2019年9月21日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第43回)

七 アフリカ分割競争の時代

反独蜂起②
 ドイツは1885年以来、現在のタンザニアを中心とする東アフリカにも植民地を形成していたが、こちらは南西アフリカ植民地に比べると、本国からの入植者も限られ、支配密度が希薄であった。それでも、現地の隊商交易の権益を奪取したことなどから、現地民の反発は強かった。そのため、早くも1888年から翌年にかけて最初の反乱が発生する。
 この反乱は指導者アブシリの名を取ってアブシリの乱とも呼ばれる。アブシリ自身はこの地域の上層階級であったオマーン・アラブ系の富裕な商人であったが、在地の黒人諸部族を糾合して、武装蜂起したのである。時系列的には、本件が反独蜂起としては最初のものである。
 この当時ドイツ領東アフリカを統治していたドイツ東アフリカ会社は自力で対処できず、本国政府の支援を受け、翌年、鎮圧に成功した。この件を契機に、東アフリカはドイツ本国による直接統治方式に改められた。
 しかし、ドイツは人頭税を徴収し、建設その他の強制労働、さらには換金作物としての綿花栽培への動員など、現地住民に対し封建的とも言える搾取のシステムを強制し、伝統的な共同体を破壊した。そうした横暴への反動として、1891年以降、指導者ムクワワに率いられて、バントゥー系ヘヘ族が武装蜂起する。
 ムクワワは堅固な要塞を築いて7年にわたり抵抗を続けたが、1898年、ついにドイツ軍に追い詰められ、自殺した。彼の頭蓋骨は、他のアフリカ黒人の頭蓋骨とともに標本としてドイツ本国に送られたが、ここにも、南西アフリカでの人体実験と並び、ドイツ植民地支配の特異な非道性が見て取れる。
 ムクワワ蜂起の後も、現地住民の抵抗は終わらなかった。1905年、旱魃を契機に鬱積していた現地民の不満が爆発する。こうして開始された新たな武装蜂起が、マジマジ蜂起である。
 名称由来のマジとはスワヒリ語で水を意味するが、ただの水ではなく、霊媒師キンジキティレ・ングワレが憑依により交信した先祖の預言により託されたと称する魔法の水であり、それにはドイツ軍の弾薬を液状化する霊力があるとされた。キンジキティレはこの魔法の水を配布し、預言としてドイツ人排除のための決起を唱えたのである。
 こうして霊媒師によって起動された新たな反独蜂起は、マジ信仰を精神的な基盤として周辺諸部族の間で急速に拡大した。キンジキティレ自身は1905年度中にドイツ軍に捕らわれ、処刑されてしまうが、彼に触発された反独蜂起自体は3年に及んだ。
 とはいえ、マジ信仰を共有しても、多部族間に共闘組織はなく、むしろ次第に足並みが崩れ、部族によっては打算からドイツ協力者となるものも現れた。また当然ながら、マジは宣伝されていたような霊力を示さず、マジ信仰熱も冷め、最終的に大蜂起は鎮圧されたのであった。
 マジマジ蜂起の期間は3年ほどだが、ドイツ軍による村落の徹底的な破壊作戦が展開されたため、ドイツ側死者数百人に対し、現地住民側は地域人口の三分の一に当たる20乃至30万人が戦災や飢餓により死亡したと推計されており、これはほぼ同時並行していた南西アフリカ植民地でのヘレロ‐ナマクア蜂起による犠牲者数より多い惨事となった。

2019年9月12日 (木)

シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第3回)

