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2012年3月

2012年3月29日 (木)

天皇の誕生(連載第11回)

第三章 4世紀の倭

(3)畿内加耶系王権

王権の成立
 西日本各地に拡散していった加耶系渡来勢力の中でも、畿内に定住したものがやがて王権を樹立し、この畿内加耶系王権が最も有力化した。
 この王権の成立時期は、ニニギに象徴化される渡来第一世代から最低でも三世代は経過していると見て、4世紀中頃と推定される。従って、いわゆるヤマト王権の成立を3世紀代まで遡らせようとする近年の傾向とは50年から100年のへだたりを生じることになる。
 この王権の王墓群は、三輪山付近に箸墓を含む大墳墓が集中する大和[おおやまと]古墳群とその北側の時代的に後の佐紀楯列[さきたてなみ]古墳群と見られるが、その主要な特徴は加耶系古墳と同じ竪穴式石室であり、たしかに加耶的要素を伴っているのである。
 ただ、最初の王宮の地は三輪山に近い纒向遺跡よりも、南の橿原市付近と見るほうがよいと思われる。というのも、ここには軽[かる]という加羅(加耶と同義)が転訛したと見られる古い地名が残されているほか、この地方を本貫とした軽氏の氏神を祀った軽樹村坐[かろこむらにます]神社も所在するからである。
 この軽の一帯は、後に市(軽市)が開かれるようになり、飛鳥の経済的な中心地となったほか、一定の政治的な儀礼も執り行われる場所でもあったようである。
 そして、私見によれば、軽の地を本貫とした軽氏こそは畿内加耶系王権の王家を担った一族であり、後に示すような経緯から王位を失った後も、臣籍降下されて一貴族として少なくとも飛鳥時代初期までは生き延びた金官加耶系天孫族にほかならないと推定されるのであるが、これについては第六章で改めて考察する。
 ちなみに、軽氏の氏神を祀った軽樹村坐神社は今日ではマイナーな存在となっているが、『延喜式』神名帳では式内大社と格式は高く、往時がしのばれる(ただし、主祭神が応神天皇にすりかわっているのであるが、その経緯・理由についても改めて考察する)。
 こうしてみると、『書紀』に初代・神武天皇が橿原に宮を構えたと記すことも、あながち作為とばかりは言い切れないことになろう。
そうすると、纒向遺跡のほうは聖山・三輪山に関連した一種の宗教都市と見たほうがよさそうである。実際、この遺跡の建築遺構には祭事施設的な性格が指摘されている。
 ところで、この王権の王号と思しきものが考古学的に明かされている。それは、一般に百済王子が西暦369年、倭王に「献上」したものと解釈されている―後述するように、筆者は異論を持つ―石上神宮所蔵の七支刀(鉄剣)銘文に「倭王旨の為めに造った」という一句が刻まれていることである。
 この「旨」について、通説は倭王の名前と解するようであるが、「旨」は「首」にも通ずるまさに首長号とも解し得るもので、畿内加耶系王権の王号は「旨」(もしくは「首」)であったとも考えられる。
 ただ、国号として「ヤマト」を称したかは疑問で、上記銘文でも単に「倭王」となっている。5世紀代に入って南朝宋に遣使したときにも「ヤマト」を名乗った形跡はない。
 正式に国号「ヤマト」が海外史書に現れるのは、『隋書』で「邪靡堆に都す、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬台国なるものこれなり」とあるのが、初例である。
 しかし、このように「ヤマト」国家が隋に遣使した7世紀初頭にはすでに歴史の中の存在であった邪馬台国に絡めて「ヤマト」を号したのは、ほかでもない当時の「ヤマト」朝廷自身であったのであり、邪馬台国とは別勢力であった畿内加耶系王権の自称とは考えにくいのである。

王権の構造
 畿内加耶系王権の構造は、王に権力を集中させる専制君主制的なものではなく、在地勢力の上に加耶系の王家が担がれる氏族連合体的なものであったと推定される。
 実際、『書紀』の神武紀では、神武が在地勢力と戦闘を交えながらも、相手が降伏・服属した限りでは領地を与える「論功行賞」を行う場面が見られるが、これはまさに王権が在地勢力を支持基盤としていたことを示唆している。
 このことは、朝廷の集権体制が高度に進んだ遠く7世紀後半の天武天皇の時代に至ってもなお葛城直[かずらきのあたい]、高市県主[たけちのあがたぬし]、磯城県主[しきのあがたぬし]など、在地勢力の末裔と思しき氏族の存在が確認できることからも裏づけられる。
 このように、畿内加耶系王権は少数派加耶系王族が多数派在地勢力によって神輿のように担がれただけの脆弱な構造を脱し切れなかったことがアキレス腱となった。
 この在地勢力の小首長らも王と同様にそれぞれの本貫地で競い合うように大墳墓の築造を行い、王にはそれを禁止するだけの力はなかったから、畿内は全国でも群を抜く大墳墓密集地帯となったのである。
 ただ、このような本質的に脆弱な王権を支えていたのは軍事力であった。この点、『書紀』では神武の軍事力として大伴氏の先祖・日臣命[ひのおみのみこと](後に改名されて道臣[みちのおみ])に率いられた大来目[おおくめ]軍団が活躍する。
 大来目(大久米)とは、もとは現在の岡山県久米郡出身の武装集団であり、天孫東征勢力が吉備から畿内へ再東征する際に大伴氏に率いられて合流したものと考えられる。
 ちなみに、『書紀』ではニニギの天孫降臨の後、大伴連らの祖・天忍日命[あまのおしひのみこと]と久米直[くめのあたい]らの祖・天津久米命[あまつくめのみこと]の二神が武装してニニギを護衛・先導する場面がある。
 考古学的に見ると、久米郡一帯には高句麗的特徴を伴った方墳・前方後方墳が集中的に分布することから、高句麗系渡来勢力の割拠したところと推定され、もとはこの地方の土豪的存在であろう大伴氏や久米氏も高句麗系渡来人を祖とする氏族であった可能性がある。
 いずれにせよ、大伴氏は畿内王権の軍部を担う軍事氏族として重きを成すようになり、大伴氏の指揮する来目軍団を母体とする軍隊が精鋭の近衛兵的に組織され、脆弱な王権を防衛したものと考えられる。とはいえ、しょせんそれも傭兵部隊の性格を脱し切れないものではあった。

王権の支配領域
 さて、ここまで「畿内」王権と呼んできたが、本来「畿内」と言えば今日の奈良県と京都府南部、大阪府から兵庫県の一部まで含むから、「畿内王権」という言い方は必ずしも正確でない。なぜなら、発足当初の「畿内王権」の支配領域はせいぜい奈良県南・中央部と大阪府の河内地方を併せた程度のものでしかなかったと考えられるからである。
 その河内地方にしても、ニギハヤヒ派の本貫地であって、かれらは一応ニニギ派加耶系王権に臣従はしたものの、あくまでも「一応」であり、事実上この地方はニギハヤヒ派の半独立国のようなものであった。
 その後、4世紀代に領域の拡大がどこまで進んだかを見定めることは難しいが、軍事的遠征事業に不可欠な騎馬軍団の発達は、古墳からの馬具や騎馬戦用武具の出土状況から見て5世紀半ば以降であるため、4世紀頃からの全国制覇などは考え難い。
 ただ、同系の吉備王権とは前述したような共通的出土品の状況から見て、早くから交流があり、一種の連合王国体制を採っていた可能性はある。こうした関係を利用して、瀬戸内海の両沿岸部に対しては早くから一定の支配力を確保していたかもしれない。
 一方、王家ルーツである金官加耶国及びその周辺諸国(いわゆる任那)との交流は、次節で述べるように、糸島半島を征服して海への玄関口を確保した4世紀後葉以降に改めて活発化したものと思われる。ただ、それは加耶諸国を支配下に置いて統制するというようなものではない。少なくとも、いわゆる「任那日本符」の実在を証明し得る考古学的な証拠はこれまでのところ存在していない。
 従って、5世紀代に入って南朝宋に遣使したいわゆる「倭の五王」―後述するように、筆者はこのようなくくり方に異論を持つが―の一人・済が「任那・加羅」まで含めて「使持節都督」(総督)を授号されたのは、宋が朝鮮半島南部地域の実情を正確に把握していなかったことの表れである。
 畿内加耶系王国と加耶諸国、とりわけ金官加耶国との交流は、支配‐服従の関係ではなく、あくまでも王家ルーツとしての尊厳をもって対等に行われたものと考えられる。

2012年3月28日 (水)

天皇の誕生(連載第10回)

第三章 4世紀の倭

(2)加耶人の世紀

加耶人の集団渡来
 前回見た邪馬台国の解体は、朝鮮半島からの相当な規模の渡来の波が発生するチャンスとなった。その渡来の中心となったと考えられるのが、再三述べてきた加耶地方からの移民集団である。
 先述したように、小邦分立状態であったこの地方は構造的に流民を出しやすかったのだが、海外移住先として最も手っ取り早いのが対岸とも言える日本列島であった。
 4世紀代には、これらの加耶系渡来集団による複数の王権樹立が西日本を中心に同時並行的に進んだものと見られる。「神武東征」の結果として形成された畿内王権はその一つであるが、4世紀代には、他にも吉備、丹波(丹後)、日向(宮崎)と、少なくとも四つの有力な加耶系王権が樹立され、並立したものと推定されるのである。
 一方、まとまった王権を樹立するには至らなかったか、小規模な王権を形成しつつ加耶系渡来人が集住したと見られる地域が出雲西部、北陸など日本海沿岸部や瀬戸内海沿岸部にも見られる。
 こうした加耶系王権または地域のうち最も優勢化したのが畿内王権であることは間違いない。それだけにこの王権については論ずべき点が多いので、改めて次節で述べることとし、以下ではそれ以外の主要な加耶系王権または地域を概観してみよう。

