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2019年7月13日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第41回)

七 アフリカ分割競争の時代

スーダンのマフディー国家
 スーダンはアラビア半島から移住してきた非黒人族系のアラブ人とヌビア人をはじめとする先住の黒人系諸民族が混淆・共存する境界域にあったところ、19世紀末になると、法的には16世紀以来オスマン帝国領土となっていたエジプトに成立した事実上の独立自治王朝ムハンマド・アリー朝の支配下に置かれていた。
 同時に、財政難に付け込まれたムハンマド・アリー朝エジプトは英国の統制下に置かれるという複雑な支配状況にある中、エジプトは本国の財政難に対処するうえでも、スーダンに重税を課し、収奪を強化していた。
 こうしたエジプトの圧制に対する反感を背景に、スーダンでは反エジプト運動が高まる。その中から台頭したのが、ヌビア人の宗教指導者ムハンマド・アフマドであった。船大工の家に生まれた彼は正式の聖職者ではなかったが、独自のイスラーム神秘主義思想に基づき、1880年代にはマフディー(救世主)を称し信者を集めるカリスマ教祖となっていた。
 彼の教団が他の神秘主義教団と異なったのは、武装解放運動の形態をとったことである。その厳格なコーラン解釈やジハード(聖戦)思想など、マフディー教団は現代のジハーディスト武装勢力の先駆者的な意義を持っていたと言えるだろう。
 実際、マフディー軍は近代装備を備えるエジプト軍にゲリラ戦を挑み、1882年にはこれを殲滅した。エジプト軍から武器を奪取したマフディー軍はその後、支配地を着実に拡大していく。
 事態を憂慮した英国はエジプト軍に梃子入れするも成功せず、エジプトのスーダン撤退を支援するため、中国で活躍したゴードン将軍を指揮官として派遣するも、1885年、ゴードン部隊は首都ハルツームでマフディー軍により包囲・殲滅せられ、ゴードンも惨殺された。
 かくして、マフディー軍はハルツームを落とし、スーダン全土の掌握に成功したのである。ところが、ムハンマド・アフマドは勝利から間もなく、チフスで急逝してしまう。このことで、ムハンマド・アフマドから後継候補の指名を受けていた三人の腹心の間で争いが起こる。
 この後継争いを征したのは、腹心の一人アブダッラーヒ・イブン・ムハンマドであった。ただ、アブダッラーヒは民族的にはアラブ系であり、政権を掌握した彼はムハンマド・アフマドの一族や古参幹部をすみやかに排除・粛清したことで、これ以降、マフディー教団はアブダッラーヒも属したアラブ系遊牧民バッガーラ人を支持基盤とするようになるため、厳密にはアフリカ黒人の軌跡とは言えない。
 アブダッラーヒ治下で13年持続したマフディー国家は最終的に1898年、名将キッチナー将軍を擁し、エジプトを介したスーダン再征服を企てた英国に敗れ、崩壊した。
 このスーダン再征服作戦中、アブダッラーヒを南部へ追撃していた英軍が西アフリカ方面からスーダン侵出を狙うフランス軍と一触即発の危機となったファショダ事件を機にフランスが譲歩し、スーダンから手を引いた結果、翌1899年以降、スーダンは英国とエジプトの共同統治という形で実質上は英国植民地の状態に置かれることとなった。
 一方、マフディー国家をアラブ系に乗っ取られた形のムハンマド・アフマド一族は穏健化し、遺子アブドゥルラフマン・アル‐マフディーは英国統治の協力者となった。彼を介したムハンマド・アフマド曾孫のサーディク・アル‐マフディーは独立後、二度首相を務めるなど、マフディー一族自体はスーダンの有力政治家系となった。

2019年7月 4日 (木)

シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第1回)

