« 〈反差別〉練習帳(連載第40回) | トップページ | 〈反差別〉練習帳(連載第41回) »

2012年2月 6日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第27回)

第5章 ヨーロッパの形成

〈序説〉
 近代以降には文明の代名詞となったヨーロッパは、文明史的に見れば後発地域であった。というより、ヨーロッパという地理的概念すらローマ時代には確立されていなかった。
 今日の東西ヨーロッパを横断する形で最初の帝国を建てたのは、アジアに原郷を持つ遊牧民フン族であった。フン族の出自については、かつての匈奴の末裔とする説が有力であったが、時代的・文化的なずれも大きく、近年はより雑多な混成騎馬遊牧民勢力と理解されるようになってきた。
 いずれにせよ、モンゴロイド系種族を中核とするこの遊牧民勢力は4世紀後半、さらに西進してヨーロッパ形成の大きな契機となるゲルマン民族の大移動を誘発した。その後、ドナウ河中流域パンノニアを根拠地としたフン族は、5世紀半ばに出たアッティラ大王の下で急膨張し、後にヨーロッパ形成の主役となるゲルマン人とスラブ人も従えつつ、東はカスピ海から西はバルト海沿岸に至る大帝国を作り上げたのだった。
 この帝国はしかし、専らアッティラ個人のカリスマ的指導力に依拠したパッチワーク状のものであったため、彼の急死(453)によってたちまち崩壊したが、アッティラの帝国こそ―そうとは意識されない―「ヨーロッパ」の最初の予行演習であったと言ってよい。
 アッティラが西ローマ帝国領内に侵入してきた時、もう終わりが近かった西ローマは独力で対処できず、フランス北部のカタラウヌムの戦い(451)では西ゴート・ブルグンド・フランクなどゲルマン諸部族の力を借りて撃退しなければならなかったが、これによってゲルマン人の実力が改めて確証された。
 さらに翌年、アッティラがイタリア侵攻を企てると、時のローマ司教レオ1世はアッティラと直接会見して平和的な説得で撤収させた。これにより、後に教皇を称するようになるローマ司教の威信を高めた。
 こうしてゲルマン人とローマ司教とが、アッティラ帝国への対処を通じて、ヨーロッパ形成の主役として上昇していくのである。

一 独仏伊の形成

(1)フランク族の台頭
 西ローマ帝国がゲルマン人傭兵隊長オドアケルに滅ぼされて5年後の481年、ゲルマン系フランク族の族長クロヴィスが一つの王朝を開いた。
 元来、フランク族はライン河下流域を根拠としており、民族大移動の時にもあまり大きく移動せず、ガリアの地で―おそらくケルト人とも混血しつつ―支族に分かれて部族国家を形成していたが、5世紀末になってクロヴィスの属したメロヴィング家が部族統一に成功したことで王朝が開かれたのである(メロヴィング朝)。
 若干15歳で即位したクロヴィスは戦略家で、周辺ゲルマン諸部族を次々と征服し、晩年には地中海域を除いて今日のフランスとベルギーの大部分を押さえ、東ゴート王国と並ぶ強国を作り上げた。
 メロヴィング朝の権勢を高めたのは、こうした領土拡張もさりながら、クロヴィス王自身改宗して範を示した正統派(アタナシウス派)キリスト教の受容であった。
 これは先行のゲルマン部族国家の多くが二ケーア公会議で異端とされたアリウス派を奉じていた中では先進的な策であり、他の周辺ゲルマン諸部族に対する征服戦争に異端撲滅の「聖戦」の名を冠してこれを正当化し、また領内に多い正統派キリスト教徒のガリア系ローマ人からの支持を受け内政を安定化させる切り札ともなった。
 しかし511年、クロヴィス王がまだ壮年のうちに死去すると、王国はゲルマン伝統の分割相続原則に従い、四人の王子たちの間で四分割され分裂してしまう。一時末男クロタールが王国を再統一し、父の代よりも領土を拡張することに成功したものの、彼の死後またも四子の間で分割相続される。結局、メロヴィング朝はアウストラシア、ネウストリア、ブルグントの三分国体制に収斂していく。
 これらの分国間及び分国内ではしばしば王妃ら女性たちも絡んで残虐行為を伴う骨肉争いが繰り広げられ、宮廷内では風紀の乱れもひどくなっていった。国王権力は形骸化し、幼少、無能な王が続出した。
 そうした中で、各分国では本来王室の執事であった宮宰が国王に代わって政治行政の実権を掌握するようになっていく。メロヴィング朝が分裂し、王が無力化しても270年あまりも持続したのは、この宮宰実権体制が働いていたことによるところが大きい。こうしたメロヴィング朝の持続性の高さは、やがてフランク族をしてヨーロッパ形成の主役の地位に立たしめる秘訣となる。

