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2011年9月 6日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第4回)

理論編

二 差別の要因

 で定義づけたような差別は、悲しむべきことに、世界中至るところでほとんど毎日のように生じていると言ってよい。差別はおよそ人間界につきものの現象なのだ。いったいなぜ、人間はかくも差別を好むのであろうか。差別の要因を探ることがこの章の目的である。

命題5:
人間は価値を量る存在、評価し、量定する存在、「本来価値を査定する動物」として自らを特色づけた(ニーチェ)。

 ドイツの哲学者ニーチェは、『「負い目」・「良心の疾しさ」・その他』と題する論文の中で、このような人間観を示している。
 差別はまず優劣の価値評価を土台としていることを先に見たが、このことは、ニーチェが指摘するように、人間が「本来価値を査定する動物」であるということに由来するだろう。
 人間は物であれ、人間であれ、事物を弁別し、それに価値の序列をつけずにはいられない動物である。このような価値衡量は、およそ人類に共通する知的営為の一環であって、おそらくは人類にしか認められない特殊知能の作用である。
 そのような知能のおかげで、人間は価値の低いものを劣等視して蔑視するという習性をも身につけてしまったのだ。このことが、差別の最も根元的な要因を成している。

命題6:
人間は、視覚的情報に依存する度合いの高い「見る」動物であり、なおかつ見たものに美/醜の価値評価を下す動物である。

 先に、差別は視線と関わっていることをも指摘したが、このことは人間が目で見て認知した情報に依存する動物であることに由来する。
 人間は進化の過程で五感の作用が全般的に退化したものと考えられるが、その中で視覚だけは比較的良く保たれているため、有視覚者はまず対象を「見る」ことを通じてその対象に関する情報を取得するのである。
 しかも、人間はただぼんやりと対象を「見る」のではない。見たうえで、美/醜の価値評価を下す。この美/醜の価値判断もまた人類固有のもので、例えば犬も対象を「見る」が、かれらが見たものの美/醜を判断することはあり得ない。
 こうした美/醜という価値評価にあっては、通常、美に優越的価値が与えられ、醜は劣等視される。たとえボードレールのような「醜の美学」が説かれることがあっても、それは醜悪なものに対するエキゾティックな好奇の視線に基づく価値の転倒にすぎない。
 差別の生じる根本的な要因を決定づけるものは、対象たる人間を「見る」ことを通じて、そこに醜悪な要素を発見し、その人間を劣等視することである。
 であればこそ、あらゆる差別の出発点は、人間の容貌や体型を対象とする容姿差別なのである。人種差別のように相当に観念化された差別ですら、先に指摘したとおり、被差別対象たる人種の容姿に対する醜怪さの評価に端を発しているゆえんである。
 また、「人間、第一印象がすべて」などといった処世訓も、人間が他者の価値を査定するに際して、いかに視覚的表象、ありていに言えば容姿の美/醜に依存しやすいかを物語っている。
 もっとも、「見る」という知覚作用は相当程度に抽象化され得るものであるから、例えば「醜悪な犯罪」というように、道徳的な評価にも美/醜の価値判断が拡大され、そのような「醜悪な犯罪」を犯した人間そのものが醜悪な存在とみなされ、「鬼畜」などと劣等視されることもある。
 個別の差別事象によっては、こうした視覚的表象の抽象化が高度化しており、もはや直接に「見る」ことと関連していないように思われるものも認められるが、そうした場合にあっても、詳細に分析すればどこかに視覚的表象との関わりが残されているものである。

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