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2012年2月

2012年2月29日 (水)

天皇の誕生(連載第5回)

第二章 「神武東征」の新解釈

(2)天孫族の出自

降臨神話の真相
 天孫ニニギは高天原から「筑紫の日向」に天降った。そして、その曾孫に当たる神武はそこから畿内に東征する━。
 こう推定してみたいのだが、それにしても天孫が文字どおりに天から降ったのではないとしたら、天孫族とは一体何者なのであろうか。これは、「神武天皇」の素性を明かす問いでもある。
 解答のヒントは降臨神話の中に隠されている。実は『記』では、ニニギが降臨した直後の詔として、「此地は韓国に向い、笠沙の御崎を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚き地。」と宣したことが記されている。これは宮地選定の詔として重要であるにもかかわらず、『書紀』では完全にカットされている。
 この詔で注目すべきは、大要として「韓国」に向っているから「吉き地」だと明言されていることである。この一句で、天孫の降臨地が海を越えて「韓国」に面している「筑紫の日向」であることが裏づけられるばかりか、天孫の出自も明かされているのである。
 つまり、「韓国」に向っていることが「吉き地」だというのであるから、これは天孫自身が「韓国」の出身であることを示唆するものと読むのが自然である。祖国を望見できるロケーションであるがゆえに「吉き地」なのである。
 このように、先の詔には天孫の出自を明かす重要なカギが含まれているために、政治的に微妙な点があり、『記』より政治的な意図から国定史書として編纂された『書紀』には掲載されなかったと考えられる。

双子の建国神話
 ところで「韓国」とは、古代には加羅国、つまり『記』が「任那」と称した朝鮮半島南部・洛東江流域の加耶諸国、中でも最南端・現在の慶尚南道金海[キメ]市にあった金官加耶国を指していた。
 そうすると、天孫が海のかなたに望見した祖国の「韓国」もこの金官加耶国ではなかったかと推定できる。実はつとに、この金官加耶国の建国神話と、倭国の建国神話でもある天孫降臨神話との酷似性が指摘されてきた。
 金官加耶建国神話では、王朝開祖・金首露[キム・スロ]は「亀旨峰」という峰に、その所の王たれとの天命を受け、布に包まれた金合子の中に黄金卵の形で降臨したとされる。
 これに対して、天孫降臨神話では、皇祖ニニギが高天原の神から葦原中国を統治せよとの命令を受け、「真床追衾[まとこおうふすま]」なる寝具に包まれて「久士布流多気」という峰に降臨したとされ、金官加耶建国神話のほうが卵生神話の形を取っている点を除けば、双子のように酷似している。
 とりわけ、ニニギが天降った地点である「久士布流多気」がキーワードである。この「久士」は金官加耶建国神話で金首露が降臨する「亀旨」と通ずる。これは金官加耶国があった金海市北東にある亀山[クサン]に比定されている。おそらく、その名もズバリ可也山(=加耶山)と同様、故国の山にちなんだ命名なのであろう。
 やや難解なのは、「久士布流」の「布流[フル]」の部分である。この点、『書紀』が引用する別伝第二書と第四書では「くし(木偏に患)日」と記されている。ここで「日」は「火」に通ずるところ、韓国語で「火」(または「明かり」)のことを「プル」というから、プル→フルという転訛を想定できる。
 ではなぜ「火」なのかといえば、金官加耶国を含む加耶諸国、すなわちかつての弁韓の地は、『魏志』の中で「国は鉄を出だす。韓・・・倭は皆ほしいままにこれを取る。」と記されたとおり、鉄の産地であったことに関係する。実際、この地方には、火王郡、推火郡、赤火県等々、火にまつわる古地名が数多い。金官加耶国開祖・金首露もこの地の製鉄王であったに違いない。
 一方、天孫族には「火」の付く名前が多い。まず、ニニギ自身からして、フルネームは「天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊[アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ]」と「火」が付くし、その子の火照命、火遠理命(彦火火出見尊)、火明命、神武天皇の本名・彦火火出見(祖父と同名)など、天孫族=火氏と言ってもよいほどなのである。
 要するに、天孫族とは金官加耶国から北九州の糸島半島付近へ移住してきた渡来集団の神話的象徴であり、天孫降臨とはまさにその渡来プロセスの神話化にほかならないと推定できるのである。

2012年2月28日 (火)

天皇の誕生(連載第4回)

第二章 「神武東征」の新解釈

南九州の日向から、軍団を率いて畿内へ侵入し、大和朝廷を建てたとされる「天神」の子・初代神武天皇の東征は単なる神話なのか、それともそこには何らかの史実が投影されているのであろうか。

(1)「神武東征」の出発地

宮崎日向説
 天孫・ニニギの曾孫・彦火火出見(後の神武天皇)に率いられた東征軍団(以下、「神武軍団」と呼ぶ)の出発地について、『記紀』は一致して南九州(宮崎)の日向とする。
 そもそもニニギが降臨したとされる場所が『書紀』では「日向の襲[そ]の高千穂の峯」とされており、これが今日でも宮崎の高千穂として名所旧跡となっているところである。
 そして、ニニギとその子のヒコホホデミノミコト、孫のヒコナギサウガヤフキアエズノミコトの三代の陵墓(いわゆる神代三陵)はいずれも今日の鹿児島県内にあり、宮内庁が治定する「天皇陵」に準じて管理されている。
 このように鹿児島県まで飛んでいく理由は後に解明するとしても、宮崎日向説は『書紀』の叙述の内部で矛盾を来たしているのではないかという疑問がある。
 景行紀17年3月条に、第11代景行天皇が熊襲討伐の後、子湯県[こゆのあがた](宮崎県児湯郡)の丹裳小野[にものおの]というところに遊んだ際、東方を望んで「この国は真直ぐに日の出る方に向いているなあ」と感嘆したことが「日向国」[ひむかのくに]と名づけられた由来だとある。
 景行天皇の九州遠征の途上に「日向国」が命名されたというならば、景行よりもはるか前の神武の代で当然のように宮崎の日向が出てくるのは論理的におかしいわけである。
 また、景行天皇が王朝開祖・神武天皇の故地を訪れていながら、重要な先祖の神武天皇を思い起こさずに、未知の処女地であるかのような感想を漏らすというのも不自然な感じがする。
 さらに言えば、記念すべき神武天皇の生地に、蛮族として描かれる熊襲が割拠しているというのも理解に苦しむところではある。

筑紫日向説
 天孫降臨の地について、『記』では「竺紫の日向の高千穂の久士布留多気[くじふるだけ]」とより明確に記されている。実は、『書紀』でも、神代編第九段別伝第一書では「筑紫の日向の高千穂のくし(木偏に串)触峯」と同様の記述が引用されている。
 注目すべきは、「竺紫(筑紫)の日向」という一句。この「筑紫」を狭義に取れば、「日向」は北九州の筑紫にもあったことになる。今日、北九州に「日向」という正式の地名は残っていないようだが、福岡市と糸島郡の間に位置する高祖山連峰の中に「日向山」、「日向峠」があり、また「日向川」が流れている。これらは「ひなた」と読ませるのであるが、「ひむか」と同義である。
 ちなみに、『書紀』がニニギの山陵の地として示すのも「筑紫の日向の可愛[え]」で、ここでは「筑紫の日向」が登場する。すると、ニニギは南九州ではなく、北九州の「日向」に降臨し、ここで没したと考えるほうが合理的のようである。
 ところで、ニニギの山陵として記される「可愛」は文字どおり「カエ」と読めば、、高祖山連峰にも近い福岡県の糸島半島にあり、『万葉集』にも「草枕旅を苦しみ恋居れば可也の山辺にさ雄鹿鳴くも」と歌われた名峰・可也山[かやさん]と通ずるところがある。
 そして、この可也山頂にはまさに神武天皇を祀る可也神社も所在しているという事実も、偶然とは思われない。
 こうしてみると、ニニギに始まるいわゆる天孫族の活動舞台とその子孫とされる神武の東征出発地も「筑紫の日向」と見たほうが合理的なように思われるのである。これは近年一部で有力化している説でもある。

「宮崎日向説」の背景事情
 それではなぜ、とりわけ『書紀』は天孫族の活動舞台と神武軍団の出発地を南九州に設定しようとしたのであろうか。
 これは、南九州の先住民族と目される隼人勢力の動向と関連している。『書紀』の編纂が鋭意進められていたと見られる700年、当時朝廷が南西諸島及び大隅半島・薩摩半島など九州最南部の踏査に送り込んでいた覓国使[べっこくし]が隼人勢力に威嚇されるという事件があり、朝廷は懲罰のため軍を派遣して、この地域の征服を本格的に開始、702年に唱更国(後の薩摩国)、713年には大隅国を設置するなど、隼人勢力の征服が進展した。
 それでも隼人勢力は容易にまつろわず、たびたび反乱を起こすが、最終的に『書紀』が完成した720年の大反乱が翌年、万葉歌人でもあった大伴旅人率いる朝廷軍に鎮圧されて以降、反乱はほぼ終息する。
 このように、『書紀』の編纂は奈良朝の隼人征服作戦と並行するようにして行われていた。隼人征服は究極的に軍事力によったが、隼人服属を正当化するためには理論武装も必要であった。それが『記紀』に共通する隼人の天孫出自説である。
 それによると、隼人の祖はニニギの子であるホノスセリノミコト(火照命[ホデリノミコト])だというのである。この神は同母弟・ヒコホホデミ(火遠理命[ホオリノミコト])とともに、海幸彦(兄)・山幸彦(弟)の物語の主人公としてよく知られているところである。
 有名な神話であるから内容は省略するが、この物語の政治的なポイントは、兄弟の対立の中で、最終的に兄(海幸彦)が弟(山幸彦)に服属するということである。つまり、隼人の祖とされる兄が弟に敗北するわけである。
 この神話の政治的な仕掛けの巧妙さは、まず隼人を天孫族の系譜の中に取り込んでおいて「隼人と皇室は同祖」という懐柔的な定式を立てた上で、先住の海洋民族(=隼人勢力)を暗示する兄=海幸彦が後住の農耕民族(=大和朝廷)を暗示する弟=山幸彦に敗北・服従するという結果によって、隼人の朝廷に対する服属を正当化しようという論法になっているところにある。
 こうした仕掛けを作動させるには、天孫族の活動舞台は隼人勢力の地盤である南九州であったほうが都合がよく、その結果、天孫族の一員である神武の東征出発地もまた「南九州の日向」ということになったのであろう。

2012年2月26日 (日)

〈反差別〉練習帳・目次

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より個別記事をご覧いただけます。
※なお、現在、別ブログにて『差別克服講座』を連載中です。併せてご覧ください。

まえがき ページ1

理論編
一 差別とは何か 
ページ2 ページ3
二 差別の要因 ページ4 ページ5
三 国民国家と差別 ページ6 
四 差別に関する行為類型 ページ7 
五 差別と言葉 ページ8 ページ9 
六 差別克服のための視座 ページ10
七 反差別教育 ページ11 ページ12
八 差別救済のあり方 ページ13 ページ14

実践編
はじめに 
ページ15
レッスン1 容姿差別 
 
例題  ページ16 ページ17
 まとめと補足 ページ18
レッスン2 障碍者/病者差別 
 例題 ページ19 ページ20 ページ21
 まとめと補足 ページ22
レッスン3 人種/民族差別
 
例題  ページ23 ページ24
 まとめと補足 ページ25
レッスン4 外国人差別
 例題 ページ26 ページ27
 まとめと補足 ページ28
レッスン5 犯罪者差別
 例題 ページ29 ページ30
 まとめと補足 ページ31
レッスン6 職業差別
 例題 ページ32 ページ33
 まとめと補足 ページ34
レッスン7 同性愛者差別
 例題 ページ35 ページ36 ページ37
 まとめと補足 ページ38
レッスン8 性差別
 例題 ページ39 ページ40 ページ41 ページ42 ページ43
 まとめと補足 ページ44
レッスン9 能力差別
 例題 ページ45 ページ46
 まとめと補足 ページ47
レッスン10 年齢差別
 例題 ページ48 ページ49 ページ50
 まとめと補足 ページ51

2012年2月25日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載最終回)

実践編

レッスン10:年齢差別

〔まとめと補足〕

 例題を通じて見たように、年齢差別は未成年者に対する差別と高齢者に対する差別とに分かれる。後者の高齢者に対する差別も、厳密に言えば老齢者に対する差別と就職上の年齢差別に見られるように相対的な高年者に対する差別に分けることができる。
 いずれにせよ、年齢差別という現象は、人が早熟早死の時代で、また今でもそういう状況下にある社会では表面化してくることはない。なぜならそのような時代ないし社会では未成年期は短く、また高齢者は例外的な福寿者にすぎないからである。
 従って、年齢差別は人の寿命が延び、比較的長い未成年期と極めて長い高齢期―「前期」と「後期」に分類されるほどの―を経験するようになって初めて顕在化してくる長寿社会の差別現象と言える。
 こうして年齢差別は一つ前のレッスン9で見た能力差別の応用分野という位置づけにある。なぜなら年齢の高低は能力の高低と相関関係にあると考えられているからである。未成年者の場合は未熟による能力不足、高齢者の場合は老化による能力低下が差別の根拠となっているのである。
 ただ、すべての差別に通低する視覚的表象による差別という本質が年齢差別にも備わっている。例題でも取り上げたように、アンチ・エイジングという語は、その反面において「しわくちゃ」「よぼよぼ」の老齢者の容姿を蔑視している。
 また女性(場合により男性も)の就職における年齢差別には、より明白に(相対的な)高年者に対する容姿差別の要素が認められるのであった。
 これに対して、未成年者に対する差別には容姿差別の要素は希薄なように見える。しかし、ここでも未成年者は一般に身体が小さく、容貌も幼いことへの見下しの視線が一定は認められるのである。
 このように年齢差別は能力差別的要素と容姿差別的要素とが交差する領域でもあると言える。そこで、その克服には能力差別とともに容姿差別について述べたところがあてはまる。
 表象という観点から見ると、未成年者と高齢者とが差別されることは、年齢に関しては青壮年の成人が最も賛美されることの反面的な結果である。結局のところ、―おそらくは世界中で―「青壮年の美男子」が人間の理想型として表象されているのである。その理想型から外れていればいるほどに差別の標的となりやすいと一般的には言えるであろう。
 とすれば、差別の克服にとって、こうした幻惑的な表象への束縛から人間をいかにして自由にすることができるかということが課題となる。ここで、理論編命題26で見た「内面性の美学」と「全盲の倫理学」をもう一度思い起こして練習完了としよう。(連載終了)

