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2011年11月

2011年11月30日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第24回)

実践編

レッスン3:人種/民族差別(続き)

例題3:
あなたが企業の採用担当者だとして、民族的に日本人でなく、外見も明らかに日本人とは異なるが、日本国籍を持つ人が面接に来た。日本語は完璧で、経験・人物も申し分ない。採用するか。

(1)採用する
(2)他に同等条件の日本人がいなければ採用する
(3)採用しない

 この人は民族的には日本人でないが、法的には日本国籍者であって外国人ではないから、民族的に日本人でないとの理由だけで採用しないという判断は、民族差別に当たることはもちろんである。
 この事例では一応面接までたどりついているわけだが、提出された履歴書などに明らかに日本人ではない氏名の記載があるとそれだけで不採用にするというようなより悪質な民族差別もあり得るだろう。
 そこまでいかなくとも、(2)のように、他に同等条件の日本人が見つからない限りで仕方なしに採用するという消極的な方針も、民族的に日本人でないということを一段低く見ている点でなお差別的である。
 ただ、実際問題として、労働者の採否は総合判断の世界であるから、何が不採用の要因となったのかは外部からなかなかうかがい知れない。そのために、この領域には先の容姿差別や性差別なども表面化しないまま伏在しがちである。
 それにしても、企業活動のようにドライな世界でこそ、狭量な差別的慣習を率先して打破できると期待するのは無理であろうか。

例題4:
[a] 日本国籍を持つ韓国・朝鮮人、アイヌその他の少数民族を公務員に優先的に採用する特別枠を設ける制度を創設することに賛成するか。

(1)賛成する
(2)賛成しない

[b] [a]と同様の制度を高校や大学の入学試験に導入すること(優先合格枠)についてはどうか。

(1)賛成する
(2)賛成しない

 まず、この問題と、外国籍の在日少数民族を優遇すべきかどうかという問題を混同しないようにしたい。本例題では、優遇対象者があくまでも日本国籍を持っていることが前提となっている。
 このように、放っておくと社会的少数者として周縁に追いやられがちな人々を社会の中心に迎え入れるために、人為的な優遇措置を設けることは、積極的差別是正政策(アファーマティブ・アクション)と呼ばれる代表的な包容政策として、多民族社会ではよく見られる。
 しかし、いまだに「単一民族社会」の神話から脱却し切れていない日本社会ではなかなか議論にならない。その原因でもあり結果でもあるが、国籍取得が「帰化」という同化主義的な法律用語で呼ばれ、その要件もかなり厳しく排他的な制度となっていることも、本例題のような問題の提起を困難にしていると考えられる。
 ともあれ、アイヌのように先史時代から日本列島に居住していると見られる少数民族は元からの日本国籍者であるし、植民地時代に移住してきたコリアン、あるいは近時増加している日系ブラジル人なども、二世・三世と定住化が進めば国籍もより取得しやすくなるため、将来的には例題のような制度が課題化されてくるであろう。
 ただ、現状、このような少数民族優先枠制度には賛成しないとする人が少なくないのではないだろうか。その理由はおそらく、優先枠のせいで、多数民族たる日本人が不利な扱いを受けることになるといういわゆる「逆差別」を問題視するからであろう。
 しかし、こうした逆差別はいわゆる「差別」には当たらない。なぜなら、何度も確認したように、差別とは「劣等視」を本質とするところ、逆差別においては、不利に扱われる当事者、例えば本例題では多数民族たる日本人を劣等視するものでは何らないからである。日本人が不利な扱いを受けるのは、あくまでも優先枠が適用される限りでの必然的な結果にすぎないのである。
 このように積極的差別是正政策において生じる逆差別が「差別」に当たらないことは、例えば国連のいわゆる人種差別撤廃条約でも、「人権及び基本的自由の平等な享有又は行使を維持するため、保護を必要としている特定の人種若しくは種族の集団又は個人の適切な進歩を確保することのみを目的として、必要に応じてとられる必要措置は、人種差別とみなさない。」(1条4項)として明言されているところである。
 にもかかわらず、こうした優遇策には疑問の余地がないわけではない。なぜなら、この制度は民族の別をはっきりと分けたうえで、特定民族に優遇を与えるという形で、一種の利益差別の性格を持つことを否定できないという見方もあり得るからである。
 人間を評価するうえで大切なことはその人がどんな人かという内実であって、何民族であるかなどは関係ない。ところが、優遇策は、ある人が少数民族に属するがゆえに採用なり入学なりに際して優遇するというもので、民族の別を決定的な基準としている。
 とりわけ、[b]のような入学における優遇制では、成績が良くないのに優遇された結果入学できた少数民族の生徒・学生に心理的な負い目感情を与える恐れもある。
 技術的にも、移民の定住・混血化が進行するにつれて、ある人がどの民族に属するかの基準設定やその証明が困難になり、証明できず優遇が受けられないケースや、逆に不正申告をして優遇を受けようとするケースも生じてくるだろう。そのうえ、不正申告をしていないのにしたように多数民族から中傷され、少数民族が精神的な苦痛を味わう恐れもある。
 このように、一見合理的と見える優遇策にも落とし穴があるのだ。この点、先の条約条項でも但し書きを設け、「(必要措置は)その目的が達成された後は継続してはならない。」と優遇策を期間的に限定しようとしているのも、この制度を無条件に肯定しない趣旨であろう。
 難問ではあるが、各自でさらにお考えいただくことを願う。

2011年11月29日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第23回)

実践編

レッスン3:人種/民族差別

例題1:
[a] あなたの子どもが、結婚したい相手として外国籍のアフリカ人(黒人)を連れてきた。素性や人柄などの一般的な条件は全く申し分ない。あなたは結婚に賛成するか。

(1)賛成する
(2)賛成しない

[b] [a]の事例で、あなたの子どもが連れてきたのが、日本国籍を持つ朝鮮人(北朝鮮出自)であったとしたらどうか。

(1)賛成する
(2)賛成しない

 半世紀前であればともかく、現在では多くの方が賛成すると信じたい。
 にもかかわらず、素性も人柄も申し分ない義理の子ができることに同意できないとしたら、その理由は何だろうか。
 [a]の事例で「黒人を一族に加えたくない」ということであれば、肌の色を理由とする人種差別になるし、[b]の事例で「朝鮮人を一族に加えたくない」ということであれば、それは朝鮮人という民族性を理由とする民族差別となる。
 あるいは、[a]の事例では「黒人であること」よりも、「外国人であること」が問題だというのであれば、それは次のレッスン4で取り上げる外国人差別に相当する。また、[b]の事例では「朝鮮人であること」よりも「日本と国交のない北朝鮮出自であること」が問題だというなら、それは子どもたちの結婚とは関係のない政治的理由に仮託した転嫁的差別となるだろう。
 とはいえ、現在の日本民法では結婚するのに親の同意は必要とされない。従って、あなたの子どもたちが日本で結婚するのであれば、あなたが賛成しようがしまいが、結婚は有効に成立するから、差別が直接に表面化することはないのだが、どうしても賛成できないあなたが子ども夫婦を親の家に来させないなど、「勘当」のような慣習上の制裁を科せば、二人の結婚は親であるあなたから事実上否定されたに等しく、差別が表面化してくることになるのである。

例題2:
あなたが外国へ留学したとして、留学先で「イエローモンキー」などと人種差別的な言葉でなじられた。どう対応するか。

(1)抗議する
(2)甘受する

 理論編でも指摘したとおり、人種差別という問題は日本社会ではなかなか表面化しにくいのだが、日本人がひとたび海外へ出れば他人事ではなくなってくる。
 特に欧米では、いまだに白人優越主義のような誤った人種偏見を抱いている人やそのグループが伏在していると見られ、例題ほど露骨でなくとも、あなた自身が人種差別的な何らかの嫌がらせ(陰口のようなものも含めて)を受ける恐れは十分にあるのだ。そうした場合、どう対応すべきだろうか。
 まずは、決然と抗議したい。あなたをイエローモンキーと呼んだのがたとえあなたの指導教授だったとしても。抗議といっても、激するのでなく、冷静に「私の聞き間違いでなければ、あなたは今、私のことをイエローモンキーとお呼びになりましたが、あなたは日本へ行って、日本人からホワイトピッグ(侮辱した相手が黒人であれば、ニガー)と呼ばれたいのですか。」と反問すればよいだけだ。
 そうせずに、あいまいな態度で人種差別的侮辱を甘受してしまうのは、一種の自己差別的行為であり、相手の人種偏見に図らずも加担してしまうことになるだろう。
 なお、単に言葉で侮辱されるにとどまらないより手の込んだ差別を受けたと感じた場合は、信頼できる現地の知人や現地をよく知る国内の知人や専門家に対応手段を教えてもらうとよいだろう。

2011年11月25日 (金)

世界歴史鳥瞰(連載第18回)

第4章 略

二 イスラーム勢力の展開

(1)アラブ・イスラーム勢力の遠征
 メッカ制圧からわずか二年後の預言者の死(632)は、一時的に多くの信徒部族を離教(リッダ)させることになった。このような教団崩壊の危機を救い、立て直したのが初代のカリフ(ムハンマドの後継代行者)に選出されたアブー・バクルであったが、彼は在位わずか二年で没し、続いて第2代カリフに就任したウマルの時に、アラブ・イスラーム勢力は早くも対外的征服活動に乗り出していった。
 その勢いはめざましく、彼の10年の在位中にシリア、イラク、エジプト、アルメニア、イランなど中東の要地はほとんど手中に収めてしまった。この間、638年にはキリスト教聖地エルサレムを征服したし、642年にはすでに衰退していたササン朝に最後のトドメを刺した。
 こうした最初期の積極的遠征は、それ自体が教団組織の回復・維持と拡大の意義を担っていたようであり、異教徒征伐=聖戦(ジハード)の名を冠していた。これは後にエルサレム奪回を名目にヨーロッパのキリスト教徒が組織した十字軍がその裏に商業的な動機を濃厚に秘めていたことと対比しても、宗教的な動機が支配的な遠征であったと考えられる。
 かれらは征服地を破壊することなく、軍営都市(ミスル)を建設し、ここにイスラーム戦士を住まわせ、衣食住を保障してさらなる聖戦に備えた。その財源としては征服地異教徒から徴収する地租と人頭税が充てられた。
 一方、イスラーム教では改宗を強制することはなく、征服地に多かったキリスト教徒やユダヤ教徒などは人頭税の納付と引き換えに信仰の自由が認められるズィンミー(契約民)とされた。かれらが改宗すれば人頭税は免除される代わりに、アラブ人の隷属民(マワーリー)となるのであった。
 こうした独特の教団支配の仕組みを考案したウマルは644年、ペルシャ生まれのキリスト教徒奴隷に刺殺された。
 この後、カリフ位は3代ウスマーン、4代アリーと継承されたが、元来カリフ位は世襲でなく、一種の選挙によるため、党派性が強く、安定しない嫌いがあり、ウスマーン、アリーともに反対派の凶刃に倒れた。

