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2011年9月

2011年9月30日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第8回)

理論編

五 差別と言葉

 差別は劣等視の視線の言葉化・言説化からスタートするとすれば、差別における言葉という要素は決定的である。
 おそらく世界中すべての言語の中に差別を言葉化した差別語のリストがある。そうした差別語は公式には使うべきでない禁句となっているが、こうした禁句慣例には、表現者の側から「言葉狩り」との反論が向けられることもある。差別語を禁ずることは果たして差別克服の切り札となるのだろうか。
 一方、差別は個々の単語としての差別語にとどまらず、一つのまとまりを持った言説に練り上げられていく。とりわけ近代的差別は、三で見たように、いくつかの思想的源泉をよりどころとしつつ、言説として昇華され、一般社会にも流布されていく。このような差別の言説化はどのようにして生じ、またどのような作用を私たちに及ぼしているのだろうか。
 本章では、こうした「差別と言葉」に関わる論点を整理してみたい。

命題16:
差別語とは、それ自体として直接に特定の個人や集団を侮蔑する言葉をいう。

 差別語と挙げてみよと問われたときにすぐに思い浮かぶのは、ブス、デブ、チビ、ちんば、せむし、めくら、つんぼ、黒ん坊、オカマ、白痴、気違い等々の名詞的言葉たち―あるいは、「キモい」とか「汚い」、「臭い」といった形容詞が差別語となる場合もある―であろう。
 これらの言葉が何故に差別語かといえば、それはそうした言葉がそれ自体として直接に特定の個人や集団を見下し、蔑視するものだからである。
 ここで「それ自体として直接に」という限定を加えたのは、後で取り上げるように、それ自体は差別語でないが、その語の反面のものを差別する反面差別語、同様にそれ自体は差別語でないが、言外に差別的ニュアンスが込められており、差別一歩手前というべき前差別語を区別するためである。

命題17:
差別語は、文脈上例外的にその使用が免責される場合がある。

 「差別語=禁句」という定式は今日、差別とは何かを十分に理解していない人にとっても常識的な社会規範となっているように見えるが、実際のところ、差別語の使用が例外的に許され、言わば免責される場合がある。
 その最も代表的なものは、差別語を非差別的文脈で用いる場合である。例えば、先に筆者がたくさんの差別語を列挙したのは「差別と言葉」という問題を論じるに当たって具体例を取り出そうとする文脈においてであって、例示の対象となる個人や集団を差別する文脈においてではなかった。
 もっと端的な例では、「めくらとかちんばという言葉を使用してはならない」という注意書きにおける「めくら」や「ちんば」といった語も、使用すべきでない差別語を例示する文脈で使用されている。
 もしも、こうした文脈でも差別語の使用を禁じて、「***とか***という言葉を使用してはならない」というように伏字にすると意味をなさなくなってしまう。従って、このような非差別的文脈では差別語の使用はむしろ許されなければならないわけである。
 より微妙なのは、口論に際して喧嘩言葉として「気違い!」といった差別語を使用する場合である。こうした口論の場合でも、実際に精神障碍のある相手に向かって「気違い!」という言葉を投げつけるのは明らかに差別的な文脈での使用となるが、口論相手に精神障碍がない場合には、差別的というよりも侮辱的な文脈での言葉使用と言えるので、口論に際して思わずそうした言葉を吐くことまで抑制するのは無理であろう。
 今一つの微妙な例は文学作品の中での差別語の使用である。まず、一般論として、文学作品であれば当然に差別語の使用が認められるということにはならない。しかし、フィクションの場合には通常の叙述とは異なる特有の考慮が必要であることから、後に改めて検討することにする。

命題18:
差別語(反面差別語を含む)の使用は、それによって、その言葉が体現している差別的価値観を宣伝する効果を持つ。

 差別語の使用が文脈上免責される場合は別としても、差別語の使用を原則的に禁句にすることを「言葉狩り」として批判する向きもある。後述するように、差別語を単に個別に問題にするだけでは差別の克服にはつながらないことはたしかだが、だからといって、差別語の使用も表現の自由の行使であるとして野放しにするわけにはいかない。
 差別語の(差別的文脈での)使用が問題である理由として、その言葉が向けられる相手を傷つけるということもあるが、それだけではない。
 差別語には、それを使用することにより、その言葉が体現している差別的価値観を宣伝する効果があるということがより重要である。例えば、「○○は気違い病院に入ったらしい」という表現は、精神障碍者を傷つけるだけでなく、精神障碍を正気でない劣等的な属性とみなす価値観を聞き手にも宣伝する効果を持っている。単なる街の噂話にすぎないような何気ない表現であっても、このような表現が当然のごとくにまかり通ってしまうことは、精神障碍者に対する差別を社会全体に普及させるに等しいことなのである。
 ただし、例えば小説家が、偏見の強い作中人物の言葉として上のような会話文を書くことは差別的価値観の宣伝にはならないが、それはフィクションという創作の世界でだけ許される例外である。
 一方、それ自体としては差別語に当たらないが、その言葉の反面のものを劣等視する反面差別語の問題性は従来ほとんど考えられてこなかった。
 反面差別語には、美人(美女)、美男子、イケメン、カッコいい、利口、頭が良いなど、容姿や能力に関わる言葉が多い。これらの言葉自体は称賛語であるから禁句集には搭載されないが、各々の言葉の反面的なもの、すなわち容姿の醜さや知能・能力の欠如を劣等視する価値観を伴っている。
 従って、例えば「彼はイケメンだ」などという最近の流行表現は、その裏に非イケメン男性に対する差別が隠されており、こういう表現が社会的に普及していくことは、「人間、見た目がすべて」というあらゆる差別の根元にある容姿差別の価値観を宣伝するに等しいことなのである。これも何気ない日常的な流行語の中に重大な差別が潜伏している興味深くも深刻な一例である。
 こうしたことから、差別語(反面差別語を含む)の使用は控えるべきであり、これらの言葉は日常使われないために知る人自体がまれとなる死語とされることが望ましいのである。実際、例えば、ちんば、せむし、つんぼ、めくらなど、身体・感覚障碍に関するいくつかの単語はすでに死語と化していると言える。
 ただ、美人、イケメンといった反面差別語まで禁句とすべきかいぶかる向きもあろうが、それらも差別語に準じて考えるべきである。そもそも日本ほど人の容姿を強調する言葉が日常的に飛び交う社会は珍しいのではなかろうか。このことは、現代日本社会に容姿差別が相当な規模で広がっている事実を反面的に示唆するものと言える。
 こういうわけで、反面差別語をも死語化することは、差別克服のうえで大きな推進力となるであろう。

2011年9月27日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第7回)

第2章 ローマ帝国の覇権

〈序説〉
 ローマ帝国は、文明の重心が東方からギリシャを介して西方へ移ったときに生じた世界史的現象である。
 ただ、ローマ帝国には東方に先駆者があった。それはアレクサンドロスの帝国ではなく、アレクサンドロスによって滅ぼされたペルシャ帝国(アケメネス朝)である。
 ペルシャは、先述したようにメディア王国から独立した後、古代四大文明圏のうち黄河を除く三つの文明圏の故地を順次攻略したうえ、近年帝位簒奪者であったことが確定しつつあるダレイオス1世と息子クセルクセス1世の時にはギリシャ征服も企てたが、これは失敗に終わった。
 ペルシャ帝国は広大な領土を属州に分け、総督を置いて統治するとともに、軍道と駅伝制を整備して各都市をつなぐ「点と線」の支配方式を確立した。
 しかし、帝国内に取り込んだ異民族に対しては寛容で分権的な構造を持った「帝国」であったため、前4世紀に入ると各州総督の反乱が相次ぎ分裂状態に陥っていたところへ、マケドニアの膨張期が重なった不運により、あえなく滅亡したのだった。
 ローマ帝国は、ペルシャ帝国が制覇し切れなかった地中海を我が物としやすい位置にある地理的好条件を活かしつつ、ペルシャ帝国が実践しようとしたことをより効果的かつ持続的に実践してみせたのだとも言える。
 しかし、こうした「点と線」の支配は、古代における交通と通信手段の決定的限界と税制の未整備のために、行財政上の担保を欠いた観念的な支配であらざるを得なかった。「帝国」はどんなに磐石に見えても、本質的に砂上の楼閣であった。

一 都市国家ローマ

(1)エトルリア人の先行文明
 ローマは前1000年頃にイタリア半島に移住してきた印欧語族系イタリキの一派ラテン族が形成した集落に由来する。
 ローマの伝承上の建国年は前753年とされており、ギリシャのポリスの建設時期とも大体重なるが、当初のローマはまだ都市の構造を持っておらず、一集落にすぎなかったと見られる。
 実はこの当時のローマ周辺には、ラテン族が大いに文化的影響を受けた先住民族エトルリア人(エトルスキ)の文明が栄えていた。エトルリア人の民族系統はわかっていないが、いくつかの民族の融合の結果形成されたイタリアの先住民族と考えられ、前9世紀頃からイタリア半島中・北部で都市国家を形成していた。
 かれらはギリシャ人やフェニキア人とも交易を活発に行い、地中海全域で海上貿易に従事する商業民族でもあった。文化的にはギリシャの影響を受け、エトルリア語もギリシャ文字で表記されたほどであったが、エトルリア語の解読は進んでいない。一方、かれらは壁画や美術工芸にも優れ、そこには開放的な海洋文明の特質が表れている。
 なお、エトルリア社会では、ギリシャやローマに比べて女性が人格的に尊重されていたことが指摘されている。