序説

 シチリアとマルタは、ともに地中海の景勝地として近距離にあるが、歴史的にも連関性の強い島嶼である。とはいえ、現在シチリアはイタリア領の離島自治州であるのに対し、マルタは人口わずか40万人ながら独立国であるというように、地政学的には相違がある。
 また使用言語に関しても、シチリアは帰属するイタリアの公用語であるイタリア語を共通語としながらも、シチリア固有のシチリア語を主要な地方語とする二重言語地域であるが、マルタは固有のマルタ語と英語を併用公用語としながら、旧公用語であるイタリア語もかなり通用する。
 複数言語併用という言語状況の点では共通しながらも、使用言語のコンポーネントには相違が見られる。特に固有言語のシチリア語は印欧語族ロマンス諸語に属する言語であるのに対し、マルタ語は欧州地域の公用語中で唯一の阿亜語族に属し、アラビア語と近縁な言語である。このように、シチリアとマルタは固有言語の点でも大きな相違を成す。
 両者は地政学的に外部勢力に攻め込まれやすく、めまぐるしく支配者が交替してきた歴史を持ち、中世にはイスラーム勢力の支配下にも置かれた。現在の言語状況もそうした歴史の結果であるが、片やシチリアでは印欧語族系ロマンス諸語が定着し、マルタでは阿亜語族系言語が定着した。この相違はどこから生じたのか―。
 この問題が本連載を貫く主題となる。そうした言語発展史という点では、言語発展の問題をより一般的に扱った先行連載『言語発展論』から派生し、地方言語に焦点を当てた連載という性格を持つ。
 同時に、これを通じて、歴史的にしばしば戦乱を招いてきた対立緊張関係にある印欧語族と阿亜語族との交錯と混淆という問題にも到達するだろう。シチリアとマルタは、水と油のごとくに見える印欧語族と阿亜語族が出会う交差点のような位置にあるからである。

2019年6月30日 (日)

弁証法の再生(連載第9回)

Ⅲ 唯物弁証法の台頭と転形

(9)唯物弁証法の教条化
 唯物弁証法はマルクスからその遺稿整理・解説者となった刎頚の友エンゲルスの手を経て、いわゆるマルクス主義における理論的な基軸となるが、その過程で次第に教条化の傾向を見せる。そうした弁証法の教条化の第一歩はまさにエンゲルスに始まると言える。
 一般に他人の遺稿整理というのは困難な作業であり、とりわけマルクスの「悪筆」に悩まされながらの作業は至難を極めた。結果として、エンゲルスはマルクスのいち「解説者」を越えた「解釈者」とならざるを得なかったようである。
 エンゲルスはマルクスの思想を「科学的社会主義」という標語のもとに総括するのであったが、その基本定式として唯物弁証法とそれに基づく歴史観である唯物史観とが据えられた。エンゲルスによる図式的なマルクス解釈はわかりやすかったため、19世紀末の労働運動・反資本主義運動の中にいち早く吸収され、風靡することとなった。
 かくして、唯物弁証法はそれ本来の意義が充分に咀嚼されないまま、とみに政治思想化していくことになる。想えば、弁証法は古代ギリシャでの発祥時から政治と無関係ではなく、弁証法に関わったゼノンやソクラテスは政治犯として捕らわれ、犠牲となった。
 近代における唯物弁証法も同じ宿命を負うようであった。しかし、唯物弁証法はロシアという意外な地で一つの政治体制教義として安住の地を得ることになる。ロシア革命後、ロシアを中心に樹立されたソヴィエト連邦の体制教義に納まったからである。
 これはマルクスとロシア革命指導者レーニンの名を二重に冠し、「マルクス‐レーニン主義」と称されたが、実質上はレーニンを継いだスターリン体制下の教義である。
 もとよりスターリンは哲学者ではなく、典型的な政治家であり、哲学的素養には欠けていた。このような政治家による哲学の消化不良にありがちなのは、ご都合主義的な単純化である。特にスターリンは、エンゲルスの弁証法三定式のうち第三項「否定の否定」を否認した。
 実は、この第三項こそは単純な形式論理としての「二重否定」を超えた弁証法的止揚の言わばジャンプ台を成す部分であるのだが、これを否認するということは弁証法そのものの否認に等しい。しかし、スターリンがこれを否認したのは、まさに自身の独裁体制の「止揚」を恐れたからにほかならない。
 これによって、唯物弁証法はその動的な性格を失い、ソ連という既成の体制―中でもスターリン独裁体制―を固定化し、その正当性を保証するための手段的な教条へ転形してしまうのである。以後の唯物弁証法はこうした教条的転形からの脱出が課題となった。

2019年6月26日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第25回)

28 ウォレン・ガマリエル・ハーディング(1865年‐1923年)

