2018年11月17日 (土)

弁証法の再生(連載第2回)

Ⅰ 問答法としての弁証法

(1)ゼノンの原始弁証法
 漢字文化圏で「弁証法」(中:辩证法/韓:辯證法)が定訳となっているδιαλεκτική(ディアレクティケー:英dialectic)は、元来は古代ギリシャ哲学に発し、かつそれが「問答」を語源とすることは哲学史上の確定事項である。このことは、古代ギリシャ哲学に限らず、東洋の儒学や仏教哲学を含め、多くの古代哲学が師弟間の問答を軸にして展開されていったことと無関係ではないだろう。
 その点、漢字文化圏にδιαλεκτικήが摂取された際に与えられた「弁証法」の訳は、「弁じて証明する」といったやや一方向的な弁論のニュアンスに傾いており、「問答」という双方向的な対話の要素が希薄である。やや素朴ながら、「問答法」と訳したほうがよかったのかもしれない。
 ただし、漢字文化圏にδιαλεκτικήが摂取されたときには、近代のマルクス弁証法がすでに台頭していたために、論証手段的な「問答法」では済まされず、マルクス弁証法におけるような実質的命題論証のニュアンスを出すために「弁証法」と訳されたのかもしれない。
 それはともかく、「弁証法」の基層に「問答」という双方向的な対話の要素が存在していることは、当連載の主題である「弁証法の再生」のために再確認しておくべき点である。現代社会が弁証法を喪失したことの要因として、双方向的な対話の欠乏という現代人に共通する性向があるからである。
 ところで、問答法と言えば、ソクラテス式問答法で知られるソクラテスが想起されるが、アリストテレスによれば、問答法=弁証法の創始者はエレアのゼノンであるとされる。ゼノンはソクラテスより一世代ほど年長の哲学者で、運動という概念を反駁した「ゼノンのパラドックス」の命題は、今日まで論争の的とされてきた。
 ゼノンの弁証法は、問答を通じて矛盾を暴き出し、反駁するという今日では普通に用いられている弁論術を創始したものであり、問答法=弁証法の最も基層的な、まさに出発点を示すものである。それだけに、ゼノン弁証法と近代弁証法の間には距離がある。
 むしろゼノンに関して注目されるのは、その世界観である。彼は万物の本質を相互に変化し得る温・冷・乾・湿の四要素ととらえたうえ、人間の魂もこれら四要素から均衡的に組成されると信じていた。ここには、やはり原初的ながら、近代のマルクス弁証法が到達した唯物論的思考を読み取ることができる。
 さらに、ゼノンはマルクス同様に反体制政治運動にも身を投じ、エレアの時の独裁的僭主ネアルコスの打倒を図るも失敗、捕らわれて拷問の末に処刑されたと伝えられる。運動概念の不能性を論じたゼノンが政治運動で命を落とすとは皮肉に映るが、弁証法の根底には批判という営為が埋め込まれており、それは実践において積極的な政治運動を導くことにつながることがゼノンの壮絶な最期によって示されているとも言える。

2018年11月15日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第32回)

六 南部アフリカの蠕動

バントゥー系民族の繁栄
 バントゥー人の大移動は、コイサン諸民族が蟠踞していた南部アフリカにも及んできた。その時期は不確かであるが、9世紀頃とされ、バントゥー人の大移動現象の中ではかなり後期のものであった。その中でも、今日のジンバブウェを拠点に定住したカラン人(バカランガ)人は、11世紀以降、巨石文化を持つ独自の王国を形成した。
 その最初のものは、マプングブウェと呼ばれる丘陵を中心に形成されたマプングブウェ王国である。これは今日の南アフリカ共和国領リンポポ州に11世紀から13世紀にかけて繁栄した都市王国である。
 この王国は、遺跡の考古学的な検証から、宗教的な色彩を帯びた王をはじめとする指導層がマプングブウェの丘陵上、地区指導者が小丘陵上、庶民層は平地に住み分けるという高度に階級的な社会であったと推察されている。
 こうした居住地の階級的離隔は、南部アフリカでは最初例である。他方では、都市内には行政司法の場と見られる公堂も検出されており、文字記録は残さなかったものの、都市国家として相当高度な機能を備えていた可能性も窺わせる。
 このマプングブウェ王国がどのようにして衰退・滅亡したかは不詳であるが、13世紀末にはマプングブウェの都市国家は放棄されたと見られる。代わって、より東にジンバブウェ王国が台頭してくる。これもカランガ人が形成した古王国で、その由来は先行のマプングブウェ王国から何らかの理由でジンバブウェ高原へ移住した人々によって13世紀前半に建設されたと見られる。
 そのため、巨石文化や三階級制などの特質はマプングブウェ王国のそれと共通しているが、その中心遺跡であるグレート・ジンバブウェは、アクロポリスと呼ばれる王宮跡を中心に、城壁を思わせる石壁で囲まれたより高度な都市遺跡として建設されている。
 南部アフリカでは稀有な特質のゆえ、19世紀に遺跡を「発見」した西洋人は当初、アフリカ黒人に高度な文化を形成する能力はないとする差別的人種観から、グレート・ジンバブウェ遺跡を聖書上のシバ女王国やアラブ人の遺跡と誤認したほどであった。
 ジンバブウェ王国はその立地を生かして象牙・金を軸とする交易の中継地として栄えるようになり、最盛期には遠く中国の元や明からもたらされた陶磁器も出土している。国内的には鉄・銅製品の金属加工業が主産業であり、伝統的な農業・牧畜にとどまらない工業国家としての展開も見せた。
 しかし、そのような繁栄の代償として、森林の乱伐や農地の疲弊などの環境破壊が王国の衰退を促進し、15世紀半ばにはグレート・ジンバブウェが放棄されたと見られる。代わって、伝承によればジンバブウェ王国の一王族が北東部に遠征して建てたと言われるムタパ王国が台頭し、ジンバブウェ王国を侵食・併合したのは皮肉であった。

