したりする形で、積極的支援を目指す必要があるだろう。

2012年4月12日 (木)

犯罪と非処罰(連載第9回)

8 保護観察について

pencil「非処罰」の構想の下では、それ単独で付される独立処分としての保護観察が成人に対しても活用されると述べた。
 この独立処分としての保護観察は矯正のプロセスを省略して直ちに更生のプロセスに入るというものであるから、その対象となるのは軽い罪を犯し、かつ犯罪性向も弱く、一過性の犯行者―要するに、大多数の犯行者―である。
 従って、保護観察の期間も最長で2年に限定されるうえ、その期間満了前に更生が進み、保護観察の必要性が消滅したと判断された場合は、保護観察所の決定により中途で保護観察を終了させることもできるようにする。
 また、保護観察の内容としても、刑務所から仮釈放された者に対する保護観察より行動制限は緩やかなものとなる反面、再犯防止のためのカウンセリングなどの個別的な処遇は充実するであろう。

pencilただ、独立処分としての保護観察が大いに活用されるようになれば、その実務に当たる保護観察官の人員も拡充されなければならない。
 この点、日本のように保護観察の一部業務を非専門職の民間篤志家(保護司)に委ねるのは、保護観察の権力的要素を和らげ、社会内処遇にふさわしいアットホームな要素を加味するうえでは良い制度である。
 しかし、こうした民間委嘱が専門職の保護観察官の人員を不当に低く抑制するための便法として利用されているとすれば、それは本末転倒である。従って、あくまでも専門職の保護観察官の増員を条件に、一部業務の民間委嘱が構想されるべきである。結局のところ、民間篤志家が扱うにふさわしい対象者は、軽微な財産犯や過失犯を犯した者などが中心となろう。

pencil以上に対して、「終身監置」の「仮解除」を受けた者に対する「特別保護観察」は、独立処分としての保護観察とはその性質・内容を全く異にする。
 これは病理性の強い矯正困難な重罪犯を対象とする保護観察であるので、期間は限定されず、「終身監置」の「本解除」まで継続されるとともに、居住・移転などの制限も強いものとならざるを得ない。当然にも、これは専門職の保護観察官の直担案件でなければならず、民間委嘱は認められない。
 ただ、この場合も、単なる「監視」に終始するのではなく、「終身監置」の「本解除」を目指す対象者の努力を援護し、その更生を促進するものでなければならない。

2012年4月10日 (火)

天皇の誕生(連載第13回)

第三章 4世紀の倭

(5)百済との修好

百済の接近
 先述したように、百済は4世紀後葉には高句麗をも抑えて軍事的優位に立っていたが、広開土王陵碑文では396年(『三国史記』では395年)に高句麗に惨敗し、半島の覇権が再び高句麗に移る。百済が倭に公式に修好を求めてきたのは、このような微妙な時期であった。
 『三国史記』百済本紀には、阿莘王[あしんおう]6年(399年)に倭国と修好し、太子の腆支[てんし]を質として送ったことが記されている。これは、百済が高句麗に惨敗した1年ないし2年後のことであるから、百済の狙いは高句麗対策として倭国を抱き込み、特にその水軍力を利用して反転攻勢に出ようとすることにあったと考えられる。
 これに対して、碑文は2年違いで399年に百済が宣誓に反して倭と和通したと非難している。この「宣誓違反」とは、396年に百済が高句麗に惨敗した後、阿莘王が高句麗の好太王(広開土王)に対して今後永久に臣従するとした誓いに反し、無断で倭と修好したことを指している。
 ちなみに、『書紀』では神功摂政紀47年、百済の尚古王(近尚古王)が初めて朝貢し、同52年には七枝刀[ななつさやのたち]などを献上したとある。この記述を例の石上神宮所蔵七支刀と結びつけて、碑文に刻印された「泰和四年」=中国・東晋の太和四年(西暦369年)に近尚古王が太子貴須(後の近仇首王)名義で(または太子とともに)倭国王に献上したものとするのが通説である。
 しかし、近尚古王代の倭との修好は朝鮮側史料に全く見えないことや、ましてこの時期、半島の最強国であった百済が倭を上国として臣従するいわれもないことから(もし倭が上国ならば王でなく格下の太子名義での献上は不自然である)、少なくとも公式の修好は4世紀末の阿莘王代に始まったと解される(そう解した場合の七支刀の年号問題に関しては第五章で解明する)。
 なお、『書紀』応神紀3年条は、阿莘王即位の経緯として、一代前の辰斯[しんし]王が貴国(倭)の天皇に対して非礼行為を働いたので、役人らを派遣して問責したところ、百済では王を殺して陳謝したことから、役人らは阿花王(阿莘王)を立てて帰国したという記事を架上しているが、もとより朝鮮側史料に対応記事は見えない。
 この記事は、かえって百済との公式の修好は阿莘王代から始まるにすぎないことを隠蔽し、「三韓征伐」と倭の朝鮮支配というフィクションを根拠づけるための作為であることを露呈しているように思われる。