(2)ウマイヤ朝の成立と教団の分裂
 656年のウスマーンの死を受けて4代カリフに就任したアリーは預言者ムハンマドと同じハーシム家の出身で、かつムハンマドの娘ファーティマの夫として預言者の信任も厚かった教団長老であるから、カリフには適任のはずであった。
 ところが、当時アラブ・イスラーム勢力のシリア総督を務めていたウマイヤ家のムアーウィアがアリーを先代カリフ、オスマーン殺害の責任者と名指して反アリーの旗色を鮮明にした。
 ムアーウィアの属したウマイヤ家はクライシュ族の中でもムハンマドやアリーが属したハーシム家とは別家系であり、元来ハーシム家よりも富裕な豪家であった。ムアーウィアがアリーをウスマーン殺しの責任者と名指したのは、先代ウスマーンもウマイヤ家の出身であったためであった。
 アリー派とムアーウィア派の緊張は高まり、内戦となった。しかし決着はつかず、アリーは講和の道を選んだが、これに反発する陣営内強硬派が離脱して分派(ハーリジ派)を結成した。これはイスラーム教団にとって最初の公然分派として重大な意味を持った。結局、アリーはハーリジ派の手で暗殺された(661)。
 一方、ムアーウィアはアリー暗殺の前年にエルサレムでカリフに推挙されていたが、これは自派だけでの一方的な選挙によるものであったから、彼はアリーの長男でアリー派からカリフに推挙されていたアル・ハサンから禅譲を受けて初めてカリフ位に就くことができた(661)。
 しかし、ムアーウィアはアリーまでの4代のカリフたちのように教団の正式な手続によってカリフに選出されたのではなかったから、歴史上カリフとしての正統性を認められていない。その代わり、彼はそれまでにない新たな体制、すなわち世襲による王朝イスラームの創始者となったのだった。
 ムアーウィアの政権は、彼自身を含めアラブ系でありながら、自らが総督として支持基盤を築いていたシリアのダマスクスに首都を置き、シリア人の支援を受けた政権であった。その点でもすでに従来の教団=共同体とは性格を異にしていた。
 そのうえ彼は、カリフ位を息子ヤジードに世襲させたのだ。カリフ世襲制はカリフ選挙制に反する逸脱であり、本来許されないことであるが、彼は術策を用いてこの逸脱を押し通し、以後世襲が踏襲されていった。預言者も預言できなかったウマイヤ朝の成立である。
 しかし、アリー派の反発は強かった。ウマイヤ朝2代目ヤジードの時、アリーの次男アル・フサインが蜂起する。しかしウマイヤ朝軍のためにユーフラテス河近くのカルバラーの平原で粉砕され、一族は幼児や娘を除いて皆殺しにされた(680)。
 この「カルバラーの惨劇」はアリーとその子孫にのみイスラーム教団指導者の資格を認めるシーア派の分離を決定づけた。このシーア派と多数派スンナ派の分裂は修復されないまま恒久化し、今日にまで至っている。
 アリー派鎮圧にひとまず成功したウマイヤ朝は第5代の名君アブドル・マリクの下で公用語をアラビア語に定め、初めてイスラーム独自の金貨を鋳造するなど、「王朝」としての体制を固めた。
 8世紀に入ると、一時停滞していた対外的征服活動を再開・本格化する。709年までに早くも北アフリカの征服を完了し、711年にはイベリア半島に侵入して、ゲルマン民族大移動の結果この地で300年近く存続してきたゲルマン系西ゴート王国を滅ぼした。同年には西北インドにまで到達したほか、翌712年には中央アジアのホラズムに侵攻してこの地にイスラーム化の基礎を置いた。
 720年以降はヨーロッパ大陸への進出を開始し、地中海沿岸の南仏諸都市を攻略して中部フランスにも触手を伸ばすが、トゥール・ポワティエ間の平原で当時ヨーロッパに台頭していたゲルマン系フランク人の軍勢のために敗退した(732)。
 こうしてヨーロッパ心臓部への進出は阻止されたが、ビザンツ帝国がなお掌握していた東地中海は除いても、西地中海はヨーロッパから遮断され、イスラーム勢力の海となったのである。

2011年11月24日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第22回)

実践編

レッスン2:障碍者/病者差別

〔まとめと補足〕

 障碍は広い意味で病気の一類型または一症状であるが、病者のうち通常不治の障碍を持つ人々を「障碍者」としてくくり出している。
 障碍の中でも身体障碍は外見にそれとわかる特徴が出るため、容姿差別の一環として、かつては劣等視の対象であった。その痕跡として、障碍に関しては数多くの差別語が見られるが、幸いにしてその多くは今日死語となっている。
 これに対し、視聴覚に関わる感覚障碍は、外見に顕著な特徴が現れないため、元来、身体障碍に比べれば差別される度合いは低く、比較的早い時期から差別克服の道が開かれてきた。
 皮肉にも、「健常」の範囲内に属する醜い容姿に対する差別は容易に克服されないのに、身体障碍・感覚障碍に対する差別は克服の努力が示されてきており、この分野は差別問題全般の中では相対的に深刻度が低いと言える。
 とはいえ、日本社会のバリアフリー化・ノーマライゼーションは万全とは言い難く、依然として障碍者を「かわいそうな存在」とみなして、単に同情的配慮の対象としか見ない傾向は根強い。障碍者の社会参加の道は決して平坦でない。
 まして、コミュニケーションに障碍の及ぶ精神障碍者・知的障碍者を取り巻く環境はいっそう厳しく、なお隔離主義的施策とそれを支持する「世論」とが厳然として存在している。海外には、精神病院という制度そのものを解体してしまった国もあることと対比すると彼我の落差は大きい。
 そもそも病者全般を“隔離”して長期入院させる傾向がなお強いのが日本社会の特色であるが、これは近代的差別の三源泉の一つ、衛生思想(公衆衛生学)が日本社会では深く浸透したためとも考えられる(病院の経営戦略も絡むが)。
 そこでは、古来のケガレ観念とちょうど入れ替わりのような形で衛生思想が浸透し、病気‐障碍の状態を不衛生‐不健康として忌避する心性が強く働いているのではないか。このことはちょっとした風邪でも病院へ行く日本人の“病院好き”とも関連しているように見える。
 いずれにせよ、障碍者/病者差別の克服に対しては、病気‐障碍という状態を、誰にとっても明日にも我が身に起こり得ることと自身に引き寄せて考えれば―引き寄せの倫理―、「包摂の哲学」が最も働きやすい領域である。
 その点では、「健常者」という用語の使用も再考してみたほうがよいだろう。この語はそれ自体としては差別語でないが、健常者/障害者という対語として用いられるときは、健常者を優位とみなす価値観を暗黙の前提とすることが多い。そういう意味では反面差別語とみなすこともできる語である。
 実際、100パーセント完璧に「健常」という人はおそらく存在しないということからしても、現実離れした語である。この場合、「健常者」という語を別の言葉で言い換えなくとも文脈上特に問題は生じないはずである。

2011年11月22日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第21回)

実践編

レッスン2:障碍者/病者(続き)

例題5:
あなたが結婚を前提に交際している相手から、ある遺伝病を持っていることを打ち明けられた。あなたならどうするか。

(1)別れる
(2)交際を続ける

 ここからは病者差別の例題である。病気は、日本古来の観念ではケガレとして忌避されることもあったが、現代ではさすがに病気をケガレとみなす観念は出てこないだろう。すると、交際相手から遺伝病の存在を打ち明けられた人がそれだけで「別れる」としたらその理由は何だろうか。
 病気の中でも外見上はっきりした障碍をもたらすのではなく、外見からは全くわからないような病気であっても、遺伝病となると、「遺伝性」という一つの医学的な烙印が押されたに等しく、相手の家系自体が何かしら劣等的であるかのような感覚が生じ、とりわけ結婚相手としてはふさわしくないように見えてしまうということだろうか。そうだとすれば、それはまぎれもなく差別である。
 実際のところ、ある病気を「遺伝病」とみなすことに医学的根拠がなく、そのようにみなすこと自体が差別行為となる場合もある。例えば、前回の例題4で見た精神障碍である。
 こうした場合、「遺伝学」というそれ自体としては正当な学問が差別の道具として使われているわけで、これが優生思想とも結合されたうえ、遺伝病差別が形成されていく。
 なお、「生まれてきた子が同じ病気にならないか心配」という理由で結婚をためらう場合もあるかもしれないが、これも遺伝病の承継可能性を劣等視する含みがある点で、差別的であることに変わりない。
 例題5では、交際をやめるべき正当な理由が他に見当たらない限りは交際を続けることが包容行為ということになるだろう。
 なお、例題では取り上げなかったが、遺伝病に関しては、就職上の差別という問題もある。これは労働効率や医療保険上の負担を懸念する経営判断が絡む問題で、単純な差別問題を超えた要素を伴う難問である。 

例題6:
国際的に伝染病Xが大流行しているとする。そこで、政府は「国際空港で入国手続を申請したすべての人に強制的な検疫を実施、感染の疑いがある人は直ちに病院に隔離する」という対策を決めた。あなたはこの対策を支持するか。

(1)支持する
(2)X病が強毒性の場合は支持する。
(3)支持しない

 伝染病に関するいわゆる「水際作戦」である。「水際作戦」といっても、通常は本人の同意を取る任意の方法で実施されるが、例題は一律強制検査・隔離という強制の方法によるものであるから、その是非をめぐって議論になるだろう。
 一般に伝染病患者の強制隔離は強毒性で伝染力の強いのものに関しては、公衆衛生上のやむを得ない措置として認められるが、これは伝染病の蔓延を防ぐための正当な措置であって、差別に当たらないことはもちろんである(ただし、長期隔離については人権上の問題がある)。
 しかし、国際空港での一律強制検査・隔離となると、相当に強硬な対策であり、ここには伝染病患者一般を危険視する考えが含まれているように思える。
 こうした危険視はそれだけでは劣等視=差別に当たらないが、入国者一律の検査・隔離という強制措置はまるで伝染病患者それ自体を「病原菌」とみなすかのような前差別行為的対策と言わざるを得ない面がある。
 そこで、(2)のように、「X病が強毒性の場合」という条件付きであれば一つのバランス策であるように見える。しかし、そうした場合でも、「一律強制検査」が正当かどうかにはなお疑念が残る。それによって、実際、伝染病の水際阻止の効果が上がるかどうかの保証も確かでないとなるとなおさらである。
 かつてケガレは人から人へ「うつる」ものと考えられていたらしいが、伝染病はまさに「うつる」病気であることから、ケガレ観念が廃れた今日でも、不浄視されやすい病気の筆頭である。しかし、宗教的意味合いを失った不浄視は劣等視の一形態であり、まさに差別に当たるのである。
 そこで、「伝染病」という言葉自体を一種の前差別語とみなし、その使用を控えるという流れが出てきている。実際、1998年に制定された現行感染症法では「伝染病」の用語を廃止している。とはいえ、感染症の中に「うつる」性質のものがある事実に変わりはない以上、用語の変更が差別克服の決定的な契機となるかは微妙である。