二 フェニキア人・ギリシャ人の植民とシチリア語

 シチリアとマルタにおける本格的な文明時代の始まりは、フェニキア人・ギリシャ人の植民活動によってもたらされる。特にシチリアには紀元前8世紀頃から両民族の入植が開始されるが、入植時期はフェニキア人がやや先行したようである。
 フェニキア人の言語はアフロ‐アジア語族セム語系に属し、ヘブライ語とともにカナン諸語に包含される。フェニキア人はシチリア島西部に入植し、代表都市パレルモを建設した。当時の都市名はフェニキア語で「花」を意味するジズといった。
 やがてフェニキア人の拠点は北アフリカの植民都市カルタゴに置かれるようになり、シチリア島西部のフェニキア都市もカルタゴの覇権領域に組み込まれた。やがて、フェニキア‐カルタゴ人は、フェニキア人にやや遅れてシチリア島へ渡来してきたギリシャ人とシチリアの領有をめぐって数世紀に及び抗争するようになる(シケリア戦争)。
 シチリアへ渡来してきたギリシャ人は、ドーリス人と呼ばれる系統に属しており、ギリシャ本土ではコリントスやスパルタの建国民族であるが、このうちコリントス人の一部がシチリアへ移住し、シラキュサイ(シラクサ)をはじめとする多数の植民都市を建設した。
 これらドーリス系ギリシャ人がもたらした言語は古代ギリシャ語ドーリス方言と呼ばれるものであり、シラキュサイをはじめとするシチリアのギリシャ植民都市では共通語として使用されていたと考えられる。その影響は先住民にも及び、シケル語などもギリシャ文字で記述されるようになった。ジズも、ギリシャ語で「すべて港」を意味するパノルモスと呼ばれ、やがてパレルモに転訛した。
 ギリシャ語起源の単語はロマンス語系の現代シチリア語の単語の中では15パーセント弱を占めるにすぎないが、順位としてはラテン語起源に次いで二番目であるから、ギリシャ語の影響は基層的なレベルでは相当のものだったと言える。
 ただし、現代シチリアの言語分布を見ると、ギリシャ語は北東部の都市メッシーナ(旧ギリシャ植民都市メッセネ)のごく小さなギリシャ人コミュニティーに残されているにすぎない。おそらくは、後にシチリアがローマの版図となり、ローマ化される中でギリシャ語はラテン系の新言語の中に吸収されていったのであろう。
 他方、フェニキア語については、現代シチリア語にその痕跡は見られない。その理由は、フェニキア人の入植はギリシャ人よりも限定的であったこと、最終的にローマに敗れてシチリアを放棄したことによるものと思われる。

2019年9月 8日 (日)

動物としての人間(連載第1回)

 近年の内外における人間界の出来事を見ていると、人間という生き物への失望と嫌悪が募る。なぜ人間はこうなのか、人間の現存在性は未来にわたって不変なのか、それとも現存在とは異なる人間像が未来には現われるのか―。
 こうした問題に関する回答を求めて自分なりにいろいろな角度から種々の問題を扱ってきたつもりであるが、達成感はあまり得られていない。
 筆者のこれまでの思考はいわゆる社会科学に属する範疇に含まれるのかもしれないが、社会科学は人間社会の機構を明らかにすることはできても、人間という生き物の本質にはなかなか迫れない。その点、類的人間=人類そのものを研究対象とする人類学は、人間の本質を明らかにするうえで有効な面もあるが、しかし、これとて生き物としての人間そのものよりも、社会的な人間存在に視点を向ける準社会科学的な色彩が強い。
 人間もヒトという一個の動物である―。この定理は生物学的には承認されているにもかかわらず、人間は際立った高等知能を持つ特殊な知的生命体であるという自負?からか、人間を動物学の対象とみなすことはなく、人間の事どもは人類学や社会科学といった動物学とは明確に区別された学問体系のもとに研究されるのが常道である。
 しかし、筆者の見るところ、人類学や社会科学は冒頭で投げかけたような問いに満足のいく回答を与えてくれるようには思えないという欲求不満が高まってきた。
 それなら、人間を一個の動物として直視し、その動物学的な特徴を明らかにする作業を実行しようとここに思い至った次第である。これを「人間動物学」と銘打ってもよいが、筆者が調べた限りではこのような標榜の学問分野はまだ存在しないようである。*anthrozoologyという新学問はあるが、これは人間と動物の関わりを研究対象とするもので(言わば、人獣関係学)、人間そのものを動物とみなすここでの問題関心とは異なる。
 ただ、医学の面から人間と他の動物を統一的に扱おうとする「汎動物学」(zoobiquity)という概念が提唱されてきている。これは人間と他の動物の病気を統一的に研究することで、ひいては人間の病気の治療に生かそうという実践的な新学問で、言わば人間医学と獣医学の統合の試みである。
 これも、広く見れば「人間動物学」の一環(応用)かもしれないが、ここでの問題関心はより人間=ヒトに特化して、この生き物を動物として直視することにある。
 結局のところ、「○○学」と銘打つことはやめ、「動物としての人間」という問題関心をそのまま表題に掲げたうえで、人間=ヒトの動物学的な特性やその不変性、可変性如何を総合的に追求していくことにしたい。