(2)都市国家への発展
 ラテン族の一集落であったローマがいつどのようにして都市国家に発展したのかは定かでないが、伝承上、初期ローマでは七代にわたり王制が続いたとされ、その後期はエトルリア人の王に支配されていたとされる。
 おそらく、前7世紀末頃に、エトルリア人の王の下で、ローマは都市国家として整備されたものと考えられる。エトルリアの文化的影響が強まったのも、このエトルリア系王制の時代のことであろう。
 ローマがエトルリア人から継承した文化に宗教や卜占、役人の標識、将軍の凱旋式など宗教=政治、社会の基本に関わる事物が多いことも、エトルリア人の直接的な支配を受けた事実を示唆するものである。
 ただ、ローマ人(大きくはラテン族)の社会はエトルリア人のそれとは異なり、厳しい家父長制的部族集団(ポプルス)を基礎に、早くから貴族(パトリキ)と平民(プレブス)との階級差も明瞭に現れていたとされる。
 このようなラテン族特有の厳しく垂直的・階層的な社会構造が、いずれ平民の身分闘争を通じて共和制ローマが形づくられていく要因となるであろう。

二 共和制時代

(1)共和制樹立
 前509年、ローマのパトリキ指導者が決起し、専制的なエトルリア人の王を追放して新たに執政官(コンスル)の制度を創設した。共和革命である。
 以後、ローマ人は反転攻勢に出て、前3世紀末までにはエトルリア人の諸都市を順次攻略し、征服していった。ローマが示した最初の征服活動と言ってよいかもしれない。しかし、ローマはエトルリア人を完全に抹殺したわけではなく、かれらにも限定的ながらローマ市民権や自治権も保障した。エトルリアはトスカナやティレニア海などの地理的名称にその名を残している。ただ、前1世紀頃までにエトルリア人はローマ人に同化していき、やがてエトルリア文明も忘れ去られ、再発見されたのはルネサンス期のことであった。
 さて、ローマの初期共和制はパトリキ主導で樹立されたため、パトリキ中心の貴族寡頭制的な性格が強かった。任期一年の二人制であった執政官もパトリキの中から選挙された。しかも、共和制の最高機関はパトリキ長老らの代表機関であった元老院であり、執政官も元老院の指導監督下に置かれた。共和制ローマの政治は、こうして良くも悪くも元老院を中心に動いていく。
 この貴族寡頭制による共和政治の中では、大多数自立的な農民であったプレブスは排除されていたばかりか、パトリキ・プレブス間の通婚さえも禁じられ、階級の固定化現象が強まった。
 しかし、上層プレブスはギリシャのポリスの場合と同様、重装歩兵として兵役もこなしたから、政治参加意識を高めていく。

(2)十二表法の制定
 前5世紀初頭頃から、プレブスの身分闘争が開始された。そして、前494年、プレブスの聖山立てこもり事件を機にプレブスの利害を代弁する護民官の制度の創設が勝ち取られた。この制度は今日のオンブズマン制度の原型とも言うべきもので、プレブスの権利擁護機関として以後重要性を増していく。
 さらに、前450年には、従来神権的で秘密裡であった法制度に対するプレブスの不満を背景として、ギリシャ法を参照した公開の成文法「十二表法」が制定された。これにより法治国家としての基礎が築かれ、ローマの最も恒久的な所産となるローマ法の出発点ともなった。
 なお、しばらく残存していたパトリキ・プレブス通婚禁止法も間もなく撤廃された。
 次いで、前367年にはこの年の護民官リキ二ウスとセクスティウスが提案したことからその名があるリキ二ウス・セクスティウス法によって、パトリキらによる公有地占有(事実上の私有地化)を制限することのほか、執政官のうち一名はプレブスから選出することが定められた。以後、法務官や財務官など多数の公職もプレブスに開放されるようになり、プレブスの地位は次第に上昇していった。
 このような一連の改革は、パトリキにとっても国防上兵士として動員するプレブスの動向を無視できなくなったことにによる妥協として行われたのであって、ローマではアテネのような「民主制」が意識的に追及されたわけではなかった。

(3)元老院と民会
 ローマではすでに王制期に財産額に応じた軍役とそれを基準とする百人隊(ケントゥリア)ごとに投票権が与えられるケントゥリア民会(兵員会)が創設されていたとされるが、半ば伝承であり、この制度は共和制時代の前期を通じて確立されていったものと考えられる。
 この制度では最上級の騎士階級(パトリキ相当)から軍役を負わない等級外(プロレタリー)に至るまでがケントゥリアごとにまとまって投票するという点で一見して「平等」に見えるが、投票は最上級から順に行われ、過半数に達するとそこで打ち切られたため、最下級の者は事実上投票から締め出される仕掛けになっていた。そのうえ、この機関は討議でなく単に諾否の場でしかなかった。こうした点では、この制度はかえって階級格差を政治的にはっきりと表現するものにほかならなかったのだ。
 これに対して、先の聖山立てこもり事件後の改革の中では、地区ごとのプレブスの議決機関として平民会の設置が認可された。ただ、この機関は公式の議決機関ではまだなく、そこでの議決は元老院の承認なくしては正式に法的効力を生じることはなかった。
 しかし、前287年のホルテンシウス法に至り、平民会の議決が元老院の承認なくして正式に法的効力を認められることとなった。ここに、元老院=上院、民会=下院という一種の二院制的な制度が完成を見たのである。
 こうして、前5世紀初頭からおよそ200年にも及んだプレブスの身分闘争は一応終結した。とはいえ、アテネのような「民主制」が実現したわけではない。ローマ元老院の力はなお絶大で、有力なプレブスも重要な公職を経験した後に元老院議員となり、新貴族(ノビレス)として権勢を張ったから、元老院優位の構制は不変なのであった。
 しかも、パトリキとプレブスの対立も完全に止揚されたわけではなく、新たにノビレスも加わって貴族の特権を護持しようとする閥族派と、あくまでも平民の権利の拡大を志向する平民派との対立という形に再編されて、暗殺や内戦も含む激しい抗争が繰り広げられることとなったのである。

2011年9月22日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第7回)

理論編

四 差別に関する行為類型

 これまでの三つの章では、一般的な現象としての差別について概観してきたが、差別の具体的な発現の仕方は様々であり、露骨な差別からそれとない暗示による差別まで、変幻自在と言ってよい。
 また、私たち私人が私的に差別する伝統的な差別に加え、近代的な差別の特色として、国や自治体が公式の政策として差別する場合がある。これは差別をする主体による違いである。
 一方、差別を回避しようとしたり、それを解消しようとしたりすること、あるいはもっと積極的に被差別者を包容しようとすることのように、非差別の方向の行為は、従来あまり整理されてこなかったため、差別に対しては抽象的な非難・糾弾に終始しがちであるが、こうした脱/反差別の具体的な行為を類型的に整理することは差別克服のうえで有益である。
 この章では、差別に関する様々な行為を類型化して整理することにしたい。ここで整理されたことは、後で実践編に取り組む際の基礎知識ともなる。

命題12:
差別行為は通常、劣等視の対象となる被差別者に不利益を課す形態(不利益差別)を取るが、反対に被差別者に利益を与える形態(利益差別)を取ることもある。

 一で差別とは何よりも劣等視という視線の言葉化・言説化であると論じたが、差別が具体的に発現するときは、単に言葉で表現されるだけでなく、多種多様な行為を伴う。そうした差別の発現としての行為を「差別行為」と名づける。
 そうした差別行為のほとんどは不利益差別の形態である。その中心は、例えば有色人種に参政権を与えないといった形で基本的権利を否定する「排斥」であるが、その究極には被差別者の生存そのものを否定する抹殺・絶滅がある。
 また、被差別者の自由を拘束して収容所やその他の施設に拘禁する「隔離」も差別の形態としてよく見られるが、有色人種の参政権を否定することや異人種間の結婚を禁じることのように、特定の人間(集団)を社会の周縁部に封じ込めてしまうようなことも、抽象的な意味で「隔離」と呼ばれることがある。
 そのほか、意識的に被差別者の存在を否定する無視、差別的な言葉や態度による嫌がらせ、嘲笑、中傷や相手に気づかれないように隠蔽される差別的な陰口も差別の一形態である。
 以上に対して、利益差別は例外的な形態であるが、例えば、前近代の日本の都市が一定の汚れ仕事などを委ねていた最底辺層の被差別部落に対して、祝儀などの形で経済援助をしていたことは、そうした特別の利益を与えることが部落差別を助長していたという意味で一つの利益差別であった。
 また、賞賛して栄誉を与えることが差別となる場合もある。例えば、何か特定分野で大きな成果を挙げた障碍者に対して、障碍があることをことさらに評価し、表彰するのは、障碍を本来はマイナス価値として見ていることを前提とするもので、一つの暗示的な利益差別なのである。
 さらに、一般的に被差別者を「かわいそう」な存在と見て、憐憫の情をかけたり、同情したりしてみせることは、どんなに「善意」であっても、被差別者を劣等視する視線を維持したまま見下す形で相手を思いやっているだけであるから、これも差別となるのである。言わば、「善意の差別」である。
 ちなみに、日本人が好む「思いやり」という観念は、「思い」を(上から下へ)「やる」というニュアンスを含むため、状況によって利益差別に転化しやすいことに注意を要する。
 なお、後で触れるように、被差別者を積極的に社会の中心部に迎え入れるために一定の優遇をすることがある。これも被差別者に利益を与えることになるが、この場合は、被差別者に利益を与えることが差別を助長する関係になく、逆に差別の克服のための施策であるから、ここでの利益差別には当たらないと一応は言える。しかし、具体的な事例で考えると必ずしもそうは言い切れない場合もある。その詳細は実践編で検討する。