腆支太子の任務
 阿莘王の命で397年に倭に派遣されてきた腆支太子は朝鮮側史料の『三国史記』でも「質」(人質)と明記されているため、通説は百済が上国である倭に太子を差し出して領土の保証を求めたものと都合よく解釈している。
 しかし、職業外交官の制度が存在しなかった古代における「質」とは文字どおりの人質ではなく、外交官兼工作員であったと考えられる。現代の外交官はかえって派遣先の外国で保護され、各種の特権を享受するが、古代の「質」は派遣先の外国に生命をすら委ねつつ、本国のために命がけで外交的工作と一種の諜報活動の密命をも実行したのである。
 阿莘王は後継者の太子をこのような「質」として倭へ差し向けた以上、高句麗への報復戦を成功させるため、倭を抱き込むことに並々ならぬ決意を持っていたものであろう。
 その成果か、碑文には5世紀に入って404年に倭軍が帯方界(高句麗南西部)に侵入したので撃退し、無数の首を斬ったとの記事が見える。倭が百済の代理戦を実行したが失敗したということかもしれない。
 一方、注目されるのは、新羅も5世紀に入って、実聖尼師今代の402年に、前国王奈勿の王子・未斯欣[みしきん]をやはり質として倭に派遣してきたことである。
 碑文によれば、新羅は399年、高句麗の好太王に、倭人が国境に満ち溢れ城塞を撃破し攻囲しているとして援軍を要請したのに対し、高句麗は翌年、5万の兵をもって新羅城に駆けつけたところ、たしかに城内に倭兵が満ちていたとあるから、今回の畿内王権軍は城内(金城か)に侵入するほど激しい攻撃をしかけていたようである。
 このときは結局、高句麗軍が倭軍を撃退し、任那加羅まで追撃したというが、新羅は以後倭による侵攻をやめさせる外交工作を展開するため、王族を倭に派遣してきたものであろう。従って、百済太子腆支とは異なり、未斯欣は本来の意味の「質」に近いと言えよう。
 この点、『三国史記』の列伝朴堤上条には、「百済人」が前に倭に入って、新羅と高句麗が謀って倭国を攻撃しようとしていると讒言したとある。そのために、倭は兵を送って新羅の国境付近を巡視していたところ、たまたま高句麗も侵攻してきて倭の巡視兵を捕らえて殺したため、倭王は百済人の情報を信じたという。
 この記事は新羅の救援要請という新羅にとって不都合な事実をカットしている点を除けば、先の碑文の399年と400年の記事に対応している。すると、讒言した百済人の先客といえば腆支以外に考えられないから、彼は高句麗と新羅の共謀関係を倭に吹き込んで、倭を両国と敵対させ、もって百済と密着させるように仕向ける工作をしたことになり、彼の帯びていた密命がここに明かされているわけである。
 こうして、立派に任務を遂行した腆支は405年に父・阿莘王死去を受け、王位に就くため本国へ帰任するが、この時、倭は兵士100人を護衛につけて送り出している。
 一方、新羅の質・未斯欣は腆支とは好対照な運命を味わった。彼はほとんど何の成果も上げられないまま、16年も倭に抑留されたあげく、実聖王の要請を受け未斯欣奪還役を買って出てきた将軍・朴堤上(別名・毛末)とともに新たな新羅侵攻の水先案内人にさせられかけ、命からがら本国へ逃げ帰ったのである。
 その過程で朴将軍が倭に惨殺される悲劇的な大活劇は、朝鮮側の『三国史記』及び『三国遺事』の両史料のはか、『書紀』でも実質的に同一の記事が神功摂政紀に架上されている(未斯欣は微叱己知、朴堤上は毛麻利叱智の名で登場する)ことからも、両国で後世まで語り草となっていたものであろう。
 このような新羅の対倭外交工作の失敗も、裏を返せば腆支太子(後の腆支王)を使った百済の外交工作の成果なのであった。

「謎の4世紀」に朝鮮側史料に現れる「倭」とは、その前半には九州北部の伊都国、後半になるとその伊都国を服属させた畿内加耶系王権(ニニギ朝)を意味するものと考えられる。要するに、4世紀とは「倭」の中心がそれまでの九州北部から畿内へ移動していった歴史的な過渡期であり、その触媒となったのが、西日本各地に移住してきた加耶系渡来集団であった。
では、しばしばヤマトと並び称されるイヅモにはどのような勢力がどのように展開していったのであろうか。

2012年4月 9日 (月)

天皇の誕生(連載第12回)