2019年9月 5日 (木)

帝国日本の植民統治(連載第1回)

 旧大日本帝国(以下、旧日帝と略す場合がある)による植民統治は、19世紀末の台湾を皮切りに、朝鮮、太平洋諸島(南洋諸島)、さらには中国遼東半島(関東州)、満州に始まる中国大陸、太平洋戦争開始後、ビルマ(ミャンマー)にまで及ぶ東南アジア諸地域と、およそ半世紀の間に急激に膨張拡大していった。
 連合国勢力に敗戦を喫するまで、日本を中心に置き、アジア‐太平洋地域一円を超域的に支配せんとする野心的な「大東亜共栄圏」の夢は実現間近と見えていたのである。
 ただ、「共栄圏」といっても、実際のところ、各植民統治域はそれぞれ個別的に経営されたことが日本の植民統治の特色と言える。もっとも、昭和時代に入って拓務省(後に大東亜省に吸収)が設置されたが、一元管理機関としては不十分なものに終わった。
 その点では、同時代の大英帝国のように本国に植民地省のような中央行政官庁を置いて統制したのとは対照的に、旧日帝植民統治は地域的な縦割りの性格が強かった。そこで、本連載でも、旧日帝植民統治域を台湾、遼東、朝鮮、南洋、満州、中国中央部、東南アジア諸地域の七つの地域に区分しつつ、植民統治のありようを比較検証することにする。


概観

 旧日帝植民統治は、上述のとおり、最終段階では七つの地域に膨張拡大していたが、最初期の台湾と遼東(関東州)は、いずれも日清、日露の両戦争に勝利した結果として、条約に基づき「割譲」された地域であった。講和条件としての領土/支配地割譲ということが常識的に行なわれていた旧時代の産物である。
 続いて、朝鮮の場合は、明治初期の「日朝修好条規」締結以降、なし崩しに実行されていた朝鮮王国への干渉の結果として、最終的には条約に基づく併合という形で形式的合法性の担保のうえに実行されたが、力を背景とする併合のプロセスは公正とは言い難いものであった。
 南洋諸島は、第一次世界大戦に敗北したドイツ帝国の旧植民地諸島を当時の国際連盟の委任を受けて統治を継承した委任統治領であり、広い国際的合意に基づく獲得であった。その点、植民統治域の中では、最も合法性と正当性が確保されたものと言えた。
 一方、満州や中国大陸中央部は、日中戦争を通じて攻撃的・侵略的なやり方で軍閥割拠期の中国大陸を侵食し、順次切り取っていたものであるが、広大な領域となるため、直接統治よりも現地の傀儡政府を介した間接統治が選択された点に特徴がある。
 最終段階の東南アジア諸地域は、太平洋戦争開始後に、英米仏蘭などの欧米列強植民地域を侵略的に軍事占領し奪取していった諸地域であるが、実効支配を確立する前に敗戦したため、地域により軍政、傀儡政府、西欧植民地政府との共同など、様々な未完成形態が混在していた。

2019年8月31日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第27回)

30 ハーバート・フーバー(1874年‐1964年)