命題13:
差別行為をその主体によって大別すると、国や自治体などの公権力が政策的に差別する権力的差別と、私人が私的に差別する私的差別とに分けられる。

 この区別はさして難しくはないだろう。前者の権力的差別の代表例は、米国や白人政権時代の南アフリカ共和国で政策として行われていた「人種隔離政策」である。
 このような差別はたいてい法律に基づいて合法的に実行されるため、政権交代等に伴って政策が変更されない限りどうにもならないものである。その一方で、権力的差別は、ひとたび政策が変更されればさしあたり解消はされるという点では、私的差別よりも取り組みやすいと言える。
 後者の私的差別の例は無数にあるが、訴訟に発展しかねないほどのものとしては、商店主が外国人の入店を拒否することが挙げられる。この場合、店主は法や政策に基づくのでなく、自分自身の外国人に対する偏見や排外的意識に従って、私的に外国人を排斥しているのである。
 もっと身近な例で言えば、他人の容姿の欠点をからかったり、陰口を言ったりすることも立派な差別である。このようなまさしく児戯を子どもが他の子どもに仕掛けた場合は「いじめ」と呼ばれるが、いじめの中でも対象者を自殺に追い込むほどの深刻ないじめは、子どもの領分における「差別」なのである。
 これら私的差別は私人が日常の中で慣習的に実行する差別であるから、政策変更で解消できるようなものではない。よほど悪質なケースは民法・刑法上も違法とされ、差別行為者に民事責任や刑事責任を問うこともできるが、基本的には後で議論するような包括的差別禁止法が制定されなければ私的差別全般の法的救済は困難である。

命題14:
差別行為には露骨な差別行為の他に、一見して合理的な理由によって正当性を偽装する「転嫁的差別行為」、特定の個人や集団を称賛・優遇することによって、その反対の個人や集団を劣等視する「反面差別行為」、それ自体としては差別に当たらないが、差別の前段階と言うべき「前差別行為」がある。

 まず、露骨な差別行為とは、前に挙げた例で言えば、商店主が単に外国人だからという理由で入店を拒否するような行為である。
 これに対して、「転嫁的差別行為」とは、今の例で、外国人の入店を拒否するに際して、「外国人は店内でトラブルを起こしがちだから」というような一見してもっともらしい理由を持ち出すようなことである。これも差別であるが、言わば(偽装的に)合理化された差別である。
 実際、権力的差別はほとんどすべてこの転嫁的差別に当たる。例えば、障碍者や遺伝病者に対する強制断種政策は悪制遺伝の予防による将来の福祉支出増大の抑制という合理化の下に実施された転嫁的差別行為(政策)であった。
 権力的差別は政策として実行される差別であるというからには、ほとんど必ず合理化理由を伴うのである。ナチスの絶滅政策のようなおよそ政策の名に値しない政治犯罪でさえも、社会浄化を通じた健全な民族共同体の建設というような合理化がなされていたのであった。
 一方、「反面差別行為」の例としては、「美人コンテスト」を挙げることができる。こうしたコンテスト自体は「美人」を表彰するイベントであり、差別に当たらないが、反面において「美人」でない者を暗黙裡に劣等視している点で差別的なのである。
 ちなみに、この「美人」という言葉(類語として男性に対する「美男子」「イケメン」なども同様)そのものが、その反対の者を劣等視する反面差別語である。
 最後に、「前差別行為」の例として、電車内で見かけた一見それとわかる障碍者に好奇の視線を当てることが挙げられる。一般的に好奇の視線はその対象を必ずしも劣等視しているわけではないが、何か奇怪・奇異な者としてまなざすのであるから、それは劣等視の一歩手前と言えるのである。
 ちなみに、「障害者」という言葉は、「害」という文字の使用のゆえに(かつては、「碍」とも表記できたところ、これが当用漢字でなくなったため、「害」の当て字に統一されたもの)、心身の不治の疾病が何か有害であるかのようなイメージを醸し出す言葉、すなわち前差別語となっている。

命題15:
非差別方向の行為には、差別が生じかねない状況で差別を回避しようとする「差別回避行為」、差別的状況を解消して対等化する「差別解消行為」、差別解消から一歩進めて、被差別者を積極的に迎え入れる「包容行為」がある。

 差別行為に対して、非差別方向に動く脱/反差別行為の中で最も消極的なものは、先の例で、電車内で見かけた障碍者から視線をそらすような「差別回避行為」である。
 この場合に視線をそらすのは、意識的な無視ではなく―意識的な無視は差別行為の一形態である―、前差別行為のように好奇の視線を当てることを避ける遠慮の視線回避なのである。これは、直接に差別解消につながる行為ではないが、自ら差別的状況を回避しようとする点で、差別から一歩脱却する行為である。
 一方、「差別解消行為」とは、例えば人種差別政策を撤廃することが典型である。これはまさに人種差別を解消する政策変更にほかならない。
 一般的に、差別撤廃と呼ばれる政策はこの「差別解消行為」に当てはまる。差別解消は公権力の政策をもってしなければなし得ないところが大きく、その主体の多くは公権力であると言える。
 ただ、例えば各種民間施設が建物の内外を完全バリアフリー化して車椅子利用者の障害を除去することは、私人による「差別解消行為」の一例である。
 こうした「差別解消行為」では、差別状況をひとまず撤廃することはできても、それは形式的な対等化―いわゆる機会の平等―が達成されたにとどまり、被差別者は依然として社会の周縁部に置かれたままである。そこで、より積極的に被差別者を社会の中心部に迎え入れて実質的な対等化―いわゆる結果の平等―を図ること、これが「包容行為」である。
 例えば、街のバリアフリー化を推進することは差別解消になるが、当の障碍者が施設に閉じ込められていたままではバリアフリーも宙に浮いてしまう。そこで、障碍者も街で暮らせるように地域で支えるシステムを作ることは包容行為(政策)である。また、障碍者も自らの特性を生かして労働することができるよう一定数の障害者の雇用を法的に義務づけることも同様である。
 詳しくは実践編で扱うが、このように積極的に結果の平等を目指す施策は特に「積極的差別是正政策(アファーマティブ・アクション)」と呼ばれる。
 もっと身近な例でまとめ直すと、学校のクラスで、その容姿の印象などから「バイキン」呼ばわりされ、いじめを受けていた生徒に対して―このようないじめは子どもの領分における容姿差別である―、いじめていたグループが謝罪し、以後「バイキン」呼ばわりしないことを誓うのは、一つの差別解消行為であるが、それにとどまらず、従来いじめられ、孤立化していた生徒をクラスが積極的に受け入れ、対等な級友として配慮することは包容行為となる。
 なお、以上の叙述からも明らかなように、非差別方向の行為も、差別行為と同様にその主体の違いから、公権力によるものと私人によるものとを区別することができる。

2011年9月19日 (月)

〈反差別〉練習帳(連載第6回)

理論編

三 国民国家と差別

 前近代までの差別は、ほとんどが民間で私人によって形成されてきた慣習的なもので、公権力が関わるとすれば、そうした民間の慣習的な差別に便乗したり、背後で扇動したりする程度であったが、近代以降になると様相が変化し、公権力が意識的・政策的に差別を主導し、そうした差別政策を体制の支柱とする「差別の体制化」と言うべき政治現象すら生じてくる。
 そのような事態が生じた要因として、19世紀以降に欧米から始まる近代国民国家の形成が決定的であったが、その背景には差別を正当化する言説の根拠として引照されるようないくつかの学術的な思潮が同時期に生じたことである。それによって、差別そのものが言説的に練り上げられ、“近代化”されたのである。
 このような「差別の近代化」は、とりわけ人種/民族差別の分野で最も有害かつ悲惨な結果を惹起したが、同様の現象はその他の差別の分野にも程度の差はあれ生じている。

命題10:
近代的差別の主要な思想的源泉となったのは、優生学・公衆衛生学・近代経済学の三つである。

 「差別の体制化」の基盤を成す近代的差別の特徴は、もっともらしい言説を伴っているところにあり、それらは一定の思想的源泉を持つ。それが上に挙げた三つの“近代的な”学術思想である。
 この近代的差別の三源泉のうち、筆頭に挙げた優生学は、とりわけ人種差別や障碍者差別を正当化する根拠づけとしてフル活用されてきた、それ自体が差別志向的な“学術”である。
 優生学とは、有名なダーウィンが樹立した進化論をベースとして、ダーウィンの従弟に当たるフランシス・ゴルトンが創始した自然科学というよりも一種の社会思想である。
 元来、ダーウィンの理論には人間集団を優等種と劣等種に分けるモチーフが含まれていたが、ゴルトンはこれに触発されて、社会の発展のためには人類の悪い素質の遺伝を避け、良い素質の遺伝を促進すべきであるとする選別思想を導き出した。
 初めに差別の定義の要素として、人間に対する優劣評価ということを指摘したが、優生学はまさに、人間の優劣評価に生物学的・遺伝学的基礎づけを付与しようとした点で画期的な意義があると信じられたのである。
 もっとも、学術としての優生学は差別の中核要素として指摘した劣等者への蔑視という「視線」を持たない中立的なものだという見方もあるかもしれない。
 しかし、むしろそうであればこそ、差別の視線という主観的な要素に科学的な客観性の外観を与えるうえで、優生学は恰好の大義名分をもたらしてくれたのである。
 やがて、優生学は俗流化された進化論としての「社会進化論」とも結合して、多様な劣等者を人為的に“淘汰”し、抹殺する政策にまでお墨付きを与えてくれる打ち出の小槌のようなものにまで俗流化されていった。この優生学が近代的差別の三源泉の中でも最も大きな比重を占めているゆえんはそのようなところにある。
 ちなみに、日本を中心に広く信じられている典型的な疑似科学の一種である「血液型性格分類」も、元をただせば俗流化された優生学に発している。
 これに対して、二番目の公衆衛生学は近代医学の発達に相伴いつつ、疾病を予防し、社会全体に健康を保持することを目的とする政策的な学術である。
 この学術は優生学と論理必然の関係にあるわけではないが、社会全体の健康保持という観点から優生学にも医学的な基礎づけを与える役割を果たしたことは間違いない。こうした公衆衛生学と優生学の結合を象徴する代表例として、日本では1990年代まで続けられていたハンセン病患者に対する強制断種を伴う隔離政策がある。
 さらに、より積極的な公衆衛生学固有の意義として、古来ケガレのように宗教的な浄/不浄の観点からとらえられていた事象の一部が医学的な衛生/不衛生という観点に置換されたことを挙げることができる。
 これによって、健康・健常であることが至上価値となり、病気や障碍は好ましくない劣等的な状態であるとみなされるに至った。宗教的な浄/不浄は優劣の評価に関わらないのであるが、衛生/不衛生には優劣関係があり、ここに病者や障碍者に対する医学の装いを持った差別の可能性が開かれてくる。
 最後の近代経済学はより広い文脈で資本主義経済とまとめてもよいが、これは前の二つの学術の土台を成す学術兼政策である。
 優生学は生かしておけば福祉的支出の増大につながりかねない要保護者を除去して、資本主義的経済社会の順調な発展に資するような優等者の安定的な出生・生存を確保することに奉仕する学術であるし、公衆衛生学も一般的に疾病の予防を通じて最大限搾取可能な労働力の確保を可能にしてくれる学術であった。
 一方、資本主義自体も経済競争における優勝劣敗を通じて社会が発展していくとする社会進化論で理論武装し、優生学との理論的な連絡関係を保っている。
 そればかりでなく、資本主義はあらゆる事物を商品化することを通じて、優劣関係を金銭価値で評価する尺度を作り上げた。このような商品化はモノばかりでなく人間にも適用され、労働者の価値も各自の労働能力に対する金銭=賃金評価として示されるし、人間それ自体も容姿を中心とした規格品的な基準によって査定される傾向を強めていった。
 商品はそれ自体が、人間の優劣を経済的な計算可能性の観点から等級化していく際のイデオロギーなのである。

