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2011年12月 2日 (金)

世界歴史鳥瞰(連載第19回)

第4章 略

二 イスラーム勢力の展開(続き)

(3)アッバース朝の盛衰
 史上初の世襲王朝イスラームとなったウマイヤ朝は、長続きしなかった。元来、正統性に大きな疑問が持たれ、シーア派でなくともハーシム家系のアラブ人の間には反感がくすぶっていた。
 それに加えて、信徒の平等が説かれながら改宗してもマワーリーとして差別され、免税特権や高い給与を保障されるアラブ人との法的地位の不平等が明白な異民族―とりわけイラン系民族―の間でも不満は高まっていた。
 こうした中、預言者ムハンマドの叔父アッバースを祖とするハーシム家系のアッバース家がイラクや中央アジアのホラーサーン方面の支持を背景に武装蜂起してウマイヤ朝を打倒、イラクのクーファを最初の都にアッバース王朝を樹立したのである(750)。
 一方、この時一族のほとんどが皆殺しにされた中で生き延びたウマイヤ家のアブド・アッラフマーン(1世)は北アフリカへ亡命した後、イベリア半島に侵入してコルドバを都に後ウマイヤ朝を建てた(756)。
 この王朝はすでにイスラーム勢力の手中にあったイベリア半島南部を基盤に北部まで領土を広げ、イベリア半島に今日まで影響の残るイスラーム文化を深く刻印する役割を果たした。ただ、この王朝の君主は当初カリフを名乗らず、単に国王(マリク)を称した。
 さて、アッバース朝の基礎は初代カリフとなったアブー・アルアッバースの短い治世を継いだ兄の2代カリフ・マンスールの下で固められた。その基本性格はウマイヤ朝と同様に世襲王朝であり、しかもペルシャの影響の残るイラクを支持基盤としたため、宰相(ワジール)を頂点とする官僚制に支えられたペルシャ風の中央集権的な権威主義体制となり、イスラームのある種「民主的」な理想からはいっそう遠ざかっていった。
 もっとも、不満の強かったアラブ人の特権は廃止され、民族間の平等に関しては一定の前進があった。従って、宗教としてのイスラームが民族の別を超えて本格的に普及していくのはアッバース朝時代からと言ってよい。そして、マンスールが建設した新都バグダードはイスラーム文明の中心都市となるとともに、東西貿易の新たな集散地としても繁栄するのである。
 しかし、アッバース朝の全盛期は9世紀半ば頃までであった。それを過ぎると王朝には内憂外患が襲いかかる。最初の内憂は、主としてトルコ系の奴隷軍人(マムルーク)の増長であった。
 彼らは7代カリフ・マームーンの時代以来、中央アジアから奴隷として調達されて軍事訓練を施され、カリフの親衛隊軍人として仕えるようになっていた。しかし、マムルークらは次第に増長して、9世紀後半になると街で横暴な振る舞いをするようになったばかりでなく、政治にも干渉してカリフの廃立にも関わり、意に沿わないカリフを投獄・殺害することさえ辞さなかった。カリフの権威は揺らいだ。
 これに追い打ちをかけたのは、869年に始まる黒人奴隷ザンジュの大反乱であった。
 ザンジュはマムルークとは違い、アッバース朝高官や商人層が主にイラク南部で経営していた私領地で農耕に使役されていた奴隷で、多くはアフリカ東海岸から調達されていた。奴隷とはいえ一種のエリートであったマムルークとは異なり、劣悪な労働・生活条件に苦しめられたかれらは一人のアラブ人革命家に指導されて蜂起し、ティグリス河下流を拠点に15年にもわたり抵抗を続けた。最終的に鎮圧されたものの、この反乱は王朝の威信を大きく傷つけた。
 こうした奴隷がらみの内憂に加え、9世紀後半以降、各地の地方勢力が独立し始めたことで領土の縮小が進行し、カリフの実効支配はほぼイラクにしか及ばなくなった。当然、財政は悪化した。
 中でも、中央アジアには9世紀後半以降、イラン系の在地豪族(ディフカーン)が建てたサーマーン朝が当初はアッバース朝に臣従しつつ、次第に独立の強大な王朝となった。この王朝はシルクロードの貿易利益を掌握したほか、マムルーク制を初めて実施するとともに、自らマムルークをアッバース朝をはじめとする西アジア方面へ売り込んで利益を上げていた。
 同時に、文化的な面でも、中央アジアの本格的なイスラーム化を促進し、その首都ブハーラーは学芸都市として栄えた。イブン・シーナーのような哲学者・医学者を生み、近代ペルシャ語・ペルシャ文学の源となったのも、この都市であった。
 10世紀に入ると、チュニジアにシーア派の反動的な一派イスマイール派がファーティマ朝を建てた。預言者ムハンマドの娘ファーティマと4代正統カリフ・アリーの子孫を称した王朝開祖ウバイドゥッラーは自らマフディー(シーア派救世主)を名乗り、カリフをも号してアッバース朝カリフを無視する態度をとった。ファーティマ朝は10世紀後半には新首都カイロを建設し、西地中海を押さえてシチリア島やマルタ島も支配下に収めた。後にはエルサレムやダマスクスも取って、バグダードにも迫る勢いを見せる。
 一方、コルドバの後ウマイヤ朝でも10世紀に入って全盛期を作ったアブド・アッラフマーン3世がカリフを号したため、正統スンナ派カリフが東西に二人出現する事態となった。シーア派のファーティマ朝カリフと合わせて三人のカリフが鼎立する異常事態である。
 こうした中で、10世紀半ばには、父親がカスピ海沿岸の漁師の出であったと言われるシーア派のイラン系三兄弟が興したブワイフ朝が急速に勢力を強め、バグダードに入城(945)、アッバース朝を事実上乗っ取って実権を掌握した。この王朝の歴代君主はアッバース朝カリフから大アミール(大総督)の称号を得て統治した。
 統治権を握ったブワイフ朝が当面した大きな課題は財政再建であった。
 前述したように、この頃、アッバース朝の実効支配領域はほぼイラクに限られていたため、国庫の欠乏は深刻で、従来官僚や軍人に現金で給与を支払っていたアター制が行き詰まっていた。そこで、ブワイフ朝は配下の騎士に封土(イクター)を与え、徴税権を委ねるのと引き換えに、軍事奉仕を義務付けるイクター制を導入した。言わば、「近代」の先駆けとも言い得るような一種の官僚制から一種の封建制への逆行が生じたとも言えるが、以後イクター制はイスラーム系諸王朝に継承され、イスラーム型封建制のモデルともなっていった。
 こうして、アッバース朝はイラン系シーア派軍閥の傀儡となり、形骸化していくが、この王朝の不可思議さは風前の灯となりながらもなお13世紀半ば過ぎまで命脈を保ち、都合500年以上も続いたことにある。
 これは預言者とも血縁上近いアッバース家の威光を諸王朝が政治的=宗教的な正当化のために利用しようとしたことによるものであった。

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