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2011年12月

2011年12月29日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第24回)

第4章 略

四 オスマン帝国の台頭と全盛

(1)先行者マムルーク朝
 二でも触れたように、13世紀半ばまでに衰亡したセルジューク・トルコに続いて西アジア方面の覇権を握るのはオスマン・トルコであったが、帝国化するのは15世紀半ば以降のことで、今しばらくはマムルーク朝が首都カイロを拠点にエジプト・シリアにまたがってイスラーム世界の主導権を取り、オスマン・トルコはその後を追うようにして発展していく。
 マムルーク朝は当初、アイユーブ朝末期のスルターン、サーリフによって創設されたマムルーク軍団バフリーヤがクーデターでサーリフの奴隷出身の妃、シャジャル・アッドゥッルを擁立するという変則的な出発をした(バフリー・マムルーク朝)。
 彼女は折からの第6回十字軍への対応などでも手腕を見せたが、女性君主への反発は強く、在任3ヶ月で再婚相手のムイッズ・イッズッディーン・アイバクに譲位を余儀なくされた。
 マムルーク朝はモンゴル軍撃退で声望を高め、第5代スルターンに就いたバイバルスの時、モンゴル軍のためにトドメを刺されたバグダードのアッバース朝カリフ家の一族をカイロに迎え、象徴的なカリフに奉戴し、宗教的な権威づけに利用しつつ、メッカ及びメディナの両聖都を手中にして、イスラーム世界の主導権を握った。
 この王朝の全盛期は13世紀末から14世紀半ばにかけてで、首都カイロはモンゴル軍に破壊されたバグダードに代わってイスラーム文化の中心都市として繁栄した。
 経済面でも、15世紀前半の専売制度導入まではアイユーブ朝のカーリミー商人保護政策を継承し、紅海経由でインド洋と地中海を結ぶ海上貿易路を掌握して東西貿易の利益を独占した。
 さらに、運河の開発によってエジプトの農業生産力を向上させるとともに、すでにアッバース朝時代に北インドからイラン・イラクを経由してエジプトに伝播していた砂糖キビ栽培にも力を入れ、エジプトを当時最大の砂糖生産・輸出地に押し上げた。
 しかし、マムルーク朝は世襲王朝ではなく、マムルーク軍団に支持された実力派マムルークがスルターン位に就く「実力主義」の君主制であり、この傾向は14世紀末に従来のバフリー軍団に代わってブルジー軍団が政権を掌握すると(ブルジー・マムルーク朝)、ますます強まった。スルターン位をめぐる権力闘争は熾烈を極め、15世紀半ば以降になると、ペスト禍による人口減とも相まって、王朝の斜陽化を促進していった。

(2)由来と建国
 伝承上セルジューク家と同じく、オグズ族から出たとされるオスマン家が頭角を現すのは、西でマムルーク朝が全盛期にあった13世紀末から14世紀前半頃のことであった。
 中央アジアにいたオスマン家の祖はモンゴルの圧迫を受け、わずかな勢力で小アジアへ移住し、その地を領地としていたセルジューク朝の分家ルーム・セルジューク朝に取り立てられて小領主となったが、王朝始祖オスマンの時、セルジューク朝衰亡に乗じて小アジアで自立化した君侯国の一つとして台頭する。
 もっとも、オスマンの代ではまだ王朝の体を成しておらず、トルコ系イスラーム騎士団の域を出ていなかったと見られるが、オスマンは小アジアに残存していたビザンツ帝国領を征服し、王朝化の礎石を置いた。そのためにオスマンが王朝始祖として王朝名にも冠されているが、実質的にオスマン朝の基礎を築いたのはオスマンの子オルハンであった。彼は父の最晩年にトルコ北西部のブルサを攻略し、最初の首都に定めた(1326)。
 ちなみに、オスマン帝国の歴代スルターンのトゥグラと呼ばれる花押の使用が確認されるのも、オルハンが最初である。

(3)版図拡大
 オスマン朝初期の版図拡大は、小アジアを足場としつつ、ボスポラス海峡を越えてビザンツ帝国が支配するバルカン半島を押さえ、さらにヨーロッパ中央部を目指すという西進政策を軸として展開された。
 二代目オルハンは早くも1358年には海峡を越えてバルカン半島へ出兵しているが、本格的なバルカン進出はオルハンの子ムラト1世の時からで、彼が第二の首都として攻略したハドリアノポリス(エディルネ)を拠点に、彼の子バヤジット1世の時までにバルカン半島主要部を押さえ、ビザンツ帝国征服も時間の問題かと思われた。
 しかし、彼は三でも言及したように、1402年、小アジア諸君侯の救援要請を受けて来寇したティムールにアンカラで破れ、捕虜となって間もなく病没した。この結果、オスマン・トルコの根拠地小アジア領土はティムールに奪われ、亡国の危機に立つ。
 しかし、バヤジットの子メフメット1世がこの危機を立て直し、1世の孫に当たるメフメット2世の時、ついにコンスタンティノポリス(イスタンブル)攻略に成功し、ビザンツ帝国を滅ぼす(1453)。彼はまた黒海方面にも手を伸ばし、黒海沿岸の覇権をも獲得した。
 16世紀に入ると、セリム1世の下で1517年にはカイロのマムルーク朝を破り、エジプトを支配下に収め、メッカ・メディナの管理権も掌握してイスラーム世界の中心に立った。
 こうしてオスマン帝国の全盛期は、セリム1世の子で大帝を冠せられるスレイマン1世によって築かれた。彼の代にはヨーロッパ中央部に侵入してハンガリーを支配下に置き、1529年にはオーストリアの首都ウィーンを包囲したが、これは成功しなかった。
 しかし、東ではイラクを押さえつつ、東隣のイランに出現したシーア派サファヴィー教団を母体とするサファヴィー朝の攻勢を退けたうえ、ペルシャ湾への出口を確保するとともに、海賊を使って北アフリカ沿岸を押さえ、地中海の制海権も掌握する。
 こうして、オスマン帝国は16世紀中頃までには旧ローマ帝国(統一ローマ時代)の最大版図の四分の三程度を手中にした。あたかも、東ローマ帝国時代のユスティニアヌス大帝が抱いていた統一ローマ復活の夢の実現をトルコ人が代行してみせたようなものであった。

(4)オスマン帝国の内外政策
 オスマン帝国の支配体制はスルターンの権力を至上とする一種の絶対君主制であった。しかし、決してスルターンの恣意を許す独裁制ではなく、スルターンといえどもイスラーム法(シャリーア)に拘束される一種の「法の支配」を伴っていた。
 一方、スルターンの権力は大宰相を頂点とする組織的な官僚制と強力な常備軍とによって支えられていた。常備軍の中心はスルターン直属の精鋭歩兵軍イェニチェリであった。そして、高級官僚やイェニチェリ幹部将校はデヴシルメ制と呼ばれる一種の選抜徴用システムを通じて育成された。これは奴隷制の一種であるが、実態としては身分や家柄によらないエリート選抜システムであった。
 地方の直轄領(州)ではティマール制が適用された。これはティマール(封土)を割り当てられた地方騎士に戦時の軍事奉仕義務を負わせる制度で、その本質はブワイフ、セルジューク朝以来のイクター制と同じである。このようにオスマン帝国には中央集権的要素と封建的要素とが混在していた。
 オスマン帝国は版図拡大の結果として、多民族・多宗派の臣民を抱え込むことになったが、こうした(元朝風に言えば)「色目人」に対しては、一定の自治共同体の形成を容認した。
 これは異教徒の強制改宗を禁ずるイスラーム教義に沿った多民族共存政策であったが、このようなしょせん軍事的征服の結果強制された多民族共存社会は、やがて近代的民族意識に目覚めた服属諸民族の分離独立の動きを押しとどめる力を持たなかったのである。
 全盛期のオスマン帝国はヨーロッパ中央部進出を企図していたこともあって、ヨーロッパ諸国に対しては優越的な態度で臨んだ。その一つの表れがフランスなどのヨーロッパ各国を締結した特恵条約(カピチュレーション)である。
 フランスは共通の敵であったオーストリアへの対抗上オスマン帝国への接近を図ったフランソワ1世の時、特恵条約を締結したのであるが、その内容は領事裁判権や種々の通商特権などオスマン帝国側に不利な条件をスルターンの特別な恩恵によって許すという勅許であり、あくまでもオスマン帝国側を上国とする条約であった。
 オスマン帝国は同様の条約をイングランドやオランダとも締結したが、こうした条約はやがてオスマン帝国とヨーロッパ諸国との力関係が逆転していく18世紀以降は、かえってヨーロッパ側優位の不平等条約として利用されるところとなった。

2011年12月27日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第31回)