命題11:
近代国民国家は近代的差別の培養器としての役割を果たすこととなった。

 先に指摘したような思想的源泉を持つ近代的差別は、冒頭指摘したように、近代国民国家の形成に伴い、国民国家によって培養されていったのである。
 近代国民国家は、それまでの部族的ないし地縁的な共同体を解体して建設された人間の人工的な政治共同体であった。この共同体はもはや部族的にも地縁的にもつながりのない烏合の衆を「国民」という抽象的な枠にはめ込んでまとめ上げる、まさに人工的な共同体である。
 人工的ではあるけれども、否、人工的であるほど、国民国家は初めから排他的であらざるを得なかった。その際、国籍という制度が第一の基準となって、外国籍の者=外国人が排除されることはわかりやすいが、それだけでなく、人種的・民族的な排除も同時になされる。
 この点、最も早くに建国された国民国家にして開かれた“移民の国”でもあるはずの米国が18世紀末の建国当初から、アメリカ先住民と黒人を国民の枠から排除し、帰化要件としても「自由白人」に限定するという政策を採用していたことには象徴的な意味がある。
 やがて19世紀になると、米国では移民法制上「帰化不能外国人」なるカテゴリーの下に中国人や日本人などアジア系の帰化を制限する規制が導入され、これが20世紀半ばまで続いた。
 また、黒人に対する人種隔離政策も1960年代の公民権法制定まで続けられた。さらに、19世紀のアメリカ先住民に対する絶滅を伴う強制移住政策の結果、生き残った先住民の末裔たちは今なお保留地と呼ばれる特別地域やその周辺で貧困のうちに暮らし、米国社会の最底辺層を成している。
 同様に、日本でも大和民族優越主義のような民族差別思想の本格的な台頭は、明治維新後に誕生した日本初の国民国家「大日本帝國」の成立以降のことであった。
 一方、ナチスと結びつけて考えられやすい障碍者や遺伝病者に対する強制断種のような優生学的政策の導入は、国民国家が同時に国民の福祉のために財政支出を行う福祉国家の形態を取り始めるにつれて、福祉支出の節約を名分として、北欧や日本にも広く普及していったのであって、決してナチスだけの専売特許ではない。
 このように、近代国民国家は人工的な共同体であるがゆえに、その排他性にも独特の観念的性格が加わり、優等善良な国民と劣悪不良な非国民との選別において、先に見た近代的差別を培養する容器のような役割を果たしてきたのである。
 ナチズムはそうした国民国家の中で培養された近代的差別を全開モードにして、少数民族や障碍者、同性愛者等々、およそ劣等分子とみなされた集団の絶滅を実行するほどの暴走を示したが、ナチス国家の特異性はその差別政策の極限的な過激さにあったにすぎず、その本質は他の国民国家とも通低しているのである。
 従って、ナチス国家は滅亡して久しいからといって安心しているわけにはいかない。国民国家はなお厳然として存続し、むしろその数は大幅に増加してきている以上、近代的差別の培養はより現代的な形態を取りつつ、なお続いているものと見なければならない。
 ただし、戦後、人種差別撤廃条約をはじめ、国際連合を中心とした国際的な条約体制によって国民国家を牽制し、差別克服へ向けた国民国家自身の努力を促す国際施策が進展してきていることは、一つの前進である。
 これとて、国連加盟の各国民国家が条約を批准しようとしない限りは手も足も出ないのであるが、今日の国民国家は外国人の参政権を部分的に認める国もあるほど開放性を持ち始めていることも事実である。
 しかし、なお国民国家は各種差別と絶縁し切れていないし、一方では上述したような国民国家内部での差別克服の努力に反感を抱く勢力が外国人・移民排斥を呼号する運動を興し、議会にも進出する動きが欧州や日本でも見られる。こうした運動は政治的・経済的閉塞状況への大衆の不満を巧みに吸収して、さらなる広がりを見せる可能性も否定できない。

2011年9月15日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第6回)

第1章 略

四 ギリシャ世界の盛衰

(1)暗黒時代から都市国家へ
 400年ほども続いた長い暗黒時代に、ギリシャ人の世界ではミケーネ文明時代を特徴づけた専制王権はすっかり崩壊し、代わって制限的な王権の下で貴族が寡頭支配する都市国家(ポリス)が形成され始めた。この間、新たにフェニキア文字を土台にしたアルファベット文字の体系が創られ、ギリシャ人は再び文明世界へ立ち戻ってきた。しかし、今度はオリエント風のものではなく、独自性の強い文明の担い手としてである。
 このように、オリエント風ミケーネ文明から暗黒時代を経てポリスの社会体制へという劇的な流れはいかなる要因でいかにして生じたのかということは史料に乏しくよくわかっていないが、文字の点で影響を受けたフェニキア人との関わりがポイントであるかもしれない。その命名自体がギリシャ人によるフェニキア人は地中海で植民都市をいち早く営んでいたからである。
 ギリシャ人もまた前8世紀中頃から前7世紀中頃にかけて小アジアやエーゲ海域、南イタリアに至るまで多くの植民市を建設し(大植民時代)、次第に東地中海の海上貿易権をフェニキア人から奪っていった。
 これらポリスの担い手たるギリシャ人は方言によっていくつかの系統に分かれ、ポリスの構造も一様ではなかったが、宗教的に結ばれた戦士共同体としての性格を共通して持っていたようである。そのため、政体としても王制から貴族制に移行していくケースが多く、王制にとどまる場合も、王の権限は軍事的なものに限定されるようになった。いずれにせよ、当初のポリスはさして「民主的」なものでもなく、貴族の寡頭制であった。
 やがて小アジアのリディア王国で始められた鋳造貨幣がいち早く取り入れられ、貨幣経済が勃興すると、貴族と平民の経済格差が広がる一方、商工業で富を蓄積する平民も出現した。
 こうした中で、前7世紀頃に戦法が革新され、重装歩兵密集隊が主力となり、平民兵士の参加が広がると、ポリスのために戦った平民の政治参加意識と発言力が高まっていった。そのようにして、各ポリスで平民の政治参加を拡大する政治改革の機運が生じてきた。

(2)アテネとスパルタ
 政治改革の進行の中で際立った特色を示して台頭してきたのが、アテネとスパルタであった。この両ポリスはまた民主制と一種の軍国制という対照的な体制とその覇権争いによってもよく知られてきた。
 ミケーネ文明期以来の歴史を持つイオニア系ギリシャ人のポリスであったアテネはミケーネ文明滅亡時にも例外的に生き延び、前8世紀半ばには王制から貴族制へ移行した。その後、前5世紀中頃までの数次にわたる改革の結果、よく知られている―成年男子市民限定の―いわゆる「直接民主制」を確立した。
 一方、前1000年頃にペロポネソス半島南部に南下してきたドーリス系ギリシャ人が先住ギリシャ人を征服して建設したスパルタでは、少数支配の安定を確保するため、先住民を隷属農民として従属させつつ、上層の土地所有市民は幼少時から集団で軍事訓練を施され、成人してからも共同食事制によって団結を保つという軍国体制が敷かれた。
 保守的なスパルタは完全な共和制には移行せず、王制にとどまっていたが、王は二人制のうえ、将軍としての権限を持つのみであった。参政権を持つ市民間は完全平等が本旨とされ、貧富の差を生じさせないため、商工業は参政権を与えられない二級の劣等市民にすべて委ねるとともに、上層市民には国内での貨幣の使用も禁じるなど、一種の共産主義的体制も取り入れていた。
 実は、アテネとの力関係においても、強力な軍国であったスパルタの方が優勢で、前6世紀中頃にはスパルタを盟主とするポリスの同盟であるペロポネソス同盟を結成する実力を備えていたのだった。
 アテネがスパルタのライバルとして台頭してくるのは、前5世紀前半の三次にわたった対ペルシャ防衛戦を通じてであった。
 前6世紀末までにメソポタミアからエジプト、インダス河流域に至る地域を征服した(アケメネス朝)ペルシャは、西方に目を向け、小アジアのイオニア諸都市を支配するようになっていた。当然、かれらはギリシャ本土の支配も狙っていた。
 特に、前480年のクセルクセス1世の親征による第三回ギリシャ侵攻の時には、スパルタ軍が全滅する中、アテネ軍が奮闘し、ペルシャの大軍を撃退することに成功した。
 しかし、敗退後もなおギリシャ支配の野望を放棄しないペルシャに対して、アテネは前478年、同じイオニア系ポリスを結集したペルシャ攻守同盟(デロス同盟)を結成した。この同盟を通じて、アテネは同盟ポリスに対する支配統制を強めていき、共通通貨の強制や裁判管轄権の剥奪など、「アテネ帝国」への道を歩み始めた。
 その一方、内政面ではペルシャ戦争時に水兵として戦勝に貢献した下層平民の発言力の高まりを背景に、将軍ペリクレスの改革が行われ、最高機関・民会の強化や下層平民の政治参加の拡大などの民主化がいっそう進んだ。
 これに対して、スパルタは自国から出していたギリシャ連合軍司令官の横暴が批判され、指揮権を放棄することになり、デロス同盟を通じて覇権を目指すアテネを前に守勢に回るようになった。