 第一次世界大戦の余波が残る1920年の大統領選挙では、共和党のウォレン・ガマリエル・ハーディングがウィルソン後継の民主党候補に圧勝し、第29代大統領となった。ハーディングは南北戦争終結後に生まれた初の大統領であり、これ以降のアメリカ大統領史は名実ともにポスト南北戦争の時代に入る。
 それにしても、オハイオ州知事や連邦上院議員の経験はあったが、地方の新聞経営者出自でさして知名度もないハーディングが圧勝した要因は、反ウィルソン戦略にあった。
 この時、ウィルソン現職が病気で執務不能状態にあることはまだ公にされていなかったが、すでに政権は死に体であり、ウィルソンの人気も落ち目であった。そこで、ハーディングはウィルソン政権を否定し、「正常に戻ろう」という単純明快なスローガンで、戦争疲れした国民に戦時体制の終了を訴える戦略が功を奏したのである。
 彼の「正常化」政策が最も明確に現れたのは、外交政策であった。すなわち国際連盟への加盟見送りを確定させ、ドイツとの単独講和で戦争を終了させた一方、ワシントン軍縮会議では台頭していた日本の海軍力の制限とアメリカの覇権確立に努めた。
 内政面では、富裕層減税と保護関税を明確に打ち出し、連邦政府の予算会計制度の整備を進めるなど、今日の共和党保守主義につながる面を見せている。一方、南部で蔓延した黒人へのリンチを抑止する反リンチ法の制定を推進したが、これは人種差別的な南部民主党により阻止された。
 黒人の要職登用にも積極的だったハーディングの路線は反奴隷制を原点としていた初期共和党の進歩的な姿を残したものであったが、同時に移民法では当時欧州での迫害を逃れてくるユダヤ人が増加していたことから、移民規制を強化する緊急法を導入するなど、移民排斥政策の先鞭をつけた。
 ハーディング政権最大の暗黒面は、汚職であった。おそらくは彼自身のワシントンでの経験不足を補う目的もあり、先行共和党政権下の公務員制度改革により抑制されてきていた伝統の猟官制を再起動し、地元オハイオを中心とする友人知己を論功行賞で政府の重要ポストに就けたことで、政権は多くの汚職スキャンダルにまみれたのである。
 中でも、内務長官が軍保有の油田を民間賃貸するに際して収賄して摘発されたティーポット・ドーム事件はハーディング政権最大の汚点となった。その他、ハーディング自身の関与が疑われたケースはなかったとはいえ、周辺者の汚職疑惑が多発した。
 ハーディングは1923年、アメリカ大統領として初めて公式訪問したアラスカ(当時準州)とカナダから帰国した直後、心臓発作を起こして急死してしまう。実は、彼はアラスカ訪問中、政権要人の汚職に関する調査報告書を読まされ、ショックを受けたとされており、快適と言えない当時の鉄道や船の長旅疲れと相乗して、心身に打撃となったのかもしれない。
 こうして一期目途中で病死したことから二年余りの短命政権に終わったことや、前任ウィルソンに比べてカリスマ性に欠けることもあり、現代ではあまり知られない存在として埋もれてしまったハーディングであるが、彼は三人の大統領に順次率いられた戦間期共和党政権の最初の基礎を置いた人物であった。

2019年6月15日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第40回)

