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2019年5月25日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第39回)

七 アフリカ分割競争の時代

ベルギー領コンゴの暴虐
 ベルギー領コンゴは、アフリカ分割競争の出発点とも言える象徴的な場所である。今日のコンゴ民主共和国の領域をカバーする地域は1879年以降、ベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けたイギリス人ヘンリー・モートン・スタンリーによる探検を契機にベルギーのものとなった。
 レオポルドはこれに先立つ1876年、欧米の探検家や資金提供者らを集めて国際アフリカ協会なる団体を結成していた。この団体はアフリカ中部の「文明化」を支援するという口実を伴っていたが、実際は未踏のアフリカ中部を我が物とすることを狙う隠れ蓑であった。
 この地域は在地首長に率いられた諸部族が割拠するところであり、スタンリーの巧みな交渉により、首長らは次々と不平等条約を締結させられた。これにより、武力行使なくしてこの地域はベルギーの手に落ちたのである。
 ただ、当初のベルギー領コンゴは厳密には「ベルギー領」ではなく、「レオポルド2世領」というほうが正確であった。すなわち王の私領地であり、その管理は前出のアフリカ国際協会から分離された「コンゴ国際協会」に委託されたのである。1885年のベルリン会議も、これを追認した。こうして正式に「コンゴ独立国」が発足した。
 しばしば「コンゴ自由国」とも通称されるものの、その統治は進歩的な立憲君主制を採る本国では望めないレオポルド2世の絶対支配であった。実態としては「国」というより、王の私領地であることに変わりはなかった。つまり、ベルギー政府でさえコンゴに介入できないのである。
 こうして「独立国」なる皮肉な名称の下、現地では象牙収集やゴム栽培などに現地人が動員され、残酷な刑罰の担保で奴隷労働が強いられた。こうした苛烈な実態は、まるで奴隷貿易時代のカリブ海域植民地のようであったが、王の私領地という封建的な性格の領地であったため、そのようなことになったのである。
 コンゴ独立国における現地アフリカ人の犠牲者数は、現在でも論争の的のままである。1998年にはコンゴ独立国における暴政の実態を記述したアメリカの著述家アダム・ホックシールドの『レオポルド王の霊』を契機に、当時はまだ未生成だったジェノサイドの概念にあてはまるかどうかをめぐり論争が起きている。
 しかしコンゴ独立国の実態はつとに同時代的にも批判の的となっており、1900年以降、イギリス人ジャーナリストのエドモンド・モレルによる調査報道で暴露され、1906年の著作『赤いゴム』にまとめられた。これは国際世論を刺激し、レオポルド自身も反論するなど、一連の国際的大論争に発展した。
 論争はジャーナリズムや人道家の間の批判にとどまらず、ベルギーのライバル列強諸国からの嫉視的な批判も高めたため、1908年、レオポルドはコンゴ独立国をベルギー政府の管理下に移す譲歩を余儀なくされた。
 これによって同地が解放されたわけではなく、これによってコンゴが正式にベルギーの領土に編入されただけのことである。言わば、近代的な植民地統治に変更されたのである。コンゴの完全な独立は、半世紀以上先の1960年を待たなければならなかった。

2019年5月18日 (土)

言語発展論(連載第25回)