2012年2月24日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第50回)

実践編

レッスン10:年齢差別(続き)

例題3:
認知症が進行して認知機能が著しく低下した高齢者に対して、幼児のように接することは差別的だと思うか。

(1)思う
(2)思わない
(3)わからない

 かつては「痴呆症」などと差別的な学術・行政用語で呼ばれていた老人性疾患が「認知症」という品格ある用語に変更されても、高齢者への虐待は絶えないようである。こうした虐待は「差別」というよりも「人間の尊厳」の問題としてとらえるほうが適切なようにも思える。
 しかし、高齢者虐待という態度のうちには、身の回りのことを自力でこなす能力を喪失した要介護高齢者に対する蔑視が含まれており、その観点からはこれを高齢者差別の問題としてとらえることができるだろう。
 もっとも、本例題は虐待そのものではなく、認知症の進行した高齢者に幼児のように接する態度の是非という応用問題である。
 虐待の多くは家庭内で発生するのに対し、幼児のような接し方は老人ホーム等の介護職員の態度にしばしば見受けられる。施設によっては「お遊戯」のようなまさに幼児的なプログラムを「ケア」の一環として取り入れているところも散見されるようである。
 こうした高齢者の幼児扱いは子どもに返った高齢者に対する「優しい」接し方として案外専門家によっても容認されているように見える。
 しかし、表面上幼児のようになっているとしても、それは認知症という病気のゆえであって、近年の知見によれば認知症でも知的機能や感情はかなりの程度残存しているとも言われ、本当に幼児返りを起こしたわけではなく、高齢者が長い人生を刻んできた成人であることに変わりない。
 そういう成人を幼児扱いすることは、それがいかに「優しい」態度であっても、そこには能力を喪失した高齢者への見下しの視線が伏在してはいないだろうか。これはちょうどレッスン2で見た「障碍者への同情」という態度にも通ずる利益差別の一形態ととらえることも可能である。
 このような結論には疑問を感ずる向きもあるかもしれない。たしかにこれは難問であるから、以上が唯一の正答というわけではない。各自でさらに省察を深めていただきたい。

例題4:
[a] アンチ・エイジングは人間の理想だと思うか。

(1)思う
(2)思わない

[b] ([a]で「思う」と回答した人への質問)その理由は何か(自由回答)。

 昨今はアンチ・エイジング流行りであるが、アンチ・エイジングを差別との関わりで引き合いに出すことをいぶかる方もあるかと思われる。
 しかし、アンチ・エイジングとは単なる「老化防止」とは異なり、文字どおりにとれば「反老化」であって、老化に対して明確に否定的な価値観に立った美容健康の理念と実践である。
 もっとも、アンチ・エイジングを広義にとると、内臓の健康や精神的な若さを保つといった「内面」の反老化を含むとも考えられるが、世上アンチ・エイジングは容姿の若さを保つという「外面」の反老化に圧倒的な比重が置かれている。[b]の設問で尋ねたアンチ・エイジングを理想とする理由としても、「見た目の若さをいつまでも保っていたいから」といった理由が多いのではないだろうか。
 例題1でも若干示唆したように、高齢者はその容姿の衰えを醜悪なものとして蔑視されるのである。「しわくちゃ」といった形容はその典型的な差別語である。また「よぼよぼ」といった形容も、基本的には足腰の衰えを蔑視するものではありながら、同時にそういう衰えた容姿を蔑視する表現でもある。
 アンチ・エイジングという語も、これを差別語と断定すると反論があるかもしれないが、この語は少なくともその反面において高齢者を差別するニュアンスを含んでいるので、反面差別語には当たると考えるべきであろう。
 もっとも、当の高齢者自身がアンチ・エイジングを実践しているならばどうなのだろうか。これはレッスン1でも取り上げた美容整形の問題と類似している。そこでは自身の容姿を醜いとみなして美容整形するのは自己差別であると論じた。同じように、自らの「しわくちゃ」「よぼよぼ」の将来的な容姿を醜いと感じ、アンチ・エイジングに励む高齢者も一種の自己差別を実践しているわけである。
 例題では尋ねていないが、設問[a]でアンチ・エイジングを人間の理想とは思わないとする人の理由は何であろうか。答えはいろいろあり得るが、人間は年相応の容姿を持っていても恥じる必要はないということであろうか。大切なのは「外面」よりも―内臓も含めた―内面である、と。
 とすれば、これも理論編で見た「内面性の美学」に帰着することになる。つまり、差別の問題とは容姿差別に始まり周回して再び容姿差別へ立ち戻ってくるものなのである。

2012年2月23日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第49回)

実践編

レッスン10:年齢差別(続き)

例題2:
[a] あなたはおよそ未成年者に選挙権を与えない現行選挙制度は正当だと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

[b] あなたは未成年者でも殺人などの重罪を犯した者は、成人並みに処罰されるべきだと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

 年齢差別というと、通常は高齢(高年)者差別であるが、反対に未成年者差別という問題もある。もっとも、これを「問題」と認識するかどうかが一つの問題であって、例題2はそのことに関わっている。
 基本的な権利の上で未成年者と成年者とを最も大きく隔てているのが選挙権の有無である。現在の日本の選挙制度では、例外なく未成年者に選挙権を与えていない。このような選挙制度のあり方は果たして正当なのだろうか。
 おそらく現時点では、正当との回答が大方かと思われる。その理由として、未成年者は未熟であり、政治的な判断能力を欠いているからという「能力」問題が挙がってくるだろう。
 しかし果たしてそう断言できるものだろうか。たしかに10歳の子どもに選挙権を保障しないことにほとんど異論はないだろうが、20歳に1年足りないだけの19歳の「青年」―そう呼んでさしつかえないだろう―に選挙権を保障しないことを合理的に説明できるだろうか。19歳と20歳とで、政治的な判断能力に0と100の違いがあるとはとうてい考えられまい。
 そうだとすると、現行選挙制度がおよそ未成年者に選挙権を与えないことは、未成年者=政治的無能力者といった決めつけに基づく差別と言ってよいように思われる。極論すれば、政治・経済について非常によく学んでいるませた15歳のほうが、政治的に無関心・無知な51歳よりも政治的な判断力を備えているとみなすことすらできるだろう。
 もっとも、それでは何歳以上の未成年者に選挙権を保障すべきかということになると一義的な答えは見出せない。これについては立法政策に委ねるほかない。
 ちなみに、被選挙権に関しては、日本の公職選挙法はその下限年齢を25歳(参議院議員と都道府県知事については30歳)としている。被選挙権は公職選挙に立候補して議員や首長に就任する権利であるから、より高度な政治的判断能力と活動能力とが必要とされ、成年者であってもそうした能力に欠けるとみなされる24歳以下のいわゆる若年成人には被選挙権を与えないという趣旨である。
 しかし、被選挙権についても果たして一律にそう決めつけてよいのか、場合によっては(例えば市町村議会議員の場合)未成年者にさえ被選挙権を与えてよいのではないかという疑問もあり得るところであるが、この問題に深入りすることは避けたい。
 一方、[b]の設問は[a]とは異なり、刑罰の強制という法的義務の側面における未成年者の取扱いを問うものである。
 現在、罪を犯した未成年者については、基本的に少年法が適用され、刑罰に代えて保護処分という教育的な処分が科せられるが、これは未成年者が人格的になお成長途上にあり、改善更生の可能性が高いことを考慮して刑罰を免除し、より教育的な内容の処分を科す趣旨である。
 これが[a]の設問とどう関わるかと言えば、[a]の設問に対して、「未熟」を理由に未成年者に一律に選挙権を与えないことを正当と考えながら、[b]の設問では一転未成年者でも重罪を犯せば成年者並みに扱うべきことを要求するのは一貫しないのではないかということである。
 つまり、子どもは子どもとして扱うというならば、法的権利に関しても法的義務に関しても同じでなければならず、法的権利については子どもとして扱いながら、法的義務については大人として扱うというのは、まさに大人のご都合主義と言わざるを得ないだろう。
 この点、近年の日本社会では少年犯罪に対する厳罰化論が盛んになり、16歳以上の少年が故意の犯罪行為によって被害者を死亡させた場合には、原則として刑罰を科するという法改正もなされた。この改正法は、原則的に刑罰を科する年齢と罪種とを限定したうえで、なおかつ例外的に保護処分を科す余地も認めているとはいえ、選挙権は未成年者に一切与えていないことを考えると疑問が残る。
 これに対して、[a]の設問で未成年者に一律に選挙権を与えないことを不当としつつ、[b]の設問では選挙権を有する未成年者が重罪を犯したときは成年者並みに刑罰を科することを肯定するならば、それは一つの見識と言えるかもしれない。
 ただ、そう考えた場合でも、人格的な成長途上にある未成年者を一律に成年者並みに処罰するわけにもいかないので、個別的な事情によっては刑罰に代えて保護処分を科する余地はなお認められるべきであろう。そのような方向で未成年者の未熟さを考慮することは、もちろん差別には当たらない。

2012年2月22日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第48回)

実践編

レッスン10:年齢差別

例題1:
[a] 雇用に際して年齢に上限を設けたり、年齢の若い者を優先採用したりすることは合理的だと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

[b] 雇用における定年制はあったほうがよいと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

 設問[a]は雇用の領域における典型的な年齢差別の事例である。現にこのような差別を受けて職が見つからず、生活難に陥っているという切実な方も少なくないと思われる。
 それにしても、なぜ雇用上の年齢差別が根絶されないのだろうか。そのわけは、[b]の定年制にある。
 おそらく設問[a]で年齢差別的な雇用慣行に否定的な回答をした人の多くも、設問[b]では従来雇用慣行として確立されてきた定年制には肯定的な回答をするのではないだろうか。しかし、それは果たして一貫した論理と言えるだろうか。
 実のところ、定年制自体が年齢だけを理由に一律に労働者に退職を強いる差別的な制度である。ここでは高齢者=職業的無能力者という能力差別的な決めつけもなされているわけである。
 そして、こうした年齢‐能力差別的な定年制を土台として、[a]のようないわゆる現役世代に対する年齢差別慣行も成り立っているのであるから、定年制を合理的と考えるならば、定年に近い年齢であればあるほど採用されにくいという現実は受け入れざるを得ないことになる。
 定年制を合理的と考える理由として、定年制がなければ老人がいつまでも居座ることによって、新卒者の就職が困難になるという問題が挙げられる。
 たしかに一理あるが、逆に新卒一斉採用‐定年制という画一的な雇用慣行―これは日本社会では強固に定着している―のために、新卒で就職を逃すと、年齢が上がるほどに[a]のような年齢差別を受け就職が困難となり生活も成り立たないという問題が生じてくる。
 それを考えると、定年制を廃止し、もって年齢差別的雇用慣行全般を廃したほうが、人生設計に柔軟性が生まれ、すべての人にとって有利なはずである。
 この点、近時は年金財政の逼迫を背景として、年金受給開始年齢引き上げの代償としての定年制廃止論も起きている。しかし、これは当面の財政経済事情に対応するための「対策」レベルの話であって、「誰もが年齢にかかわりなく就労できるようにする」という雇用における年齢差別解消策とは全く異質の論である。
 これでは形の上で定年制が廃止されたとしても、高齢者の雇用は多くの場合、低賃金の不安定労働にとどまり、無年金を補うだけの効果は得られないであろう。
 ところで、定年制を廃止してもなお残存するかもしれないタイプの年齢差別がある。それはとりわけ女性の雇用に際しての年齢差別である。この場合は、若い女性に囲まれて仕事をしたい男性管理職層の欲望が根底にあり、その本質はレッスン8で取り上げた性差別である。
 ただ、職場によっては男性の採用に際しても、中高年者より見栄えの良い若い男性を優先採用する慣行を持つところもあり得るが、そうした場合も含めてとらえれば、こうした定年制と無関係の年齢差別はレッスン1で見た容姿差別の問題に帰着することになろう。
 後に別の角度から再検討するが、高齢(高年)者は能力ばかりでなく、容姿の衰えという観点からも差別される存在なのである。

2012年2月20日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第28回)

第5章 略

二 イングランド・北欧の形成

(1)アングロ‐サクソン族の来住
 後にその枢要部がイングランドと呼ばれることとなるブリテン島(ブリタニア)南部はローマ時代、大陸のガリアと並び、ローマの占領下でローマ化したケルト人の世界であった。しかし、4世紀半ば以降、ローマ帝国の衰退に伴ってローマの支配力は減退していき。5世紀前半にはローマ軍はブリテン島から完全撤退してしまう。
 その後、5世紀半ば頃になると、今日のデンマークからドイツ北岸に本拠のあったゲルマン系アングル族とサクソン族―両者は極めて近縁であるので、包括してアングロ‐サクソン族と呼ばれる―が北海を渡って集団で移住し始めた。これもやや遅れてのゲルマン民族大移動の一環と見られる。
 アングロ‐サクソン族は先住ケルト人を駆逐して多数の部族国家を形成したが、やがてそれらは6世紀末頃までに七つの強国に収斂されていった。同時にアングロ‐サクソン族の間では、かつてのフランク族と同様に正統派キリスト教が普及し、8世紀にはほぼ全部族国家がキリスト教化されたようである。
 8世紀末頃になると、七強の中でも西部のウェッセックス王国が優勢化し、829年にはエグバート王の下で頂点に立った。そして、871年に即位したエグバートの孫アルフレッド大王の時、統一を果たした(アングロ‐サクソン王国)。
 アルフレッドはイングランドのカール大帝とも称されるほど、イングランドの統一に寄与したので、イングランドの実質的な始まりをアルフレッド時代に取ることもできよう。
 なお、ブリテン島北部のスコットランドと西部のウェールズではなおケルト人の部族制社会が続いていく別世界を形成した。