実践編

レッスン5:犯罪者差別

〔まとめと補足〕

 「犯罪者差別」という表現そのものが、他の「○○差別」と比べてもほとんど定着していないように見える。その理由は、犯罪者=劣等人間という社会的意識が根強く存在し、犯罪者差別は、他の差別にもまして「差別」と認識することが難しく、ともすれば「正義」のようなビッグワードで正当化されやすい傾向を持つからであろう。
 日本古来の観念によると、犯罪も宗教的ケガレであったが、現代の犯罪者劣等視は専ら道徳的な観点からなされ、「卑劣な犯行」といった表現に見られるように、犯罪者は道徳的に劣った人間と見られがちなのである。
 ただ、犯罪者差別にあっても、視覚的表象との関わりがないわけではない。例えば「目付きが悪い」とか「ヤクザっぽい顔」、日本では濫用気味に多用される「不審者」のように、犯罪者に特有の外見があることを前提とする表現が見られる。
 また、今日ではすでに過去のものではあるが、19世紀後半から20世紀初頭頃には、犯罪者は人類学的にも識別可能な肉体的特徴を持つと主張する犯罪人類学が風靡したこともあった。
 こうした犯罪人類学の泰斗でもあったイタリアの法医学者ロンブローゾは、矯正不能のゆえに死刑をもって淘汰するほかないとされる「生来性犯罪者」の理論を提唱した。この理論は同時期に台頭していた優生思想と結び合っていたことは明らかである。
 この理論もすでに否定されて久しいが、今日でも死刑判決の中ではしばしば被告人の「矯正不能」が指摘され、死刑の正当化理由となっているように、死刑制度の中ではなお「生来性犯罪者」の理論が部分的に生き延びているとも言える。
 犯罪が社会を不安に陥れる有害な行為であることは否めず、犯罪者が一定以上危険視されることは不可避的である。従って、その罪状によっては犯罪者の身柄を拘束し、一定期間社会的に隔離することは差別と断定できない。しかし、それを超えて犯罪者を劣等視し、その教育や更生の可能性をも否定して、抹殺や永久隔離、社会的排斥を推進することは差別である。
 とはいえ、犯罪者差別の克服は他の差別の克服にもまして容易なことではない。何度か示してきた「内面性の美学」にしても、犯罪者はまさにその内面が汚れているとみなされるのであるから、「内面性の美学」によれば、かえって差別を助長しかねない面すらある。
 また、互いの差異より共通点を発見しようという「包摂の哲学」も、大量殺人犯人と自分との間には何らの共通点も見出し難く、我が身に引き寄せて考えてみる「引き寄せの倫理」も、自分が大量殺人犯人だったら・・・と想像できる人は少ないだろう(想像できるという考えがあってもちろん差し支えないが)。
 お手上げのようだが、一つの方向性として、内面の浄化可能性というものを想定することができる。すなわち、内面の汚れた犯罪者といえども、矯正され更生することによって、内面の汚れが除去されると考えるのである。これは、あたかも日本古来のケガレが、一方では清めや祓いによって洗い流されて浄化されると観念されていたことと似ている。
 このような、言わば「内面の浄化理論」によれば、「包摂の哲学」との関係でも、更生した犯罪者を私どもと「同じ人間」として認め直す可能性も開かれてくるのではないだろうか。
 そう考えるならば、特定の人間に犯罪性が生来的ないし恒久的に付着しているかのようなニュアンスを帯びた「犯罪者」という前差別語の使用を極力回避することも、真剣に検討すべきことになろう(この問題については、理論編命題19でも言及した)。
 さらに進んで、そもそも罪を犯した人を前科者という差別されやすい地位に立たせる刑罰制度自体を廃して、矯正と更生を促進する別の制度を創案すべきか━。これはもはや本連載の課題を超えた問いとなる。

2011年12月22日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第30回)

実践編

レッスン5:犯罪者差別(続き)

例題3:
新聞やテレビの犯罪報道で、犯罪の被疑者や被告人の実名が顔写真や映像と共に公開される慣行(実名報道)を廃し、匿名を原則(匿名報道)とすべきだと思うか。

(1)思う
(2)思わない

 日本の報道慣行として強固に定着している「実名報道」に対しては、従来から批判も向けられてきたが、それはもっぱらプライバシーや無罪推定原則の観点からなされている。
 実名報道は、被疑者・被告人の個人情報である氏名・顔写真・映像から住所、場合により家族関係まで暴露したうえ、犯人視することを典型的な内容とするから、市民のプライバシーや無罪推定を受ける権利を侵害していることはたしかである。
 報道界としても、そうした点を考慮して、次第に顔写真・映像の公開を抑制したり、かつての呼び捨てを改め、「容疑者」「被告」呼称を定着させるなど一定の改善策も示してきていたが、近年は連行映像を公開するような逆行も見られ、実名報道の廃止には断固として否定的である。
 それほどに実名報道に固執する理由を究明していくと、被疑者・被告人=犯人(犯罪者)という前提に立ちつつ、その者を「さらす」という社会的制裁の形をとった一つの犯罪者差別の慣習に行き着くであろう。
 これに対して、実名報道を固守する報道界からは、しばしば「実名報道は権力への監視手段である」といった正当化理由が持ち出されることがある。しかし、「権力監視」を言うならば、権力行使の客体となる被疑者・被告人ではなく、権力行使の主体となる捜査官や検察官、裁判官ら官憲側の実名を公表しなければ意味がない―これについては、むしろ「匿名報道」が確立されている―から、こうした理由を持ち出して「さらし」を正当化するのは、一種の転嫁的差別である。
 もっとも、一般社会でこうした実名報道がどの程度支持されているのかよくわからないが、「ツラを見てやりたい」といった慣用句に象徴されるような「さらし」への欲求は相当に潜在しているのではないか。
 そのことは、少年法上匿名報道が要求されているため、実名報道の例外となっている少年の被疑者・被告人の実名や顔写真までがしばしばインターネット上に流出するという事態に表れている。
 こうした「さらし」は犯罪者差別の一環であるが、実名報道(あるいは報道を介さない「流出」)の対象は、刑事処分が確定する前の被疑者・被告人であることが圧倒的に多い。
 そうであれば、やはり無罪推定原則が妥当するのであって―たとえ「自白している」という当局発表があっても同様である―、「未決の被疑者・被告人はまだ「犯罪者」と決まったわけではない」という鉄則を明確に意識することが、「さらし」欲求の抑制、ひいては匿名報道の確立にもつながる道である。
 「匿名報道」は必ずしも犯罪者差別そのものの解消を意味しないとしても、一つの差別回避策として、犯罪者差別解消への重要な一里塚とはなるであろう。

例題4:
あなたは死刑制度に賛成するか。

(1)賛成する
(2)賛成しない

 死刑制度を差別問題に絡めることをいぶかる方もあろう。普通、死刑制度の賛否は「正義」の理解の仕方の問題としてとらえられているからである。
 そういう大きな問題として取り扱うと、水かけ論争に終わりがちであるが、視座を変えてみると、また違ってくる。
 そもそも、死刑とは犯罪を犯した人の存在価値を否定し、「生きるに値しない」と断罪する刑罰である。しばしば死刑判決文でも、被告人を「鬼畜」などと呼び、人間としての属性をさえ否定したうえで死を宣告するのは、そのことの端的な表れにほかならない。
 その意味で、死刑とは、犯罪を犯した人を劣等視し、単に社会的に排斥するにとどまらず、地上から抹殺する究極の差別だと言えよう。
 このようにとらえるならば、死刑を「正義」とみなして正当化するのは、これまでに見てきた他の事例と同様、一見もっともらしい理由を持ち出す転嫁的差別の一例と言える。究極の差別であるがゆえに、転嫁的理由づけとしても「正義」のようなビッグワードによりかかることになるのである。
 死刑制度が究極の差別であるということは、この制度が差別問題全般に対するリトマス試験紙となり得ることを意味している。
 死刑制度への賛否にも濃淡があろうが、被告人の生きる資格を否定するこの制度を強く肯定する人ほど、本連載で取り上げた他の事例でも、差別的な回答をする確率の高い人だと見てほぼ間違いなかろう(逆もまた真である)。
 この点で、人間を「生きるに値するかどうか」という基準で選別し、少数民族、障碍者、同性愛者などの絶滅政策にまで暴走したナチスが、同時に死刑制度を称揚し、死刑の適用を大幅に拡大・強化したことは決して偶然ではない。
 一方、〈反差別〉の実践に正面から取り組む政府を持つ諸国では、死刑制度は自ずと廃止へ向うであろう。〈反差別〉は死刑制度の廃止にとって有利な環境を準備するであろうからである。
 そして、死刑制度の廃止は、犯罪を犯した人に例外なく更生のチャンスを認める包容政策を導くであろう。
 

2011年12月21日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第23回)

第4章 略

三 モンゴル勢力の旋風(続き)