2011年11月21日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第17回)

第4章 イスラーム世界とモンゴル帝国

〈序説〉
 イスラーム世界は(西)ローマ帝国が滅亡し、文明の中心が再び東方に還っていく中で形成された、宗教を媒介とする一つの文明連環である。
 イスラームはそれがアラビア砂漠のオアシス都市で創唱された7世紀以降、急速に西と東へ伝播し、16世紀頃までに西は西アフリカ、東は中国南部やフィリピンへと拡散していった。15世紀から16世紀初頭には、マレー半島のマラッカ、西アフリカのトンブクトゥのような都市がイスラーム文化の東西の辺境都市として栄えていたのである。
 もしイスラームが到達していなかったとしたら、アフリカや東南アジアの文明開化はあり得なかった、などと主張すれば過言のそしりを免れないだろうか。
 しかし、今日のアフリカ大陸におけるイスラーム教徒人口比は60パーセント、中国文明の影響下にあったベトナムを除いて、イスラーム到達以前はインド文明の影響が強かった東南アジアでも40パーセントに達しており、中でもインドネシアは世界最大のイスラーム教徒人口を抱える国である。
 キリスト教のような意識的な伝道活動によらずしてこれほど多種多様な民族を感化させた宗教文明は他に存在しないが、その秘訣は唯一神アッラーへの絶対的服従という、一神教の中でも最もわかりやすい教義に加え、それが古代オリエント文明、ギリシャ文明、インド文明、間接的には中国文明に至る先行諸文明の要素を取り込んだ普遍性の高い総合的文明であったことにあると考えられる。
 こうしてイスラーム教を媒介として拡大したイスラーム世界に対する歴史上最初の挑戦者となったのは、東から台頭したモンゴル人勢力であった。しかし、イスラームに触れたかれらもまた、その一部勢力はイスラーム化することを免れず、最終的にはイスラームと共存・混交していくのである。

一 イスラームの創唱

(1)イラン帝国と東ローマ帝国
 イスラームが7世紀初頭に創唱された頃、中東ではイラン高原を拠点にメソポタミア地方までを版図とするイラン帝国(ササン朝ペルシャ)とシリア・エジプトに領土を持つ東ローマ帝国が勢力を張り合う状況が数十年にわたって先鋭化していた。
 3世紀にペルシャ人神官一族ササン家が興したササン朝は、紀元前3世紀以来イラン高原の覇者であったパルティア王国を滅ぼし、イラン高原東部の覇権を握った(224)。さらに、パルティアの東隣に後1世紀頃大月氏またはその配下の強盛化した一部族が建て、パルティアと東西貿易中継の利を競い合っていたクシャーナ朝をも征服し、傀儡政権化した(241年以降)。
 クシャーナ朝は中央アジアから西北インドまで支配下に収めていたため、その版図をも継承したササン朝はアケメネス朝以来のペルシャ系帝国となったのであった。
 その勢いでローマ帝国をも圧迫し、ローマ東方領土に触手を伸ばす。第2章でも触れたように、260年にはローマ皇帝ウァレリアヌスを破って捕虜にした。こうしたローマ帝国との対抗は西ローマ帝国滅亡後も東ローマ帝国との間で続けられた。
 ササン朝はイラン系民族の間に浸透していたゾロアスター教を国境とし、イラン(=アーリヤ)帝国を自認する民族主義的な立場に立って、イラン高原から中央アジアに至る遊牧系を含むイラン系諸民族を糾合した。そして、ティグリス‐ユーフラテス河流域の開発を進めて農業生産力を向上させ、これを帝国の経済的基盤として繁栄する。
 しかし、ササン朝と東ローマ帝国の攻防は、7世紀に入るとササン朝財政を圧迫し始めていた。しかも、628年にはティグリス河大氾濫による農業の壊滅と時の皇帝ホスロー2世の失墜・死去に伴う内戦の勃発という二重の国難に見舞われ、ササン朝は大きく傾きつつあった。

(2)7世紀初頭のアラブ社会
 アラブ人は、前9世紀のアッシリアの記録にラクダ遊牧民として現れるセム語派系民族であるが、アッシリア人など古代オリエント文明の担い手となった同系民族に比べると後発の民族であった。
 アラブ人の預言者ムハンマドがイスラーム教を創唱した頃のアラビア半島中部はまだ部族制の伝統の中にあったが、彼が生まれたオアシス都市メッカは隊商貿易で栄える商業都市となっていた。
 このようにアラビア半島に商機がめぐってきていたのは、先のササン朝‐東ローマ間の長期戦のためシルクロードが遮断され、東ローマ帝国が掌握していた紅海貿易も衰退したため、東西貿易の経路がアラビア半島経由に切り替わるようになっていたことがある。
 こうしてメッカは新たな中継貿易で栄える新興の商都として上昇気流の中にあったが、この都市は同時にイスラーム化以前の時代(ジャーヒリーヤ)における多神教信仰の中心地でもあり、後にイスラームの殿堂に変わるカアバ神殿がすでに所在し、多くの巡礼者を集めてもいた。
 ムハンマドはこうした商業‐宗教都市の支配層を成していたクライシュ族の名門ハーシム家の一員として570年頃に生まれたが、彼の生家自体はすでに没落しており、ムハンマドも早くに両親を失ったため、親類の下で養育されたと伝えられる。
 やがて彼は商業を営む富裕な年長女性の再婚相手となって自らも商人として隊商貿易に携わっていたとされるが、ムハンマドの前半生については不詳な点が多い。
 わかっているのは、40歳になった頃、元来はカアバ神殿にも祀られた多神教時代の神の一柱であったアッラーの啓示を受けた預言者として、アッラーを唯一神とする新たな宗教を唱導し始めたことである。610年頃のことであった。

(3)最初のイスラーム革命
 ムハンマドが啓示を受けた頃のメッカでは商業的繁栄の帰結として、富の偏在による階級格差の拡大や、利己主義的風潮の蔓延によるモラルの低下が起きていた。彼はそうした現実を批判するとともに、部族的しがらみにとらわれた伝統社会のあり方も否定し、アッラーへの絶対的な帰依と血縁を超えた信徒間の平等を説いた。
 こうした教えは当時のアラブ社会ではあまりにも異端的であったため、彼は当然にもメッカの支配層から敵視された。信者が増えるほどに迫害も激しさを増す。
 622年、ムハンマドは信者たちを連れて北のヤスリブ(後のメディナ)へ移住(ヒジュラ)した。彼はここで教団組織を整備し、反イスラーム勢力との武力闘争を開始する。死闘の末630年、60歳のムハンマドは1万人の武装勢力を率いてメッカを制圧、カアバ神殿に凱旋した。最初のイスラーム革命である。
 こうして、イスラーム教はキリスト教のように国家の公認・国教化によらず、武装闘争を通じて闘い取られた歴史から、革命的な出自を持つ。しかも、それは部族主義的分裂を教団=共同体(ウンマ)によって止揚しようとする政治的意図を持つため、本質的に政教不可分である。
 一方でイスラーム樹立の闘いは、ムハンマド自身それであったような中間層の階級闘争という性格も帯びていたことから、イスラーム教は商人ブルジョワ的な志向性を免れないものでもある。要するにイスラーム教は商人の宗教であり、商業活動に対しては好意的である。
 このことによって、イスラーム教が伝道活動でなく、イスラーム教徒(ムスリム)商人の商業活動に伴ってその商圏に伝播・浸透していった―従って、例えば、かれらの商圏に含まれなかった日本には到達しなかった―理由の一端が説明できるであろう。

2011年11月17日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第16回)

第3章 略

六 倭王権の成立と発展

(1)小国分立時代
 古代には倭と呼ばれた日本の最初の国家形成については不明な点がなお多いが、『漢書』地理志に「分かれて百余国」云々とあるのが中国史書に初めて現れる倭の状況である。これによると、倭は元来多数の部族国家(または氏族国家)に分かれていたと見られる。
 ただ、それがいつ頃のことかは記事上明確にされていないが、おそらく稲作と金属器をもたらした朝鮮半島南部等からの渡来集団の定住化と先住民との混血を通じた小国形成が進んだ弥生時代後期・前1世紀頃の状況と理解される。
 それ以前となると、一種の奇書ではあるが、中国最古の地理書『山海経』に「倭は燕に属する」との断片記事が見える。この記事の信憑性には疑問もあるが、そのまま受け止めるとすれば、倭系小国の中の比較的優勢な国が最盛期遼東半島まで伸びていた戦国時代の燕に朝貢していたと考えられなくもない。燕が遼東半島に進出したのは先述したように前284年のことであるから、上記記事も前3世紀代のことと解される。
 前漢武帝時代になると、倭は朝鮮半島に設置された楽浪郡との間を往来したと見られるが、公式の朝貢に関する記録はない。
 倭の動向が確実な史料上に現れるのは、後漢光武帝治世末年の後57年の「倭奴国」による奉貢朝賀を伝える『後漢書』の記事である。この「倭奴国」とは今日の博多付近にあった奴国を指すと見られ、1784年に博多の志賀島で発見された「漢委奴国王」と彫られた金印が同記事に対応する印綬であると解されている。
 次いで、同書は後漢第6代安帝時代の107年、「倭国帥升ら」の朝貢を伝える。ここでは「倭国」としか記されないが、この時代に早くも「倭国」なる統一国家があったわけではなく、これも「百余国」の一つと見られる。
 要するに、この頃まで、倭には中国王朝と継続的な朝貢関係を維持できる実力を備えた国はまだ存在しなかったのである。