(2)北欧バイキング
 イングランドがウェセックス王国を軸に統一される要因を作ったのは、北欧バイキングの来襲という難局であった。ブリテン島はバイキング活動の最大標的とされたからである。
 バイキング活動の主体となったゲルマン系北欧人(ノルマン人)は大移動時代には動かず、8世紀末頃になってバイキング活動を精力的に行うようになった。
 その要因について定説はないが、かれらは内陸部の同族たちとは異なり、元来海洋民族であったから、内陸部の同族たちが陸上を移動した代わりに、海上へ繰り出していったのは自然なことであった。
 ここでバイキングと聞いて「海賊」をイメージするのは誤りである。船舶を襲撃して物資を略奪する海賊は―現代でも見られる―もっと新しい現象である。これに対してバイキング活動は船で乗りつけて陸上で略奪・拉致を働いて獲得した物資や人を市場で売り渡す粗野な商業活動であった。実際、ノルマン人はイスラーム圏とさえ取引関係を持っていた証拠がある。
 こうしたバイキング活動の結果、北欧を中心にノルマン経済圏と言うべき商業ネットワークも形成された。かれらはまた、ムスリム商人とともに貨幣経済を発達させた。
 ノルマン人の中でもデーン人(デンマーク人)はその組織力と機動力を生かしてカロリング帝国の北海防備を打ち破り、最も強力なバイキング活動を展開した。その最大標的となったイングランドでは西部のウェッセックスを中心にまとまって防御体制を整備していったことが、イングランドの統一を促進したのである。
 しかし、9世紀末頃からデーン人は定住を志向するようになり、アルフレッド大王はデーン人首長と協定して東北部にデーン人の法慣習に基づく自治区(デーンロー)を設定することで住み分けを実現したのである。
 10世紀初頭には西フランク王国を寇掠していたデーン人首長ロロ(ノルウェー人説もある)が西フランク国王シャルル3世(単純王)とのサン・クレール・シュール・エプト条約(911)に基づいてフランス北西岸に封建領主として分封された。これがノルマンディー公国の始まりで、公国は後に半独立王朝となり、ロロの六世孫に当たるギョーム(ウィリアム)がイングランド征服に乗り出していくのである。
 さて、10世紀末になるとデーン人のイングランド寇掠は再び活発化し始めるが、当時のアングロ‐サクソン王国はデーン人勢力に貢納する(デーン税)以上の対処をなし得なかった。そうした中、デンマーク王子クヌートがイングランドに侵攻し、王位に就いた(1016)。彼は本国デンマークとノルウェー、さらにスウェーデンやスコットランドの一部も併合し、一代で大帝国(北海帝国)を築き上げた。
 この帝国が持続していれば、その後のイングランド・北欧史は全く違ったものになっていたであろうとも言われる。しかし、北海帝国は大王を冠せられるクヌート個人のカリスマ性に依拠していたため、彼の死後間もなく崩壊し、イングランドではアングロ‐サクソン王国が復活する。

(3)ノルマン征服とその後
 復活したアングロ‐サクソン王国の王座に就いたエドワード(証聖王)は敬虔であったが、政治の実務手腕には欠けていた。彼の時代のイングランドは数人の伯(アール)の所領(アールダム)に分裂しており、とりわけウェセックス伯ゴドウィンと息子のハロルドが権勢を誇っていた。
 一方で、母方がノルマン人であったエドワードは長年ノルマンディー公国で亡命生活を送っていた経験からも多数のノルマン人を呼び寄せ重用したため、イングランドのノルマン化が進行した。
 こうした中で1066年、エドワードが後継者なく没すると、エドワードの妃の兄でもあった先のハロルドが諸侯会議によって王に推挙された。これに対して、ノルウェー王の支援を受けたハロルドの弟トスティと、エドワードの親類でもあり、エドワードから王位継承を約束されていたと主張するノルマンディー公ギョーム(2世)も王位を主張して北と南からほぼ同時に侵攻してきた。
 ハロルドは北部でトスティ・ノルウェー軍を破ったが、南部ではへースティングズの戦いでノルマンディー軍に破れ、戦死した。これにより、ギョームがウィリアム1世(征服王)として新たにノルマン朝を開いた(ノルマン征服)。
 先述したように、ノルマンディー公はデーン人バイキングを祖としながらも、この時代には形式上カペー朝フランスの封建領主としてフランス人化していた。従って、ノルマン朝の下でイングランド国王も形式上フランス国王に臣従することとなり、公用語も含めたイングランドのフランス化が進行した。これは従来、辺境の地であったイングランドが以後、地政学的にヨーロッパに編入されていくことを意味したであろう。
 同時に、以後のイングランド(英国)王はすべて父方または母方を通じて征服王の子孫から出ており、血統的にも「ノルマン征服」は恒久的な効果を持ったのである。
 ノルマン朝は征服王朝であったため、封建的でありながらも国王権力が強大で、新たにイングランドで授封されたノルマン人騎士たちは国王の家臣として従属的地位に置かれた。
 こうした王権の強大さを象徴するのが、ウィリアム征服王晩年の集大成として編纂された土地台帳ドゥームズデイ・ブックである。ドゥームズデイ(=最後の審判)という皮肉な名称を冠されたこの土地台帳は実際、準司法的な手続に従った厳正な検地に基づいて作成されたものであって、当時のヨーロッパにこのような検地を断行し得る強力な君主は征服王をおいて他に存在しなかったのである。
 しかし、ノルマン朝自体は長続きしなかった。12世紀前半には王位継承をめぐり、共に征服王の孫に当たる時の国王スティーブンと元神聖ローマ皇后マティルダ(前国王ヘンリー1世の娘)との間で20年近くに及んだ内戦を経て1154年、マティルダの息子で、征服王の曾孫にも当たるアンジュー伯アンリがヘンリー2世として王位に就き、プランタジネット朝を開いた。
 アンジュー伯も形式上フランス国王に臣従し、フランス西部に広大な領地を保有する半独立の封建領主で、プランタジネット朝開祖ヘンリー2世の時にはノルマンディーも併せてフランス西半部からイングランドにまたがる「アンジュー帝国」を形成した。こうして、イングランドのフランス化は当分の間、既定路線となる。
 しかし同時に、ヘンリー2世は特に法制度の整備に力を入れ、ローマ法を基本とする大陸法とは異なる独自の慣習法(コモン・ロー)に基づく法体系を発展させる端緒を開いた。その意味でヘンリー2世と彼に始まるプランタジネット朝が今日の英国的法制度の基礎を築いたと言えるのである。

(4)北欧諸国の形成
 北欧人のバイキング活動は11世紀前半頃までにはほぼ終息し、それに前後して北欧諸国の形成がキリスト教の受容を伴いつつ進行していく。
 ただ、イングランドを北欧と統合したクヌート大王の北海帝国が挫折し、代わってノルマン朝以来イングランドがフランスと結合されたことによって、北欧諸国はイングランドとは別途独自に形成されていくことになる。
 北欧諸国の形成過程には不明な点も多いが、最も早く統一国家形成が進んだのはノルウェーで、10世紀初頭頃とされる。次いで10世紀半ば頃にデンマーク、11世紀初頭頃にスウェーデンが統一される。これら三国は王国として発展するが、西欧的な封建制は西欧に接するデンマークで最も発達し、スウェーデンではあまり発達しなかった。
 以上の三国に対して、アイスランドとフィンランドの形成は独自的である。
 ノルウェー系バイキングの入植によって開拓された北欧最北の島国アイスランドでは、930年に世界最古と言われる「議会」(アルシング)が開設される。もちろんこれは今日的な意味での議会とは異なり、氏族集会的な代表機関にすぎなかったが、この国では以来、王を戴かない共和制の伝統が定着する。
 しかし、アイスランドは13世紀後半からノルウェーの事実上の植民地となったのに続き、14世紀末からはノルウェーとともにデンマークの支配下に入り、再度の独立は20世紀も半ばの1944年のことであった。
 一方、フィンランドには先史時代からウラル語族に属するフィン人が居住しており、バイキング活動を展開したゲルマン系ノルマン人の北欧諸国とは民族的・文化的に全く異なる。
 ただ、かれらはロシア方面へ進出したスウェーデン系バイキングと交易上の接触を持ち、一部はバイキング活動に参加したと言われる。しかし、部族制社会のまま、12世紀半ば以降、キリスト教化したスウェーデンによる十字軍遠征が行われた結果、スウェーデンの支配下に置かれることになった。
 フィンランドの独立は、19世紀初頭にスウェーデンに勝利してフィンランドを割譲された帝政ロシアが革命で倒れた20世紀初頭を待たねばならなかった。
 さて、これら北欧諸国の中では、やがてデンマークが強勢化し、フィンランドを支配するノルウェー、フィンランドを支配するスウェーデンを束ねた同君連合カルマル同盟の結成(1397)へ導く。

2012年2月18日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載第47回)

実践編

レッスン9:能力差別

〔まとめと補足〕

 能力差別という問題は、そもそもそれを「差別」と認識すること自体が困難なテーマである。能力は人間に対する正当な評価基準であるから、有能/無能で人間を分けることは差別などではなく、正当な選別(=選抜)だというわけである。
 しかし、能力差別をめぐっては、一般的に無能をあげつらう言葉として、「馬鹿」「阿呆」「低能」「のろま」「まぬけ」「ぼけなす」等々の差別語が豊富にあるし、知的障碍者に対しても「白痴」「知恵遅れ」などの差別語があり、レッスン1の容姿差別に匹敵するほど差別語の宝庫となっている。能力差別は厳然として存在するのである。
 ところで、能力とは人間の抽象的な属性でありながら、能力差別でさえ視覚的表象と無縁でない証拠に、「馬鹿面」とか逆に「利口そうな顔」などの能力を視覚化した差別語ないし反面差別語も見られる。
 こうした能力差別は、日常「差別」として認識されることが少ないわりに、究極的には優生思想とも結び合って、すべての差別事象の根底をなすものである。最終的にすべての被差別者は、何らかの形で「無能」の烙印を押されるのである。
 理論編で見た差別の体制化としてのファシズムの中でも極限を見せてくれたナチスが、社会淘汰論とともに強固な能力主義・エリート主義の綱領を携えていたことは、決して偶然ではなかった。ナチスは25か条綱領の中で、「有能かつ勤勉なすべてのドイツ人に、より高度な教育を受けさせ、もって指導的な地位に進ませるために、国家は国民教育制度全般の根本的な拡充について、考慮を払わなければならない」(20条)と謳っていたのである。
 この一文の「ドイツ人」を「日本人」に置き換えてみると、そのまま日本の能力主義者のスローガンとしても使えるのではないだろうか。
 ちなみに、ナチスの上記綱領では、先に引いた部分の後に、「我々は、身分または職業のいかんを問わず、貧困者の両親を持ち、精神的に特に優れた資質を持つ児童の教育を、国庫負担により実施することを要求する」とも付加する。
 これを読むと、一見して貧困家庭子弟にも開かれた教育機会の均等化を掲げているように思えるが、ここでも、ナチスが目指すのは「精神的に特に優れた資質を持つ児童」―それは知的にも優れていることを前提とする―の国家による選抜エリート教育なのである。
 理論編で近代的差別の三源泉として指摘した第一のもの、優生学やそれを支える社会進化論は、角度を変えてみれば、能力差別の正当化セオリーであるとも言える。そうであればこそ、優生学の祖ゴルトンも「遺伝的天才」を称揚し、試験による天才の選抜といった構想も打ち出していたわけである。
 それでは、能力差別の克服のためにはどうしたらよいだろうか。おそらく「何事かができる」ということを言い表す「能力」という概念そのものを廃棄することはできないだろう。しかし、「能力」という概念を人間を査定・選別する指標として用いることをやめることはできる。
 元来、「能力」は相対的である。それは試験を例に取るとよくわかる。ある試験で何点を合格点とするかによって、優等/劣等の基準は著しく変わってしまう。そこで、偏差値のように全体における相対的な位置づけを示す指標が持ち込まれるが、これはもはや相対性の極致である。
 また、ある分野では高い能力を示す人が別の分野では低い能力しか示さないということは、ありとあらゆる分野で高い能力を示す「超人」など現実には存在し得ないことからして、ごく普通のことである。
 こうしてみると、「能力」などというものは、ごく限られた分野における相対的な技量の度合いを評価する指標にすぎないことがわかる。
 「何事かが他人よりできる」ということはもちろん悪いことではないし、それは称賛や名声を獲得する手がかりともなるが、そのことを「能力」という相対概念によって査定・選別対象とする必然性はない。
 知能指数のようにやむを得ず能力の科学的指標化を行う場合でも、例題2に関連して指摘したように、それは知的障碍の発見と適切な療育へ結びつけるための手段として位置づけられるべきであろう。
 ただし、一つ現状ではどうしても「能力」による査定・選別を廃止できない理由があるとすれば、それは次のことである。すなわち、資本主義経済は人間の労働能力に対して金銭評価をせざるを得ないということ、要するに労働力の商品化である。これは、理論編で近代的差別の三源泉の第三のものとして指摘した近代経済学とも密接に関連してくる。
 資本企業が労働者の労働能力を査定するのは、できる限りそれを厳しく過小評価して賃金を抑制したい狙いを込めてのことであるし、学校の成績評価ですら、それは専ら将来の労働力としての値段に関わる優劣評価の意味を帯びている。
 そうすると、差別につながるような「能力」概念の利用を廃するためには、資本主義そのものの廃止も必要なのであろうか━。この問いはもはや本連載の論題に収まり切らないため、保留としておきたいと思う。

2012年2月17日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第46回)

実践編

レッスン9:能力差別(続き)

例題3:
あなたは、社会の指導層にはエリートとして選抜・育成された者が就くべきだと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

