2017年4月22日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第16回)

第二部 現況~未来

(5)日系オセアニア人たち
 戦後の日本は敗戦の結果、オセアニア地域の領土をすべてアメリカの信託統治の形で没収されて以降、この地域にもはや領土は保有していないが、今日でもオセアニアにおいて無視できない人的勢力として、日本人の血を引く日系オセアニア人がある。
 その中心はアメリカのハワイ州である。ハワイ州はアメリカ50州中、アジア系住民が優位を占める唯一の州であるが、その中で日系は現在、フィリピン系に次ぐ第二位で、約18万人と推計される。
 かれらの多くは明治維新後、1924年の排日的な移民法の制定に至るまで続いた移民の子孫たちであり、第二世代以降は日系ハワイ人として定着し、社会に根を張って政治的にも力を持つようになる。
 その象徴は、日系人初―アジア系としても初―の州知事として1974年から86年まで3期12年にわたりハワイ州知事職を全うした日系二世のジョージ・アリヨシである。さらに、2014年には日系人として二人目のデービッド・イゲが州知事に当選した。イゲはハワイ日系人に多い沖縄移民系としては初となる州知事である。
 また各州代表院としての性格が強い連邦議会上院では、故ダニエル・イノウエがハワイ州選出上院議員として1963年から半世紀近く多選を重ね、民主党で重きをなした。彼は大統領継承順位第3位となる上院仮議長まで務め、規定上は合衆国大統領に最も近い位置まで届いた日系人でもあった。
 なお、2013年にハワイ州選出上院議員に当選した戦後の日系一世メイジー・ヒロノは、全米で初のアジア系女性上院議員でもある。
 日系人の政界進出は戦前、南洋諸島統治の中心であったパラオにも見られる。純粋の日系人とみなすことができるか微妙だが、85年に暗殺されたハルオ・レメリク初代大統領はパラオ人男性と日本人女性の間に生まれている。第5代のクニオ・ナカムラ大統領も混血だが、父が日本人であり、日系人とみなされている。
 ミクロネシアの故トシオ・ナカヤマ初代大統領も父が日本人の混血日系人であり、第7代マニー・モリ大統領は日系四世である。その他、マーシャル諸島でも、第3代ケーサイ・ノート大統領は祖父が日本人の日系三世である。
 これら混血系も含めた日系オセアニア人の多くは戦前の貧しさゆえの経済移民、あるいは植民地統治の結果としての移民の子孫たちであるが、戦後もビジネス目的や生活目的で、オーストラリアやニュージーランドにも場所を広げて続いているオセアニア移住者の子孫が現地で定着すれば、新たなメンバーを加えて日系オセアニア人の勢力が発展していくであろう。

2017年4月20日 (木)

私家版李朝国王列伝〔増補版〕(連載第8回)

八 燕山君・李㦕(1476年‐1506年)