第3部 新・世界言語地図

八 その他の語環―小語環

 前回まで見てきた印欧‐阿亜、ウラル‐アルタイ、シナ‐チベット‐オーストロネシア、ニジェール‐コンゴ、シベリア‐アメリカの世界五大語環だけで現存する地球上の言語の大半をカバーしているが、こうした「大語環」の周辺部にはいくつかのより地域限定的な「小語環」が分布している。
 これらの「小語環」はその分布域や使用者人口こそ限られているとはいえ、相当に古い歴史を持つと見られるものが少なくない。例えば、アフリカ大陸南部のコイサン語環(コイサン諸語)である。
 このグループはアフリカ大陸では少数言語ながら、吸着音や多数の音素など言語が動物的な音声からスタートした起源を現在にも痕跡的に残す言語グループである。その使用者諸民族も最も古くに分岐したハプログループAを保持する割合が高い。
 アフリカ大陸には他に、サハラ地域を中心に分布するナイル‐サハラ語環がある。このグループは通常、「語族」としてくくられるが、厳密な共通祖語の再構は確定的でなく、語環にとどまるだろう。言語地理的には北の阿亜語族と南のニジェール‐コンゴ語環の間に挟まれる緩衝的位置にある。
 さらに、コーカサス地方に分布するコーカサス語環(コーカサス諸語)は、自動詞の主語と他動詞の目的語が同等に扱われ、他動詞の主語だけが別扱いを受ける性質(能格性)をもつ能格言語の代表例であるが、この能格という文法的性質は、言語の膠着化や屈折化が進み、言語が対格性を獲得する以前の特徴を示しているかもしれない。
 このコーカサス語環が分布するコーカサス地方は、人種分類にいわゆるコーカソイドの発祥地と目され、コーカサス地方の住民が多く保持するハプログループGは最も古い遺伝子系統の一つであり、アルプス山脈で発見された約5000年前の凍結ミイラのアイスマンも同系統の遺伝子を保持していたことが判明している。
 欧州に印欧語族人が移住して制覇する以前にはこの語環がより広く欧州に広がっていた可能性があるが、印欧語族によって遺伝的・言語的にも上書きされていき、原郷のコーカサス地方にだけ残存したものであろう。
 アジアに目を移すと、シナ‐チベット‐オーストロネシア語環の周辺には、インドシナ半島に分布するオーストロアジア語環がある。ベトナム語やクメール語に代表されるこのグループは通常、「語族」としてくくられるが、共通祖語は再構されていない。孤立語の特徴を共有するが、相違点も少なくないことから、語環と見るほうがよいと思われる。
 一方、オセアニアには、オーストロネシア語族に包摂されるマレー‐ポリネシア語派の諸言語が広く拡散しているが、ニューギニアとオーストラリアには固有の言語グループがある。すなわち800もの言語に分かれたニューギニアのパプア諸語、オーストラリア先住民アボリジニが共有する200以上の諸言語から成るオーストラリア諸語である。
 ただ、オーストラリア諸語はアメリカ先住民の言語同様、文化面にも及ぶ民族浄化政策により、オーストラリア公用語の英語に置換され、絶滅危機に瀕する言語が多い。
 一方、パプア諸語は山岳と熱帯雨林に覆われたニューギニア島の厳しい地理的特質と帰属言語数の多さゆえに、世界の言語の中でも研究が最も遅れており、インドネシア領の西部地域における相当数の非接触部族の存在ゆえに、未知の言語を含む。
 パプア人とアボリジニはともにハプログループCを多く保持する古い民族であり、出アフリカ後、インドを経由して当時はニューギニアとオーストラリアを接合していたサフル大陸に定住した人々の末裔と考えられる。その後の地殻変動でニューギニアが切り離されたことで、同島に残留した人々はパプア人となり、パプア諸語が形成された。
 こうした経緯に加え、両諸語には音韻のほか、純粋型でない能格言語などの共通指標も見られることから、両者を一つの語環―サフル語環―と仮説することもできるかもしれない。しかし、上述したような言語状況ゆえに、仮説上のサフル語環については、言語保存運動とともに今後の研究に待つべき点が多い。

2019年5月11日 (土)

弁証法の再生(連載第8回)