吉備加耶系王権
 前章で述べたように、吉備は糸島半島へ渡来してきた金官加耶系集団の第二世代による最初の東征の到達点であったと考えられるところである。
 ここに、加耶系初期古墳の特徴である木槨を持つ楯築古墳が出現したことはすでに述べたが、これ以降、この地域では今日の岡山県総社市を中心に古墳時代の全期間にわたって膨大な数の古墳が築造され、全国でも畿内に継ぐ古墳群を形成している。特に、最大規模の造山[つくりやま]古墳(墳丘長350メートル)、作山[つくりやま]古墳(同286メートル)のような畿内級の大古墳の存在からして、5世紀以降には相当に強力な王権に発展したものと見られる。
 また、後に備中国一宮となる吉備津神社神職は賀夜[かや]国造の子孫であったが、この賀夜氏は中世にも賀陽[かや]氏を名乗って地元豪族としてにらみを利かせた。
 物部氏の家伝『先代旧事本紀』所収の『国造本紀』でも、吉備の中心地・加夜郡はもと加夜国であったとあり、おそらく賀夜氏はこの吉備加耶系王権の王家として君臨した加耶系集団の後裔と考えられる。
 注目すべきは、例の箸墓から埴輪の祖形と見られる吉備系土器が出土したことである。一方、岡山県の前期前方後円墳である都月坂1号墳からは、箸墓から出土した特殊器台と類似した器台が出土している。こうした事実は、吉備王権と畿内王権との間に深い交流があったことを示している。

丹波加耶系王権
 日本海側では、丹後半島に日本海側最大級の古墳群を残した「丹後王国」が樹立された。規模の点でも網野銚子山古墳(墳丘長198メートル)のように日本海側最大級で、相当な実力を持った王権であったと見られる。また、この王権は舟形石棺・木棺の出土でも知られ、海洋国家としても栄えたことがわかる。
 この地域には平成の大合併で消滅するまで、まさに加悦[かや]町が存在し、古墳群もこの町に多く集中していたことから見ても、丹後王国は加耶系王権であったと見られる。
 ちなみに、『丹後国風土記』(逸文)によると、今日でも旧加悦町が含まれた与謝郡の名所旧跡となっている天橋立はイザナギノミコトが天に通うために梯子を作ったが倒れてしまったことから、久志備[くしび](神異)であると思い、久志備の浜と呼んだ。それが後に久志[くし]になったという。
 ここで、久志とは、天孫降臨神話でもニニギの降臨地として登場した久士布流の久士と通ずるところで、こうした伝承はやはり「丹後王国」の加耶出自を物語っている。
 おそらく、丹後加耶系王権は、糸島半島を出発した東征勢力の一部が玄界灘から日本海沿いに丹後半島までたどりつき、定着・形成したものではないだろうか。
 なお、この地域の古墳群は沿岸部の丹後半島に所在することから、「丹後王国」とも呼ばれるわけだが、『記紀』には丹波道主命とか丹波道主王という人物が登場する。『記紀』は大和中心史観に基づいて、この丹波系豪族をも大和朝廷側の系譜に組み入れているが、丹後は和銅六年(713)の地方行政改革まで丹波に含まれていたことから、丹波全域を支配する丹波加耶系王権が4世紀に成立し、この丹波道主[たにはのみちぬし]こそがその王であったとも考えられるところである。

日向加耶系王権
 加耶系渡来勢力は南九州にも足跡を残している。九州全域でも最大規模の300基を超える古墳群である西都原古墳群を残した王権がそれである。
 この古墳群で特徴的なのは前方後円墳の前方部を低くする柄鏡式と古墳に木棺を直葬し、その周囲を粘土で包む粘土槨であるが、いずれも加耶的特徴を持ち、類似の古墳が加耶地方でも発見されている。
 地名から見ても、西都原古墳群を含む地域に日向国児湯郡韓家郷という古地名があるが、「韓家」はカラヤとも読め、加耶の転訛と解する余地がある。
 『書紀』には、日向国の有力豪族として諸県君[もろかたのきみ]が登場する。諸県の名からも、相当に広い支配領域を持った地方王権の首長と考えられる。
 『書紀』における諸県君の初出は景行紀における景行天皇による熊襲征伐譚に付随するような形を取っているため紛らわしいが、諸県君と熊襲とは区別される。
 諸県君は応神紀にも再度登場し、そこでは応神天皇が召す予定であった諸県君牛諸井[うしもろい]の娘・髪長媛を見初めた太子(後の仁徳天皇)に彼女を譲ったという逸話に絡められている。説話風の脚色を剥ぎ取ってみれば、これは畿内王権と諸県君の通婚同盟の成立を示している(その経緯については、第六章で述べられる)。
 この諸県君を首長とする日向加耶系王権も、九州北部へ渡来してきた加耶系勢力が東征ならぬ南征して九州南部に定着し、独自の王権に発展したものと考えられる。
 ちなみに、熊襲はさらに南の襲(曾/贈)と呼ばれた地域(後の大隅国曽於郡)に割拠した先住民族・隼人の一部族と見られる(熊襲と隼人の異同については諸説あるが、立ち入らない)。熊襲は隼人の中でも極めて強力な部族で、最後まで容易にまつろわず、第一章でも触れた720年の隼人大反乱の中心勢力と見られることから、他の隼人勢力とは区別された特殊な名辞が与えられたものであろう。
 注目されるのは、熊襲の人名にアツカヤ、サカヤ、イチフカヤ、トロシカヤなど、決まってカヤが付くことである。熊襲とはカヤ族なのである。このカヤが加耶と同一かどうかは即断できないが、同一とすれば熊襲の中でも少なくとも族長層は九州南端に定着した加耶人と先住隼人の混血であったと見る余地もある。

その他の加耶人集住地域
 以上のような大古墳群を築造する実力を持つ王権に発展しなかったが、加耶人が一般住民として、もしくは小王権を形成して集住したと見られる地域がいくつか確認できる。
 その代表的な地域は九州北部の糸島半島である。ここはまさにニニギに象徴される金官加耶系渡来集団の最初の上陸地であったわけだが、この付近に畿内に匹敵するような大古墳群が見られないことは前にも指摘した。
 とはいえ、糸島半島付近には加耶的特徴を伴った40基ほどの前方後円墳が確認され、特に4世紀後半と見られる12基の中には墳丘長100メートル級のものも含まれているという事実をどう見るかは一つの問題である。
 思うに東征に参加せず、糸島に残留した集団が、邪馬台国衰亡後の4世紀中頃、ここに一定以上の実力を持つ王権を形成した可能性はあるが、発展を見なかったことが、終末期にまで及ぶ大古墳群を残さなかった事実に示唆されている。その理由は、私見によると畿内王権の動向と深く関わるので、改めて後述することにしたい。
 その他、長門から出雲西部、さらに北陸から内陸の近江にかけての地域には、アラとかアヤ、あるいはそれが転訛したアナといった地名が数多く見られる。これらは、金官加耶国同様に加耶地方南部の小邦で、今日の慶尚南道咸安[ハマン]にあった安羅(安耶)国に由来すると考えられる地名である。従って、これらの地名は安羅国からの集団渡来の痕跡と解し得る。
 ただ、『書紀』の記述などからすると、この安羅国が台頭してくるのは金官加耶国が衰退した後の6世紀代に入ってからと見られ、安羅人の集団渡来時期は4世紀よりも遅いのではないかとも考えられることから、4世紀を扱う本章では深入りしないことにしたい。

2012年3月26日 (月)

天皇の誕生(連載第9回)

第三章 4世紀の倭

4世紀の倭の情報は中国の史書から消え、「謎の4世紀」とも言われる。しかし、朝鮮史料の『三国史記』や『広開土王陵碑文』などから、この時期の倭が朝鮮三国と活発な外交的・軍事的駆け引きを繰り広げる様子が窺える。この「倭」は果たして畿内の倭なのか、それともまったく別の勢力なのか。

(1)邪馬台国の解体

「新皇国史観」への警鐘
 「謎の4世紀」を解明するためには、実は3世紀の倭の中心であった邪馬台国の問題に前提的に取り組む必要がある。
 邪馬台国問題と言えば、その所在地論争、すなわち畿内か九州北部かというあまりにも有名な論争にぶつかるが、プロローグでも述べたように、今日この論争には“決着”がつきつつある。
 その決め手が、箸墓の年代論である。これもプロローグで触れたとおり、邪馬台国女王卑弥呼陵であるとされる箸墓の年代が最新の放射性炭素年代測定で邪馬台国と同時期の3世紀半ばと判定されたから、邪馬台国は畿内に所在したに違いないというのである。
 しかし、この議論のおかしさは、墓誌銘などの客観証拠もないのに、箸墓=卑弥呼陵と結論を先取りしたうえで、後知恵的に箸墓の年代論をあてはめて、畿内説を正当化しようとするところにある。
 このような非科学的な論法の根底には、何としても邪馬台国を天皇王朝史に組み入れて、邪馬台国→ヤマト王権→ヤマト朝廷→天皇王朝という直線的発展史観を考古学で跡づけようとする「新皇国史観」の衝動が伏在している。
 これは戦前の皇国史観が『記紀』の叙述によりかかりすぎていたことを“反省”し、考古学によって“科学的”に根拠づけし直そうとするものとも考えられる。そのせいか、今日、邪馬台国畿内説は歴史家より以上に考古学者によって強力に宣伝されるようになっている。
 しかし、決め手だとされる炭素年代測定についても、「今日の炭素年代測定法は飛躍的に精度が向上したので、その結論に誤差はほとんどない」というような断定は危険である。
 最新の年代測定は、箸墓出土の布留0式土器と呼ばれる古墳時代初期の土器の付着炭化物を素材として行われているが、本来古墳の年代測定は全出土品を精査したうえで、それらの文化的な特徴や、墳墓で最も肝心な墓制の形式も含めて総合的に判定することが科学的な方法であり、一部の出土品だけで断定するのは危険である。
 この点、箸墓は孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫命の墓として宮内庁が管理し、発掘が許されていない。このように、宮内庁が天皇陵やそれに準ずる皇族級墳墓と治定した古墳については発掘調査を許さないという政府の施策は、憲法23条で保障された学問の自由の侵害として非難されなければならないが、それだけに未発掘古墳の年代測定には慎重さを要するのである。
 従来から、全般に古墳時代の始まりを早く取ろうとする傾向があり、箸墓も3世紀半ば頃と見るのが有力であったが、そこに「国の古さを誇る」といった一種のナショナリズム(考古ナショナリズム)の意識が介在しているとすれば、それは学問より政治に接近していくことになる。

