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2011年10月

2011年10月27日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第14回)

理論編

八 差別救済のあり方(続き)

命題36:
差別救済の法的な仕組みを整備するためには、一般的な民法・刑法や個別的な救済法だけでは足りず、差別現象全般の救済を図るための包括的差別禁止法が必要である。

 差別の中でもよほど悪質なものは民事不法行為や刑法上の犯罪行為となる。また労働の領域での差別であれば労働関係法によって救済されるケースもある。しかし、それらは前に見た多種多様な形態の差別の中でも典型的かつ悪質なものに限られ、多くの差別は既存の法体系の枠内では救済しきれない。
 一方で、例えば、男女雇用機会均等法、障碍者差別禁止法等々の個別的な差別禁止法だけでは―個別の差別事象の特性に応じた特別法の必要性は否定されないが―、他のカテゴリーに基づく差別に対応できないことは言うまでもない。
 また、法制度そのものが差別的である場合には、既存法体系内部での救済は全く望めない。もっとも、憲法14条1項の平等原則はこうした差別的制度そのものを違憲無効とする効力を持っている。
 ただし、一でも言及したように、憲法14条1項の「差別」とは不平等な取扱い一般を指し、しかも問題となる取扱いが憲法に違反するかどうかは、その取扱いが合理的かどうかにかかるとされる。しかし、このような判断手法では、「差別」の定義は拡大される一方で、「差別」の合理化理由があれこれ探索されることになり、結果として転嫁的差別が合憲として承認されやすい。
 その典型例として、民法が婚外子の法定相続分を婚内子のそれの二分の一と定めていた差別的規定は「法律婚の尊重」という合理化理由によって長く正当視されてきたが、2013年の最高裁判決を経た法改正により、ようやく廃止された。
 同じ相続人の子でありながら、婚外子の相続分を婚内子の「半人前」とすることは明らかな差別であるが、合理化理由を探索していくと、法律婚で正統に出生した子に優先権が与えられ、反面として婚外子が冷遇されることが合理化されてしまうのである。
 この点、国連レベルの条約である人種差別撤廃条約や女性差別撤廃条約(日本政府はいずれも批准済み)のような個別の反差別条約では、例えば、「「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出自に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう」、あるいは「「女子(女性)差別」とは、性に基づく区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女子(婚姻しているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう」というように、「差別」の実質を「不平等な人権妨害」ととらえたうえ、目的・効果基準で具体的に判断しようとしている。
 憲法14条1項の「差別」の定義も、こうした国連条約の立場に符丁を合わせ、目的・効果基準による新定義に更新されることが望まれる。
 具体的な差別の法的救済においても、このような定義によった方が明快であり、差別の合理化を避けることができる。従って、差別救済の国内法として新たに制定されるべき包括的差別禁止法も、基本的にこうした反差別条約の差別定義をベースとしながら、より多種のカテゴリーによる差別を包括的に禁止し、被差別者の民事的・行政的な救済を図るものとする必要がある。
 なお、刑事罰に関しては、差別的意図に基づく暴行、脅迫、傷害、殺人などの暴力犯罪、すなわちヘイト・クライム(憎悪犯罪)を一般刑法よりも加重的に処罰する規定を置くことも検討されてよいが、刑罰的取り締まりに過度に依存し、差別的表現行為全般を処罰するようなことは前述したとおり効果を期待できず、〈反差別〉の本質を見失うことになる点に注意すべきである。
 ちなみに、政府がかねて準備してきた「人権擁護法案」は「人権侵害」という概念の下に「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」という雑多な定義を与えて、差別を人権問題一般の中に吸収させてしまう点に、反差別の問題意識の不十分さが現れている。その意味で、同法案をもって先のような包括的差別禁止法に匹敵するものと評価することはできない。

命題37:
包括的差別禁止法を執行し、独立した立場で差別救済に当たる護民行政機関として、「反差別オンブズマン」の制度を設置すべきである。

 包括的差別禁止法が制定されたとしても、法的な差別救済の手段として、民事訴訟に訴えるか、捜査機関に告訴して刑事事件化するかという道しかないのでは、被差別当事者にとって壁が高い。かといって、行政的な人権救済機能を持つ法務局のような機関は差別問題専門に特化していないうえに、独立性もないという点に問題がある。
 そこで、オンブズマンのような独立性の高い専門的な護民行政機関の出番である。この護民行政という分野は、これまで日本ではなじみが薄く、現在、国のレベルには存在しない。しかし、今日いわゆる先進国で護民行政の存在しない国は珍しい。
 反差別オンブズマンはそうした先進的護民行政の一環として設置される差別救済機関である。具体的には、人種/民族、障碍/病気、性差、性的指向など各被差別カテゴリーごとに、その分野の問題に詳しい法律家その他の専門家の中から政府が国会の同意を得て任命することが妥当であろう。
 この機関は中央に一庁だけ置くのではなく、当事者の便宜を考慮しつつ全国数ヶ所に設置することが望ましく、中央には連絡事務局を置くにとどめる。
 オンブズマンの具体的な権限としては、まず当事者の申し立てに基づいて差別案件を調査すること、そのうえで差別ありと判断したときには、差別当事者に対して差別中止を勧告するということが基本で、その処分は原則的に任意である。ただし、勧告に従わない当事者に対しては課徴金や場合により刑事罰のような強制措置も用意する。また、特に悪質な差別事件に関しては、捜査機関への告発、さらに不起訴処分の場合の準起訴の手続も設けるべきであろう。
 一方、結婚をめぐる差別のように権力的介入になじまないケースでは、当事者間の調停も行うなど、非権力的な権限も持たせるようにする。
 以上のように、反差別オンブズマンはまず当事者の申し立てによって活動を開始するという点では裁判官と類似するが、そうした受動的な準司法的機能ばかりでなく、民間の活動のほか国や自治体等の公的機関の施策をも対象に、そこに差別ありと判断したときは、自ら職権調査に入る積極的な権限をも持たせることで、その活動の実効性は高まるであろう。
 ちなみに、先の「人権擁護法案」では、人権委員会なる中央機関が人権侵害の調査・救済に当たるという構想が示されているが、この機関はオンブズマンとは全く異なり、法務省の外局として設置される行政委員会である。
 しかし、これでは独立性が不十分であるうえ、同委員会を構成する各委員があらゆる人権問題に精通しているとは考え難く、その判断の質にも疑問が持たれるであろう。
 オンブズマンは基本的に各専門分野ごとに単独で任命され、単独で調査・決定する独任制機関であることによって、その独立性と専門性とが担保されるのである。 

命題38:
差別的内容を含む書籍、報道その他の表現物については、反差別オンブズマンの判断により「差別的表現物」に指定し、ブラックリストに掲載・公表する。

 「差別と言葉」を論じた五で、差別言説を検閲することには十分な効果はないと指摘した。このことは、差別言説を宣伝する媒体となる書籍、報道、インターネット上のウェブサイトなどを野放しにしておくべきことを意味してはいない。
 反差別オンブズマンは、申し立てまたは職権に基づいて差別的内容を含むそれらの表現物を「差別的表現物」に指定したブラックリストを作成・公表する権限を持つべきである。その際には、「差別的表現物」の著者名・出版社名やウェブサイト開設者名・プロバイダー名なども公表する。
 指定に当たっては、それらの者に事前告知し、当事者側の弁明・反論を認めるほか、表現の修正などの機会も保障する。こうした適正手続の保障により、反差別と表現の自由とのバランスが確保される。
 こうした方法は事前検閲や事後的な差し止めのように、表現物を排除してしまう強制処分とは異なり、表現物の存在には直接影響しないが、ブラックリスト化することによって、差別的表現物の情報を社会的に共有することが可能となるのである。

2011年10月26日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第13回)

第3章 略

三 大唐帝国へ(続き)

(3)唐の支配政策
 全盛期の唐の支配政策は隋のそれの発展継承によるもので、際立った独自性は認められない。しかし、実践においては隋より勝っていた。
 まず内政面では律令制を高度に完成させた。太宗時代に発布された貞観律令(637)がその土台である。日本では周知のとおり、唐の律令制は日本の天皇王朝によってかなり忠実に継受された。
 もっとも、科挙は豪族連合体的な伝統の根強い日本では十分普及しなかったが、唐では大いに発展した。しかし、実際上は科挙によらないで官僚に就ける貴族特権が温存され、また科挙試験にしても「五十少進士」(五十歳での合格は早い)とさえ言われるほど長期の受験を要する難関を突破できるのは事実上貴族層の子弟に限られていたのであった。
 次に、均田制・租庸調制・府兵制は一体として民衆支配の装置として整備された。ただ、唐時代の均田制には不徹底な点が多く、北魏時代に創始された当時のような自作農創設という政策的意義よりも、公地公民という理念の表現としての意義を強く帯びていたようである。
 国家イデオロギーの面では儒学の官学としての地位は揺らがなかったが、新たに道教が皇室の宗教として特に保護された一方で、北朝・隋時代から隆盛となっていた仏教も唐朝前半期には保護を受け、仏典の翻訳も盛んに行われた。さらに、西域を通じた東西の交流が活発化したことを反映して、けん教(ゾロアスター教)、景教(ネストリウス派キリスト教)、マニ教の「三夷教」に加え、後にはムスリム商人を通じてイスラーム教さえ伝わり、いずれの宗教も当初は弾圧されず、信仰の自由が保障されていた。
 ただ、国防政策に関しては、領土内の異民族の族長に唐の官爵を与えるいわゆる羈縻〔きび〕政策による懐柔的統制の方法を採り、辺境地帯に警備機関として六都護府を置く比較的安上がりのものであったため、後に大幅な見直しを迫られることになる。

(4)開元の治と安史の乱
 高宗の晩年になると、政治の実権は妻の武照(則天武后)の手に握られるようになった。彼女は高宗没後、後を継いだ息子の中宗と睿宗を相次いで廃位したうえで、690年、自らが中国史上最初の―そして最後の―女帝(武則天)に就いた。武則天は国号も周に改めたため、この政変は「武周革命」とも呼ばれるが、その実態は「革命」ではなく皇后による擬似革命的なクーデターにほかならなかった。
 武則天は唐朝を転覆したことに加え、反対派をしばしば残酷に弾圧したことで中国史上の評判は良くないが、一方で隋代以来のエリート層として権勢を張っていた旧北朝系門閥貴族勢力を排除するために科挙を重視し、科挙合格者を要職に配置する改革を実行したため、かえって皇帝中心の中央集権政治が強化され、後に再興された唐朝の体制引き締めに役立った一面もあったのである。
 しかし、武則天の体制は未来のないものであり、それは彼女の死(705)とともに終焉し、唐朝が再興される。その後、第二の武后たらんとして中宗の妻・韋后が引き起こした政治混乱を収拾した睿宗の子・李隆基が712年に即位した。後に楊貴妃との「悲恋」で有名になる玄宗皇帝である。
 彼の40年以上に及んだ治世の最初の30年間は後世「開元の治」と称えられた善政であり、この時期が唐の全盛期でもあった。唐の声望は国際的にも高まり、帝都長安は東洋随一の国際都市として栄えた。
 問題は治世晩期(742~756)にあった。この頃になると、玄宗は楊貴妃との愛欲生活に溺れ、政治は彼女の一族・楊国忠に任せ切りとなった。一方で、中央アジアのイラン系商業民族ソグド人の血を引く武将・安禄山も玄宗に深く食い込んでいた。当時東西交易を掌握して唐にも出入りしていたソグド人系の実力者を皇帝が抱えていたことも、唐の国際性の表れではあった。
 この二人の寵臣の衝突は755年、安禄山が武装蜂起することで頂点に達した。禄山は首都長安を制圧し、自ら大燕皇帝を称して王朝樹立の構えすら見せた。この大反乱は禄山の死後も彼の部将史思明・朝義父子によって継承されて約9年間も続き、唐を社会の全般的危機に陥れることとなった。寵臣政治の弊害が最も悲惨な形で現れた事例である。
 乱は763年、トルコ系ウイグル族の支援まで借りてようやく鎮圧され、唐朝自体はこの後まだ150年近くも続くのであった。