Ⅲ 唯物弁証法の台頭と転形

(7)マルクスの唯物弁証法
 ヘーゲル弁証法へのヘーゲル学派内部からの内在的な反発を示したフォイエルバッハに代表されるいわゆる青年ヘーゲル派は、その影響下の学徒のうちから、ヘーゲル弁証法をいっそう深層的に批判・超克しようとする急進的な思潮を生む。その代表者がマルクスであった。
 マルクスはフォイエルバッハを通じて、初めから内在批判的なヘーゲル弁証法を摂取していた。そのため、その出発点はフォイエルバッハと同様、ヘーゲル弁証法の精神優位的な観念論的性質を批判的にとらえることに置かれた。
 そのうえで、フォイエルバッハと同様に物質の優位性を認めていたが、フォイエルバッハの唯物論にも、物質の把握がなお観念論的かつ無時間的であるという難点を見出す。言わば、「観念論的唯物論」である。これを超克し、より純粋な唯物論―言わば、唯物論的唯物論―を抽出しようとしたのがマルクスであったと言える。
 マルクスがこのように思考したのは、フォイエルバッハの弁証法はへーゲル的な思考の方法論としての域を出ておらず、弁証法をより動的な歴史論に適用することを躊躇していると考えたからであった。ここから、マルクスは弁証法を唯物史観へと昇華させた。
 実のところ、ヘーゲルも弁証法を歴史に適用して独自の史観を示していた。ヘーゲルによれば、世界の全展開が精神の営みとして生じる葛藤、さらに葛藤を克服し完成を目指していく総合の弁証法的運動の中で形成される。
 より具体的には、歴史は奴隷制という自己疎外に始まり、労働を通じて自由かつ平等な市民によって構成される合理的な法治国家という自己統一へと発展する「精神」が実現する大きな弁証法的運動だというわけであるが、このようなヘーゲル史観はマルクスによれば、頭でっかちの逆立ちした思考である。
 マルクスの唯物弁証法は、物質に基礎を置き、中でも生産力を歴史の動因とみなす立場から、生産力の発展に照応して歴史が展開していくことを説いた。また一つの社会の編成も、生産力をめぐる生産諸関係を土台に法律的・政治的上部構造が照応的にかぶさるという形を取る。
 その点、ヘーゲルが晩年に『法の哲学』という視座から示した家族→市民社会→国家という人類社会史も、マルクスからすれば、物質的な視座を欠き、法律的・政治的上部構造にしか目を向けない片面的な体のものである。
 こうして、マルクスにより唯物弁証法という新たな領野が開拓されたわけだが、このような物質優位の弁証法の創出は、弁証法を形式論理学より格下げしたアリストテレス以来、発達を遂げてきた諸科学―特に経済学―と弁証法を結合させる意義を持つ思想史上の革命とも言えるイベントであった。

2019年5月 4日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第23回)

26 ウィリアム・ハワード・タフト(1857年‐1930年)

 種々の意味で派手な存在であった第26代セオドア・ローズベルトの後継となったのは、彼の友人でもあったウィリアム・ハワード・タフトである。タフトは祖父、父ともに法律家という法曹一族の出であり、父が創設に関わったイェール大学生の著名な秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーとして、イェール学閥の有力者でもあった。
 ハフトの前半生は法律家そのものであり、地元オハイオ州で検察官や裁判官、法学教授などを歴任し、ベンジャミン・ハリソン政権では連邦政府の訴訟で代理人を務める訟務長官に若干32歳で任命されるなど、法曹界で着実に栄進を続けた。
 政界へ転身する最初のきっかけは、1900年にマッキンリー大統領によりフィリピン民政長官に任命されたことである。同職はアメリカがスペインとの戦争に勝利し、獲得した旧スペイン領フィリピンの植民地統治に当たるもので、アメリカ帝国主義にとって最初の大きな成果であった。
 民政長官タフトは、当時の在比米国人の間にあったフィリピン人への人種差別観を排し、フィリピン人を対等な民族として扱おうとするなど、所詮は植民地行政官という限界の中でも、公正な姿勢を示そうとした。
 その後、ローズベルト大統領の知遇を得て戦争長官(現国防長官)に任命されるが、この時にアメリカ特使として訪日し、有名な桂‐タフト協定の締結を主導している。その主要な狙いはフィリピンに対する日本の領土的野心を抑制することであったが、引き換えに日本の朝鮮支配を容認する内容を含み、日本の植民地支配を追認する結果となった。
 こうしたローズベルト政権下での働きが評価され、ローズベルトから後継指名されたタフトは、1908年の大統領選挙を征して第27代大統領に就任したのである。議員歴や州知事歴もないままでのホワイトハウス制覇は多分にしてローズベルトの後ろ盾のおかげだったが、後にローズベルトに裏切られることになる。
 前任者に比べて地味なタフトが名を残したのは、外交政策における「ドル外交」である。これはアメリカ帝国主義がターゲットとしていたラテンアメリカや東アジアに対し、武力より資本進出を通じて経済支配を強める政策であった。
 タフトはローズベルトの傀儡と見られることを嫌ってか、内政面では次第にローズベルトの革新路線から離反し、共和党保守派ににじり寄っていく。人事政策では、タフトは黒人を連邦要職に就かせることを明白に拒否し、南部の黒人公職者を排除していった。
 こうしたタフトの保守化はローズベルトをして進歩党結成に動かしめたうえに、リンカーンの奴隷解放以来、共和党を支持してきた黒人層を民主党へ鞍替えさせる結果となった。タフトは再選を目指した1912年大統領選でその代償を払うことになる。予備選で共和党の指名を勝ち取ったタフトであったが、本選挙では民主党のウッドロー・ウィルソンに敗れたのである。
 かくして、タフト大統領は一期で去ることとなったが、彼が異例だったのは退任後、1921年に連邦最高裁判所長官に任命されたことである。これによって、彼はアメリカの行政と司法の長を両方経験した史上唯一の人物となった。しかし、タフトの本領は政治家より裁判官にあったのかもしれない。彼は知的で比較的公正な人物であったが、それは保守的な知性と公正さであり、言ってみれば裁判官的な資質なのである。