(2)邪馬台国時代
 倭の状況が俄然詳しく記録されるのは、『三国志』の一つ『魏書』に登場する邪馬台国に関してである。それによれば、同国女王卑弥呼が239年、三国時代の魏に朝貢し、明帝より「親魏倭王」の称号を得たという。
 この時、同国が使節を送ったのは楽浪郡の南にあった帯方郡であった。ここは後漢末の混乱期に遼東半島で自立した地方勢力公孫氏が204年に設置した植民地であったが、女王の朝貢の前年に魏によって楽浪郡とともに占領されていた。タイミングから見て、邪馬台国はそうした情勢を把握した上で新興の魏との朝貢外交を試みたと考えられる。ということは、それまで同国は公孫氏の帯方郡との関わりを持っていたと見られる。
 この邪馬台国に関しては、周知のとおりその所在地論争がいまだに決着していないが、近時は畿内の纏向〔まきむく〕遺跡をもって邪馬台国に比定する説が通説化しつつある。
 ただ、文明史的観点から見ると、日本のような辺境地の場合、文明先進地に近い地域から文明化が進んでいくと考えられるから、3世紀という時期には内陸部の畿内よりも中国大陸や朝鮮半島に近い九州北部に優勢な国家が所在していたと見るほうが自然であろう。
 いずれにせよ、邪馬台国は20を超える小国の連盟体的性格のものであって、統一的な領土国家とは言い難い。『後漢書』によると、卑弥呼は2世紀後半の内乱の後女王に共立されたシャーマン女性であり、そうして誕生した邪馬台国自体、暫定的な平和条約体制にすぎなかった可能性もある。
 卑弥呼は3世紀半ばに没したと見られる(不詳)。その後、男王の下での内乱を経て卑弥呼の親類の少女台与(トヨ)が女王に共立される。台与については『魏志』上年号不詳の遣使が一度だけ記録されているほか、『晋書』には台与と見られる倭王の266年(西晋泰始2年)の入貢記録が一度見られるのみで、以後邪馬台国は中国史書から忽然と姿を消してしまうのである。

(3)天皇王権の確立
 邪馬台国の消息が途絶えた後、中国史書は4世紀代の倭について何も記録していないため、倭の4世紀は謎とも言われる。しかし、4世紀代を通じて畿内や吉備を中心に大型墳墓の築造が盛行し始める。これらの墳墓には朝鮮半島の弁韓地域(加耶諸国)との文化的つながりも認められることから、『日本書紀』や『古事記』の建国神話と加耶諸国の盟主格であった金官加耶国の建国神話との近縁性とも合わせ、同地域からの集団移住・入植の可能性も想定できる。
 4世紀末になると、朝鮮史書の『三国史記』や高句麗の「広開土王碑文」には三国時代の朝鮮諸国と活発な外交的・軍事的駆け引きを展開する倭の情報が増加する。そこでの倭のスタンスはおおむね親百済・反高句麗・征新羅というもので、特に百済とは397年に正式に修好している。
 当時、百済は高句麗の広開土王に敗れて半島の覇を失ったばかりであったので、水軍に強みのあった倭と結ぶことで反転攻勢のチャンスを窺っていたと見られる。
 5世紀代に入って久々に中国史料に姿を現す倭の「五王」が南北朝時代の南朝宋に立て続けに朝貢していることは、南朝外交一辺倒であった百済の外交方針に即応するものとも考えられる。
 こうしてみると、遅くとも4世紀末頃から倭王権が強盛化していったことが認められる。この王権の所在地は通説どおり畿内と見るとしても、これを3世紀代の邪馬台国と連続的にとらえる必要はなく、4世紀を境に九州北部の勢力が衰亡し、代わって畿内に優勢な国家が台頭したととらえることができる。
 しかも、5世紀中頃から畿内を中心に百済的特色を伴った大型墳墓が見られるようになることからも、この畿内倭王権の王室をはじめとする支配層主流は、遅くとも5世紀後葉以降百済系で占められるようになったのではないかとも考えられる。
 ただ、「五王」最後の武の遣使(478)を最後として、再び倭は中国史書から姿を消し、6世紀代は「空白」となる。しかし、この時期こそ、畿内倭王権の領土拡張期であったと考えられ、西は九州中部から東は北関東ないし東北南部あたりまでを領土におさめたと推定される。
 外交上も、かつて説かれた「任那日本府」を通じた朝鮮経営論は考古学的証拠を欠くとしても、当時百済・新羅間で懸案となっていた任那(加耶)権益問題に百済側に立って側面関与したことが窺える。
 しかし、6世紀前半に百済から伝来した仏教の受容をめぐって排仏派と崇仏派の豪族間で抗争が生じ、これに勝利した崇仏派蘇我氏により、6世紀末から7世紀中頃まで約60年間にわたり王権が実質上簒奪された。このいわゆる「蘇我氏専横」は645年の乙巳[いっし]の変で終止符を打たれ、正統王権が回復された。
 以後、王権の強化と中央集権化が図られ、それまでオオキミと呼ばれてきた君号も天皇(スメラミコト)に変わり、天皇を戴く王権の形成が進む。
 こうした日本独自の王権の発展は、出自的にも緊密に連関していた百済が660年に滅び、百済復興を支援して唐・新羅連合軍と戦った白村江の戦役(663年)にも敗れた後、天智天皇の下で急速に進む。そして天智の死後、皇位継承戦争(壬申の乱)に勝利して即位した天武天皇の手を経て、天武の皇后から天皇に即位し、日本初の本格的な都城・藤原京を完成させた持統天皇の時に一応の完成を見る。
 この過程はまた、「蘇我氏専横」時代の7世紀初頭に開かれた隋唐との冊封によらない遣隋使・遣唐使を通じた「対等」な外交関係を媒介して徐々に摂取・構築されていった律令制の完成過程でもあった。その最初の結実は、持統天皇が孫の文武天皇に譲位し、上皇として実権を保持していた701年に制定された大宝律令として現出した。

(4)律令制とその解体
 こうして立ち現れた律令制天皇王朝は、710年の平城京遷都を経て718年に制定された新たな養老律令(757年施行)をもって本格展開期に入る。
 この日本型律令制は官制上神祇官の設置のような日本的特色を伴いつつも、唐制をかなり忠実に継受したものであった。とりわけ、律令制的収奪体制としての班田収受法は均田制に範を取っていただけに、唐の律令体制の解体と同様の道をたどることを運命づけられていた。
 実際、庸調の負担に耐えられない班田農民の逃亡が相次ぐと、朝廷は開墾を奨励して私有地化することを認めざる得なくなったが、これは荘園制の始まりにほかならなかった。豪族や有力寺社は逃亡農民などを使役してこぞって荘園経営に乗り出す。10世紀半ばに入ると、班田支給は停止し、租庸調制に代えて土地(名田)を基準に課税する名制が導入される。これは唐における両税法に相応する大改正であり、土地私有制への一歩であった。
 名田は次第に有力貴族の荘園として寄進されるようになるが、こうした荘園が全国に拡大した12世紀までに荘園は不輸不入権を保持するようになっていた。対抗上、国司らも自己の管理する公領を荘園に準じて私物化するようになり、土地公有の建前は崩壊する。
 一方、政治行政の面でも、律令制は平城京時代(奈良時代)を過ぎ、794年に京都の平安京への遷都を断行した桓武天皇の治世には早くも揺らいでいた。桓武天皇は律令制の再建に努めたが、平安京時代中期に入ると、政治の実権は荘園領主でもある門閥貴族の手に握られ、天皇権力の空洞化が進んだ。
 こうした貴族寡頭政の頂点には、持統天皇の寵臣として台頭し、律令制整備にも尽力した藤原不比等を実質的な祖とする藤原氏が座ったことは歴史の皮肉であった。9世紀後半から11世紀末までは、藤原氏を中心に天皇王朝を政治的正当化の道具として利用しつつ、荘園制に経済的基盤を置く摂関政治が展開されていく。9世紀末には唐末の混乱から遣唐使も廃止され、摂関政治時代は国風文化に染まった平安京時代の全盛期でもあった。
11世紀末、皇室は藤原氏から実権を回復することに成功した。しかし、それは上皇・法皇による院政の形を通じてであって、天皇権力の再生にはつながらなかった。
 しかも、上皇らは門閥貴族への対抗上、10世紀末頃から武装化した開発領主として源平両氏を二大棟梁に戴きつつ台頭してきた武士を重用したので、武門の権勢が強まった。同時代中国の宋のような文治主義とは全く逆方向の武断主義の流れが急速に生じたのだ。
 こうして12世紀は、日本歴史にとって大きな社会変動の転換点となったであろう。(第3章了)

2011年11月16日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第20回)

実践編

レッスン2:障碍者/病者差別(続き)

例題3:
介助者なしの車椅子に乗った障碍者が道の段差を乗り越えられず難儀しているのを見かけたあなたはどうするか。

(1)見て見ぬふりをする
(2)無言でいきなり手を貸す
(3)相手の意向を聞いて手を貸す
(4)その他(自由回答)

 本例題の選択肢はわざとらしく作ってあるので、多くの方が(3)の「相手の意向を聞いて・・・」を選択するかもしれない。これが模範回答であることは言うまでもない。
 しかし、日本社会では案外(1)の「見て見ぬふり」も少なくないかもしれない。このような「見て見ぬふり」は差別の一形態としての意識的な無視とは異なり、それ自体差別とは言えない。多忙な現代社会では手を貸す時間もない人もいるだろうし、障碍者の間でも「自立志向」が強まっている中では―例題の人も介助者なしの自力外出中―手を貸すことに遠慮があるという場合もあり得るからである。
 これに対して、(2)の「無言でいきなり・・・」を選択する方はごく少ないかもしれないが、このような強制介入型の介助はあってはならないことだろうか。
 日本社会では障碍者にさりげなくさっと手を貸すというような「ちょい介助」の習慣が希薄なため、どうしても構えてしまい、(1)の「見て見ぬふり」に赴きやすい面もあろうが、(3)のように「相手の意向を聞いて・・・」という模範行為もなかなか容易には実行できないとすれば、通常相手が断らないだろうと思われる状況ならば、安全な方法による限り、いきなり手を貸す強制介入もあってよいのではないだろうか。
 元来、日本社会では街の構造を障碍者規格に合わせて障碍者の社会参加を促進するというノーマライゼーションの発想が薄く、逆に障碍者を一般規格に適応させようとする言わば逆ノーマライゼーションの傾向が強い。従って、「バリアフリー」もスローガンに終わりがちで、例題のように車椅子では難儀するような段差が放置される一方で、段差を乗り越えられるような高性能車椅子の開発が目指されるという状況である。
 ここには障碍をすべての人にとっての潜在的な可能態とみなさずに、一部少数の特殊な欠陥と劣位において、劣位者こそ一般規格に適応すべきだとする差別思想が依然として潜んでいる。
 車椅子を改造するのではなく、街を改造して物理的に可能な限り段差を撤去していけば、そもそも本例題のような状況自体がめったに生じなくなるわけである。
 同様のことは、視覚障碍者向けの施策、特に近年相次いでいる駅ホームからの転落事故を防ぐためのフェンス設置や点字ブロック整備などについても言える。

例題4:
列車の二人掛けの座席で、あなたの隣に座った乗客が急に大声で奇声を発したり、わけのわからないことを叫んだりし始めた。あなたならどうするか。

(1)席を移る
(2)乗務員を呼んで排除してもらう
(3)話しかけて事情を聞く
(4)注意して黙らせる
(5)その他(自由回答)