 日本社会では「学力」の優れた者から選抜・育成された少数のエリートが社会を指導するという体制が当然のものとして受け入れられてきたが、近年はどうであろうか。
 かねてエリート中のエリートと目されてきた国家官僚への風当たりは強まっているし、「お医者様」と崇められてきた医師に対しても、医療過誤を厳しく問う動きも出てきている。「エリート」に対する日本人の意識にも変化が見られるようである。それでもなお、日本社会では「エリート」という外来語を肯定的な文脈で使用する習慣が残されていることは間違いない。
 この「エリート(elite)」という語は、海外の民主的な諸国では、エリートでない一般大衆をエリートの指導に服すべき存在として劣等視する階級差別的なニュアンスを含む反面差別語とみなされるようになっているため、少数の者をエリートとして選抜・育成する「エリート教育」そのものに否定的である。
 しかし、日本ではいまだ「エリート」に対する幻想が残るため、学校教育でも「学力」向上を自治体ごとに競わせるような無意味な風潮が近年かえって強まる逆行現象も見られ、学力競争を通して人生前半で人間をふるいにかけ、エリートとノン・エリートとを選別するという発想自体は、いわゆる新自由主義的な優勝劣敗思想の流行とも絡み合って、強まりこそすれ弱まってはいない。
 しかし、こうした学力=学歴差別的社会システムは、多数の人たちの人生の選択肢を狭める一方で、エリートとして選抜された少数の者の特権を強め、かえって特権の上にあぐらをかいた“無能”を招来しているという皮肉な現実に気づく人も増えていることが、「エリート」に対する近年の日本人の意識の変化に現れているように見える。
 それによって、日本社会も次第に旧来のエリート信奉から覚めようと模索している最中なのかもしれない。そういう意味でも、近年盛んな官僚批判などの新たな動向を、単なる感情論的なバッシングに終わらせないようにしたい。

例題4:
あなたは、各界各分野で高い能力を示す者は裕福な暮らしができて当然だと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

 これは「エリート」という観点とは別に、およそ何らかの分野で有能さを証明した者には、高い報酬や年金等が与えられ、裕福な暮らしが保障されるという能力階級制の是非を問う例題である。
 この点、特権的なエリート支配には否定的な人の中にも、実質的に証明された能力に応じて裕福な暮らしが保障される能力階級制ならば賛成できるという人が少なくないかもしれない。
 このような能力至上の考え方は、新自由主義の思潮の中では、経営であれ、労働であれ、およそ市場的競争に打ち勝つ能力のある者の優越的な価値を強調する社会淘汰論の隆盛という形で近年のモードとなっている。
 特に、企業労働の分野では、従来賃金体系の主要な尺度であった「年功」に代わって、「能力」を基準とする能力給制や「成果」に応じた成果給制が導入されるようになってきた。
 また、近年大きな社会問題となっている非正規労働に関しても、露骨に言われることは少ないにせよ、「能力の足りない者は非正規労働力として低賃金に甘んじてもやむを得ない」という能力差別的な正当化理由が裏に隠されているため、なかなか本質的には解決されないのである。
 例題の質問は、「無能な者は困窮してもやむを得ないと考えるか」と直入に問うてもよかったのであるが、このように問うと、能力階級制を肯定する見解の中にも、「セーフティーネット」による救済については容認するという立場もあり、議論がクリアでなくなるため、あえて裏から問う形にしてみた次第である。
 ところで、能力階級制を支持する理由として、ここでの「能力」とは先天的な才能とか頭脳を言っているのではなく、「努力」の成果として後天的に獲得された能力のことであるから、努力した者に裕福な暮らしが保障されるのは合理的であって、もしそうでなければ人々は努力しなくなってしまうだろうというものがある。
 先のセーフティーネット論も、相応の努力をしたけれども成果が上がらなかった者を救済し、再チャレンジのチャンスを与えるといったニュアンスで語られることが多い。
 日本人は「努力」という言葉を好むようで、能力差別が個人的な「努力」の問題に振り替えられて正当化されやすい土壌がもともとある。
 「努力」することはもちろん良いことである。ただ、見方を変えてみると、「努力」とは結果論であるとも言える。すなわち、何かに成功すれば「努力した」と評価され、失敗すると「努力が足りなかった」と非難されるのである。「努力」の度合い自体を数値化することはできないため、「努力したが失敗した」という抗弁はなかなか認められない。
 一方で、「努力しないのに幸運で成功した」とは、成功者本人がなかなか認めたがらないので、成功における幸運という要素は常に軽視されがちである。
 結局のところ、「努力」の差で能力差別を正当化するという議論は、一つの転嫁的差別であると言ってよいであろう。
 それでは、能力のいかんを問わず、皆暮らしは平等であるべきか━。釈然としない向きもあるだろうが、特定の事柄で高い能力を示す人には必ず周囲の評価・称賛、ひいては社会的名声が無形的な報酬として与えられる。
 この種の報酬は決して「平等」にはなり得ないものであるが、有能さに対する報酬としてはそれで必要にして十分だとは言えないであろうか。

2012年2月16日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第45回)

実践編

レッスン9:能力差別

例題1:
あなたは「天賦の才能」に恵まれた「天才」の存在を信じるか。

(1)信じる
(2)信じない

 「天才」という言葉は古来、特定の分野で人を驚嘆させるような成果を上げる人に対してよく使われる。この「天才」という言葉自体は当然にも称賛語であって、差別語ではない。また、「頭が良い」といった表現とも異なり、その反面のものを劣等視するような反面差別語とも言えない。
 ただ、細かく分け入っていくと、天才とは、例題にもあるように「賦の能」に恵まれた者を意味するから、ここでは「才能」というものが特定の人間に先天的に与えられていると観念されていることになる。こうした先天的とされる「才能」を文字どおりに天(神)の被造物と観念しない限りは、親や先祖からの遺伝の産物と観念されることになるので、「天才」という概念はその理解の仕方によっては血統・世系による差別と危険な接点を生じてくるだろう。この点で、優生学の祖・ゴルトンが「遺伝的天才」という概念を提唱し、才能の遺伝性を強調していたことは偶然ではない。
 それでも、各界を見渡すと、とりわけ芸術やスポーツといった分野では、誰がどう見ても「天才」と呼ばざるを得ない傑出した成果を上げている者が存在するではないかと問われるかもしれない。
 たしかにそうだが、しかし、そういう人たちが示している傑出した成果とは、十分な資金を投入してたいていは早幼児期から特別な訓練を施され、特定分野の技能を仕込まれたことの成果にほかならない。言い換えれば、それは訓練の施され方が他の人よりも傑出していたことの結果なのである。
 そして、そうした傑出した訓練の成果に世人が驚嘆し、高く評価したときに「天才」という称賛がなされるわけである。従って、何らかの傑出した成果がほとんど社会的な評価の対象とならないような場合―例えば、大食い競争―には、どんなに人を驚嘆させても「天才」とは呼ばれないのである。
 より一般化すれば、「才能」という概念一般が訓練の成果なのであって、しばしば錯覚されているように、先天的な能力などではない。そして、そうした「才能」のレベルが「天才」と呼ばれるまでに引き上げられるか、それとも未完のままに終わるかは、訓練のために投入された資金の量に左右される要素が強いと言ってよいのである。
 こう考えると、「天才」という言葉にいさかか幻滅を感じ、使用を控えたくなるかもしれないが、それは「能力」という概念全般について問い直す初めの一歩となるであろう。

例題2:
[a] あなたは学業成績や学歴は生まれつきの頭脳の良し悪しに関係していると考えるか。

(1)考える
(2)考えない

[b] あなたは「知能指数」という指標を信頼するか。

(1)信頼する
(2)信頼しない

 [a]は「天才」の類概念とも言える「秀才」に関わる例題である。この「秀才」は「天才」に比べれば「天賦」という観念とは距離があり、一定以上「努力」によって形成されるというニュアンスが込められている言葉である。
 しかし、一方で、学業成績の良い人や学歴の高い人に対する「頭が良い」という反面差別的な評価や、逆に「自分は頭が悪いから進学をあきらめる」といった自己差別的な言い方にも見られるように、いわゆる「学力」に関しても、先天的な「頭脳」の良し悪しが関わっているという認識は社会一般に存在する。
 この「頭脳」という観念は、天才概念における「才能」とは別に、主として知的な側面における「天賦」の能力を表しているから、同様にそれが遺伝的な産物としてとらえられる限りでは、血統・世系による差別につながる概念であると言える。
 実際のところ、「頭脳」は「才能」以上に一定の知的訓練の成果を示すものであって、その成果を表現するとされる「学力」なるものも、通常は各種の試験における点数とか偏差値のような形式化された数値にすぎないのである。
 この点、日本社会では諸外国にもまして試験の効用が過大評価されがちで、まるで試験結果が人間の頭脳の質を判定する決定的な尺度であるかのように信奉されているため、人生前半の早い時期―さしあたりは15歳前後―に専ら試験の点数によって「秀才」とそうでない者とをふるい分ける能力差別システムが強固に定着している。そしてその結果として、学歴が人生のパスポートとなる「学歴社会」が形成されてきたわけである。
 ところが、そこでは学歴が単なる形式的な能力証明と化してしまうため、かえって実質的な能力よりは卒業証書という紙切れが物神崇拝され、かえって反能力主義に転化してしまうという皮肉な現実がある。言わば、学歴が一種の形式的な身分となり、前近代の生まれによる身分と類似の機能を果たしているのである(近代的身分社会)。
 他方、[b]は「学力」よりも科学的な次元で人間の頭脳のレベルを判定する指標である「知能指数」(IQ)に関わる例題である。このIQは知的障碍の診断基準としても使用されるため、レッスン2で扱った障碍者差別にも関わってくる概念である。
 実際、「頭が悪い」という意味を込めて「○○はIQが低い」といった表現をすることもあり、IQ自体は心理学・医学の術語でありながら、差別的文脈で用いられることがあり得る言葉である。
 もちろん、IQは正式の統一的な検査によって測定される指標であるから、一応客観性のある数値とみなすことは許されようが、それをどこまで信頼するかは一つの問題である。
 知的障碍についても絶対的な定義は存在せず、IQだけで形式的に知的障碍者かそうでないかをふるい分けることもできない。IQはそれが著しく低い場合は知的障碍を疑う必要はあるが、その場合も、IQは知的障碍を早期に発見し、適切な療育を施してその人の可能性を最大限に導き出すことができるようにサポートしていくための一つの指標として活用されるべきであって、決して「知能の高い者」と「知能の低い者」とを選別するための道具として利用されるべきではない。

2012年2月15日 (水)

天皇の誕生(連載第3回)

第一章 三人の「神冠天皇」

(3)応神天皇と八幡宮

皇大神としての八幡神
 応神天皇が新王朝開祖であるらしいことは、宗教の面からも確認することができる。まさに応神天皇を祭神として祀っている八幡宮の存在である。宇佐八幡宮(宇佐神宮)を総本社とする八幡神社は私たちに最もなじみ深い神社の一つで、その総数は稲荷神社に次いで全国二位という。
 この応神天皇の神格化である八幡神が朝廷からも本格的に崇敬されるようになったのは遅くとも8世紀中頃と見られているが、9世紀中頃に宇佐八幡宮を勧請した京都の石清水[いわしみず]八幡宮は朝廷からも崇敬され、八幡宮は「石清水の皇大神」「我が朝の大祖」などと称され、平安朝からも応神天皇は王朝開祖とみなされていたことが窺える(『日本三代実録』)。
 ちなみに、皇族からの臣籍降下によって創出された武家の源氏が八幡神を氏神としたのも、一族の皇室出自を誇るためであったと考えられる。

八幡信仰の由来
 ところで、最古の八幡宮と見られる誉田山[こんだやま]古墳(宮内庁治定応神天皇陵)に付設された誉田八幡宮は、社伝によると、第29代欽明天皇の命で創建されたとあり、総本社の宇佐八幡宮も欽明時代末期に八幡神が童子の姿で現れたことが由来とされることからして、八幡神信仰の原型となる応神崇拝は、欽明天皇自身が一定の政策的意図を持って創始したものと思われる。そうした歴史的経緯については、いずれ該当箇所で検証していく。
 一方、八幡信仰でもう一つ無視できない特徴として、八幡神の渡来神的性格がある。『八幡宇佐宮御託宣集』(14世紀成立)によると、童子の姿で顕現した八幡神は「辛国の城に始めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり」と宣したとある。
 ここで「辛国」[からくに]とは「韓国」の別表記であるから、この託宣は八幡神が元来朝鮮半島からの渡来神であったことを明示しているものとして注目される。とりわけ「八流の幡」という表現には、政治的にも重大なある象徴的意味が込められていると考えられるのだが、これについても後で改めて解明することにしたい。

(4)応神天皇と神功皇后

「神冠皇后」の存在
 『記紀』では、「皇后」でありながら実質上天皇と同格の扱いを受けた上に、漢風諡号に「神」の名を冠せられた人がいる。それが、応神天皇の母とされる神功皇后である。
 彼女は三韓征伐伝承のヒロインとして、古代コロニアニズムの中心的存在であり、かつ近代皇国史観の支柱でもあったことから、戦後は架空人物として否定されるようになった。
 しかし、皇国史観とは分離して、彼女の実像を応神天皇との絡みで再検証することは「天皇の誕生」プロセスを究明するうえで重要と思われる。
 ちなみに、『書紀』は大胆にも注記で神功皇后を邪馬台国女王卑弥呼に比定しようとしている。しかし、もし神功皇后=卑弥呼ならば、応神天皇は卑弥呼の息子であったことになるが、これは出来すぎた話で、「年すでに長大にして、夫婿なし」という『魏志』の記述からも、シャーマン女性として生涯独身だったと見られる卑弥呼像と合わない。
 一方、神功皇后の和風諡号「気長足姫尊」[オキナガタラシヒメノミコト]は、彼女が豪族・気長(息長[おきなが])氏の息女であったことを示している。息長氏は近江を本貫とし、越前方面まで勢力圏に収めた古い豪族であり、その墓域と見られる古墳群が米原市西部に残されているが、規模は小さい。
 しかし、そのわりに息長氏は大王妃を輩出する皇親として高い家格を持ち、特に第40代天武天皇が氏族改革の目玉として定めた「八色の姓」でも、息長氏は最高位の「真人」[まひと]を授姓されていることが注目される。
 これは天武自身、祖母(天武の曾祖母)が息長氏出身で、自身も「息長足日広額天皇」[おきながたらしひひろぬかのすめらみこと]の和風諡号を持つ第34代舒明天皇の息子であったことが関係しているであろう。
 実際、天武の実兄・第38代天智天皇以来、今日に至るまで、この「息長系」の天皇が続いているのであり、息長氏の重要性は再認識されるべきであろう。それとの関連で、息長氏の代名詞的存在である気長(息長)足姫尊=神功皇后の「実在性」を改めて探求する必要があると思われる。