2011年10月25日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第13回)

理論編

八 差別救済のあり方

 前章まで、差別克服という観点から差別の定義に始まり、反差別教育のあり方までを論じてきたが、理論編の最後に、いざ差別が発生したときにどうするか、すなわち差別救済のあり方を考えてみたい。
 再三述べたように、自分には差別される理由はない、むしろ差別する側だという絶大の自信を持つ人も、思わぬところで自らが差別される立場に立たされる可能性があるのが差別という現象の怖さである。
 そうした場合、泣き寝入りするしかないということでは差別は救済されないまま放置され、増殖していくであろう。四でも指摘したように、〈反差別〉とは差別の根絶を目指すことではなく、その克服を目指すプロセスのことであるとすれば、差別はそれが発生したつど適切かつ迅速に救済が図られなければならない。その集積を通じて差別克服のプロセスが展開していく。

命題34:
もしあなたが差別されたと感じたら、泣き寝入りせず、その場で抗議するか、職場・学校の然るべき担当者・担当部署に申し出るべきである。

 「差別された」と感じても泣き寝入りするというのは長い間、被差別当事者がまさに泣く泣く従ってきた方策であった。かつては、差別救済制度も不備であったから、当事者も泣き寝入りする以外になかったのである。そのようにして当事者を沈黙に追いやることにより差別は生き延びてきた。
 やがて、一部の被差別当事者が抗議の声を上げるようになった。制度がなくても自分で実行できる救済が抗議だからである。一人でもその場で「その差別行為をやめてほしい」と抗議することは誰でもできることである。もし勇気を必要とするようであれば、同じ立場の仲間や支持者を募って集団で抗議することも検討されてよい。この場合は一つの集団的糾弾行動となる。
 ただし、このような自力救済型の行動には落とし穴もある。もし抗議・糾弾が行き過ぎて暴行・脅迫に及べば、犯罪行為として刑事責任を追及されてしまうからである。
 そこで、自力救済によらずに、まずは学校や職場の担当者・担当部署に救済を申し出るということも一つの方法である。近年は学校や職場に人権担当者・部署のような内部的救済機関が設置されていることも少なくない。例えば、性差別の一形態であるセクシュアル・ハラスメントについては職場内に救済部署が設けられていることもある。
 残念ながら、差別全般についての内部的救済機関が置かれている職場・学校はまだまれであろうが、いずれそうした流れができていくことが望まれる。

命題35:
内部的救済機関でも解決しないか、そうした機関が存在しない場合は、外部の当事者団体または支援団体にコンタクトを取ってみる。

 職場・学校の内部的救済機関でも解決しないか、そもそもそうした機関が存在しない場合、次の一手として弁護士や法務局などの法律専門家・機関に相談するということが考えられる。
 しかし、注意すべきは、こうした専門家・機関が「差別救済」という問題意識を十分に持っているとは限らないということである。それほど、日本では差別という問題はまだ法律専門家・機関の間でも共通認識を形成できておらず、人権問題一般の延長ぐらいにしか認識されていない。
 それよりも、各差別問題ごとの当事者団体や支援団体の方が、差別救済に関する情報・経験を蓄積していることが多い。そこでまずはこうした当事者団体や支援団体とコンタクトを取って、相談に乗ってもらう方がよいであろう。訴訟問題に発展する場合も、各差別問題に関して詳しい良心的な弁護士を紹介してくれる可能性もある。
 今日、こうした団体の多くはインターネット上にウェブサイトを開設しているので、それを調べたうえで信頼性のある団体とコンタクトを取ってみることが有益である。
 このように、被差別当事者と法律専門家・機関とをつなぐ架橋的な独立的民間団体の層が分厚くなること―理想的には問題横断的なネットワークが形成されること―は、差別克服を前進させるうえで重要な条件となるであろう。

2011年10月20日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第12回)

第3章 略

三 大唐帝国へ

(1)魏晋南北朝時代
 後漢末の混乱の中から、三人の有力な豪族が頭角を現した。『三国志』で有名な曹操・劉備・孫権である。後漢滅亡後は彼らが建国者となった魏(魏の実質的開祖は息子の曹丕)・蜀・呉の鼎立時代に入る。
 しかし、三国も長続きしなかった。華北を支配した魏は遼東半島や朝鮮半島方面も押さえ、ライバル蜀を倒して優勢となるが、文帝(曹丕)没後の内紛の中で、将軍司馬炎が帝位を簒奪し、新たに晋(西晋)を建てた(265)。
 晋は呉を滅ぼして一時中国を統一したが、武帝(司馬炎)没後、各地に分封されていた一般の皇位継承争いが勃発した(八王の乱)。その混乱の中で北方や西方の遊牧民勢力が活動を激化させる。手始めに、後漢に服属して以来、かねて万里の長城の面では北辺警備の任に当たってきた南匈奴が自立化し、西晋を滅ぼした(316)。
 この事件の前後から130年ほどの間、華北では遊牧民系・漢人系を含め多数の地方政権が興亡を繰り広げる時代(五胡十六国時代)に突入する。
 この混乱の中から台頭してきたのは、かつてモンゴル高原東部に勢力を張りながら冒頓単于時代の匈奴に破られた東胡という遊牧民集団から派生したと言われる鮮卑族の拓跋〔たくばつ〕部が建てた北魏であった。
 北魏は太武帝時代の439年、華北の統一に成功し、孝文帝の時代(その前半は馮〔ふう〕太后による垂簾政治)には一定の基準で農民に土地を支給し自作農を創設するとともに、税収の安定を図る均田制を導入したうえ、494年に都を北方の平城から黄河流域の洛陽に移し、本格的な全国統一を窺う構えを見せた。そして、その際、少数派鮮卑人が多数派漢人を安定的に統治する必要上、鮮卑の言語・習俗・姓名を漢人化する急進的な漢化政策を強制したのだった。
 しかし、孝文帝の死後、この漢化政策の是非をめぐる内紛などから北魏は東西に分裂し(534~535)、その後、西魏を簒奪した北周による短い統一を経て、北周外戚から出た隋が581年に改めて華北を統一する。
 この北魏による華北統一から隋の成立までの華北諸王朝、すなわち北朝の諸制度・諸政策はやがて北朝から出る全国王朝の隋と唐によって継承発展せられていく点において重要性が高い。
 さて一方、江南では西晋滅亡後、王室一族の司馬睿〔えい〕が江南へ移り、317年、呉の旧都・建業(建康)を都に晋を再興した(東晋)。これに伴い、華北の漢人らが大挙して東晋へ移住・亡命したため、長江中・下流域の開墾が進展した。
 しかし、東晋はやがて内紛から衰退し、その後、江南では589年に北朝系隋によって全国統一されるまでの約170年間に宋・斉・梁・陳という四つの王朝がめまぐるしく交替した(南朝)。
 この南北朝時代には南北の両王朝が朝鮮諸国や倭国を含む周辺諸国の朝貢を受け、諸国の王に中国式官爵を授けるという形のいわゆる冊封外交が盛行した。冊封は外交的・儀礼的なものにすぎなかったが、これは中国側王朝の皇帝を宗主とする国際的な封建制とも言うべきもので、南北両王朝は国内的に対峙しながら、国際的には冊封を通じて中国王朝としての正統性を誇示し合ったのである。
 ただ、軍事的には北方騎馬民族系の北朝の方が優勢で、短命王朝が続いた南朝に対して比較的持続した北魏の遺産を活用できた北朝側がやがて全国統一を果たすはずであった。

(2)隋から唐へ
 先述したように、北周の外戚から出て隋を建てたのは楊堅(文帝)であった。北周の実権を掌握した彼は581年、北周を打倒して自ら隋を建てた。彼は関中の地に改めて新都・大興城(長安)を建設した。そのうえで589年には南朝最後の陳を滅ばして全国統一を果たした。
 一般には漢人系とされる隋も実は鮮卑系であった可能性が高いが、そうだとしても北魏以来の漢化政策を既定路線とし、均田制のほか西魏時代に導入された兵農一致の徴兵制度である府兵制など北朝系の政策を継承した。その延長上の収奪システムとして租庸調を導入して財政の安定を図った。
 一方では、長期にわたる分裂の結果、文化的な相違も大きくなっていた南北の完全な統一を実現するためには、強力な中央集権の確立が必要であった。そこで、州県制を導入し、地方の州県の行政官を中央から派遣するようにした。さらに、官吏登用の面でも、漢時代の郷挙里選に代えて三国時代の魏が導入していた九品中正制を改め、学科試験に基づく官吏選抜制度として最後の王朝・清の時代まで継承されていく有名な科挙制度を導入した。
 九品中正は漢代の郷挙里選が地方豪族子弟の官吏任官を促進する偏りを生じさせたことを反省し、中央が任命する中正官が郷里の評判に応じて官吏候補生を九等級に分けて推薦する制度であったが、この制度をもってしても、推薦を受けるのはほとんどが地方豪族の子弟たちであったため、有力豪族が要職を占め、門閥貴族を形成した。科挙はこうした弊害を打破して実力主義による官吏採用をもって中央集権的官僚制の構築を図ったものであった。
 こうした中央集権制を支える法的なレジームとして西晋が実質上創始し、北魏で発展を見た律令制を本格的に構想し、華北を統一した581年には早くも最初の律令(開皇律令)を制定した。
 このように積極的な政策展開によって本格的な全国王朝として発展していく兆しを見せていた隋であるが、それは意外なほど短命であった。その滅亡の引き金になったのは、2代煬帝時代の高句麗遠征であった。
 高句麗は当時中国東北地方南部から朝鮮半島北部にかけて支配し、後の女真族などとともにツングース系とも言われる扶余族の一派が建てた強国であった。遼東半島への進出を窺う高句麗に対して隋は三度にわたって遠征を試みたが、高句麗の激しい反撃に遭い、いずれも敗退した。
 これをきっかけに、各地で農民反乱が起き、江南へ逃亡した煬帝は自らの近衛部隊の手で殺害されたため(618)、隋は全国統一からわずか29年で滅亡した。
 動乱の中、隋の名門軍閥貴族出身の李淵が禅譲を受ける形で、同じく長安を都に唐を建国した。しかし、初代李淵(高祖)の在世中から後継争いの内紛が発生し、隋末以来の動乱平定に功績のあった次男・李世民が626年、兄の皇太子・李建成をクーデターで倒し(玄武門の変)、父の高祖も退位に追い込んで自ら2代皇帝(太宗)に即位した。
 唐はその治世が「貞観の治」と称えられる太宗と次の高宗の治世合わせて60年ほどの間に最初の繁栄期を迎える。

2011年10月19日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第12回)

理論編

七 反差別教育(続き)

命題30:
中学段階では人種/民族、職業、性差、同性愛、能力等々、小学校段階では扱わない個別の差別問題全般について、当事者との交流も取り入れながら、理解を深めさせる。

 中学生になると、社会問題に対する関心も芽生えてくる。そのため、中学段階では個別の差別問題に正面から取り組むことができる。
 とりわけ、思春期を迎える中学段階では性別や性的指向も自分自身に関わる切実な事柄となるから、女性差別や同性愛者差別は重要なテーマとなるべきはずである。
 ところが、教育界ではこうしたテーマをタブー視する風潮も強い。そのような教育上のタブー視自体が、差別の結果であり、また要因ともなるのである。
 たしかに、最先端のラディカルな女性解放、同性愛解放の理論を中学生に伝授すべきとは言わないが、少なくとも国際標準的に受容されているフェミニズムの基本的な考え方を教えることがタブー視されてはならない。
 一方、同性愛に関しては、それを義務教育段階で教えることの技術的な困難さは認めるとしても、中学生になれば同性愛を自覚する生徒も一定割合で伏在する以上、教える意義はある。異性愛の生徒から興味本位な受け止め方をされないようにする工夫を凝らしたうえで、当事者の「出前授業」などの方法を取り入れつつ、同性愛について受容的に教育することは十分に可能である。
 また、部落差別のように政治的に微妙な差別問題もあるが、これは被差別地域を含む校区の学校のみならず、私立中学を含めた全中学において、歴史的に根の深い差別問題として正面から取り上げる意義がある。
 中学段階の反差別教育では、いわゆる「出前授業」を通じた被差別当事者との交流・対論を全面的に取り入れることが可能であり、有効でもあろう。