 第31代大統領ハーバート・フーバーは、戦間期共和党政権における三人目にして最後の大統領となった。彼は1928年大統領選挙で、「どの鍋にも鶏一羽を、どのガレージにも車二台を」という1920年代の右肩上がりの高度成長と繁栄を反映した野心的なスローガンを掲げ、当選した。
 そして、その勢いで、大統領就任式でも「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている」と高らかにうたったが、その舌の根も乾かぬうちに大恐慌に見舞われるという皮肉に直面した。
 しかし、フーバーの恐慌対策は、実質上無きに等しいものであった。彼は景気の先行きを楽観視し、共和党の定番政策となっていたレッセ・フェール型の経済不介入政策と保護貿易政策で応じようとしたが、これはいっそうの不景気と失業者の増大を結果しただけであった。対外的にも、大恐慌に直撃されたドイツを救済するために打った第一次大戦時の賠償債務の支払猶予は効果を上げなかった。
 質素を重んじるクエーカー教徒家庭に育ったフーバーは禁酒法の支持者であり、密造酒製造を資金源としていた悪名高いシカゴギャングのアル・カポネを逮捕・起訴し、有罪に追い込んだことは数少ない功績となったが、逆効果的に密造酒の価値を高め、犯罪組織の資金源を支える禁酒法はすでに時代遅れのものとなっており、市民からの撤廃要求に直面した。
 公民権問題への無関心という点でも、フーバーは無策であった。当時、共和党は党幹部から黒人を排除する動きを強めていたが、フーバーはこの動きに乗り、党の白色化を進めていった。これにより、奴隷解放を結党原点とする共和党に対する黒人層の支持が決定的に低落し、黒人層が民主党支持へ鞍替えしていく歴史的転換点を作ることとなった。
 このことは、大恐慌への無策と合わせて、再選を目指した1932年大統領選では不利に働き、民主党候補のフランクリン・ローズベルトに歴史的な大敗を喫する結果を招いた。かくして、1920年以来、三代続いた戦間期共和党政権も終焉したのである。
 大統領としては失敗に終わったフーバーだが、90歳の長寿を保ったことから、第二次大戦を見届け、60年代まで存命した。退任後の仕事として、占領下の日本やドイツを視察し、民主党政権の占領政策を批判した。その後も、民主・共和両政権から行政機構再編のための委員会の長に任命されるなど、退任後に一定の足跡を残した。

2019年8月21日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第42回)

七 アフリカ分割競争の時代

反独蜂起①
 列強によるアフリカ分割競争には、統一されたばかりの後発帝国主義国ドイツも早速加わっていた。長く封建的小邦分立が続いていたドイツにとっては、アフリカ分割競争に参入することは、誕生したばかりの脆弱な帝国を固めるうえで手っ取り早い手段だったのだ。
 しかし、取り急いでの参入とあって、アフリカに不慣れなドイツは現地住民との関係構築が不得手であったうえに、ドイツが切り取った支配地域には自立心の旺盛な諸部族が割拠していた。そのため、19世紀末から20世紀初頭にかけて、歴史に残る反独蜂起がたびたび起きている。これは、英仏など他の列強植民地では見られなかった現象である。
 とりわけ繰り返し蜂起が発生したのは、今日のナミビアに相当するドイツ領南西アフリカであった。この地はドイツのアフリカ植民地最大規模にして、本国ドイツ人が多数入植した唯一の植民地ということもあり、現地住民との摩擦が生じやすい環境にあった。
 最初の蜂起は、この地域に割拠するコイサン諸族中でも最大勢力を成すナマクア人によるものであった。1893年、ドイツ軍による攻撃で多数の死者が出たことを機に、首長ヘンドリック・ヴィットボーイに率いられて翌年にかけて蜂起したが、この時はナマクア側が降伏し、和平を締結した。
 ナマクア人は1904年にも、ヘンドリックの他、新たにヤコブ・マレンゴという指揮官を得て再度蜂起した。ヴィットボーイは05年に戦死したが、マレンゴはドイツ側から「黒いナポレオン」と呼ばれるほど戦術に長け、ドイツ軍を苦しめた。
 一方、1904年には、ナマクア人の蜂起に先立ち、バントゥー系ヘレロ人が首長サミュエル・マハレロに率いられて蜂起した。かれらはドイツ人の農場を襲撃、多数の入植者を殺害し、一時優位に立つが、ドイツ側は義和団の乱でも活躍した猛将ロタール・フォン・トロータ将軍を擁して反撃に出た。
 フォン・トロータは、ヘレロ人・ナマクア人絶滅を企てる民族浄化作戦を展開した。その手段として、過酷なカラハリ砂漠への追放や収容所への強制収容が断行され、収容所では科学者による人体実験が実施されるなど、後のナチスを思わせる非道行為も見られた。
 事実、ヘレロ‐ナマクア大虐殺は後にナチスから称賛され、その政権獲得後にミュンヘンのある通りを「フォン・トロータ通り」と命名したほどであった。こうした経緯から、この大虐殺をホロコーストの原型とみなす向きもある。
 ヘレロ‐ナマクア蜂起は、このような民族浄化手段を用いなければ“最終解決”できないほど、両民族は強力だったとも言えるが、1908年まで4年にわたった民族浄化作戦の犠牲者は最大推計でヘレロ側10万人、ナマクア側1万人ともされる。

