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2011年12月29日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第24回)

第4章 略

四 オスマン帝国の台頭と全盛

(1)先行者マムルーク朝
 二でも触れたように、13世紀半ばまでに衰亡したセルジューク・トルコに続いて西アジア方面の覇権を握るのはオスマン・トルコであったが、帝国化するのは15世紀半ば以降のことで、今しばらくはマムルーク朝が首都カイロを拠点にエジプト・シリアにまたがってイスラーム世界の主導権を取り、オスマン・トルコはその後を追うようにして発展していく。
 マムルーク朝は当初、アイユーブ朝末期のスルターン、サーリフによって創設されたマムルーク軍団バフリーヤがクーデターでサーリフの奴隷出身の妃、シャジャル・アッドゥッルを擁立するという変則的な出発をした(バフリー・マムルーク朝)。
 彼女は折からの第6回十字軍への対応などでも手腕を見せたが、女性君主への反発は強く、在任3ヶ月で再婚相手のムイッズ・イッズッディーン・アイバクに譲位を余儀なくされた。
 マムルーク朝はモンゴル軍撃退で声望を高め、第5代スルターンに就いたバイバルスの時、モンゴル軍のためにトドメを刺されたバグダードのアッバース朝カリフ家の一族をカイロに迎え、象徴的なカリフに奉戴し、宗教的な権威づけに利用しつつ、メッカ及びメディナの両聖都を手中にして、イスラーム世界の主導権を握った。
 この王朝の全盛期は13世紀末から14世紀半ばにかけてで、首都カイロはモンゴル軍に破壊されたバグダードに代わってイスラーム文化の中心都市として繁栄した。
 経済面でも、15世紀前半の専売制度導入まではアイユーブ朝のカーリミー商人保護政策を継承し、紅海経由でインド洋と地中海を結ぶ海上貿易路を掌握して東西貿易の利益を独占した。
 さらに、運河の開発によってエジプトの農業生産力を向上させるとともに、すでにアッバース朝時代に北インドからイラン・イラクを経由してエジプトに伝播していた砂糖キビ栽培にも力を入れ、エジプトを当時最大の砂糖生産・輸出地に押し上げた。
 しかし、マムルーク朝は世襲王朝ではなく、マムルーク軍団に支持された実力派マムルークがスルターン位に就く「実力主義」の君主制であり、この傾向は14世紀末に従来のバフリー軍団に代わってブルジー軍団が政権を掌握すると(ブルジー・マムルーク朝)、ますます強まった。スルターン位をめぐる権力闘争は熾烈を極め、15世紀半ば以降になると、ペスト禍による人口減とも相まって、王朝の斜陽化を促進していった。

(2)由来と建国
 伝承上セルジューク家と同じく、オグズ族から出たとされるオスマン家が頭角を現すのは、西でマムルーク朝が全盛期にあった13世紀末から14世紀前半頃のことであった。
 中央アジアにいたオスマン家の祖はモンゴルの圧迫を受け、わずかな勢力で小アジアへ移住し、その地を領地としていたセルジューク朝の分家ルーム・セルジューク朝に取り立てられて小領主となったが、王朝始祖オスマンの時、セルジューク朝衰亡に乗じて小アジアで自立化した君侯国の一つとして台頭する。
 もっとも、オスマンの代ではまだ王朝の体を成しておらず、トルコ系イスラーム騎士団の域を出ていなかったと見られるが、オスマンは小アジアに残存していたビザンツ帝国領を征服し、王朝化の礎石を置いた。そのためにオスマンが王朝始祖として王朝名にも冠されているが、実質的にオスマン朝の基礎を築いたのはオスマンの子オルハンであった。彼は父の最晩年にトルコ北西部のブルサを攻略し、最初の首都に定めた(1326)。
 ちなみに、オスマン帝国の歴代スルターンのトゥグラと呼ばれる花押の使用が確認されるのも、オルハンが最初である。