2018年11月 7日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第16回)

18 ユリシーズ・グラント(1822年‐1885年)

 南北戦争終結後最初の大統領選挙となった1868年大統領選挙は、南北戦争を勝利に導いた共和党の独壇場となった。現職ながら不人気のジョンソン大統領は自党の民主党からも指名を得られず脱落、代わって指名されたニューヨーク州知事出身のホレイショ・シーモアも、共和党が指名した南北戦争の英雄ユリシーズ・グラントには太刀打ちできなかった。
 建国以来、戦争に明け暮れてきたアメリカでは戦争英雄出身の大統領はそれまでにも輩出していたが、いずれも正規軍人というよりは義勇軍人に近い存在であったところ、第18代大統領となったグラントは、史上初めての士官学校卒の正真正銘職業軍人であった。
 彼はオハイオ州で製革業者兼商人の中産階級家庭に生まれ、19世紀初頭に創設された陸軍士官学校を出た後、後に第12代大統領となるザカリー・テイラー配下で米墨戦争に従軍し、戦績を上げて昇進したが、飲酒がたたって除隊した。その後は職を転々とする不遇時代を過ごすが、南北戦争が運命を変える。
 軍に志願兵として復帰したグラントは、南北戦争で優れた作戦家としての力量を発揮して戦史に残る戦果を上げ、北軍の勝利に大きく寄与した。その戦歴は本稿の主題から外れるので割愛するが、南北戦争なかりせばグラントは歴史に名を残すこともなかったであろう。もちろん、大統領など望むべくもなかった。
 こうして政治歴ゼロのまま、共和党から大統領選挙に担ぎ出される形で立候補し、当選してしまったグラントは、誰が見ても政治の素人であった。しかし、それゆえに南北戦争後の再編リコンストラクションには適した人物でもあったのかもしれない。
 実際、彼は今日の共和党の姿からは考えられないほどリベラルな改革をいくつか実施している。その中には、人種的多様化政策の先駆けとも言えるアフリカ系やユダヤ系の連邦要職への登用が含まれている。また南北戦争後、南部の白人優越主義者によって結成されたテロ団体クー・クラックス・クランの摘発も進めた。
 また先住民政策も従来の強硬な殲滅作戦を離れ、先住民を連邦政府の保護下に置き保留地で「開化」させる新たな解決策を志向した。しかし、このような文明押し付けの「平和政策」は功を奏しなかったが、職業軍人出身ながら武断政策を回避しようとしたことは注目に値する。
 グラントのこのような穏健リベラル政策は、南部基盤の保守的な民主党及び共和党急進派双方の不満を招き、グラントの再選阻止が狙われたが、彼はこうした動きを跳ね返し、再選を果たした。しかし、二期目のグラント政権は1873年恐慌に始まる長期の大不況に見舞われた。それとともに、側近や閣僚らが関与する汚職事件も相次ぎ、グラント二期目は規律を欠くものとなった。
 特に汚職に関しては、自身の関与こそ問われなかったものの、歴代政権の中でも最も黒い記録を持つ。一方で、グラントは公務員改革策として、ジャクソン大統領以来の伝統である腐敗した猟官制を是正するべく、公務委員会を設置するなど改革策を進めたが、足元での汚職を抑止することはできなかった。
 こうして、第7代ジャクソン大統領以来、久方ぶりに二期八年を全うしたグラントであったが、大統領としては南北戦争英雄としての評価とは裏腹の不評が歴史的に定着してきた。一方、彼の人種的多様化政策には再評価もあるが、そうした北部リベラル傾向はグラント以降、20世紀前半にかけて断続的に続く共和党優位の時代に後退し、保守化傾向が進んでいく。