九州北部説の正当性
 邪馬台国は何といっても中国の史書『魏志』に現れるクニであるから、そこに記されている民族誌的及び地誌的叙述と考古学的証拠との照合を通じて所在地を特定していくのが正攻法である。本連載は邪馬台国論争を直接の主題とするものではないので、詳論する余裕はないが、以下要点だけを指摘しておきたい。
 まず『魏志』の民族誌的叙述の中でも重要なポイントは兵器や産物に関する叙述、特に鉄器と絹である。この点、3世紀の遺跡を比較すると、鉄器も絹も九州北部からの出土が圧倒的という。
 次に、民族誌的な叙述としては、「棺はあるが、槨はなく、土を封じて塚をつくる」という墓制に関する叙述が重要である。この条件にあてはまるのは九州北部の墓制であり、畿内で箸墓と同時期の初期古墳には槨がある。特に、箸墓の近くにある最古級の前方後円墳、ホケノ山古墳が木槨墓であることは箸墓の構造も同様のものであることを推測させ、『魏志』の記述とは相容れない。
 さらに、地誌的叙述の中では、邪馬台国に統属する小邦として記された約30の国名リストも改めて注目に値する。これは従来、中国人による倭の地名の転写間違いなどもあって、あまり当てにならないとも言われてきたが、九州北部の地名と照合してみる価値はなおある。
 例えば、斯馬[しま]国=志摩(糸島の志摩)、対蘇[たいそ]国=鳥栖、支惟[きい]国=基、為悟国=伊賀(または伊賀屋)、巴利[はり]国=原(前原、中原等々)、烏奴[おな]国=大野、邪馬国=八女、呼邑国[こゆう]国=木屋、都支[とき]国=多久、己(乙)百支[いはき]国=岩崎(?)などなど。
 地名辞典を利用して古地名を洗い出せば、より厳密な照合ができるかもしれない。これはひとつ興味と暇のある方にお委ねしたい。
 ところで、畿内説が『魏志』に記された魏の皇帝から卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」に該当する考古学的証拠として提示してきた三角縁神獣鏡は元来、呉・東晋時代の中国鏡であって(ただし、中国での出土例はない)、北方系の魏鏡とは異なるので、これが畿内の古墳から多数出土するとしても、邪馬台国の直接の手がかりとはならない。むしろ、魏・西晋時代の中国鏡である方格規矩鏡などは、3世紀代の九州北部の遺跡から出土するものが大半であり、これこそが「銅鏡百枚」に該当する可能性が高い。
 さて、こうして邪馬台国九州北部説を正当とするにしても、その具体的な場所の同定については九州北部説の中でさらに説が分かれるのが現状である。
 これについても詳論する余裕はないが、筆者自身はヤマの音韻から八女[やめ]を想定する。ちなみに、八女の地名由来について、『書紀』の景行紀は18年7月条で、天皇が熊襲征伐のため九州に親征し、筑紫を巡行中、地元の豪族・水沼県主[みぬまのあがたぬし]から「八女津姫という女神が常に山の中におられる」との説明を受け、八女国の名が起こったと記している。この記述だけでは決め手とはならないが、八女の地に女神がいるというのは、「女王」の暗喩とも読めなくない。
 もっとも、『書紀』自身は、前述のように、神功皇后を卑弥呼に比定していたわけで、編者らに八女津姫=卑弥呼という認識はなかったと思われるが、八女付近には「女王」に関する伝承が後世まで残されていたことが『書紀』の叙述に反映された可能性はある。

邪馬台国の構造
 ここで考えてみたいのは、邪馬台国とはどのような構造を持ったクニであったのだろうかということである。
 一般的なイメージとしては、女王が統率するまとまりを持った一つのクニということになろうが、『魏志』をよく読み直してみると、決してそうではない。
 そもそも邪馬台国の起こりとして、倭国では長く内乱が続いた(『後漢書』によると、桓帝[在位147~167]と霊帝[在位168~188]の治世中という)ことから、諸国が卑弥呼を共立して平和を維持したとされる。要するに、邪馬台国とは「鬼道につかえ、よく衆をまどわせる」というシャーマン卑弥呼の宗教的なカリスマ性に依存した暫定的な平和条約体制であって、完成した世襲王朝ではなかったのである。
 こうしたクニの由来を反映して、邪馬台国は筆頭国・伊都国以下、約30カ国に上る小邦の連盟体という構成で成り立っている一種の連邦国家であった。
 注目されるのは、邪馬台国に属する小邦リストの中に「邪馬国」というのが見えることである。一般的には、邪馬台国と邪馬国は区別して、この邪馬国も邪馬台国に属する小邦の一つと解釈するようであるが、むしろ邪馬台国とはこの邪馬国を土とする連邦国家とも理解できるのである。従って、前回邪馬台国の所在地として八女を挙げたことの意味も、女王卑弥呼が所在する邪馬国(八女国?)の所在地として理解するのが本来正確である。
 実際、卑弥呼の役割は精神的な指導者としてのそれにとどまっており、現実の政治外交を主導していたのは、「郡使の往来常に駐まる所」にして、諸国の検察を行う「一大率」が置かれたという糸島半島の伊都国であった。この伊都国自身にも世襲の王がいたと記されるが、その伊都国王が邪馬台国の「一大率」を兼職していた可能性もあるだろう。
 ちなみに『魏志』は邪馬台国時代の伊都国の人口について「千余戸」としており、奴国を「二万余戸」としているのと比べても少なすぎるが、『魏志』が参照したとされる先行書『魏略』逸文では伊都国の人口を「万余戸」としているので、『魏志』の誤記の可能性が高く、伊都国は邪馬台国(連邦)全体で七万余戸とされる人口の相当部分を占める大国であったと考えられる。
 このように、大国・伊都国が主宰し、女王の所在する邪馬国を(精神的な)土台とする連邦国家というのが、邪馬台国の実体であったと考えられるのである。

解体の時期・要因
 さて、ここでようやく本節の主題である邪馬台国の解体にたどりつく。ただ、普通、邪馬台国論争では「解体」という問題は扱わない。それは、邪馬台国をヤマト王朝史に組み込む畿内説はもちろん、九州説でも邪馬台国が畿内にそのまま東遷してヤマト王権になったとか、邪馬台(壱)国がいわゆる九州王朝の母体となった(九州王朝説)というように、邪馬台国の存続を前提とした論を展開することが一般だからである。
 しかし、邪馬台国の存続を確実に保証するような史料は存在しない。『魏志』によると、卑弥呼の死去後、男王を立てたがおさまらず、再び倭国は内乱に陥るが、卑弥呼の親類で13歳の少女・台与(とよ)を立てたところ、平和を回復したという。
 しかし、台与は魏の皇帝から告諭されたのに対し、答礼ため遣使したとされるのものの、『魏志』はその年代を記していない。その後、魏自身も滅亡し(265)、王朝が西晋に代わる。『晋書』(7世紀編纂)では、西晋成立年の265年に倭王の入貢が記録されており、これが台与の遣使かとも思われるが、この遣使を最後に倭は中国側の史書から姿を消し、次に現れるのは、160年近くも後に有名な「倭の五王」の筆頭・讃が南朝東晋・宋に遣使した時のことなのである。
 この長い中国外交上のブランク―謎の4世紀―をどう見るかであるが、やはりその間に邪馬台国は解体したものと理解したい。その時期を正確に特定することは至難であるが、一応、倭の消息が途絶える3世紀後葉と推定しておいてよいであろう。
 解体の要因は、まさに先に述べた邪馬台国の「構造」そのものの中にある。つまり元来、卑弥呼共立体制としての邪馬台国は暫定的な平和維持の体制にすぎず、それはもっぱら卑弥呼という宗教的なカリスマの統合力に依存していた以上、彼女の死をもって終焉する運命にあったのである。
 案の定、彼女の死後、男王の下で再び内乱が勃発したが、これを止揚すべく言わば卑弥呼2世として共立された台与はとうてい卑弥呼のカリスマ性に及ばなかったのであろう。おそらく、彼女の在位中に邪馬台国はなし崩しに解体してしまったのではないだろうか。
 前章で見たニニギやニギハヤヒら天孫族として形象化された集団が加耶諸国から渡来してきたのは、こうして3世紀の倭の中心であった邪馬台国が解体して間もない頃のことであったと考えられる。

2012年3月22日 (木)

犯罪と非処罰(連載第5回)

4 法定原則

pencil「ベッカリーア三原則」の第一は罪刑法定主義であった。「犯罪→刑罰」図式の下ではまさに犯罪と刑罰との対応関係が法律で明確に定められていなければならないとする法定原則が、刑罰制度の恣意的な運用を防止する最低限の担保となる。
 このような法定原則は「非処罰」の構想の下でも基本的に妥当する。すなわち、犯罪と処遇との対応関係は法律で明確に定められなければならない。このことは法治主義の一般原則からしても当然であるし、「処遇」といえども義務付けを伴う以上、対象者の権利を制限する性質を免れないからでもある。
 例えば傷害罪であれば、「人の身体を傷害した者は、第二種矯正処遇又は保護観察に付する。」といった具合である(「第二種矯正処遇」や「保護観察」の意味については後述)。

pencilところで、罪刑法定主義というとき、犯罪と刑罰との対応関係を定める法律は一般法(一般刑法)にとどまらず、特別法(特別刑法)を含んでいる。そのために、現代国家は一般刑法に加えて無数の特別刑法を抱えるようになっており、一国における刑罰条項の精確な総数を誰も数え上げることができないほどである。
 こうした刑罰の増殖・インフレ現象は一般市民に犯罪と刑罰との対応関係を見えにくくさせ、ひいては犯罪の防止にも逆効果となっているのである。
 そこで「非処罰」の下における法定原則にあっては、犯罪と処遇との対応関係を何よりも一般法で定めることが目指される。
 このことは、もちろん特別法の存在を一切許容しないという趣旨ではなく、交通犯罪・薬物犯罪・組織犯罪といった一般法では律し切れない特殊な犯罪への対応を定める特別法の存在は排除しない。しかし、それらは必要最小限にとどめなければならない。
 この点で特に問題なのは、軽犯罪法や迷惑行為防止条例のように多数の瑣末な法益侵害行為を犯罪として処罰対象とする特別法の存在である。
 こうした特別法はまさに刑罰の増殖・インフレ現象の象徴であると同時に、これらの罰条がしばしば裏に政治弾圧の意図を隠した検挙の口実として利用される恐れがつきまとう点でも不当なものである。
 瑣末な法益侵害行為については原則としてこれを「非犯罪化」しつつ、ペナルティーを科すに値するいくつかの行為に限って行政罰など刑罰以外の制裁の対象とする「非刑罰化」の方向が目指されなければならない。

pencilさて、犯罪と処遇との対応関係は原則として一般法で定められなければならないというとき、かかる一般法は「犯罪→処遇」定式の全体を包括する統合法、すなわち「犯罪法典」として編纂されるのでなければならない。
 具体的に言えば、かかる犯罪法典は日本の現行刑事法体系における刑法、刑事訴訟法に刑事収容施設法、さらには更生保護法の一部までカバーするような広範な内容を持つことになるのである。
 このような統合法であることによって、一般市民も「犯罪→処遇」定式の手続き的な流れを一覧的に把握できるようになる。法定原則の究極的な意義は、このように犯罪と処遇との対応関係が動態的に事前告知されるところにこそあるのである。

