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2011年9月30日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第8回)

理論編

五 差別と言葉

 差別は劣等視の視線の言葉化・言説化からスタートするとすれば、差別における言葉という要素は決定的である。
 おそらく世界中すべての言語の中に差別を言葉化した差別語のリストがある。そうした差別語は公式には使うべきでない禁句となっているが、こうした禁句慣例には、表現者の側から「言葉狩り」との反論が向けられることもある。差別語を禁ずることは果たして差別克服の切り札となるのだろうか。
 一方、差別は個々の単語としての差別語にとどまらず、一つのまとまりを持った言説に練り上げられていく。とりわけ近代的差別は、三で見たように、いくつかの思想的源泉をよりどころとしつつ、言説として昇華され、一般社会にも流布されていく。このような差別の言説化はどのようにして生じ、またどのような作用を私たちに及ぼしているのだろうか。
 本章では、こうした「差別と言葉」に関わる論点を整理してみたい。

命題16:
差別語とは、それ自体として直接に特定の個人や集団を侮蔑する言葉をいう。

 差別語と挙げてみよと問われたときにすぐに思い浮かぶのは、ブス、デブ、チビ、ちんば、せむし、めくら、つんぼ、黒ん坊、オカマ、白痴、気違い等々の名詞的言葉たち―あるいは、「キモい」とか「汚い」、「臭い」といった形容詞が差別語となる場合もある―であろう。
 これらの言葉が何故に差別語かといえば、それはそうした言葉がそれ自体として直接に特定の個人や集団を見下し、蔑視するものだからである。
 ここで「それ自体として直接に」という限定を加えたのは、後で取り上げるように、それ自体は差別語でないが、その語の反面のものを差別する反面差別語、同様にそれ自体は差別語でないが、言外に差別的ニュアンスが込められており、差別一歩手前というべき前差別語を区別するためである。

命題17:
差別語は、文脈上例外的にその使用が免責される場合がある。

 「差別語=禁句」という定式は今日、差別とは何かを十分に理解していない人にとっても常識的な社会規範となっているように見えるが、実際のところ、差別語の使用が例外的に許され、言わば免責される場合がある。
 その最も代表的なものは、差別語を非差別的文脈で用いる場合である。例えば、先に筆者がたくさんの差別語を列挙したのは「差別と言葉」という問題を論じるに当たって具体例を取り出そうとする文脈においてであって、例示の対象となる個人や集団を差別する文脈においてではなかった。
 もっと端的な例では、「めくらとかちんばという言葉を使用してはならない」という注意書きにおける「めくら」や「ちんば」といった語も、使用すべきでない差別語を例示する文脈で使用されている。
 もしも、こうした文脈でも差別語の使用を禁じて、「***とか***という言葉を使用してはならない」というように伏字にすると意味をなさなくなってしまう。従って、このような非差別的文脈では差別語の使用はむしろ許されなければならないわけである。
 より微妙なのは、口論に際して喧嘩言葉として「気違い!」といった差別語を使用する場合である。こうした口論の場合でも、実際に精神障碍のある相手に向かって「気違い!」という言葉を投げつけるのは明らかに差別的な文脈での使用となるが、口論相手に精神障碍がない場合には、差別的というよりも侮辱的な文脈での言葉使用と言えるので、口論に際して思わずそうした言葉を吐くことまで抑制するのは無理であろう。
 今一つの微妙な例は文学作品の中での差別語の使用である。まず、一般論として、文学作品であれば当然に差別語の使用が認められるということにはならない。しかし、フィクションの場合には通常の叙述とは異なる特有の考慮が必要であることから、後に改めて検討することにする。

命題18:
差別語(反面差別語を含む)の使用は、それによって、その言葉が体現している差別的価値観を宣伝する効果を持つ。

 差別語の使用が文脈上免責される場合は別としても、差別語の使用を原則的に禁句にすることを「言葉狩り」として批判する向きもある。後述するように、差別語を単に個別に問題にするだけでは差別の克服にはつながらないことはたしかだが、だからといって、差別語の使用も表現の自由の行使であるとして野放しにするわけにはいかない。
 差別語の(差別的文脈での)使用が問題である理由として、その言葉が向けられる相手を傷つけるということもあるが、それだけではない。
 差別語には、それを使用することにより、その言葉が体現している差別的価値観を宣伝する効果があるということがより重要である。例えば、「○○は気違い病院に入ったらしい」という表現は、精神障碍者を傷つけるだけでなく、精神障碍を正気でない劣等的な属性とみなす価値観を聞き手にも宣伝する効果を持っている。単なる街の噂話にすぎないような何気ない表現であっても、このような表現が当然のごとくにまかり通ってしまうことは、精神障碍者に対する差別を社会全体に普及させるに等しいことなのである。
 ただし、例えば小説家が、偏見の強い作中人物の言葉として上のような会話文を書くことは差別的価値観の宣伝にはならないが、それはフィクションという創作の世界でだけ許される例外である。
 一方、それ自体としては差別語に当たらないが、その言葉の反面のものを劣等視する反面差別語の問題性は従来ほとんど考えられてこなかった。
 反面差別語には、美人(美女)、美男子、イケメン、カッコいい、利口、頭が良いなど、容姿や能力に関わる言葉が多い。これらの言葉自体は称賛語であるから禁句集には搭載されないが、各々の言葉の反面的なもの、すなわち容姿の醜さや知能・能力の欠如を劣等視する価値観を伴っている。
 従って、例えば「彼はイケメンだ」などという最近の流行表現は、その裏に非イケメン男性に対する差別が隠されており、こういう表現が社会的に普及していくことは、「人間、見た目がすべて」というあらゆる差別の根元にある容姿差別の価値観を宣伝するに等しいことなのである。これも何気ない日常的な流行語の中に重大な差別が潜伏している興味深くも深刻な一例である。
 こうしたことから、差別語(反面差別語を含む)の使用は控えるべきであり、これらの言葉は日常使われないために知る人自体がまれとなる死語とされることが望ましいのである。実際、例えば、ちんば、せむし、つんぼ、めくらなど、身体・感覚障碍に関するいくつかの単語はすでに死語と化していると言える。
 ただ、美人、イケメンといった反面差別語まで禁句とすべきかいぶかる向きもあろうが、それらも差別語に準じて考えるべきである。そもそも日本ほど人の容姿を強調する言葉が日常的に飛び交う社会は珍しいのではなかろうか。このことは、現代日本社会に容姿差別が相当な規模で広がっている事実を反面的に示唆するものと言える。
 こういうわけで、反面差別語をも死語化することは、差別克服のうえで大きな推進力となるであろう。

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