(2)カロリング帝国の覇権
 メロヴィング朝各分国の宮宰の中からアウストラシア宮宰のカロリング家が台頭し、全王国宮宰の地位に就く。前章でも触れたように、8世紀初頭にウマイヤ朝軍がピレネー山脈を越えてヨーロッパ中央部まで侵攻しようとした時、これをトゥール‐ポワティエ間の戦いで撃退したのは、カロリング家のカール・マルテルであった。彼は、南ガリアでも焦土作戦を展開してイスラーム勢力を駆逐し、カロリング家の声望を高めた。
 続いて彼の子ピピンはすでに形骸化著しいメロヴィング朝を廃して自ら国王となるべく、ローマ教皇の支持を取りつけたうえクーデターを起こして王位に就いた(751)。ここにメロヴィング朝に代わってカロリング朝が開かれた。
 ピピンは当時、6世紀半ばすぎ以来北イタリアに強力な王国を築いていたゲルマン系ランゴバルド人の圧迫に苦しむローマ教皇を助けるため、二度にわたるイタリア遠征によってランゴバルド王国領土を切り取り、教皇に寄進した。これが教皇領の始まりである。この結果、ローマ教皇とフランク王国の結びつきは強まった。
 このカロリング朝を帝国に押し上げたのはピピンの子で大帝を冠せられるカール(シャルルマーニュ)である。彼は774年、200年以上続いたランゴバルド王国を滅ぼしたのに続いて積極的な対外遠征を行い、8世紀末までに今日の西ヨーロッパ地域のうち、後ウマイヤ朝が支配していたイベリア半島中部以南を除く主要部のほとんどを征服した。
 ちなみにカール大帝はイベリア半島の後ウマイヤ朝への防備策として半島北部にいくつかのスペイン辺境伯を置いたが、その一つウルヘル伯領は、フランス大統領とウルヘル司教が共同統治するアンドラ公国として今日まで存続している。
 一方、この頃ビザンツ帝国との関係が悪化していたローマ教皇レオ3世はカールの権勢を見て来援を要請、これを機にカールにローマ皇帝冠を授けた(800)。
 その結果、形式上324年ぶりに西ローマ帝国が復活した形となった。ゲルマン人がローマ皇帝冠を被ったのである。これは324年前に西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルがあえてしようとしなかったことであったが、カールはこれを教皇側から授冠される形で実現したのだった。
 このゲルマン系新生西ローマ帝国は、旧西ローマ帝国の単純な復旧ではないとしても、これをもって封建的な中世ヨーロッパ形成の始まりとみなすのは性急である。というのは、カールがさしあたり目指したのは東のビザンツ帝国に匹敵するような中央集権国家だったからである。
 実際、カールはビザンツ帝国を相当に意識していたようで、7世紀からビザンツが導入していた屯田兵制度にならい、皇帝に直属して軍役義務を負う土地保有民(リベリ)の制度を創設した。そのうえで、広大化した領内を管区に分け、国王直属の伯(グラーフ)を任命して軍事・行政の広範な権限を持たせた。これまたビザンツ帝国で施行されていた軍管区(テマ)‐司令官(ストラテゴス)制にならったものであった。
 一方、対外的には、カールの西ローマ皇帝位を承認しようとしないビザンツ帝国への対抗上、アッバース朝と連携さえした。その結果としてイスラーム圏との通商関係が生じ、イスラーム勢力に遮断されていた地中海商業が復活した。これによって、帝国にはイスラーム→ヨーロッパ→ビザンツの三角貿易によって関税収入を確保する可能性が生まれた。
 しかし、カールの政策は結局実を結ばなかった。リベリの創設は完全な挫折に終わったし、巡察使の派遣など伯らの土着化防止の努力にもかかわらず、彼らは結局は土着化して封建領主の原型となっていった。カールは帝都を築くこともできず、領内を巡幸して伯との個人的な結びつきを常に確認して回らなければならなかった。
 ビザンツ帝国からの皇帝位承認は晩年の812年にようやくかなったが、彼自身の帝国は彼が望んだようなビザンツ型中央集権国家とはならなかったのだ。
 経済面でも先の三角貿易による関税収入は想定したほどの成果を上げることができなかった。当時の地中海貿易にあっては三角貿易よりもイスラーム→ビザンツ間の直接的な通商関係のほうがほよど優勢で、物量も豊富だったからである。
 こうして実は、カロリング帝国の―成功よりも―失敗が、ヨーロッパ形成の真の始まりを画したのである。