 9代成宗が1494年に死去した後を継いだのは、18歳の世子李㦕であった。年齢的に見て大妃の後見が必要なはずであったが、生母尹氏は去る82年に賜薬を下され、処刑されていた。
 弱小両班の生まれながら成宗の寵愛を受けた王后尹氏は性格と素行に問題があり、呪詛事件を起こして降格されたうえ、尹氏のもとを訪れた成宗の顔面をひっかくという前代未聞の粗暴な不敬の罪により処刑に至ったのだった。この賜死事件が、燕山君の治世に大きな影を落とすことになる。
 即位当初こそ父王時代の施策を継承し安定した治世だったが、父王の時代に登用されるようになった士林派に対して、勲旧派の巻き返しが始まる。彼らは未熟な王を唆して士林派の追い落としを狙った。そのため、燕山君の治世では度重なる士林派弾圧が実行された。だが、弾圧は次第に相手を選ばぬものに変わっていく。
 決定的だったのは、1504年の甲子士禍である。この事件は、国王側近が生母尹氏の死の経緯を王に吹き込み、その死に関わった人物の大量検挙・処罰を断行させた事件であり、弾圧対象は士林派を越えて一部勲旧派にも及び、尹氏賜死を主導した燕山君の祖母仁粋大妃すら糾弾され憤死するほどであった。
 これらの弾圧事件は王自身が主導したというより、若い王を唆して政敵の排除を図ろうとする一部側近者らの画策によるものであり、ここには後見役を持たない若年君主の弱点が現われている。
 結果として多くの有為の人材が失われ、朝廷では姻戚や宦官が跋扈するようになった。とりわけ、賎民出身ながら芸能に優れていたため、燕山君に寵愛された後宮の張緑水は政治的にも権勢を持つようになり、その親類も栄進した。
 一方、燕山君は政務を放擲して女性たちとの遊興に耽るようになり、高麗王朝時代からの高等教育機関である成均館すら遊廓に変えてしまうほどであった。諫言する重臣は処刑され、もはや手に負えない乱心の暴君であった。
 そうした中、ついには勲旧派でさえ危機感を抱くようになり、1506年、クーデターが実行される。孤立無援状態にあった王はあえなく廃位され、江華島へ配流された。燕山君に封じられたのはこの時であり、後世の追贈を含めて廟号を持たない最初の李朝国王となった。
 このクーデターでは燕山君の側近者や先の張緑水のほか、王子も全員処刑されるという徹底した燕山君系統根絶が図られた。燕山君自身も配流からわずか二か月にして30歳で急死している。公式には病死とされているが、タイミング的には疑念もある。
 病的な燕山君の治世は李朝体制にとって一つの転機であり、これ以降、李朝ではしばらく英主を欠き、求心力を喪失した朝廷では重臣らが党争を繰り広げる動揺の時代に突入していく。


§6 宗材盛(1457年?‐1507年)

 宗材盛〔きもり〕は燕山君とほぼ同世代で重なる宗氏当主であった。偽使を用いた朝鮮通交を拡大したやり手の父貞国から家督を継承した材盛は父の政策を継承したと思われるが、時代は応仁の乱を経て戦国時代に入ろうとしていた。
 九州辺境地対馬でもその波を避けることはできなかったと見え、材盛の頃から下克上的な動きが見られる。それは、材盛が1501年に代官(事実上の守護代)に任命した一門の宗国親の権勢が増大したことである。材盛は最晩年には息子義盛に家督を生前譲与していたと見られるが、その頃には国親による領主権の侵食が顕著になっていた。そのことが、材盛死から三年後の日朝紛争・三浦の乱にもつながる。

2017年4月14日 (金)

アフリカ黒人の軌跡(連載第3回)

一 「残アフリカ」した人々

コイサン諸民族の由緒
 アフリカ黒人の中でも最も古い由緒を持つと想定されているのが、コイサン諸民族である。コイサン諸民族とはコイコイ族とサン族の総称であり、ともに南部アフリカのカラハリ砂漠を中心とした地域で今日でも狩猟採集生活をする種族である。
 かれらは現生人類の系譜上最古の分岐を示すY染色体ハプログループAを高頻度で保有することから、初期現生人類に最も近いと考えられている。ただし、Aの保有頻度でみれば、今日の南スーダンの多数派ディンカ族も高頻度であるから、初期集団のスーダン方面への拡散も想定される。
 とはいえ、コイサン諸民族は現在まで現生人類発祥地をほぼ離れず、かつ狩猟採集の生活様式を固守している点(ただし、コイ族は牧畜民)、極めて保守的集団とも言える。かれらの保守性は形質的にも言語的にも顕著である。
 形質的には女性の臀部が脂肪によって大きく突出する脂臀が知られる。縮れ毛などの特徴は他のアフリカ黒人と共通だが、肌色はさほど濃くなく、黄褐色に近いことは、初期現生人類の形質的特徴を推定するうえで参照項になるかもしれない。
 言語的な特徴は、舌打ちするときの音に近い吸着音による音素が豊富であることである。コイサン諸語と包括されるかれらの言語に音素の種類が極めて多いのは、原初の言語が語彙よりも音素の区別によって様々な意味を表現していたことの痕跡と考えられる。
 もっとも、今日のコイサン諸民族が初期現生人類の直接の純粋子孫というわけではなく、かれらは後に今日のナイジェリア方面から南下してきたバンツー系の新たなアフリカ黒人集団と接触し、相当に混血もしたことにより、血統的にも言語的にも相互浸透し合って、今日のコイサン諸民族となったと見るべきであろう。
 そのため、今日のコイサン諸民族はかなりの多様性を示しており、かつて形質的に「カポイド」、言語的には「コイサン語族」と包括されたコイサン諸民族のくくりは、その有効性に疑問が持たれているところではある。