命題31:
高校段階では改めて個別の差別問題全般を総ざらいしたうえ、差別問題一般について、抽象度の高い理解へ高めさせる。

 高校段階では、中学までに一通り差別問題全般の初学的理解は持っていることを前提に、改めて個々の差別問題全般についてまとめ直しをする。
 この際、当事者の出前授業や対論・討論などの方法は、中学段階よりも高いレベルで実践することができる。あるいは、自ら被差別当事者である高校生をゲストに呼ぶといったことも考えられてよいであろう。
 そのうえで、高校段階では、成人直前期における反差別教育の仕上げとして、「差別」とは何か、それはどのような要因から生じるのかといった差別問題一般についても抽象度の高い理解へ高めていく必要がある。
 こうした高校段階での反差別教育は社会科教育との関連性が強くなるが、社会科の中に吸収してしまわずに、特別な科目を立てて実施することが望ましい。

命題32:
高校入試・大学入試のように、入学試験による学力選別システムが確立されている日本では、能力差別を教えることに困難を伴う。

 能力差別については実践編で詳しく取り上げるが、この問題の厄介さは、日本社会においては入試制度を通じた能力(学力)による選別とその結果としての学歴社会という能力差別システムが当然のものとして定着していることである。
 そのため、能力差別を学校教育で批判的に取り上げることが困難となってしまっている。なぜなら、能力差別を批判することは日本社会で正当視されてきた、まさに学校制度がそこに組み込まれている社会システムを否定することになりかねないからである。
 しかし、中学生にとってはかねてから「15の春」問題がある。15歳でほぼ全人生が見渡せてしまうようなシステムへの疑問は、多くの中学生の胸の内にあるはずである。また、その次の大学入試という関門を抱える高校生も然りである。
 反差別教育において、こうした生徒たち自身にとって切実な能力差別問題を避けて通ることは許されないであろう。そして、そのことを通じて、日本社会が今も正当視する能力差別システムそのものを根本的な再検討に付する必要があるのではないか。
 これは、本連載のテーマを超える問いであるため議論できないが、入試選別のない高等教育システムを構想するきっかけが、反差別教育の中からつかめるかもしれない。

命題33:
愛国心教育は、外国人差別や民族差別を助長する恐れを否定できない不穏な教育である。

 2006年の教育基本法改定(実質上は新法制定)によって、学校教育の一般的目標の一つとして、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する・・・・態度を養うこと」が明記されるに至った(同法2条5号)。いわゆる愛国心教育に関わる新条項である。
 多くの批判のあった条項であるが、「愛国心」という概念を前面には出さないこと、同一条項の後半に「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という文言を併記することで妥協が成立したのであった。
 特に後半で国際理解教育が併記されたことは―実際の教育現場で前半と後半をどう結び合わせるのかという難問は残るが―少なくとも自国や自民族の優越性を強調するような方向での「愛国心」の刷り込みは否定されたことを意味するもので、これは教育現場でも十二分に考慮されなければならないところである。
 とはいえ、「我が国を愛する態度を養うこと」という文言は深長である。新教育基本法に反差別教育に直接関わる規定は見出せないうえに、増加している外国出自児童・生徒の教育に関わる規定も存在しないことと対照すると憂慮すべきものがある。
 そもそも外国出自児童・生徒にとって「我が国を愛する態度」とは何を意味するのであろうか。かれらにも、日本国を愛する態度を養わせるのか。その場合、自分の祖国・出自国を愛する態度とはいずれが優先されるのか・・・・。
 そもそもそうした問題を同法改定過程で十分に検討・議論した形跡もないというところに、反差別の問題関心が希薄な日本社会の現実が反映されている。
 新教育基本法の下での愛国心教育が―明文どおりに国際理解教育と組み合わされる限りは―直ちに外国人差別や民族差別を招くというのは杞憂かもしれないが、反差別教育に関する規定が欠如したままの愛国心教育の称揚には大きな危険が内包されていると言わざるを得ない。
 反差別の問題関心からは、教育基本法に反差別教育に関わる規定の追加を望みたいところである。

2011年10月18日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第11回)

理論編

七 反差別教育

 前章で示したような差別克服のための視座は社会啓発を通じて一般市民に浸透させていく必要があるが、それだけでは全く不足である。なぜなら、「包摂の哲学」にせよ、「内面性の美学」にせよ、いずれも人間としてのあり方そのものに関わる視座であるがゆえに、年少の頃から教育を通じてそうした視座を涵養していかなければならないからである。
 そもそも差別的価値観は物心ついた頃から両親を含む周囲の大人や、時に教師をさえ含む年長者、さらにはテレビの一部娯楽番組などの影響で知らず知らずのうちに身についていくものであって、未成年の間に沁み込んだ差別的価値観は成人後の言動を強く支配するに至るため、成人してからの啓発によっても差別的価値観を克服することは困難となりがちである。
 そうした意味で、差別克服にとっては、一にも二にも三にも教育が重要である。このような差別克服に向けた教育のことを「反差別教育」と名づける。
 この「反差別教育」は社会科教育ではなく、道徳教育の一環として、小学校低学年からその中心に置かれることが望ましい。道徳教育というと警戒心を持たれる向きもあろうと思うが、問題はそこで教えられる「道徳」の中身である。本章の最後に触れるように、「愛国心」を教える代わりに「反差別」を教えることは決して危険な教育ではない。以下では、こうした「反差別教育」の概要を示してみたい。

命題27:
小学校低学年ではまず障碍児/病児との交流授業(統合教育を含む)を通じて、障碍者/病者を身近に感じさせる体験学習に重点を置く。

 小学校低学年では差別一般について教えることは難しいことから、一番わかりやすい障碍や病気を中心に、同年代の障碍児/病児との交流授業を通じて、まずは理屈より体験から入っていく。
 交流授業の中心は、普通学校(学級)と特別支援学校(学級)の交流の促進であるが、それにとどまらず、知的障碍のない身体障碍児については、学校のバリアフリー化を通じて希望者を普通学校(学級)へ受け入れる統合教育を推進することである。
 小学校低学年ではまだ差別するということを知らないので、ごく自然な形で障碍児/病児と接することが可能であるという特性を利用して、障碍者や病者を身近な同胞として受け入れること、さらにはさりげなく介助することを日常の習慣として身につけさせることができる。
 こうした交流授業は、小学校低学年では遊びの要素を持たせた行事的な域を出ないが、次第にグレードアップしながら、小学校中学年・高学年、さらには中学・高校まで一貫的に実施していく必要がある。

命題28:
小学校中学年では障碍児/病児との交流に加えて、外国出自児童とも交流授業も取り入れる。

 外国出自児童(ここでは、外国籍の児童のほか、日本国籍でも外国の出自を持つ児童も含む)については、外国籍児童を中心にそもそも未就学児も少なくないと見られ、就学を促進することが大前提である。それによって、各小学校の外国出自児童が増加すれば、それ自体が一つの交流授業となる。
 しかし、地域によっては外国出自児童がゼロということもあり得るから、意識的に他校や、場合によりインターナショナル・スクールの児童との交流授業を組む必要も出てくる。こうした交流授業は「外国」の観念が理解できるようになる小学校中学年からの導入が望ましいと考えられる。
 この交流授業では「異文化」体験というエキゾティシズムの視点を排して、外国出自の社会成員を対等な存在として包容するという視座に立つことが必要である。その際、互いの文化的な差異を際立たせる「多文化主義」を強調しすぎないことも要注意である。児童間での民族的アイデンティティー競争と相互排斥を引き起こす恐れがあるからである。
 それよりも、ふだんの授業を合同で受けさせるなど、日常的な雰囲気の中で外国出自児童を自然に受け入れることができるように工夫されるべきである。
 このような交流授業も、小学校高学年以降、グレードアップしながら中学・高校段階まで継続させる必要がある。

命題29:
小学校高学年では、いじめ防止を兼ねて、容姿差別問題を正面から取り上げ、差別の意味も考えさせる。

 小学校高学年に達すると、いじめの問題もかなり顕在化してくる。いじめに関しては、すでに学校現場でも「対策」が取られてきてはいるが、いじめを「差別」と認識する考えは教育関係者の間でも希薄で、単に仲間外れとか子ども間での暴力などととらえる傾向が強いように見える。
 しかし、前に指摘したとおり、いじめの中でも対象者が自殺に追い込まれるような深刻ないじめは、主として容姿の印象などを理由とした「キモい」「くさい」「バイキン」などといった差別表現を伴う子どもの領分における容姿差別である。そして、子どもたちは、こうした差別としてのいじめの原体験(特に加勢・傍観体験)を通して、各種の差別的価値観を身につけていくのである。
 その意味で、小学校高学年における反容姿差別教育は、最初の本格的な反差別教育として重要な意義を持つ。この年代になると、ある程度抽象的な観念を理解できるようになるため、「差別」の観念を教えることも可能と考えられる。

2011年10月13日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第11回)

第3章 略

二 漢帝国の400年

(1)建国と新政
 戦国時代に逆戻りしたかのような秦末以来の動乱の中から頭角を現した実力者は、沛〔はい〕県(江蘇省)の農民出身の劉邦と楚の貴族出身の項羽であった。
 ここで両人の有名な抗争物語を繰り返すことはしない。勝者は劉邦であった。彼は新都長安を建設して漢王朝(前漢)の開祖(高祖)となった。
 庶民(豪農出身とも言われる)出身の高祖はまず租税と労役を軽減して民生の安定に努めることを忘れなかった。また彼はバランス重視の中道主義者でもあり、秦時代に導入された中央集権制を一部緩和し、首都近辺は直轄地として郡県制を残し、遠隔地には一族や功臣を分封配置するという形で、集権制と封建制を併用する新システム(郡国制)を導入した。
 ただ、遠隔地に配置された異姓功臣は次第に粛清され、劉氏一族の独占が強まっていくにつれて、地方ではかつての周の氏族的分封制への逆行が生じていった。
 一方、国防政策でも大きな後退があった。北方では秦末の動乱以後、匈奴が再び勢力を盛り返し、強力な首長・冒頓単于の下でモンゴル高原の覇者となった。劉邦は前200年、侵攻してきた冒頓率いる匈奴軍に大敗し、以後毎年匈奴に貢納して和平に努める羽目となった。
 劉邦が10年ほどの治世の後に死去すると、妻の呂后(太后)が外戚の呂一族を重用しつつ、三代の皇帝の後見役として専横を行うが、これがかえって幸いし、秦のように短期での王朝崩壊を防ぐ結果をもたらした。呂太后の死後、呂一族は排除され、名君の文帝が立ち、前漢の安定期に入る。