(3)カロリング帝国の分割
 カールが50年近い治世を終えて没した時(814)、存命中の相続人は三男ルートヴィヒだけとなっていたため、分割相続は回避できた。しかし、ルートヴィヒ(敬虔王)が840年に没すると例によって分割相続問題が起き、ヴェルダン条約(843)とメルセン条約(870)の二条約を経て東西フランクと北イタリアの三国に分割された。これがほぼ今日のドイツ(東フランク)、フランス(西フランク)、イタリアの原型を成している。
 やがてイタリアでは早くも875年に、東フランクでは911年、西フランクでも987年には順次カロリング家が断絶し、10世紀末までにカロリング朝は終焉した。
 この後、北イタリアでは封建領主や都市共和国が分立割拠し、ドイツなど外国勢力の侵攻もたびたび受けた。一方、南イタリアは11世紀後半頃までビザンツ帝国やイスラーム勢力の支配下にあった。結局、イタリアでは遠く19世紀後半まで統一国家が形成されることはなかった。
 東フランクではカロリング家が断絶した911年以降部族太公の割拠するところとなったが、イタリアと違い、部族太公中から国王を選定する慣習により形式上統一は保たれた。
 962年にはザクセン太公から出たオットー1世がかつてのカール大帝と類似の状況でイタリア遠征を機に時の教皇ヨハネス12世からローマ皇帝冠を授冠された。ここに神聖ローマ帝国が成立する(第一帝政)。
 これをもって一応ドイツの成立とみなすことはできるが、ドイツにおける部族主義の伝統は頑強で、帝国といいながら実態は部族に由来する多数の領邦に分かれ、皇帝選出をめぐる紛争が絶えなかった。ドイツでも真の意味での統一国家が成立するのは19世紀後半を待たねばならなかった。
 西フランクでは987年にパリ周辺地域(イル・ド・フランス)の領主であったパリ伯ユーグ・カペーが国王に推挙され、ここに新王朝カペー朝が開かれた。カペー朝フランスはフランク族の系譜を継承する王国であるとともに、今日のフランスの実質的な始まりでもあった。
 カペー朝は当初、諸侯勢力に制約されて不安定であったが、ドイツのような部族主義に悩まされることなく、世襲王朝として定着し、次第に中央集権化を進めていく。

« 〈反差別〉練習帳(連載第40回) | トップページ | 〈反差別〉練習帳(連載第41回) »

〆世界歴史鳥瞰」カテゴリの記事

2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31