2019年8月14日 (水)

シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第2回)

一 シチリアとマルタの先史/最初期言語

 先史時代とは、最も端的に定義づければ、文字が発明される以前の時代をいうから、文字化されない口頭言語であった先史言語を特定・再構することは不可能であるが、推定することはできなくない。シチリアとマルタの場合、先史時代はともに巨石文化圏にあり、遺跡も残されている。
 特にマルタでは世界遺産にも登録されている紀元前3000年代まで遡る新石器時代の巨石神殿群が見られ、巨石文化圏でもかなり発達していたと考えられる。シチリアでも、もう少し地味ではあるが、やはり巨石記念物が見られる。*マルタには紀元前5000年代以来、シチリアからの移住者があったとされる。
 先史ヨーロッパに広く分布したこれら巨石文化を担った民族は不詳であるが、コーカサス地方を出自とするハプログループGを共有していたと推定されている。このグループは現在では原郷のコーカサス地方に集中し、多様な少数言語を含むコーカサス諸語を話す。
 ここから推定すれば、シチリアやマルタの巨石文化担い手民族も、コーカサス諸語のいずれかに近い言語を共有していたと考えられる。しかし、現在、シチリアとマルタで使用される言語に、コーカサス諸語との共通性を見出すことはできないので、この先史言語Xは絶滅したと見てよいだろう。
 巨石文化が終わった後の両者の歴史は分かれる。シチリアには、シカニ人やエリミ人、島名の由来でもあるシケル人といった新たな民族が移住してきた。かれらがギリシャ文字を使用していたことはわかっているが、言語はギリシャ語ではなく、その特定はほぼ碑文に限定される文字史料の少なさから困難である。
 特に島名由来でもあるシケル人の言語(シケル語)は比較的豊富な碑文から研究されており、印欧語族系との推定がなされているが、同定されるに至っていない。ただ、エリミ語についても印欧語族系と推定されているから、これらポスト巨石文化時代のシチリアの言語はおおむね印欧語族系であったと想定することはできる。
 しかし、こうしたシチリア最初期の印欧語族系諸言語が印欧語族ロマンス諸語に分類される今日のシチリア語の最古層にあるかどうかは不明であり、既存文字史料の解読とさらなる文字史料の発見を通じた最初期言語の再構を必要とするだろう。

2019年8月 3日 (土)

弁証法の再生(連載第11回)