七 アフリカ分割競争の時代

ズールー戦争
 19世紀末に始まる西洋列強によるアフリカ分割競争を前に、アフリカ黒人諸民族の多くは無抵抗であった。多くの場合、各個的に「保護条約」のような形で物資や武器を提供して懐柔する戦術が採られたこともあるが、抵抗しようにもそれだけの軍事力も備わっていなかったのだ。
 しかし、いくつかの例外がある。その一つはズールー族である。かれらはその卓越した武力をもって急速に南部アフリカで勢力を拡大したことは前章でも触れた。特に1873年、第4代国王に即位したセテワヨは叔父に当たる初代シャーカ王にならい、軍制の再整備とマスケット銃の装備による軍備の近代化にも着手した。
 こうしてセテワヨはズールー王国をさらに帝国に拡大しようとしたが、これは当時この地域の征服を狙っていた英国の利害と衝突することになった。英国はボーア白人国家をも併合して、南部アフリカに広大な植民地を構築しようとしていたのだった。
 これに対し、セテワヨは英国の精神的先兵とみなされた宣教師の追放や測量士の拘束といった強硬措置で応じた。英国側はズールー王国を保護国とする内容を含む13箇条の要求を付き付けたが、これは開戦を想定した最後通牒にほかならなかった。
 セテワヨが要求を拒否したため、1979年に勃発したのがズールー戦争である。この戦争は実のところ、アフリカの出先当局が英本国政府とは独立に始めたこともあり、緒戦では勇猛かつシャーカ王以来の「雄牛の角」作戦でかかるズールー軍は、イサンドルワナの戦いで寄せ集めの現地英軍を壊滅させる勢いを見せた。
 しかし、思わぬ惨敗を憂慮した本国政府が支援に乗り出し、軍を増強すると、近代化が途上で主要武器は伝統的な槍と盾というズールー軍はたちまちにして守勢に立たされ、1879年7月、王都ウルンディが陥落、セテワヨ王は捕らわれ、廃位された。
 ズールー王国は解体され、10以上の行政地区に分割されるが、元来多部族制のため内紛が絶えなかったことから、英国はいったんセテワヨを傀儡首長として復位させようとする。しかし、これに反発した敵対部族長の襲撃を受けて負傷・逃亡したセテワヨは間もなく死亡した。
 こうして強勢を誇ったズールー王国はあっけなく崩壊し、続いてボーア白人との戦争(ボーア戦争)に勝利した英国の南アフリカ植民地に併呑されてしまうのであった。
 1879年中の出来事であったズールー戦争は年代的に列強のアフリカ分割競争が開始される前のことではあったが、ここでアフリカ黒人諸民族中でも最も強力だったズールー族が列強の軍門に下ったことは、アフリカ黒人にとっては痛恨であった。
 もっとも、1910年に至り、ナタール植民地で、人頭税の引き上げに抗議し、ズールー人族長バンバサが武装蜂起したが、これも当局に武力鎮圧され、反乱軍側では3000人以上が犠牲となった。バンバサも処刑されたとされるが、未確認のため、落ち延び伝説が残り、後に南アフリカの反アパルトヘイト運動で象徴化された。

2019年6月12日 (水)

「シェアリング経済」の展望

 昨今、資本主義の内部に「シェアリング経済」と呼ぶべき新たな潮流が見られる。例えば、シェアハウス、カーシェアリング、ワークシェアリング等々。住宅や自動車は、日常生活の必需品もしくは必需に近い有益品だが、単独で所有するには比較的高価なものである。そうした物品をあえて単独所有せず、他人と共有しようとするのがシェアリングである。
 こうした共有の観念は従来からも所有権の分有形態として存在しているわけだが、それは家族間や家族に等しい知己間に限られていたものが、未知の人との共有にまで拡張されていることが特徴である。そのぶん、共有観念が抽象化されているとも言える。
 労働を分かち合うワークシェアリングとなると、そうした抽象性はいっそう増すことになるが、それだけに共産主義に近接していくことになるため、資本主義では警戒ストップがかかりやすく、物品のシェアリングに比べて普及しているとは言えない。
 結局のところ、こうした「シェアリング経済」も個人所有・市場経済の資本主義的原則に合致する限りでの例外領域にとどまらざるを得ないのだろうが、より展望的にみるなら、資本主義内部での小さな変革の種子とポジティブに受け止めることもできるかもしれない。
 共有の観念をいっそう抽象化された言わば生産様式全般の社会的、さらには人類的規模でのシェアリングが共産主義経済であるとも言える。そうした意味では、資本主義的限界内での「シェアリング経済」を未来の共産主義的経済システムへの移行の手がかりとしてより積極に評価し、これを促進することも革命的行動のちいさな半歩かもしれない。

2019年6月 8日 (土)

言語発展論(連載最終回)