(4)分裂とイスラーム化
 最大時のモンゴル帝国は、アジア大陸部とヨーロッパ大陸部とを初めて包括して一本につなげた。その意味では―モンゴル帝国のモンゴル人たちは意識していなかったことであるが―モンゴル帝国こそ「ユーラシア大陸」という地理的概念を生み出したのだとも言える。
 近年、「言葉の真の意味での世界史はモンゴル帝国の成立に始まる」との史観も提唱されてきている。この史観の当否はともかくとしても、モンゴル帝国とは単なる「モンゴル人の帝国」なのではなく、実態としては「ユーラシア帝国」であった。そして、それは後々領域をより北に移して帝政ロシア、それを継承したソヴィエト連邦が実現しようとしたことの予行演習でもあったと言える。
 とはいえ、モンゴル帝国はやはりローマ帝国などと同様に、「点と線」の帝国たることを免れなかった。その原因として、交通・通信事情が古代からそう大きく進歩していなかったこともあるが、そればかりでなく、モンゴル帝国はローマ帝国以上に急激に、しかもただ一つの家系による征服事業の結果作られただけに、よりいっそう観念的な存在であることを免れ得なかったのである。
 加えて、遊牧民族特有の分封領民制(ウルス)の慣習が帝国を初めから分裂含みのものとしていた。ウルスは一族の有力者に土地の代わりに領民を分封する制度で、その本質は定住農耕民族の封建制に近いものであるから、「帝国」といいながら、それは準封建制的な分裂を免れないものだったのである。
 元朝自体が中央の大ハーン(皇帝)自身のウルスの意義を持ち、これを中核として地方の有力ウルスが結合してゆるやかな統一を保っていたのがモンゴル帝国であった。
 それでも、強力な大ハーンであったフビライ存命中は帝国の統一性はかなり強固であったが、彼が没して14世紀に入ると、統一性は次第に危うくなる。
 中でも、チンギス・ハーンの次男チャガタイが中央アジアに建てた最も古い地方ハーン国であるチャガタイ・ハーン国、バトゥがヨーロッパ遠征から撤収する途上で南ロシアに建てたキプチャク・ハーン国、西アジア遠征を担ったフラグがイランに建てたイル・ハーン国が有力化した。
 これらの地方ハーン国はイスラーム圏に根拠地を置いたため、次第にイスラーム化していくことを免れなかった。特に、チャガタイ・ハーン国は臣民の多くがイスラーム化したトルコ人であったため、自らも急速にイスラーム化した。
 ただ、イランのタブリーズを都に西アジア一帯を支配したイル・ハーン国はイスラーム世界の心臓部付近にいながら、当初は反イスラーム・親キリスト教政策を採った。その後も内紛絡みで二転三転するが、13世紀末から14世紀初頭にかけてのガーザーン・ハーンの時にイスラーム化が確定し、西アジアの新たなイスラーム強国として栄えた。
 しかし、これらの地方ハーン国も14世紀半ば頃から、内紛などにより順次衰亡していく。肝心な元朝自身も、皇位継承争いに加えて、財政再建のための紙幣(交鈔[こうしょう])乱発からインフレを招くなどの失政に天災も加わり、社会不安が深刻化する。
 そうした中で、1351年、弥勒信仰を基本とする宗教結社白蓮教の信徒が反乱(紅巾の乱)を起こすと、これに呼応する農民反乱が元朝打倒を掲げる漢民族のレジスタンス的運動に転化する。1368年、江南で紅巾軍を母体とする明が建国され、元朝打倒の北伐軍を起こすと、モンゴル勢力は中国本土を放棄し、モンゴル高原へ敗走した。
 その後、元朝は1388年、明によって最終的に滅ぼされるまでモンゴル高原を根拠地に地方政権(北元)として存続する。しかし、元朝の敗走は、事実上モンゴル帝国の崩壊を意味した。
 有力地方ハーン国の中でも最も持続したキプチャク・ハーン国も15世紀に入ると、政治腐敗のために衰微し、その服属下から台頭・自立化したロシア系モスクワ公国に圧倒され、16世紀初頭にオスマン帝国の従属化にあったクリミア半島の同族系クリム・ハーン国に吸収されていった。

(5)ティムール帝国からムガル帝国へ
 元がモンゴル高原に敗走して間もなく、中央アジアに一つの強力なモンゴル系遊牧王朝が興った。ティムール朝である。王朝創始者ティムール(テムル)はチャガタイ・ハーン国のイスラーム化したモンゴル系貴族の出身で、ハーン国の衰亡に乗じて自立化し、サマルカンドを都とするイスラーム王朝を建てた(1370)。
 この王朝はモンゴル系遊牧イスラーム王朝というユニークなもので、まさにモンゴル勢力のイスラーム化を象徴する産物であった。実際、ティムール朝はモンゴルの伝統的な部族法とクリルタイのようなモンゴル的政治制度を備えつつ、イスラーム法も併用し、深くイスラーム文化に染まった混合体制であった。かつて、モンゴル人チンギス・ハーンによって破壊されたサマルカンドが、チンギス・ハーンに傾倒していたモンゴル人ティムールによって中央アジアにおけるイスラーム文化の中心都市として再生されたのである。
 ティムールはまさにチンギス・ハーンのような手段で中央アジア全域からイラン、イラク、西北インドまで含む帝国を一代で築き上げ、1402年には小アジアのアンカラの戦いで、勃興著しいオスマン・トルコを破って一時亡国の危機に立たしめた。最晩年には元に取って代わった明の征服を企てたが、その遠征途上で病没した(1405)。
 ティムール帝国はしかし、遊牧的な分封領民制の伝統を守ったため、やはり分裂を免れず、最終的にサマルカンドとへラートを首都とする二つの政権に分裂したまま、16世紀初頭に、トルコ化したモンゴル系ウズベク族のシャイバーン朝によって相次いで滅ぼされた。
 しかし、前述したように、間もなくティムールの五代目直系子孫に当たるバーブルが1526年、デリーを都にムガル帝国を建てた。従って、やがて東のイスラーム大国となるムガル帝国をもってティムール帝国の後継国家とみなすこともできる。モンゴル(=ムガル)人はイスラーム化してインドという意外な場所で、今度は定住帝国を建てたのだった。

2011年12月20日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第29回)

実践編

レッスン5:犯罪者差別

例題1:
[a] あなたの家の近所に、国が管理運営する重罪犯専用の刑務所の建設が予定されているとする。建設反対の署名運動を始めた近所の知人から署名を求められたとして、あなたは署名するか。

(1)署名する
(2)署名しない

[b] [a]の事例を変えて、建設が予定されているのが刑務所を出所したばかりの重罪犯の更生を図る民間の施設だったらどうか。

(1)署名する
(2)署名しない

 犯罪者差別という現象は通常、犯罪を犯した個人を直接に排斥するよりも、本例題のように、刑務所のような施設をいわゆる「迷惑施設」に見立てて、その建設反対を訴えるというような形で発現してきやすい。
 おそらく、[a]と[b]いずれの場合でも、反対署名をするという人が少なくないと推測される。その理由として、「不安」とか「子どもへの悪影響」などが挙がってくるだろう。
 しかし、[a]の場合は国が管理運営する正式の刑務所ということで、受刑者は身柄を拘束された状態にある。しかも、日本の刑務所では脱獄事件もほとんど起きないから、受刑者が近隣住民と直接に接触するようなことはまず考えられない。従って、「不安」等の理由は当たらないだろう。
 これに対して、[b]の事例は刑務所を出所したばかりの人の更生を図る民間の施設ということで、入所者は身柄を拘束されておらず、何らかの制約はあるとしても、出入りは基本的に自由と考えられるので、「不安」等の理由も理解できなくない。特に、例題では出所したばかりの重罪犯の更生を図る施設というだけに、再犯の危険性を懸念する意見が噴出するだろう。
 ただ、再犯の危険性をゼロにすることはできないので、再犯の危険性がゼロでない限り、重罪犯は刑務所に閉じ込めておくべしということになると、これは厄介者は施設へという日本式の「隔離主義」の一例となる。しかし、「隔離主義」はどのような場合でも真の問題解決とはならない。
 社会内で生活しながら再犯の危険を除去するためには、刑務所を出所したばかりの人がどこかに紛れ込んで姿を消してしまうよりも、一定の場所で指導を受けながら暮らすほうが効果的で、かえって社会の安全を高めるとさえ言える。
 なお、[a][b]いずれの場合でも、何はともあれ近所に犯罪者を集めた施設がやって来るということ自体を感情的に不快とする意見もあるかもしれないが、それこそ典型的な犯罪者蔑視の差別である。

例題2:
[a] 性犯罪の前科のある住民の住所・氏名を近隣の住民に開示して注意を呼びかけるという内容の法案ないし条例案が提出されたとする。あなたはこの提案を支持するか。

(1)支持する
(2)支持しない

[b] [a]の事例を変えて、性犯罪の前科のある者にGPS(全地球測位システム)による監視装置を装着し、警察が対象者の動静を常時監視するという内容の法案ないし条例案であったらどうか。

