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2011年10月 1日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載第9回)

理論編

五 差別と言葉(続き)

命題19:
どのような文脈で用いても直接に差別語となることはないが、言外に差別的なニュアンスを含む前差別語の使用も差別的価値観の浸透を助ける。

 こうした前差別語の典型例は「黒人」である。この言葉は前差別語というよりも差別語そのものだとみなす見解もあるかもしれないが、さしあたりマス・メディアなどでも公式に用いられており、明らかに差別語とは言い難い。
 とはいえ、「黒人」とは肌の黒さをことさらに強調する言葉であり、対語となる「白人」と対照させて使用された場合には、肌の色が人間にとって重要な意味を持つという人種主義の価値観を支える用語ともなる。そうした点では差別の一歩手前まで行くという意味で、前差別語なのである。
 他に微妙な例としては、「外国人」や「犯罪者」といった言葉がある。どちらも、法令上でさえ用いられる言葉であるが、それが使用される文脈によっては差別的なニュアンスが発生する。
 例えば、「外国人風の二人組の強盗」といった表現は直ちに差別的とは言えないが、外国人と犯罪とが暗示的に結びつけられることによって外国人を差別する価値観を支えることになりやすい。まして、「外国人」と「犯罪者」が結合されて「外国人犯罪者」という合成語ともなれば、相当露骨に外国人差別の価値観を助長する前差別語となる。
 また、「犯罪者の味方をする弁護士」という表現も、犯罪者というものを本来法的弁護にも値しない人間失格者とみなす価値観を助長することになる。
 一方、本来は前差別語ではないのに、国の漢字政策のあおりで前差別語の性格を持たされてしまった不幸な言葉が「障害者」である。
 こうした前差別語を差別語と同様に禁句とすることは困難であるが、乱用されれば差別的価値観の流布を助けることになりかねない。そこで、前差別語を別の表現で言い換えることを通じて、行論上特に必要のない限り、極力使用を控えていくことが必須とは言わないまでも、望ましいであろう。
 例えば、「黒人」は「アフリカ系米国人」または「アフリカ人」(国籍がわかる場合は、ケニア人とかナイジェリア人などと表記)など、「外国人」は「外国出身者」、「犯罪者」は「犯罪をした者」(または「罪を犯した者」)などである。「障害者」は近年、「障がい者」と一部平仮名表記をすることが多くなってきているが、これは「碍」または「礙」の字が当用漢字でないことによる便法である。
 こうした言い換えによっても、意味的にはさして変わらない場合もあるが、言い換えることによって前差別語としてのニュアンスが消去されるのである。

命題20:
差別語を使用しないが、内容上差別思想の表現である差別言説は、個々の差別語以上に人々の意識に差別的偏見を植え付ける可能性がある。

 前回冒頭でも指摘したように、差別は個々の単語にとどまらず、ひとまとまりの言説に高められ流布されていく。
 そうした差別言説の最も初歩的なものとして、例えば「黒人には犯罪者が多い」「男は女より精神力が強い」「精神障碍は遺伝する」などがある。
 こうした言説では差別語は使用されていないにもかかわらず(一部に前差別語を含む)、それぞれ黒人や女性の劣等性、精神障碍の遺伝的承継性といった差別的価値観を助長する大きな効力を持つ。こうした言説は単純な「黒ん坊」「あま」「気違い」といった個々の差別語以上に差別的価値観を人々の意識に植え込んでいくものである。
 もっとも、こうしたまさに初歩的で格言的な言説はまだ思想性を帯びていないため、せいぜい一般大衆の意識の内にとどまるだけであるが、近代的差別の第一の思想的源泉として指摘した優生思想などは知識人の間でも広く共有された権威的な言説の地位を獲得したのである。その極限としてのナチスの絶滅政策にしても、それを理論的に支えたのは高度な教育を受けた“エリート”の医学者や科学者たちであったのだ。
 こうした差別言説に対しては、単に差別語を禁句とするだけでは全く対応し切れず、各言説の虚偽性ないし偏向性を的確に批判していく必要がある。
 ところが、差別言説は一部商業出版社がこれを強力にエンドースし、差別言説を宣伝するような書籍を公刊し、差別的価値観の普及に力を貸している現状がある。言わば、差別の商品化である。
  近代的差別の思想的源泉の第三のものとして指摘した資本主義は、差別的価値観に強力な普及の場としての市場を提供することによっても、差別を下支えしてきたのである。

命題21:
差別を克服するためには差別語・差別言説を法的に禁止するのではなく、それらが前提としている差別的価値観を転覆していく必要がある。

 差別が何よりも言葉から広がるとすれば、差別語の使用や差別言説の流布を検閲や刑事罰によって禁止することが差別克服のうえで最善の道ではないか━。
 差別克服の情熱を持つ人ほどこのような発想に赴きやすい。しかし、事はそれほど単純でない。差別における言葉とは、たとえて言えば表玄関に相当する。検閲や刑事罰の導入は、言わば表玄関をふさぐことである。そのことが無意味とは言わないが、表玄関をふさいでも、裏口から窓からこっそりと侵入してくるのが差別である。
 仮に、「気違い」という差別語の使用を法的に禁じたところで、精神障碍を劣等視する価値観はこっそりと残存し、むしろ地下に潜行してかえって深く社会に浸潤していくかもしれない。また、優生思想を流布する言説を検閲で取り締まっても、優生思想は生物学や医学の中に姿を隠して生き延び続けるであろう。
 ちなみに、ドイツではナチズムを称揚するような行為は刑法で処罰されるが、ドイツが今日でもナチズムを信奉するネオ・ナチ運動の中心地であるという事実は、差別と言葉を考えるうえでも示唆的である。
 誤解してならないのは、差別語・差別言説を法的に禁止することに否定的であることは、決してそれらを野放しにすることとイコールではないということである。むしろ、差別語・差別言説はその前提となっている差別的価値観を転覆する努力を通じてのみ滅びるのだということを強調したいのである。
 例えば、肌の色が白であろうと、黒であろうと、はたまた緑でさえあっても、肌の色など人間の存在価値においては何の意味も持っていないという意識が確立されれば、人種差別的言説も滅びるわけである。
 逆に、肌の色が人間の存在価値において重要な意味を持っているとの人種差別的価値観が残存している限り、たとえ人種差別的言説の流布を厳罰をもって禁止したところで、人種差別はこっそりと生き延び続けるであろう。

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