2019年4月30日 (火)

アフリカ黒人の軌跡(連載第38回)

七 アフリカ分割競争の時代

アフリカ分割競争の始まり
 サハラ以南のアフリカ大陸(以下、単に「アフリカ」・「アフリカ大陸」というときは、サハラ以南を指す)は、現南アフリカ共和国が占める南端部を除けば気候的に厳しく、現生人類発祥以来、アフリカにとどまってアフリカの気候に適応してきたアフリカ黒人でしかそこに定住することは困難な地理的環境下にあった。
 一方で、アフリカ黒人は膨大な数の民族・部族に分岐し、広大な領域を支配する帝国的な統治体を形成することなく、便宜上「帝国」と指称される王国にしても、それは征服した部族を配下に編入した連合体的な構制であることが多く、統合性と持続性には欠けていたのである。
 そうした中、西欧列強のアフリカ進出は、15世紀から専ら大航海時代のポルトガルにより先行展開されており、先駆的なアフリカ進出はポルトガルの独壇場と言ってよかった。その後に、順次帝国としての体制を整えた英仏蘭などの列強も参入するようになる。
 しかし、早くからアフリカを踏査していたポルトガルと異なり、これら後発列強のアフリカ進出は「新大陸」アメリカ・カリブ地域の植民地向けの奴隷貿易を目的としたもので、アフリカそのものの植民地化を目指したものではなかった。かれらにとって 直接入植するには、アフリカはあまりにも気候的・風土的に厳しいものがあったのだ。
 一方、南部アフリカには、列強とは別個に、後のボーア人となるオランダ系移民やユグノー派移民による入植活動が17世紀から始まる。これは喜望峰周辺の南部はアフリカ大陸でも気候的に温暖でヨーロッパ人にも入植しやすいという地理的な特質、さらに南部アフリカは人口まばらで、強力な黒人王国の樹立が遅れていたという事情に支えられてのことであっただろう。
 こうして、アフリカ大陸はポルトガル(人)とボーア人の入植を除けば、19世紀までおおむね独立が保たれていたが、奴隷貿易の禁止後、事情が一変する。奴隷貿易が禁止され、新大陸では独立が相次ぐと、西欧列強はアフリカの直接的な領有を図り始めたのだ。
 ベルギーのコンゴ侵出が新たな時代の始まりとなる。当時のベルギーはオランダから分離したばかりの新興小国であるがゆえに、海外膨張の野心を抱いた。これに刺激され、他の列強が続く。後発列強に押され、斜陽化していたポルトガルも改めて参入していく。こうして、列強による侵略的アフリカ分割競争が始まる。 
 後発列強の代表格ドイツが音頭を取って1884年‐85年に開催されたベルリン会議は、アフリカ分割を国際的に認知しつつ、その「ルール」を設定しようとした点で、歴史的な転換的となった。国際的認知といっても、本会議にアフリカ人は誰一人招かれず、欧州列強のための列強の会議にすぎなかったのであるが。
 非黒人系の北アフリカも分割対象だったが、サハラ以南のアフリカは多数の小王国に分岐し、まとまりを欠いていたため、攻められやすかった。非王国地域も多部族が割拠し、部族連合の形成は困難であった。そこで列強は王国・部族ごとに武器供与などの利益と引き換えに「保護」を名目とした不平等条約を各個的に結び、実質上植民地化していく手法が普及する。
 アフリカの諸部族は、こうした列強の恣意的な分割攻勢に対して知的に対抗する力量をまだ備えていなかった。そこから、ヨーロッパ社会に「アフリカ=遅れた非文明社会」という定式が刻み込まれていき、これが黎明期の未熟な遺伝学的知見と組み合わさって、人種差別的な白人優越主義のドグマが流布する結果ともなった。