(2)集権化と帝国化
 高祖以来の郡国制は次第にその限界が明らかとなった。劉一族の地方諸侯が中央に対して自立化し、反抗的になってきたのだ。6代景帝の治世前154年には、ついに呉王を中心とする7人の諸侯が反乱を起こした(呉楚七国の乱)。
 ここに至って、郡国制は大幅な見直しを迫られ、諸侯は中央に移され、地方にも中央から官吏が派遣されるようになり、秦時代の郡県制に近いものに戻っていった。
 次いで武帝が立つと、中央集権化が本格的に進められた。その目玉は推恩の令で、これによって地方諸侯に従来の嫡子相続に代え、庶子を含めた子弟相続を強制して、その領土の細分化を図った。一方で、地方長官の推挙による官吏任用の制度(郷挙里選)を導入し、家柄にとらわれず、在野の有能な人材を官吏として任用する道を開いた。
 さらに武帝の治世で注目すべきは、儒学が初めて体制イデオロギーに採用され、以後これが歴代王朝にほぼ踏襲されていくことである。戦国時代以来、国作りの実践に役立つ法家や兵家といった実用的な学派が体制イデオロギーとして好まれていたが、前漢の国作りが一段落し安定期に入ると、皇帝中心の階層秩序を正当化するのに都合の良い学派が求められた結果、周時代の政治を理想とし、礼と徳という概念を柱とする儒学が選ばれたのだ。
 集権化を進めて内政の安定を得た武帝は対外的にも積極策に出た。まず高祖以来、国防上の懸案であった匈奴に対して改めて攻勢に出る。当初は、匈奴によってモンゴル高原西部から追われ、タリム盆地の西まで大移動していた推定イラン系の騎馬遊牧民・大月氏と同盟して匈奴を挟撃する作戦を考えたが、大月氏側に拒否されたため、単独で臨み、苦戦の末匈奴を再びゴビ砂漠の北へ撃退することに成功した。その結果、河南(オルドス)や河西にまで版図を広げた。
 また大月氏のもとへ使者を派遣したことをきっかけに武帝の西方(西域)への関心が高まり、楼蘭の中国名で知られるクロライナやコータンナなどをはじめとするタリム盆地のオアシス諸都市にも支配を及ぼすようになり、後漢時代に本格化する西域経営の端緒を開いた。
 南方でも秦の滅亡後独立を回復していた南越を再征服し(前111)、ベトナム北部まで含む地域に南海郡など9郡を設置して支配を強化した。さらに武帝は東の朝鮮半島にも手を広げ、その地の衛氏朝鮮を滅ぼし(前108)、楽浪郡など4郡を設置した。
 このような積極的な遠征活動の結果としての財政難に対処するため、武帝は均輸法・平準法などの新たな税制を導入して増税を試みたため、民生は圧迫された。
 それでも、50年以上の長きにわたった武帝の治世が前漢の全盛期であった。それを反映してか、武帝の陵墓・茂陵は前漢歴代皇帝陵の中でも最大規模を誇る。

(3)簒奪と再興
 50年以上に及んだ長期治世の後、前87年に武帝が死去すると、前漢は斜陽の時代に入る。弱い皇帝が続き、皇帝の威信は低下する一方で、外戚や宦官の専横が目立つようになる。地方では地主勢力が豪族化して地方政治を壟断した。
 こうした中で、後8年、外戚の王莽が帝位を簒奪し、新と号する王朝を開く。彼は儒教を絶対化したうえで、土地の国有化、奴隷売買の禁止、商工業の統制など一種の社会主義的な政策を導入したが、民衆の支持を得ることはできなかった。特に農民の反発を招き、18年から大規模な農民反乱(赤眉の乱)が勃発すると混乱に陥り、王莽が殺害され、新はあえなく滅亡した(23)。
 新滅亡後の争乱の中から、漢王室の一族・劉秀が地方豪族勢力の支持を取りつけつつ改めて洛陽を首都に漢を再建した(25)。
 こうして再興された漢(後漢)の開祖・劉秀(光武帝)は前漢時代の制度を復旧し、30年以上にわたる治世を通じて社会秩序の回復に努めたので、後漢は早くも彼の治世中に安定期を迎えるが、対外的な再膨張は光武帝死後のこととなる。

(4)後漢の繁栄と没落
 後漢の国力が安定すると、再び対外的な膨張が始まった。とりわけ後漢の時代には西域経営が本格化した。
 西域にはすでに前漢の末期に西域支配機関として西域都護府が置かれていたが、前漢の国力衰微に伴い支配力を喪失していた。しかし、後漢の1世紀末には西域都護・班超の下で、前漢時代よりも安定した西域経営が行われるようになり、タリム盆地のほとんどのオアシス都市を服属させるに至った。
 これにより、シルクロードの幹線を掌握し、97年には班超が配下の部将・甘英をローマ(大秦国)に派遣しようとしたが、当時東西貿易の中継で利益を上げていた西アジアのパルティア王国に妨害されて、後漢とローマの東西両帝国を直通させる試みは実現しなかった。とはいえ、この時期、西方の「ローマの平和」と東方の後漢の全盛はほぼ重なっており、中継されながら東西の貿易は陸のシルクロードとともにインド洋経由のマリンルートをも通じて活発に行われたのであった。
 しかし、後漢の繁栄もそう長くは続かなかった。2世紀半ば頃から、前漢末と同様に、またもや外戚や宦官の跋扈が目立ってきた。そのうえ、後漢体制の支持基盤であった大地主の豪族勢力が郷挙里選を通じて官僚となって権力を持つ一方で、貧農はかれらの下で小作人として搾取されるようになり、農民反乱も相次いだ。
 この頃には儒学が官学となって久しかったが、民間では道家思想と民間信仰が結びついた道教が浸透し、中でも張角を開祖とする宗教結社・太平道が農民の心をとらえていた。
 184年、張角に教化・指導された農民が華北一帯で武装蜂起し(黄巾の乱)、これに呼応する反乱が各地に相次いだ時、体制はもはやこれを鎮圧する能力を持ち合わせていなかった。無政府状態の混乱の中で台頭し、華北の新王朝・魏の開祖となる曹丕(後の文帝)が最後のトドメを刺した(220)。ここに中断をはさんで前後400年あまり続いた漢帝国は終焉した。
 しかし、終焉してもこの漢の時代こそは、あらゆる意味で漢民族のアイデンティティーの歴史的源泉として今日までその影響を残しているのである。
 同時に、漢帝国の息の根を止めた黄巾の乱は、農民反乱と宗教結社が結合して体制変動の動因をなすという近世まで繰り返された中国的社会現象の先例ともなった。

2011年10月12日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第10回)

第3章 中国王朝の興亡

〈序説〉
 前近代の中国史は、いわゆる中原(より広くは中国大陸)の覇権をめぐる諸王朝の興亡の連続史である。それは極めて周期的・円環的な歴史であって、ある意味では堂々巡りの歴史である。
 前近代の中国史の主流的な叙述が、西洋史の祖ヘロドトスが創始したような歴史=過去の探求という方法でなく、司馬遷が『史記』で確立した皇帝を中心とする周期的ないわゆる紀伝体の方法となったのも、中国史の構造自体が周期的・円環的であることの反映にほかならない。
 中国史がそのような構造を持ったのは、中国大陸は広大であり、外部勢力が完全に征服することは容易でなかったという地理的事情によるところが大きかったと言える。
 この中原を巡る王朝興亡史は周の東遷後、各地の諸侯・小国勢力が激しい覇権争いを繰り広げた春秋・戦国時代に本格化し、先のような地理的限界を機動的な騎馬戦力によって乗り越えたモンゴル人によって中国全土がかれらの帝国に組み込まれた時に終わる。
 一方、中国と陸続きの半島・朝鮮では中国王朝の興亡と直接に連動しながら自前の王朝の興亡が展開していくのに対して、辺境の群島である日本では中国王朝の興亡と間接的・波動的な連関を保ちつつ、中国の影響をも受けた独自の王朝が発展していった。

一 秦の統一まで

(1)春秋・戦国時代
 第1章でも触れたように、周がチベット系勢力の侵攻を受け東遷し、東周として地方政権化すると、周に属していた各地の諸侯は一斉に自立化し、中原の覇権を巡って相争うようになった。このような内戦状態は前221年に諸侯勢力の中からのし上がった秦によって統一されるまでおよそ550年という途方もない年月にわたって続けられたのであった。
 ただ、その550年間のうち前半(前770~403)を春秋時代、春秋時代の強国・晋が分裂した後の後半(前403年~前221)を戦国時代と分けるのが慣例となっている。この時代区分は単に便宜的なものではなく、社会体制の変化をも反映している。
 前半の春秋時代には周の氏族的分封制は崩壊していながら、周王の形式的権威はなお残存しており、諸侯は―元来中原の中国人とは民族的に別種と見られる江南の楚・呉・越などを別として―周王の権威を借りつつ覇を誇ったので、この時期の社会体制は分封制と呼ぶべき性格を伴っていた。
 しかし、後半の戦国時代になるともはや周王の権威は地に落ち、諸侯らは周王の権威を離れて完全に自立化し、各自の領土内で「王」として振舞うようになる。従って、この時期の社会体制は、春秋時代の分封領主制的な構造から、各領主が自立化し自己の領土を一円的に支配する自生領主制へ移行したととらえることができる。その結果、戦乱はいっそう激化し、まさに「戦国」となった。
 こうした春秋から戦国への社会体制の変化はありながらも、この春秋・戦国時代を通して殷周時代の邑連合体的な体制は解体され、領域国家の基礎が形作られていったという点では一貫した時代でもあった。
 各領域国家は治水・灌漑事業を進めて農業生産力を高め、商業を促進していった結果、私有制と階級分解が進行し、貧富差も明瞭になった。
 一方で、統一政権を欠く長い無政府状態は思想の自由を歩み出し(諸子百家)、儒家・道家をはじめとする中国の前近代哲学のほとんどすべてがこの時代に発している。

(2)秦の台頭と統一
 戦国時代の弱肉強食的競争の中で勝ち残った七つの強国(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙のいわゆる戦国七雄)の中から台頭したのが秦であった。
 秦は「七雄」の中でも最も西部に本貫を置き、西方の諸民族の脅威にさらされる辺境伯的な立場にあったが、それだけに、生き残りのため軍事力を高め、実践的な法家の思想を体制イデオロギーとしていち早く集権化を進め、富国強兵を達成したのであった。
 戦国時代初めに都を咸陽[かんよう]に定めて東征を進め、政王の時代にまだ残存していた東周及びライバルの六強を次々と滅ぼして、前221年、ついに統一を果たした。
 政は統一王朝の君号を新たに「皇帝」と定め、「始皇帝」と称した。この「皇帝」号は以後、中国歴代王朝の君号として定着する。
 始皇帝はまた後の中国王朝を特徴づける中央集権体制の創始者でもあった。彼は秦の領土で先行実施されていた郡県制を全国に拡大し、中央から郡県の官吏を派遣して地方行政に当たらせたほか、度量衡・通貨・文字の統一を図った。
 一方、国防政策として、この頃北方のモンゴル高原で強大化していたモンゴロイド種族の騎馬遊牧民・匈奴をゴビ砂漠北方の線まで撃退するとともに、戦国時代に燕・趙などが匈奴対策として築いていた防壁を修復・延長して有名な万里の長城に完成させた。
 さらに南方では南越遠征によって華南・ベトナム北部に版図を拡大し、中国によるベトナム支配の端緒を開いた。
 その他、始皇帝は有名な焚書坑儒を断行して思想統制を図り、従来の諸氏百家の風潮にもピリオドを打った。
 こうして急激な改革を次々と断行した秦は始皇帝個人のカリスマ的指導力に全面的に依存していたため、彼が統一王朝の皇帝としてはわずか10年ほどで没すると、たちまちにして崩壊の危機に直面した。
 かねてより、急激な集権化は秦に併合された旧六強の遺民らを反発させていたし、万里の長城のほか、壮麗な宮殿や陵園などの公共工事への農民の徴発はかれらの暮らしを圧迫していた。
 始皇帝死去の翌年、貧農出身兵士の陳勝・呉広の乱が全国に拡大すると、秦は内乱状態に陥るが、始皇帝の無能な後継者には事態を収拾する力はなかった。こうして統一王朝・秦はわずか15年で滅亡した(前206)。
 このように農民反乱が王朝交代の動因となるという前近代中国史のもう一つの特色も、この秦末の動乱を先例とする。

2011年10月 7日 (金)

世界歴史鳥瞰(連載第9回)