2012年3月19日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第30回)

第5章 略

四 ビザンツ帝国の盛衰

(1)ビザンツ帝国の独自性
 5世紀後半の西ローマ帝国滅亡後も存続した東ローマ帝国は、ユスティニアヌス帝による統一ローマ再興の夢が潰えた後、7世紀のヘラクレイオス帝に始まるヘラクレイオス朝の頃からギリシャ的性格を色濃くし、まさにビザンツ帝国と呼ばれるにふさわしい独自性を強めていく。
 そのような独自性を持ったビザンツ帝国としての最盛期は9世紀後半から11世紀半ばすぎにかけてのマケドニア朝の時代で、この時代には領土も再拡張され、東はティグリス・ユーフラテス河から西はドナウ河に及んだのだった。
 ただ、最盛期には広大なオリエント領土を保有したビザンツ帝国は地政学的・文化的にはヨーロッパ外の存在であった。それでも、帝国は東方のギリシャ系キリスト教大国としてヨーロッパの形成に少なからぬ関わりを持ち、とりわけ東欧・ロシアの形成には不可欠の役割を果たした。また、通商関係を持ったイスラーム経由で古典古代文化を西欧へ送り届けたことは、西欧近代の精神形成にとって決定的エポックとなったルネサンスを準備した。  
 そのため、ビザンツ帝国を「ヨーロッパの形成」に絡めて取り扱うことには意義があるのである。
 さて、ビザンツ帝国の独自性とは、すでに示唆したように、ギリシャ系キリスト教国家という点にあった。帝国は何よりもギリシャ正教の創始者・後援者であった。そして、そうした宗教的土台の上にオリエント風の皇帝至上制がそびえ立っていた。皇帝=教皇ではなかったにせよ、西に現れた神聖ローマ帝国とは全く異なり、教会の上に皇帝が立っていたのだ。
 こうした皇帝の超越的立場は統一ローマ時代の末期に導入されたドミナートゥス(専制君主政)という統治スタイルや、キリスト教公認後に現れた「神に護られ、神と融け合う皇帝」(神寵帝)といった理念を継承・発展させたものとも言える。
 しかし、統一ローマ時代の帝政と異なるのは、女帝(単独女帝)を輩出したことである。統一ローマでも暴君ネロの母アグリッピナや少年皇帝へリオガバルスの母ユリア・ソエミアスのように、皇帝の母という立場で後見的に政権を執る女性は存在したが、女帝は全時代を通じて一人も現れなかった。
 これに対して、ビザンツ帝国ではイサウリア朝末期のエイレーネ女帝を初例に、マケドニア朝末期にもゾエとテオドラ姉妹の共同女帝(テオドラは後に単独女帝)という珍しい事例も生んだ。
 いずれの女帝も例外的で短期間の登位ではあったが、ここには男権支配的気風の強かったラテン系ローマとは異なる権力観が垣間見える。

(2)領土縮小と大シスマ
 7世紀以降のビザンツ帝国史は、マケドニア朝時代の領土拡張にもかかわらず、総体として見れば、領土縮小の歴史であった。
 まず7世紀前半、伸張してきたアラブ・イスラーム勢力によってシリア、エジプトという枢要なオリエント領土を奪われる。こうした結果を招いたのは、単にイスラーム勢力の軍事力の強大さのゆえばかりでなく、宗教的な事情もあった。
 すなわち、この地域では正統派の三位一体説に反してキリストの神性と人間性とは一つの本質であると主張する異端的な単性説が盛んであったため、しばしばビザンツ当局の弾圧を受けていたことから、住民たちが宗教的に寛容な新来のイスラーム勢力になびいていったのである。
 しかし、経済的にはかねて金山が多く、ビザンツにとっての「ドル箱」であったシリア、エジプトの喪失は深刻な経済危機を招くとともに、西地中海の覇権を喪失する結果ともなった。
 一つにはこうしたイスラーム勢力への対抗上、より実際的にはユスティニアヌス帝時代から地主として政治的にも増長していた修道士・修道院勢力への抑圧策として、8世紀のイサウリア朝は偶像崇拝を忌避するイスラーム的発想に立って、本来キリスト教ではタブー視しない聖像崇拝を禁止する政策を強制した。この結果、ローマ教会との関係も悪化する。
 後に政策が撤回されても、次第にフランク王国・神聖ローマ帝国との結びつきを深めるローマ教皇との関係修復はままならず、1054年にはついにコンスタンティノポリス総主教はローマ教皇との相互破門の形で断絶し―形式上相互破門自体は遠く1965年に解消されたが―、今日まで続く東西両教会の分裂(大シスマ)の契機となった。
 この分裂は南イタリアに保有していたビザンツ帝国領の維持を困難なものとし、折から南イタリアに来寇していたノルマン人騎士集団のビザンツ領攻略をローマ教皇に後押しさせる結果となった。

(3)十字軍と帝国転覆
 イスラーム勢力によるビザンツ領土への攻勢はとどまることなく、11世紀後半には台頭してきたセルジューク・トルコによって小アジア領土の大半を占領された。前章でも触れたように、この衝撃が時の皇帝アレクシオス1世をしてローマ教皇ウルバヌス2世への救援要請に走らせたのである。
 しかし、この時ビザンツ側が期待したのは傭兵軍団の派遣であって、十字軍のような西欧独自の大軍ではなかった。アレクシオスは第一回十字軍に対して臣従の礼を要求し、十字軍が奪回した領土のビザンツへの帰属を主張した。十字軍側は反発し、ビザンツ側も途中で手を引いたため、以後十字軍は西欧独自の運動となる。
 このことはビザンツ側に高くついた。1204年には、十字軍運動をビジネス・チャンスとして利用しようとする商業共和国ベネチアが糸を引く第4回十字軍によって首都コンスタンティノポリスが占領され、ビザンツ帝国は転覆された。代わってラテン帝国が樹立され、以後ビザンツは60年近く亡国の状態に置かれてしまう。
 ところで、コムネノス朝を開いたアレクシオス1世が属したコムネノス家はマケドニア朝期に現れた小アジアに大所領を持つ有力な軍事貴族の一つであった。そうした出自を持つコムネノス朝は軍事貴族の連合体制でもあった。
 それを象徴するのが、貴族に対して軍事奉仕の代償として一代限りで封土を割り当てるプロノイア制の導入である。これはオスマン帝国のティマール制に類似し、西欧的な封建制とは異質のものであるが、結果として帝国の半封建化は免れなかった。
 12世紀末以降、帝国は封建的な分裂を深め、セルビアやマケドニア朝以来版図に収めていたブルガリアも独立していった。第4回十字軍による帝国転覆はこのような状況の下で起きたことであった。

(4)復旧から滅亡まで
 帝国転覆後も、ビザンツ亡命勢力はいくつかの地方政権に分かれてラテン帝国に対する帝国を続けた。その中でニケーア帝国が優勢化し、ラテン帝国の早期衰退に乗じて1261年、コンスタンティノポリスの奪回に成功、帝国の復旧を果たした。
 以後、レジスタンスと帝国復旧に功績のあったパラエオロゴス家が帝位を担うが、この先15世紀半ばの滅亡までの約200年間は帝国終焉へ向けた長いカウントダウンの時代でもあった。
 パラエオロゴス朝の帝国再建の努力にもかかわらず、十字軍による転覆・亡国のダメージは取り返しがつかないほど大きかった。商業も帝国復旧を支援したジェノバなどイタリア商業都市に掌握されていた。
 やがて14世紀末にはすでにトルコのものとなって久しかった小アジアを足場にオスマン朝が台頭し、攻勢を強めてきた。しかし、前章でも触れたように、ティムールがオスマン・トルコを討って一時その勢いをそいだおかげで、ビザンツの滅亡はあと半世紀猶予されることとなった。
 この間、ビザンツ側はローマ教会との和解・再統合を試み、西欧諸国の支援を期待するが、西欧側にはもはやビザンツ支援の意欲は見られなかった。
 オスマン朝に強い指導力を持つメフメット2世が現れると、財政難からわずかな傭兵に頼るばかりとなっていたビザンツ帝国の命脈は尽きたのだった(1453)。

2012年3月16日 (金)

犯罪と非処罰(連載第4回)

3 責任能力概念の揚棄

pencil日本刑法上、犯行当時心神喪失の状態にあった者は無罪とされる(刑法39条1項)。このような「心神喪失者=無罪」という定式は「犯罪→刑罰」図式の重大な例外をなすものであるが、この例外規定はまさしく「犯罪→刑罰」図式の所産である。
 なぜなら「社会無罪説」に立つこの図式にあっては、犯罪の責任主体をあげて個人とする以上、その肝心な個人が心神喪失状態にあり、責任主体としての適格性を欠いていたならば、そもそも刑罰を科し得ないことになるからである。
 そうすると、この場合、個人も無罪・社会も無罪ということになり、犯罪の責任主体は誰一人いなくなってしまう。

pencilこのような“野放し”に対しては当然にも世論の批判が向けられることから、無罪となった心神喪失者に対しては、裁判所の決定により強制的に入院を含む精神医療を受けさせつつ、司法的な観察下に置く医療観察処分という制度でフォローすることになっている。
 この処分は過去の犯罪行為に対する反作用としての刑罰ではなく、過去の犯罪行為を前提としながらも将来の再犯の危険を除去するための保安処分の性格を持つものであって、その恣意的な運用の恐れが指摘され、批判も根強い。
 しかし、同種の制度は海外でも珍しくない。それらはいずれも「犯罪→刑罰」図式を維持しながら、個人が犯罪の責任主体たり得ない場合には社会が一定の責任を負担しようとする意図を含んでいる点では、「社会有罪説」に歩を進めようとする萌芽とみることもできる。
 それにしても、保安処分の目的は保安=社会防衛というところに力点が置かれるため、犯罪を犯した者の矯正・更生の目的は二次的なものに後退しやすい。そのことから、恣意的な運用の恐れも生じてくるわけである。