2019年4月20日 (土)

言語発展論(連載第24回)

第3部 新・世界言語地図

七 シベリア‐アメリカ語環

 南北アメリカ大陸には、同大陸をインドと誤認して「発見」したヨーロッパ人によってインディオとかインディアンと名づけられた先住民族の膨大な言語群が存在しており、比較言語学上はすべてを包括して「アメリカ先住民諸語」と呼ばれてきた。
 しかし、この総称は300を超える言語をすべて束ねた大雑把なくくりにすぎず、そこには10を超える大語族といくつもの独立語がすべて包括されている。それらは相互には疎通不能なほど多彩であり、「アメリカ先住民諸語」の共通祖語を再構することは不可能である。おそらく「アメリカ先住民諸語」は一つの共通祖語から分岐したものではないからである。
 一方、遺伝子系譜的に見ると、アメリカ先住民は最北のイヌイットを含めて、ハプログループQを共有している。意外にも、この遺伝子系統の発祥地は2万乃至3万年前のイラン付近と推定されており、そこから東進してシベリアを通過し、まだ陸続きだった頃にアメリカ大陸へと順次移動したと見られている。
 実際、通過点のシベリアでは少数民族ケット人に90パーセント以上という高頻度でハプログループQが見られるので、極端にはアメリカ先住民の祖先集団はケット人だと言うこともできる。さらに興味深いことに、かれらの固有言語ケット語が属する中央シベリアのイェニセイ語族と主として北アメリカに広く分布するナ・デネ語族の間に共通祖語から分岐した同族関係が立証されたのである(デネ‐イェニセイ語族)。
 全般に、アメリカ先住民諸語とイェニセイ語族も含む古シベリア諸語は包合語の特徴を共有している。典型的な抱合語は動詞に他の意味的・文法的な単位が複合されて、一つの文意を成すような言語であるが、こうした特徴は品詞の機能が未分化だった古い言語の特徴を継承しているとも言える。
 現時点において、ベーリング海峡をはさんだユーラシア・アメリカ両大陸間で厳密な比較言語学的検証によって同族関係が立証され得るのは上掲のデネ‐イェニセイ語族のみであるが、遺伝子系譜をも総合した語環の観点に立てば、ここに「シベリア‐アメリカ語環」を想定することができるかもしれない。
 この語環は本来そこに膨大な数の言語を含むにもかかわらず、ロシアを含むヨーロッパ列強の植民地支配を経て、スペイン語や英語、ロシア語等に置き換えられ、現在ではその多くが死語ないし絶滅危惧言語と化している点で、前回までに見た四つの語環とは大きく状況が異なっている。実際、この語環の中で、一国の公用語の地位を持つのは1000万人以上の話者を持つと推定される南米のケチュア語をはじめ、ごく限られている。
 おそらく抱合語の持つ複雑さが現代の先住民族自身によっても回避され、より簡明な屈折語の印欧語系言語に置換されていく流れは今後も変わらないであろうが、「シベリア‐アメリカ語環」を立てることが、希少言語の保存に寄与することを期待する。

2019年4月13日 (土)

弁証法の再生(連載第7回)