(1)支持する
(2)支持しない

 犯罪を犯した個人を標的とした排斥的な事態が生じるとすれば、本例題のように国や地方自治体の具体的な施策を通じてであろう。
 一般的に住所・氏名のような居住情報は重要な個人情報であるはずだが、[a]では性犯罪の前科のある住民については、居住情報を近隣に開示することによって、その前科者を近隣住民が警戒し、避けるように仕向けるという制度である。
 一見乱暴な策のように見えるが、どこに性犯罪者が居住しているか一目瞭然となり、「安心・安全」を高めると考えて、支持する人は少なくないのではないだろうか。
 この法案ないし条例案はまさにそういう視点からのものであって、性犯罪前科者を差別=劣等視するのではなく、危険視するものにすぎないという読み方もあり得よう。
 しかし、このような制度は性犯罪前科者を半ばさらし者にして、地域で孤立させるに等しいものであり、場合によっては近隣住民による転居要求などの具体的な排斥行動を誘発する恐れもある。その意味では、犯罪者排斥の制度化と言ってもよい。
 その点に着目すれば、こうした制度には性犯罪者に対する単なる危険視を超えた差別=劣等視が多分に内包されていると評価せざるを得ないように思われる。
 そこで、性犯罪前科者の居住情報の開示範囲を地域の学校や未成年者の保護者などに限定するといった限定開示策なら差別的とは言えないのではないかという考え方もあり得る。
 しかし、この場合も、開示された情報が学校関係者や保護者らを通じて近隣に伝播していく可能性は否定し切れず、結果として近隣に広く開示するのと変わらないであろう。
 こうした「さらし」の結果としての前科者の社会的な孤立化は、かえって更生の妨げとなり、(近隣以外の場所での)再犯の危険性を高めるということからしても、[a]のような制度は逆効果的な失策であると言えよう。
 これに対して、[b]のGPS監視であれば、前科者の居住情報を開示することなく、警察が対象者の動静を常時監視できるので、プライバシーの侵害も限定的で、かつ対象者の動静を広範囲に把握できることから、すでに導入している諸国もある。導入していない日本でも一部自治体で導入の動きがある。
 たしかに、この方法であれば[a]のような「さらし」によって生じる前科者の社会的孤立を避けられる可能性はある。
 しかし、GPS装着の事実が近隣に露見しないという確かな保証はない。また、そもそも生身の人間に常時監視装置を装着するという一種の動物的な扱い自体が、犯罪者を劣等視する差別と言わざるを得ないのではないかという問題もある。
 海外で効果を上げているからと飛びつく前に、他により差別的でない再犯防止策を研究してみるべきではないだろうか。

2011年12月19日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第22回)

第4章 略

三 モンゴル勢力の旋風

(1)モンゴルの由来
 イスラーム勢力がその主役をアラブ人からイラン人、トルコ人へと変えつつ東西に大きく展開していく中で、東から思わぬ巨大な対抗勢力が現れた。モンゴル勢力である。
 モンゴル族の由来は必ずしも明確ではないが、中国史料によると、トルコ系突厥に服属していた一遊牧民族・室韋[しつい]を起源とし、東胡から派生した契丹族の別種でもあるとされる。
 前章でも触れたように、契丹が10世紀初頭に遼を建国すると、モンゴル高原の遊牧諸部族は遼に服属した。遼では、その配下の遊牧・狩猟民族と定住農耕民族とを区別して、州県制を適用した後者に対し、前者に対しては部族制を基礎に統治する二元的統治体制を採ったため、遊牧諸部族の伝統社会は温存された。
 その後、11世紀には女真族が遼を滅ぼして金を建てる。モンゴル族が台頭してくるのは、この金の時代であった。金はモンゴル族の動きを警戒し、他の遊牧部族を利用してその分裂・弱体化を図るなどの干渉を行った。
 こうした中で、強力な指導者として現れたのがテムジンであった。彼は短期間で周辺諸部族を統一して1206年、部族大会(クリルタイ)でチンギス・ハーンの称号を得てモンゴルの最高君主に就いた。

(2)世界征服
 モンゴル勢力による世界征服と呼ばれる事業はチンギス・ハーンからおよそ三世代にまたがる世代を超えた大事業であった。
 まず、チンギスは従来の部族制の改革に着手する。そして、匈奴の伝統にならい、千戸を一単位としてその内部を十進法によって区分けした新しい軍事=行政制度(千戸制)に再編し、軍事動員力を強化した。
 そのうえで、チンギスは華北方面と中央アジア方面へ支配を広げて東西貿易路を掌握しようとしたようだ。しかし、彼の代に完了したのは中央アジアの制服までであった。この時、前述したように、上昇気流に乗っていたホラズム・シャー王朝を外交上のトラブルに絡めて攻略し、事実上滅亡に追い込んだのだった(1221)。これに先立つ1218年、彼はホラズム王国の東隣に金に破られた遼の残党が建て、往時には東西貿易路を押さえて繁栄した西遼を滅ぼしていたため、西域から中央アジア枢要部を確保したことなるのである。
 一方、華北を支配する金の征服には時間を要し、チンギスは1227年、金攻略へ赴く途上で没した。
 金攻略の仕事はチンギスを継いだ三男オゴデイ・ハーンに引き継がれ、彼は1234年、南宋と共同して金を滅ぼした。そして、翌年にはモンゴル高原西部に新都カラコルムを建設した。帝国への第一歩である。
 1236年、オゴデイはチンギスの遺言に基づき甥バトゥにヨーロッパ遠征を命じた。バトゥはロシアのキエフ公国を征服してロシア全域を支配下に置いたうえ、1241年ワールシュタットでドイツ‐ポーランド諸侯連合軍を破ってハンガリーの首都ペストまで侵攻したところで、オゴデイ死去の報を受け、撤収を余儀なくされた。
 オゴデイを継いだ息子のグユク・ハーンが2年足らずで没した後、彼の後任に就いたのはチンギスの四男トゥルイの子モンケ・ハーンであった。彼は弟のフラグに西アジア遠征を命じる。フラグの軍隊は1258年、バグダードに侵攻してカリフを殺害、すでに衰退著しいアッバース朝に最後のトドメを刺したのだった。この時、フラグ軍はバグダードで推定80万から100万人とも言われる市民を殺戮し、徹底した破壊・略奪の限りを尽くした。これによって、バグダードはいったん灰燼に帰した。
 フラグ軍はその勢いでさらにエジプトへも侵入する構えも見せたが、1260年、現パレスティナのアイン・ジャールートでマムルーク朝軍の将軍バイバルス(後の5代スルターン)のために大敗した。フラグは報復戦を企図するも、モンケ死去後の内紛から断念せざるを得なかった。
 モンケの後を継いだのは次弟フビライ・ハーンであった。しかし、この皇位継承は紛議を呼び、オゴデイの孫ハイドゥが蜂起し、以後ハイドゥの戦死まで約40年間トゥルイ家とオゴデイ家の骨肉争いが続いた。
 しかし、フビライこそは実質的に見て「モンゴル帝国」の開祖と呼ぶにふさわしい人物であった。彼は1264年、首都をカラコルムから大都(北京)に遷し、1271年には国号を中国式に元とし、本格的な中国支配に乗り出す。そして、1279年までに南宋征服を完了し、江南を含む中国全土の支配を確立した。
 30年以上に及んだフビライの治世中、モンゴル帝国の領土は最大化した。東方では1259年までに30年にわたる抵抗を排して高麗を属国化することに成功していた。日本遠征(元寇)や、ベトナム、ジャワ遠征は成功しなかったが、フビライが没した1294年のモンゴル帝国は東アジアから中国を含み込んで東欧にまで及ぶ空前の大帝国となっていた。

(3)中国王朝としての元
 広大化したモンゴル帝国の中核に位置したのが中国大陸(東北部を含む)とモンゴル高原を包括的に直轄支配する元朝であった。
 前章でも触れたように、中国史は中原の覇権を巡る興亡史として展開されてきたのであったが、モンゴル勢力のために中国全土が初めて異民族支配下に置かれたことで、中国史の流れも変わり、以後の中国史はもはや単純な王朝興亡史ではなくなる。同時に、元の中国支配は、異民族支配下に置かれた漢民族が明確に「漢民族」の意識を自覚する契機ともなった。
 元朝の支配体制は先行の異民族支配体制であった遼と金の制度・政策を土台に、江南では宋の制度・政策を継承する一国二制度のモデルを特徴とした。それは特に経済・財政政策に表れており、独自の税制が導入された華北とは異なり、江南では旧来の地主‐佃戸制を前提に両税法が維持された。
 人材登用面では宋代に強化された科挙はいったん停止され、世襲や父祖の功績に基づくモンゴル人優遇が軸となり、反面、宋時代に権勢を誇った士大夫階級は閉塞し、下級の事務官などに甘んじた。
 一方で、広大な領土を持ったことで人材が多様化し、中央アジア・西アジア出身の諸民族(色目人)が多数登用され、主に財務畑で活躍した。
 経済的な面では、モンゴル帝国による安全保証の下、海陸両面で東西貿易が盛んになり、特にムスリム商人が活発に活動した。これらのムスリム商人の中には元朝領内で金融業などを営む者もあり、「斡脱」[あつだつ]と呼ばれてモンゴル帝国にとって有益な御用商人的存在となった。
 一方、イタリア商人も中央アジア経由の内陸貿易に参入してきた。『東方見聞録』で有名なマルコ・ポーロもそうした商人(ベネチア商人)の一人で、父や叔父とともにフビライの宮廷に仕えたのだった。
 こうした国際性を反映して、元朝は宗教的には寛容政策を採り、イスラーム教やキリスト教も保護したが、皇室自身はチベット仏教に深く傾倒し、寺院建立などの多額の国費を投じたため、やがて王朝の衰退を促進する財政難の要因ともなった。