pencilこうしたジレンマを克服するためには、ここでも発想の転換が必要となる。すなわち、あの「心神喪失者=無罪」という定式を見直すことである。
 この定式の論理的前提となっているのは、「責任能力」という概念である。「責任能力」とは刑事責任を負い得る能力、すなわち事理弁識能力及び行動制御能力を指し(とりわけ前者)、心神喪失とはかかる能力を欠いた無能力の状態とみなされている。
 ここで事理弁識能力とは要するに理性の働きのことであるから、「責任能力」概念は理性/狂気というデカルトに始まる近代合理主義の二分法的思考の所産の一つであることは明白である。
 しかし理性の喪失=狂気=無能力という発想は、精神疾患者に対する差別的視線に根差している。それは精神疾患者を無能力者と決めつけているのである。
 だからといって、精神疾患者にも常に「責任能力」を認めて、当然に処罰の対象とするのは、あの「犯罪→刑罰」図式をいっそう徹底していく必罰主義的な反動である。この点では、「心神喪失者」を罪に問わないという取扱いは差別的であると同時に、「病者を鞭打たない」という人道主義的な配慮の一面をも含んでいることを見落としてはならないだろう。

pencil「非処罰」の構想にあっては、「責任能力」概念を全否定するのでなく、これを弁証法的に揚棄することによって犯行当時精神疾患に犯されていた者に対しても、それ相応の処遇を与えることが目指されるのである。
 この点、「犯罪→処遇」定式の下では、犯罪を犯した個人の責任は将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任であった。このように考えるならば、犯行当時精神疾患に侵されていた者であっても、その疾患を治療・克服し更生を果たすべき責任を負うことは十分に可能である。
 ただし、こうした者に対する処遇は精神医療を組み込んだ治療的な処遇でなければならないが、これは社会防衛目的が優先される保安処分とも異なり、矯正と更生を目指す特別な処遇にほかならない。この限りにおいて、「責任能力」概念は否定でなく揚棄され、処遇の内容の問題に解消されていくと言えるだろう。

pencilもっとも、重篤な精神疾患(または重度の知的障碍)のために裁判に対応する訴訟能力を欠いている者はそもそも不起訴とするほかはない。このような場合、不起訴とされた者に必要なのは、適切な医療と福祉であるから、精神保健福祉上の対応が講じられなければならない。

2012年3月15日 (木)

犯罪と非処罰(連載第3回)

2 社会は犯罪に対して責任を負わねばならない

pencil犯罪という負の社会現象に対して、社会はどのような責任を負うべきか━。
 実のところ、「犯罪→刑罰」図式の下ではこうした問い自体が無意味なものとなる。なぜなら、この図式の下で犯罪に対して責任を負うべきは犯罪者個人であることに疑いはないからである。すなわち、社会は常に無罪なのだ。言わば「社会無罪説」である。

pencil教育刑論はこうした「社会無罪説」をいくぶんか修正しようと努めてきた。教育刑論は犯罪の究極的要因をその時代の社会構造ないし社会環境に求めつつ、そうした個人にとって抗い難い社会的諸条件に制約されて犯罪に走った者に対しては矯正と更生のための手段として刑罰を科する一方で、犯罪の温床を作った社会の歪みを是正することにも目配りをする。
 このような教育刑論の方向性は科学的であるが、教育刑論といえどもあの「犯罪→刑罰」図式に係留されている限り、「犯罪者に甘い」「犯罪を社会のせいにしている」云々といった論難に抗し切れないであろう。

pencilここでも大胆な発想の転換が必要である。犯罪という反社会的な事象に対して、社会は有罪である(社会有罪説)。それにしても、社会はいかなる意味で犯罪に対して有罪なのか。
 先に、犯罪とは社会的個人の反社会的逸脱行動であると定義した。ここで社会的個人とは、社会的動物としての人間個体のことである。逆に言えば、人間は社会内においてのみ個別化できる動物である(マルクス)。つまり、社会と全く無関係に存在し得る人間個体=個人はあり得ないのである。なぜなら、そもそも人間的本質とは社会的諸関係(構造)の総体にほかならないからである(マルクス)。
 とすると、個人の行動にはそうした社会的諸関係が映し出されているはずである。とりわけ犯罪行為は社会的諸関係の歪みを症候的に映し出す。そうした意味で犯罪とは比ゆ的に社会体の疾患であると言えるのである。別の言い方をすれば、社会は犯罪に温床を提供し、犯罪を誘発したことに対して「有罪」なのである。
 このように定式化することは、犯罪を実行した者の責任を抹消してしまうことを全然意味しない。犯罪を実行した個人も自らあえてそうした誤った行動選択をしたことに対して無答責ではあり得ない。
 この関係をより標語的に表現するならば、「手を下したのは個人、背中を押したのは社会」ということになるだろう。

pencilこのような個人と社会との相互責任連関の中で、犯罪の実行者(及び共犯者)たる個人が負うべき責任はもはや刑罰の強制という形では現れず、矯正・更生のための処遇の賦課として現れるのである。
 この点に関して、自ら犯した犯罪行為に対する応報としての刑罰を強調する応報刑論は、犯罪者に刑罰を科することこそ、自由なる個人の責任主体性を尊重する仕方なのだと論ずるが、実のところそうした社会から完全に遊離した観念的な個人としての責任主体を措定することによって、かえって“主体”を「受刑者」という受動的な地位に追い込む矛盾を来たしているのである。
 これに対して、「非処罰」における責任は刑罰のように過去の犯罪行為に対する反作用として強制される反動的な責任ではなく、過去の犯罪行為を前提としながらも、将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任である。
 他方、社会が負うべき責任とは、社会に内在する犯罪の誘発要因を除去するとともに、適切な施策と制度とを通じて犯罪を犯した個人を矯正し、更生させる責任である(そのための物質的裏付けとして、当然相応な財政支出の責任も果たさなければならない)。
 「非処罰」とは決して犯罪の無責任な放置ではないどころか、社会が自らの責任を果たすことを意味するゆえんである。

2012年3月13日 (火)

天皇の誕生(連載第8回)

第二章 「神武東征」の新解釈

(5)「神武天皇」の分割

東征勢力の首領
 ここで、「神武天皇」とは何者であるのかという初めの問いに戻ってみよう。
 『記紀』は「神武天皇」を東征からヤマト征服、王朝樹立までの一連のプロセスの主人公として統一し、英雄物語の体裁を作り出しているが、これまでの検討から明らかなように、東征は一人の英雄によって完遂された征服事業ではあり得ない。
 それは第一に、4世紀前半に金官加耶国から糸島半島へ移住してきた勢力の次世代による東方への再移住として始まった。この東征勢力は、前回見たように、まずは吉備へ入植し、その一部はそこに定住、後に吉備王権とも称される有力な地域王権を作り出すことになる。
 このような事業の統率者としての「神武」のような人物は、たしかに実在したであろう。しかし、彼は「天皇」などではあり得ないことはもちろん、王ですらなかったであろう。彼は―金官加耶王族であった可能性はあるが―せいぜい移住集団の首領にすぎなかった。

再東征勢力の首領
 こうして、いったん吉備に定着した勢力の中からさらに東方へ移住しようとするグループが現れた。このような再東征集団の首領としての「神武」のような人物が実在したことも想定できる。
 この再東征集団は畿内を目指して上陸したが、在地勢力の激しい抵抗に遭う。『書紀』が神武紀の中で力を込めて描いているように、神武はナガスネの他にも、随所で様々な在地勢力に遭遇し、戦闘を強いられている。
 『記紀』ではこれらの敵勢力を神武がすべて片付けて、見事初代の「天皇」として即位するハッピーエンドになっているが、再東征勢力の首領がこうした多数の在地勢力の征服・糾合をすべて自分の代で完了することができたとは考えにくい。
 ただ、この再東征勢力の首領としての「神武」がどうにか畿内侵入・定着に成功した可能性はある。神武紀では、神武が「畝傍山の東南の橿原の地は国の真中である」と詔して、ここに宮を定めたとあるが、橿原は「国の真中」というよりは、奈良盆地でも南部のやや辺境の地であるから、後発の外来集団は、在地勢力に押されてこのような場所取りしかできなかったと読むことさえできる。
 とはいえ、橿原とその近傍の高市郡は、後に飛鳥の地として畿内の政治的な中心地となることからすると、この地に陣取った加耶系集団がやがて王権樹立の主役となったことは認められるであろう。

畿内王権の開祖
 このように、一応王権と呼び得るものを樹立したのは、おそらく先の再東征勢力首領の次世代くらいの人物であり、彼がまさに神武紀にあるように周辺地域の在地勢力を征服・糾合し、王権を樹立した立役者となったものと考えられる。
 このような畿内王権を初めて樹立した開祖・初代国王としての「神武」も実在したとみなしてよいであろう。あるいは、ニギハヤヒ派のような同族の先着勢力を服属させたのも、彼の代のことであったかもしれない。
 とはいえ、彼の支配領域はせいぜいヤマトと河内―河内はニギハヤヒ派がなお半独立状態であった可能性がある―を併せたぐらいのところで、それはまだ「ヤマト王権」と呼び得るようなものではなく、地域的な小王権にすぎなかったであろう。
 以上の検討からすると、ニニギに象徴される渡来第一世代から東征・再東征・王権樹立に至るまでおよそ四世代かかっており、「神武天皇」をニニギの曾孫とする『記紀』の設定にも一定の意味―もちろん、各世代の「神武」がすべて直系の血統関係にあったとは限らない―があるように思われる。
 とすれば、このような畿内加耶系王権の樹立は、どれほど早く見ても4世紀中頃以前に遡ることはない考えるべきである。

神武天皇とは、金官加耶国から九州北部へ移住してきた渡来集団が、さらに東方に移住して畿内で王権を樹立するまでの世代を超えたプロセスを一本にまとめ上げるために造作された説話上の英雄である。
ただ、現実に樹立された畿内加耶系王朝(言わばニニギ朝)が、4世紀を通じて倭の有力な王権に育っていくことは事実と見てよいが、果たして4世紀代の倭の全体状況はどのようであったのだろうか。

2012年3月12日 (月)

天皇の誕生(連載第7回)