Ⅱ 弁証法の再発見

(6)ヘーゲル弁証法への反発
 ヘーゲル弁証法は、アリストテレス以降2000年近く忘却されていた弁証法を観念論的に蘇生させたものと言えるが、これに対しては反発も現れた。そうしたアンチテーゼはヘーゲルを継承するヘーゲル学派とヘーゲルを否定する反ヘーゲル学派の双方から現れた。まさに、弁証法的展開である。
 反ヘーゲル学派の代表者は、キェルケゴールである。彼はヘーゲルの抽象的思考に対して反発した。ヘーゲルは現実世界において常に自らの否定性の契機に直面する有限者たる人間は、その否定性を弁証法的論理において止揚する方法で超克し、より真理に近い存在として自らを昇華していくことができるとしたが、キェルケゴールにとって、こうしたとらえ方は量的な抽象論にすぎない。
 彼によれば、有限な人間存在が直面する否定性とそれに由来する葛藤や矛盾は、ヘーゲル的な抽象論によって解決されるものではない。有限的主体が自らの否定性に直面したとき、それを抽象的に止揚しようとするのではなく、その否定性とあえて向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙していかねばならないのである。
 このような思考をキェルケゴールはヘーゲルの抽象的思考に対立する具体的思考として提示し、「逆説的弁証法」(質的弁証法)と名づけた。言わばヘーゲル弁証法を逆立ちさせたわけであるが、そこから、一般的・抽象的な観念としての人間ではなく、個別的・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象とする実存主義の祖となるのであった。
 このような個別的実存と弁証法との関係性については後にサルトルが洗練された弁証法的解決法を示すことになるが、ここでは踏み込まず、さしあたりキェルケゴールをヘーゲル弁証法への実存主義的アンチテーゼとみなしておく。
 他方、ヘーゲルを継承する立場からも、内在的な批判が現れる。その代表者は、ルートヴィヒ・フォイエルバッハである。彼もまた、部分的にはキェルケゴールと共有し、ヘーゲルが抽象的な精神を主体とみなし、そうした観念的主体の自己展開の過程を通して歴史や世界をとらえる方法に疑念を抱いた。
 しかし、彼はキェルケゴールのように、有限的な存在が避けられない「死に至る病」=絶望の超克を自己放棄的な信仰に求めるのではなく、むしろそのように自身の内部の苦悩を疎遠な外部の絶対者たる神に委ね、投影するような所為を自己疎外として退け、現世的な幸福論を対置したのであった。

2019年4月 6日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第22回)

25 セオドア・ローズベルト(1858年‐1919年)