第三章 4世紀の倭

(4)伊都国の服属

独立から服属へ
 畿内加耶系王権が朝鮮半島への玄関口を確保するためには糸島半島を支配下におさめる必要があったが、ここには古い歴史を持つ強国・伊都国が所在していた。そこで、同国を服属させることが畿内王権にとって最初の「外交」課題となったことは想像に難くない。しかし、そこへ行き着くまでの前提的なプロセスとして、先に見た邪馬台国の解体と伊都国の独立という序曲があった。
 伊都国が邪馬台国の解体後、独立したと解される根拠は、朝鮮側史料の『三国史記』新羅本紀基臨尼師今[きりんにしきん]3年(300年)正月条に「倭国と交聘[こうへい]す」とあり、 さらに訖解尼師今(きっかいにしきん)3年(312年)には、倭国が王子の婚姻を求めたため、さる高官の娘を嫁がせたという通婚記事も見えることである。
 この点、「ヤマト王権」が3世紀代から成立していたとする通説では、この「倭国」を「ヤマト王権」ととらえ、かえって4世紀初頭から同王権がすでに対外進出を図っていたことの根拠に援用するかもしれないが、我々の畿内王権はこの時期、まだ存在すらしていなかったのである。
 4世紀初頭に新羅と独自に通婚関係を締結する実力を備えた「倭国」といえば、邪馬台国時代、同国に統属しながら世襲の王が存在し、「郡使の往来常に駐まる所」(『魏志』)であった伊都国をおいてほかにあるまい。
 この時期の伊都国が新羅との通婚関係に動いたのは、邪馬台国解体後の新たな発展の活路として、新羅との通婚関係を足がかりに朝鮮半島への進出を図ったものと考えられる。
 このように、新羅との通婚が伊都国にとって手段にすぎなかったことが間もなく明らかとなる。『三国史記』によると、「倭国」は344年にも再び通婚を求めてきたが、今度は新羅側がこれを拒否したことから翌年、倭王は国交断絶を通告、346年には倭兵が新羅に侵攻し、風島(現地名不明)を略奪した後、王都・金城に進軍・包囲した。これに対して、新羅は城門を閉ざして兵糧攻めにし、倭兵側の糧食が尽きて退却を始めたところへ騎兵を出して追撃・敗走させたという。
 この後、しばらく間を置いて、364年の奈勿尼師今[なもつにしきん]9年に再び倭兵が侵攻してきたが、今度は草人形数千体を作って並べ、倭兵が直進してきたところへ千人の兵で待ち伏せ攻撃をかけ、倭兵を敗走・壊滅させたという。
 その後、倭兵の新羅侵攻は4世紀も末の390年代まで30年近く停止するが、伊都国が4世紀中頃に成立した新興の畿内王権に服属したのは、こうして二度にわたる対新羅戦惨敗で国力が弱化した時期のことと推測できる。
 この服属を示唆する史料として、『書紀』の仲哀紀に架上された伊都県主[いとのあがたぬし]の先祖・五十迹手[いとて]の服属場面がある。それによると、五十迹手は大きな賢木を根こぎにして、船の船首と船尾に立て、上枝には八尺瓊[やさかに]を、中枝には白銅鏡(ますみのかがみ)を、下枝には十握剣[とつかのつるぎ]をかけるという服属儀礼をもって仲哀天皇を出迎えている。
 この五十迹手とはすなわち伊都手であり、伊都国王の象徴と見られる。「仲哀天皇」は神功皇后の夫にして、応神天皇の父として、応神を統一的な皇統譜に組み入れるために作り出されたつなぎの架空人物と解されるが、伊都国の服属自体は4世紀後葉の重要な史実として取ることができる。
 こうした畿内王権による伊都国征服作戦に際しては、前にも言及したように、邪馬台国解体後、糸島の内陸部に一定の王権を形成していた糸島残留加耶系勢力の子孫らが、先祖を同じくする同族として協力した可能性がある。ただ、この糸島加耶系王権は独自的な発展を見ず、ほどなくして優勢な畿内加耶系王権に吸収される形で消滅したものであろう。

服属の成果
 伊都国の服属は、畿内王権にとって大きな成果をもたらした。まず、何と言っても、初めに述べたように、朝鮮半島への海の玄関口が確保され、王家ルーツである金官加耶国及び周辺加耶諸国との交流が容易になったばかりでなく、次節に見るように、やがて倭の歴史を大きく変えることとなる百済との修好も開かれるのである。
 それに加えて、沿岸国の伊都国には強力な水軍があり、これをそのまま畿内王権の水軍として編入することができたことは、畿内王権の外交軍事力を高めることにも寄与したであろう。
 一方で、伊都国からは伝統的な「反新羅」の外交姿勢―なぜ伝統的に「反新羅」であったかは続く第四章で明かされる―をも継承することとなったが、これは後代まで尾を引く問題となった。
 そうした「反新羅」を象徴する出来事が393年に発生する。『三国史記』によると、この年5月、倭がおよそ30年ぶりに新羅に侵攻してきたが、今回の倭兵はかつてなく強力で、王都・金城を直撃して、5日間包囲を解かなかったという。新羅側では今度も城門を閉ざし、倭兵が退却を始めたところへ騎兵を出して退路を絶ちつつ、歩兵で残兵を独山(現地名不詳)に追い込み、挟撃する作戦でようやく撃退した。
 これに対応するもう一つの史料として、高句麗の「広開土王陵碑文」(以下、単に碑文という)の有名な記事、「倭以辛卯年来渡海破百残***羅以為臣民」(*は風化による判読不能部分)がある。
 これを素直に読むと、「倭が辛卯年(391年)以来、海を渡って百残(百済)***羅を破って臣民とした」となる。*の部分は「百済加羅新羅」とも埋められるので、この時期に「大和朝廷」が朝鮮半島に攻め込んでそこに「宮家」を設定したとする「三韓征伐」の根拠として援用されてきた箇所でもある。
 特に、この碑文は19世紀末に明治政府の参謀本部がその拓本を入手して、軍部主導で解析を進めたことから、当時の参謀本部が朝鮮支配を正当化するために改ざんしたとの説が戦後に提起されたが、その後の研究でこの説は否定されている。
 しかし、改ざんされていないにせよ、この時期の倭が百済まで攻め込んで同国を破るとは考えられない。なぜなら、百済は近尚古王代(在位346‐374)に強勢化し、371年には高句麗を攻めて大勝利を収め、396年になって高句麗の広開土王(好太王)に破られるまで、軍事的優勢が続くからである。また、判読不能部分に「加羅」(加耶)が入るとしても、畿内王権にとってのルーツである加耶諸国を侵略するとは考えにくい。
 結局、碑文の391年記事は、2年の誤差はあるものの、『三国史記』の393年記事、すなわち「金城5日包囲」に照応すると解すべきであろう。
 碑文記事が誇張されているのは、高句麗の情報不足によるものか、そうでなければ「百済加羅新羅」がいかに弱体であるかを示して、反面、高句麗の強大さを強調する狙いがあるものと思われる。
 ただ、こうしたかつてない大規模な新羅侵攻作戦は、畿内王権が伊都国の水軍力を利用しつつ実行したものと考えられる。これを示唆する史料として、『播磨国風土記』に、播磨国因達里[いたてのさと]の由来に絡めて、伊太代(いたて)神が息長帯比売命(神功皇后)の三韓征伐で御船前(先導役)を務めたという伝承が記されている。
 播磨国総社である射楯兵主神社[いたてひょうずじんじゃ]に祀られるこの伊太代(因達、射楯)とは、『書紀』にも登場した伊都県主の先祖・五十迹手と実質的に同一人物の神格化である。この五十迹手、すなわち伊都国王が神功皇后の先導役を務めたという伝承は、まさに畿内王権が伊都国を服属させたことの傍証となる。もっとも、なぜ伊都国王が根拠地糸島から遠く離れた播磨国に神として鎮座しているのかについては、次の第四章で解明される。