渡来神としての神功
 宇佐八幡宮には応神天皇とその母とされる神功皇后も合祀されているが、宇佐からもさほど遠くない香春[かわら]神社にも辛国息長大姫大目命[カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト]として祀られている。この神社は古来新羅神を祀るところでもあるから、ここでは神功皇后は新羅神の性格を与えられていることになる。
 このように神格化された神功皇后が新羅神とされるのは、神功皇后の出自に関わっている。『記』の系譜(『書紀』では省かれている)によると、彼女は新羅王子・天之日矛[アメノヒボコ]の直系子孫とされる。
 『書紀』によると、アメノヒボコは第11代垂仁天皇の治世に渡来してきて、初め播磨国に滞在したが、「諸国を巡り歩いて、自分の好きなところに住みたい」との願いを天皇が許したので、近江国から若狭国を経て、但馬国に定住し、そこで地元の娘を娶って但馬諸助[タジマモロスク]を生んだ。この諸助の五世孫が神功皇后の母・葛城高媛[カズラキノタカヌカヒメ]で、彼女と気長宿禰王[オキナガノスクネノミコ]との間に生まれたのが気長足姫尊=神功皇后とされるのである。
 神功皇后の母方の伝承上の祖・アメノヒボコが「新羅王子」とされることの意味については、後に詳しく分析するが、いずれにせよ、応神=八幡神とともに神功=辛国息長大姫も渡来神の性格を持っているという事実は極めて示唆的である。
 ところで、宇佐八幡宮には応神天皇と神功皇后が母子で祀られていることになるが、母子だけを祀るというのはかなり異例であり、むしろ両者を「夫婦」と見たほうが自然のようにも思われる。このことは、宇佐八幡宮をはじめ、大きな八幡宮には応神の父とされる仲哀天皇が祀られていないという事実からも裏付けられる。
 この応神天皇と神功皇后の続柄という問題は、後でもう一度別の形で取り上げることにして、ここではさしあたりそういう問題意識を示唆するにとどめておく。

『記紀』で神聖視された三人の「神冠天皇」とは、実は神武と応神=崇神の二人であるが、この両者は各々時間的に先後する別王朝の「初代」であると推定される。そして、後者の応神天皇が皇室の実質的開祖であると見られる。しかも、彼はその母(実は妻?)とされる神功皇后ともども渡来神としての性格で祀られている。
となると、応神に始まる王朝よりも古い王朝の開祖と見られる「神武天皇」とはいったい何者なのか、またその古王朝とはいかなる勢力であったのか。

2012年2月14日 (火)

天皇の誕生(連載第2回)

第一章 三人の「神冠天皇」

8世紀に、漢学者・漢詩人の淡海三船[おうみのみふね]が撰じた歴代天皇の漢風諡号の中で、「神」を冠せられたのは初代神武・第10代崇神、第15代応神の三天皇だけである。このことは、8世紀の時点でも、三天皇が特別に神聖視されていたことの証しである。それはいったいなぜか。この問いが導きの糸となる。

(1)二人の「初代天皇」
 

ハツクニシラス
 普通、「初代天皇」と言えば「神武天皇」が思い浮かぶであろう。この「初代天皇」のことを、『書紀』は国土の最初の支配者という意味で「始馭天下之天皇」[ハツクニシラススメラミコト]と呼ぶ。
 ところが、『書紀』にはもう一人「初代天皇」が登場する。それが第10代崇神天皇である。そうすると、神武と崇神は同一人物ではないかとの推測も成り立つように思え、事実そういう説もあるが、崇神のほうは「御肇国天皇」と書いてやはり「ハツクニシラススメラミコト」と読ませている。こちらは、「初めて国家体制を整備し、統治した天皇」というぐらいの意味で、神武とはニュアンスに違いがあり、神武のほうが始祖性の強い「初代」なのである。
 両者はこうした称号の表記の違いのみならず、性格にも違いが見られる。すなわち━
 神武は軍団を率いた開拓者的な英雄として描かれており、神武自身、直接に天神の子とされ、神武紀は全体として前の神代の章とも連続性を保った神話的な体裁の強い章となっている。
 これに対して、崇神は神秘的で、霊能者風の性格があるが、崇神紀は神話的というよりは説話的で、『書紀』の叙述の中では一応歴史物語的な体裁が整い出すスタート地点に当たっている。

別の王統?
 それでは、いったいなぜ『書紀』は二人の「初代天皇」などという紛らわしい叙述をしたのであろうか。この問いの答えはとても簡単で、要するに神武と崇神とは元来、別の王統の「初代」なのだと仮定してみればよい。
 そういう目で『書紀』の構成をとらえ返してみると、崇神は神武の子とされる第2代綏靖[すいぜい]天皇から第9代開化天皇までの、事績の叙述が何もなく、単に天皇の名と系譜だけが記されたいわゆる「欠史八代」の後に登場している。
 神話的な英雄物語的描写が過剰なまでに示される神武と、ほとんどリストだけの「欠史八代」とを合わせた初期九代の「天皇」たちは、崇神以降の王統とは本来別の王統に属するものを、『記紀』の編纂者が作為的に一本化したか(もしくは彼らが参照した原史料がすでにそういう体裁になっていた)ものと想定することができるのである。
 ちなみに、この点では『記』のほうが徹底していて、『記』では神武にはハツクニシラスの称号を与えておらず、崇神だけに「知初国之御真木天皇」[初国知らししみまきのすめらみこと]の称号を与えているのである。これは元来、『書紀』にもまして天皇賛美の書である『記』のほうが、より強固に皇統の一貫性を打ち出さんとしているものと考えられる。

(2)崇神天皇と応神天皇

三人目(?)の「初代天皇」
 さて、神武と崇神の関係についてはひとまずおいて、ここで実は三人目の「初代天皇」がいるのではないかという問題を考えてみよう。
 それは第15代応神天皇である。『書紀』は、この天皇については神武、崇神天皇のようにハツクニシラスの称号を直接には与えていないけれども、応神はその父とされる第14代仲哀天皇が神罰に触れて死去した後、皇后で応神の母とされる神功皇后が数十年(『書紀』では69年間)も摂政として統治した後に即位するという筋書きとなっている。
 系譜上の形式的連続性は保たれているものの、皇位が長く空いた後に即位していることや、「聖帝」というような賛辞からすると、実質的に応神天皇も一種の「初代天皇」として扱われているに等しい。そこで、神武、崇神に続く三人目の「初代天皇」の登場を想定したくなるところである。
 そもそも、『記紀』の原史料となった『帝紀』『旧辞』(いずれも散逸)が成立した段階では、皇統譜も応神天皇から始まるものであったと考えられており、崇神から仲哀までの五代は7世紀前半頃に追加・架上されたと見られているのである(直木孝次郎氏)。

崇神と応神の類似性
 実際のところ、応神天皇は崇神天皇と奇妙にも類似性が認められるのだ。以下、列挙してみよう。
 第一に、いずれも新王朝樹立者としての性格が強いこと。
 応神は、すでに述べたように、皇位が長く空いた後に即位したことになっているが、崇神もいわゆる「欠史八代」の後に登場している。
 それと関連して、いずれも即位後の初期に、応神の場合は漁民の騒乱、崇神の場合は百姓の反逆が起きている。シチュエーションは異なるが、いずれも新王朝に反発する勢力の反乱が示唆されている。
 第二に、こうした新王朝開祖という位置づけに対応して、神聖なる大帝としての人物描写がなされていること。
 すなわち、応神は幼少から聡明で、物事を深く遠くまで見通し、立居振舞に聖帝のきざしありと描写されているが、崇神も善悪識別の力にすぐれ、早くから大きなはかりごとを好み、常に帝王としての大業を治めようとする心があった云々と評されているほか、垂仁紀には、崇神の子とされる第11代垂仁天皇の言葉を借りる形で「先帝・崇神天皇は、賢くて聖であり、聡明闊達」とほとんど応神そのものの人物評がなされている。
 第三に、具体的な事績としても、各地の平定、艦船の建造、池の造営(水利事業)などの点で類似点が多いこと。
 第四に、両天皇の即位後、海外(主に朝鮮半島)からの集団的渡来が記録されていること。
 もちろん、『書紀』の構成上、崇神と応神は別人の体裁をとっているから、細部に違いを持たせていることは事実であるが、大筋として見ると、重なってくるところが多い。
 大胆に推論すると、「崇神天皇=応神天皇」という等式が想定できる。つまり、『記紀』は本来一人の人物を崇神と応神の二人に分割する作為を加えた可能性があるのである。正確に言えば、より実在性の高い応神天皇の分身として「崇神天皇」を造作・架上したのである。
 このように実在の天皇―「天皇」称号の使用は早くとも7世紀半ば頃から始まったもので、それ以前は「大王[オオキミ]」を称した―を複数人に分割することによって造作された架空の天皇のことを、本連載では「分身像」と呼ぶことにする。
 『記紀』は、こうした分身像を応神の他にも二人の大王について造作していると考えられるのであるが、いずれ該当箇所で改めて検証していくことにしたい。

2012年2月13日 (月)

天皇の誕生(連載第1回)

プロローグ

 「天皇の誕生」というテーマは、正史・通説の立場からすれば、さしあたりは『古事記』(以下、『記』)及び『日本書紀』(以下、『書紀』)を参照のこと、と言うだけで済んでしまう。果たしてそれによると━
 天皇の祖は、皇祖神・天照大神[アマテラスオオミカミ:以下、アマテラスと略す]の神勅によって高天原より日向に降臨した孫の瓊瓊杵尊[ニニギノミコト:以下、ニニギと略す]であり、その三世孫になる彦火火出見[ヒコホホデミ]が大和に東遷し、在地勢力を征服して初代神武天皇として即位する。その後、累代にわたってすべてこの神武の子孫が連綿として皇位を継いでいる。こういうことになる。
 しかし、第26代継体天皇は第25代武烈天皇の近親者ではなく、第15代応神天皇の五世孫とされ、『記』及び『書紀』(以下、総称して『記紀』)の立場によっても継体朝は実質上新王朝と言ってよいのであるが―私見は本文で示すように異なる―、総体として神代から切れ目なく日本独自の土着的な王朝が続いているというのが、『記紀』の筋書きとなっている。
 今日ではさすがにこうした筋書きを鵜呑みにする学説は皆無であるが、戦前は「天皇制ファシズム」の核心思想として絶対の権威を持った皇国史観の史料的根拠として大いに利用されたところである。
 とはいえ、3世紀後半頃から4世紀初頭の早い時期から、後に天皇王朝となるヤマト王権がすでに成立しており、現皇室に至るまで連綿として実質的に同一の王朝が継続しているといった考え方の大枠は今日でも保持されている。
 特に近時は、『書紀』で第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命[ヤマトトトビモモソヒメノミコト]の墓と明記される箸墓(はしはか)を中国史書『魏志』に現れる有名な邪馬台国女王・卑弥呼の墳墓と結論先取り的に推定した上で、箸墓の築造年代が最新の放射性炭素年代測定の結果、3世紀半ばと結論づけられたことから、箸墓が「卑弥呼陵」である可能性が高まり、従って邪馬台国畿内説が裏付けられたとみなし、邪馬台国をヤマト王権の前身勢力として天皇王朝前史に組み入れようとする見解が急速に有力化してきた。
 このような講壇考古学・史学の動向は、戦前の神話的な皇国史観に対して、科学的な考古学の衣をまとった新皇国史観と呼ぶべき実質を秘めており、本文で改めて批判的に検証していく。
 ここではさしあたり、古墳の年代測定と歴史的な「天皇の誕生」プロセスとは分離して考察されるべきではないかということを提起しておきたい。古墳の年代測定は科学技術を駆使して客観的に行われるべきでことであるが、「天皇の誕生」プロセスは『記紀』の批判的読解(クリティカル・リーディング)を通じて探求されるべきことである。
 本連載はそうした試みの一つであるが、その結果として、正史・通説とは大いに異なるヘテロドクスな帰結に到達することとなった。
 このことは孤立を招くかもしれないが、本来言論の自由とは孤立を恐れず言挙げすることを意味したはずである。ただ、このような言挙げという所作は日本社会では好まれないことの一つであろう。
 しかし、『書紀』によると、ニニギが降臨を命ぜられた葦原中国(あしはらのなかつくに:日本列島)は騒がしく、「草木がよく物を言う」と評されている。ここで「草木」とは民衆を表象しているとすれば、いにしえの日本民衆はよく言挙げしていたようである。それを言挙げしづらくさせてしまったのは、まさに「天皇の誕生」とも全く無関係ではなかろう。
 本連載は、日本におけるそうした“歴史のタブー”に独力で挑もうとした知的格闘の記録と言ってよいかもしれない。格闘の過程ではいささか脱線もあるかもしれないが、その点ご容赦いただければ幸いである。

〔注〕
『記』と『書紀』では人名や神名の表記・読みにも違いが見られるが、本連載では特に断りのない限り、『書紀』での表記・読みに従う。

2012年2月11日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載第44回)

実践編

レッスン8:性差別

[まとめと補足]