 この隣席の乗客はおそらく精神障碍者か知的障碍者と思われる。いずれにせよ、錯乱状態にあると見られるので、隣席にいれば誰しも一定の不安や迷惑は感じるだろう。このような場合は、(1)のように逃げ出すことも一つの方法である。これは相手を忌避する差別行為と紙一重ではあるが、例題のような状況下では、むしろ差別回避行為であると同時に自衛行為でもあり得る(特にあなたが女性で隣席の乗客が男性であるような場合)。
 これに対して、(2)のように乗務員を呼んで排除してもらうことは、一見して合理的な正当行為のように思えるが、隣席の人があなたに危害を加えようとするそぶりもなく、単に一人で錯乱してわめいているというだけでいきなり排除しにかかるのは、「不安」とか「迷惑」といったもっともらしい合理化理由を掲げた転嫁的差別に当たる。
 遺憾ながら、日本社会では本例題のような人が“野放し”にされて一般社会に現れ、、他の人々に不安や迷惑を及ぼさないよう、精神障碍者や知的障碍者は病院や施設に厳重に閉じ込めておくべきだとする隔離思想が根強いため、近年ようやく社会復帰の取り組みも始められているとはいえ、特に精神病院の長期入院者が依然膨大な数に上っている。
 例題のような状況では、(3)のように、まずは事情を聞いてみることが模範的包容行為と言えるだろう。ただ、現代日本では通常的な状況でも、列車で偶然隣り合わせた人と言葉を交わすような習慣は消失しているから、まして錯乱しているらしい人となると、話しかけるにも相当の勇気が要るのはたしかであろうが。
 なお、(4)の「注意して黙らせる」はいささか高飛車な差別回避行為として試してみてもよいだろう。ただし、これは錯乱している人を普段扱い慣れているような人でなければ難しいウルトラ的対応かもしれない。

2011年11月14日 (月)

〈反差別〉練習帳(連載第19回)

実践編

レッスン2:障碍者/病者差別

例題1:
寝たきりで完全介護が必要な障碍者を見ると、かわいそうだと思うか。

(1)思う
(2)思わない

 今日では障碍者を無条件に劣等視するような露骨な差別意識はさすがに克服されていると言ってよいが、重度障碍者を見て「かわいそうだと思う」感覚はまだ根強く残っているのではないだろうか。
 「かわいそうだと思う」ことは、一見すると人道的な共感のようであるが、決してそうではない。「かわいそう」というのは、健常的であることを優等的としたうえで、劣等的な障碍者に憐憫の情をかけることであるから、理論編で見たように、被差別者に利益を与える利益差別の一類型なのである。
 では、「かわいそうだとは思わない」とはどういうことだろうか。当然ながら、障碍者を蔑視するということではない。それは障碍を何ら特別視しないことを意味している。
 私たちは先天的でなくとも、後天的な病気や負傷が原因で寝たきりの重度障碍者となる可能性を持っている。そういう意味で障碍とは、すべての人が潜在的に持つ可能態なのである。
 その可能態が現実化してしまったとき、それはその人にとっての試練となることはたしかである。信仰者ならば障碍を神に与えられた試練として受け止めるであろうし、非信仰者でも自然が生じさせた試練として受け止めることができる。近年、英語圏で障碍者のことをザ・チャレンジド(the challenged:試練を受けた人)と呼ぶようになったゆえんである。かつて障碍者は英語で、ザ・ハンディキャップト(the handicapped)と呼ばれていたが、障碍はもはやハンディキャップですらなくなったわけである。
 もっと進んだ人は、障碍とはハンディキャップでも試練ですらもなく、一つの個性だとより積極的の意味づけをしたいかもしれない。「障碍とは一個の個性である」という標語は、理論編でも見たように、被差別者の劣等意識を克服するための自己治療法の一つととらえることもできる。
 とはいえ、例題のように「寝たきりで完全介護が必要」という重度の障碍をもって「個性」とみなすのはいささか過酷な感を否めない。もちろん、当人が自らの障碍を「個性」と認めている限りにおいては、余計な心配ではあろうが。

例題2:
[a] 出生前に胎児の障碍の有無を判定する出生前診断は、倫理的に許されないと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

[b] ([a]で「考えない」と回答した人への質問)あなたに子が生まれることになったが、出生前診断で胎児の重大な障碍が明らかになった。あなたは妊娠中絶を希望するか(父親の場合は、中絶をパートナーに求めるか)。

(1)希望する(求める)
(2)希望しない(求める)

[c] ([b]で「希望する(求める)」と回答した人への質問)中絶を希望する(求める)理由は何か(自由回答)。

 出生前診断の倫理性をめぐっては難しい議論がある。この診断は、かつて優生学的な見地から行われた出生後の障碍者に対する強制断種のように、障碍者の子孫を根絶やしにすることを目的とするものではなく、あくまでも胎児の障碍が発見された限りで、出産するかどうかを子の両親の判断に委ねるものであるから、生身の障碍者の人権を直接に侵害するような医療技術ではなく、また国レベルの施策でもない。
 けれども、もし出生前診断が産科医療の定番メニューとして定着し、しかも障碍が発見された場合は原則的に中絶する流れができていくと、そもそも先天的な障碍者がほとんど出生しなくなるということも考えられるわけで、これでは先天性障碍者の存在価値を否定するに等しい究極の差別ではないかとの疑念も生まれる。すると、そんな差別的な医療技術はそもそも法的に禁止すべきだとの見解もあり得るところである。
 しかし一方で、妊娠中の女性にとって自身が懐胎した胎児の状態を知ることも、一つの「知る権利」である。かつては胎児の状態を正確に知ることは不可能であったが、今日では超音波検査などの検査技術の進歩により、胎児の状態を正確に把握することができるようになったため、患者の自己情報取得権の一環としての出生前診断を全面禁止とすることも困難になっているわけである。
 これは現代における生命倫理学上の難問と言えるが、その解決は本連載の主題を超えるため、結論は保留としておく。
 ただし、国が障碍児教育・障碍者福祉の経費を節減する目的で、出生前診断とその結果に基づく中絶を奨励するような政策を採用するならば、それは差別的施策として許されないと言える。
 では、仮にあなたが出生前診断自体は倫理的に受け入れているとして、いざ自分の子である胎児に重大な障碍が見つかった場合にどうするかというのが[b]の質問である。
 この場合、中絶を希望する(求める)という人が少なくないかもしれない。ただし、日本では法律上、胎児性障碍のみを理由とする中絶は認められていない。従って、日本の現状、この質問はあくまでも「希望」を尋ねるだけで、実際に中絶するかしないかという問題ではない。
 さて、そういう前提で、中絶を希望する(求める)理由は何であろうか。もし「障碍児は嫌だから」といった理由だとすると、障碍を劣等視する差別的な希望ということになってしまう。また「生まれてくる子がかわいそうだから」というような理由も、例題1で見たとおり、利益差別的である。
 これに対して、「障碍児を育てることは精神的・経済的に困難だから」という理由だとすれば、いちがいに差別的とは言えなくなってくる。障碍児の療育・福祉の制度が不備で、偏見も強い社会風土が放置されている限りにおいては、実際、両親が障碍児を育て切れないということも十分にあり得るからである。
 おそらく、障碍者全般を取り巻く環境が変革されていけば、多くの人が障碍児を産み、育てることをごく自然に受け入れるようになるであろう。その意味で、この問題は障碍をめぐる〈反差別〉の全体状況と密接な相関関係にあると言えるのである。

2011年11月11日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第18回)

実践編

レッスン1:容姿差別

〔まとめと補足〕

 容姿差別はあらゆる差別の出発点に位置するということは理論編でも議論した。この点は差別問題を扱う専門書などでもあまり指摘されていないことなので、改めて強調しておきたい。実際、後々見ていくように、一見すると容姿と無関係と思われる事例でも、解析していくと容姿差別の要素が認められる場合がある。
 なぜ容姿差別があらゆる差別の出発点かといえば、人間は視覚的情報に依存する度合いが高い「見る」動物であり、他の人間を認識・評価するにあたっても、まずは「見た目」から入ってしまう傾向を免れないからであった。
 ただ、人間の容姿に関する美/醜の価値基準に世界共通の絶対的な尺度があるわけではなく、各民族・部族の伝統的な美意識が文化的な尺度として機能しているにすぎない。従って、同じ人間の容姿が別の民族・部族の尺度では全く正反対の評価を受けるということもあり得るわけである。
 しかし、今日では人間の容姿に関わる美/醜の価値基準を芸能プロダクションと呼ばれる資本が掌握する傾向が著しく高まっている。こうした芸能資本が男女の芸能人の商品カタログを提供し、美/醜の相場がこれによって規格品的に決められていくわけである。人の容姿を評するのに、「○○似」というように実在する芸能人との比較が持ち出されたりするのもそのためである。
 この相場表にあっては、もはや文化的な美意識よりも、人間=商品として芸能市場へ出荷できるかどうかがポイントとなるから、画一的であり、かつ男女不問で、男性の容姿も査定対象となる。
 この点で、伝統的な美意識による評価では、主として女性の美/醜が問題とされてきた―そこには、女性を男性の目を保養する対象物とみなす慣習的な男女差別が潜んでいたであろう―のに対し、男性の容姿も問われることはある意味での「男女平等」なのであるが、それはとりもなおさず、人間の容姿差別(選別)が無差別的に行われる土壌を作り出すことにほかならないという点では恐るべき事態でもあるのだ。
 容姿差別の厄介さは、多くの場合表面化しないということにある。従来から企業・団体等における女性職員の採用に際して容姿が「裏基準」となっていないかということが疑われてきたが、まさしく「裏基準」となっている場合、証拠が残らないので、法的な追及も困難である。
 まして、学校や職場で日常的に生起する容姿差別の多くは陰口や態度等による嫌がらせのような陰険な形態(陰口・嫌がらせの電子版としての中傷メールやインターネット上への中傷的書き込みを含む)を取ることから、被差別者当人も気がつかないことさえある。
 また、容姿差別は、理論編でも見た反転的差別の形を取りやすいことも、この差別を深刻なものとする。すなわち、自分自身の容姿に劣等意識を抱く者ほど、自分より劣等的な容姿の者を「発見」すると、自身の劣等意識の反転作用として差別行為に出るのである。
 こうした容姿差別は、根の深い根源的な差別であるがゆえに、その克服のためには、法的救済もさりながら、「内面性の美学」「全盲の倫理学」を学校教育を通じて全社会成員に教化していくことが重要である。
 ここで、理論編でも紹介した日本古来の格言「見目より心」に加え、ラテン語のより実際的な格言「Fronti nulla fides.(見た目は信用できない)」も挙げておこう。

2011年11月10日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第15回)

