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2012年2月18日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載第47回)

実践編

レッスン9:能力差別

〔まとめと補足〕

 能力差別という問題は、そもそもそれを「差別」と認識すること自体が困難なテーマである。能力は人間に対する正当な評価基準であるから、有能/無能で人間を分けることは差別などではなく、正当な選別(=選抜)だというわけである。
 しかし、能力差別をめぐっては、一般的に無能をあげつらう言葉として、「馬鹿」「阿呆」「低能」「のろま」「まぬけ」「ぼけなす」等々の差別語が豊富にあるし、知的障碍者に対しても「白痴」「知恵遅れ」などの差別語があり、レッスン1の容姿差別に匹敵するほど差別語の宝庫となっている。能力差別は厳然として存在するのである。
 ところで、能力とは人間の抽象的な属性でありながら、能力差別でさえ視覚的表象と無縁でない証拠に、「馬鹿面」とか逆に「利口そうな顔」などの能力を視覚化した差別語ないし反面差別語も見られる。
 こうした能力差別は、日常「差別」として認識されることが少ないわりに、究極的には優生思想とも結び合って、すべての差別事象の根底をなすものである。最終的にすべての被差別者は、何らかの形で「無能」の烙印を押されるのである。
 理論編で見た差別の体制化としてのファシズムの中でも極限を見せてくれたナチスが、社会淘汰論とともに強固な能力主義・エリート主義の綱領を携えていたことは、決して偶然ではなかった。ナチスは25か条綱領の中で、「有能かつ勤勉なすべてのドイツ人に、より高度な教育を受けさせ、もって指導的な地位に進ませるために、国家は国民教育制度全般の根本的な拡充について、考慮を払わなければならない」(20条)と謳っていたのである。
 この一文の「ドイツ人」を「日本人」に置き換えてみると、そのまま日本の能力主義者のスローガンとしても使えるのではないだろうか。
 ちなみに、ナチスの上記綱領では、先に引いた部分の後に、「我々は、身分または職業のいかんを問わず、貧困者の両親を持ち、精神的に特に優れた資質を持つ児童の教育を、国庫負担により実施することを要求する」とも付加する。
 これを読むと、一見して貧困家庭子弟にも開かれた教育機会の均等化を掲げているように思えるが、ここでも、ナチスが目指すのは「精神的に特に優れた資質を持つ児童」―それは知的にも優れていることを前提とする―の国家による選抜エリート教育なのである。
 理論編で近代的差別の三源泉として指摘した第一のもの、優生学やそれを支える社会進化論は、角度を変えてみれば、能力差別の正当化セオリーであるとも言える。そうであればこそ、優生学の祖ゴルトンも「遺伝的天才」を称揚し、試験による天才の選抜といった構想も打ち出していたわけである。
 それでは、能力差別の克服のためにはどうしたらよいだろうか。おそらく「何事かができる」ということを言い表す「能力」という概念そのものを廃棄することはできないだろう。しかし、「能力」という概念を人間を査定・選別する指標として用いることをやめることはできる。
 元来、「能力」は相対的である。それは試験を例に取るとよくわかる。ある試験で何点を合格点とするかによって、優等/劣等の基準は著しく変わってしまう。そこで、偏差値のように全体における相対的な位置づけを示す指標が持ち込まれるが、これはもはや相対性の極致である。
 また、ある分野では高い能力を示す人が別の分野では低い能力しか示さないということは、ありとあらゆる分野で高い能力を示す「超人」など現実には存在し得ないことからして、ごく普通のことである。
 こうしてみると、「能力」などというものは、ごく限られた分野における相対的な技量の度合いを評価する指標にすぎないことがわかる。
 「何事かが他人よりできる」ということはもちろん悪いことではないし、それは称賛や名声を獲得する手がかりともなるが、そのことを「能力」という相対概念によって査定・選別対象とする必然性はない。
 知能指数のようにやむを得ず能力の科学的指標化を行う場合でも、例題2に関連して指摘したように、それは知的障碍の発見と適切な療育へ結びつけるための手段として位置づけられるべきであろう。
 ただし、一つ現状ではどうしても「能力」による査定・選別を廃止できない理由があるとすれば、それは次のことである。すなわち、資本主義経済は人間の労働能力に対して金銭評価をせざるを得ないということ、要するに労働力の商品化である。これは、理論編で近代的差別の三源泉の第三のものとして指摘した近代経済学とも密接に関連してくる。
 資本企業が労働者の労働能力を査定するのは、できる限りそれを厳しく過小評価して賃金を抑制したい狙いを込めてのことであるし、学校の成績評価ですら、それは専ら将来の労働力としての値段に関わる優劣評価の意味を帯びている。
 そうすると、差別につながるような「能力」概念の利用を廃するためには、資本主義そのものの廃止も必要なのであろうか━。この問いはもはや本連載の論題に収まり切らないため、保留としておきたいと思う。

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