2011年12月14日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第28回)

実践編

レッスン4:外国人差別

〔まとめと補足〕

 外国人差別の根源は「よそ者」排斥にある。「よそ者」とは、およそ人間の共同体にとっては潜在的な敵であり、警戒しなければならない相手である。そして、この「よそ者」排斥もまた、その外見・風采が異形であるという視覚的な表象に深く関わっているのであるが、「よそ者」を排斥するのは、およそすべての共同体的組織に共通する本質的な危険視であって、差別=劣等視とは微妙に異なる。
 こうした「よそ者」排斥は、国民国家という「近代的」な政治共同体のレベルでは、国民と外国人の峻別という形で継承されている。
 国籍と国境という概念を確立した国民国家は、そうした概念を持たなかった時代には「まれびと」のような形で一定の歓待を受けることさえあった「よそ者」を「外国人」としてかえって厳しく統制するようになったとさえ言える。国民国家にとっては外国人は厳重に管理されるべき「よそ者」であり、日本の古い差別語によれば“異人”なのである。
 この場合も、外国人を必ずしも劣等視しているわけではないから、国民国家が外国人よりも国民を優遇しようとする政策のすべてが直ちに差別に当たるというわけではない。
 この点、国連の人種差別撤廃条約でも、同条約は「締約国が公民と公民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優遇については、適用しない」と定め(1条2項)、人種差別と「公民でない者」、典型的には外国人に対する区別、排除等とを弁別しているのである。
 とはいえ、外国人を非公民化する政策は、そこから外国人一般を犯罪者と同視したりする差別的観念を醸成する温床となることは否めない。特に、日本社会では異人種・異民族が外国籍であることが圧倒的に多いため、人種/民族差別が外国人差別という形式の下に発現しやすいことに特色がある。そのため、外国人差別と人種/民族差別との境界線はあいまいであり、先の条約上の弁別も困難である。
 例えば、例題3に絡めて指摘した石原東京都知事の発話「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」は、人種/民族差別なのか、外国人差別なのか。この点、国連は「公職にある高官による人種差別的な発言」として懸念を表明した。国連では、石原発話を実質的にとらえ、外国人犯罪問題に仮託した人種(民族)差別と認識したものと思われる。
 しかし、石原側はあくまでも外国人犯罪という「治安問題」を提起したにすぎないとの認識を示し、それが「差別問題」に発展したのは、一部メディアが演説の主旨を歪曲したためだと非難していた。
 こうした応酬を見ると、日本社会では犯罪をはじめとする外国人問題が人種/民族差別を隠蔽するためのロジックとしても機能していることがわかる。そうだとすると、外国人差別の克服は、日本社会ではなかなか意識されにくい人種/民族差別の克服にとっても有効性を持つと考えられる。
 ところが、この外国人差別の克服ということが必ずしも容易でなく、その究極的な方法はそもそも国民‐外国人の峻別を本質とする国民国家という法的枠組みを解体することしかない。これはまさに革命であり、単なる〈反差別〉を超え出た政治理論上の大論点であるから、本連載の直接的な課題とすることはできない。

2011年12月13日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第21回)

第4章 略

二 イスラーム勢力の展開(続き)

(6)インドのイスラーム勢力
 インドでは紀元前3世紀のマウリヤ朝アショーカ王や後2世紀クシャーナ朝カニシュカ王のような強力な為政者によって仏教が保護され、強盛となり、バラモン教を守勢に立たせた。しかし、4世紀のグプタ朝の頃から仏教に対抗して教学を整備深化させたバラモン教が巻き返し、同朝滅亡後には次第に今日のようなヒンドゥー教に仕上がって仏教を圧倒し去ったため、仏教はスリランカやヒマラヤ山麓などの辺境地へ追いやられていった。
 結果、スリランカ―アーリヤ系シンハラ人が建てた島国で、アショーカ王の王子マヒンダが初めて仏教を伝えたとの伝説がある―が上座部仏教のセンターとして発展していく。
 一方、インド亜大陸中心部は数世紀にわたって、王族クシャトリア階級の子孫・ラージプートを称するヒンドゥー教徒諸侯が割拠・興亡するところとなった。
 こういう状況の中で、前述したように、8世紀初頭、まずウマイヤ朝軍が西北インドのインダス河下流域にまで侵入したが、完全な征服には至らず、アッバース朝以降、インド方面に対するアラブ・イスラーム勢力の支配力は失われる。
 イスラーム勢力の本格的なインド侵入は、11世紀に入って、トルコ系ガズナ朝3代マフムード王の時に開始される。彼は30年余りの治世の間に10数回インド侵攻を繰り返すが、これも本格的な征服よりは財宝や奴隷、家畜の略奪が主目的であったと見られる、ただ、ガズナ朝のインド侵入は、インド北部のパンジャーブ地方にイスラーム教を浸透させるきっかけとなった。
 このガズナ朝を滅ぼして同様のインド侵入を継承したのが、アフガニスタン中央山地に興った推定イラン系のゴール朝であったが、この王朝もトルコ系ホラズム・シャー朝によって滅ばされ、短命に終わった。
 しかし、ゴール朝のトルコ系マムルーク出身クトゥブッディーン・アイバクが北インドのデリーを都に新たなイスラーム王朝(デリー奴隷王朝)を開いた(1206)。これがインドにおける初の本格的なイスラーム王朝であった。
 ちなみに、この王朝5代のラズィーヤはイスラーム史上初の女性君主―しかも、カイロのマムルーク朝初代シャジャル・アッドゥッルとともにイスラーム史上稀有の女性君主の一人―であった。
 一般的に、女性の政治参加に否定的なイスラーム的伝統の中で、例外的とはいえ女性君主の登位が容認されたところには、「実力主義」の風潮の強いマムルーク系王朝の特色が表れていると言えるが、女性君主への反発も強く、両人とも政争に巻き込まれて殺害された。
 この奴隷王朝を含め、16世紀前葉までにデリーを首都に五つのイスラーム王朝(デリー・スルターン朝)が興亡する。そのうちハルジー朝とトゥグルク朝(いずれもトルコ系)の最盛期には南インドにまで支配を及ぼしたが、南インドにはタミル人に代表されるドラヴィダ語族系のヒンドゥー教諸王国が割拠し、イスラーム教は容易に浸透しなかった。
 14世紀末になると、中央アジアに強大なモンゴル系遊牧イスラーム王朝を建てたティムールによってデリーが寇掠・破壊され、デリー・スルターン朝は衰退した。
 最終的に、16世紀に入り、ティムールの子孫バーブルがデリー・スルターン朝最後のアフガン系ロディー朝を破ってムガル帝国を建て(1526)、その孫で3代皇帝アクバルの代以降、ムガル帝国がインドのイスラーム王朝―モンゴル系イスラーム王朝というユニークな形を取りつつ―として定着していく。
 とはいえ、ムガル帝国はイスラーム教とヒンドゥー教の共存を基本的な宗教政策としたため、インドは総体としてヒンドゥー教にとどまり、インドのイスラーム教は西部のインダス河流域と東部のベンガル地方がその中心地となった。しかし、このような宗教的な「すみわけ」は、現代におけるインド亜大陸三分割(パキスタン・インド・バングラデシュ)の遠因となり、容易に摘み難い宗教対立の芽を作ったのである。

2011年12月 8日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第27回)

実践編

レッスン4:外国人差別(続き)