第3部 新・世界言語地図

九 独立語族/独立語について

 前回まで、「語環」という概念によりながら、現存する世界言語を概観してきたが、地球上にはどの語環にも属さないように見える独立語族、さらにはどの語族にすら属さないように見える独立語も存在している。
 とはいえ、独立語族/独立語というものも、古くは周辺に同系の語環が広がっていたところ、その内包言語の多くが絶滅し、一部が存続している「残存言語」と、周辺語環から分離した結果、独立した「分離言語」とに大別できる。
 いずれにせよ、独立語族/独立語といえども、発祥以来完全に「孤立」していたわけではなく、形成過程で徐々に独立性を強めていったという限りでは「孤立」という語を冠するのは不適切であり―言語形態論上の「孤立語」と紛らわしい―、「独立語」と呼ぶものである。
 このうち前者の「残存言語」の代表例としては、中国南部からインドシナ半島北中部にかけて点在的に分布するミャオ‐ヤオ語族とタイ‐ガタイ語族、南インドに広く分布するドラヴィダ語族を挙げることができる。
 ミャオ‐ヤオ語族とタイ‐ガタイ語族は孤立語や声調の特徴からシナ‐チベット語族との共通性もあるが、語彙の相違も大きく、独立した語族とみなされるが、かつては中国大陸に広く分布していた可能性がある。漢民族が北方から移住・拡散していった歴史の過程で押され、点在的に残存した語族であろう。
 一方、ドラヴィダ語族はタミル語をはじめ、多くの言語を含み、現在でもインド南部で主要な日常言語として広く用いられ、印欧語族と並んでインドを象徴する語族である。
 印欧語族のアーリア人大移動以前、インダス文明で使用されていた言語もドラヴィダ系と推定され、かつイラン南西部で古代帝国を構築したエラム人のエラム語との近縁性も指摘されるので、現在はほぼ南インドに限局されるドラヴィダ語族も、かつてはより広域的な語環を形成していた可能性もある。
 一方、南欧のバスク語は同系言語を他に見出すことのできない代表的な独立語として著名であるが、フランス南西部のアキテーヌでかつて使用された絶滅言語アクイタニア語との同系性が有力視され、同じく絶滅言語で、かつてイベリア南部で使用されたイベリア語との関連性も指摘されているところから、仮説的には「バスク語族」あるいは「イベリア語環」をも観念できるかもしれない。
 後者の「分離言語」の代表例としては、日本語族とコリア語族が想定できる。いずれも膠着語としてウラル‐アルタイ語環との共通点を持ちながらも、東の辺境地で独自に発達を遂げたため、母音調和法則の消失など、音韻や語彙面で分離された言語である。
 なお、共通祖語を再構することはできないながらも、日本語族とコリア語族の間の近縁性を考慮すると、仮説的に「日本‐コリア語環」を立てることができるかもしれない。とすれば、これは独立した小語環となる。

2019年6月 5日 (水)

弁証法の再生(連載第8回)

Ⅲ 唯物弁証法の台頭と転形

(8)エンゲルスの唯物弁証法
 マルクスの共同研究者にして終生の友でもあったエンゲルスは、マルクスとの死別後も20年近くにわたって活動し、その多くが未完ないし未出版に終わっていたマルクスの遺稿の整理と解説に当たり、マルクス思想の継承と普及に貢献した。
 おそらくエンゲルスの存在なくしては、マルクスは没後、完全に埋もれた思想家に終わったのではないかと思えるほどであるが、そうしたエンゲルスの思想史的貢献の一つに唯物弁証法の定式化がある。その点、マルクスは、彼が批判的に継承したヘーゲルに似て、弁証法の定式化はあえて試みず、それを思考の前提として扱っていた。
 これに対して、エンゲルスは唯物弁証法の定式化に踏み込んでいる。それによれば、唯物弁証法定式は①量より質への転化②対立物の相互浸透③否定の否定の三項にまとめられる。エンゲルス自身、この定式に逐条的な解説を施しているわけではないが、いくらか私見をまじえて解釈すれば、次のようである。
 まず「第一項:量より質への転化」とは、量的な変化が質的な変化をもたらすという一見すると矛盾律であるが、これは例えば生体の細胞をはじめ、分子の量的な集積が質的に新たな物質を生み出すような例を想起すれば、判明する。
 「第二項:対立物の相互浸透」は、およそ対立物は相互に相対立する関係性によってその存在が規定される相関関係にあり、実体的に対立するのではないという関係論的存在論である。
 「第三項:否定の否定」は形式論理学における二重否定―それは消極的な肯定である―とは似て非なるもので、あるものを全否定することなく、対立物の止揚により高次の措定に至るというヘーゲルにおける止揚の簡明な定式化である。
 これら三項は、各々別個独立の定式なのではなく、第一項の量より質の転換の過程に対立物の相互浸透があり、その結果として対立物の止揚による新たな境地が拓かれるという動的なプロセスが表現されているとみることができるだろう。
 ただ、これだけのことなら特段の独創性は認められないが、エンゲルスは唯物弁証法の適用範囲を自然界も対象に含めた一般法則として拡大しようとした―未完書『自然の弁証法』がその綱領である―ところに独創性がある。このような一般法則化は、マルクスがあえて試みなかったことである。
 この点で、エンゲルスはマルクスよりも教条主義的な傾向が強く、後に弁証法の代名詞のごとくなった「マルクス主義」はマルクス自身ではなく、エンゲルスによって最初に体系化されたと言い得るのである。このことは唯物弁証法の普及に寄与するとともに、その教条化にも力を貸したであろう。