(3)版図拡大
 オスマン朝初期の版図拡大は、小アジアを足場としつつ、ボスポラス海峡を越えてビザンツ帝国が支配するバルカン半島を押さえ、さらにヨーロッパ中央部を目指すという西進政策を軸として展開された。
 二代目オルハンは早くも1358年には海峡を越えてバルカン半島へ出兵しているが、本格的なバルカン進出はオルハンの子ムラト1世の時からで、彼が第二の首都として攻略したハドリアノポリス(エディルネ)を拠点に、彼の子バヤジット1世の時までにバルカン半島主要部を押さえ、ビザンツ帝国征服も時間の問題かと思われた。
 しかし、彼は三でも言及したように、1402年、小アジア諸君侯の救援要請を受けて来寇したティムールにアンカラで破れ、捕虜となって間もなく病没した。この結果、オスマン・トルコの根拠地小アジア領土はティムールに奪われ、亡国の危機に立つ。
 しかし、バヤジットの子メフメット1世がこの危機を立て直し、1世の孫に当たるメフメット2世の時、ついにコンスタンティノポリス(イスタンブル)攻略に成功し、ビザンツ帝国を滅ぼす(1453)。彼はまた黒海方面にも手を伸ばし、黒海沿岸の覇権をも獲得した。
 16世紀に入ると、セリム1世の下で1517年にはカイロのマムルーク朝を破り、エジプトを支配下に収め、メッカ・メディナの管理権も掌握してイスラーム世界の中心に立った。
 こうしてオスマン帝国の全盛期は、セリム1世の子で大帝を冠せられるスレイマン1世によって築かれた。彼の代にはヨーロッパ中央部に侵入してハンガリーを支配下に置き、1529年にはオーストリアの首都ウィーンを包囲したが、これは成功しなかった。
 しかし、東ではイラクを押さえつつ、東隣のイランに出現したシーア派サファヴィー教団を母体とするサファヴィー朝の攻勢を退けたうえ、ペルシャ湾への出口を確保するとともに、海賊を使って北アフリカ沿岸を押さえ、地中海の制海権も掌握する。
 こうして、オスマン帝国は16世紀中頃までには旧ローマ帝国(統一ローマ時代)の最大版図の四分の三程度を手中にした。あたかも、東ローマ帝国時代のユスティニアヌス大帝が抱いていた統一ローマ復活の夢の実現をトルコ人が代行してみせたようなものであった。

(4)オスマン帝国の内外政策
 オスマン帝国の支配体制はスルターンの権力を至上とする一種の絶対君主制であった。しかし、決してスルターンの恣意を許す独裁制ではなく、スルターンといえどもイスラーム法(シャリーア)に拘束される一種の「法の支配」を伴っていた。
 一方、スルターンの権力は大宰相を頂点とする組織的な官僚制と強力な常備軍とによって支えられていた。常備軍の中心はスルターン直属の精鋭歩兵軍イェニチェリであった。そして、高級官僚やイェニチェリ幹部将校はデヴシルメ制と呼ばれる一種の選抜徴用システムを通じて育成された。これは奴隷制の一種であるが、実態としては身分や家柄によらないエリート選抜システムであった。
 地方の直轄領(州)ではティマール制が適用された。これはティマール(封土)を割り当てられた地方騎士に戦時の軍事奉仕義務を負わせる制度で、その本質はブワイフ、セルジューク朝以来のイクター制と同じである。このようにオスマン帝国には中央集権的要素と封建的要素とが混在していた。
 オスマン帝国は版図拡大の結果として、多民族・多宗派の臣民を抱え込むことになったが、こうした(元朝風に言えば)「色目人」に対しては、一定の自治共同体の形成を容認した。
 これは異教徒の強制改宗を禁ずるイスラーム教義に沿った多民族共存政策であったが、このようなしょせん軍事的征服の結果強制された多民族共存社会は、やがて近代的民族意識に目覚めた服属諸民族の分離独立の動きを押しとどめる力を持たなかったのである。
 全盛期のオスマン帝国はヨーロッパ中央部進出を企図していたこともあって、ヨーロッパ諸国に対しては優越的な態度で臨んだ。その一つの表れがフランスなどのヨーロッパ各国を締結した特恵条約(カピチュレーション)である。
 フランスは共通の敵であったオーストリアへの対抗上オスマン帝国への接近を図ったフランソワ1世の時、特恵条約を締結したのであるが、その内容は領事裁判権や種々の通商特権などオスマン帝国側に不利な条件をスルターンの特別な恩恵によって許すという勅許であり、あくまでもオスマン帝国側を上国とする条約であった。
 オスマン帝国は同様の条約をイングランドやオランダとも締結したが、こうした条約はやがてオスマン帝国とヨーロッパ諸国との力関係が逆転していく18世紀以降は、かえってヨーロッパ側優位の不平等条約として利用されるところとなった。

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