2018年10月27日 (土)

弁証法の再生(連載第1回)

序説

 現代世界の大きな特徴として、「哲学の貧困」ということが挙げられる。20世紀までは各々の時代を代表するような指導的な哲学者が存在し、良くも悪くも人々に知的な刺激を与えていたものだが、今や、哲学者という職業カテゴリー自体が絶滅しつつあるかのようである。
 代わって、実用的な“ハウツー”思考を売り物にする文化人や経営者が、かつての哲学者の代用を果たしているようである。もっとも、大学には哲学部/学科がなお存在しているが、そこに所属するのは主として過去の哲学文献を研究する学者―ハイデガーが揶揄した“哲学学者”―であって、自称はともかく、他称としてはもはや「哲学者」とは呼び難い人々である。
 とはいえ、現代世界も哲学を完全に失ったというわけではない。むしろ、現代世界では、三つの主要な哲学が隆盛しているとも言える。すなわち、現実主義・実証主義・功利主義である。これら各々が、古典派経済学・自然科学・論理学という主要な学術と結ばれて、知の世界を支配している。
 哲学的な順番としては、最も基礎部分の根本哲学として功利主義があり、その上に思考手段としての実証主義があり、さらに表層部分を世界観としての現実主義が覆うというような関係構造になるであろう。
 いずれにせよ、現代人は程度の差はあれ、また意識的か無意識的かの差はあれ、これら三つの哲学によってその思考を支配されている。実はこれら三つの哲学はそれ自体哲学でありながらも、脱哲学的な思考に人を導いていくため、現代人の思考から哲学が消滅しようとしているとも言える。
 一方、上記三哲学に最も欠けているのは、弁証法的思考である。弁証法は古代ギリシャ哲学に端を発しつつ、西洋哲学の中で様々に加工・熟成され、最終的にはヘーゲル弁証法をもって一つの完成を見たが、その後、マルクスによる再解釈によってマルクス哲学の核心に据えられた。
 ところが、これはマルクス自身が拒否した「マルクス主義」によって形式化・教条化され、ソ連共産党に代表される共産党支配体制のイデオロギーに利用されたことから、弁証法もこれら支配体制の思想統制の道具とみなされ、ソ連解体以降の世界では思想上の有罪宣告を受け、すっかり周縁に追いやられてしまった。
 しかし、本来の弁証法は決してそのような政治的教条ではない。弁証法はあれかこれかという二項対立的な幼稚思考を脱却し、対立するものを総合して新しいものを創造するための思考手段であって、目的ではない。その点を誤って、弁証法が自己目的化すれば、共産党支配体制下でのイデオロギーのようなものに化けてしまうだろう。
 他方、弁証法を政治的イデオロギーと決め付けて廃棄するならば、哲学の貧困から脱却することはできず、とりわけ現実主義の表層的世界観に支配されて、社会の革新・変革が阻害されることになるだろう。それは、人類社会の閉塞と滅亡を促進する。
 そこで、当連載では弁証法を歴史的に検証しつつ、歴史の過程で弁証法にまとわりついたあらゆる不純物を除去し、その本来の姿を取り戻させ、新たな時代に応じてこれを再生することを試みる。同時に、これは筆者の『共産論』の根底にある思考を抽出する試みでもある。

2018年10月24日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第31回)

六 南部アフリカの蠕動

先住者コイサン諸民族
 南部アフリカは元来、現存する人類中でも最も古い特徴を持つコイサン諸民族の割拠する所であった。コイサン諸民族はコイコイ族とサン族の総称であるが、両者には生活様式に明確な相違点が見られる。すなわち、コイコイ族が遊牧民であるのに対し、サン族は狩猟採集民であった。
 サン族のほうが人類発祥時の狩猟採集様式を固守していたことからすると、コイコイ族よりも古い種族と見られる。実際、サン族の社会は明確な首長のようなリーダーを持たない無頭社会であり、身分・職業階級も性別による差別もない平等性の高い原初的な協働社会の特徴を維持していた。
 一方、コイコイ族がいつ頃から遊牧生活に入ったかは不明であるが、かれらは元来今日のボツワナ北部に発祥した後発の民族グループであり、後からより南部に移住し、サン族の居住地を侵食する形で、さらに東の今日のナミビア方面にも拡散していったようである。
 両民族の間ではある程度の通婚関係があったようではあるが、両者の基本的な生活様式の相違は長く維持された。文化的な発展段階としては、サン族がコイコイ族のような遊牧生活へ移行することなく、伝統的な狩猟採集生活を固守したということになるだろう。
 とはいえ、両者はコイサン語族として包括される古い言語に加え、今日まで残され、世界遺産に指定されている岩絵のような芸術文化も共有している。特にサン族の岩絵は著名なツォディロ岩絵をはじめ、3000箇所も残され、かれらが優秀な美術文化の持ち主だったことを示している。
 コイコイ族も岩絵を残しているものの、岩絵文化はほぼサン族のものであったようである。その証拠に、やはりサン族の手になる岩絵が残るナミビアのトゥウェイフルフォンテーンは、コイコイ族が展開するようになると、岩絵の伝統が途絶えるからである。
 ただし、後にこの地に入植してきた白人ボーア人の言葉で「不確実な泉」を意味するように、かつては泉があったらしいトゥウェイフルフォンテーン自体は、サン族の時代から、コイコイ族が展開した後も、シャーマン儀礼が執り行われる両民族にとっての宗教聖地であり続けたようである。