 性差別という問題は、女性差別をその歴史的な核心としながらも、そこから各例題で見てきたような現代的な派生問題が放射状に生じる構造を示すようになってきている。
 ことに問題の核心を成す女性差別に関しては一定以上の前進が見られる今日では、TG問題や両性均等割当制、登録パートナーシップ制度、独身者差別等の派生問題に論議の焦点が移ってきていることはたしかである。
 しかし、底流では依然核心としての女性差別は続いており、そのことが派生問題の領域でも、例えば性別二分法からの解放を唱える「ジェンダーフリー論」に対するしばしば激しいバッシングのような形で発現してくる。従って、女性差別という核心問題は今日なお完全には克服されていないことを再確認しておく必要はあるだろう。
 女性差別を克服するうえで根源的なネックとなるのは、それが男性の女性コンプレックスに発していることである。何しろすべての男性は女性から生まれたのである以上、男性は自らの存在そのものを女性の存在に負っているわけで、女性なくして男性という存在もあり得ないのだ。このことは、男性にほとんど矯正不能なコンプレックスを刻印する。
 しかし、このコンプレックスは男性が男性である自分自身を劣等視する自己差別へは向かわずに、西欧人の反ユダヤ主義と同様、本来自らが優越視するものの劣等視、つまり女性差別へと反転していくのである。
 こうした反転的差別がいつ頃始まったのかは詳らかでない。先史人類学の母権制仮説が正しいとすれば、先史時代には社会編成の上でも男性は女性家長の支配下に置かれ、女性に従属していたはずであるが、有史前のいずれかの時期に、男性の反転攻勢が母権制の転覆、家父長制樹立という社会革命をもたらしたと仮定できる。爾来、女性と男性の地位は逆転し、女性は男性から見下され、男性の付属品のような存在に貶められた。
 この場合もまた、視覚的表象と無縁ではない。例えば従来、人類の肉体美と言えばミケランジェロ作の有名なダヴィデ像に象徴されるような筋肉質の若い男性美が頂点にあり、典型的な女性の豊満な肉体は女性美の象徴として賛美されると同時に、それは男性美に比べて劣る、どこか滑稽で動物に近いものとして貶められてもきたのである。
 例題で取り上げた「母性」もそうであるが、女性差別の特徴は、他の差別のように激しい迫害を伴うような差別よりは、称賛し持ち上げつつ劣等視するという屈折した利益差別の形態を取りがちであるというところにある。ここに、男性のコンプレックスを土台とした女性差別の複雑な屈折性を看て取ることができる。
 一方、女性差別の克服が困難な諸国では、女性自身の自己差別がなお残存して、男性の女性差別と無意識の共犯関係に立っている可能性がある。
 よくある題材なので例題には取り上げなかったが、日本社会では「女性は男性と対等に働くよりも主婦になるべきだ」という意識が―男性の間ではもちろん―女性の間でもまだかなり残されているように見受けられる。そのことが、女性の各界基幹職への進出にブレーキがかかる要因の一つを形成しているのではなかろうか。
 根強い女性差別の克服のためには、こうした女性差別への共犯的“男女共同参画”を解消することも一つのカギとなるであろう。

2012年2月10日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第43回)

実践編

レッスン8:性差別(続き)

例題6:
(35歳以上の独身者に対する質問)中高年独身者に対する差別が存在すると感じたことはあるか。

(1)ある
(2)ない

 中高年独身者であるということがそれ単独で被差別理由になるかというと断定しかねるかもしれないが、従来から独身だと家を借りにくいとか、金融機関から金を借りにくいといったことは言われており、独身者は社会慣習上半人前扱いを受けるという差別はかねてより伏在しているように思われる。
 ところが近年、東京23区などで、独身者向けワンルームマンションの建設を規制する政策が推進されるなど、政策的にも独身者差別―それもこのように結果として居住権を奪うような重大な差別―が前面に立ち現れるようになったことは注目に値する。
 このワンルーム規制政策は、ワンルームの独身住民は地域の活動に参加しないとか、マナーが悪い、旧住所地から住民票を移さないため住民税が徴収できないなどの正当化理由を掲げているが、それらはどれも取って付けたような理由づけにすぎず、転嫁的差別に当たる疑いの強い政策である。
 要するに、これは独身者を社会的に半人前として劣等視し、居住規制を通じて間接的に地域社会から排除することによって、既婚者及びその家族の優越的地位を再確認しようという、前回も見た法律婚絶対主義に根差す新たな差別政策にほかならない。
 ただ、こうした独身者差別がなぜ本レッスンの主題である性差別と関連するのかいぶかる向きもあると思われる。たしかに独身者には男性も女性もいるわけであるが、独身者差別をもう少し立ち入って分析してみると、それは「女を妻帯しようとしない男」と「男に妻帯されようとしない女」に対する差別である。この「妻帯」という語が曲者であって、露骨に言えば「女を妻として所有する」という意味合いを含んでいる。
 つまり、男は女を妻として所有して一人前という女卑思想をベースに、妻を所有しようとしない(または所有できない)「男らしくない男」と、男に妻として所有されようとしない「女らしくない女」をばっさり切り捨てにするのが、独身者差別の正体なのだ。
 もっとも、社会通念上はどちらかと言えば中高年独身男性が独身者差別の最大標的となりやすいことから、独身者差別は「男性差別」の一種と解釈できるかもしれない。ただ、そう解した場合でも、それは女性差別と全然無関係なのではなく、すでに過去のものとなったはずの男尊女卑思想が「独身者差別」に姿を変えて残されているものと考えられる。
 とはいえ、近年、男女を問わず中高年独身者は急増しており、2009年度内閣府世論調査によれば、「結婚は個人の自由であるから結婚してもしなくてもよい」と考える人の割合が70パーセントに達しているとのデータからすると、日本人の保守的な結婚観にも変化の波が見られるようである。しかし、政策上は法律婚絶対主義が貫かれている日本社会では、独身者差別の克服もなかなか困難であろう。
 もっとも、例題5で取り上げたような結婚制度とは別立てのパートナーシップ制度の創設が独身者差別の解消につながるとも断言はできず、パートナーを持たない独身者への差別がなおも残存するということもあり得る。
 この点、もしも遠い将来、古い結婚制度が廃されて、パートナーシップ制度に一本化されれば、パートナーを持つか、シングルのままでいるかは社会の干渉を受けない純粋に個人の生き方の問題として定着するのではないだろうか。そうなれば、独身者が社会的に半人前扱いされるようなこともなくなるはずである。

2012年2月 9日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第42回)

実践編

レッスン8:性差別(続き)

例題4:
戸籍法上、出生届に非嫡出子であることの記載を義務づける規定は適切だと考えるか。

(1)考える
(2)考えない 

 この規定は、相続に関して非嫡出子の相続分を嫡出子の半分としていた民法の旧規定とセットで、法律婚の外で生まれた子に対する法制度的な差別の体系を成してきた(以下、「非嫡出子」を「婚外子」、「嫡出子」を「婚内子」と呼ぶ)。
 しかし、上記民法規定は、2013年に至り、最高裁判所による違憲判決を受けてようやく改正され、現在は相続分に関する婚外子差別は消失した。しかし、同時に議論された戸籍法上の記載義務の廃止については、見送られた。
 こうした不完全な差別解消措置の背景には、婚外子に対する差別観が依然として根強いことがある。婚外子差別は普通、身分による差別と考えられているが、いわゆる階級的な身分差別とは異なり、その根底には性差別、わけても女性差別が横たわっている。 
 一般に、婚内/婚外子を区別するのは法律婚を尊重するためと説明されてきたが、元来不倫関係の結果出生した子には何ら責任がないにもかかわらず、出生したこと自体に責任があるかのような差別処遇をすることは法律婚の尊重とは直接に関係なく、典型的な転嫁的差別にして、法に基づく権力的差別の典型でもある。
 法律婚をそれほど尊重したいならば、不倫関係の当事者らを刑法で処罰するのが端的であるが、日本ではこうしたいわゆる「姦通罪」の規定は戦後廃止された。
 ではなぜ不倫関係の当事者を制裁せずに結果として出生した子を差別するのかと言えば、ここには女が夫以外の男との間に生んだ子を劣等視するという形で、間接的・象徴的な女性差別が潜んでいるわけである。
 このように不倫関係の“主犯格”を専ら女とみなす女性差別的観念の一端は、旧姦通罪の規定上、不倫関係を持った妻(及び相手方男性)だけを処罰の対象とし、逆に不倫関係を持った夫を処罰しなかったという点にも現れていた。姦通罪の規定が戦後廃止されたのも、このように妻だけを処罰することの差別性が問題視された一方、夫婦双方の不倫を「平等に」処罰する規定に改正することも行き過ぎとして回避されたからであった。
 婚外子差別も、こうした不倫関係の“主犯格”を女とみなす差別的観念を土台としているものと言える。
 ちなみに、婚外子に半分の相続権を認めていた民法規定は、婚外子を“半人前”としながらも、一定の相続分を付与していた点では利益差別の一種と言えたが、出生届への記載義務は、婚外子である事実を公式に露見させるだけの効果しかない点では不利益差別に当たるものである。

例題5:
あなたは、伝統的な結婚の制度以外に、より対等に伴侶同士が共同で生計を立てることのできる公式の制度(登録パートナーシップ)があったほうがよいと思うか。

(1)思う
(2)思わない
(3)わからない

 日本では伴侶同士の共同生計制度としては、法律上の婚姻(法律婚)が唯一のものであるため、結婚せずに伴侶同士で同居する場合は、事実婚(内縁)という扱いを受けることになる。この場合の不都合さは、事実婚で出生した子が例題4で見たような婚外子の扱いとなることである。
 しかし、このような法律婚絶対主義はすでに時代遅れのものとなっており、多くの先進諸国では、本例題のように法律婚制度とは別に、現在の日本で事実婚とされるような場合でも、結婚に準じた制度の保障を与える施策が普及してきている。
 この点、日本民法上の法律婚制度は、憲法の基本原理でもある「両性の本質的平等」に基づいて戦後大改正されているため、タテマエ上夫婦間の対等性が保障されている。そういう点では、現行法律婚制度自体、一種のパートナーシップ化を来たしているとも言える。
 しかし、それはあくまでもタテマエ。レッスン7でも先取りしたように、結婚は生殖による次世代再生産を確保する目的が強いため、本質上、夫=父と妻=母という役割規定性から逃れることが困難である。そして、この役割規定は必然的に夫=父>妻=母という不等式で成り立っており、女性は妻=母として夫=父と子に奉仕する“良妻賢母”たるべきことが暗黙裡に要求される。
 これに対して、パートナーシップ制度においては、もはや夫/妻という役割規定はなく、単に伴侶として連れ添う対等なパートナー同士の関係があるだけであるから、パートナーの性別組み合わせも不問であり、レッスン7で見たように、夫/妻という関係性が存在しない同性間のパートナー間でも活用できるのである。 
 もちろん、異性同士のパートナーであれば子どもを作ることもできる。現在は、先述したように、事実婚のまま子どもを作ると、その子は婚外子の扱いを受けてしまうことが、いわゆる夫婦別姓婚を求める論拠の一つともなっている。
 しかし、パートナーシップ制度があれば、非婚のまま子どもを作っても婚内子と同様の扱いを受けられるから、あえて別姓婚にこだわらなくとも、問題は実質的に解消されるであろう。

注 パートナーシップ制度と別姓婚は矛盾するものではないから、別姓婚はそれとして認められてよい。

2012年2月 8日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第41回)

実践編

レッスン8:性差別(続き)

例題3:
[a] 国会や地方議会の議員定数の半数を必ず女性とするという制度が提案されたとして、あなたは支持するか。

(1)支持する
(2)支持しない

[b] 企業・団体・官庁等の幹部職(企業・団体の場合、役員を含む)の半数を必ず女性とすることを義務付けるという制度についてはどうか。

(1)支持する
(2)支持しない

 いわゆる両性均等割当制(以下、均等割当制という)に関わる例題である。
 本来の理想からすれば、均等割当制のような人為的な施策に頼らずとも、自然に議員や各界幹部職の女性比率が上昇して然るべきなのであるが、極めて保守的で男性支配の風土が根強い国では、放っておくといつまで待っても基幹職の女性比率は低いままに抑えられがちであることから、政策的な介入として均等割当制のような施策の導入が検討される。その意味で、この施策は女性差別の分野における積極的差別是正政策であると言える。
 日本でも近年、「男女共同参画」のスローガンの下、遅々としながらも基幹職の女性比率は向上しつつあるものの、依然低調であることから、均等割当制の導入が検討されてもおかしくない現状にある。
 この均等割当制に対する批判としては、女性半数が強制される結果として男性が不利になり、「男性差別」が生ずるということが考えられる。しかし、その点は「半数制」であるからにはお互い様であって、男性も半数とされることによって女性が不利となる側面もあるわけである。
 ただ、一律に両性半々とするのは硬直的にすぎるという批判なら一理あろうが、均等割当といっても、実際の制度化に当たっては文字どおりに5:5を厳格に強制するのではなく、例えば一方の性別が割当対象となるポスト総数の4割を下回ったときは何らかのペナルティーを科するといった形で柔軟化すれば、さほど不都合はないだろう。
 より困難な問題点として、均等割当制は男と女という性別二分法を強化する施策であって、例題1で見たTGのように、性別二分法では分類できない性別境界上の人々が無視されるというものがある。
 これはまだ解決されていない近時の難問であり、性急な結論は出せないが、例題1でも言及したように、TGの戸籍上の性別記載の変更権を広く認めることが一つの解決策となる。また、均等割当制における性別区分は基本的に生物学的な性別分類によりながらも、TGであることが客観的に証明できる場合は、その性自認に沿った待遇を認めるといった柔軟化によって対応することも考えられよう。
 それでも、両性均等割当という発想自体が性別二分法を助長するという一面は残ってしまうが、本来、均等割当制の趣旨は女性比率の向上というところに重点があることからして、性別二分法そのものをことさらに強調することを狙いとはしていないと思われる。
 均等割当制の実際の導入に当たっては、[a]のように国会・地方議会の議員から始めることには大きな意義がある。というのも、議員は国民なり住民なりの代表であるところ、両性の人口比率―女性が若干多い―に照らして、女性議員比率の低さは、明らかに男性の過剰代表を結果しているからである。
 ただ、議員への就任は選挙によるため、定数そのものを均等割当にすると、各選挙区から1名の議員を選出する小選挙区制は採用できなくなるなど、一定の技術的制約が加わる。そこで、定数そのものではなく、各政党の候補者の両性均等選定を義務づけるという間接的な代替策もあるが、この方法によると、女性候補者の落選率が高く、結果として男性優位が維持される恐れもある。そこで、この方法によるなら、拘束名簿式の比例代表制を一元的に採用するのが望ましいだろう。
 以上に対して、[b]のように企業・団体・官庁等の幹部職まで総ざらい均等割当制を強制するのは行き過ぎであるといった批判や、女性の間でも自分は幹部職に就くような立場ではないから、均等割当制など関係ないといった冷めた見方もあるかもしれない。
 しかし、すでによく議論されてきたため例題には取り上げなかったが、今なお解決されない労働者の両性間賃金格差問題にしても、企業等の幹部職が今後も男性中心であり続ける限り、根本的には解決されないであろう。
 [b]のような均等割当制の全面化は海外でもまだ実例は多くなく、保守的な日本ではなおいっそう困難が予想されるが、今後現実の政策課題として浮上する可能性は十分あると思われる。