(3)ペロポネソス戦争から衰退へ
 アテネの増長に対して猜疑心を募らせていたスパルタは、ペロポネソス同盟の一員であったコリントスとアテネの間で起きた紛争を機に、断続的に30年近くも続くアテネとの戦争(ペロポネソス戦争)に突入した。
 よく知られている戦争の経緯は省略するが、この戦争はアテネ側の自滅とも言うべき結果に終わった。アテネではかのペリクレスも犠牲となった伝染病の蔓延で人口の三分の一を失ったうえに、戦争の長期化を煽る扇動政治家(デマゴーゴス)の跋扈、無謀なシチリア遠征の失敗などが重なり、敗北したのだった。
 しかし、戦後ギリシャ全土にわたる覇権を確立するはずであったスパルタも長続きせず、一転ペルシャの復興支援を受けたアテネの復権を押さえ切れなかった。そこで、前386年、スパルタはペルシャと和議を結んで対抗しようとしたため、再びペルシャのギリシャ世界への干渉を強める結果となった。
 そのうえ、前4世紀代に入ると、後発のポリス・テーベが新たに台頭し、前371年にはレウクトラの戦いでスパルタを破り、さらにその勢いでスパルタの隷属民供給地となっていた西方領土メッセニアを占領・解放したため、スパルタは経済基盤を失い、弱体化した。
 しかし、これによって一時はギリシャ世界の覇者となったテーベも長続きせず、また旧デロス同盟よりも緩やかな海上同盟を結成して再び覇権を目指したアテネのもくろみも挫折に終わり、総じて前4世紀半ば以降のポリス世界は衰退の度を深めていく。
 その原因として、ペロポネソス戦争とその後も続いた武力紛争による農地の荒廃もあるが、より社会経済的には、貨幣経済の浸透による市民間での貧富格差の拡大があった。とりわけ、参政市民間では貨幣の使用を禁ずるほど徹底した平等主義を目指したスパルタにも貨幣経済の波が押し寄せ、土地所有市民が大幅に減少した。アテネのようなポリスでも、市民間での貧富格差の拡大により、政治の実権は次第に富裕な商工業者などの手に移り、ある種のブルジョワ寡頭政の傾向を強めていった。
 こうして、市民間での貧富格差の拡大は、共同体的結束が命であったポリスの一体性を弱め、個人主義的風潮を生み出した。まだ資本主義と呼ばれる経済システムの登場ははるか遠い未来のことではあったが、貨幣経済の発達が共同体を解体し、人々を個人化していく傾向的法則は、古代ギリシャのポリスにおいて早くも予示されていたと言えるのである。
 ポリス衰退の時代に登場した哲学者にして西洋政治学の祖でもあるアリストテレスが人間的本質を「社会的動物(ゾーン・ポリティコン)」―正確には「ポリス的動物」―とみなしたことには、滅びゆくポリスの再生へ向けた願いも込められていたのだ。

(4)マケドニアの旋風
 ポリス世界が全般的に衰退していく中で、北方の僻地から新たに台頭してきたのがマケドニアであった。マケドニアはドーリス系ギリシャ人が建てた国ではあるが、ポリス化せず、古い部族制の遺風を残す北方の専制君主国であった。ギリシャ系とはいえ、文化的にはギリシャ世界の圏外にあると言ってよかった。
 しかし、アレクサンドロス大王の父・フィリッポス2世はギリシャ文化に傾倒し、息子のために同じマケドニア出身の学者アリストテレスらを家庭教師につけるなど、マケドニアの「ギリシャ化」に熱意を注いだ。これは決してフィリッポスの単なる個人的趣味ではなく、彼は現実にマケドニアをギリシャ世界の盟主に押し上げることを狙っていたのだ。
 実際、フィリッポスはポリスに干渉し始めたため、アテネはテーベと同盟してマケドニアに対抗したが、前338年、カイロネイアの戦いで敗れた。フィリッポスは内心では僭主制の支持者であったと思われるが、表向きはポリスを尊重しつつ、新たにコリントス同盟を結成した。しかし、これは実質上マケドニアを盟主として同盟ポリスを統制する「マケドニア帝国」にほかならず、同盟に加盟せず、独立を維持したスパルタを除けば、ポリスのギリシャ世界は事実上終焉したに等しかった。
 フィリッポスが前336年、本国の内紛から暗殺されたのを受けて即位したのが、あまりに有名なアレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)である。
 ここでよく知られている彼の遠征物語を繰り返すことはしない。ともかく彼は、史上初めて西方と東方とを一本に結び、後にユーラシアと呼ばれるようになる地政学的まとまりを不完全ながらも作り出した。そして、それまでは東から西へ伝播してきた文明の流れを初めて西から東へ逆流させた。これがいわゆるヘレニズムである。

(5)ローマ時代へ
 アレクサンドロスが傑出した軍事戦略家であり、また有能な将軍に恵まれてもいたことは間違いないが、突如として広大なものとなった帝国の統治者としての力量はテストされないまま、大王は早世した(前323)。
 そのため、彼が一代で築いた帝国は直ちに分解を始め、前3世紀初頭には大王の後継将軍たち(ディアドコイ)が建てたアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの三王朝が鼎立した。
 これらディアドコイ王朝のうち、セレウコス朝はオリエントにまたがる広大な領土を有し、アレクサンドロスの帝国の端的な後継国家とも言えたが、それだけに崩壊も早く、その領土内からギリシャ人総督が自立化して建てたバクトリアやイラン系遊牧民パルニ族が独立して建てたパルティア王国などに分解していった。
 一方、本国に当たるアンティゴノス朝は新興ポリスの反マケドニア運動に直面したうえに、折から優勢化してきた西の都市国家ローマの攻勢にもさらされるようになり、前2世紀半ばまで三次の戦争の末、ローマに征服された。前146年にはいったんはマケドニアから「解放」されたギリシャ都市同盟もローマに敗れ、ギリシャ世界は包括してローマに編入されることとなり、以後地中海世界は急速にローマのものと化していく。
 ちなみに、プトレマイオス朝は古代エジプト以来の中央集権官僚機構を継承し、エジプトの経済を掌握して、三つの軍閥王朝の中では最も本格的な王朝として成功した。そしてエジプトの文化をも尊重しつつ、アレクサンドリアを首都に「最後のエジプト王朝」として当地にもう一花咲かせたのであったが、これも前30年、ローマの内乱に絡んでローマ軍に侵攻された最後の王クレオパトラ(7世女王)が自殺に追い込まれ、ローマのものとなった。ローマの時代である。 (第1章了)

2011年9月13日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第5回)

第1章 略

三 西洋の「東方」文明

(1)エーゲ文明圏
 古代四大文明圏が東方で栄えていた頃、西方でも文明の幕が開けようとしていた。初めに開けたのは、エーゲ海域の島々とバルカン半島であった。島嶼部が多く大河のないこの地域で大河の代わりをしたのは、エーゲ海を含み込む地中海であった。
 言うまでもなく、この地域は西洋の中でも東方に位置している。その意味で、文明は西洋内部でもまず「東」から始まったと言えるのである。
 そのわけは単純で、この地域は商業航路でもあった地中海を介してオリエントとも近いため、いち早くオリエントの影響を受けた文明が発祥したのである。そのため、この文明の圏内にあった小都市(国家)は小さいながらもオリエント型専制王権を戴いていた。
 しかし、この文明は単なるオリエントのコピーにとどまらず、線文字と呼ばれる固有の文字体系を持ち、壁画や工芸品には開放的な海洋文明としての特質が表れている。
 ただ、この文明は前1200年から前1100年頃に滅亡してしまい、その直接の継承者もなかったため、四大文明圏に続く第五の文明圏に数えられることは通常ないが、エーゲ文明の世界はやがてこの地域に現れたギリシャ人の神話世界に伝承として取り込まれていったところを見ると、この文明はギリシャ世界の舞台を用意した一個の文明圏(エーゲ文明圏)とみなすこともできるように思われる。
 もっとも、この文明圏は前期と後期に大きく分けることができ、両者では文明圏の中心地や担い手民族にも違いが見られる。