2012年4月 7日 (土)

犯罪と非処罰(連載第8回)

7 刑務官から矯正官へ

pencil「矯正処遇」の現場となる「矯正センター」で入所者の矯正に当たるのは「矯正官」である。この新たな専門職が現行制度上の「刑務官」と似ていることはたしかであるが、決定的に異なるのは、「矯正官」はもはや“看守”ではないということである。

pencilなるほど現行制度上の「刑務官」も矯正の任務を持ってはいるが―それは教育刑論の浸透の成果ではある―、矯正よりも懲罰に比重を置かざるを得ない刑務所にあって、かれらの役目は今なお“看守”である。
 前近代において、こうした行刑業務を担う職種は最下層の賤業として、かれらの職権行使の対象である「罪人」ともども差別される存在であった。
 近代以降になると行刑職の地位は向上し、現代の刑務官は試験選抜による公務員である。そうはいっても、刑務官は特殊な職業として敬遠され、警察官よりも低く見られることも少なくなく、社会的認知度は必ずしも高くない。
 このことは刑務官の職業意識にも微妙な影響を及ぼしているであろう。しばしば刑務官による受刑者への暴力が表面化したり、全般に刑務所環境の抑圧性が否めないことにも、一つには刑務官の職業意識の問題が影を落としていると考えられる。
 ただ、刑務所が刑務所であり続ける限り、そこに所属する刑務官も、「犯罪者」を監視統制するまさに“看守”であることを止めることはできない。かかる現実を抜きにしたどんな「理想の刑務官論」も無効であらざるを得ないであろう。

pencilこれに対して、「矯正官」は純粋に矯正実務の専門家である。もっと言えば、かれらは矯正科学の実践家である。
 この言い方は決して大袈裟なものではない。実際、前章で見たとおり、「矯正処遇」は現行自由刑とは比較にならないほど科学的な観点から効果的な矯正を目指す制度だからである。当然にも「矯正官」は矯正科学に関する十分な素養を持つことが要求される。
 もっとも、現時点では「矯正科学」という学問は全く未発達であって、心理学、医学、あるいは社会学、教育学などの関連諸科学の寄せ集めに近いものである。これは刑罰制度が存置されている限り、いかに教育刑論が高調されようとも、なお矯正に関する知見は応報のイデオロギーに押しのけられることを免れないからである。
 矯正科学という応用科学は、「矯正官」の矯正実践の蓄積を通してのみ発達していくであろう。またそれによって、矯正科学に基礎を与える科学としての実践的な犯罪学―この学問も未発達のままである―も構築されていくであろう。

pencilこうして「矯正官」が矯正専門家として確立されれば、「矯正センター」における矯正と警備の職能は完全に分離され、センター内の秩序維持に当たる「警務官」は「矯正官」とは全く別枠採用の要員となる。また、こうした所内警備業務そのものを民間委託することも考えられてよいであろう。

2012年4月 6日 (金)

犯罪と非処罰(連載第7回)