Ⅳ 唯物弁証法の救出

(10)ルカーチの物象化論
 マルクスの唯物弁証法がスターリン時代のソ連の公式教義の中ですっかり教条化していく中、唯物弁証法を救出しようとする試みが、ソ連の外部で行なわれる。その代表的な一つが、ハンガリー人ルカーチ・ジェルジの試みである。
 ルカーチは、弁証法の教条化の要因をマルクスの遺稿整理者エンゲルスに突き止めている。ルカーチによれば、エンゲルスは最も本質的な相互作用である歴史過程における主体と客体の弁証法的関係に目を向けず、これを自然の認識にまで不当に拡大適用しようとしたことに問題がある。
 ルカーチによれば、弁証法の真骨頂は具体的かつ歴史的なものにこそあり、その意味で弁証法的方法論の適用範囲は歴史的・社会的な現実に限られる。そうした具体的・歴史的弁証法の任務は、社会の総体性を把握するための方法論である。
 逆に、総体性の認識を欠落することが物象化である。すなわち、主体と客体の分裂、部分と全体の分離、理論と実践の乖離といった情況であり、現実の状況としては労働者階級が主体性を喪失し、自己を疎外して客体と化すことである。
 このような主体‐客体の分裂の止揚に力点を置くルカーチの理解は、唯物弁証法を再びヘーゲル弁証法に立ち戻って再構しようとする試みと言える。事実、ルカーチは『モーゼス・ヘスと観念弁証法の諸問題』という論文の中で、マルクス弁証法をヘーゲル弁証法の延長に位置づけ直そうとしている。
 しかし、こうしたルカーチの試みはモスクワの代弁者たちからは睨まれる結果となった。ハンガリー共産党員で、短命に終わったハンガリー革命政権で閣僚も務めた彼は党内で強い批判を受け、コミンテルンでも非難された。そのときルカーチが浴びた非難は、「観念論的逸脱」というものだった。
 しかし、この非難は全く的外れであった。彼が「観念論」と非難されたのは、資本主義社会で客体化という自己疎外状況に立たされている労働者階級が自らの社会的立場を自覚して階級意識に目覚め、主体性を取り戻すため団結して革命を導くべきことを説いたせいである。
 たしかに、こうした労働者階級の階級意識を強調する仕方は、唯心論的な趣向を帯びてはいるが、ルカーチの力点は主体と客体の分裂の止揚という一点にあったのであり、意識の問題を特大強調したかったわけではない。実際、上掲論文は青年ヘーゲル派代表者ヘスの弁証法を観念弁証法として退けている。
 ただ、ルカーチの総体性は、資本主義社会という人類史的過程の全体の一部に集中しており、より広汎な「文明」という総体性には十分着目してしなかったように思われる。そうした文明総体の弁証法的把握は、革命が挫折した戦間期ドイツ哲学界から現れる。

2019年7月24日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第26回)

29 ジョン・カルバン・クーリッジ・ジュニア(1872年‐1933年)

 第29代ハーディング大統領が任期途中で死去した後、クーリッジ副大統領が自動昇格して第30代大統領となる。クーリッジは三人続いた戦間期共和党政権の二人目の大統領にして、唯一二期務めたため、三人の中で最長の政権を担う結果となった。
 クーリッジは地元マサチューセッツ州で市会議員や州議会議員、さらには州副知事・知事と地方政治の要職をあらかた経験したうえで、ハーディング前政権の副大統領に抜擢されるという経歴の持ち主であった。実際のところ、彼は1920年大統領選挙に立候補し、予備選挙でハーディングに敗れており、ハーディングとは本来は党内ライバル関係にあったが、融和のため本選挙では副大統領候補に抜擢されていたのだった。
 クーリッジは「無口のカル」とあだ名されるほど、余分な発言をしない人物で、何かをするよりしないことを主義とするような人間像だった。そうした人間像は、その政策にも現れている。
 彼が政権にあった1920年代は今日のアメリカにつながる金万能の資本主義が開花した時代であったが、クーリッジは市場介入を避ける自由放任主義を採った。その点で、クーリッジは後の共和党が志向する「小さな政府」イデオロギーの先駆者とみなされることもあるが、クーリッジ自身はさはどイデオロギーに染まった人物ではなく、実務主義的な人間であった。
 その他、彼が何かをしなかったこととして、公民権政策がある。クーリッジ自身は人種差別に反対していたが、公民権拡大のために積極的に動くこともしなかった。ただし、保留地に居住する全先住民にアメリカ公民権を付与する法律に署名したのは、数少ない前進的な成果であった。
 移民問題でも同様、クーリッジ自身は移民の社会的貢献に対し好意的であったにもかかわらず、アジア系移民を排斥することを狙った悪名高い1924年移民法に署名している。クーリッジは、移民受け入れに好意的ではあったが、人種の混血には否定的という両義的な価値観を抱いていたのだ。
 「無口のカル」は、バブル的好況の絶頂にあった1924年の大統領選挙で圧勝し、新たに独自の任期を得た。民主党が強力な対立候補を擁立できなかったこともあるが、好況の中、クーリッジの経済不干渉主義が好感された結果であった。このときのクーリッジ陣営の駄洒落スローガン「クーリッジとクールでいよう」は、まさに何事にも熱中しないクーリッジ政権の性格にぴったりだった。
 そして、恐慌の予兆が始まっていた1928年の大統領選挙に関してはきっぱり「出馬しない」と宣言し、引退の道を選んだこともクールだった。翌年、歴史的な大恐慌がアメリカを直撃した時には、風当たりの強いホワイトハウスにいなくてすんだからである。