例題3:
テレビのコメンテーターが、番組の中で「近年、外国人犯罪が急増している」と発言した。あなたはこの発言を無条件に信じるか。

(1)信じる
(2)信じない

 外国人と聞いたときに、日本人がすぐに思い浮かべがちなのは、「外国人犯罪」である。とりわけ、「アジア系外国人」というと、ほとんどイコール犯罪者・犯罪者予備軍というようなイメージにとらわれている人も少なくないかもしれない。
 次のレッスン5で取り上げるように、犯罪者は差別=劣等視される代表的なカテゴリーであるため、外国人の中でも特に「アジア系」(近年では「アフリカ系」「中南米系」も)を取り出して、これを事実上犯罪者と同視するのは、外国人差別の形式をまとった民族差別の一例とも言える。
 では、一般の人がどこでこうした差別的な観念を植え付けられるかと言えば、学校教育ではなく、マス・メディアの報道を通じてであると考えられる。
 ちなみに、2000年4月、作家としても有名な石原慎太郎東京都知事が自衛隊の記念式典で、「今日の東京をみますと、不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」云々と演説した(下線筆者)。
 このような発話は厳しい批判を浴びると同時にまた、多くの都民から賛同も寄せられたとのことで、一般大衆の間にある外国人差別意識の根強さを示す事例でもあったのである。
 この発話自体は一人の政治家の演説の中でなされたものであるが、それがメディアを通じて報道されることで流布されていく。流布されることで批判も受けるが、同時に賛同の輪も広がってしまうのだ。
 ところで、石原発話中、「三国人」とは終戦直後、日本から解放され独立した朝鮮や台湾の出身で、植民地解放に伴い、日本国籍を喪失したまま日本本土に残留していた人たちを疎外的に呼んだ差別語であるが、今日ではほぼ死語と化している。
 石原知事がそのような古めかしい言葉を20世紀最後の西暦2000年という節目の年にわざわざ復活させたうえ、「凶悪犯罪」と結びつけてみせたのは、日本の首都のトップによる朝鮮人や台湾人等への民族差別宣言と受け取られてもやむを得ないものであり、この点が特に強い批判の対象とされたのは当然と言うべきであった。
 しかし、よく考えてみると、石原発話の本旨は「三国人」と並べて言われた「外国人」全般が「凶悪犯罪を繰り返している」として“常習凶悪犯罪者”(?)に仕立ててしまった点にあると思われる。
 これならば、例題のコメンテーター氏のコメント「近年、外国人犯罪が急増」と同型の、私どもがよく耳にする言説の一種である。そして、石原発話に対する都民の賛同も、「三国人」の部分よりは、この耳慣れた言説へこそ向けられていたのではないだろうか。
 なぜ大衆が耳慣れているかと言えば、マス・メディア上で例題のようなコメントが事あるごとになされるためばかりでなく、メディアが外国人犯罪を好んで取り上げること自体も大いに影響しているだろう。
 こうした言説の特徴は「近年」とか「急増」といった言葉で、緊迫感を掻き立てるところにある。しかも、データをほとんど示さない。そのため、かえって評論家や弁護士、ジャーナリストといったコメンテーターの肩書きの権威と相まって、ご託宣的なある種の説得力を持ってしまうのである。
 私どもがこうした言説の「神秘化」に乗せられないようにするには、データを示さない専門家の断定的コメントを無条件には信じないこと、そして自ら関係資料に当たってチェックする癖をつけることが最低限の注意則となる。そのうえに、データが示されていても、その出典データや出典そのものの信頼性や正確性、さらにコメンテーターのデータの読み方に誤りや歪みがないかどうかといった点までチェックできればなおよいだろう。
 それでは、例題のコメント「近年、外国人犯罪が急増している」は果たして正しいのだろうか。本連載は犯罪情勢を主題とするものではないので、検証は保留とする。ぜひ各自でお調べをいただければと思う。

例題4:
[a] 「不法入国者でも一定期間国内で平穏に暮らしてきた者には合法的な滞在権を保障する」という主旨の法案が提出されたとして、あなたはこの法案を支持するか。

(1)支持する
(2)支持しない

[b] 「永住権を持つ外国人には国政選挙における選挙権(投票権)を保障する」という主旨の法案についてはどうか。

(1)支持する
(2)支持しない

 [a]は不法入国者に対する免責制度、[b]は外国人の参政権に関わる例題である。いずれも外国人を社会へ迎え入れる包容政策の代表的なものと言える。
 難しいのは、こうした制度が欠如しているからといって、直ちに外国人差別だとは断じられないということである。元来、日本もその一つである国民国家とは、国民と外国人とを峻別し、基本的な権利に関して国民を外国人よりも優遇する本質を持っている。従って、国民が自国に滞在できることは自明の権利であるが、外国人が滞在できるのはあくまでも国の許可に基づくにすぎず、不法入国者には本来、滞在権が存在しない。また、国民が国政選挙の選挙権を有することは民主国家の基本とされながら、外国人が選挙権を持たないことは自明とされてきたのである。
 従って、[a]の不法入国者免責制度も、[b]の外国人参政権も、如上のような伝統的な考え方の大転換という意味を持っているため、いずれも支持しないとする回答が圧倒的多数を占めてもおかしくはない。
 しかし、21世紀の最初の10年が過ぎた現在、そろそろ日本社会も伝統的な外国人政策を転換して新たな方向へ一歩を踏み出してよい時ではないだろうか。
 この点、[a]の不法入国者免責制度は入国時に密航などの違法行為があっても、その後の行状を考慮して問題なければ合法的に滞在させようというものである。
 実際、不法入国者したフィリピン人夫妻が摘発され、日本で生まれ育った子だけを残して本国へ強制送還されるという実例があったが、この夫妻は不法入国後は犯罪歴もなく日本社会に事実上定着していたとされるだけに、免責制度があれば―制度がなくとも、法務大臣の退去命令の権限は裁量性が強いので、事実上免責することもできた―家族を引き裂くことなく、救済できたケースである(ただし、免責が認められる法的条件を厳しく設定するなら救済できない場合もある)。
 免責制度を支持しない人は、不法入国という犯罪をことさらに重く見るのであろうが、適法に入国しておいて重大犯罪を犯す外国人と、不法に入国した後は平穏に暮らしてきた外国人とどちらが社会にとって脅威であるかを実質的に考量してみたい。このような冷静な考量は排外主義的な衝動を抑制するうえでも有効であろう。
 一方、[b]の外国人参政権は理論的に困難な点が多い。主権は国民にあるという国民主権の公理からすれば、国政レベルの参政権については国籍保持者に限定されることは自明とする考えがなお世界的にも根強いからである。これに対して、例題とは異なり、地方参政権については外国人にも保障する国が増えている。 
 国も自治体も税金に関しては国民と外国人を区別せずに徴収しているわけで、「取るものは取るが、与えるものは与えない」というのは虫が良すぎないだろうか。税金は“平等に”徴収するというならば、税金の使い道を正すための選挙権(投票権)についても外国人に平等に保障するのが本筋である。代表なくして課税なし。これは議会制度の歴史的な原点でもあったはずだ。
 とはいえ、国政レベルでは外交・安全保障も一応選挙の争点となり得る―実際上はほとんどならないが―ことからすると、国政レベルの選挙権を外国人に保障することには慎重な国がなお圧倒的である(例外として、ニュージーランドなど)。これは国民国家体制の超え難い限界と言えよう。
 これに対して、外交・安全保障が争点とならない地方レベルについては、被選挙権(首長については別途考慮の余地あり)まで含めて外国人に参政権を保障することに決定的な障害は認め難い。
 なお、日本でも外国人への地方参政権保障は民主党を中心として提起されているが、その中で、日本と国交のない国の国籍を持つ者を除くとされているのは、問題である。
 このように国籍の違いで参政権の有無を分けると、外国人参政権の内部に国籍による差別が持ち込まれる。それでは包容政策のはずの外国人参政権がかえって特定の外国人に対する排斥を助長する逆効果を持つことになり、真の包容政策とは言えない。 

2011年12月 7日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第26回)

実践編

レッスン4:外国人差別

例題1:
あなたの隣家に外国人一家が越してきた。近所付き合いをしてみたいと思うか。

(1)思う
(2)思わない

 近所付き合いそのものが希薄化している時代にはあまり意味のない質問かもしれない。「自分は隣家が日本人だろうと外国人だろうとおよそ近所付き合いなどするつもりはない」というならば、平等主義の“近隣絶交宣言”であるので、差別には当たらない。これも、一つの現代的な差別回避行為と言えるのかもしれない。
 そこまで徹底せずに、隣の外国人一家とは近所付き合いをしたいと思わないとしたら、なぜだろうか。「外国人は言葉が通じないから」という実際的な理由なら差別とは無関係だが、もし隣家の外国人一家が流暢な日本語を話す人たちであったとしたら?
 「外国人は怖いから」という理由なら偏見的とはいえ、それは危険視であって、劣等視ではないから、辛うじて差別には当たらない。
 「外国人は日本の慣習を知らないから」という理由もあり得るが、それは事実である場合もあるにせよ―日本の慣習を熟知する外国人もいるが―、付き合う中で日本の慣習を教えることもできるし、一方で、日本人側が外国人の慣習(特に宗教的慣習)を尊重することも必要であるから、こうした文化的理由での外国人忌避は転嫁的差別である。
 一方、その隣家の外国人一家が黒人だからとか、アジア系だからといった理由で近所付き合いを忌避するのだとしたら、これは実は外国人差別の形式をまとった人種/民族差別であることになる。
 実際上、日本における人種/民族差別は直接的に表面化するよりも、こうした外国人差別の中に潜り込むような形で立ち現れてくる例がほとんどである。そのため、「日本社会に人種/民族差別は存在しない」という錯覚も生じやすいのである。