2017年4月 9日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第30回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

ビルマ諸王朝と仏教の定着
 ビルマ(ミャンマー)は最大勢力のビルマ族をはじめ多民族がひしめく地域であるが、宗教的には早くからほぼ仏教で統一されていた。ビルマ最初の統一的な王朝は、現代ミャンマーでは少数民族であるモン族が建てたタトゥン朝であった。タトゥン朝はスリランカとも交易をしたため、スリランカの上座部仏教が早くから伝播した。
 他方、タトゥン朝では大乗仏教系のアリー僧団と呼ばれる俗化した密教団が浸透し、王権を凌ぐと言われるほどの権勢を張った。この状況を変えたのは11世紀、ビルマ族初の王朝パガン朝を建てたアノーヤターである。軍閥出身の彼は自身、大乗系の信仰を持ちながら、アリー僧団を解体したうえ、あえて上座部仏教を国教の地位に据えた。タトゥン朝の基盤を解体するうえでは有利と見たためだろう。
 こうしてパガン朝は上座部仏教国となったが、実際のところは大乗仏教のほか、密教、ヒンドゥー教も混在していた点ではカンボジアと大差はなかった。ただ、王侯貴族は来世の冥福のため、競って寺院建立を行なったため、パガン朝下では壮麗な寺院仏塔が数多く出現し、今日に至るまで優れた仏教建築として残されているところである。
 その後、パガン朝で形成された仏教諸派は王権の支持を背景に国内外で広く伝道活動を進め、東南アジアで広く在家信徒を増やし、この地域に上座部仏教を浸透させるうえで大きな力を持った。
 しかし、王朝後期には再び俗化した密教団アラニャ僧団が勢力を広げ、広大な寺領を手中にするようになり、道徳的にも退廃した。王朝もモンゴル帝国の侵攻を受け、14世紀初頭には滅亡する。その後、ビルマでは諸民族の興亡が続くが、いずれも基本的に上座部仏教系の国である。
 ビルマ族が王権を奪回したのは、16世紀初頭のタウングー王朝からである。他方、今日のラカイン州にはビルマ族と近縁なラカイン族が15世紀に建てたやはり上座部仏教系アラカン朝があるが、この王朝も多くの仏教建築を残している。
 アラカン朝はイスラーム圏との交易も行い、イスラーム教にも寛容であったため、領内には従者、傭兵、商人等として定住したムスリムもあり、宗教的には融和されていたが、続くコウバウン朝による征服の後、ムスリムたちは隣のベンガル地方へ集団移住した。
 タウングーとアラカンの両王朝は18世紀にビルマ族の一首長であったアラウンパヤーが建てたコンバウン朝によって順次滅ぼされる。コンバウン朝も引き続き上座部仏教を擁護し、アラウンパヤーの四男で第6代国王ボードーパヤーは僧団の統合を進めて、統一僧団を設立した。
 彼の時代以後のビルマは上座部仏教の理論的中心地となり、仏教が閉塞していた上座部仏教先行地のスリランカへと逆輸入され、仏教復興を刺激するほどになった。
 しかし、英国によるビルマ侵略が進むと、キリスト教が浸透し始め、仏教界も分裂してきたため、1871年に第五回結集が当時の王都マンダレーにて開催された。しかし、86年にビルマ全土が英国の手に落ちて以降、植民地政府は世俗主義を採用しつつ、民衆にはキリスト教宣教師による改宗というお決まりの流れが生じた。
 英領インドに編入された英国植民治下、仏教僧の中には独立運動に関与する者もあったが、カンボジアほど急進化はせず、レディ僧院を創立したサヤドー師のように政治とは距離を置きつつ、独自の仏教哲学を深め、教宣に当たる高僧を輩出するようにもなったのが近代ビルマ仏教の特徴である。