6 矯正処遇について

pencil施設内処遇としての「矯正処遇」は今日の自由刑と類似しているとはいえ、決定的に異なる点も多い。とりわけ、その運用方法である。
 自由刑の場合、終身刑または無期刑は別として、通常は「懲役x年」というように予め刑期を定めて執行される。これには刑罰の恣意的な運用を防ぐ意味があると宣伝されてきた。
 しかし裏を返せば、それは応報の前提となる個人責任の度合いを数値的に換算するという無理を裁判官に強いていることにほかならない。民事責任の重さを示す損害賠償額が確立された数式に基づいて算出されるのとは異なり、刑事責任の重さを定量的に算出できる数式などは存在しないからである。
 また矯正という観点からしても、所定の刑期内に矯正が効果を上げるという保証はないにもかかわらず、満期に達すれば釈放せざるを得ないため、再犯の危険を排除することができない。

pencilこれに対して、「矯正処遇」は「更新付きユニット制」という方法により運用される。この方法の下で、対象者は予め法律で定められた内容の矯正プログラムの一単位=ユニット(1U)の期間内に矯正を終え、社会復帰することが原則となる。
 この1Uの年数は後述するように「矯正処遇」の細分化された種別ごとに異なるが、最長でも5年とする。なぜなら、矯正が成果を上げるにはできるだけ短期集中的に効果的なプログラムを課する必要があるからである。
 ただ、1Uの期間内に所期の矯正効果が上がらなかった場合には、さらに所定の回数更新することが許されることが、刑罰としての自由刑とは決定的に異なる点である。
 この更新には予め更新年数が法律で定められ、かつ2回までしか更新できない「法定更新」と、法定更新が満了した後に行政機関の裁量により所定の年限の範囲内で追加更新が可能となる「裁量更新」とがある。
 さらに、例外的に矯正効果がほとんど上がらない矯正困難者のためには法定更新期間満了後に裁判所の決定で行われる「終身監置」も予定される。これは、要するに例外的な矯正困難者に対する最後の手段としての保安処分にほかならない。

pencilこうした「矯正処遇」の実施機関は「矯正センター」であるが、同センターの申請に基づいて上述の更新を決定したり、また「終身監置」を裁判所に請求したりするのは、矯正に関する知見を有する有識者や法律家で構成する「矯正審査委員会」である。 
 「矯正センター」とは別個独立に設けられる同委員会は、上記の任務のほかに、矯正処遇対象者からの各種苦情申立ての審査と是正勧告も行うオンブズマン機能も備えた行政機関である。

pencilさて、「矯正処遇」にはさらに細分化された種別があると述べたが、その種別としては軽いものから順に、第一種ないし第三種まで三つの区分を想定することができる。この種別を分ける基準となるのは、犯罪性と病理性の強弱である。
 このうち、犯罪性に関しては、まず「犯罪→処遇」の対応関係が法定される段階で、重大犯罪ほど重い処遇が予定されることは自由刑の場合と類似する。ただ、その理由は重罪犯への厳しい応報にあるのではもちろんなく、重い罪を犯した者ほど犯罪性向は一般に強いと推定されるからである。
 従って、裁判所による各種別の選択にあたっても、自由刑とは異なり、結果の重大性とか犯行態様の悪質性などといった応報的要素によるのではなく、犯罪性向と病理性の程度を科学的に判定したうえで決せられるのである。
 具体的に見ていくと、まずは「第一種矯正処遇」であるが、これは1U=1年とし、法定更新は1年ごとに2回まで(最長3年)、裁量更新は2年を年限として(通算5年が上限)認められる種別である。これに該当するのは、犯した罪は比較的軽いが反復性や反社会性が認められ、一定以上の犯罪性向を持つ者である。
 次いで「第二種矯正処遇」であるが、これは1U=3年とし、法定更新は1回目2年、2回目1年を限度に(最長6年)、裁量更新は4年を年限として(通算10年が上限)認められる種別である。これに該当するのは、重い罪を犯した者のうち、犯罪性向は強いが、病理性は強くない者である。
 最も重いのは「第三種矯正処遇」である。これは1U=5年とし、法定更新は1回目3年、2回目2年まで認められ(最長10年)、裁量更新は認められない代わりに「終身監置」が予定されている種別である。これに該当するのは、重い罪を犯した者のうち、病理性の強い者であるが、その中でも精神医療的対応を必要としない「A処遇」とそれを必要とする「B処遇」とにさらに下位区分され、裁判所は判決でそのいずれかを明示して言い渡さなければならない。 

pencilなお、「終身監置」は先に述べたとおり、例外的な矯正困難者に対する保安処分であるから、改めて矯正審査委員会の請求に基づく裁判所の判決を通じて極めて慎重な運用が要求される。
 ただ、「終身監置」に付された場合でも、再犯の危険が相当程度に除去されたと認められるときは、通常の保護観察よりも行動制限の強い特別保護観察付きでの「仮解除」が許され、「仮解除」の間にさらに改善・更生が進めば「本解除」も許されるというように柔軟性を持たせるのである。

pencil以上の三種の「矯正処遇」に共通しているのは、もはや懲役刑におけるような労働(刑務作業)の強制はないということである。「矯正処遇」の中心はどこまでも矯正のためのプログラムそのものである。
 その具体的な内容は上記三種で異なっており、犯罪性向がさほど強くない者を対象とする「第一種矯正処遇」では外部講師を招聘しての講話や対象者同士でのワークショップのような集団的処遇が中心となる。
 これに対して犯罪性向が強い者を対象とする「第二種矯正処遇」ではカウンセリングなどのより個別的な処遇が中心を成すであろう。
 さらに病理性の強い者を対象とする「第三種矯正処遇」ではよりいっそう個別性が強化され、全体として治療的な処遇が中心となる。特にB処遇では精神科医が加わったチームによる精神医療的な対応が行われる。