2019年5月30日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第24回)

27 トマス・ウッドロー・ウィルソン(1856年‐1924年)

 1912年大統領選挙で共和党が再選を目指す現職タフト陣営と返り咲きを狙って離党したローズベルト陣営に事実上分裂したことで、民主党が漁夫の利を得る結果となり、ウィルソンの当選につながった。こうして第28代大統領となったウィルソンは20世紀に入って最初の民主党大統領となった。
 ウィルソンはアメリカ史上初めてのアカデミズム出身大統領でもあり、進歩主義者であった。彼はその学識に基づく様々な「理想」を掲げてはいたが、ほとんどは中途半端に終わり、支持者を失望させた。その意味で、ウィルソン政権のキーワードは「失望」である。
 ウィルソン政権の失望政策は内政外交両面に及ぶが、外交面では「平和主義」である。例えばローズベルトの「棍棒外交」には批判的で、より穏当な「宣教師外交」を対置したが、実現できず、ハイチやドミニカの占領、折からのメキシコ革命への干渉など、実際の結果は「棍棒」と変わりなかった。
 より国際的な失望政策は、第一次世界大戦とその処理をめぐるものである。大戦が欧州で始まった時、ウィルソン政権は中立を標榜したが、影ではドイツと対峙する連合国側に物資や資金提供などの物的支援を通じて「裏参戦」していた。
 そのことが多数のアメリカ人乗客が犠牲となったドイツ海軍によるルシタニア号撃沈事件で隠し切れなくなると、ウィルソンは正式に参戦を決め、アメリカ外征軍を組織して、欧州戦線に送った。これは建国以来、アメリカ史上初の本格的な海外派兵であり、このためにウィルソン政権は反戦運動を抑圧しつつ、徴兵制を復活し、のべ200万人を派兵、5万人以上の戦死者を出した。
 ウィルソンの理想派学者ぶりが発揮されたのは、戦後処理の過程である。ロシアのレーニン革命政権への対抗心もあり、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、人類史上初とも言える野心的な国際平和機構・国際連盟の創設も主導した。
 しかし、いまだ帝国主義を追求していた列強に中国大陸を狙う新興の大日本帝国など主要各国の利害調整に失敗したうえ、パリ講和条約はモンロー中立主義の原理に固執する本国上院の批准も得られなかった。こうしてウィルソン平和主義は理念に終わり、数十年後の第二次大戦を抑止することはできなかった。
 内政面での失望政策の筆頭は人種問題であった。彼は第12代テイラー大統領以来の南部出身大統領ということもあり、人種隔離政策を維持する南部の支持票に依存していた。長老教会の牧師だった父は南北戦争当時、南部連合を支持した奴隷制擁護者である。
 そうした背景から、ウィルソンの「進歩主義」は人種問題には及んでいなかった。そのため、彼は南部出身者を政府に起用し、連邦官庁での人種隔離を推進していった。自身は会員ではなかったが、クー・クラックス・クランを称賛する白人至上主義者のプロパガンダ映画の上映も許した。
 しかし「進歩主義」のイメージ演出に長けていたウィルソンは民主党大統領としては実に第7代ジャクソン以来の再選を果たし、二期目を務めるも、その末期は彼の掲げる「民主主義」の理念を裏切る違憲統治であった。ウィルソンは1919年に脳梗塞で倒れ、執務不能となったにもかかわらず、その事実を隠したのであった。
 こうした場合、副大統領が代行するはずであったが、当時のマーシャル副大統領はウィルソンと確執しており、代行を拒否するという異例事態となったため、政府に何らの役職も持たないイーディス夫人が夫の名義で職務を事実上代行した。
 この民主的共和政にとってはスキャンダラスで非アメリカ的な秘密裏の“垂簾聴政”体制は必ずしもウィルソン自身の意思によるものでないとはいえ、任期切れまで2年間続き、大統領の死後まで国民には慎重に伏せられていたのだ。
 こうしてウィルソン政権は違憲状態のうちに二期八年を終えた。ウィルソンは1924年に死去したが、奇しくもこれはライバル・レーニンの死と同年であった。しかも、脳梗塞による執務不能もレーニンと同様であったが、事実を隠さなかったレーニン政権のほうが「民主的」に見えたのは皮肉である。