第2章 略

四 絶頂から分裂へ

(1)「ローマの平和」とその揺らぎ
 タキトゥスの歴史書で引用された「ローマ人は廃墟を作り、それをごまかして平和と呼ぶ」とは、クラウディウス帝時代のローマに征服されたブリタニアのケルト人族長の言葉であるが、これこそいわゆる「ローマの平和」の真の定義である。
 それは、要するに大国の破壊的軍事力によって担保された国際秩序の安定のことにほかならない。そして、こうした逆説的な「平和」の定義こそ、今日でも現実政治(レアル・ポリティーク)の文脈で語られる「平和」の第一義なのだ。
 それはともかく、「ローマの平和」が確立されたのは、後96年から始まるネルウァ、トラヤヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスのいわゆる「五賢帝」の時代のことである。特にトラヤヌス帝時代にはメソポタミアやダキア(現ルーマニア)も併合してローマ史上最大の版図にまで拡大している。
 なお、ダキアはトラキア人から派生したとも言われるダキア人の地であったが、今日でもまさにローマにちなんでルーマニアと呼ばれるように、ダキア人のローマ化は恒久化し、特に言語の面では東欧に唯一ラテン系の言語(ルーマニア語)を残している。
 この2世紀末までの約100年間は貿易の面でも「ローマの繁栄」をもたらし、インド方面との海上貿易や、シルクロードを経由しての中国方面との貿易も活発に行われた。後者の内陸貿易の中継で繁栄していたのが、ローマともしばしば交戦した西アジアのイラン系遊牧王朝、パルティア王国(アルケサス朝)であった。
 同時にこの時期には、皇帝を頂点とする階層的な社会体制が確立され、官僚制も整備されていった。元老院議員は世襲制となり、民会も機能停止し、まさに帝政の時代であり、アントニヌス・ピウスの頃から皇帝の神格化も強まっていった。そこには「ローマの平和」とともに「皇帝の平和」があった。
 しかし、このような“幸せな時代”はそう長くは続かなかった。「五賢帝」最後の哲人皇帝マルクス・アウレリウスの治世末期にはゲルマン人の侵入やパルティアとの戦争、疫病や財政難などの内憂外患に見舞われ、3世紀に入ると帝国は政治・軍事・財政の全般的な危機に陥る(3世紀の危機)。
 こうした中で、235年から約50年間で正統・僭称を含め総計70人の軍人皇帝が各地の軍団のクーデターで擁立され相争う事実上の無政府状態が生じた。この間、260年にはパルティア王国を破って西アジアに再びペルシャ人王朝を建てたササン朝との戦争でウァレリアヌス帝が捕虜となる屈辱も味わった。
 この時期のローマ軍はゲルマン人を中心とした傭兵に依存するようになっていたため、国防費が増大したことによる財政悪化に加え、通貨増発によるインフレーションと物価上昇で市民生活も圧迫された。
 284年に即位した軍人皇帝時代最後のディオクレティアヌス帝(以下、ディ帝と略す)がこうした混乱に一応の決着をつけた。そのために彼はオリエント風の権威主義を取り入れ、皇帝の地位をより神格化された超越的なものに高めた。皇帝の臣下は東洋風の跪拝礼を強制された。そこで、ディ帝以降の帝政はアウグストゥス以来の「元首政(プリンキパトゥス)に対して「専制君主政(ドミナートゥス)と称されるが、これは制度上の変更ではなく、統治スタイルの変化である。
 ディ帝はこうしたドミナートゥスの手法で軍備増強と税制改革・物価統制、中央集権の強化などを断行するとともに、東西に広がった領土を単独の皇帝が統治することは困難になったため、東西に各々正帝と副帝を配置する四分統治制という分担統治のシステムを創始したのであった。

(2)キリスト教迫害政策
 後にキリスト教と呼ばれることになる新興宗教がナザレのイエスによって創唱されたのは、アウグストゥス治下のパレスティナにおいてであった。当時のこの地方はすでにローマに属していた。
 『新約聖書』によれば、イエスは最終的にローマ総督ピラト(ピラトゥス)によって磔刑に処せられたが、この件はローマ当局が主導したものではなく、彼が既成ユダヤ教のあり方を強く批判していたことに反感と危機感を抱いたユダヤ教保守派がイエスをローマへの反逆者として讒言したことによる冤罪であった。
 イエスは「カエサルのものはカエサルに」と説いたとされるように、政治的には無抵抗主義に近く、「反逆者」ではなかったし、一部のユダヤ人が期待したようなユダヤ解放の指導者でもなかった。
 一方、ユダヤ教とともに一神教であるキリスト教はローマの伝統的な多神教とは相容れなかったが、創唱当時のキリスト教はマイナー宗派にすぎず、ローマ当局の特別な関心を引くものではなかった。
 しかし、使徒らの熱心な布教の結果、キリスト教はユダヤ人以上に東方の非ユダヤ系下層属州民の間に浸透していった。その結果、キリスト教を警戒する都市民からの告発によって属州当局の注目を引き始め、2世紀代になると属州レベルでのキリスト教迫害が相次ぐようになる。
 それでも3世紀半ば頃まで、ローマ当局が全面的にキリスト教を弾圧することはなかった。ところが、「3世紀の危機」の中でローマ市民の間に社会不安が広がると、オカルト的密儀宗教に走る者も現れる一方で、より堅実なキリスト教に救いを求める者も増え、キリスト教は富裕なローマ市民の間でも浸透し始めた。
 こうしたキリスト教の広がりの背景には、2世紀代から有力な神学者(教父)たちによって、神秘主義的傾向を持つグノーシス派などの「異端」の排撃、正統的な聖書の編纂と階層序列的な教会組織の確立に象徴されるキリスト教の制度化の努力が本格化してきたことがあった。
 これに対し、体制側からは「3世紀の危機」の解決を伝統宗教の復権に求めようとする空しい企てが開始され、キリスト教が他の「邪教」とともに弾圧の対象となる。その先鞭をつけたのは、軍人皇帝時代のデキウス帝であったが、より本格的な大迫害を命じたのは、かのドミナートゥスのディ帝であった。これによってローマ全土で殉教者が続出することになった。
 ちなみに、この時の大迫害を逃れて石工マリヌスをリーダーにイタリア半島北部のティターノ山中へ逃亡したキリスト教徒グループが母体となった都市共和国サンマリノは、今日まで民主的なミニ共和国として存続している。

(3)寛容令からキリスト教国教化へ
 こうした宗教反動政策はかえって逆効果であって長続きせず、ディ帝退位後の311年には早くもガレリウス帝の寛容令によって弾圧政策は撤回され、次いで313年には有名なミラノ勅令でキリスト教が「公認」される。というように、キリスト教大迫害は一転「公認」の序曲にすぎなかったのだ。
 ただ、「大帝」を冠されるコンスタンティヌス帝(以下、コ帝と略す)の名とともに記憶されているミラノ勅令に関しては、いくつかの留保が必要である。
 第一に、この勅令はコ帝と東方管轄の共治帝リキニウス帝との連名によるものであり、しかもこれを主導したのはリキニウス帝であったことである。コ帝がキリスト教に好意的であったのは事実としても、彼は歴代皇帝が帯びていた最高神官ポンティフェクス・マクシムスの称号を保ち続けたし、正式に洗礼と受けてキリスト教に改宗したのは死の直前であった。つまり、彼のキリスト教信仰は消極的なものであったと見られるのである。一方、ミラノ勅令を主導したリキニウス帝も、後にキリスト教迫害に転じてしまう。というように、ミラノ勅令に関わった両帝のキリスト教信仰は甚だ不安定で、信仰よりもキリスト教勢力を取り込むための政治的打算が優先されていたとさえ推測できるのである。
 それとも関連して、第二に、ミラノ勅令は帝国がキリスト教徒に対しても、他のすべての宗派の信者に対しても、「完全な信仰の自由」を認めることが「必要かつ有益である」と宣言しているにすぎないことである。つまり、この勅令は帝国がキリスト教を他の宗教(ローマの伝統的多神教も含む)とともに同等に保護することをうたっているのであり、キリスト教を特別に公認したり、ましてやキリスト教を国教と規定するものではなかった。しかも、そのことを信者の権利としてではなく、帝国の宗教政策としての必要性・有益性の観点から論じていることが重要である。
 ミラノ勅令の後、対立関係に陥った共治帝リキニウスを処刑して単独皇帝となったコ帝は、その翌年の325年、小アジアの二ケーアに有名な宗教会議(二ケーア公会議)を招集する。この会議を通じて、神と神の子キリストは同じ本質を持つとし、神・キリスト・聖霊の三位一体を主張するアタナシウス派が正統教義と決定され、キリスト教の神性を否定し、キリストは神が創造した人間にすぎないと主張するアリウス派が異端として退けられたと整理されてきたが、事はさほど単純でない。キリストの神性を否定する限りでは秘かな異教信仰との両立可能性を残すアリウス派教義は二ケーア公会議後も根強く残り、何よりもコ帝その人がアリウス派に傾斜しており、死の直前に受けた洗礼もアリウス派のそれであったのだ。
 ただ、二ケーアの意義は、キリスト教教義のあり方が帝国の主要な関心事とされた点において、将来のキリスト教の国教化へ向けての起点となったことである。
 その後、若いユリアヌス帝による反キリスト教政策の揺り戻しなど曲折を経て、アタナシウス派キリスト教が帝国の国教として公式に定められるのは、二ケーアから70年近く後、392年のことであった。そして、これを主導したテオドシウス帝は統一ローマ最後の皇帝となり、同帝の死後、ローマは二度と修復されることなく東西に分裂した。キリスト教国教化が、統一ローマの置き土産となったのである。

(4)東西分裂と西ローマ帝国の滅亡
 ディ帝が東西四分統治制を始めた時、それは帝国の分裂を意図したものではなかったが、そのきっかけにはなった。その後、コ帝は再び単独統治を復活させたが、一方で330年には首都をローマからギリシャ植民都市だったビザンティウムに遷し、ここを自身の名にちなんでコンスタンティノポリスと命名した。
 この遷都の要因としては、戦略上・行政上・宗教上の複合的なものがあったようであるが、いずれにせよ、この頃にはローマ市はもはや皇帝の住むところではなくなっており、帝国の重心は東へ移りつつあった。遷都はそのような変化をいっそう促進し、実質的にはこの時に東ローマ帝国が先行創始されたと解することもできる。
 それに加えて、特にローマでは経済的にも大きな変化が生じていた。それは旧来の奴隷制農場に代わって農奴的な小作人(コロヌス)に耕作させるコロヌス制(コロナートゥス)が主流化しつつあったことである。コロヌスは効率の悪い奴隷に代わってすでに共和制時代から現れていたが、征服戦争の終息に伴い奴隷の供給が止まると、コロヌス制はいよいよ広がっていった。コ帝時代には、コロヌスを土地に拘束することが法的に認められた。富者はこうした田園のコロヌス農場主となって中央支配を脱したため、半封建的な分裂傾向が強まり、ローマ市を含む都市が衰亡していった。
 軍人出身のテオドシウス帝は最後の単独統治を試み、東西統一を図るが、395年の彼の死後、二人の息子が東西分治帝として後を継ぐと、以後、法典上の統一はなお続くも、政権の統一は二度となされることなく、ローマ帝国の東西分裂が確定した。
 この分裂は、西ローマ帝国にとっては滅亡へのカウントダウンの基点となった。このカウントダウンをいっそう加速化させたのは、ゲルマン人の動向であった。
 ゲルマン人のローマ領内侵入はすでに1世紀代から始まっていたが、4世紀後葉になると、アジア系騎馬遊牧民フン族の西進を契機に、ローマ領内に避難する形で次々と侵入を開始した。そのきっかけをなしたのは、強力な西ゴート族であった。(東)ローマ当局は、かれらの領内への避難をいったん許可したが、待遇問題から対立し、378年にはハドリアノポリスでの武力衝突でウァレンス帝が戦死する事態となった。結局、382年、時のテオドシウス帝は西ゴート勢力をローマの同盟国(フォエデラティ)として認め、下モエシア地方への定住を認めた。
 これで増長した西ゴート族は、ローマの東西分裂後、西ローマ帝国をたびたび侵略し始めた。410年には三日間にわたりローマ市を寇掠した末、イベリア半島まで到達して西ゴート王国を建て、419年以降再びローマの同盟国となった。
 他のゲルマン系民族もこれにならい、続々とローマ領内に侵入してはローマの同盟国として認証させる方法で西ローマ領内を蚕食していった。中でもヴァンダル族(混成民族説あり)は遠く北アフリカまで渡り、カルタゴを都に王国を建て(429)、やはりローマの同盟国となった(435)。
 一方、かねてより多数のゲルマン人がローマ帝国の傭兵として雇われており、民族大移動の頃には軍団の主力はすでにゲルマン人となっていた。東西分裂後の西ローマ帝国ではゲルマン人対策の必要上、ゲルマン系軍人の政治的発言力がとみに強まり、軍を足場に政界に進出するゲルマン人も現れた。西ローマ帝国末期には皇帝の威信はすでに地に落ちており、政治の実権はこれらゲルマン系軍人の手中にあった。
 こうした中、476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルがクーデターで皇帝を廃して政権を掌握した。しかし、彼はすでに形骸化していた西ローマ帝国皇帝の地位にあえて就こうとせず、東ローマ皇帝の承認の下に単なる国王となり、新たにゲルマン系イタリア王国の建設を目指したのだった。
 これによって、西ローマ帝国は名実ともに終焉した。皮肉にも、オドアケルが廃した最後の皇帝の名は、伝説上のローマ建国者と同じロムルスといった。