2017年4月 5日 (水)

笑顔全体主義

 日本人はなぜ無理に笑顔を作りたがり、かつ他人の笑顔を見たがるのだろうか。これは、私にとって長年にわたる謎である。
 一つの仮説は、日本は世界一幸せな国だという「地上の楽園」プロパガンダを信じることが国民の義務だからというもの。私もこの説に傾いていたが、最近疑問に思えてきた。「地上の楽園」プロパガンダならもっと有名な国が存在するが、その国と日本には相当な相違点もあるように思える。
 とすると、第二の仮説として、実は幸せになれないような要素がたくさんあるからこそ、逆説的に笑顔を作り、見たがるというもの。この仮説は実際逆説的だが、最近の惨事や不幸な出来事を見ると、こちらのほうがあり得そうである。
 どちらにせよ、あるいは第三の仮説があるにせよ、笑顔を作ることは国民の義務であり、「笑顔がない」というのはそれだけで不審者・犯罪者扱いされかねない雰囲気が充満しているのが日本である。笑顔全体主義。一方で、可笑しくもないのに浮かべる日本人の笑みは国際的には謎とされ、時として不気味に思われている。
 とはいえ、この話がなぜ教育雑言として語られるかと言えば、自身の体験と関連するからである。子ども時代の私は作り笑いが大の苦手、従って「笑顔がない」ことを親からさえよく責められ、一度などはある笑顔狂の教師から授業中に名指しで吊るし上げられたこともあった。こういう衆人監視下での屈辱の恨みは骨髄に徹するので、一生忘れることはないだろう。
 だが、今日も全国の学校では「笑顔、笑顔!」と教師たちが笑顔教育にいそしみ、テレビをつければ、作り笑いのプロたちの空虚な笑顔が並んでいるだろう。

2017年4月 2日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第11回)

十二 尚益王(1678年‐1712年)/尚敬王(1700年‐1751年)

 12代尚益王は30年間在位した祖父尚貞王の後を受けて即位したが、在位わずか2年で死去し、子の尚敬が継いだ。尚敬王の治世は大飢饉による被害という困難の中で始まるが、尚敬の時代は実質的な宰相格の三司官蔡温の手腕により、安泰なものとなった。
 蔡温は第一尚氏王朝成立以前の14世紀末、明から渡来した福建人職能集団久米三十六姓の一つである蔡氏の出で、父は尚貞王代に『中山世譜』を完成させた学者蔡鐸である。そのため幼少期から英才教育を受け、中国大陸赴任を経て王子時代の尚敬の師範となった。
 こうした縁から、蔡温は尚敬王即位後は史上初の国師に任ぜられ、事実上国政全般を委ねられた。1728年には正式に三司官に選出され、名実共に王国政治のトップに立った。彼が特に力を入れたのは農政であり、自ら農書『農務帳』や治山書『杣山法式仕次』を著すほどであった。中でも、田/畑交換禁止や農民への永代耕作権の付与は農業生産力の向上に寄与した。
 その他、イデオロギー的な面では士族、農民の身分道徳的な心得をまとめた『御教条』を公布し、王国における封建的身分秩序の確立にも努めている。また10年以上の歳月を費やして大々的な検地(元文検地)を実施し、封建制度の土台強化も行なった。
 外交面でも、清の冊封に対処しつつ、日本側宗主である薩摩藩からの信頼も獲得し、政敵平敷屋〔へしきや〕朝敏から薩摩藩に讒言された際は薩摩藩が讒言者らを処刑したほどであった。また尚敬王が在位約40年にして死去したことを機に三司官を引退した後も、薩摩藩の命により晩年まで実権を保持した。