2019年5月25日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第39回)

七 アフリカ分割競争の時代

ベルギー領コンゴの暴虐
 ベルギー領コンゴは、アフリカ分割競争の出発点とも言える象徴的な場所である。今日のコンゴ民主共和国の領域をカバーする地域は1879年以降、ベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けたイギリス人ヘンリー・モートン・スタンリーによる探検を契機にベルギーのものとなった。
 レオポルドはこれに先立つ1876年、欧米の探検家や資金提供者らを集めて国際アフリカ協会なる団体を結成していた。この団体はアフリカ中部の「文明化」を支援するという口実を伴っていたが、実際は未踏のアフリカ中部を我が物とすることを狙う隠れ蓑であった。
 この地域は在地首長に率いられた諸部族が割拠するところであり、スタンリーの巧みな交渉により、首長らは次々と不平等条約を締結させられた。これにより、武力行使なくしてこの地域はベルギーの手に落ちたのである。
 ただ、当初のベルギー領コンゴは厳密には「ベルギー領」ではなく、「レオポルド2世領」というほうが正確であった。すなわち王の私領地であり、その管理は前出のアフリカ国際協会から分離された「コンゴ国際協会」に委託されたのである。1885年のベルリン会議も、これを追認した。こうして正式に「コンゴ独立国」が発足した。
 しばしば「コンゴ自由国」とも通称されるものの、その統治は進歩的な立憲君主制を採る本国では望めないレオポルド2世の絶対支配であった。実態としては「国」というより、王の私領地であることに変わりはなかった。つまり、ベルギー政府でさえコンゴに介入できないのである。
 こうして「独立国」なる皮肉な名称の下、現地では象牙収集やゴム栽培などに現地人が動員され、残酷な刑罰の担保で奴隷労働が強いられた。こうした苛烈な実態は、まるで奴隷貿易時代のカリブ海域植民地のようであったが、王の私領地という封建的な性格の領地であったため、そのようなことになったのである。
 コンゴ独立国における現地アフリカ人の犠牲者数は、現在でも論争の的のままである。1998年にはコンゴ独立国における暴政の実態を記述したアメリカの著述家アダム・ホックシールドの『レオポルド王の霊』を契機に、当時はまだ未生成だったジェノサイドの概念にあてはまるかどうかをめぐり論争が起きている。
 しかしコンゴ独立国の実態はつとに同時代的にも批判の的となっており、1900年以降、イギリス人ジャーナリストのエドモンド・モレルによる調査報道で暴露され、1906年の著作『赤いゴム』にまとめられた。これは国際世論を刺激し、レオポルド自身も反論するなど、一連の国際的大論争に発展した。
 論争はジャーナリズムや人道家の間の批判にとどまらず、ベルギーのライバル列強諸国からの嫉視的な批判も高めたため、1908年、レオポルドはコンゴ独立国をベルギー政府の管理下に移す譲歩を余儀なくされた。
 これによって同地が解放されたわけではなく、これによってコンゴが正式にベルギーの領土に編入されただけのことである。言わば、近代的な植民地統治に変更されたのである。コンゴの完全な独立は、半世紀以上先の1960年を待たなければならなかった。

«言語発展論(連載第25回)

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