第3章 略

五 古代朝鮮の展開

(1)国家形成から漢の植民まで
 今日では「単一」とみなされている朝鮮民族も出発点においては大きく韓族系と扶余族系とに分かれていた。神話によると、朝鮮半島最古の国家形成は前2000年代に遡るという檀君朝鮮であるが、実際上の国家形成は早くとも前3世紀代のことと考えられる。
 すなわち、中国戦国時代の燕が前284年に遼東半島方面に進出し、遼東郡など5郡を設置した際、付近にいた韓族系の辰韓族と弁韓族とが朝鮮半島内へ南下移動し、連合して漢江流域に辰国を建てたとされる。
 その後、前3世紀末に前漢が成立するが、当初遼東半島に分封された燕王・盧綰[ろわん]が匈奴内通の嫌疑をかけられ匈奴の下へ亡命し、遼東地方に漢軍が進駐してくると、同地方の燕人が流民として朝鮮半島内へ押し寄せてきた。
 その一人が武人の衛満で、当時平壌に都を置いていたという箕子[きし]朝鮮の国境守備役に任ぜられたが、前194年から180年頃に箕子朝鮮を転覆して自ら衛氏朝鮮を建てたとされる。
 しかし、到来した殷の王子・箕子が檀君朝鮮から「国譲り」を受けて建てたとされる箕子朝鮮は『史記』にしか登場しない伝説的存在である。おそらく衛氏朝鮮とは、燕の亡命軍人衛満がまだ国家形成前夜にあった現地の韓族らを糾合して建てた地方政権であったろう。
 ただ、衛満の民族籍は漢族でなく、韓族であったとする説も有力である。そうだとすると、彼は燕に傭兵として雇われていた韓族であったとも考えられる。
 いずれにせよ、衛氏朝鮮は前108年、前漢の武帝によって滅ぼされ、楽浪郡ほか4郡が設置されたことは二で述べたとおりである。
 ただ、現地民の抵抗も根強く、4郡は前75年までには楽浪郡に統廃合されることとなった。その楽浪においても現地民の反乱を機に自治方式に転換されていった。
 一方、中国東北部に根拠地を持ち、女真族とも同系のツングース民族に属するとする説もある扶余族は、遅くとも前1世紀初頭頃までには農安付近に部族国家を建てていたようであるが、その詳細はよくわかっていない。ただ、同世紀中頃になって、後に高句麗を建てる勢力が分離していった後も扶余国として存続し、同国は楽浪郡の支配領域の外にあって独立を保ったようである。

(2)三韓と高句麗の成立
 楽浪郡の支配が大同江流域にまで及ぶと、その付近を本拠としていた韓族系の馬韓族―その少なくとも一部は衛氏朝鮮を構成していたと考えられる―が南下移動を開始し、辰韓‐弁韓系の辰国を解体させたため、辰韓族・弁韓族は半島東南部へ再移動して、今度は別個に辰韓国と弁韓国を建てた。一方、馬韓族は漢江西南を南下して今日の全羅北道益山付近に目支国を建て、これが後に馬韓国となる。
 こうしておおむね紀元前後までには韓族系のいわゆる「三韓」が成立したと考えられるが、この三つの「国家」は辰韓・弁韓が各12、馬韓は54にも及ぶ小部族国家の連盟体的構造のものであって、統一的な領域国家ではなかった。ただ、この中では構成国が最多の馬韓が優勢を誇ったようである。
 一方、扶余族の側にも変動があった。先述したように、前1世紀中頃、扶余国の内紛から一部勢力が分離して南の卒本地方に新たな王国(卒本扶余)を建てた。これが半ば伝説的な朱蒙を始祖とする高句麗の前身である。
 扶余族は元来遊牧民ではないが、高句麗が建てられた卒本地方は農耕に適さなかったことから、高句麗は強力な騎馬軍団を擁する征服国家として成長していった。そして、根拠地をさらに南の集安に移して周辺部族を征服・糾合するとともに、楽浪郡をもしばしば攻撃し、東方における歴代中国王朝の主敵となった。

(3)三国攻防時代
 高句麗は後漢滅亡後、三国時代の魏と遼東半島の支配をめぐって争い、一時は敗退し勢力を失った。しかし、中国側も三国時代から五胡十六国時代の分裂状態に突入する中で、高句麗は勢力を立て直し、313年にはついに楽浪郡を滅ぼし、漢の勢力を半島から駆逐した。
 ところが、342年、鮮卑族慕容部が建てた五胡十六国の一つで東北部進出を狙っていた前燕の侵攻を受け、王母・王妃らが捕虜5万人とともに拉致される惨敗を喫した。
 一方、高句麗から分離した朱蒙の子・温祚[おんそ]が南下して馬韓の領域内に建てたとされる伯済国(百済)が3世紀中頃から台頭し、近尚古王代の369年には馬韓の南端を除く大部分を征服して強盛化した。北進策を進める百済は371年、平壌で高句麗と対戦し、故国原王を戦死させた。この結果、百済は朝鮮半島西半部を基盤に半島の覇権を握る。
 しかし、高句麗は間もなく国力を回復し、好太王(広開土王)の下で積極策に出る。そして、4世紀末には百済との戦いで決定的勝利を収め、百済王に臣従を誓わせて覇権を奪取し、領土を南北に拡大した。
 さらに、後を継いだ長寿王の下で首都を平壌に遷して躍進を続け、472年には百済の首都漢山を攻略・陥落させ蓋鹵[がいろ]王を殺害した。百済は都を南の熊津[ゆうしん/コムナル]に遷して亡命政権を建てることを余儀なくされた。これによって、高句麗は朝鮮半島の覇者となった。
 一方、辰韓の領域では4世紀中頃から斯蘆[しろ]国が台頭したが、軍事的にはまだ弱く、百済の圧迫や倭のたび重なる侵攻にも悩まされていたので、当初は高句麗、次いで百済と同盟して自衛していた。
 しかし、6世紀に入って国号を正式に新羅と定め、防衛力を強化して積極策に出る。特に百済と南部の弁韓地域(加耶諸国)の権益を争うようになり、6世紀半ば過ぎまでには同地方の大半を征服した。
 また6世紀半ばの真興王の時代には、百済と合同で漢江上流地域を高句麗から奪回しておきながら一転百済を駆逐して占領したうえ、北進して中国東北部にも進出するなど、強盛化の兆しを示した。
 以上の三国はまた、南北朝時代の中国とも冊封外交の関係を持ち、高句麗は北朝(北魏)を軸としつつ、南朝からも冊封を受ける巧みな二股外交を展開したのに対し、百済は南朝一辺倒の方針を採った。新羅は同盟相手の変更に伴い、北朝から南朝へ動いていた。
 なお、弁韓地域は小国分立状態が続き、強力な統一国家は現れなかったが、当初は沿岸部の金官加耶国が盟主格であったのに対し、5世紀後葉以降は内陸部の大加耶国が盟主格となったと見られる。しかし、前述のように、その大半は6世紀半ば過ぎまでに新羅に併合された。

(4)統一新羅から高麗へ
 新羅が同盟国・百済に背信行為を働いたことは、百済を改めて宿敵・高句麗との同盟に走らせ、新羅を孤立させる結果となった。そこで、新羅は百済・高句麗の頭越しに中国側の隋唐との同盟に動いていく。
 しかし、二で述べたように、隋は高句麗遠征の失敗を契機に滅亡する。続く唐に対して高句麗は当初宥和策を採ったが、反唐派のクーデターで国王が交代すると、それを口実として唐の太宗は高句麗征討を断行した。しかし、高句麗の反撃で唐はいったん退却した。
 ここで、唐と半島統一を視野に入れ始めた新羅の利害が一致し始める。この後、百済・高句麗の新羅に対する攻勢も強まっていた。新羅は独力で対処できなかったため、唐の軍事援助を必要としていた。
 654年に武烈王として即位する王族・金春秋の対唐同盟工作が功を奏した結果、唐‐新羅連合軍は660年に百済を、武烈王没後の668年には高句麗をも滅亡させることに成功した。
 そのうえで、新羅は朝鮮半島支配を狙う唐に一転矛先を向け変え、676年までに唐勢力を駆逐することに成功した。そこで、この年をもって新羅が朝鮮半島全土を掌握した統一新羅の起点とする。しかし、この時点で新羅が実効支配していたのは大同江・元山湾の北限線までであり、それさえ唐側が承認したのはようやく玄宗時代の735年のことであった。
 一方、高句麗支配下にあったツングース系靺鞨[まっかつ]族の一派粟末[ぞくまつ]部は高句麗遺民を吸収しつつ、中国東北部を根拠地に698年以降、震国(713年以降は玄宗から渤海郡王を授爵され、渤海と号する)を建て、926年に契丹に滅ぼされるまで、唐と新羅にはさまれながら、日本と結び、「海東の盛国」と称された唐風の律令制国家として栄えた。
 このように統一新羅の出発は安泰ではなかったが、ともかくも朝鮮三国の中で最も後発だった新羅が半島初の統一国家として10世紀初頭まで存続していく。
 新羅の領土国家としての発展が遅れた理由として、この国では骨品制度という血統に基づく厳格な身分秩序と部族連合体的な性格が根強く残ったことがあった。しかし、統一前から徐々に集権化を進め、統一新羅前期の景徳王代(742~764)に唐風の律令制国家が整備されるかに見えた。
 ところが、これに先立って行われていた唐の均田制に相当する土地改革は早くも景徳王代から後退し始めており、新羅では公地公民の原理や租庸調制のような律令制的収奪体制は結局確立を見なかった。
 そのうえ、景徳王没後には、反律令制的な守旧派貴族層の反乱が起こり、国王の威信は低下し、再び貴族連合体的な性格が現れる。国王・貴族が権力闘争に明け暮れる中、9世紀に入ると、地方豪族が海上貿易を通じて富を蓄積した大商人層として中央政界にも進出し、王の廃立も左右する一方で、農村部では大土地所有者の土豪・貴族が城を拠点に私兵を擁して農民の搾取を強化した。
 9世紀末、財政難に陥った中央政府が徴税強化に踏み切ると、農民が蜂起する。889年、元宗・哀奴[あいぬ]の乱を契機に各地で農民反乱が続発し、これに地方豪族が絡み、統一新羅は瓦解の様相を呈した。
 10世紀初頭には後百済、後高句麗が相次いで建国され、統一新羅は終焉、後三国時代と呼ばれる短い三国時代が再現される。このうち後高句麗では新羅王子出身の建国者・弓裔〔きゅうえい〕が暴君化したため、松岳の海商豪族出身の部将・王建がクーデターで王位に就き、郷里の松岳(開京)を都に改めて高麗を建てた(918)。
 王建(太祖)は地方政権として残存していた新羅には懐柔策で臨み、935年、新羅から禅譲を受けることに成功した。唐(907)、渤海(926)に続く新羅の終幕であった。翌936年、王建は後百済を武力で滅ぼし、全土統一を達成した。
 高麗王朝は太祖の出自からしても商人豪族を支持基盤とする豪族連合体的な王朝としてスタートした。しかし、新羅のような骨品制度の制約を受けることはなく、当初は新羅が導入を試みながら成功しなかった律令制的貴族政治を継承発展させていった。958年には科挙制度も導入した。
 土地制度に関しても、かつて新羅が試みて挫折した官僚層に対する土地支給制度として田柴科[でんしか]制を導入した。この制度の下で、官僚貴族は官等に応じて農民付きで土地を支給され、二分の一の地租を収奪することが認められた。しかし、このような制度はやがて荘園化していくことを避けられないであろう。
 前述のように、高麗王朝は「商人王朝」でもあったため、王都・開京は商業都市として繁栄し、新羅時代以来の中国沿岸部や日本との海上貿易はいよいよ盛んに行われた。こうした高麗前半期の安定と繁栄は11世紀をピークに12世紀前葉頃まで続いていく。