 記念すべき20世紀最初の年にマッキンリー大統領がアナーキストの手により暗殺されるという衝撃の後、副大統領から第26代大統領に自動昇格したのが、セオドア・ローズベルトであった。
 彼は南北戦争の当時まだ幼年であったから、南北戦争以降の共和党系大統領では初めて南北戦争従軍経験のない大統領となった。これにより、南北戦争以後の19世紀後半期アメリカのほとんどを統治してきた歴代の「南北戦争功労政権」は終焉することとなった。
 そうした意味で新しい世代に属し、かつアメリカ史上最年少(2019年現在)42歳の新大統領は、「進歩主義」を掲げていた。ここで言う進歩主義とはしかし、当時の西欧列強が志向していた帝国主義的な膨張政策にアメリカも歩みを進めるという「進歩」を意味していた。
 19世紀までのアメリカはその広大な「新大陸」の開拓―すなわち先住民族浄化作戦―に注力しており、対外的にはおおむね消極主義であり、「旧大陸」諸国の新基軸であった帝国主義的世界戦略には乗り遅れていた。その意味で、20世紀初頭のアメリカは、その広大さにおいてはすでに「大国」であったが、世界秩序においてはいまだ途上的新興国であった。
 そうした流れを変える先鞭をつけたのがマッキンリー前大統領であったが、暗殺により未完に終わったものを引き継いだのがローズベルトだとも言える。彼の有名な「穏やかに話し、棍棒を持ち歩く」という言葉にあるとおり、ローズベルトは軍事力を背景とした威嚇外交によって、アメリカの覇権を拡大しようとしていた。
 さしあたりは、「アメリカの裏庭」であるカリブ諸国への干渉を推進し、フランスが疑獄事件を契機に手を引いたパナマ運河の建設と租借を実現させたほか、キューバにもグアンタナモ基地の租借を認めさせた。これらはアメリカ大陸をアメリカの「縄張り」と宣言したモンロー主義の延長とも言える。
 しかし、ローズベルトは1904年の年次教書では、モンロー主義を超え出て、将来アメリカが世界に国際警察力を行使する時代の到来を予言したが、これは20世紀以降に様々な紛争火種となるアメリカ覇権主義政策のキーワード「世界の警察官」の先駆けを成す、言わば「ローズベルト宣言」であった。
 一方で、ローズベルトは日露戦争の仲介役を買って出て、ポーツマス条約の締結を導いた功績で、アメリカ大統領として初のノーベル平和賞受賞者となった。しかし同時に、ロシアに実質上勝利し、帝国主義化を推進していく気配を見せる極東の新興国・日本の脅威を感じ取ったローズベルトは、日本を仮想敵として戦争を想定する「オレンジ計画」の策定の先鞭をつけている。
 ローズベルトの「進歩主義」は経済政策では、大企業の独占を規制し、消費者保護を図る介入主義の流れを作ったほか、個人的に強い思い入れのあった自然保護の規制を強める環境政策の推進という新機軸を打ち出した。保守派から「社会主義」のレッテルを貼られたこれら新政策の一部は、後に対立政党・民主党から大統領となる遠縁のフランクリン・ローズベルトに継承されていく。
 ローズベルトの「進歩主義」はしかし、人種問題や先住民問題では進歩を見せなかった。先住民に関しては民族浄化を肯定し、困窮先住民の救済には消極的であったし、任期中には政治課題とならなかったものの、彼の日本脅威論は後の排日法にも影響を及ぼしている。
 ちなみに、ローズベルトは高い人気を背景に1904年大統領選挙で圧勝し、副大統領からの自動昇格者として初めて連続二期を務めた。退任後の1912年には当時の政治状況への不満から新党・進歩党を結成して大統領選挙に再出馬するも、選挙運動中に暗殺未遂事件にあったうえ、落選した。
 政治的背景のない銃撃事件ではあったが、彼の分派行動は共和党票を分裂させ、第一次世界大戦への対処をめぐってローズベルトを激怒させることになる民主党ウッドロー・ウィルソンの当選を許す結果となった。

2019年3月25日 (月)

アフリカ黒人の軌跡(連載第37回)