五´ 島津吉貴(1675年‐1747年)

 島津吉貴は先代綱貴の嫡男として後を継いだ4代藩主である。享保七年(1721年)に嫡男継豊に家督を譲り、薩摩庭園仙巌園に隠居しているが、その治世はおおむね琉球側の尚益・尚敬王代に相応している。
 琉球との関わりでは、宝永七年(1710年)、前年の6代将軍徳川家宣就任に際しての琉球慶賀使聘礼を指導している。また吉貴自身が指導したわけではないが、前田利右衛門なる薩摩領民が琉球から持ち込んだ甘薯が米作不毛地を救う主産品として普及し、一大生産地となったことから、サツマイモの名が生まれたのも吉貴時代である。
 また、上述した蔡温讒言事件に際して讒言者朝敏らを処刑した一件は吉貴隠居後の享保十九年(1734年)のことであるが、吉貴はまだ存命しており、これにも仙巌園にて大御所として関与した可能性がある。

2017年3月31日 (金)

現代の八甲田山事件

 先月末、那須で雪中訓練中の高校生らが雪崩で集団死した事件は、100年以上前、帝国陸軍兵士らが青森の八甲田山で雪中行軍訓練中に集団遭難死した八甲田山事件を思い起こさせた。今回の事件も、日本の登山史に残る悲劇となるだろう。
 今回の事件は、学校部活動を主体とする日本式競技者育成の危うさを改めて浮き彫りにした。この方式は保護者にとっては子どもに無料で競技を習得させられるメリットもある反面、厳正なライセンスを持った指導者による体系的な責任指導がなされないため、半素人指導者による安全配慮に欠けた指導により生徒らが生命・身体を損なう危険性と隣り合わせである。
 さらに言えば、既に無謀さが指摘されている今回の雪中強行訓練には、かの八甲田山事件でも見られたまさしく日本軍流の精神論先行の共通根的発想が指導者の胸中にあったのではないかと推測させる。学校体育の延長的な部活動ではありがちなことである。
 そろそろ学校至上の競技者育成法式を改め、より合理主義的な責任指導体制が整備された民間競技クラブ主体の競技者育成方式に改める時ではないか。そのためには学校部活動の全廃という大胆な改革策が必要だと思われる。

2017年3月26日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第15回)

第二部 現況~未来

(4)オセアニアン・アメリカ
 アメリカはオセアニアに本土を持たないが、重要な海外領土を持つことで、この領域において一個のプレゼンスを保持している。これを「オセアニアン・アメリカ」と呼ぶことができる。
 この語は国際関係用語としては知られていないようであるが、先述したように、オーストラリア及びニュージーランドとともに太平洋安全保障条約の当事国となっているアメリカはオセアニアの枢要な構成国にほかならない。
 オセアニアン・アメリカを構成する統治体は一元的ではなく、いくつかの種別から成っている。その中心は言うまでもなく、全米50州の一つであるハワイ州である。ハワイは19世紀末にアメリカの関与したクーデターで独立王国が転覆された後、準州として編入され、1959年に50番目の州に昇格している。
 次に自治的未編入領域として、北マリアナ諸島とグアムがある。両者は合わせて東南アジア方面から先史時代に渡ってきたと見られるチャモロ族を先住民とする島嶼域で、9世紀頃には石柱遺跡ラッテストーンで知られる古代王朝も成立していたが、その後の歴史は分かれた。
 北マリアナ諸島はスペイン領からドイツ領、日本の信託委任領を経て第二次大戦後、アメリカの信託統治領に渡り、86年の信託統治終了に伴い、コモンウェルスという形式で自治領となった。他方、グアムはスペイン支配の後、米西戦争に勝利したアメリカの植民地に渡り、1950年に限定的な自治地域となったが、コモンウェルスの地位は認められず、自治権はなお制約されている。
 最後に、非自治的未編入領域ながら、事実上の自治権を付与された米領サモア(東サモア)である。「事実上」というのは、連邦法上は正式に自治権が付与されないまま、1967年に自主憲法が施行されているからである。皮肉にも、正式に自治権を持たないサモアが最も自治的であるが、代償として開発は進んでいない。
 こうした複雑な構成のオセアニアン・アメリカの中核は当然にも、正式の州であるハワイにあり、まさしくアメリカはオセアニアにも張り出していることになる。これは、アメリカの歴史的な戦略である太平洋・東アジア進出の象徴とも言える。
 オセアニアン・アメリカは総体として軍事的にも、最古の米統合軍である太平洋軍の枢要地であり、同軍司令部はハワイに置かれ、グアムは島の三分の一が米軍基地用地という「基地の島」となっている。そうしたこともあり、グアムでは北マリアナ同様のコモンウェルス昇格が実現せず、まさに要塞植民地的状況が続いている。
 このように、オセアニアン・アメリカの総面積は決して大きくないながら、アメリカの世界戦略において不可欠の領域となっており、独立運動は全般に低調で、今後も現状維持が続くと考えられる。