2019年7月13日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第41回)

七 アフリカ分割競争の時代

スーダンのマフディー国家
 スーダンはアラビア半島から移住してきた非黒人族系のアラブ人とヌビア人をはじめとする先住の黒人系諸民族が混淆・共存する境界域にあったところ、19世紀末になると、法的には16世紀以来オスマン帝国領土となっていたエジプトに成立した事実上の独立自治王朝ムハンマド・アリー朝の支配下に置かれていた。
 同時に、財政難に付け込まれたムハンマド・アリー朝エジプトは英国の統制下に置かれるという複雑な支配状況にある中、エジプトは本国の財政難に対処するうえでも、スーダンに重税を課し、収奪を強化していた。
 こうしたエジプトの圧制に対する反感を背景に、スーダンでは反エジプト運動が高まる。その中から台頭したのが、ヌビア人の宗教指導者ムハンマド・アフマドであった。船大工の家に生まれた彼は正式の聖職者ではなかったが、独自のイスラーム神秘主義思想に基づき、1880年代にはマフディー(救世主)を称し信者を集めるカリスマ教祖となっていた。
 彼の教団が他の神秘主義教団と異なったのは、武装解放運動の形態をとったことである。その厳格なコーラン解釈やジハード(聖戦)思想など、マフディー教団は現代のジハーディスト武装勢力の先駆者的な意義を持っていたと言えるだろう。
 実際、マフディー軍は近代装備を備えるエジプト軍にゲリラ戦を挑み、1882年にはこれを殲滅した。エジプト軍から武器を奪取したマフディー軍はその後、支配地を着実に拡大していく。
 事態を憂慮した英国はエジプト軍に梃子入れするも成功せず、エジプトのスーダン撤退を支援するため、中国で活躍したゴードン将軍を指揮官として派遣するも、1885年、ゴードン部隊は首都ハルツームでマフディー軍により包囲・殲滅せられ、ゴードンも惨殺された。
 かくして、マフディー軍はハルツームを落とし、スーダン全土の掌握に成功したのである。ところが、ムハンマド・アフマドは勝利から間もなく、チフスで急逝してしまう。このことで、ムハンマド・アフマドから後継候補の指名を受けていた三人の腹心の間で争いが起こる。
 この後継争いを征したのは、腹心の一人アブダッラーヒ・イブン・ムハンマドであった。ただ、アブダッラーヒは民族的にはアラブ系であり、政権を掌握した彼はムハンマド・アフマドの一族や古参幹部をすみやかに排除・粛清したことで、これ以降、マフディー教団はアブダッラーヒも属したアラブ系遊牧民バッガーラ人を支持基盤とするようになるため、厳密にはアフリカ黒人の軌跡とは言えない。
 アブダッラーヒ治下で13年持続したマフディー国家は最終的に1898年、名将キッチナー将軍を擁し、エジプトを介したスーダン再征服を企てた英国に敗れ、崩壊した。
 このスーダン再征服作戦中、アブダッラーヒを南部へ追撃していた英軍が西アフリカ方面からスーダン侵出を狙うフランス軍と一触即発の危機となったファショダ事件を機にフランスが譲歩し、スーダンから手を引いた結果、翌1899年以降、スーダンは英国とエジプトの共同統治という形で実質上は英国植民地の状態に置かれることとなった。
 一方、マフディー国家をアラブ系に乗っ取られた形のムハンマド・アフマド一族は穏健化し、遺子アブドゥルラフマン・アル‐マフディーは英国統治の協力者となった。彼を介したムハンマド・アフマド曾孫のサーディク・アル‐マフディーは独立後、二度首相を務めるなど、マフディー一族自体はスーダンの有力政治家系となった。

«シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第1回)

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