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2011年12月 6日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第20回)

第4章 略

二 イスラーム勢力の展開(続き)

(4)トルコ勢力の台頭
 トルコ系民族は、前回述べたように、マムルークとしてイスラーム系王朝に雇われるようになっていたが、これとは別に10世紀中頃に中央アジアに割拠したトルコ系諸民族の間でイスラーム教への一斉改宗的な現象が生じた。
 その先駆けをなしたのは、天山山脈東部から出たカラ・ハーン朝で、これは西隣のサーマーン朝の影響からイスラームを受容したと言われる。そのほか、アフガニスタンにはサーマーン朝マムルーク出身のアルプティギーンが建てたガズナ朝が強盛化した。
 結局、サーマーン朝はこのカラ・ハーン朝とガズナ朝に圧迫され、10世紀末頃に衰亡する。この中央アジア最後のイラン系王朝の滅亡により、この地域のトルコ化は不動のものとなった。
 そうした中で、オグズと呼ばれたトルコ系部族集団から出たセルジューク家が強盛化し、1042年までに中央アジアを統一すると西進してブワイフ朝勢力を打倒して1055年にはバグダード入城を果たした。時の当主トゥグリル・ベクはアッバース朝カリフからスルターン(首長)の称号を受け、実権を掌握した。これがセルジューク・トルコ帝国の実質的な始まりであるとともに、西アジアの中心部の覇権をトルコ勢力が取った初例でもあった。
 セルジューク朝はエルサレムからシリアに至る地域を押さえてバグダードに迫る勢いを見せていたシーア派ファーティマ朝からこれらの地域を奪回したほか、ビザンツ帝国領の小アジアにも侵攻してその大半を占領した。この攻勢にビザンツ帝国が動揺を来たし、ローマ教皇に救援を要請したことが、キリスト教徒の十字軍を呼び起こすきっかけとなった。しかし、小アジアは以後、恒久的にトルコ化され、今日にまで至っているのである。
 セルジューク朝はまた、ブワイフ朝が導入したイクター制を整備拡大し、イクター保有者に対する監督も強化して、より公正な制度に仕上げた。文化・思想面でも、シーア派のブワイフ朝やファーティマ朝の影響を排除すべく、イスラーム学院を設立してスンナ派の教学を強化し、分裂していた同派の統一を回復した。
 こうして強大化したセルジューク朝も、11世紀末には早くも衰え、12世紀半ばには地方分家ごとに分裂を来たし、順次衰亡していく。イラクでカリフを奉じていた本家筋も新たに中央アジアのアラル海付近でセルジューク朝マムルーク出身の総督アヌーシュティギーンが独立して興したホラズム・シャー朝のために滅ぼされた(1194)。
 この新興トルコ系王朝ホラズム・シャー朝は13世紀初めには中央アジアとイランの全域を支配下に収め、セルジューク朝に代わって西アジアの新たな覇者となりかけていたところを、後述のように東から旋風のように沸き起こったモンゴル勢力のために滅ぼされてしまう。
 とはいえ、西アジアにおけるトルコ・イスラーム勢力の覇権はもはや揺るがず、それはやがて登場するオスマン・トルコの手に渡されるであろう。

(5)サラディンと十字軍撃退
 先述のように、セルジューク朝による小アジア占領はキリスト教徒の十字軍を呼び起こした。その際、キリスト教徒側の情宣では、セルジューク朝がエルサレムへのキリスト教巡礼者を迫害しているとされたが、これは虚偽で、むしろ最初の非公式な「民衆十字軍」(1095~96)をセルジューク朝軍が粉砕したというのが真相であった。
 公式の第一回十字軍(1096~99)が送られてきた時、セルジューク朝は分裂した後であり、有効に反撃できず、十字軍はエルサレムを奪回し、四つの十字軍国家の建設に成功した。
 これに対して、十字軍撃退の先鞭をつけたのはやはりセルジューク朝マムルークを祖とする地方王朝ザンギー朝であった。王朝開祖ザンギーは1144年、ティグリス・ユーフラテス河上流域に建設されていた十字軍国家の一つエデッサ伯領を奪回した。ザンギーはその二年後に自らの奴隷に殺害されたが、彼の遺志はその子ヌールッディーンやザンギーの部将であったイラン系クルド人の貴族アイユーブやその子で後に十字軍撃退の英雄となるサラーフ・アッディーン(サラディン)に引き継がれていった。
 サラディンが頭角を現すのは、急死した叔父を継いでファーティマ朝の宰相(ワジール)に就任してからであった。元来、彼の叔父は先のザンギー朝がファーティマ朝の内紛に乗じて送り込んでいたものであった。
 宰相になったサラディンは、十字軍士と結託したファーティマ朝側のサラディン暗殺策動を逆手に取る形で、ファーティマ朝を乗っ取り、スンナ派の新王朝アイユーブ朝を創始した(1171)。
 サラディンはイクター制を導入して軍制を強化した上で十字軍撃退を進め、10年以上の歳月をかけてついにエルサレム奪回に成功した(1187)。
 これに対して、キリスト教徒側は1189年、独・仏・英の君主親征の下、第三回十字軍を送り込むが、エルサレム奪回には成功せず、サラディン側もアッコンの海戦では敗れ、講和が成立した。
 イスラーム戦士としてのサラディンはキリスト教徒側でも高潔な騎士道精神の持ち主として後世まで記憶されるほど公正で寛大な人物であったと言われているが、それは彼がクルド人というイスラーム世界でも少数派の出自を持っていたことと関連がなくはないかもしれない。
 アイユーブ朝君主としてのサラディンは東西貿易を担うムスリム商人(カーリミー商人)を保護するため、アラビア半島南端の海港アデンを攻略し、紅海からキリスト教徒商人らを締め出してムスリム商人に利益を独占させつつ、かれらの商取引に課税して財源を強化した。
 しかし、歴史的にユニークなこのクルド系スンナ派王朝は短命であった。例によって王朝が雇い入れたマムルークが次第に増長し始め、1250年にはアイユーブ朝を倒してマムルーク自身を君主とする新王朝(マムルーク朝)を開いたのであった。
 そして、未完に終わったサラディンの十字軍撃退は、このマムルーク朝の手で引き継がれていくのである。

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