pencilこうした処遇の現場となる「矯正センター」は「刑務所」と異なり、もはや鉄格子も塀も備えず、一種の病院のような施設となるであろう。
 とはいえ、「矯正処遇」は自由を拘束する処遇であるから、「矯正センター」入所者は許可なくして外出することは禁じられるが、無断外出自体は犯罪ではなく、単にペナルティーとして必要的な処遇更新事由とされるにすぎない。
 同様に、センター内での各種規律違反に対しても、それが新たな犯罪行為に当たるような場合は別として、原則としてけん責以上の処分は科せられず、ただ違反の程度に応じて更新事由とされるにすぎない。
 センター内での生活は原則として個室で営まれ、入所者同士の接触に伴う悪風感染や暴力行為を防止する一方、外部者との面会は、例えば加入していた犯罪組織メンバーとの面会のように、矯正の妨げとなることが明らかな場合を除いて自由とする。また、読書や外部との通信も自由で、インターネットの利用も最小限度のフィルター付きで認められてよい。
 さらに、「矯正処遇」は自由刑のように公民権の停止を伴わないため、センター内での投票の機会も保障されなければならない。

2012年4月 5日 (木)

犯罪と非処罰(連載第6回)

5 処遇の種類

pencil刑罰制度は死刑から罰金刑に至るまで豊富な種類を持つが、これは刑罰制度が本質的に応報という性格を残しているために、上位は生命から下位は財産に至るまで、およそ人の法益を剥奪するということに強い関心を持っているためである。
 ただ、教育刑論の考え方が浸透するにつれ、教育の要素をおよそ持たない死刑(及び身体刑)は多くの国で減少・消滅していき、罰金刑も単なるペナルティーとしての行政罰などに代替されていく傾向があり、先進的な刑罰制度にあっては刑の種類は簡素なものとなると同時に、人身の自由を拘束する施設内処遇よりも拘束しない社会内処遇を充実させる傾向が強まってくる。

pencil「非処罰」の構想はこの傾向をいっそう推し進めていく。まず矯正と更生のための処遇という要素を本質的に欠く死刑(及び身体刑)に相当する処分は存在し得ない一方、罰金刑にも処遇という要素は極めて希薄であることから、罰金刑はすべて行政罰もしくは没収に転換される。
 その結果、「非処罰」の下で予定される処遇とは、基本的に施設内処遇に相当する「矯正処遇」及び社会内処遇に相当する「保護観察」の二種類だけとなる。
 実際上、前者の「矯正処遇」は対象者の特性と処遇内容の違いによりさらに種別が細分化されるが、いずれにせよ「矯正処遇」は一定以上の重罪を犯した者を対象とする処遇である。
 その限りでは今日の自由刑に類似するが、刑罰ではないことから、その実施場所はもはや「刑務所」とは呼ばれず、例えば「矯正センター」などと呼ばれるであろう。
 他方、「保護観察」はより軽い罪を犯した者を対象に、独立の処分として付せられる処遇である。この点、日本の現行制度上こうした独立処分としての保護観察は少年に対するものしか存在しないが、「非処罰」の構想の下では成人に対しても拡大され活用されるのである。
 以上に対し、広い意味での処遇の一つとして「没収」が加えられる。「没収」は犯罪に起因する不法な収益を吐き出させるもので、それは人でなく物を対象とする処分であるが、上述の「矯正処遇」や「保護観察」と併用して、または独立して付し得る一種の処遇である。
 このうち、独立処分としての「没収」は、例えば少額な物品の窃盗や違法薬物の単純所持などの軽微な犯罪を犯した者を対象とする最も軽い処遇として位置づけられる。

pencilさて、以上の「矯正処遇」「保護観察」に「没収」を加えた三つの処遇の間には、一応「矯正処遇」>「保護観察」>「没収」という軽重関係を認めることができる。しかし、この軽重は刑罰の軽重関係のように犯罪の重大性のみによるのではなく、処遇対象者の犯罪性向の強弱によるところが大きい。
 この点に関連して問題となるのは、一人の者が複数の犯罪を犯し、併合審理を受ける場合の処遇である。日本刑法上これはいわゆる「併合罪」の問題とされ、その処理は基本的に最も法定刑の重い罪を基準として行われる(刑法45条乃至47条)。
 このような処理の仕方には、明白に応報刑論の思想が込められている。なぜなら、これは併合犯罪の組成(犯罪パッケージ)を犯罪学的に分析することなく、画一的に最も重い罪を基準とした厳罰を科そうとするものにほかならないからである。
 これに対して、「犯罪→処遇」定式の下では、犯罪パッケージの犯罪学的分析を通じ、その中で最も中核的とみなされる罪の処遇に付することになる。
 そうすると、例えば殺人罪と窃盗罪のパッケージであれば、たいていの場合殺人罪が中核的とみなされるであろうが、傷害罪と窃盗罪のパッケージとなると傷害罪のほうが重いから当然に傷害罪を基準とするのではなく、例えばこのパッケージにおける傷害罪とは窃盗罪の共犯者との内輪もめから相手を殴り、傷害を負わせたにすぎないといった場合のように窃盗罪のほうが中核的とみなされ、窃盗罪に定められた処遇に付せられることもあり得るのである。
 こうした併合犯罪における中核性の認定は併合審理に当たる裁判所が犯罪学的知見に基づいて行う。