2017年3月23日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第2回)

一 「残アフリカ」した人々

豊穣だったアフリカ
 アフリカ黒人の発祥地は言うまでもなくアフリカ大陸であるが、そこは同時に人類そのものの発祥地と想定されている。中でも今日の南アフリカ共和国を中心とした南部アフリカは旧人を含めた古人骨の宝庫であることからして、南部アフリカがまさしく人類発祥地である可能性は高い。
 ここが人類発祥地であったからには、その気候は人間にとってよほど最適のものであったと推定され、およそ20万年前に誕生したと推定される現生人類も、そうした良好な気候に支えられて大いに繁殖したものと思われる。
 しかし、繁殖は人口増・食糧難の要因となったところへ、温暖化によりアラビア半島に水上移動可能な環境が開けたことから、まずはアラビア半島・中東方面へと「出アフリカ」する集団が現れたと想定される。他方、「残アフリカ」した保守的集団の子孫が今日のアフリカ黒人となった。
 この「残アフリカ」組は、おそらく人口増の中でも食糧を確保する狩猟採集術に長け、あえて「出アフリカ」する苦難を選択する必要を感じなかったのだろう。実際、南部アフリカには今日でも狩猟採集を中心とした伝統的生活様式を守る少数民族が暮らしており、その伝統の強さを感じさせる。
 しかし、やがてこの「残アフリカ」組もその内部で人口増が生じたため、次第にアフリカ大陸を東西に北上して大陸全土に散っていき、新天地で多様な民族集団を形成し始めた。
 今日では南極を除けば世界最大級の過酷な砂漠であるサハラ砂漠ですら過去には豊かな緑地であったと推定されるごとく、先史のアフリカ大陸は現在よりはるかに豊穣な大地であったため、アフリカ黒人諸族は各地に拡散し繁栄し得たのである。
 ところで、最初の現生人類が果たして今日のアフリカ黒人と同様の身体的特徴を持つ人々であったかは不明であり、特に肌色はアフリカ大陸がまだ温暖であった時代にはさほど色濃くなく、アフリカ黒人はアフリカが全体として熱帯化していく過程に適応して形成されたとも推定できる。
 そうした意味で、アフリカ黒人は最初の現生人類に最も近いとはいえ、その純粋な子孫であるとまでは言えないであろう。ただし、現生人類発祥地に近い地域にその後もとどまった諸族は、形質的にも言語的にも原初現生人類の特徴をよく保存していると想定される。

2017年3月16日 (木)

私家版李朝国王列伝[増補版](連載第7回)

七 成宗・李娎(1457年‐1495年)