第二章 「神武東征」の新解釈

(4)二系統の天孫族

「神武東征」の経路
 神武軍団の出発地点について、正史・通説の「宮崎日向説」に立つと、かれらは宮崎の日向を出てまず九州東岸を舟で北上し、宇佐を経て筑紫国の岡水門[おかのみなと](遠賀川河口付近)に着く。これに対して、「筑紫日向説」に立てば、神武軍団は糸島半島を出発し、玄界灘を舟で東進して、岡水門に着くことになろう。
 いずれにせよ、一行はそこから針路を東に取り、瀬戸内海から安芸国を経て吉備国に入り、吉備に3年(『記』では8年)滞在して兵器や糧食を整えたとされる。
 ここで注目されるのは、神武軍団が吉備に相当な長期間留まっていることである。『記紀』は神武東征を一続きの征服事業として描いているため、吉備は中継地にすぎない扱いとなっているが、実際には吉備こそは東征軍団の最初の本格的入植地だったのではなかろうか。
 実際、岡山県倉敷市には、初期の加耶系墳墓の特徴である木槨を備えた楯築[たてつき]古墳が出現する。やがて吉備地方には畿内に準じるような古墳群を形成する実力を備えた王権が成立する。そして、その中心地はまさに賀(加)夜[かや]郡であり、周辺にも加耶にまつわる古地名が散見される。
 これを見ると、吉備は単なる中継地にとどまらず、東征軍団の最初の入植地と言うべきで、ここからさらに一部勢力が畿内方面を目指して再移動していったものと考えられるのである。

先着勢力の存在
 さて、『書紀』によると、吉備を出発した神武軍団はいよいよ大阪湾から難波碕[なにわのみさき]に上陸し、川を遡って河内国白肩津[しらかたのつ]から生駒山を越えて畿内中心部へ侵入を試みたところ、在地勢力・ナガスネヒコ(以下、ナガスネという)の反撃を受け、いったん退却を余儀なくされる。そこで一行は進路を変え、紀伊半島を回って在地勢力を征服しながら、南から畿内へ侵入し、再びナガスネと対決する。
 この時の対決場面で、ナガスネ側は自ら、かつて天磐船[あまのいわふね]に乗って天降られ、彼の妹と結婚した天神の子・櫛玉饒速日命[クシタマニギハヤヒノミコト](以下、ニギハヤヒという)に仕える者と名乗りを上げる。
 一方、神武がナガスネに対し、主君が天神の子であることを証明するように求めたところ、彼は天の羽羽矢[あまのははや]と歩靫[かちゆき]という天神のしるしを示し、神武は一応納得する。そして、自らも同じしるしをナガスネに示し、ナガスネは畏れ、かしこまる。しかし、神武はナガスネを容赦せず、殺害し、ニギハヤヒは神武に服属する。これをもって、神武東征は完了する。
 ニギハヤヒの義兄にして臣下でもあったとされるナガスネの動きを見ると、まず河内で神武軍団をいったん撃退した後、ヤマト北部の鳥見(登美)で再び対決したということは、ニギハヤヒの先着勢力は、河内からヤマト北部を本貫としていたようだ。
 ここで重要なのは、このニギハヤヒが後にヤマトの権勢豪族となる大氏族・物部氏の祖とされていることである。後に物部氏となるニギハヤヒ勢力が神武と同じ天孫族であるということは、何を意味しているのであろうか。

ニニギ派とニギハヤヒ派
 ニギハヤヒのフルネームであるクシタマニギハヤヒを分析してみると、クシはニニギが降臨した久士布流のクジ(シ)に通じるし、ニギはニニギのニギと通じる。
 この点、『記』ではニニギを「邇邇芸」、ニギハヤヒを「邇芸速日」と表記し、ニギ=邇芸と表記を統一している。一方、平安時代に出された物部氏の家伝に当たる『先代旧事本紀』[せんだいくじほんぎ]では、ニギハヤヒのフルネームを「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリニギハヤヒノミコト)と表記し、ニニギとは兄弟関係とする系図を示している。
 ここで注目されるのは、ニギハヤヒも「火明」(=プル)という加耶の代名詞である製鉄を象徴する火の字を伴うことである。前にも述べたとおり、天孫族=火(フル)氏なのであった。この点、ニニギとニギハヤヒに共通するニギの意味については諸説あり、豊饒の意とする説が有力であるが、天孫族=火氏とすれば、むしろ火が盛んな様子を意味するとも解し得る。
 こうしてみると、ニギハヤヒも神武と同じく天神の子であるという『記紀』の筋書きもあながち造作とは言い切れず、ヤマトへ東征した天孫族には王権を樹立するニニギ派と後に物部氏となるニギハヤヒ派の二大系統があったものと考えられる。
 もう少し詳しく整理し直すと、両者はニギで共通する天孫ニギ族として同族であるが、その中に天孫ニギ族ニニギ派天孫ニギ族ニギハヤヒ派とがあったことになる。
 このうち、ニギハヤヒ派は元来、九州北部の筑後平野、遠賀川下流域に拠点があったが、ニニギ派よりも若干早く九州北部へ渡来してきて、一足先に畿内へ東征していたと見られる。両派の出自に違いがあるとすれば、金官加耶国からの渡来勢力であったニニギ派に対し、ニギハヤヒ派は加耶地方の別の小邦からの渡来勢力ではないかとの推定も成り立つ。
 前回述べたように、加耶地方は統一国家が存在せず、小邦分立状態であったため、金官加耶以外にも多数の都市国家ないし村落国家的な小邦がひしめいており、とりわけ南部沿岸地域の小邦からの移民であれば容易に考えられるところである。神武がナガスネとの対決場面で「天神の子は多い」と豪語したことも、このような同系移民の多さを暗示したものと解し得る。
 さて、ニギハヤヒ派→物部氏が畿内で本貫とした河内地方は、やがて4世紀後半以降、加耶(韓)式土器の一大生産地となる。おそらく、ニギハヤヒ派の故地・加耶南部地域から大勢の土器職人が渡来して、工房を営み、それをニギハヤヒ派が統括し、経済的基盤とするとともに、新来者を氏族の中に取り込み、大氏族化を推進していったものと思われる。
 従って、経済的にも強力なニギハヤヒ派が『記紀』に描かれたほど簡単にニニギ派に服属したか疑わしいのであるが、一応ニニギ派が畿内王権を樹立することはたしかであり、ニギハヤヒ派も少なくとも表面上ニニギ派王権に臣従はしたものと推定できる。
 しかし、ニギハヤヒ派が拠った河内地方がなお独自の地位を保つことが、このニニギ派畿内王権にとってのアキレス腱となったであろう。

2012年3月 9日 (金)

犯罪と非処罰(連載第2回)

1 序論

pencil犯罪を犯した者には刑罰が加えられるという鉄則、すなわちあの「犯罪→刑罰」図式はまだ世界中で―と言ってよいだろう―常識であり続けている。そのため、本拙論のキーワードとなる「非処罰」は世界の非常識ということになりかねない。

pencilしかし、早速予想され得る誤解を解いておくと、「非処罰」(nonpunishment)とは犯罪を放置し、犯人を何ら処分しないこと、すなわち俗に言う“野放し”を全然意味していないということである。
 いわゆる“野放し”とは「不処罰」(impunity)であり、「非処罰」とは厳に区別されなければならない。「不処罰」は犯罪の無責任な放置であり、司法官憲の怠慢や場合により汚職を伴う不正にほかならない。
 これに対して、「非処罰」とは犯罪を犯した人を刑罰ではなしに、矯正と更生を促進するための効果的な処遇(treatment)に付することをいうのであり、当然にもそれは不正ではない。
 この「処遇」という術語自体は、刑罰制度の枠内においても受刑者の矯正や刑余者の更生のために与えられる処遇を指す「犯罪者処遇」のような形で使われている。これは明らかに教育刑論の所産である。
 しかし、そうした「処遇」も刑罰制度の枠内にとどまる限りは、懲役労働に象徴されるように、教育よりも懲罰に比重を置かざるを得ない。
 そこで、非処罰の構想にあっては「犯罪→刑罰」という図式を根本的に転換し、「犯罪→処遇」という新しい定式に取って代えようとするのである。

pencilここでは、犯罪という法益侵害はもはや単なる個人の邪悪・破廉恥な振舞いではなく、社会的個人の反社会的逸脱行動として把握される。比喩的にいえば、犯罪とは社会体の疾患であり、それは処罰でなく、治療の対象である。
 もちろん、これは比喩であり、犯罪は文字どおりの病気とは異なり、窃盗や殺人のように「悪」と評価される行為も含まれる。しかし、それはあくまでも犯罪行為に対する事後的な倫理的評価であるにすぎない。
 「犯罪→処遇」定式の下では、犯罪は社会を構成する―それゆえに社会構造の影響を決して免れ得ない―人間個体の反社会的な法益侵害行動と位置づけられる。要するに、「犯罪→処遇」図式の下での犯罪概念はより行動科学的及び社会科学的に把握されると言ってよいであろう。

pencil最後に、「非処罰」と類似するが明確に区別すべきいくつかの概念について見ておこう。
 一つは「非犯罪化」(decriminalization)ないし「非刑罰化」(depenalization)である。これらはいずれも特定の犯罪行為について、そもそも犯罪とみなすことをやめること(=非犯罪化)や、犯罪ではあるが刑罰に代えて行政罰など他の制裁処分を科すること(=非刑罰化)を意味している。従って、あらゆる犯罪について刑罰を科さないこと、要するに刑罰制度の全廃を意味する「非処罰」と「非犯罪化」ないし「非刑罰化」が混同されてはならない。
 ただし、「非刑罰化」を究極まで推し進めていけば「非処罰」に至るという限りでは、「非処罰」と「非刑罰化」の間には連続性がある。
 また「訴追免責」(immunity)と「非処罰」も混同されてはならない。「訴追免責」とは、特定の事件において、共犯者や共謀者などに関する情報を提供することを条件に特定の被疑者の訴追を免除する制度であり、あくまでも個別事件限りでの司法的戦略にすぎないから、「非処罰」とはそもそも全く次元を異にする概念である。

2012年3月 7日 (水)

犯罪と非処罰(連載第1回)

犯罪はこれを処罰するより防止したほうがよい。
―チェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』

応報の精神が少しでも敬意を受け続ける限り、復讐欲が人々の心に存する限り、応報の害が成文法に浸透している限り、私たちが犯罪防止に歩を進めることはできない。
―カール・メニンガー『刑罰という名の犯罪』