pencilなお、日本刑法上には、法的に併合罪でありながら、犯罪学的には一罪性が強いために科刑上一罪として扱う場合にも最も重い刑を基準とする旨の規定がある(刑法54条1項)。しかし、「非処罰」の構想によれば、このような場合もやはり犯罪学的に罪も中核的な罪の処遇に付することになるのである。

2012年4月 2日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第31回)

第5章 略

五 ヨーロッパ中世の実像

(1)文明史的逆説
 ヨーロッパ中世(以下、本節ではこの意味で単に「中世」という)に関するミクロな社会史的研究が進展するにつれ、「中世=暗黒」という見方は薄れてきていると思われるが、中世とは野蛮なゲルマン人がギリシャ‐ローマの古典古代文明を破壊した暗黒時代であったとする定式は今日でも暗黙裡に残されているように見える。
 しかし、中世は決して暗黒ではない。それはまずゲルマン民族(ノルマン人も含む)がキリスト教化されたローマの遺産を承継し、独自に運用を開始することを通じてヨーロッパ文明を形成し始めた時代であった。
 こう言えば、ナチス・ドイツの「ゲルマン=アーリヤ民族の優越性」テーゼを支持してしまうことになりそうだが、決してそうではない。ヨーロッパ文明の形成には、ナチスが抹殺の対象とした東方スラブ民族も大いに寄与していることはすでに見たとおりである。
 要するに、中世とはゲルマン人とスラブ人の民族移動を二大契機とするヨーロッパ形成期である。ヨーロッパ文明は「蛮族」によって造られた━。これは文明史の大いなる逆説である。
 実際、12世紀以降になると、学芸の面でもイスラームやビザンツ経由でギリシャ古典文化がヨーロッパに逆輸入され、キリスト教神学を背景としつつ、ルネサンスの先駆け的な学芸の潮流が形成された(12世紀ルネサンス)。その結果、西欧を中心に、大学が各地に設立され始め、東欧でも最古のプラハ大学をはじめ、後に地動説のコペルニクスを輩出するポーランドのクラクフ大学などが設立される。
 同時に、中世とは、以下で見る二つの相即不離の新たな制度、すなわち領主支配制と制度的キリスト教の時代でもあった。

(2)領主支配制
 中世を特徴づけるキーワードは、圧倒的に「封建制」である。たしかに中世は封建制(feudalism)の時代であったが、ここでの「封建制」とはこの訳語の由来となった中国古代の周の氏族的分封制とは異なり、臣下と契約関係で結ばれた領主が自己の所領を排他的に一円支配するという意味で、本来は「領主支配制」と呼ぶべき社会体制のことである。これを端的に言い表す格言が「領主のない土地はない」である。
 この場合、国王も封建領主の第一人者というにすぎず、国王といえども後の時代のように至高の存在ではなく、臣従契約を結んでいない他の領主に対して指揮命令する権限を持たなかった。
 このような領主支配制が中世のモードとなった背景として、元来ゲルマン社会では族長(王)の権限が部族集会に制約されていたため、部族国家を形成した後も国王権限は相対的に弱かったことに加え、バイキングやマジャール人の侵入という難局に当たっても軍事動員力に乏しい国王よりも地方領主のほうが撃退に尽力したために、地方領主の威信が高まったことが大きかった(特にフランス)。
 さらに、地方領主たちは、10世紀末頃からの鉄器農具の普及や三圃式農法などの農業革命の成果を取り入れつつ農村開発を進め、集村化と農奴保有地化とを推進していった。
 ただ、こうした領主支配制が典型的に見られたのはカペー朝フランスの前期であって、カペー朝でも13世紀以降になると中央集権化が進む。
 反対に、イングランドは外来の征服王朝であったノルマン朝以降、王権が強力で、領主支配制といっても王権に強く制約されていたが、強力な王権は13世紀にジョン王のような暴君を生んだことから、領主層が決起し、有名な「マグナ・カルタ」をジョンに承服させた(1215)。
 この憲法文書は、その後の近代的な再解釈によって人権宣言の先駆けのように扱われているが、実際は王権に対する封建領主(及び都市)の特権を保障したものにすぎず、当然にも農奴の権利については一言もされていない。要するに、制定当時のマグナ・カルタはまさに領主支配制の憲法であったのだ。
 イングランドではこうして、フランスとは逆に13世紀以降、領主支配制が強化されていくのである。
 これに対して、ドイツの領主支配制は伝統的な部族制の発展形態(部族太公制)であったし、北欧では相対的に王権が強く領主支配制はあまり発達しなかった。
 東欧では西欧に近くその影響を受けた所では西欧的封建制が形成されたが、ビザンツ帝国の影響が強い所では王権が強力であった。もっとも、先述したように、ロシアでは12世紀後半以降、分領制の時代を迎えるが、これは氏族的分封制に近いもので、西欧封建制とは異質であった。
 このように、中世を特徴づける領主支配制にも、所により時間差、形態差、濃淡差があり、一様でなかったことは否めない。
 一方、中世には領主支配制の例外として自治都市という領域があった。この自治都市には封建領主に対抗して商人層が形成した「自由のための宣誓共同体」という形態を取る自由都市と、封建領主自身が自治の保証の下に計画的に建設した建設都市とがあるが、いずれにせよ自治都市は領主からの自由を護るためにも、内部的には極めて厳格なギルド的規制によって結束を保った。「都市の空気は自由にする」という格言の裏には、こうした規制社会の実態があったのだ。
 これらの自治都市はやがて有名なハンザ同盟のような都市同盟を組み、共同して商業ネットワークを構築し、オランダ・イングランド商人に道を譲る17世紀頃まで栄えた。
 以上の自治都市は主としてドイツ・フランスが中心であったが、ローマ帝国以来ラテン的風土の残る北・中部イタリアでは領主支配制が発達する代わりに中小封建領主自身が商人化し、都市貴族として市政を握る都市共和国が発達を見た。その代表例として、激しい宿敵関係で知られるベネチアとジェノバのほか、ミラノやフィレンツェが著名である。
 これらのイタリア商業都市共和国は、大航海時代の到来によりポルトガルとスペインが相次いで台頭するまで、地中海経由の東方貿易を独占して繁栄した。
 これに対して、東欧・ロシアでは自治都市・都市共和国とも発達しなかったが、政治上の首都をキエフに譲った後、商都となったノヴゴロドは分領制の時代にあって例外的な都市共和国として発展し、15世紀末に台頭するモスクワ公国によって征服併合されるまで、ハンザ同盟の商館が置かれ、その商圏に組み込まれる形で繁栄した。