(5)東ローマ帝国の存続と繁栄
 ゲルマン人の民族大移動の影響をさほど受けることなく、東西分裂後はいよいよローマ帝国の中心としての比重を高めていった東ローマ帝国にとって、西ローマ帝国の滅亡はほとんどダメージとはならず、それはもう腐り果てていた隣の木の実が自然に落ちたようなものであった。
 とはいえ、東ローマ帝国が西の滅亡に対して全く無関心を決め込んでいたわけではない。オドアケルが権力を握った時、東ローマ皇帝ゼノンはいったんオドアケルを承認したものの、オドアケルが増長して東ローマ帝国に干渉を企てると、かねて東ローマ領内のパンノニア地方に建国して東ローマの同盟国となっていたゲルマン系東ゴート王国のテオドリック王に命じてオドアケルを征伐させた(493)。こうしてオドアケルのイタリア王国は彼一代限りで滅亡し、代わってテオドリックがラヴェンナを都に東ゴート王国を建国し直した。
 6世紀に入ると、大帝を冠せられるユスティニアヌス1世(以下、ユ帝と略す)が登場し、本格的な西方領土回復に乗り出した。彼はまず北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼし(534)、20年に及ぶ戦争で強力な東ゴート王国も滅ばした。さらにイベリア半島の西ゴート王国の地中海沿岸領土も攻略した。そしてラヴェンナに総督府を置き、イタリア半島の支配権を取り戻して西地中海を掌握したのである。
 東方でもササン朝と戦って東地中海の制海権も奪い、ユ帝時代の東ローマは地中海全域を押さえて、統一ローマ時代に近い領土を回復するに至った。首都コンスタンティノポリスは人口100万を擁する東西貿易の交差点として栄えた。実際、統一ローマ帝国が復活したかのようだった。
 ユ帝はまたローマ法の歴史的な集大成として今日まで影響を残すローマ法大全を編纂させ、統一ローマ復活の象徴的な文物として示した。
 しかし、このようなユ帝の「統一ローマ復活への道」は、彼の40年近い治世とともに終わりを告げた。急激に広大化した領土を維持するための重税は住民の生活を圧迫し、彼の在世中から反発を招いていた。「統一ローマ」はそれが存在していた時代から、すでに砂上の楼閣であったが、それの回復は「夏の夜の夢」であったのだ。
 ユ帝の死後、彼が回復した領土は徐々に切り縮められていき、東ローマ帝国は東方のキリスト教国として自己を規定し直すようになる。7世紀に入ると、帝国の公用語はそれまでのラテン語からギリシャ語に切り替わり、文化的にもギリシャ的・オリエント的な要素が濃厚になっていく。国教となって久しいキリスト教も西方ローマの影響を離れ、後にギリシャ正教と呼ばれることになる独自の体系として発達していく。
 それでも、人々は自国をなおローマと呼び続けたが、7世紀以降の東ローマ帝国はもはや言葉の真の意味での「ローマ帝国」ではなかった。それは後世そう呼ばれるようになった「ビザンツ帝国」と呼ぶにふさわしい別の国であった。それはまたキリスト教の僧衣をまとって再生したギリシャ世界でもあった。文明の重心は再び東へ戻っていく。ローマ帝国は、本当に終わったのである。(第2章了)

2011年10月 5日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第10回)

理論編

六 差別克服のための視座

 〈差別のない社会〉は、例外なくすべての人にとっての理想であろう。
 いや、自分は確信的な差別主義者であるから、〈差別のない社会〉よりも〈差別のある社会〉を理想と考えるという人もひょっとしておられるかもしれない。しかし、そういう人も海外へ一歩出れば人種差別にさらされる可能性を免れ得ないのであった。
 もっと言えば、ナチスの指導者ヒトラーのように、誰からも差別されそうにない“アーリア人”男性の確信犯的差別主義者でさえ、彼は画家を志しながら美術学校の受験に失敗し、一時野宿生活者同然の生活も経験した人で、能力差別・職業差別の対象になりかねない経歴を持ってはいたのである。
 もっとも、曲折を経て活動家・政治家として大成功した彼は、差別を克服するのでなく、反対に差別を極限化することによって人種的に浄化された民族共同体という彼なりの“理想”を実現しようとしたが、こちらは無残な自滅に終わった。結果から見れば、彼の“理想”はあべこべの逆ユートピアだったのだ。
 こうしてみると、〈差別のある社会〉の方向に光は見えてこないように思える。
 それにしても、〈差別のない社会〉はどのようにして可能なのだろうか。可能でないとしたらどうしたらよいのか。本章ではこうした問いに取り組んでいく。

命題22:
差別克服とは差別の根絶を目指すことではなく、すべての人が差別を社会悪と自覚して差別的価値観を脱却しようと努めることである。

 差別を文字どおりなくすという意味での差別の根絶は、不可能である━。まずはこのことが差別克服の出発点である。
 このような言明は反差別の情熱を燃やす人を消沈させ、差別主義者を鼓舞してしまうという懸念を持たれるかもしれない。しかし、一でも見たように、人間は価値を衡量する動物であり、しかも視覚的表象に依存する動物でもある。このような動物学的特性から誰も逃れることができない以上―もっとも、視覚障碍者だけは視覚的表象依存を免れているが―、差別を完全にゼロにすることは無理であろう。
 人間は不可避的に差別する動物である、と断言してもよい。それだからこそ、差別を放置するのでなく、克服する必要があるのである。差別克服とは、従って、〈差別のない社会〉の理想を目指すことではなく、〈差別が放置されることのない社会〉を目指すことであると言い換えてもよい。
 要するに、差別が社会悪として認識され、差別的価値観から脱却するための努力が絶え間なく継続されていくことが差別克服なのであり、本連載が主題とする〈反差別〉とは、そうした差別克服の道=プロセスのことなのである。
 以下、差別克服のうえで基本的な視座となるいくつかの考え方を検討していくことにしたい。

命題23:
人と人との間には様々な差異がある。しかし、人類としては一種類である。

 地球上に70億の人間が存在するが、ひとりとして全く同じ人間は存在しない。このことは真理である。
 しかし、その一方で、現生人類はホモ・サピエンス一種類しか存在しない。このこともまた真理である。
 実は、差別というものは、こうした生物学的には単一である人類の内部に存在する容姿、肌の色、性別、障碍、性的指向、職業、民族等々の様々な差異をことさらに強調し、その間の優劣をつけることから始まる。
 この点で、近年モードとも言える「差異の哲学」、それとも関連する「多様性」の社会理論は、〈反差別〉の観点から見たときには、逆効果の危険がある。というのも、差別は差異・多様性を決して否定しないどころか、それを温床とさえするからである。
 例えば、女性差別は人類の性差という差異を前提としているし―従って、男性優越論者は「男女の性差」を強調する―、人種/民族差別は人類の人種/民族という差異・多様性を前提としている―従って、人種/民族差別主義者は「人類みなきょうだい」の標語を嘲笑する―わけである。
 差異・多様性の理論は、差別の本質を差異・多様性の抹消、強制的同化にあると見ているのであろうが、その基本認識には再考の余地がある。
 たしかに、ナチスのような絶滅政策を追求していけば、最終的に残るのは同質的な「アーリア人」のみとなるのかもしれないが、これは差別の極限的暴走の果てであって、通常は人種隔離政策のように、差別は差異を完全に抹消しようとはしない。むしろ、容姿とか肌の色のような瑣末な差異を強調して、人類の単一性を否定しようとするのが、差別的価値観の典型的な思考法である。
 かつて米国で人種隔離を正当化する論理として「分離すれども平等」という法的ロジックが採用されたように、差異あるもの・多様なものの隔離的共存という考え方は、差異・多様性を利用した一つの差別思想なのである。
 こうしたことからすると、差別克服のためには、改めて人類の単一性、人間の類的存在性を確認し直した方がよいのである。

命題24:
人間にはほとんど無限といってよい差異があるが、そうした差異にばかり目を向けるのではなく、差異を超えた「人類」としての互いの共通点を見つめるべきである。

 実際のところ、人類の分類基準として従来、力を持ってきた「人種」とか「民族」とかいう概念も、他の動植物の科学的な分類基準とは全く次元の異なるもので、近代国民国家の形成と発展に伴って構築されていったそれ自体政治的な分類概念である。その他、性差とか性的指向など、必ずしも政治的とは言えない人類の分類基準も、あくまでも相対的な種差であって、その境界を絶対的に画することができるものではない。
 そうした政治的にも非政治的にも構築された差異を超えた共通性の認識は、私たちを「包摂の哲学」へ導くであろう。すなわち、それこそ「人類みなきょうだい」という、あの赤面を感じるほど素朴な標語にまとめることができる哲学である。
 もう少し赤面しない言葉で言い換えれば、要するにすべての人に「人間」としての対等な存在価値を認めるということになる。差別とは、別の角度から見れば、人間の非人間化である。日本の前近代における最下層民の蔑称の一つ、「非人」はすべての差別に妥当する普遍的な非人間化の所作の象徴なのである。
 なお、この「包摂の哲学」はいわゆる「同化」とは全く異なる。「同化」とは、日本政府が少数民族アイヌに対して長く強制してきた日本人化政策に代表されるような差異の強制抹消―しかも、優越的なものへの強制統合―にほかならない。
 これに対して、「包摂の哲学」は差異を抹消することなく、尊重しながらも、差異を超えた「人間」―ちなみに、アイヌとはアイヌ語は「人間」を意味するという―としての共通性に注目しようとするということが誤解されてはならない。

命題25:
被差別者が被差別特徴を自己のアイデンティティーとすることは、自己差別を克服するうえでは有効な場合があるが、差別一般を克服するための視座としては有効とは言えない。