 7代世祖の早世した長男義敬世子の子である9代成宗は8代睿宗が幼児を残して死去した後、祖母慈聖大妃の主導で年少にして王位に就き、成長した76年までは大妃の垂簾聴政を受けた。この時期には世祖時代からの重臣申叔舟などの旧勲派長老と姻戚が政治を采配していた。
 76年に親政を開始すると、成宗は旧勲派を遠ざけて、新興の科挙官僚集団(士林派)を重用するようになった。彼らはこの頃儒学の理論武装により実力をつけてきた地方の在郷両班層から出た官僚であり、言わば新興中産階級であった。
 このような新旧の派閥形成は専ら成宗没後に巻き返しを図る旧勲派との間の党争の原因となるのだが、さしあたり成宗の時代は、世宗以来の英君の声望高い成宗の善政が敷かれ、垂簾聴政期を含めて25年に及ぶ久々に安定した長期治世となった。
 成宗時代は世宗時代同様に文教政策が充実し、文化的には李朝の黄金期を画した。世祖時代の陰謀事件に巻き込まれ、廃止されていた集賢殿に匹敵する王立研究機関弘文館も新たに設立されている。
 特に注目されるのは、地理学の発展である。すでに垂簾聴政期に、世宗時代の朝鮮通信使の一員として訪日経験を持つ申叔舟に命じて日本と琉球の地誌として史料的価値の高い『海東諸国紀』を公刊させたほか、親政期にも全五十巻に及ぶ朝鮮地理書『東国輿地勝覧』を編纂させている。
 こうした内外地理への関心は国土の確定を示すとともに、法制度面でも未完だった『経国大典』を最終的に完成・公布した成宗時代は、李朝体制がようやく名実ともに完成した時代と言えた。
 王があと20年ほど長生していれば、この後、再び体制を動揺させることとなる政治混乱は避けられていたかもしれなかったが、短命者が少なくない一族の遺伝的体質からか、成宗は95年、38歳にして死去し、王世子にして李朝史上最悪のトラブルメーカーとなる燕山君が即位する。


§5 宗貞国(1422年‐1495年)

 宗貞国は先々代貞盛の甥に当たるが、先代成職の養子となって後を継いだ。従って、貞国以降、宗氏の系統は実質上交替したと言ってよい。なお、貞国の実父盛国は大内氏との戦いで敗死し、すでに亡かった。
 45歳を過ぎての家督継承となった貞国には、弱体であった先代成職が積み残した家内的にも外交的にも難題が待っていた。家内的課題は先代時代に分裂していた宗一族再統一であったが、貞国はこれを解決し、一族再統一を成し遂げた。
 外交的課題は宗氏の生命線である朝鮮王朝との通商関係であったが、貞国はこれをライバル関係にあった博多商人及び大内氏双方と連携することで強化するという巧みな政略を確立したのだった。それを可能にしたのは1469年(応仁三年)の将軍足利義政の命による筑前出兵であった。
 これは本来大内氏牽制を目的とし、宗氏の主家筋少弐頼忠を擁して行なわれた軍事作戦であったが、上記の朝鮮側史書『海東諸国紀』によれば、貞国は頼忠とある雪中作戦をめぐり不和になり、間もなく対馬へ帰還してしまったという。そこへ大内氏が貞国抱き込みを図り、宗‐大内連携が成立したのである。
 一方、博多商人とは貞国の筑前出兵・博多進駐の際に連携関係が成立したと見られ、これによって貞国は二大ライバルと提携しつつ、新たな形態の偽使通交に道を開いた。新たな偽使通交とは、架空名義を使った偽王城大臣使通交である。本来は在京有力守護大名名義の王城大臣使通交を騙った偽使は先代の頃から宗氏の常套手段となっていたが、貞国の代では博多商人がこれに参加する形でより頻回に行なわれるようになった。
 しかし朝鮮側でもこうした偽装を見抜き、対策として1482年に室町幕府と協議のうえ、稀少な象牙製の割符をもって通交使節の査証を行う牙符制を導入した。これにより宗氏の偽使は大幅に抑制されるが、1493年の明応の政変を機に牙符は大内氏・大友氏の手に流出してしまう。
 この出来事は宗氏が偽使を再開するチャンスであったが、貞国はすでに政変の前年に家督を息子の材盛〔きもり〕に譲って隠居、政変の翌年には死去した。時代は戦国時代の入り口にさしかかろうとしていた。

«仏教と政治―史的総覧(連載第29回)

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