2012年2月 6日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第27回)

第5章 ヨーロッパの形成

〈序説〉
 近代以降には文明の代名詞となったヨーロッパは、文明史的に見れば後発地域であった。というより、ヨーロッパという地理的概念すらローマ時代には確立されていなかった。
 今日の東西ヨーロッパを横断する形で最初の帝国を建てたのは、アジアに原郷を持つ遊牧民フン族であった。フン族の出自については、かつての匈奴の末裔とする説が有力であったが、時代的・文化的なずれも大きく、近年はより雑多な混成騎馬遊牧民勢力と理解されるようになってきた。
 いずれにせよ、モンゴロイド系種族を中核とするこの遊牧民勢力は4世紀後半、さらに西進してヨーロッパ形成の大きな契機となるゲルマン民族の大移動を誘発した。その後、ドナウ河中流域パンノニアを根拠地としたフン族は、5世紀半ばに出たアッティラ大王の下で急膨張し、後にヨーロッパ形成の主役となるゲルマン人とスラブ人も従えつつ、東はカスピ海から西はバルト海沿岸に至る大帝国を作り上げたのだった。
 この帝国はしかし、専らアッティラ個人のカリスマ的指導力に依拠したパッチワーク状のものであったため、彼の急死(453)によってたちまち崩壊したが、アッティラの帝国こそ―そうとは意識されない―「ヨーロッパ」の最初の予行演習であったと言ってよい。
 アッティラが西ローマ帝国領内に侵入してきた時、もう終わりが近かった西ローマは独力で対処できず、フランス北部のカタラウヌムの戦い(451)では西ゴート・ブルグンド・フランクなどゲルマン諸部族の力を借りて撃退しなければならなかったが、これによってゲルマン人の実力が改めて確証された。
 さらに翌年、アッティラがイタリア侵攻を企てると、時のローマ司教レオ1世はアッティラと直接会見して平和的な説得で撤収させた。これにより、後に教皇を称するようになるローマ司教の威信を高めた。
 こうしてゲルマン人とローマ司教とが、アッティラ帝国への対処を通じて、ヨーロッパ形成の主役として上昇していくのである。

一 独仏伊の形成

(1)フランク族の台頭
 西ローマ帝国がゲルマン人傭兵隊長オドアケルに滅ぼされて5年後の481年、ゲルマン系フランク族の族長クロヴィスが一つの王朝を開いた。
 元来、フランク族はライン河下流域を根拠としており、民族大移動の時にもあまり大きく移動せず、ガリアの地で―おそらくケルト人とも混血しつつ―支族に分かれて部族国家を形成していたが、5世紀末になってクロヴィスの属したメロヴィング家が部族統一に成功したことで王朝が開かれたのである(メロヴィング朝)。
 若干15歳で即位したクロヴィスは戦略家で、周辺ゲルマン諸部族を次々と征服し、晩年には地中海域を除いて今日のフランスとベルギーの大部分を押さえ、東ゴート王国と並ぶ強国を作り上げた。
 メロヴィング朝の権勢を高めたのは、こうした領土拡張もさりながら、クロヴィス王自身改宗して範を示した正統派(アタナシウス派)キリスト教の受容であった。
 これは先行のゲルマン部族国家の多くが二ケーア公会議で異端とされたアリウス派を奉じていた中では先進的な策であり、他の周辺ゲルマン諸部族に対する征服戦争に異端撲滅の「聖戦」の名を冠してこれを正当化し、また領内に多い正統派キリスト教徒のガリア系ローマ人からの支持を受け内政を安定化させる切り札ともなった。
 しかし511年、クロヴィス王がまだ壮年のうちに死去すると、王国はゲルマン伝統の分割相続原則に従い、四人の王子たちの間で四分割され分裂してしまう。一時末男クロタールが王国を再統一し、父の代よりも領土を拡張することに成功したものの、彼の死後またも四子の間で分割相続される。結局、メロヴィング朝はアウストラシア、ネウストリア、ブルグントの三分国体制に収斂していく。
 これらの分国間及び分国内ではしばしば王妃ら女性たちも絡んで残虐行為を伴う骨肉争いが繰り広げられ、宮廷内では風紀の乱れもひどくなっていった。国王権力は形骸化し、幼少、無能な王が続出した。
 そうした中で、各分国では本来王室の執事であった宮宰が国王に代わって政治行政の実権を掌握するようになっていく。メロヴィング朝が分裂し、王が無力化しても270年あまりも持続したのは、この宮宰実権体制が働いていたことによるところが大きい。こうしたメロヴィング朝の持続性の高さは、やがてフランク族をしてヨーロッパ形成の主役の地位に立たしめる秘訣となる。

(2)カロリング帝国の覇権
 メロヴィング朝各分国の宮宰の中からアウストラシア宮宰のカロリング家が台頭し、全王国宮宰の地位に就く。前章でも触れたように、8世紀初頭にウマイヤ朝軍がピレネー山脈を越えてヨーロッパ中央部まで侵攻しようとした時、これをトゥール‐ポワティエ間の戦いで撃退したのは、カロリング家のカール・マルテルであった。彼は、南ガリアでも焦土作戦を展開してイスラーム勢力を駆逐し、カロリング家の声望を高めた。
 続いて彼の子ピピンはすでに形骸化著しいメロヴィング朝を廃して自ら国王となるべく、ローマ教皇の支持を取りつけたうえクーデターを起こして王位に就いた(751)。ここにメロヴィング朝に代わってカロリング朝が開かれた。
 ピピンは当時、6世紀半ばすぎ以来北イタリアに強力な王国を築いていたゲルマン系ランゴバルド人の圧迫に苦しむローマ教皇を助けるため、二度にわたるイタリア遠征によってランゴバルド王国領土を切り取り、教皇に寄進した。これが教皇領の始まりである。この結果、ローマ教皇とフランク王国の結びつきは強まった。
 このカロリング朝を帝国に押し上げたのはピピンの子で大帝を冠せられるカール(シャルルマーニュ)である。彼は774年、200年以上続いたランゴバルド王国を滅ぼしたのに続いて積極的な対外遠征を行い、8世紀末までに今日の西ヨーロッパ地域のうち、後ウマイヤ朝が支配していたイベリア半島中部以南を除く主要部のほとんどを征服した。
 ちなみにカール大帝はイベリア半島の後ウマイヤ朝への防備策として半島北部にいくつかのスペイン辺境伯を置いたが、その一つウルヘル伯領は、フランス大統領とウルヘル司教が共同統治するアンドラ公国として今日まで存続している。
 一方、この頃ビザンツ帝国との関係が悪化していたローマ教皇レオ3世はカールの権勢を見て来援を要請、これを機にカールにローマ皇帝冠を授けた(800)。
 その結果、形式上324年ぶりに西ローマ帝国が復活した形となった。ゲルマン人がローマ皇帝冠を被ったのである。これは324年前に西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルがあえてしようとしなかったことであったが、カールはこれを教皇側から授冠される形で実現したのだった。
 このゲルマン系新生西ローマ帝国は、旧西ローマ帝国の単純な復旧ではないとしても、これをもって封建的な中世ヨーロッパ形成の始まりとみなすのは性急である。というのは、カールがさしあたり目指したのは東のビザンツ帝国に匹敵するような中央集権国家だったからである。
 実際、カールはビザンツ帝国を相当に意識していたようで、7世紀からビザンツが導入していた屯田兵制度にならい、皇帝に直属して軍役義務を負う土地保有民(リベリ)の制度を創設した。そのうえで、広大化した領内を管区に分け、国王直属の伯(グラーフ)を任命して軍事・行政の広範な権限を持たせた。これまたビザンツ帝国で施行されていた軍管区(テマ)‐司令官(ストラテゴス)制にならったものであった。
 一方、対外的には、カールの西ローマ皇帝位を承認しようとしないビザンツ帝国への対抗上、アッバース朝と連携さえした。その結果としてイスラーム圏との通商関係が生じ、イスラーム勢力に遮断されていた地中海商業が復活した。これによって、帝国にはイスラーム→ヨーロッパ→ビザンツの三角貿易によって関税収入を確保する可能性が生まれた。
 しかし、カールの政策は結局実を結ばなかった。リベリの創設は完全な挫折に終わったし、巡察使の派遣など伯らの土着化防止の努力にもかかわらず、彼らは結局は土着化して封建領主の原型となっていった。カールは帝都を築くこともできず、領内を巡幸して伯との個人的な結びつきを常に確認して回らなければならなかった。
 ビザンツ帝国からの皇帝位承認は晩年の812年にようやくかなったが、彼自身の帝国は彼が望んだようなビザンツ型中央集権国家とはならなかったのだ。
 経済面でも先の三角貿易による関税収入は想定したほどの成果を上げることができなかった。当時の地中海貿易にあっては三角貿易よりもイスラーム→ビザンツ間の直接的な通商関係のほうがほよど優勢で、物量も豊富だったからである。
 こうして実は、カロリング帝国の―成功よりも―失敗が、ヨーロッパ形成の真の始まりを画したのである。

(3)カロリング帝国の分割
 カールが50年近い治世を終えて没した時(814)、存命中の相続人は三男ルートヴィヒだけとなっていたため、分割相続は回避できた。しかし、ルートヴィヒ(敬虔王)が840年に没すると例によって分割相続問題が起き、ヴェルダン条約(843)とメルセン条約(870)の二条約を経て東西フランクと北イタリアの三国に分割された。これがほぼ今日のドイツ(東フランク)、フランス(西フランク)、イタリアの原型を成している。
 やがてイタリアでは早くも875年に、東フランクでは911年、西フランクでも987年には順次カロリング家が断絶し、10世紀末までにカロリング朝は終焉した。
 この後、北イタリアでは封建領主や都市共和国が分立割拠し、ドイツなど外国勢力の侵攻もたびたび受けた。一方、南イタリアは11世紀後半頃までビザンツ帝国やイスラーム勢力の支配下にあった。結局、イタリアでは遠く19世紀後半まで統一国家が形成されることはなかった。
 東フランクではカロリング家が断絶した911年以降部族太公の割拠するところとなったが、イタリアと違い、部族太公中から国王を選定する慣習により形式上統一は保たれた。
 962年にはザクセン太公から出たオットー1世がかつてのカール大帝と類似の状況でイタリア遠征を機に時の教皇ヨハネス12世からローマ皇帝冠を授冠された。ここに神聖ローマ帝国が成立する(第一帝政)。
 これをもって一応ドイツの成立とみなすことはできるが、ドイツにおける部族主義の伝統は頑強で、帝国といいながら実態は部族に由来する多数の領邦に分かれ、皇帝選出をめぐる紛争が絶えなかった。ドイツでも真の意味での統一国家が成立するのは19世紀後半を待たねばならなかった。
 西フランクでは987年にパリ周辺地域(イル・ド・フランス)の領主であったパリ伯ユーグ・カペーが国王に推挙され、ここに新王朝カペー朝が開かれた。カペー朝フランスはフランク族の系譜を継承する王国であるとともに、今日のフランスの実質的な始まりでもあった。
 カペー朝は当初、諸侯勢力に制約されて不安定であったが、ドイツのような部族主義に悩まされることなく、世襲王朝として定着し、次第に中央集権化を進めていく。

2012年2月 5日 (日)

〈反差別〉練習帳(連載第40回)

実践編

レッスン8:性差別(続き)