2011年11月 8日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第17回)

実践編

レッスン1:容姿差別(続き)

例題3:
[a] あなた自身が容姿の醜さゆえに差別されているとする。あなたはそのことを恥じるか。

(1)恥じる
(2)恥じない

[b] 自分の容姿を良くするために美容整形手術や体型向上策などを試してみたいと思うか。

(1)思う
(2)思わない

 これは理論編でも差別の深刻な要因として検討した自己差別に関わる例題である。[a]の問いに対して「恥じる」と回答する人は、自分で自分を劣等視している。
 容姿に関するこうした自己差別は普遍的に見られる現象である。であればこそ、美容整形手術をはじめとする様々な美容術が商業的に提供され、中には医学的に危険な施術や薬物によって命を落とす人も跡を絶たないありさまである。生命まで丸ごと自己を疎外してしまっているのだ。
 こうした自己疎外状況から抜け出すには、理論編でも指摘したように、まず自己差別は他者による差別を下支えしていることへの鋭い自覚が必要である。つまり、自分の容姿に対する劣等意識を持つことは容姿差別を助ける共犯行為なのである。 
 では、容姿を矯正するための各種方策は、絶対的なタブーとみなすべきなのか。そうではない。[a]の問いに対して、自分自身の容姿を「恥じない」と回答しつつ、[b]の問いに対しては容姿を矯正するための方策を「試してみたいと思う」とするのは決して矛盾ではない。こうした行動は、理論編でも見たように、差別からの自衛行為として認めることができる。特に、顔面に大きなあざやこぶがあるとか、明らかに病理的な低身長、肥満など、医学的な治療の必要性・有効性があるような場合である。
 それ以外の審美的な観点からの矯正の場合でも、果たして自分の容姿を恥じて矯正するのか、恥じないが自衛的にそうするのか自身の中でも区別が微妙な場合があるかもしれないが、理屈のうえで両者は区別することができるし、区別すべきものでもある。

例題4:
あなたが病気やけがで全盲になったとする。あなたが今、向かい合っている人がどのような人かをどのような方法で判断するか(自由回答)。

 この問いは全盲者に聞いた方が早いだろうが、まずは想像してみていただきたい。全盲であれば、向かい合っている人がどんな容姿なのか知る術はないので、容姿で判断することはできない。どうしたらよいだろうか。
 耳が聞こえる限り、耳を使うこと、すなわち聴くことである。まずは見えない眼前の相手と話してコミュニケーションを取ることで、相手がどのような人なのかを合理的に推測する以外にない。
 ここで、理論編で検討した「全盲の倫理学」を思い出してみたい。全盲の人は視覚が閉ざされているからこそ、聴覚をフル活用したコミュニケーションによって人間の価値判断をする。このことを有視覚者にも課することが「全盲の倫理学」の実践であった。
 その場合、前回見た例題2のように、人生の伴侶を選択するにあたっても、容姿は全く考慮の外に置き、容姿以外の条件だけで判断されなければならない。実際、そうした方が結婚詐欺被害にも遭わなくてすむのでは??
 なお、本例題では自分自身が病気やけがで全盲の視覚障碍者になった場合を仮定したが、このように我が身に引き寄せて考えてみるという思考実験も、反差別の実践において有効である。これについては障碍者/病者差別に関する次のレッスン2で改めて取り上げる。

2011年11月 4日 (金)

世界歴史鳥瞰(連載第14回)

第3章 略

四 唐の滅亡とその後

(1)唐滅亡まで
 唐は安史の乱をどうにか乗り切ったのであるが、この事件の残した傷跡は大きく、この先10世紀初頭の滅亡までの期間は滅亡へ向けての長いカウントダウンであったと言って過言でない。
 そもそも乱の前から唐の社会体制には大きな限界が現れ始めていた。その最大のものが均田制・府兵制の行き詰まりであった。均田農民の府兵負担は重く、土地を捨てて逃亡する逃戸の増加が社会問題化していたのだ。玄宗の開元の治の時期には、逃戸を新たな戸籍に入れ直す括戸政策が施行されたが効果なく、740年には府兵制が廃止され、職業的兵士を公募する募兵制に改正された。
 安史の乱を経ると、均田制・租庸調制は全面的に行き詰まる。780年には各戸を単位に土地に課税し毎年夏と秋に徴収する両税法が導入された。この改革は、その内容からして公地公民の理念を転換し、土地私有を認めたことにほかならず、ここに均田制・租庸調制は解体されたのである。
 これによって、かねてより王朝貴族化していた旧地主豪族に代わって、新たに土地を集約して大土地所有者となった新興地主層が出現する一方で、土地を手放した没落農民はこれら地主の下で小作農(佃戸)として搾取されるようになった。
 もう一つの限界は羈縻政策に関わるものである。この政策の下で唐に服属していた民族の自立化が活発になったのだ。その先駆けはトルコ系の突厥であった。かれらはかつての匈奴の衰亡後6世紀前半にモンゴル高原に強大な遊牧国家を建てた騎馬遊牧民族であるが、同世紀末の内紛で東西に分裂した後、東突厥はいったん隋に破られ服属していたところ、隋滅亡後に再び自立化したのを唐の太宗が撃破して羈縻支配下に置いていた(中央アジアに展開した西突厥は太宗により撃滅された)。この東突厥が682年にまたも自立化し、モンゴル高原で強大な遊牧国家を建てたのだ。
 玄宗時代には辺境の防衛強化のため、十節度使を設置し、兵権のほかに管轄地の民政・財政権も含む大幅な権限を付与した。安史の乱を起こした安禄山もこの節度使の一人であった。
 また8世紀に入ると西アジアに台頭したイスラーム勢力の中央アジア進出が始まり、安史の乱直前の751年には中央アジアのタラス河畔の戦いで唐軍がアッバース朝軍のために大敗を喫した。これは唐の西域支配にとって打撃となる大事件であった。
 安史の乱後、唐では内地の治安維持のためにも節度使を設置するようになり、30以上の節度使が増設され、長安や洛陽など大都市以外のほとんどの地域が節度使に属し、節度使の権勢がとみに強まった。
 9世紀に入ると宦官が増長し、皇帝の廃立も操り、皇帝の威信は低下していった。9世紀後半に体制が危機的状況に陥ると、875年、黄巣が指導する民衆反乱が勃発する(黄巣の乱)。この黄巣が塩の密売人にして科挙落第者でもあると言われることは象徴的である。
 塩に関しては安史の乱の頃から財源確保のため専売制が導入され、高価な塩が民生を圧迫したため、安価な塩を扱う闇商人が横行するようになっていたのだ。
 一方、科挙は実力主義といいながら、わずかな合格者しか出さない超難関のため、受験生活を断念せざるを得ない者が跡を絶たず、そうした科挙落第者が不満分子として体制に反抗することは後代にも見られた現象であった(遠く清末に太平天国の乱を起こした洪秀全もその一人)。
 唐はこの民衆反乱の鎮圧に10年近くを要した末、884年の鎮圧後は各地の節度使が独自の軍政機構である藩鎮を権力ベースとして自立化し、体制は分解した。
 そうした中で907年、黄巣軍から寝返って乱の鎮圧に功績のあった節度使・朱全忠が唐を滅ぼし、ここに唐は300年近い歴史に幕を下ろした。

(2)五代十国から宋へ
 唐を打倒した朱全忠は根拠地の開封を都に後梁を建てた。しかし長続きせず、華北では約50年間で節度使系のほか突厥系を含む地方王朝が交替を繰り返し(五代)、他の地域でも小王朝が10国ほども乱立した(十国)。
 一方、北方では突厥→ウイグル→キルギスとトルコ系遊牧民間で覇権交代が続いた後、鮮卑族と同様に東胡から派生したと言われる遊牧・狩猟民の契丹族が台頭し、部族統合に成功した耶律阿保機〔やりつあぼき〕(太祖)が916年、内モンゴルの上京臨潢府[りんこうふ]を都に遼を建国した。
 遼は北方と西方で急速に領土を拡大した後、936年には五代王朝の三代目後晋の建国を助けた報償として燕雲十六州(河北省及び山西省の一部)を割譲させて華北進出を果たし、946年には後晋を滅ぼして一時華北全域に支配を広げたが、民衆の抵抗により翌年には部分撤収を余儀なくされた。
 遼は自民族のような遊牧民には部族制を、漢人ら農耕民には州県制を適用する一国二制度体制で臨んだが、このように外部勢力が南北朝時代の北魏やそこから派生した隋唐のように漢化政策によらずに異民族支配の形態で中国を支配したのは遼が初めてであり、その支配政策は後の異民族王朝である金(女真族系)や元(モンゴル帝国)にも影響を及ぼしたのである。
 さて、五代最後の後周では皇帝世宗死去後に軍司令官であった趙匡胤〔ちょうきょういん〕が配下によって君主に推戴されるという政変があった。彼は、960年、後周から禅譲を受けて皇帝に即位、開封を都とする宋(北宋)を建てた。宋は太祖趙匡胤と弟の二代太宗の治世中に各地の地方軍閥勢力の無力化を進め、979年に全土統一を果たした。
 宋にとって最初の課題は、節度使の権力基盤となっていた藩鎮の全面的な解体と五代十国時代を特徴づけた武断政治の一掃であった。そのために、藩鎮が保持した行政・財政権は回収されていき、州県の長官には中央派遣の文民が充てられるとともに、軍隊は皇帝直属軍(禁軍)に一本化された。さらに、宋自身が武人によって建てられた王朝でありながら徹底した文民優位の体制(文治主義)が目指された。文民優位は軍事参謀機関である枢密院の長官にも文民を充てるほど徹底された。
 こうした文治主義の土台の上に皇帝権力の強化が図られた。それを象徴するのが科挙制度の改正である。すなわち従来の科挙では地方レベルでの州試と中央レベルでの省試の二段階選抜で実施されていたのを、新たに皇帝自ら試験官として出題し、合格者の成績序列も決める最終試験の殿試を加えた三段階選抜に改められたのである。これによって皇帝と官僚は緊密に結ばれ、皇帝中心の文民官僚体制が構築されていった。
 こうして厳しさを増した科挙試験を突破できたのは、主として唐末以来形成され、宋時代には形成戸と呼ばれるようになった荘園を所有する新興地主の子弟たちであった。中でも官僚を出した家は官戸と呼ばれ、やがて地主‐官僚‐知識人を兼ねた士大夫と呼ばれる新たな前ブルジョワ的支配階級を形成するようになる。
 こうした宋の徹底した文治体制は当然にも軍事力の弱化を招き、対外的には消極策を余儀なくされた。そのため、遼からの燕雲十六州奪回も成功せず、かえって両国は宋を兄とする兄弟関係を結び、毎年多額の金品を遼に供与する代わりに両国国境の現状維持を保証し合う和約を締結させられた(1004)。またオルドス地方に興ったチベット系西夏との関係でもこれを撃破し切れず、西夏が宋に臣下の礼を取る見返りに毎年多額の金品を供与する和約を締結した(1044)。
 こうした文治体制とその代償としての対外消極策は、官僚機構と最大時80万人にも達した禁軍の膨張、さらに遼や西夏向けの外交費用の増大などによる財政難と軍事力弱化を深刻化させた。
 そこで11世紀後半、第6代神宗の時、科挙官僚出身の宰相王安石の指導で根本的な富国強兵のための改革が試みられたが、それは大地主・大商人の特権に切り込むものであったため激しい抵抗に直面した。官僚の間でも改革を支持する新法党と反対する旧法党の対立が激化し、安石の死後旧法党が勝利して新法の大半は撤回された。
 こうした反動の結果、財政危機は再燃し、農民の困窮も進み、12世紀に入ると穀倉地帯江南全域で大規模な農民反乱(方臘[ほうろう]の乱)が勃発した。もはや宋の衰退は明白であった。