(2)クレタ文明期
 エーゲ文明圏の前期は東地中海のエーゲ海出入り口に当たるクレタ島を中心に前2000年頃から栄えた。
 その担い手民族についてはわかっていないが、前3000年頃に小アジア方面から移住してきた民族が前2500年頃から小王国を形成し、その中からクノッソスが前2000年頃クレタ島を統一したとされる。
 かれらは線文字Aと呼ばれる独自の文字体系を持っており、これはまだ解読されていないが、オリエント系の言語で古代エジプト語に近いという説が有力化している。そうだとすると、かれらはアフロ‐アジア語族系の言語を使用していたことになるが、使用言語は民族籍と直結しない。
 クレタ人はまた強力な艦隊を持ってエーゲ海の制海権を保持し、エジプトや南イタリア方面とも貿易を行ったと見られる。ちなみに王宮に城壁がないのもこの時期の特徴で、開放的かつ平和な海洋文明の特質を示している。

(3)ミケーネ文明期
 クレタ島に統一王権が生まれた前2000年前後に、印欧語族系のギリシャ人(アカイア系)がバルカン半島に南下し、ミケーネなどに小王国を形成した。かれらはエーゲ海域や小アジアにも進出し、クレタ文明の諸王国を順次攻略していった。
 ギリシャ人たちはクレタ文明を乗っ取ってこれを吸収しつつ、新たな文明を作り出した。その社会体制の基本はやはりオリエント風の専制王権であって、ギリシャ人がもっと後に生み出した共和的都市国家ポリスを中心とした社会体制とは本質的に異なるものであった。
 その中心地の名を取ってミケーネ文明と呼ばれるこの文明の担い手民族がギリシャ人とわかったのは、かれらがクレタ文明期の線文字に触発されて残した線文字(線文字B)がギリシャ語であることが判読されたからである。
 このミケーネ文明も前1300年頃から衰退の色が濃くなり、前1200年から1100年頃にかけて順次王宮が炎上するなどして滅亡していった。
 その原因として、従来は新たに南下してきたドーリス系ギリシャ人による侵略と破壊にこれを求める説が有力であったが、近年の学説は否定的である。それよりも、当時エジプトや小アジアのヒッタイトをも寇掠し、そのためにヒッタイトが滅亡に追い込まれたとされる正体不明の海洋民族「海の民」による侵略と破壊を指摘する説や、そうした外部侵略よりも内乱に原因を求める説が有力化している。
 ただ、以後前8世紀頃にポリス時代が到来したときには、スパルタのように先住ギリシャ人を隷属民として服属させた都市が有力化してくるのを見ると、新たなギリシャ系民族の南下による侵略と破壊の可能性も捨て難いように見える。
 いずれにせよ、ミケーネ文明滅亡後、アテネなど一部例外を除いて、旧エーゲ文明圏の小王国は崩壊し、文字も忘れ去られ、前文明時代に逆行したかのような長い「暗黒時代」に突入していく。

2011年9月 7日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第5回)

理論編

二 差別の要因(続き)

 差別は人間特有の美/醜の価値判断と結びついた劣等視の視線に根本要因があるとわかったが、具体的な差別の発生要因はより複雑である。

命題7:
被差別者自身が自らの被差別特徴を劣等視し、自らを差別すること(自己差別)がある。

 差別は一方的な加害行為として生じるのではなく、差別を受ける側(被差別者)の自己差別と組み合わさっていることが多い。
 こうした自己差別という現象は、差別の結果であると同時に、その要因でもある。この場合、自己を差別する被差別者自身が差別事象を受容してしまうことによって、差別する側と心ならずも共犯関係に立っているのである。
 その最もわかりやすい一例はやはり容姿差別である。容姿の醜さを理由に人を差別する場合、差別される人も自身の容姿の醜さを自認し、劣等感に苛まれていることが少なくない。そのために、生命の危険を伴うようなものまで含む美容術が盛行するわけである。特に容貌そのものを作り変えてしまう美容整形手術などはそうした自己差別的行動の極致と言えよう。
 また、白人優越主義の下で差別される黒人が自らの肌の色を劣等視して、白人への変身願望を抱いたり、ことさらに白人のパートナーを持とうとしたりすることも、そうした自己差別の一種である。
 そのほか、被差別民族が自らの民族的出自を恥じることや、同性愛者が自らの性的指向を破廉恥とみなすこと、女性が自らを男性に奉仕するにふさわしい存在とみなすことなど、自己差別の事例は多い。
 なお、これらの自己差別と区別すべきものに差別からの自衛行為がある。例えば、顔面に目立つあざやこぶがあるといった人は容姿差別の標的とされやすいが、こうした場合、差別を避けるために医学的に正当かつ安全な修復手術を受けることは自己差別ではなく、一つの自衛行為である。この場合、手術を受ける人は自身の容姿を醜いとみなしているのではないからである。
 同様に、被差別民族が差別を避けるために自身の民族的出自を隠したり、同性愛者が自身の性的指向を隠したりすることも、自らの被差別特徴を劣等視するわけではないから、自己差別には当たらず、正当な自衛行為である。

命題8:
自らに劣等感を抱く者が劣等感を反転させ、他者への積極的な差別行為に及ぶこと(反転的差別)がある。

 自己差別は精神的な苦悩を生み出すため、内攻すれば精神病理を惹起することもあるが、それを回避するするため、かえって外部にはけ口を求めて他者差別へ向かうことがある。
 こうした反転的差別の主体は自身、被差別者であることも多いが、被差別者でない場合もある。いずれにせよ、これは主要な差別事象で広く見られる差別の最も深刻な深層心理的要因を成す。
 この反転的差別の最もわかりやすい例はここでも容姿差別である。容姿差別は自己差別を土台にして、今度は自己よりも容姿が劣っているとみなされる他者の容姿を劣等視するという反転的差別を生み出しやすいのである。というよりも、容姿差別では実は自らも容姿に劣等感を抱く者―実際に差別されているとは限らない―が差別の主犯格となっていることが圧倒的に多いとさえ言える。あえて言えば、凡庸な容姿の人間が、自分よりも劣ると見たブス、ブサイクやデブ、チビ等々を差別するのが容姿差別の実態なのだ。
 反転的差別のより政治的な事例として、戦前日本で支配的となり、現在でも尾を引く大和民族優越主義を挙げることができる。大和民族(日本人)は人種的には白人から劣等視される立場で、実際、明治維新後の近代化の過程では対西欧コンプレックスに悩んだが、かれらはそこから反転攻勢に出て、周辺のアジア諸民族に対する優越意識を高め、それをエートスとして帝国主義的植民地支配体制を樹立するに至った。
 これは被差別者による反転的差別の例であるが、被差別者でない者による反転的差別の歴史的な事例として、西欧におけるユダヤ人差別がある。
 ユダヤ人差別の主体となる西欧人はもちろん西欧社会の主役であって、被差別者ではないが、少数民族ユダヤ人は中世以来、西欧社会各界で高い地位に就く者も少なくなく、経済界では金融家として西欧の王侯貴族や商人に金を貸し付け、債権者としても勢力を持っていた。こうしたユダヤ人に対して、西欧人は秘かに劣等感や負い目を抱いていたが、それを反転させてユダヤ人を劣等視するようになる。その際は、キリスト教至上の宗教的優越意識がエートスとして利用されたが、ユダヤ人差別を単なる宗教問題として片づけることはできない。
 こうした反転的差別としてのユダヤ人差別の本質を文芸作品としてリアルに描いてみせたのが、シェークスピアの有名な喜劇『ヴェニスの商人』である。この作品は、ユダヤ人金融業者から「借金が返済できなければ債務者の人体を1ポンド切り取る」という非常識かつ非道な証文を取らされたイタリア人実業家とその支持者たちが、謀略的ないかさま裁判で勝訴し、ユダヤ人金融業者をやっつけるというハッピーエンドで、筋書きの全体が反転的差別を表現していると言ってよい作品である。
 時代下って、20世紀に登場したドイツのナチはこうした西欧社会伝統の反転的なユダヤ人差別をベースとしながらも、より積極的にアーリア人種優越主義なる人種理論を仕立ててユダヤ人絶滅という民族浄化作戦に打って出ることによって、反転的差別の極限的な暴走を示したのであった。

命題9:
差別は、被差別者が差別者となって、新たな差別を生み出す連鎖性を持つ。

 以上の命題7及び8をより一般化すると、差別の連鎖性という法則を導き出せる。すなわち、差別は連鎖する。
 そうした差別の連載性が歴史的なスパンをもって続いている事例として、ユダヤ人国家イスラエルによるアラブ人(パレスチナ人)差別がある。
 西欧のユダヤ人差別はナチによるユダヤ人絶滅という『ヴェニスの商人』どころでない惨劇に行き着いた衝撃からか、戦後は差別克服の努力が進み、今日のユダヤ人は固有の国家を持つに至ったが、その「解放」されたユダヤ人が今度は国土防衛を名分として本来は近縁な存在であるアラブ人を差別する側に回るという一種の反転的差別を経て、差別の連鎖が起きているのである。
 こうした歴史的な事例に限らず、差別は多くの場合、差別の被害者が加害者に転じる形で連鎖していく。本連載の実践編では、容姿、障碍者/病者、人種/民族、外国人、犯罪者、職業、同性愛者、性差、能力、年齢という10の個別的な差別事象を取り上げるが、ほとんどの人がこのうちどれか一つの分野で被差別のカテゴリーに該当し、なおかつ最低どれか一つの分野では差別する側にも回っていると断言して憚らない。
 いや、私は容姿秀麗な健常者かつ健康体で、正真正銘の日本人・日本国民であり、犯罪歴もなく、被差別地域の出身でもないし、異性愛の壮年既婚男性にして、能力も高い。よって、自分は常に差別する側、差別の連鎖の外にあると言い切る方も、ひとたび海外へ出てみられれば、白人優越主義者から差別される存在なのである。

