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2011年12月13日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第21回)

第4章 略

二 イスラーム勢力の展開(続き)

(6)インドのイスラーム勢力
 インドでは紀元前3世紀のマウリヤ朝アショーカ王や後2世紀クシャーナ朝カニシュカ王のような強力な為政者によって仏教が保護され、強盛となり、バラモン教を守勢に立たせた。しかし、4世紀のグプタ朝の頃から仏教に対抗して教学を整備深化させたバラモン教が巻き返し、同朝滅亡後には次第に今日のようなヒンドゥー教に仕上がって仏教を圧倒し去ったため、仏教はスリランカやヒマラヤ山麓などの辺境地へ追いやられていった。
 結果、スリランカ―アーリヤ系シンハラ人が建てた島国で、アショーカ王の王子マヒンダが初めて仏教を伝えたとの伝説がある―が上座部仏教のセンターとして発展していく。
 一方、インド亜大陸中心部は数世紀にわたって、王族クシャトリア階級の子孫・ラージプートを称するヒンドゥー教徒諸侯が割拠・興亡するところとなった。
 こういう状況の中で、前述したように、8世紀初頭、まずウマイヤ朝軍が西北インドのインダス河下流域にまで侵入したが、完全な征服には至らず、アッバース朝以降、インド方面に対するアラブ・イスラーム勢力の支配力は失われる。
 イスラーム勢力の本格的なインド侵入は、11世紀に入って、トルコ系ガズナ朝3代マフムード王の時に開始される。彼は30年余りの治世の間に10数回インド侵攻を繰り返すが、これも本格的な征服よりは財宝や奴隷、家畜の略奪が主目的であったと見られる、ただ、ガズナ朝のインド侵入は、インド北部のパンジャーブ地方にイスラーム教を浸透させるきっかけとなった。
 このガズナ朝を滅ぼして同様のインド侵入を継承したのが、アフガニスタン中央山地に興った推定イラン系のゴール朝であったが、この王朝もトルコ系ホラズム・シャー朝によって滅ばされ、短命に終わった。
 しかし、ゴール朝のトルコ系マムルーク出身クトゥブッディーン・アイバクが北インドのデリーを都に新たなイスラーム王朝(デリー奴隷王朝)を開いた(1206)。これがインドにおける初の本格的なイスラーム王朝であった。
 ちなみに、この王朝5代のラズィーヤはイスラーム史上初の女性君主―しかも、カイロのマムルーク朝初代シャジャル・アッドゥッルとともにイスラーム史上稀有の女性君主の一人―であった。
 一般的に、女性の政治参加に否定的なイスラーム的伝統の中で、例外的とはいえ女性君主の登位が容認されたところには、「実力主義」の風潮の強いマムルーク系王朝の特色が表れていると言えるが、女性君主への反発も強く、両人とも政争に巻き込まれて殺害された。
 この奴隷王朝を含め、16世紀前葉までにデリーを首都に五つのイスラーム王朝(デリー・スルターン朝)が興亡する。そのうちハルジー朝とトゥグルク朝(いずれもトルコ系)の最盛期には南インドにまで支配を及ぼしたが、南インドにはタミル人に代表されるドラヴィダ語族系のヒンドゥー教諸王国が割拠し、イスラーム教は容易に浸透しなかった。
 14世紀末になると、中央アジアに強大なモンゴル系遊牧イスラーム王朝を建てたティムールによってデリーが寇掠・破壊され、デリー・スルターン朝は衰退した。
 最終的に、16世紀に入り、ティムールの子孫バーブルがデリー・スルターン朝最後のアフガン系ロディー朝を破ってムガル帝国を建て(1526)、その孫で3代皇帝アクバルの代以降、ムガル帝国がインドのイスラーム王朝―モンゴル系イスラーム王朝というユニークな形を取りつつ―として定着していく。
 とはいえ、ムガル帝国はイスラーム教とヒンドゥー教の共存を基本的な宗教政策としたため、インドは総体としてヒンドゥー教にとどまり、インドのイスラーム教は西部のインダス河流域と東部のベンガル地方がその中心地となった。しかし、このような宗教的な「すみわけ」は、現代におけるインド亜大陸三分割(パキスタン・インド・バングラデシュ)の遠因となり、容易に摘み難い宗教対立の芽を作ったのである。

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