六 南部アフリカの蠕動

ボーア白人との衝突と混淆
 南部アフリカに関して特筆すべきは、17世紀以降、この地にオランダ人をはじめとするヨーロッパ白人が大量入植してきたことである。この入植は先行して始まっていたポルトガルによるものとは異なり、国家単位ではなく、宗教的迫害などを理由とした自主的な移住によるものであった。
 この入植白人勢力は現地に土着し、先住民であるアフリカ黒人を奴隷化して、農場を経営したため、オランダ語で「農民」を意味するブールの英語転訛でボーア人とも呼ばれた。こうした初期の経緯は北アメリカ植民地とも類似している。
 しかし、その後の展開はアメリカとは逆になる。18世紀末以降、英国が南部アフリカに触手を伸ばし、ボーア人発祥地の地とも言えるケープ植民地を占領すると、新たに英国からの移民が急増した。英国は奴隷制廃止を謳ったため、南部アフリカの黒人奴隷制はアメリカより一足先に終焉した。
 奴隷労働力を喪失したボーア人は1830年代以降、英国の支配を逃れるべく沿岸部を離れ、内陸部へ集団移住するが、この大移動グレート・トレックは、当然にも内陸部のバントゥー系黒人勢力との衝突を生み出した。特に強勢化していたズールー王国は1838年、策略により宴席でボーア人を奇襲し、壊滅的打撃を与えた。
 しかし、同年、劣勢ながら反転攻勢に出たボーア人勢力に大敗を喫したズールー王国は和平に転じ、ボーア人による最初の自治国家ナタール共和国の建設を許すことになる。ナタール共和国は間もなく英国の攻撃を受けて滅亡するが、ボーア人はグレート・トレックを諦めず、英国との条約に基づき、1850年代に相次いでオレンジ自由国とトランスヴァール共和国を建設した。
 この困難なグレート・トレックの過程で、ボーア人は民族意識を強め、アフリカ土着白人アフリカーナーを称するようになる。このオランダ語起源の人称は元来はアフリカ黒人を意味したが、いつしか土着白人の意味に転じたのである。
 とはいえ、アフリカーナーは南部アフリカ全体では圧倒的は少数派であったから、かれらがこの地でアメリカのような奴隷制によらずして勢力を拡大するうえでは黒人勢力を物理的にも血統的にも隔離する必要があった。このことは、後の統合されたアフリカーナー国家・南アフリカ共和国の人種隔離政策につながる。
 他方、ケープ植民地でボーア人が主に先住黒人コイコイ族の女性と通じて生まれた混血系の民族集団はグリカ族となり、グレート・トレックの時代にはボーア人と同様に、内陸部へ集団移住したうえ、1830年代に三つの独自の自治国家を形成した。
 中でも、ウォーターボーア家が世襲的に支配したグリカランドウェストは最も広域かつ強力であったが、ボーア人国家の属領的な地位を脱することはなく、地域にダイヤモンドが発見されると、権益を当て込んだ英国の武力介入を招き、1871年以降は英国植民地に編入されていった。

2019年3月18日 (月)

言語発展論(連載第23回)

第3部 新・世界言語地図

六 ニジェール‐コンゴ語環

 アフリカ大陸における代表的な語環であるニジェール‐コンゴ語環は、比較言語学上は共通祖語から派生した「語族」として包括されることが多い。これは、アフリカ大陸が19世紀末以降、西洋列強の分割植民地化されていった中で、特にサハラ以南の諸言語に対する比較研究が進展した成果として、部族ごとに膨大な数を擁する諸言語の系統関係が解明されてきたことによる。
 その一つの集大成として、アメリカの比較言語学者ジョゼフ・グリーンバーグにより提唱された「ニジェール‐コンゴ語族」は、その内包語群中「バントゥー語群」がその分布範囲と話者数において圧倒的な比重を占めているため、比較的に共通祖語を再構しやすかったと言える。
 そのため、「語族」としてのくくりが与えられるが、「バントゥー語群」以外の内包語群・諸語については共通祖語の再構が完了していないこともあり、すべてを一つの「語族」と認定すべきかどうかについては議論が分かれている。アフリカにおける言語的多様性からして、完全な再構には極めて困難が予想されるため、さしあたりは「語環」として把握しておいたほうが無難であろう。
 そのように見た場合、ニジェール‐コンゴ語環にはいくつかの共通指標があるが、その代表的なものは名詞の属性分類の細かさである。いわゆる名詞クラスと呼ばれるものであるが、ニジェール‐コンゴ語環を代表するバントゥー語群では10乃至20余りの名詞クラスを持つ言語が多い。
 名詞クラスの豊富さはおそらく、人類の初期言語が事物を指し示す名詞に始まり、動詞や形容詞のような品詞が発達する以前は、ほぼ名詞だけで文を構成していた時代の名残かもしれない。それだけこの語環の古さを象徴しているとも言える。
 このような名詞クラスは名詞に接頭辞として表示されるため、ニジェール‐コンゴ語環では接辞が発達しており、膠着語の特徴を持つ。一方で、ニジェール‐コンゴ語環には声調言語もしくは声調言語の痕跡を残す言語が多いことも特徴である。
 ちなみに、先のグリーンバーグはアフリカ大陸の内陸中央部に分布する「ナイル‐サハラ語族」という語群も同時に提唱しているところ、これと「ニジェール‐コンゴ語族」の内的関連性を想定してより大きな語族を仮説する見解もあるが、立証されていない。なお、「ニジェール‐コンゴ語族」については確定的とみなす場合、これはどの語環にも属しない独立した語族の例となる。

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2019年5月
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