命題9α:
差別は差別者が被差別者となり、被差別者が差別者となる形で連環する構造を持つ。

 命題9の補足命題として、差別は差別者→被差別者→差別者という連環構造を持つという命題も指摘しておきたい。
 その典型例もまた容姿差別である。例えば、他人をその容姿のゆえに差別する者が別のところではその容姿のゆえに差別される。他人からその容姿のゆえに差別される者が別の、あるいは当の差別者たる他人をその容姿のゆえに差別する。
 また、白人が非白人を差別し、その白人を非白人が「白ブタ」などとして差別する例もこの連環構造の一種である。

2011年9月 6日 (火)

〈反差別〉練習帳(連載第4回)

理論編

二 差別の要因

 で定義づけたような差別は、悲しむべきことに、世界中至るところでほとんど毎日のように生じていると言ってよい。差別はおよそ人間界につきものの現象なのだ。いったいなぜ、人間はかくも差別を好むのであろうか。差別の要因を探ることがこの章の目的である。

命題5:
人間は価値を量る存在、評価し、量定する存在、「本来価値を査定する動物」として自らを特色づけた(ニーチェ)。

 ドイツの哲学者ニーチェは、『「負い目」・「良心の疾しさ」・その他』と題する論文の中で、このような人間観を示している。
 差別はまず優劣の価値評価を土台としていることを先に見たが、このことは、ニーチェが指摘するように、人間が「本来価値を査定する動物」であるということに由来するだろう。
 人間は物であれ、人間であれ、事物を弁別し、それに価値の序列をつけずにはいられない動物である。このような価値衡量は、およそ人類に共通する知的営為の一環であって、おそらくは人類にしか認められない特殊知能の作用である。
 そのような知能のおかげで、人間は価値の低いものを劣等視して蔑視するという習性をも身につけてしまったのだ。このことが、差別の最も根元的な要因を成している。

命題6:
人間は、視覚的情報に依存する度合いの高い「見る」動物であり、なおかつ見たものに美/醜の価値評価を下す動物である。

 先に、差別は視線と関わっていることをも指摘したが、このことは人間が目で見て認知した情報に依存する動物であることに由来する。
 人間は進化の過程で五感の作用が全般的に退化したものと考えられるが、その中で視覚だけは比較的良く保たれているため、有視覚者はまず対象を「見る」ことを通じてその対象に関する情報を取得するのである。
 しかも、人間はただぼんやりと対象を「見る」のではない。見たうえで、美/醜の価値評価を下す。この美/醜の価値判断もまた人類固有のもので、例えば犬も対象を「見る」が、かれらが見たものの美/醜を判断することはあり得ない。
 こうした美/醜という価値評価にあっては、通常、美に優越的価値が与えられ、醜は劣等視される。たとえボードレールのような「醜の美学」が説かれることがあっても、それは醜悪なものに対するエキゾティックな好奇の視線に基づく価値の転倒にすぎない。
 差別の生じる根本的な要因を決定づけるものは、対象たる人間を「見る」ことを通じて、そこに醜悪な要素を発見し、その人間を劣等視することである。
 であればこそ、あらゆる差別の出発点は、人間の容貌や体型を対象とする容姿差別なのである。人種差別のように相当に観念化された差別ですら、先に指摘したとおり、被差別対象たる人種の容姿に対する醜怪さの評価に端を発しているゆえんである。
 また、「人間、第一印象がすべて」などといった処世訓も、人間が他者の価値を査定するに際して、いかに視覚的表象、ありていに言えば容姿の美/醜に依存しやすいかを物語っている。
 もっとも、「見る」という知覚作用は相当程度に抽象化され得るものであるから、例えば「醜悪な犯罪」というように、道徳的な評価にも美/醜の価値判断が拡大され、そのような「醜悪な犯罪」を犯した人間そのものが醜悪な存在とみなされ、「鬼畜」などと劣等視されることもある。
 個別の差別事象によっては、こうした視覚的表象の抽象化が高度化しており、もはや直接に「見る」ことと関連していないように思われるものも認められるが、そうした場合にあっても、詳細に分析すればどこかに視覚的表象との関わりが残されているものである。

2011年9月 4日 (日)

世界歴史鳥瞰(連載第4回)

第1章 略

二 古代四大文明圏の発展

(1)四大文明圏の意義
 当初は個々的に成立した都市は、やがて共通の性格を持った地域的なまとまり(都市群)に発展していく。こうした原初的な都市群のことを「文明圏」と呼ぶことができる。
 そのような文明圏の代表的なものとして従来、メソポタミア・エジプト・インダス・黄河の四大文明圏がほとんとすべての歴史教科書で言及されて生きた。しかし、この「四大文明史観」は近年の考古学的発見によってすでに過去のものとなっている。
 例えば、従来黄河文明圏に代表されてきた中国の古代文明にあっても、新たに中国南部の長江流域で前4000年以前に遡ると見られる稲作遺跡を伴う文明が発見され(長江文明)、稲作の起源との関係で注目されている。
 この文明が黄河文明圏に匹敵する水準のものかどうかはなお研究の進展を待たねば確定できないが、広大な中国大陸の古代文明圏が黄河文明圏唯一であると断ずる理由は元来なかったのだ。
 さらに、近年「第五の文明圏」の有力候補として浮上しているのが、中央アジアのアム河上流域を中心とする都市遺跡(バクトリア・マルギアナ複合遺跡)である。
 この都市遺跡はインダス文明と同時期に並行していたと推定され、同文明圏とも交流があったものと考えられている。その中心遺跡が旧ソ連領内に所在したため、西側ではあまり知られてこなかったが、往時には今日のアフガニスタン南部にまで広がる文明圏であった可能性も指摘されている。
 この都市遺跡は住居を城塞で囲む城塞都市の構造を持ち、その住居址からは覚醒作用を持つ飲料物を調合・保存していたと見られる部屋も見つかっている。また、灌漑農業による大麦・小麦の栽培と牧畜を同時に行う混合農業を実践していた。
 ただ、出土品の印章に刻まれた図形が文字かどうか確定しておらず、従来の四大文明圏に匹敵する文字体系を備えていたかどうかの判断は今後の研究を待つ必要がある。
 このように、四大文明史観はもはや維持し難い時期に来ているが、それでもなお「四大」と評する意義が残るとすれば、それはメソポタミア・エジプト・インダス・黄河の四つの文明圏の先駆性に加え、それらの文明圏が周辺地域の歴史に及ぼした影響力の比類ない大きさによるのである。
 この四大文明圏に共通しているのは、いずれも東方の大河流域に興隆した都市文明であるということである。つまり、大河流域の肥沃な土地を利用した高い農業生産力を土台としつつ、大河を交通路として利用する商業の早くからの発達が、都市=文明の先駆的な開花を促進したと考えられるのである。言わば、大河が文明の産婆役となったのである。
 四大文明がいずれの東方に発祥したのは、東方が西方よりもそうした良質の大河に恵まれていたためであった。要するに、地球の地形的偶然の差である。

(2)メソポタミア文明圏
 ティグリス‐ユーフラテス両大河流域に興ったメソポタミア文明圏は、四大文明圏の中でもとりわけ先駆的なものであった。この文明圏の担い手となった系統不明の民族シュメール人がいち早く前3000年頃に発明した文字(楔形文字)は、やはり系統不明のシュメール語とともに、しかしシュメール語よりも長く周辺諸民族によって使用され続けた。その意味で、この文明圏の歴史的寄与は文字文化の面でとりわけ高いものがあった。
 シュメール諸都市では各々の都市ごとに小王朝が形成されていった点に特色があるが、そうした中からやがて南部のウルが優勢となり、周辺都市を糾合して断続的に三次の王朝を形成した。中でも前21世紀のウル第三王朝時代にはこれまでのところ現存する最古の成文法典(ウル・ナンム法典)が編纂された。
 その後、前19世紀以降になると、この地域の覇権はシュメール人からセム語派(アフロ‐アジア語族)系遊牧民の手に移り、アムル人の古代バビロニアやアッシリア人のアッシリア、カルデア人の新バビロニアなどのセム系強国が興亡を繰り返す戦乱の舞台となると、シュメール人もこれらセム語派系諸民族の中に同化・吸収されていき、シュメール語ともども消滅することとなった。
 周辺地域でも、セム語派系諸民族の活動は活発となり、シリア砂漠から出て隊商貿易で活躍し、その言語が後に国際商業語として使用され、文字はヘブライ文字、アラビア文字からモンゴル文字に至るまで多くの東方系文字の原型となったアラム人、キリスト教及びイスラーム教の母体ともなった一神教を創始したヘブライ人(ユダヤ人)、地中海方面にカルタゴをはじめ多くの植民都市を建設して海上貿易の担い手となり、またその表音文字が先のアラム文字とギリシャ文字双方の原型ともなったフェニキア人などが、メソポタミア文明圏の直接・間接の影響を受けつつ独自の文明を形成していった。
 しかし、前7世紀末以降になると、印欧語族のイラン系諸民族が優勢化し、まずイラン高原西部に興ったメディア王国の短い支配を経て、同王国から独立したペルシャのキュロス2世が新バビロニアを滅ぼしてメソポタミア地方を統一した。

