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2011年11月14日 (月)

〈反差別〉練習帳(連載第19回)

実践編

レッスン2:障碍者/病者差別

例題1:
寝たきりで完全介護が必要な障碍者を見ると、かわいそうだと思うか。

(1)思う
(2)思わない

 今日では障碍者を無条件に劣等視するような露骨な差別意識はさすがに克服されていると言ってよいが、重度障碍者を見て「かわいそうだと思う」感覚はまだ根強く残っているのではないだろうか。
 「かわいそうだと思う」ことは、一見すると人道的な共感のようであるが、決してそうではない。「かわいそう」というのは、健常的であることを優等的としたうえで、劣等的な障碍者に憐憫の情をかけることであるから、理論編で見たように、被差別者に利益を与える利益差別の一類型なのである。
 では、「かわいそうだとは思わない」とはどういうことだろうか。当然ながら、障碍者を蔑視するということではない。それは障碍を何ら特別視しないことを意味している。
 私たちは先天的でなくとも、後天的な病気や負傷が原因で寝たきりの重度障碍者となる可能性を持っている。そういう意味で障碍とは、すべての人が潜在的に持つ可能態なのである。
 その可能態が現実化してしまったとき、それはその人にとっての試練となることはたしかである。信仰者ならば障碍を神に与えられた試練として受け止めるであろうし、非信仰者でも自然が生じさせた試練として受け止めることができる。近年、英語圏で障碍者のことをザ・チャレンジド(the challenged:試練を受けた人)と呼ぶようになったゆえんである。かつて障碍者は英語で、ザ・ハンディキャップト(the handicapped)と呼ばれていたが、障碍はもはやハンディキャップですらなくなったわけである。
 もっと進んだ人は、障碍とはハンディキャップでも試練ですらもなく、一つの個性だとより積極的の意味づけをしたいかもしれない。「障碍とは一個の個性である」という標語は、理論編でも見たように、被差別者の劣等意識を克服するための自己治療法の一つととらえることもできる。
 とはいえ、例題のように「寝たきりで完全介護が必要」という重度の障碍をもって「個性」とみなすのはいささか過酷な感を否めない。もちろん、当人が自らの障碍を「個性」と認めている限りにおいては、余計な心配ではあろうが。

例題2:
[a] 出生前に胎児の障碍の有無を判定する出生前診断は、倫理的に許されないと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

[b] ([a]で「考えない」と回答した人への質問)あなたに子が生まれることになったが、出生前診断で胎児の重大な障碍が明らかになった。あなたは妊娠中絶を希望するか(父親の場合は、中絶をパートナーに求めるか)。

(1)希望する(求める)
(2)希望しない(求める)

[c] ([b]で「希望する(求める)」と回答した人への質問)中絶を希望する(求める)理由は何か(自由回答)。

 出生前診断の倫理性をめぐっては難しい議論がある。この診断は、かつて優生学的な見地から行われた出生後の障碍者に対する強制断種のように、障碍者の子孫を根絶やしにすることを目的とするものではなく、あくまでも胎児の障碍が発見された限りで、出産するかどうかを子の両親の判断に委ねるものであるから、生身の障碍者の人権を直接に侵害するような医療技術ではなく、また国レベルの施策でもない。
 けれども、もし出生前診断が産科医療の定番メニューとして定着し、しかも障碍が発見された場合は原則的に中絶する流れができていくと、そもそも先天的な障碍者がほとんど出生しなくなるということも考えられるわけで、これでは先天性障碍者の存在価値を否定するに等しい究極の差別ではないかとの疑念も生まれる。すると、そんな差別的な医療技術はそもそも法的に禁止すべきだとの見解もあり得るところである。
 しかし一方で、妊娠中の女性にとって自身が懐胎した胎児の状態を知ることも、一つの「知る権利」である。かつては胎児の状態を正確に知ることは不可能であったが、今日では超音波検査などの検査技術の進歩により、胎児の状態を正確に把握することができるようになったため、患者の自己情報取得権の一環としての出生前診断を全面禁止とすることも困難になっているわけである。
 これは現代における生命倫理学上の難問と言えるが、その解決は本連載の主題を超えるため、結論は保留としておく。
 ただし、国が障碍児教育・障碍者福祉の経費を節減する目的で、出生前診断とその結果に基づく中絶を奨励するような政策を採用するならば、それは差別的施策として許されないと言える。
 では、仮にあなたが出生前診断自体は倫理的に受け入れているとして、いざ自分の子である胎児に重大な障碍が見つかった場合にどうするかというのが[b]の質問である。
 この場合、中絶を希望する(求める)という人が少なくないかもしれない。ただし、日本では法律上、胎児性障碍のみを理由とする中絶は認められていない。従って、日本の現状、この質問はあくまでも「希望」を尋ねるだけで、実際に中絶するかしないかという問題ではない。
 さて、そういう前提で、中絶を希望する(求める)理由は何であろうか。もし「障碍児は嫌だから」といった理由だとすると、障碍を劣等視する差別的な希望ということになってしまう。また「生まれてくる子がかわいそうだから」というような理由も、例題1で見たとおり、利益差別的である。
 これに対して、「障碍児を育てることは精神的・経済的に困難だから」という理由だとすれば、いちがいに差別的とは言えなくなってくる。障碍児の療育・福祉の制度が不備で、偏見も強い社会風土が放置されている限りにおいては、実際、両親が障碍児を育て切れないということも十分にあり得るからである。
 おそらく、障碍者全般を取り巻く環境が変革されていけば、多くの人が障碍児を産み、育てることをごく自然に受け入れるようになるであろう。その意味で、この問題は障碍をめぐる〈反差別〉の全体状況と密接な相関関係にあると言えるのである。

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