(3)制度的キリスト教
 中世を特徴づけるもう一つのキーワードはキリスト教であるが、それは中世がキリスト教の制度的な確立期であったからにほかならない。
 ある意味で、中世最大の主役はローマ教皇であった。中世は良くも悪くも「パパ」を中心に回っていたと言って過言でない。
 ローマ教皇の前身はローマ司教であるが、ローマ司教は6世紀頃から使徒ペテロの後継者を称して首位性を主張するようになり、ローマ教皇を頂点とする教会組織が次第に整備されていった。ローマ教会はゲルマン諸民族への布教・改宗に成功し、とりわけフランク王国、続いてドイツ帝国(神聖ローマ帝国)との結びつきを強めた。
 これによって、高位聖職者は国王や諸侯から土地の寄進を受け、自らも封建領主の一種たる聖界諸侯として領主支配制の一翼に身を置くようになった。
 しかし、神聖ローマ帝国では部族太公勢力を抑えるために帝国領内の教会組織を帝国が直接支配し、皇帝が聖職叙任権を握る帝国教会政策を採用したことから、教権の優位性を主張する教皇側と叙任権闘争が発生する。
 この闘争は、帝国内の選帝争いとも絡んで皇帝側が正統教皇に対抗して自己の傀儡教皇を擁立する「対立教皇時代」を作り出したが、12世紀前半のヴォルムス協約(1122)で一応の妥協が成立した。
 その結果、皇帝のドイツ教会への影響力は残されたものの、皇帝が勝手に教皇を廃立することはできなくなり、教皇の威信は高まった。それを強調する「教皇は太陽、皇帝は月」という格言どおり、教皇イノケンティウス3世は公私の様々な問題に絡めてドイツ、フランス、イングランドの国王を相次いで破門にするなど権勢を振るった。
 しかし、皇帝側も巻き返しを図り、12世紀から13世紀にかけて、神聖ローマ皇帝はたびたびイタリア遠征を繰り返して教皇を圧迫したため、北イタリア諸都市には教皇支持派(ゲルフ)と皇帝支持派(ギベリン)の党争が生じた。今日まで存続する地中海北岸の小国モナコは北イタリアの有力都市ジェノバのゲルフ派・グリマルディ家がギベリン派を駆逐して建設した同家を君主とする公国である。
 こうした抗争はあっても、教皇の優位は、十字軍時代を経て14世紀初頭、教皇ボニファティウス8世がフランス国王フィリップ4世に拘束されたアナーニ事件(1303)の頃まで続く。
 以上のようなローマ教皇とローマ教会の制度的確立は、一面では西ローマ帝国滅亡以来、理論上は全教会組織の頂点に立っていた東ローマ(ビザンツ)皇帝の支配から自由になろうとするローマ教皇側の運動の成果でもあった。
 一方、ビザンツ帝国が後援するコンスタンティノポリス総主教を中心とする東方教会側でも次第にローマ教会とは異なる独自の典礼を発展させつつ、スラブ諸民族への布教を進めていった。
 1054年の東西教会分裂は決して突発事ではなかったし、ビザンツ帝国の末期に試みられた東西教会再統合も見込みのない企てであった。東方教会=ギリシャ正教会もすでに独自に確立され、東欧諸国の精神世界を指導していたからである。(第5章了)

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