(3)エジプト文明圏
 西アジア方面とアフリカ内陸部双方への出入口に当たるナイル河流域で黒人を含む様々な民族が融合して生まれたアフロ‐アジア語族系の古代エジプト人は、前4000年頃から流域にノモス(セペト)と呼ばれる多数の共同体を形成して暮らしていた。
 このノモスはメソポタミアのシュメール諸都市のような発達した都市とは異なり、まだ大集落の域を出ていないものであったと見られる。
 しかし、定期的に大氾濫を引き起こすナイル河の治水と用水の公平性を確保するため、強力な指導者の下での統一の機運が生じたことから、ノモスはナイル河下流の下エジプトと上流の上エジプトの二つの王国にまず統合された。こういう中で、下エジプトではメンフィス、上エジプトではテーベが二大都市として興隆してくる。従って、エジプトではメソポタミアとは異なり、王国の形成が先行し、王国の発展の中で都市が発達していったように見える。
 やがて前3000年頃、上エジプトの王メネス(またはナルメル)が両エジプトを統合して初の統一王朝を樹立した。以後、前525年にペルシャによって制服されるまで、外来の異民族王朝を含む26の王朝が交代を繰り返し、時折内乱による無政府状態の中断を伴いつつも、エジプトの統一を保持した。
 とりわけ、メンフィスを王都とした第三王朝から第六王朝までの時代(古王国時代)に、神の化身とみなされ、ファラオ(大きな家)の称号を持つ王が専制的に支配する神権政治体制の基礎が築かれた。
 エジプト文明圏最大の歴史的貢献は、当時としては先進的であったこのようなオリエント型専制王権のモデルを作り上げたことにあると言ってよいであろう。
 こうした専制王権を背景として、エジプトは積極的な対外戦争を行った。とりわけ、第19王朝のラメセス2世の時に小アジアの印欧語族系強国ヒッタイト王国とシリアの覇権をめぐって争ったカデシュの戦いの後締結された講和条約は、対等な大国間における現存する最古の国際条約とみなされている。また、第18王朝アメンホテプ4世時代の首都であったアマルナで発見された楔形文字による粘土板の外交文書は、エジプトの活発な外交活動の展開を示している。
 このように、エジプト文明圏は、原初的な国際関係と呼び得る秩序を生み出した点でもいくばくかの貢献をしたと言えるのである。
 その他、文化的な面ではエジプトで創案された1年を12ヶ月365日とする太陽暦はローマのユリウス暦を通じて今日世界中で使用されているグレゴリウス暦の基礎として、恒久的な所産となっている。
 エジプトは前12世紀頃以降次第に衰退の色が濃くなり、リビア人やヌビア人の異民族王朝が続き、前7世紀前半にはアッシリアの支配も受けた。そして、ついに前525年、ペルシャのカンビュセス2世によって征服され、ペルシャの属州に編入された。

(4)インダス文明圏
 インダス文明圏はインド亜大陸西部のインダス河流域の肥沃な地域に栄えた都市文明である。その年代はメソポタミアやエジプトよりも遅く、前2300年から1700年頃にかけてのものと見られる。このように、この文明圏はまだ解明されていない原因により、数百年で滅亡してしまうのである。
 そうした短命が信じ難いほど、この文明圏の代表都市ハラッパーとモヘンジョ・ダロは精密な都市計画に基づいて整然と構築されている。そのためか、メソポタミアのシュメール諸都市に比べて全般に小規模な都市である。
 そのメソポタミア地方とは遠隔貿易を行っていた証拠があるが、メソポタミアとは文化的な差異も多く、両者に系統的な関連性はないと考えられている。また、冒頭で述べたバクトリア・マルギアナ複合遺跡の都市文明とも交流を持ったが、両者の系統関係も直接には認められないようである。
 これまでのところ、この文明圏の担い手の民族籍はわかっておらず、民族名も空白のままとなっている。ただ、明らかに文字体系は備えており、それは今日のインド南部で話者の多いドラヴィダ系言語に近いとの見解が有力化しているが、まだ解読されていない。
 ともあれ、この文明圏は先述したように、わずか数百年で滅亡してしまうのであるが、その全期間を通じて専制王権の存在を示す宮殿や王墓の痕跡が見当たらないことも、その大きな特色となっている。
 そこで、この文明圏には少なくとも専制的な王権は存在せず、仮に王が存在しても象徴的な存在にとどまり、神官団または有力市民団による寡頭政が行われていたとの推定も成り立つ。そうだとすると、この文明圏の諸都市は古代ギリシャのポリスにも先立つ最古の共和制都市国家であった可能性もあるということになろう。
 インダス文明圏が滅亡した原因については経済要因説と環境要因説とがあるが、いずれにせよ、この文明圏が滅亡して200年ほど後の前1500年頃、西北から印欧語族系のアーリヤ人が大移動し、まずはパンジャブ地方に定着した。かつてはかれらアーリヤ人こそがインダス文明圏を破壊した張本人だと断じられたが、考古学的精査の結果、アーリヤ人到来時には文明圏はすでに衰亡していたことが立証され、アーリヤ人は無実と確定した。
 しかし、本来遊牧民であるアーリヤ人は荒廃しながらもまだ一部残存していたらしい都市(プル)には関心を示さず、むしろ積極的に破壊して最後のトドメを刺したようである。そのうえ、インダス文明圏の担い手民族の末裔と思しき先住民を「肌の色が黒い者」として蔑視し、服属させた。このような肌の色(ヴァルナ)に基づく差別制度は、やがてアーリヤ人と「黒い」先住民との混血が進んで肌の色では区別できなくなった後、司祭階級(バラモン)を頂点に社会的身分と職業の固定的関係を規定する独特の身分差別制度(いわゆるカースト制)として再編されていった。
 こうして、都市文明には関心を示さなかったアーリヤ人ではあるが、宗教文化の面では沐浴慣習のほか、地母神、牡牛、樹木、生殖器の信仰など、インダス文明圏の宗教文化を大幅に取り入れてバラモン教(ヒンドゥー教)を発展させた。有名な最高神シヴァもその原型と見られる神の図像がインダス文明圏の印章に認められるとの指摘もある。
 このように、インダス文明圏は滅んでも、その宗教文化の面はアーリヤ人によって継承・発展せられ、新たなインド文明の一部に組み入れられたと考えられるのである。
 さて、アーリヤ人は前1000年頃になると、さらに東のガンジス河流域にも進出し、本格的な定住生活に入った。そして王制のほか共和制(ガナ・サンガ制)も含む有力な部族国家を形成するとともに、王都を中心に自前の都市の建設も進めた。そうした都市の中でも特に自由な気風の満ちていたガンジス河中・下流域の新興都市では、バラモン教の祭式中心の形式主義化に反発する新しい思想潮流が生じ始めていた。
 前6世紀中頃(異説あり)にヒマラヤ山麓のシャーキヤ(釈迦)部族が建てたアーリヤ部族国家(非アーリヤ系説もあり)の名門に生まれたブッダが創唱した仏教も、そうした自由な新思潮の一つとして始まり、やがてガンジス河中・下流域の諸都市の商工業者などを中心に広まり、一時はバラモン教を守勢に立たせるほどの勢いを得たのであった。
 こうして、アーリヤ人が主要な担い手となった新たなインド文明の中心はガンジス河流域に移っていったのである。一方、インダス文明圏の故地インダス河流域は、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世によって前520年頃征服され、エジプトに続いてペルシャの属州となった。

(5)黄河文明圏
 
中国大陸中心部(中原)の黄河中・下流域の黄土地帯では前5000年頃から畑作中心の農耕と家畜の飼育が行われてきたが、やがて邑と呼ばれる氏族共同体が形成され、これが次第に城壁で囲まれた城郭都市的なものへと発展していった。そういう中で、邑の統合が進められていき、確実に確証できる中原最初の統一王朝である殷が前17世紀頃に成立したと考えられる。
 もっとも、伝説上の最古王朝は「夏」と号する王朝であり、司馬遷の『史記』でも言及されている。近年、その候補遺跡の発掘が進展し、中国学界では「夏」の実在性がほぼ確定しているという。
 ただ、漢字の原型である卜占用の甲骨文字が現れるのは殷代のことであり、厳密な意味で文明圏と呼び得るのは、今のところは殷代以降のことである。従って、この文明圏の成立は他の三つの文明圏の成立よりも時期的にはずっと遅いことになるのである。
 殷王は卜占を主宰する祭司長でもあったと考えられ、殷の政治は祭政一致の神権政治であったという限りでは古代エジプトの体制とも類似するが、殷はまだ前代の邑の連合体的な性格を脱しておらず、王も後の中国王朝を特徴づける専制的な皇帝とは程遠いものであった。
 そうした不安定さを反映してか、当初は都が定まらず、たびたび遷都を繰り返したが、前1300年頃にようやく現河南省の商に都が定まった(商殷)。
 殷は600年ほど命脈を保ったが、最後の紂王は暴君であったため、殷に属する西部の有力邑であった周が武装蜂起し、紂王を打倒して新たに鎬京[こうけい]を都とする周王朝を建てた。
 周は従来の殷の邑連合体的な体制を改め、安定した王権を構築するため、周王一族の者に封土を与えて世襲させ、これら諸侯に貢納・軍事奉仕の義務を課すとともに統治権を与える体制(封建制)を創始した。この封建制は基本的に同姓の父系親族集団、すなわち宗族の結びつきを中心とする氏族的分封制というべきものであって、西洋中世の契約関係を基本とする封建制とは本質的に異なっていた。
 しかし、現実には異姓の功臣や有力な地方首長に封土が与えられることもあり、周王と諸侯の宗族関係は次第に希薄になっていき、諸侯の自立化と封建的分裂の傾向が強まっていった。その結果、周の軍事力も弱化したと考えられる。
 前770年、西北から侵攻してきたチベット系と見られる犬戎[けんじゅう]勢力を撃退できず、鎬京が陥落し、東の洛邑(洛陽)に亡命・遷都を余儀なくされたのも、そうした周の軍事力の弱化の表れであった。
 この東遷の結果、周は東周として地方政権に切り縮められた。周王の形式的権威はなおしばらくは残存したものの、以後は各地に自立化した諸侯が周王の権威を借りつつ、中原の覇権をめぐって抗争を繰り広げる長い内戦の時代に突入していった。

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