例題2:
あなたがアパートの家主だとして、外国人が入居を申し込んできた。入居を認めるか。

(1)認める
(2)国籍によっては認める
(3)認めない

 借家では家主と借主の間の継続的な信頼関係が重視されるため、家主として借主の属性・素性に関心を持つのは当然のことである。
 それにしても、外国人の入居は一切認めないとなると、これはもはや「外国人は怖いから」というような危険視を超えて、外国人という属性そのものを劣等視し、排斥する差別とみなすほかない。
 ただ、ここでも、例題1のような文化的理由のほか、「外国人犯罪集団のアジトに使われては困る」といった治安上の理由などが持ち出されることがあるかもしれない。こうした理由付けはいずれも一部の実例を一般化して取って付けているだけで、転嫁的差別行為の典型である。
 それでは(2)のように国籍によって区別するという妥協策はどうかと言うと、これも国籍による外国人差別の問題を生じる。例えば、欧米系の国籍を持つ外国人なら認めるが、アジア・アフリカ系は認めないとか、日本と国交のない国の国籍を持つ外国人は認めないといったやり方は、特定の国の国籍を持つ外国人を劣等視し、排斥しようとしているのである。
 結局、借家に関しては、日本国民と外国人とを区別すること自体が間違っていることになる。外国人でも長期滞在・居住を考える場合は、家を購入する資力がない限り、どこかに借りなければならない事情は、日本国民と同様であることを考えれば、これは当然の事理である。
 本来、国籍に限らず、しばしば発生しがちな入居者の属性による借家差別を防止するためには、借地借家法上、借家に当たっての差別禁止を定めた条項を置くことが望ましい。
 なお、例題としては取り上げなかったが、外国人の入店を拒否するような商店も一部に存在するようだ。裁判にまで至った実例として、ブラジル人が宝石店への入店を拒否された事例や、アメリカ人が公衆浴場の利用を拒否された事例などがある。
 借家とは異なり、信頼関係など必要ない店舗への短時間の立ち寄りや利用を外国人だからという理由だけで拒否するのは明白な差別である。これについては多言を要しまい。
 ただ、どうしても外国人を入店させたくないという店主にはこう反問すればよい。あなたは、商売のチャンスをみすみす失ってまで、外国人を排斥したいのか、と。実際、外国人を差別せず受け入れて稼ぐ同業店とは、自ずと「差別化」されてしまうであろう。

2011年12月 6日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第20回)

第4章 略

二 イスラーム勢力の展開(続き)

(4)トルコ勢力の台頭
 トルコ系民族は、前回述べたように、マムルークとしてイスラーム系王朝に雇われるようになっていたが、これとは別に10世紀中頃に中央アジアに割拠したトルコ系諸民族の間でイスラーム教への一斉改宗的な現象が生じた。
 その先駆けをなしたのは、天山山脈東部から出たカラ・ハーン朝で、これは西隣のサーマーン朝の影響からイスラームを受容したと言われる。そのほか、アフガニスタンにはサーマーン朝マムルーク出身のアルプティギーンが建てたガズナ朝が強盛化した。
 結局、サーマーン朝はこのカラ・ハーン朝とガズナ朝に圧迫され、10世紀末頃に衰亡する。この中央アジア最後のイラン系王朝の滅亡により、この地域のトルコ化は不動のものとなった。
 そうした中で、オグズと呼ばれたトルコ系部族集団から出たセルジューク家が強盛化し、1042年までに中央アジアを統一すると西進してブワイフ朝勢力を打倒して1055年にはバグダード入城を果たした。時の当主トゥグリル・ベクはアッバース朝カリフからスルターン(首長)の称号を受け、実権を掌握した。これがセルジューク・トルコ帝国の実質的な始まりであるとともに、西アジアの中心部の覇権をトルコ勢力が取った初例でもあった。
 セルジューク朝はエルサレムからシリアに至る地域を押さえてバグダードに迫る勢いを見せていたシーア派ファーティマ朝からこれらの地域を奪回したほか、ビザンツ帝国領の小アジアにも侵攻してその大半を占領した。この攻勢にビザンツ帝国が動揺を来たし、ローマ教皇に救援を要請したことが、キリスト教徒の十字軍を呼び起こすきっかけとなった。しかし、小アジアは以後、恒久的にトルコ化され、今日にまで至っているのである。
 セルジューク朝はまた、ブワイフ朝が導入したイクター制を整備拡大し、イクター保有者に対する監督も強化して、より公正な制度に仕上げた。文化・思想面でも、シーア派のブワイフ朝やファーティマ朝の影響を排除すべく、イスラーム学院を設立してスンナ派の教学を強化し、分裂していた同派の統一を回復した。
 こうして強大化したセルジューク朝も、11世紀末には早くも衰え、12世紀半ばには地方分家ごとに分裂を来たし、順次衰亡していく。イラクでカリフを奉じていた本家筋も新たに中央アジアのアラル海付近でセルジューク朝マムルーク出身の総督アヌーシュティギーンが独立して興したホラズム・シャー朝のために滅ぼされた(1194)。
 この新興トルコ系王朝ホラズム・シャー朝は13世紀初めには中央アジアとイランの全域を支配下に収め、セルジューク朝に代わって西アジアの新たな覇者となりかけていたところを、後述のように東から旋風のように沸き起こったモンゴル勢力のために滅ぼされてしまう。
 とはいえ、西アジアにおけるトルコ・イスラーム勢力の覇権はもはや揺るがず、それはやがて登場するオスマン・トルコの手に渡されるであろう。

(5)サラディンと十字軍撃退
 先述のように、セルジューク朝による小アジア占領はキリスト教徒の十字軍を呼び起こした。その際、キリスト教徒側の情宣では、セルジューク朝がエルサレムへのキリスト教巡礼者を迫害しているとされたが、これは虚偽で、むしろ最初の非公式な「民衆十字軍」(1095~96)をセルジューク朝軍が粉砕したというのが真相であった。
 公式の第一回十字軍(1096~99)が送られてきた時、セルジューク朝は分裂した後であり、有効に反撃できず、十字軍はエルサレムを奪回し、四つの十字軍国家の建設に成功した。
 これに対して、十字軍撃退の先鞭をつけたのはやはりセルジューク朝マムルークを祖とする地方王朝ザンギー朝であった。王朝開祖ザンギーは1144年、ティグリス・ユーフラテス河上流域に建設されていた十字軍国家の一つエデッサ伯領を奪回した。ザンギーはその二年後に自らの奴隷に殺害されたが、彼の遺志はその子ヌールッディーンやザンギーの部将であったイラン系クルド人の貴族アイユーブやその子で後に十字軍撃退の英雄となるサラーフ・アッディーン(サラディン)に引き継がれていった。
 サラディンが頭角を現すのは、急死した叔父を継いでファーティマ朝の宰相(ワジール)に就任してからであった。元来、彼の叔父は先のザンギー朝がファーティマ朝の内紛に乗じて送り込んでいたものであった。
 宰相になったサラディンは、十字軍士と結託したファーティマ朝側のサラディン暗殺策動を逆手に取る形で、ファーティマ朝を乗っ取り、スンナ派の新王朝アイユーブ朝を創始した(1171)。
 サラディンはイクター制を導入して軍制を強化した上で十字軍撃退を進め、10年以上の歳月をかけてついにエルサレム奪回に成功した(1187)。
 これに対して、キリスト教徒側は1189年、独・仏・英の君主親征の下、第三回十字軍を送り込むが、エルサレム奪回には成功せず、サラディン側もアッコンの海戦では敗れ、講和が成立した。
 イスラーム戦士としてのサラディンはキリスト教徒側でも高潔な騎士道精神の持ち主として後世まで記憶されるほど公正で寛大な人物であったと言われているが、それは彼がクルド人というイスラーム世界でも少数派の出自を持っていたことと関連がなくはないかもしれない。
 アイユーブ朝君主としてのサラディンは東西貿易を担うムスリム商人(カーリミー商人)を保護するため、アラビア半島南端の海港アデンを攻略し、紅海からキリスト教徒商人らを締め出してムスリム商人に利益を独占させつつ、かれらの商取引に課税して財源を強化した。
 しかし、歴史的にユニークなこのクルド系スンナ派王朝は短命であった。例によって王朝が雇い入れたマムルークが次第に増長し始め、1250年にはアイユーブ朝を倒してマムルーク自身を君主とする新王朝(マムルーク朝)を開いたのであった。
 そして、未完に終わったサラディンの十字軍撃退は、このマムルーク朝の手で引き継がれていくのである。

2011年12月 5日 (月)

〈反差別〉練習帳(連載第25回)