前言

pencil巻頭に引いたチェーザレ・ベッカリーアは、ジャン・ジャック・ルソーが有名な『社会契約論』を公刊した二年後、同書の影響を受けつつ、しかし同書に対しては部分的に―特に死刑論に関して―論駁する形で『犯罪と刑罰』を匿名出版した。
 ベッカリーアのこの著作は、フランス革命に大きな影響を及ぼしたルソーの著作ほどには知られていないが、フランス啓蒙思想家も革命人士たちもベッカリーアの著作を感銘をもって読んでいたし、今日にまで及ぶ影響性を考えると、ベッカリーアの著作はその内容がよく知られないままにルソーの前記著作よりも恒久的な影響力を保っているとさえ言うことができる。

pencilベッカリーアは、彼の時代にはまだ西欧でも死刑を頂点とし、恣意的かつ残虐でさえあったアンシャン・レジームの刑罰制度に対して公然と、かつ理論的に異を唱え、罪刑法定主義・証拠裁判主義・刑罰謙抑主義の諸原則を対置したのであった。
 この言わば「ベッカリーア三原則」とは要するに、刑罰制度とそれを運用する手続きである刑事裁判制度とを法律と証拠、そして人道によってコントロールしようという構想であって、現代の刑事手続においては少なくともタテマエとしてはぼ常識と化している。
 ルソーの社会契約説はなお常識とは言えないが、ベッカリーア三原則は常識である。このことが先に述べたベッカリーアの恒久的影響力の大きさの証しとなっている。

pencilとはいえ、三原則の中でも最後のもの、すなわち「刑罰はそれが必要な場合にだけ、かつ所与の事情の下で適用可能な最も軽い刑を科さなければならない」とする刑罰謙抑主義はなお動揺的で、しばしば「必罰主義」や「厳罰主義」が唱えられることがある。なぜであろうか。
 それはベッカリーアをもってしても刑罰が本源的に持つ復讐という要素を払拭し切れなかったことによる。言わば刑罰制度というパンドラの箱の中に復讐という古来の慣習的な観念を密閉し切れなかったのである。そもそもベッカリーア自身が刑罰を犯罪の報いととらえ、「犯罪には刑罰」という観念が人々の心に強く刻み込まれることを切望していたのだった。
 もちろんベッカリーアは刑罰を復讐そのものと観念していたわけでない。彼の刑罰論は今日でもなお根強い応報刑論にほかならないので、この点では決して特異なものではない。
 ただ、彼が著書に冠した『犯罪と刑罰』(DEI DELITTE E DELLE PENE)という端的なタイトルの「と」(E)という接続詞は決して単なる並列ではなく、「犯罪→刑罰」という応報論図式の端的な表現であったのである。従って、ベッカリーアの議論の全体は、まさにこの図式をいかに啓蒙的に洗練させるかということに向けられている。
 ベッカリーアはその目的を達成したが、まさにそこに彼の限界があった。彼が「犯罪→刑罰」という図式に自分自身を係留する限り、パンドラの箱に完全に蓋をすることには成功しないのである。なぜなら、応報という観念の深い基層には、あの復讐の情念がなお埋まったままだからである。

pencilもっとも、ベッカリーアは「犯罪→刑罰」図式を絶対化していたわけではなかった。彼は『犯罪と刑罰』の終わりの方で「いかにして犯罪を防止するか」という一章を設け、処罰よりも犯罪防止こそがよりよい法制の目的であるはずだと指摘し、犯罪防止を法(刑罰)の目的とする目的刑論の考え方を示唆している。
 彼はそうした犯罪防止の「最も確実で、しかも同時に最も困難な方法」として教育の完成をあげている。そのとき彼の念頭にあったのはルソーのもう一つの高名な啓蒙書『エミール』であっただろう。
 しかし、『犯罪と刑罰』のベッカリーアは一般論としての教育論を超え出ることはなかった。こうしたベッカリーアの未完の論をより具体的に発展させたのは、彼の次の世紀末にようやく現れた教育刑論の潮流であった。
 刑罰を応報ととらえるのでなく、犯罪を犯した人の矯正と社会復帰のための手段ととらえる教育刑論は、ベッカリーアとの関わりでみると、彼の人道主義的な側面に立脚しながら、彼が一般論としてしか指摘していなかった究極的な犯罪防止策としての教育の完成をより具体的に刑罰論の枠内でとらえようとしたものであったと理解することもできる。
 こうした基本的な方向性は次の20世紀になると世界的な潮流となり、教育目的を持たない死刑の廃止の反面として、刑務所の環境整備と矯正処遇技術の開発、社会復帰のための更生保護の制度などが打ち出されていくようになった。

pencilしかし、こうした教育刑論もやがて頭打ちとなり、近年は「犯罪抑止」や「被害者感情」を高調することで、刑罰制度の振り子を再び応報の方向に振り向けようとする反動的な動きも高まっている。ここには、またしても例のパンドラの箱が関わっているであろう。
 教育刑論は刑罰から応報的要素を何とか払拭し、パンドラの箱をしっかり密閉しようと努めてきたが、それとて「犯罪→刑罰」図式を完全に脱却したわけではない以上―その限りでは教育刑論も相対的な応報刑論に包含されている―やはり箱のわずかな隙間からあの復讐の要素が漏れ出すことを防ぎ切れなかったのである。
 巻頭で二番目に引いたアメリカの精神医学者カール・メニンガーが言ったように、刑罰と更生(教育)とは本来、不倶戴天の敵同士なのであって、両者はあれかこれかの二者択一でしかあり得ない。もし刑罰をとるならば、メニンガーが刺激的な著書のタイトルに冠したように、刑罰とは犯罪を犯した人に対して加えられる「刑罰という名の犯罪」にほかならないのである。
 刑罰という方法で犯罪を犯した人に制裁を加えることは、その者の更生に役立たないばかりか、かえってその更生の妨げにさえなる。そのため、刑務所という環境はどこの国でも言わば「犯罪再生産工場」と化している。刑務所出所者の再犯率の高さはその象徴である。

pencil大胆に発想を転換しよう。「犯罪→刑罰」という図式をきっぱりと捨てることである。すなわち犯罪を犯した人には、いかなる名目であれ、もはや刑罰という形式の処分は科さないのである。よって、本拙論のタイトルは『犯罪と刑罰』ならぬ『犯罪と非処罰』となる。
 この点で、本拙論はベッカリーアの歴史的な功績に対する敬意とともに、ベッカリーアに対する決別を示すものでもある。そこで、本拙論では彼の『犯罪と刑罰』の通行本と同じく前言と40余りの章で構成し、ベッカリーアへのオマージュの形をとりつつ、ベッカリーアへのクリティークを内容とするものとなっている。
 現在ではごく常識的な古典となっている『犯罪と刑罰』も、250年前の意識水準からすると非常識で“過激”でさえある内容を含むものであったため、反対勢力からの攻撃による身の危険を懸念した著者は匿名出版という手段を選ばざるを得なかったのであった。
 本拙論も現代の現時点の意識水準からすれば非常識で“過激”な内容を含んでいると感じられるかもしれない。しかし、250年後にはごく当たり前の常識となり、拙論の存在意義も失効していることを願うものである。

2012年3月 6日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第29回)

第5章 略

三 東欧・ロシアの形成

(1)スラブ諸国の形成
 ロシアを含む広い意味での東欧形成の担い手としてはスラブ民族のほかに、ウラル語族系のマジャール人(ハンガリー人)、スラブ民族と同系の印欧語族系ながらイタリック語派に属する言語を持つルーマニア人、印欧語族の中でも古い歴史を持ち独立の一派を成すアルバニア人といった非スラブ系民族も含まれる。
 しかし、何と言っても中心はスラブ民族であり、かれらの存在なくして東欧・ロシアの形成はあり得なかった。
 スラブ民族は元来ドニエプル河流域からヴィスワ河中流域一帯を根拠地としていたが、ゲルマン民族大移動が一段落した後、6世紀から7世紀にかけてゆっくりと放射状に移動を開始していった。
 その中でも、西方へ移動したグループは必然的に西欧との結びつきを強め、ローマ・カトリックを受容した。このグループに属するのは、マジャール人に滅ぼされた大モラヴィア王国から9世紀に分岐したチェク人のプシェミスル朝ベーメンや10世紀後半に成立したポーランド人のピアスト朝である。いずれも神聖ローマ帝国に服属する形で発展した。またこれらの地域にはドイツ人の東方植民が行われ、その影響から西欧的な封建化も進んだ。
 これに対して、バルカン半島を南下していったグループはビザンツ帝国に服属し、ギリシャ正教を受容したものが多かった。その代表例はセルビア人であるが、かれらの国家形成はやや遅れて11世紀後半のことで、12世紀後半にステファン・ネマニャが創始したネマニッチ朝の時ビザンツから独立した。そして14世紀前半に出たステファン・ドゥシャン(ウロシュ4世)の時代に全盛を迎え、領土を拡大し、ビザンツに対抗しようとさえしたが成功せず、彼の死後領土は分裂した。
 一方、ブルガリアは特殊な由来を持つ。元来ブルガリアを建てたブルガール族とはカスピ海の北からカフカース地方にかけて割拠していた推定トルコ系の遊牧民であった。そのうちの一部勢力が7世紀末頃バルカン半島へ移動し、先住のスラブ族を服属させて第一次ブルガリア帝国を建てた。この帝国の発展過程で少数支配層のブルガール族は多数派スラブ族に同化吸収され、現今のブルガリア人が形成された。
 そして9世紀後半にはギリシャ正教を国教としつつビザンツ帝国に対抗する強国となったが、10世紀後半にいったん衰退し、11世紀初頭にはビザンツに征服される。しかし12世紀末に独立を回復して第二次ブルガリア帝国を建て、13世紀前半には再び強国化した。
 なお、南進グループ中、スロベニア人とクロアチア人は西寄りに陣取ったことから西欧との結びつきを強め、ローマ・カトリックを受容した。そのため、とりわけクロアチア人はセルビア人と本来ほぼ同一民族ながらギリシャ正教のセルビア人と袂を分かつこととなり、近現代になって火を噴く民族紛争の火種を生じたのである。
 最後に、東進ないし北進して今日のウクライナ、ロシア、ベラルーシに連なる国家を形成したグループがある。これがスラブ民族中最大勢力を成したのであるが、このグループの国家形成はロシア建国という歴史的なエポックに関わっているので、節を改めて叙述することにする。