 差異の哲学・多様性の理論についてやや否定的なことを書いたが、これらが有効に働く場面として、上にまとめたアイデンティティー構築がある。
 かつて、米国の人種差別撤廃運動の中で、「ブラック・イズ・ビューティフル」(黒は美しい)というスローガンが掲げられたことがあった。黒とはもちろん、黒い肌のことを指している。これは、人種差別において被差別特徴とされる黒い肌をあえて自己のアイデンティティーとしてプライドに変えようとする言説である。
 その他、「障碍とは一個の個性である」とか、同性愛者が自らを「ゲイ(gay)」―この語には「陽気な」「快活な」といった意味がある―と呼んだりすることも同様であるし、女性が女性性(フェミニティー)を称揚するフェミニズムもそうした被差別者のアイデンティティーに根ざした社会理論の成功例である。
 こうした被差別者のアイデンティティー構築は、自分自身の被差別特徴を自ら劣等視する自己差別を克服するうえで有効であることを認めないわけにはいかない。
 とりわけ、自己差別が生じやすい容姿差別や人種/民族差別、同性愛者差別などの分野では、被差別者は自身でアイデンティティー構築のプロセスを体験しなければ先へ進めないこともあり得る。
 そうではあるが、このアイデンティティー路線で差別一般の克服を目指すことは難しい。まず、何人も自己のアイデンティティーの承認を他人に強制する権利を持っていない。例えば、黒人としてのアイデンティティーの承認を白人を含む非黒人に対して強制することはできないのである。
 もしそれを強制するならば、黒人は白人としてのアイデンティティーも相互的に承認しなければならなくなるが、このような強制的相互承認は一種の「住み分け」を結果する。要するに、「私は私、君は君」というわけである。こうして、結果的には、かの「分離すれども平等」という隔離的共存へ至ってしまうのである。言わば、相互隔離主義である。
 一般的に、アイデンティティーとは「自己同一性」と訳されているように、自己への同化現象であるから、自己愛が肥大化し、他者の姿が見えなくなる危険性を持つ。見方を変えれば、白人優越主義のような差別言説も、白人なりのアイデンティティーが肥大化していった結果とも言えるのである。
 逆に、被差別者のアイデンティティーが肥大化していけば、例えば「黒人優越主義」とか「女性優越主義」というような逆転的差別言説が生じかねない危険が内包されている。
 このことは特に、多文化主義政策を採用するときには注意を要する。住民の文化の多様性を称揚することは、各文化を保持する民族のアイデンティティーを肥大化させ、相互隔離・排斥の風潮を作り出す危険を生み出すのである。
 また、近年、国際社会でも定着しつつある「先住民族」という概念も同様である。ここでは、被差別民族の「先住性」を強調することがその民族のアイデンティティーを目覚めさせる一方で、肥大化もさせていく恐れがある。
 アイデンティティー構築は、あくまでも自己差別を克服するための社会心理的な(場合によって個人心理的な)「療法」にとどめ、多文化主義のようにアイデンティティーを政策に取り込むことには努めて慎重であるべきだと考える。
 この点で、本連載の立場は、「差異」「多様性」をキーワードに差別を克服しようとする近年の流れとは異なるアプローチを試みるものである。

命題26:
差別克服の知覚上の切り札は、目に見える外面的な美にとらわれる態度を捨て、目に見えない内面的な美を重視する態度を涵養することである。

 「包摂の哲学」と言われても、現実に人と人との間には大きなへだたりがあって、それら差異ある人々をすべて「同じ人間」と認識することはなかなか困難だという疑念もあろう。
 ただ、そこで言われるへだたりとは、ほとんどの場合、目に見える特徴に着目した差異を意味している。典型的には容姿である。それでも、誰が見ても醜悪と評されるような容姿の者はいるのではないか、そういう者を差別して何が悪い?という開き直りの本音も聞こえてきそうである。
 視覚的な美醜の価値判断が差別の出発点であることを一で指摘したが、視覚的な美醜とは目で見える美を優等的として称賛し、醜を劣等的として蔑視する評価基準にほかならない。
 実は、学術としての美学も、主としてこのような外面的な美に注目して、絵画や彫刻などを鑑賞評論する。美学が差別を助長しているなどと糾弾するつもりはないが、このような美学の思考方法、すなわち「外面性の美学」は差別の視線とも重なり合うものである。
 こうした外面性の美学に対して、目に見えない内面の美を重視することを、「内面性の美学」と呼ぶことができるが、これこそが差別克服のうえで知覚上の切り札となる。
 元来、日本には「見目より心」という格言があるが、今日ではほとんど死語に近い状態で、逆に「心より見目」、「見た目」至上の価値観が支配的となってきている。しかし、「見目より心」というわずか五文字の格言の中に内面性の美学のすべてが凝縮されている。かつての日本人はこのような美学に到達していたのであるから、現在の「見た目」至上の外面性美学の横行は歴史的な後退と言わざるを得ない。
 こうした内面性の美学を嫌でも実践せざるを得ないのが、視覚障碍者である。中でも全盲者は視覚がない以上、視覚的表象をそもそも持ち得ない。従って、かれらにとって外面性の美学は意味をなさない。かれらはとりわけ人間を評価するうえでは、必然的に内面性の美学によらざるを得ないのである。
 このような全盲者の価値基準、言わば「全盲の倫理学」を全員が実践したい。実際、英語には「カラー・ブラインド(color-blind)」という単語がある。これは肌の色で差別しない、従って「人種平等的な」という意味の合成語で、ブラインドとは「盲目の」を意味するから、カラー(色)に対して「盲目」とは、肌の色のような外面的な表象にとらわれない態度をいう。この単語には、全盲の倫理学が埋め込まれているのだ。
 要するに、肌の色に限らず、容姿に始まるあらゆる外面的な被差別特徴に対してブラインドになることが全盲の倫理学の実践である。
 もっとも、この内面性の美学にも限界はある。二でも言及したように、視覚的表象もある程度抽象化されるため、犯罪を犯した者のように内面が「醜悪」とみなされる者には、やはり差別の視線が向けられやすいからである。
 凶悪殺人犯、あるいはナチスの絶滅政策のような邪悪な反人道的差別犯罪を実行した犯人らは人でなしの鬼畜とみなして死刑に処せられるべきか、それともかれらもまた「人間」に包摂されて生かされるべきか━。こうした難問は、実践編で改めて個別に課題としてみたい。

2011年10月 4日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第8回)

第2章 略

三 帝国への道

(1)軍事大国化
 ローマにもギリシャのポリス同様の戦士共同体的な性格があったと見られるが、ローマの重装歩兵軍は非常に強力で、これを武器にローマは前4世紀頃から積極的な征服戦争に乗り出していく。
 その最初の標的はエトルリア人のほか、イタリア半島に数多く割拠していた同族のラテン人であった。ローマははじめこうしたラテン人の諸都市と同盟関係(ラテン同盟)を結んでいたが、次第に対立が深まり、前4世紀末にはラテン同盟と交戦し(ラテン戦争)、勝利した。
 続いて、前3世紀に入ると、未開ながら強力なイタリキ系山岳民族サムニウム族を三次の戦争で撃退し、さらに半島南部のギリシャ人植民市も征服して前3世紀前半までに半島全土をほぼ制覇した。
 イタリア半島の覇者となったローマは目を海外へ向け始めた。最初に当時南部のシチリア島を支配していたフェニキア人が目に留まるのは必然であった。
 前3世紀半ばから前2世紀半ば頃にかけてフェニキア人勢力との間で三次にわたって戦われた有名なポエニ戦争のよく知られた経過をここで改めて書き記すことはしない。ローマは勝った。そしてこの戦勝はローマにとって歴史的転機となった。ローマはフェニキア人から北アフリカやイベリア半島南部も奪い、地中海覇権を手にしたのだ。
 当時、東地中海にはまだマケドニアを盟主とするギリシャ諸都市が残っていたが、ローマは三次にわたる戦争でマケドニアを破ってギリシャ諸都市を「解放」した。さらにギリシャ都市同盟とも戦ってこれを打ち破り、前2世紀後半までには、ペルシャが狙って成功しなかったギリシャ征服も達成した。
 このようにして早くもイベリア半島から北アフリカ、小アジアにまでまたがる海外領土を獲得したローマは、ペルシャと同様、それらの領土を属州に編入し、総督を派遣して徴税した。また属州には商人も展開して属州民を搾取するようになった。それと同時に軍事的な戦略拠点には植民市を設けてローマ市民を送り込み、重要都市を軍道で結んで「点と線」の支配を強化していった。
 こうしてローマは、それまでどの民族も達成することがなかった地中海域を広く支配する軍事大国として台頭した。

(2)共和制の揺らぎ
 ローマの海外征服活動が活発化していく中で大きな社会矛盾も生じてきた。その最大のものは有力者への土地の集中であった。
 元老院議員らは戦争や属州支配を通じて富を築き、公有地占有や私有地買占めなどにより大所領を獲得し、戦争捕虜らを奴隷として使役して商品作物を生産する農場経営を行った(ラティフンディア)。前3世紀末に元老院議員の商業活動が禁じられると、今度は騎士身分を取得し、商人として財を成した富裕なプレブスが土地を購入し、農場経営を始めるようになった。
 一方には、土地を手放さざるを得ない中小農民たちがいた。かれらがそうぜざるを得なかったのは、当初は海外遠征の多発で長期間海外で兵役に就いている間に農地が荒れたり、あるいは戦死によって農地所有者がいなくなったりしたことによったが、海外領土が増えると属州から安価な作物が流入してローマ本土の農民は競争に勝てず没落するという今日の「市場開放」と同様の問題が生じてきたためであった。
 土地を手放した中小農民は無産者(プロレタリー)となり、ローマ市へ流れ込んでいった。かれらは建築や職人などの労働をこなすようになる。まるで近代の資本主義勃興期さながらの先駆的な流れがここにみてとれるのである。支配層はこうした無産大衆をなだめ、抑えるため、食糧配給の一方で競技や娯楽を提供する「パンとサーカス」政策で歓心を買おうとしたが、びほう策でしかなかった。
 前2世紀半ばには、改革は不可避となっていた。前133年、護民官に就任したティベリウス・グラックスは富者の占有する土地を没収してプロレタリーに配分するという端的な土地改革に着手しようとした。しかし、彼はそのためにいくつかの重要な慣例を破る大胆な手法に出たために反対派によって暗殺された。10年後、同じく護民官となったティベリウスの弟ガイウス・グラックスは兄の遺志を継いで土地改革に再挑戦したが、またも反対派の反撃に直面し、暗殺された。
 こうして勇敢な護民官グラックス兄弟による土地改革は完全な失敗に終わった。この頃から次の前1世紀半ば頃まで、ローマは長い内乱の時代に突入する。
 この間、平民派の軍人マリウスはプロレタリーを私兵として訓練し戦争に投入するという方法を編み出し、軍事力回復と無産者救済の両立を狙ったが、これは有力者が私兵軍団を抱えて権力闘争に利用する悪しき先例ともなった。
 このマリウスの政敵となった閥族派スッラは同様の手法を使ってマリウス派と抗争し、やがて権力を握って苛烈な反動的独裁政治を断行した。