実践編

レッスン3:人種/民族差別

〔まとめと補足〕

 人種/民族差別は、人種隔離・民族浄化のような最も深刻な反人道的事態を引き起こしてきたため、差別問題のエース格のような位置にある。それにしても、人種・民族という概念は極めてあいまいである。
 一応、人種とは現生人類をその骨格や容貌、肌の色、体型等の形質的な特徴に応じて類型化した分類であるのに対し、民族とは人種とは別に、言語・習俗の共通性を基準とする人間集団の分類であるとされるが、どちらもあいまいでありながら便利な人間の分類基準であるため、長く幅を利かせてきた。
 こうした分類に学問的意義が全くないとは言えないが、極めてあいまいであるにもかかわらず、否、それゆえにこそ、優生思想と結び合って、政治的に悪用されやすい性質を持つ。
 人種分類は、白人種(コーカソイドまたはユーロポイド)を優等的として人類の頂点に置く白人優越主義に利用されてきたし、民族分類も、各国の支配民族(必ずしも多数民族とは限らない)が自民族の優越性を主張して他民族を従属下に置くに際して利用されることが少なくなかった。
 ただ、民族分類は、まさに従属的な地位に置かれ、民族差別の標的となってきた民族が自己主張し、場合によっては分離独立を志向する際に逆用されることもあり、いちがいに悪用ばかりされるというわけではない。しかし、過剰な民族的自己主張が内戦を惹起するような民族紛争につながることもあり、民族分類の功罪は慎重に検証されなければならない。
 この点、理論編でも論じたように、自分で自分を劣等民族とみなしてしまう傾向のある被差別民族がそうした自己差別を克服するうえでの「自己治療」の手段として、民族的アイデンティティーを活用していくことが目指されるべきであろう。
 ところで、人種と民族とは、本質的に、どちらも「見た目」による人間の分類基準である。わけても人種概念は、主として肌の色や容貌の特徴に着目した分類であるし、民族概念は、言語のような見えない要素にも着目しているとはいえ、究極的には習俗や服飾のような見える要素を主たる分類基準とするから、やはり「見た目」と深く関わっている。
 その意味で、人種・民族間に優劣をつける人種/民族差別は、容姿に優劣をつける容姿差別と本質的に同型の思考パターンによっているのである。
 そこで、やはりここでも「内面性の美学」を適用し、「人間の真価は人種とか民族のような外面的基準によって定まるのではなく、各人がどんな人かという内面的な基準によって定まる」という公理を導出することが、人種/民族差別克服の道を開くであろう。

2011年12月 2日 (金)

世界歴史鳥瞰(連載第19回)

第4章 略

二 イスラーム勢力の展開(続き)

(3)アッバース朝の盛衰
 史上初の世襲王朝イスラームとなったウマイヤ朝は、長続きしなかった。元来、正統性に大きな疑問が持たれ、シーア派でなくともハーシム家系のアラブ人の間には反感がくすぶっていた。
 それに加えて、信徒の平等が説かれながら改宗してもマワーリーとして差別され、免税特権や高い給与を保障されるアラブ人との法的地位の不平等が明白な異民族―とりわけイラン系民族―の間でも不満は高まっていた。
 こうした中、預言者ムハンマドの叔父アッバースを祖とするハーシム家系のアッバース家がイラクや中央アジアのホラーサーン方面の支持を背景に武装蜂起してウマイヤ朝を打倒、イラクのクーファを最初の都にアッバース王朝を樹立したのである(750)。
 一方、この時一族のほとんどが皆殺しにされた中で生き延びたウマイヤ家のアブド・アッラフマーン(1世)は北アフリカへ亡命した後、イベリア半島に侵入してコルドバを都に後ウマイヤ朝を建てた(756)。
 この王朝はすでにイスラーム勢力の手中にあったイベリア半島南部を基盤に北部まで領土を広げ、イベリア半島に今日まで影響の残るイスラーム文化を深く刻印する役割を果たした。ただ、この王朝の君主は当初カリフを名乗らず、単に国王(マリク)を称した。
 さて、アッバース朝の基礎は初代カリフとなったアブー・アルアッバースの短い治世を継いだ兄の2代カリフ・マンスールの下で固められた。その基本性格はウマイヤ朝と同様に世襲王朝であり、しかもペルシャの影響の残るイラクを支持基盤としたため、宰相(ワジール)を頂点とする官僚制に支えられたペルシャ風の中央集権的な権威主義体制となり、イスラームのある種「民主的」な理想からはいっそう遠ざかっていった。
 もっとも、不満の強かったアラブ人の特権は廃止され、民族間の平等に関しては一定の前進があった。従って、宗教としてのイスラームが民族の別を超えて本格的に普及していくのはアッバース朝時代からと言ってよい。そして、マンスールが建設した新都バグダードはイスラーム文明の中心都市となるとともに、東西貿易の新たな集散地としても繁栄するのである。
 しかし、アッバース朝の全盛期は9世紀半ば頃までであった。それを過ぎると王朝には内憂外患が襲いかかる。最初の内憂は、主としてトルコ系の奴隷軍人(マムルーク)の増長であった。
 彼らは7代カリフ・マームーンの時代以来、中央アジアから奴隷として調達されて軍事訓練を施され、カリフの親衛隊軍人として仕えるようになっていた。しかし、マムルークらは次第に増長して、9世紀後半になると街で横暴な振る舞いをするようになったばかりでなく、政治にも干渉してカリフの廃立にも関わり、意に沿わないカリフを投獄・殺害することさえ辞さなかった。カリフの権威は揺らいだ。
 これに追い打ちをかけたのは、869年に始まる黒人奴隷ザンジュの大反乱であった。
 ザンジュはマムルークとは違い、アッバース朝高官や商人層が主にイラク南部で経営していた私領地で農耕に使役されていた奴隷で、多くはアフリカ東海岸から調達されていた。奴隷とはいえ一種のエリートであったマムルークとは異なり、劣悪な労働・生活条件に苦しめられたかれらは一人のアラブ人革命家に指導されて蜂起し、ティグリス河下流を拠点に15年にもわたり抵抗を続けた。最終的に鎮圧されたものの、この反乱は王朝の威信を大きく傷つけた。
 こうした奴隷がらみの内憂に加え、9世紀後半以降、各地の地方勢力が独立し始めたことで領土の縮小が進行し、カリフの実効支配はほぼイラクにしか及ばなくなった。当然、財政は悪化した。
 中でも、中央アジアには9世紀後半以降、イラン系の在地豪族(ディフカーン)が建てたサーマーン朝が当初はアッバース朝に臣従しつつ、次第に独立の強大な王朝となった。この王朝はシルクロードの貿易利益を掌握したほか、マムルーク制を初めて実施するとともに、自らマムルークをアッバース朝をはじめとする西アジア方面へ売り込んで利益を上げていた。
 同時に、文化的な面でも、中央アジアの本格的なイスラーム化を促進し、その首都ブハーラーは学芸都市として栄えた。イブン・シーナーのような哲学者・医学者を生み、近代ペルシャ語・ペルシャ文学の源となったのも、この都市であった。
 10世紀に入ると、チュニジアにシーア派の反動的な一派イスマイール派がファーティマ朝を建てた。預言者ムハンマドの娘ファーティマと4代正統カリフ・アリーの子孫を称した王朝開祖ウバイドゥッラーは自らマフディー(シーア派救世主)を名乗り、カリフをも号してアッバース朝カリフを無視する態度をとった。ファーティマ朝は10世紀後半には新首都カイロを建設し、西地中海を押さえてシチリア島やマルタ島も支配下に収めた。後にはエルサレムやダマスクスも取って、バグダードにも迫る勢いを見せる。
 一方、コルドバの後ウマイヤ朝でも10世紀に入って全盛期を作ったアブド・アッラフマーン3世がカリフを号したため、正統スンナ派カリフが東西に二人出現する事態となった。シーア派のファーティマ朝カリフと合わせて三人のカリフが鼎立する異常事態である。
 こうした中で、10世紀半ばには、父親がカスピ海沿岸の漁師の出であったと言われるシーア派のイラン系三兄弟が興したブワイフ朝が急速に勢力を強め、バグダードに入城(945)、アッバース朝を事実上乗っ取って実権を掌握した。この王朝の歴代君主はアッバース朝カリフから大アミール(大総督)の称号を得て統治した。
 統治権を握ったブワイフ朝が当面した大きな課題は財政再建であった。
 前述したように、この頃、アッバース朝の実効支配領域はほぼイラクに限られていたため、国庫の欠乏は深刻で、従来官僚や軍人に現金で給与を支払っていたアター制が行き詰まっていた。そこで、ブワイフ朝は配下の騎士に封土(イクター)を与え、徴税権を委ねるのと引き換えに、軍事奉仕を義務付けるイクター制を導入した。言わば、「近代」の先駆けとも言い得るような一種の官僚制から一種の封建制への逆行が生じたとも言えるが、以後イクター制はイスラーム系諸王朝に継承され、イスラーム型封建制のモデルともなっていった。
 こうして、アッバース朝はイラン系シーア派軍閥の傀儡となり、形骸化していくが、この王朝の不可思議さは風前の灯となりながらもなお13世紀半ば過ぎまで命脈を保ち、都合500年以上も続いたことにある。
 これは預言者とも血縁上近いアッバース家の威光を諸王朝が政治的=宗教的な正当化のために利用しようとしたことによるものであった。

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