(2)ロシアの形成
 ロシアの形成過程は伝承性が強く、史実の確定が困難ではあるが、伝承上ロシア建国の発端となったのは、当時北西ロシアに勢力を張っていたルーシ―これが国名ロシアの由来という―と呼ばれたスウェーデン系バイキングの実力者三兄弟が周辺スラブ族を糾合して建てた一公国であったとされる。
 三兄弟は別々の場所を根拠地に権力を分有し合ったが、やがて弟たちの死後、長兄リューリクがノブゴロドを首都とする単独統治者となった。これは862年のこととされ、ロシア最初の王朝リューリク朝の伝承上の創始年となっている。
 このようにスウェーデン人がロシアの建国者となったのは、当時この地域のスラブ族は部族対立が激しく、まとまりを欠いたため、あえて異民族の実力者を擁立して統一を図ろうとしたためと説明される。
 ただ、9世紀後半のこの時期に部族統一の機運が生じたのは、当時この地域のスラブ族はヴォルガ河中流域に拠ったヴォルガ・ブルガール国やカスピ海北岸に拠ったやはりトルコ系ハザール・ハーン国といった遊牧系強国からの攻勢にさらされていたためでもあったろう。
 やがてリューリクの死後、その遺子イーゴリを奉じた親類のオレーグがドニエプル河を南下して中流域キエフに遷都した(882)。そしてオレーグと次のイーゴリの下でキエフ公国(キエフ・ルーシ)が統一国家として確立されていく。
 その発展の過程で、公国のバイキング的性格は急速に薄れ、スラブ系国家としての性格を強めていった。10世紀末、ウラディミル1世(聖公)の時、ギリシャ正教を国教と定め、ビザンツ帝国との結びつきを強めた。
 しかし、そのウラディミル1世が支配力強化のため一族を各地に分封したことが発端となって、公国の封建的分裂―西欧的な封建制より中国的な氏族的封建制に近かった―が進行していった。そして、12世紀後半に入ると多数の分領が自立化して中央権力が失われるいわゆる分領制の時代を迎える。このような封建的分裂は当然にも国防力の低下を招き、やがて東から押し寄せるモンゴル勢に飲み込まれる要因ともなった。

(3)ハンガリーの建国
 東欧の形成に関わった非スラブ系民族の中でもハンガリーを建てたマジャール人は歴史的に特に重要な役割を演じた。
 マジャール人は北欧へ入ったフィン人と同様、ウラル語族に属する遊牧民で、ハザール・ハーン国に従属していたが、9世紀末、同国の内紛を機に、強力な首長アールパードに率いられてカルパチア盆地へ侵入・移住した(895)。
 かれらは間もなく10世紀初頭頃から西進して各地を寇掠し始める。この間、チェク人の大モラヴィア王国を滅ぼし、ドイツやイタリア北部・中部にまで侵入した。
 しかし、ドイツではオットー1世(後の神聖ローマ帝国初代皇帝)の下、団結した部族太公軍のためにレヒフェルトの戦い(955)で大敗し、以後寇掠活動を終息させた。
 マジャール人はアールパードの曾孫ゲーザの時にローマ・カトリックを受容し、その子イシュトバーンが時の教皇シルウェステル2世から授冠されて正式にハンガリー国王となる。ここに、先祖の名にちなむアールパード朝ハンガリーが実質的に創始された(1000)。
 この王朝は14世紀初頭まで存続したが、この間西欧的な封建化が進行し、13世紀には封建的貴族特権を保障する金印勅書が発布されている。

(4)モンゴル・トルコの支配
 東欧・ロシアの歴史において特筆すべきは、モンゴル帝国とオスマン帝国の支配下に長く置かれたことである。そのため、東欧・ロシア独自の国家形成は中断を余儀なくされ、以後はモンゴル・トルコの支配をはね返していく中で、言わば対抗的な国家形成が進行していくことになる。
 まずロシアは13世紀半ばから15世紀末まで約250年にわたってモンゴル系キプチャク・ハーン国の間接統治下に置かれ、臣従と貢納を強いられた。ロシア史に言う「タタールのくびき」の時代である。
 ロシアがモンゴル勢力の攻撃に耐えられなかったのは、当時のキエフ公国が封建的な分裂の中で国防力の低下を来たしていたことにもよるが、一方でこの分裂はモンゴルがロシアに一円的な支配を及ぼすことを困難にもしたのであった。モンゴル人支配者にできることは各分領の公位継承に干渉したり、分領同士を対立させたりして、統一機運を妨げることだけであった。
 他方で、ロシア側は「くびき」に苦しみながらも、モンゴルから社会的・文化的・血統的にもかなりのものを吸収していったのである。
 これに対して、モンゴルの支配が届かなかったバルカン半島諸国は、14世紀末以来オスマン帝国の西進政策の標的となった。半島入り口のブルガリアを皮切りに、セルビア、ボスニア、アルバニア、ワラキア(ルーマニア)などが次々と帝国版図に組み込まれていき、最終的な独立はオスマン帝国が終焉に近づいた19世紀末から20世紀初頭を待たなければならなかった。
 前章でも述べたように、オスマン帝国はデヴシルメ制の対象者を除いて臣民を強制改宗することはしなかったが、結果としてボスニアではスラブ系ムスリム層を生み出したし、アルバニア人はほぼ総体としてイスラーム化した。このようなオスマン支配下での「ヨーロッパのイスラーム化」という現象は、近現代に至って民族=宗教紛争の火種となるのである。
 最後に、ハンガリーはオスマン帝国のヨーロッパ中央部への進出作戦における入り口として14世紀末以来標的となっていたが、版図に入るのは1526年のドナウ河岸モハーチの戦いに敗れて以降、1541年に首都ブダがオスマン軍に占領されてからであり、しかも北部は無事であった。
 そのうえ、17世紀末にはオーストリアに敗れたオスマン帝国がハンガリーをオーストリアへ割譲したことにより、結果としてトルコの支配は一足先に終了した。

2012年3月 1日 (木)

天皇の誕生(連載第6回)

第二章 「神武東征」の新解釈

(3)天孫族の渡来

渡来の時期
 前回見たように、天孫降臨神話に形象化された加耶系集団の渡来時期はいつごろのことなのであろうか。この問いに正確な解答を出すのは難しい。
 一つのかすかな手がかりは、金官加耶国開祖・金首露の末裔である金海金氏の家伝の中に、初代首露王の王子のうち七人が「厭世上界」し、第二代・居登王(首露王の長子)の時にも、その王子の一人が世の衰退を見て神女とともに「乗雲離去」したという話が伝わっていることである。
 これは明らかに仏教的脚色を伴った伝承ではあるが、そうした後世の脚色を剥ぎ取ってみると、「上界」とか「離去」とは、一部王族が一族郎党を引き連れてどこかへ集団で移住して行ったことを暗示するとも読み取れる。その行き先が海を越えた日本列島であっても少しもおかしくはないであろう。
 問題はその時期であるが、先の伝承では初代から二代国王の時期に早くも王族の集団移民が出たように読める。とすると、それは王朝成立後のかなり早い時期ということになろう。
 それでは、金官加耶国はいつごろ成立したのであろうか。これについて、金官加耶国建国神話を伝える朝鮮の史書『三国遺事』は、後漢の光武帝18年(西暦42年)と明記する。
 しかし、この年代は疑わしい。金官加耶国は532年に最後の王・金仇亥(仇衡)が新羅に投降して併合されるまで、全十代の王しか記録されていない。
 王族といえども平均寿命が長くなかった古代に、一世代=20年で計算しても全十代=200年にすぎず、金官加耶建国はせいぜい4世紀前半のことになる。あるいは王名表の欠落の可能性を考慮してもう少し遡らせてもせいぜい3世紀末頃が限度で、『三国遺事』の1世紀代は無理である。
 なお、初代・首露王は158年間も在位したとされるが、これは日本の初代・神武天皇が在位76年、127歳で死去したという『書紀』の筋書きと同様の神話的誇張である。
 さて、そうすると、金官加耶国成立の早い段階で発生したと推定される日本列島への集団移住(=天孫降臨)も、相当早く見て4世紀初頭以前に遡ることはないと言わざるを得ないであろう。

渡来の要因
 では、金官加耶国王族らをして、日本列島を目指さしめた理由は何だったろうか。
 建国神話によると、首露王登場以前の加耶は9人の族長(九干)が率いる部族連合体であった。これは『魏志』倭人伝で邪馬台国へ至るルートの中継地「狗邪韓国」として記された時代のことを示しているのであろう。
 こうした氏族連合体的構造を揚棄して、新たに金氏が統一王朝を樹立したものと考えられる。しかし、こうした氏族連合体の揚棄の上に成立した王朝の常として、王族を巻き込む権力闘争・政情不安につきまとわれたはずであり、それに加えて、この旧弁韓=加耶地方は小邦分立とその離合集散の激しいことが特徴であり、内憂外患が絶えなかった。
 そうしたことから、この地方は歴史を通じて構造的に流民・移民を輩出しやすかったと言える。天孫降臨も、そうした環境の中で発生した王族とその従者・支持者らによる集団移住であったと解することができよう。

考古学的証拠
 こうした金官加耶王族(=天孫族)の集団渡来を裏づける考古学的証拠は、実のところあまり多くない。ただ逆説的に言えば、そのことがかえってかれらの再移住(=神武東征)の裏づけともなるのであるが、これについては次節で改めて述べることとする。
 さしあたり、かれらが最初に上陸したと考えられる糸島半島の地名には加耶にまつわるものが多いという事実は、一つの準考古学的な傍証と見てよい。地名とは、それにゆかりのある人間が集住したことの痕跡を示すものだからである。
 例えば、旧糸島郡北側の旧志摩町一帯はかつてその名もズバリ可也と呼ばれたところで、糸島半島最北端は韓泊[からどまり]と呼ばれ、加耶方面からの船舶が停泊する港として利用されたようだ。また、内陸部の旧前原市にも可也山を中心に鶏永[けえ](「カヤ」の転訛か)郷とか、柏森[かやもり]などの地名がある。*2010年をもって、志摩町と前原市は二丈町とともに糸島市に統合された。
 しかし、この近辺には前期古墳に象徴されるような新王権成立の考古学的証拠は乏しい。ただ、糸島半島付近には、40基ほどの中期以降を中心とした前方後円墳の存在が確認されているが、畿内に代表されるような「古墳群」と呼び得る大規模な墓域は確認されておらず、どうやら天孫族はこの最初の上陸地点付近では本格的な王権を樹立できずに終わったらしい。
 考えてみると、糸島半島には邪馬台国に統属しながら「一大率」が置かれて諸国を検察し、「諸国はこれを畏れ憚る」と『魏志』でも記された伊都国が睨みを利かせており、新来者による王権樹立は困難な状況にあったであろう。
 おそらく、糸島半島に上陸した天孫族の最初の世代は王権を樹立できず、伊都国内やその周辺地域に一般住民として集住するにとどまり、次世代以降になって、神武の東征の詔にもあるように「東の方に良い土地がある」と聞いてさらに東方へ集団移住していったのではないかと考えられるのである。

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