(3)奴隷反乱と同盟市戦争
 内乱期に表面化してきた今一つの社会矛盾は奴隷制であった。ギリシャ・ローマでは奴隷の存在は常識であり、かのアリストテレスも人間には生来奴隷にふさわしい者がいると断じて奴隷制を擁護していたほどであるが、ローマではギリシャ以上に奴隷は大々的に活用されていた。ギリシャの奴隷の多くは家事や農耕に従事する家内奴隷であったのに対し、ローマの奴隷はかのラティフンディアで使役される農場奴隷や剣闘士奴隷であり、その待遇は劣悪であった。
 征服戦争の多発化により大量の戦争捕虜が奴隷として連行され、イタリア本土やシチリアの農場で使役されるようになったが、そうした中で、シチリアでは前135年と前104年の二度にわたり、大規模な奴隷反乱が発生した。奴隷はいつしか階級的な団結力を示すまでになっていたのである。
 最も大規模な奴隷反乱は前73年から71年にかけて二年間も続いた剣闘士奴隷スパルタクスが指導したものである。エトルリア起源と言われる剣闘士競技はローマの大衆的娯楽として熱狂的な人気を誇ったが、ローマ市民は次第に剣闘士が文字どおり死ぬまで試合を続けることを望むようになったため、剣闘士競技はまさに命がけであった。
 スパルタクスらの当初の目的は、そうした境遇を脱するため集団で帰郷する「脱走」であったらしいのだが、なぜか途中で引き返しローマ軍と衝突することとなった。一時は各地でローマ軍を撃破する勢いを見せたが、スパルタクスが戦死し、結局は鎮圧され、首謀者らは残酷に処刑された。
 こうしてローマは奴隷反乱に対しては武力鎮圧と処刑という力で対処する姿勢を見せ、その抑止を図った。奴隷制が廃れるのは征服戦争が終息し、奴隷の供給不足から奴隷が値上がりし、奴隷制が内在的な限界に達した後2世紀以降を待たねばならなかった。
 一方、法的な側面での矛盾として、ローマ同盟市の市民権問題がある。かねてイタリア半島内のローマ同盟市はローマの征服戦争では協力を強いられながらローマ市民権が保障されないため、戦利品や占領地の分配などの利益に与ることがなく、不満が高まっていた。
 こうした中、前91年、同盟市はローマ市民権を求めて蜂起し、ローマとの間で戦争となった(同盟市戦争)。この戦争は三年ほど続いた末、ローマ側が譲歩し、イタリア半島の全自由民に市民権が付与された。
 ローマはずいぶん前からすでにイタリア全土を支配する事実上の領域国家であったが、半島自由民すべてにローマ市民権が拡大されたことにより、法的にも領域国家となった。ローマはもはや単なる都市国家ではあり得なかった。今や、それは一個の―皇帝なき―「帝国」なのであった。

(4)三頭政治から「帝政」へ
 ローマの共和制は前2世紀後半に入ると大きく揺らぎ始めていたわけだが、そうした中で軍人政治家の台頭が目立ち始める。
 マリウスはその嚆矢であったが、前1世紀半ばに至ると、その傾向はいよいよ強まる。中でもスパルタクスの大反乱を鎮圧して名を挙げたポンペイウスとクラッスス、さらに平民派として大衆的人気を誇ったカエサルの三人組が実力を伸ばす。
 彼らは前60年、保守的な元老院に対抗して密約によって権力を分有する寡頭政的な三頭政治(いわゆる第一回三頭政治)を開始した。
 わけても、カエサルは元来先史時代から印欧語族系ケルト人の地であったヨーロッパ大陸西部(ガリア)を征服して声望を高めた。この征服はローマの本格的な北方進出を意味した。それは、大局的に見れば、共和制の内在的な限界をさらなる海外侵略・領土拡張によってカバーし、大衆の不満の目を逸らそうとする策とも言える。
 とみに高まってきたカエサルの声望と人気を恐れた元老院とポンペイウスはカエサルの排除を狙ったが、カエサルは反撃に出てローマを占領、ポンペイウスはエジプトに逃亡し、暗殺された。カエサルは元老院勢力をも抑えて独裁官に就任した。
 政治家としてのカエサルは、大衆迎合政治の先覚者でもあった。彼は例の「パンとサーカス」政策を巧みに展開してますます大衆的人気を博した。一方で元老院や民会を骨抜きにして権力集中を図り、前44年にはついに終身独裁官に昇った。
 ここに至って危機感を高めた旧閥族派を中心とする共和派は行動に出て、同年、カエサルを暗殺した。しかし、カエサルの死は大衆や兵士を悲嘆・動揺させたため、反カエサル派は権力を固めることができず、カエサル派のアントニウス、レピドゥス、さらにカエサルの親類で養子のオクタウィアヌスの三人が反撃して反カエサル派の打倒に成功した。
 三人は前43年、国家再建を掲げて三頭政治(第二回三頭政治)を開始する。この中から台頭していくのがオクタウィアヌスであった。彼はまず最も力量に欠けるレピドゥスを実権のない最高神官職に追いやった後、アントニウスと対決する。
 この後、エジプト女王クレオパトラを巻き込んでのよく知られた経緯については省略する。結論として、オクタウィアヌスは勝利し、前27年、元老院から「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を受け、最高権力者に就いた。
 これ以降のローマの国政は通常、「帝政」と呼ばれている。アウグストゥスは形式上は正式の君主に即位しない一方で、養父のカエサルのように終身独裁官にもならず、単にインペラートル(最高軍司令官)や執政官、護民官などの伝統的な要職すべてを一人で兼職したうえ、自らを元首(プリンケプス)と称して統治した。
 彼は用心深い人物で、体制が激変した印象を与えないように注意深く行動し、専制的な振る舞いを避け、元老院や民会にも立法をさせて、伝統的な共和制を形式上尊重するかのような態度を取った。
 とはいえ、一人であらゆる要職を兼職する「元首」とは、実質的に見て「君主」にほかならず、それはアウグストゥスが40年余りに及ぶ治世の後、「元首」の地位を養子ティベリウスに世襲させたことで確証された。
 すでに対外的には「帝国」となって久しかったローマの伝統的な共和制は、紀元前後の変わり目の時点ではもはや限界に達していたのである。アウグストゥスの登場と彼による「帝政(プリンキパトゥス)」の開始は、長い内乱期を経てローマが対内的にも「帝国」として脱構築されたことを意味していただろう。
 ただし、ローマ的「帝政」は、東方の専制君主制におけるそれのように、厳格な血統原理に基づく皇位の世子継承が貫かれるものではなく、世襲の場合もしばしば養子継承が行われたし、後代になるとクーデターによる軍人の帝位簒奪もたびたび発生した。
 これは、ローマにおいては伝統的な共和制原理が相当に根強かったことを示している。そのため「帝政」には常に不安定さがつきまとい、そのことはやがて帝国分裂の遠因ともなったであろう。

2011年10月 1日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載第9回)

理論編

五 差別と言葉(続き)

命題19:
どのような文脈で用いても直接に差別語となることはないが、言外に差別的なニュアンスを含む前差別語の使用も差別的価値観の浸透を助ける。

 こうした前差別語の典型例は「黒人」である。この言葉は前差別語というよりも差別語そのものだとみなす見解もあるかもしれないが、さしあたりマス・メディアなどでも公式に用いられており、明らかに差別語とは言い難い。
 とはいえ、「黒人」とは肌の黒さをことさらに強調する言葉であり、対語となる「白人」と対照させて使用された場合には、肌の色が人間にとって重要な意味を持つという人種主義の価値観を支える用語ともなる。そうした点では差別の一歩手前まで行くという意味で、前差別語なのである。
 他に微妙な例としては、「外国人」や「犯罪者」といった言葉がある。どちらも、法令上でさえ用いられる言葉であるが、それが使用される文脈によっては差別的なニュアンスが発生する。
 例えば、「外国人風の二人組の強盗」といった表現は直ちに差別的とは言えないが、外国人と犯罪とが暗示的に結びつけられることによって外国人を差別する価値観を支えることになりやすい。まして、「外国人」と「犯罪者」が結合されて「外国人犯罪者」という合成語ともなれば、相当露骨に外国人差別の価値観を助長する前差別語となる。
 また、「犯罪者の味方をする弁護士」という表現も、犯罪者というものを本来法的弁護にも値しない人間失格者とみなす価値観を助長することになる。
 一方、本来は前差別語ではないのに、国の漢字政策のあおりで前差別語の性格を持たされてしまった不幸な言葉が「障害者」である。
 こうした前差別語を差別語と同様に禁句とすることは困難であるが、乱用されれば差別的価値観の流布を助けることになりかねない。そこで、前差別語を別の表現で言い換えることを通じて、行論上特に必要のない限り、極力使用を控えていくことが必須とは言わないまでも、望ましいであろう。
 例えば、「黒人」は「アフリカ系米国人」または「アフリカ人」(国籍がわかる場合は、ケニア人とかナイジェリア人などと表記)など、「外国人」は「外国出身者」、「犯罪者」は「犯罪をした者」(または「罪を犯した者」)などである。「障害者」は近年、「障がい者」と一部平仮名表記をすることが多くなってきているが、これは「碍」または「礙」の字が当用漢字でないことによる便法である。
 こうした言い換えによっても、意味的にはさして変わらない場合もあるが、言い換えることによって前差別語としてのニュアンスが消去されるのである。

命題20:
差別語を使用しないが、内容上差別思想の表現である差別言説は、個々の差別語以上に人々の意識に差別的偏見を植え付ける可能性がある。

 前回冒頭でも指摘したように、差別は個々の単語にとどまらず、ひとまとまりの言説に高められ流布されていく。
 そうした差別言説の最も初歩的なものとして、例えば「黒人には犯罪者が多い」「男は女より精神力が強い」「精神障碍は遺伝する」などがある。
 こうした言説では差別語は使用されていないにもかかわらず(一部に前差別語を含む)、それぞれ黒人や女性の劣等性、精神障碍の遺伝的承継性といった差別的価値観を助長する大きな効力を持つ。こうした言説は単純な「黒ん坊」「あま」「気違い」といった個々の差別語以上に差別的価値観を人々の意識に植え込んでいくものである。
 もっとも、こうしたまさに初歩的で格言的な言説はまだ思想性を帯びていないため、せいぜい一般大衆の意識の内にとどまるだけであるが、近代的差別の第一の思想的源泉として指摘した優生思想などは知識人の間でも広く共有された権威的な言説の地位を獲得したのである。その極限としてのナチスの絶滅政策にしても、それを理論的に支えたのは高度な教育を受けた“エリート”の医学者や科学者たちであったのだ。
 こうした差別言説に対しては、単に差別語を禁句とするだけでは全く対応し切れず、各言説の虚偽性ないし偏向性を的確に批判していく必要がある。
 ところが、差別言説は一部商業出版社がこれを強力にエンドースし、差別言説を宣伝するような書籍を公刊し、差別的価値観の普及に力を貸している現状がある。言わば、差別の商品化である。
  近代的差別の思想的源泉の第三のものとして指摘した資本主義は、差別的価値観に強力な普及の場としての市場を提供することによっても、差別を下支えしてきたのである。

命題21:
差別を克服するためには差別語・差別言説を法的に禁止するのではなく、それらが前提としている差別的価値観を転覆していく必要がある。

 差別が何よりも言葉から広がるとすれば、差別語の使用や差別言説の流布を検閲や刑事罰によって禁止することが差別克服のうえで最善の道ではないか━。
 差別克服の情熱を持つ人ほどこのような発想に赴きやすい。しかし、事はそれほど単純でない。差別における言葉とは、たとえて言えば表玄関に相当する。検閲や刑事罰の導入は、言わば表玄関をふさぐことである。そのことが無意味とは言わないが、表玄関をふさいでも、裏口から窓からこっそりと侵入してくるのが差別である。
 仮に、「気違い」という差別語の使用を法的に禁じたところで、精神障碍を劣等視する価値観はこっそりと残存し、むしろ地下に潜行してかえって深く社会に浸潤していくかもしれない。また、優生思想を流布する言説を検閲で取り締まっても、優生思想は生物学や医学の中に姿を隠して生き延び続けるであろう。
 ちなみに、ドイツではナチズムを称揚するような行為は刑法で処罰されるが、ドイツが今日でもナチズムを信奉するネオ・ナチ運動の中心地であるという事実は、差別と言葉を考えるうえでも示唆的である。
 誤解してならないのは、差別語・差別言説を法的に禁止することに否定的であることは、決してそれらを野放しにすることとイコールではないということである。むしろ、差別語・差別言説はその前提となっている差別的価値観を転覆する努力を通じてのみ滅びるのだということを強調したいのである。
 例えば、肌の色が白であろうと、黒であろうと、はたまた緑でさえあっても、肌の色など人間の存在価値においては何の意味も持っていないという意識が確立されれば、人種差別的言説も滅びるわけである。
 逆に、肌の色が人間の存在価値において重要な意味を持っているとの人種差別的価値観が残存している限り、たとえ人種差別的言説の流布を厳罰をもって禁止したところで、人種差別はこっそりと生き延び続けるであろう。

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