(3)宋金共存時代
 その頃、北方でも大きな変動が起きていた。遼が皇室の内紛から混乱に陥る一方、長らく遼に服属してきた中国東北部を本拠とするツングース系女真族が完顔〔ワンヤン〕部族長・阿骨打〔アグダ〕に率いられて独立し、上京会寧府を都に金を建国した(1115)。
 金は1125年、燕雲十六州の奪回を狙う宋と組んで遼を滅ぼした。ところが戦費支払いなどをめぐる紛議から、金は宋にも矛先を向け、翌年宋の首都開封を攻め、皇帝ほか皇族・重臣3000人以上を拉致した(靖康の変)。
 これにより、華北は金に占領され、宋は瓦解したが、皇帝の弟・趙構は江南へ亡命して皇帝に即位し、臨安(杭州)を都に宋を再興した(南宋)。以後、南宋では金に対する和平派と徹底抗戦派の間で対立が生ずるが、和平派が勝利し、1142年に至り、南宋は金に対し臣下の礼を取るとともに毎年多額の貢納をするという屈辱的な条件で講和した(紹興の和議)。
 こうして南宋が華北を完全に放棄する苦渋の選択をしたことで、両国関係はおおむね安定し、以後金がモンゴル勢力のため一足先に滅亡させられるまで、100年近く宋金共存の時代が続く。
 この間、南宋は五代時代以来農業生産と商業の中心地として発展していた江南に根拠を構えて繁栄した。一方、金は間もなく都を燕京(北京)に遷して中国文化を受容し、遼の一国二制度体制を継承しつつ、中国風専制王権の性格を強くしていったのだった。

2011年11月 2日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第16回)

実践編

レッスン1:容姿差別

例題1:
あなたが道を歩いていた時、向こうから低身長かつ肥満で、顔もひどく醜い人(性別は問わない)が歩いてきて、すれ違った。あなたならどうするか。

(1)視線をそらす
(2)視線を当てる
(3)あざ笑う
(4)つばを吐く
(5)その他(自由回答)

 この状況設定では、(3)と(4)が差別行為と言える。特に(4)は差別的意図をもって相手に侵害行為をしかけるものであるから、軽微とはいえ一種のヘイト・クライムに当たる。
 それに対して(3)の「あざ笑う」はそれ自体として違法性はないが、明らかに相手の容姿の悪さを侮辱する身振りであるので、態度による差別行為である。
 微妙なのは(2)。好奇の視線は蔑視とは異なるので、きわどいところで差別性を免れている。しかし、容姿が変わっていることを「奇」として視線を当てるのは差別まであと一歩の前差別行為である。
 一般に、見知らぬ人からの好意的でない視線は心理的圧迫になる。「見られている」ということへの過剰な意識から、他人の視線が気になって外出することもできなくなることさえある。こうした状態を精神医学では「視線恐怖症」などと呼び、精神疾患に分類する。ただ、容姿差別が社会に遍在している限り、視線恐怖には根拠体験がある場合も少なくない。単なる「気のせい」ばかりではないのだ。
 その意味からしても、(1)の「視線をそらす」は本例題の(1)から(4)までの選択肢の中では相対的に最も無難な差別回避行為であって、せめてこれを選択したい。要するに、「見て見ぬふり」ということで、差別的状況からの逃げではあるのだが、本例題のように未知の相手と全く偶然に出会ったというシチュエーションではこのような逃げも一つの良識的な行為と評価できよう。
 ただ、最も適切な差別回避行為はそもそも相手を「見ない」ということである。本例題は「向こうから低身長かつ肥満で、顔もひどく醜い人が歩いてき(た)」とあるから、通りすがりの知らない人の容姿をあなたがしっかりと「見た」ことが前提とされている。
 しかし、そもそも通行人を「見る」必然性はあるのだろうか。筆者の印象によると、日本人は通行人をよく「見る」のに対して、外国人はほとんど見ない。この理由はよくわからないが、日本人は前近代以来、相互監視の習慣を身につけさせられていて、何らかの異分子を「発見」しようとすることが無意識の癖となってはいまいか。そうだとすると、このような心の性癖は差別を助長する要因となると言えるだろう。異分子は差別の標的となりやすいからである。
 さて、本例題に関して模範的な包容行為と言えるのは、「見ても何とも思わない」である。(5)を選択してこのように自由回答された方は素晴らしい。
 「低身長かつ肥満で、顔も醜い」という容姿の人を劣等的とまなざす価値観・意識はおそらく人類共通に近いかもしれない。このように特定の人間をただ外見だけで劣等視するということこそ、あらゆる差別の出発点となる。従ってまた、この価値観・意識を変えることが差別克服の出発点でもあるわけである。その意味で、例題1はつまらないことのようでいて極めて重要である。

例題2:
[a] あなたの結婚相手として、容姿以外の条件に関してはどちらも申し分ないが、容姿が醜い甲と、容姿が抜群の乙の二人の候補者がいるとして、どちらを選ぶか。

(1)甲
(2)乙
(3)どちらも選ばない

[b] [a]の事例で、容姿以外の条件に関しては容姿の醜い甲のほうが容姿抜群の乙を上回っているとしたら、どちらを選ぶか。

(1)甲
(2)乙

 [a][b]いずれの場合でも、甲を選んでくださった方は尊敬に値する。世界の人々が一人残らずあなたのような人であったなら、差別はまさに根絶されるであろう・・・。
 現実には、かなりの人が容姿抜群の乙を選ぶであろうし、容姿以外の条件に関しては容姿の醜い甲が上回っている[b]の場合ですら、少なからぬ人が容姿抜群の乙を選好すると予想される。
 ただ、[a]のように容姿以外の条件が同等という場合に容姿抜群の乙を選択したからといって、直ちに差別だとは言えないだろう。なぜなら、他の条件が同等のときには容姿の醜いほうを選択しなければならないとしたら、結婚という出来事の性格上、それも不当だからである。
 ならば、究極の選択として甲も乙も配偶者にしてあげたいという包容的な人もおられるかもしれないが、日本のように一夫一婦制の国ではそれも不可能である。そこで、甲も乙も回避して、別の第三の候補者を探すという選択肢も苦肉の差別回避行為と言えるだろう。
 これに対して、[b]のように、容姿以外の条件では容姿の醜い甲が上回っているにもかかわらず、甲を捨てて容姿抜群の乙を選択するというのは、明らかに甲の容姿を劣等視してあえて容姿以外の条件の良くない乙を取るという選択であるから、差別行為と言わざるを得ないのである。
 ちなみに、[b]の事例では[a]のように「どちらも選ばない」という回避策の選択肢を封じておいた。[b]の事例では甲か乙のいずれかしか選択できないというのは少々意地悪な選択肢の作り方であるのだが、あえてそうしたのは、この事例でもなお乙を選択することの差別性をはっきりさせるためである。

〈反差別〉練習帳(連載第15回)

実践編

━はじめに━

 本連載実践編では、これまで理論編で検討してきたことをもとに、具体的な例題を用いながら〈反差別〉の練習を試みていく。ここからが「練習帳」たる本連載の本題となる。
 理論編ではそもそも差別とは何かということや、差別をいかにして克服するかといったことを概論的に検討したのであるが、それだけでは差別を克服することはできない。差別を真に克服するためには、私たち一人ひとりが日常的な場面で差別的状況に直面したときにどう対応したらよいかということに関する一定の練習を積む必要があるのだ。
 そこで、実践編では私たちが身近に経験しそうなシチュエーションを設定した具体的な例題を主要な素材としながら、〈反差別〉の練習をしていく。
 この練習は全部で10のレッスンから成り立っている。それぞれのレッスンは現代社会で生起しやすい代表的な10個の個別的な差別事象、すなわち(1)容姿(2)障碍者/病者(3)人種/民族(4)外国人(5)犯罪者(6)職業(7)同性愛者(8)性差(9)能力(10)年齢の各差別に各々対応している。
 各レッスンの例題の多くは、具体的な場面で自身がどう対応するか、考えるかというアンケート方式になっているので、さしあたりは感覚的な判断で回答していただければ結構である。
 結果として、「差別的」な回答を選択してしまったとしても恥じる必要はない。なぜなら、差別とは誰もが一つや二つは必ずやってしまうものだからである。それほど差別は日常至る所に遍在している。
 「まえがき」でも述べたように、大切なことは、そうした差別を恥じたり、糾弾したりする前に、まず差別を「差別」と意識したうえで克服する心の習慣を身につけることである。
 ちなみに、レッスン1からレッスン10までの並び順は差別という事象の根本的な要因である視覚的表象(いわゆる見た目)に基づく差別の典型的な例から順に並べたもので、必ずしも差別事象としての発生頻度とかトピックとしての重要度による順位付けではない。
 しかし、私見によれば、差別事象としての根の深さの度合いは、その差別がどの程度視覚的表象に直接依存しているかということに比例するので、初めのほうのレッスンほど抜き差しならぬ差別事象に関わっていると言ってよいであろう。そういう意味で、各レッスンの順番は絶対的なものではないが、一応本連載の問題関心に沿って並べられている。

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