例題2:
[a] あなたは女性の「母性本能」の存在を信じるか。

1)信じる
(2)信じない
(3)わからない

[b] あなたは「男らしさ」という価値を肯定するか。

(1)肯定する
(2)肯定しない
(3)わからない

 性差別の中でも歴史的にエース級であり続けてきたのが、女性差別である。とはいえ、この問題への取り組みは差別問題全般の中では最も進んでいるため、近年熱を込めて論じられることは少なくなったが、それでも女性差別は根絶されてはいない。その女性差別の最後の砦となっているのは、「母性」という観念だと思われる。
 最後の砦とあえて言うのは、少なくとも先進諸国では露骨な男尊女卑思想は、それを個人的に抱くことは別としても、公式には通用しなくなっているからである。「両性の平等」は、もはや取り消しのきかない公理として定着している。
 ところが、「母性」という観念はなお息づいており、当の女性自身が自らの「母性本能」の存在を信じていることも意外に多いのではないだろうか。
 この「母性」という観念は決して女性を直接に卑しめるものではなく、むしろ母なる女性を称賛し、持ち上げているのだが、同時に母性を父性に対して従属的・補助的なものとして劣等視もしている。その意味で、これはいわゆるほめ殺しのようなもので、理論編で見る利益差別の一種とも言える。
 実際のところ、「母性」という観念は労働の分野でも「女性向き」とみなされるいくつかの職業では、女性に極めて有利な地位を与えている。例えば、看護師、保育士、秘書などである。これらの職業が「女性向き」とみなされているのは、そこに「母性」で優しく包むようなイメージが込められているからであろう。
 反面、これらの職業には男性が就きにくく、「男性差別」という逆転現象も生じてくる。こうした逆差別としての「男性差別」は「女性差別」と全然無関係なのではなく、その主要な要因は、実は「母性」という名の女性差別観念にあり、言わば女性差別のしわ寄せ的な副産物なのである。
 他方で、「母性」を強調していくと、それによって女性は「女性向き」とされるいくつかの限られた有利な職業以外の領域では、非正規労働やパート労働のように男性より不利な扱いをされ、究極的には母親業に専念すべく「専業主婦」という立場に押し込められることにもなる。
 もっとも、「母性」という観念を信じるかどうかは個人の自由だとも言えるが、「母性」に対する信念は、客観的に見れば両性にとって決してプラスにはならないであろう。
 一方、[b]の「男らしさ」という価値であるが、近年は「男らしくない男」が増えた(?)せいか、「男らしさ」という言葉も以前ほど聞かれなくなった感もある。それでも、まだ死語になったわけではない。
 「男らしさ」の対語として「女らしさ」という言葉があるが、使用頻度では「男らしさ」のほうが高いだろう。この「男らしさ」は[a]で見た「母性」と直接の対語にならないが―「母性」の対語は「父性」―、「女らしさ」として表象される特性の多くは「母性」と結びついているため、実質上「母性」と「男らしさ」は対とみなすこともできる。
 この「男らしさ」という語は、よく考えてみると内容空疎で、ただ漠然と力強さとか勇猛さを象徴する言葉として観念されているが、それだけにかえってわかった気になりやすく、一人歩きしがちである。
 その結果、「男らしさ」は単なる精神論的な観念を超えて、社会的な力の象徴ともなり、「社会を指導するのは男性であるべきだ」という社会編成上の原理にまで昇華されていく。
 すでに家父長制が解体された先進社会にあっても、なお社会の中心に男性の姿が圧倒的に目に付くとすれば、それはまだ「男らしさ」のような価値が残されているためであろう。しかも、女性の中にすら「男らしさ」という価値をなおも肯定する向きがあるかもしれないが、それは回りまわって女性自身の地位を低める結果をもたらすであろう。
 ここで「男らしさ」という語を差別語と断ずれば、反発を受けかねないが、「男らしさ」の形容詞形「男らしい」の直接的な対語「女らしい」とは別に、「女々しい」という実質的な対語―その直接的な対語は「雄雄しい」―がある。この語には「弱い」とか「卑怯な」という意味すらあって、しかも「女々しい男」のように「男らしくない男」の差別的形容としても使われる。
 「女々しい」は「女々しい女」が激減した(?)今日、ほぼ死語に近いとはいえ、女性一般を弱いものとみなす否定的な語であり、今日の意識水準からすれば明らかに差別語である。従って、これと実質的な対語となる「男らしい」という表現も、その反面で女性を劣等視する反面差別語と言ってよい。
 さて、今回の練習は前回と同様、やや抽象度の高いものとなったが、女性差別の根源的な克服のためには、「母性」とか「男らしさ」などの言葉に込められたある種の神話的観念を日頃から問い直す必要があると考える次第である。

2012年2月 4日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載第39回)

実践編

レッスン8:性差別

例題1:
[a] あなたは公私の各種書類上の性別記載欄は不要だと思うか。

(1)思う
(2)思わない

[b] あなたは生物学上の性別と自意識上の性別の一致(性同一性)が認められない人に対して、どのような感情を持つか(当事者を除き、自由回答)。

 性差別の中のエース級は何と言っても女性差別であるが、近年は「性別」という区別そのものを根底から問い直そうとする動きも強くなっている。 
 私たちの社会生活を様々に規定する「性別」には一応生物学上の根拠が認められ、「性別」を分けることが直ちに差別に当たるわけではないが、種々の書類上でいちいち性別の記入を求められることに素朴な疑問を感じることはないだろうか。
 その書類が使用される目的上、性別情報が不可欠であるとは言えないのに、性別の記入を求められると、性別に基づく何らかの差別を受けるのではないかという疑念を招くことになる。その意味でも、各種書類上の性別記入欄は特別な必要性のない限り、削除することが望ましい。
 実際、性別は相対的でもあり、[b]で取り上げるように、性同一性が認められない人、あるいはそもそも性別に関して確定的な自意識を持たない人も存在する。このような人たちにとっては、性別記入を強いられること自体が苦痛と感じられる場合すらあるだろう。
 そうした人たちの中でも、[b]のように性同一性が認められない人は広くトランスジェンダー(以下、TGという)と呼ばれる。
 ここで留意すべきは、レッスン7で取り上げた同性愛とTGは問題の所在が異なるという点である。同性愛とは生物学上の性別と自意識上の性別は一致しているが、異性ではなく同性に性的指向がある人のことであり、性同一性が認められる以上、TGには含まれない。
 こうした同性愛者に対しては、レッスン7でも見たとおり、「不道徳」とか「異常」といった系の否定的な偏見も少なくないわけだが、TGに対しては―しばしば同性愛と混同されつつ―「気持ち悪い」というようなプリミティブな感情を抱く人がまだいるかもしれない。
 そういう人はおそらく生物学上の性別を絶対不動のものと観念しているのであろう。しかし、人間の性別は生物学的基礎に立ちつつも、より複雑な構造を持っており、むしろ自分は女性だとか男性だといった自意識上の性別(性自認)により大きなウェートがあるのではなかろうか。
 実際、同性愛者を含め、性同一性が認められる大多数の人たちは持って生まれた生物学上の性別をそのまま自意識上の性別として受容しているだけのことであって、両者にずれが生じるTGとの差異は相対的なものにすぎないとも言える。その点では、TGの人と他の人を「同じ人間」として包摂することは案外難しくないはずである。
 なお、例題には掲げなかったが、TGの人たちにとって切実な問題となるのは、戸籍上の性別記載である。戸籍は国民の身分関係を管理・証明するための伝統的な登録制度であって、性別記載が当然視されているが、この記載は生物学上の性別によることが原則であるため、TGにとっては自意識上の性別と異なる性別記載が押しつけられる結果となり、戸籍を前提とする社会生活上の上で様々な不便・不利益をこうむる。
 その状況を解消する最も簡明な方策は、[a]で論じたように、戸籍上の性別記載をも削除することである。しかし、日本の戸籍は婚姻家族ごとに作成されるところ、レッスン7でも見たとおり、日本では同性婚が許されないため、異性同士の夫婦であることを確認する目的から、戸籍上の性別記載は必須事項になっているものと考えられる。
 となると、もう一つの方策として、戸籍上の性別記載を前提にTGに限っては性別記載の変更権を認めることが考えられる。このような方策は、TGに対して戸籍上特別の権利を与える一種の優遇措置であるが、これはTGの人たちの社会生活上の支障を取り除き、かれらを対等な社会成員として迎え入れる包容政策としての積極的な差別是正措置(アファーマティブ・アクション)の一種とみなすこともできる。
 日本でも、近年制定された特別法(性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律)によってTGの性別記載の変更が認められるようになったが、いくつかの限定条件付きのものであって、まさしく「特例」としての性格が強い点に批判もある。
 包容政策という観点からもう一度とらえ直し、TGに幅広く性別記載の変更権を保障すべきであろう。

注 TGの中でも、医学的に自意識上の性別への適合治療を必要とすると診断される状態を「性同一性障害」と呼ぶ。こうしたトランスセクシュアルな状態は精神疾患の一つに分類されるが、近年スウェーデンのように、これを精神疾患からは外す動きも出ている。

2012年2月 2日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第38回)

実践編

レッスン7:同性愛者差別

〔まとめと補足〕

 同性愛者差別は、これをより広くとれば「性的少数者」差別とまとめることもできる。
 ただ、性的少数者の中でも生物学上の性別と自ら意識する性別との一致(性同一性)が認められない人たちは、かつて同性愛者と混同されたこともあったが、近年はトランスジェンダーと呼ばれ、特に性別適合手術を必要とする人たちは医学的に「性同一性障害」の病名を与えられ、病者に包含されるようになった。
 そのため、こうした人たちに対する差別は、続くレッスン8で扱う性差別やレッスン2で取り上げた病者差別の問題領域に移行し、同性愛者差別の問題からは切り離されるようになった。
 そうすると、性的少数者の中でも、病理性のない同性愛者が固有の被差別カテゴリーとして改めて独自の意味づけをされるようになってくる。
 そこで、病理概念とは別に「性的指向」という概念がキーワードとなるが、普及しているとは言い難く、とかく同性愛を意図的な性的志向とか趣向の問題としてとらえる傾向が強い。それが道徳論や俗流医学と絡めて被差別理由とされやすい。
 その意味では、同性愛者差別は視覚的表象を離れた相当に観念性の強い差別であると言えるが、ここでも視覚的表象と全く無関係なのではない。
 おそらく同性愛者差別の中には、同性同士の性行為のイメージに対する興味本位の蔑視が込められていることは疑いない。そうしたイメージは、他の差別の場合と異なり、ほとんど誰も目にする機会などないにもかかわらず、想像的なイメージ作用によって、かえって直接目にした場合以上に、歪められた偏見のもととなっていく。
 日本社会で同性愛者差別を問題化することが難しいのは、従来、同性愛を明確に不道徳とみなし、性犯罪として取り締まる発想が希薄であるために、「問題」として意識される機会が乏しく、話題にすること自体が回避される一種のタブーとなってしまいがちだからである。従って、他の差別問題以上に、「日本社会に同性愛者差別は存在しない」という錯覚にとらわれやすい。
 しかし、仮にある同性愛者がカミングアウトした場合に、周囲からどんな反応を受けるだろうか。とりわけその人が社会的な名声・地位を持っていた場合には?
 何も権力的に迫害されるだけが差別なのではなく、理論編でも見たように、私人による嫌がらせや嘲笑、陰口も差別の形態なのである。
 そこで、日本社会では何よりもまず、同性愛者差別を意識的に「問題」として議論の俎上に乗せることから始めねばならない。
 そのうえで、差別を克服するためには、ここでも「包摂の哲学」が有効である。つまり、異性愛/同性愛というような性的指向による二分法的思考の解体である。
 人間の価値は性的指向の如何によって定まるものではない。性的指向とは、ある人が誰を性愛の対象とするかということに関する相対的な指標にすぎず―従って、両性を性愛の対象とする「両性愛」も存在する―、ある意味ではどうでもよい事柄である。
 従って、性的指向を個人のアイデンティティーと直結させることは、例の自己差別を克服するうえでの「療法」として有効な場合があるとしても、差別そのものを克服するうえでは有効と言えない。もし、同性愛を自己のアイデンティティーと規定してしまうと、異性愛者とのへだたりが際立ち、包摂が難しくなるからである(アイデンティティー問題については、理論編命題25を参照)。
 同性愛者も、同性愛という差異を除けば、異性愛者と何ら変わりない一人の「人間」である。この点では、他の被差別者以上に包摂しやすいのが同性愛者であって、同性愛者差別の克服は本来、決して困難ではないはずである。

2012年2月 1日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第37回)

実践編

レッスン7:同性愛者差別(続き)

例題4:
(同性愛を容認することができないと考える人のみへの質問)あなたが同性愛を容認できないと考える一番の理由は何か(自由回答)。

 同性愛者差別のまさに根元を問う例題である。同性愛を容認することができる人も、なぜしばしば同性愛者が嫌悪・差別されるかを考えるうえで参考になる例題だと思われる。自由回答ということで答えはいろいろあるであろうが、大別すると次の三つの系統に分類できると考えられる。
 一つは「同性愛は不道徳だから」というモラル論。これは、同性愛者を道徳的欠格者とみなすわけで、この理由による同性愛嫌悪が最も激しい同性愛者差別を生む。
 特に、キリスト教・イスラーム教圏では同性間の性行為は伝統的に犯罪であり、イスラーム圏では最大で死刑を科す国も見られる。また、今日の世俗世界ではもはや同性愛を犯罪行為とはみなさなくなった欧米キリスト教圏でも、しばしば反同性愛者による同性愛者に対する憎悪犯罪としての襲撃・殺傷事件も発生している。
 日本社会では同性愛を明確に不道徳とみなす観念は希薄と言われるが、教育界では学校で同性愛を教えることをタブーとする風潮が強いという事実から、教育者などの間ではなお同性愛=不道徳論が根強いことが窺える。
 この同性愛=不道徳論の最大の誤りは、同性愛を自らの意思で選択する性的志向ないし趣向と解釈していることにある。そのために、同性愛を不道徳とか犯罪とまで認識してしまうのだが、同性愛は意思的に選び取られるものでなく、おそらくは先天的な性的指向である。
 多くの人の異性愛が自ら意図してそうなったものでないのと同様、同性愛も意図してそうなったものではない。であればこそ、同性愛者は自ら苦悩することも少なくないわけである。
 こうした同性愛=不道徳論とも共振しつつ、「同性愛は異常だから」という理由での同性愛嫌悪もポピュラーなものである。「同性愛は気色悪い」といった表現をとる場合も、この異常視の系譜の反同性愛言説と言える。
 理論編でも見たように、異常視はそれだけでは差別に当たらないのであったが、同性愛=異常視は同性愛を病的な異常性欲とみなすわけであるから、これは容易に劣等視を招くであろう。
 しかし、今日の精神医学及び心理学上、同性愛は疾患でも異常心理でもないとすることが定説化している。それでも、同性愛は普遍的な性的指向とは言えないが、普遍的でないこと=異常なのではない。
 一方、近時は衛生主義的な観点に立って、「同性愛は不衛生だから」という理由での同性愛嫌悪が新たに普及してきている。同性愛=不衛生論は、一つにはとりわけ男性同性愛者の間で感染率が高いと言われる性病エイズのイメージが醸し出すものと思われる。要するに、衛生思想的な不浄視であるが、これは病者差別に近い面があると言える。従って、レッスン2での練習が応用できる。
 この点、エイズについて言えば、それは同性愛者に限らず、異性愛者にも見られる性感染症である以上、性的指向にかかわらない人類共通の感染症問題としてとらえるべきで、それをことさらに同性愛と結びつけようとするのはやはり差別的偏見と言うべきであろう。

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