2018年10月21日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載最終回)

八 議会神道の時代

議会神道と新国粋主義
 国政選挙を通じて議会に影響力を拡大していった神社本庁は、2000年以降、明確な政治的アジェンダを推進していくようになる。特に首相の「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」発言で波紋を呼んだ2000年の森内閣、さらに自民党の右傾化を決定づけた2001年の小泉政権の成立が大きな分水嶺となった。
 ちなみに、森首相の上記問題発言はまさしく議会神道の推進マシンである神道政治連盟国会議員懇談会の席上でなされたものであり、発言の後に「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく、その思いで・・・・私たちが活動して三十年になった」と続く総括発言の一部であったのである。
 こうした総括を受けるかのように、小泉政権時代の2005年に神社本庁が公表した国政選挙での候補者支援条件には、①皇室の伝統の尊重②改憲論議の推進③教育基本法の改正④安保・領土問題の解決⑤戦没者追悼新施設の建設反対⑥夫婦別姓への反対など、冷戦終結後の1990年代に隆起した新国粋主義のアジェンダが広く網羅されている。
 注目されるのは、⑤の戦没者追悼施設新設への反対、すなわち靖國神社への戦犯者合祀を支持することで、靖國神社との連携も図られていることである。戦前の国家神道における象徴的な宗教施設であった靖國神社は戦後も存続を許されたが、神社本庁に属さない単立の特殊な宗教法人とされる一方で、神社本庁側が靖國神社崇敬奉賛会に加入する形でクロスしている。
 この靖國神社崇敬奉賛会は靖國神社を支持する準政治的な組織として1998年に設立され、それ自身が独自のアジェンダを擁する靖國神社の政治的影響力拡大に一役買ってきた組織であるが、神社本庁も法人会員としてこれに加わることで、一体となって靖國神社に力を貸している。
 こうした議会神道の力をいっそう決定づけたのは、2012年の安倍政権の成立である。この政権はトップの安倍首相自身が神道政治連盟国会議員懇談会の会長職を務める、まさに神道と政治をつなぐ結節点にある人物であり、閣僚にも同懇談会メンバーが多数起用されてきた「神道政権」である。
 近代内閣史上最長政権となることも見込まれる安倍政権下で、議会神道は最盛期を迎えたとも言える。そうした中、上記「支援条件」の形で示されたアジェンダの中でも最もハードルの高い改憲が視野に入ってきている。
 ここでの神道界の最大関心事は、戦後憲法の柱の一つであり、国家神道の復活にとっての桎梏でもある政教分離原則の排除である。これによって神道を事実上の国教として再興することも可能となるからである。実際、神社本庁は世俗の改憲推進団体と連携しつつ、加盟神社境内で改憲署名活動を展開するなどの動きを見せているが、これについては神道界内部からの批判も提起されている。
 また神社本庁自身内紛・脱退問題を抱えるほか、神社本庁に属さない神道団体との緊張関係など、宗教全般に見られがちな分裂にも見舞われており、神道界が文字どおりに一枚岩となって議会神道を推進しているわけではないが、全般的に見て、神道と政治が戦後史上最も近接しているのが現時点と言えるであろう。

2018年10月17日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第15回)

17 アンドリュー・ジョンソン(1808年‐1875年)

 リンカーン大統領暗殺という衝撃的な事件の後、第17代大統領に昇格したのは当時の副大統領アンドリュー・ジョンソンであった。ジョンソンはノースカロライナ州の貧しい労働者階級出自で、いわゆる「プア・ホワイト」から立身した人物である。
 当時の習慣に従い、ジョンソンは正規の教育を受けず、10代から労働者として働いた。しかし、移住先のテネシー州で仕立て屋として小さな成功を収めた後、若干21歳にして地元グリーンビル市議会議員に当選したことを皮切りに政界に身を投じ、1850年代までに連邦両院の議員やテネシー州知事なども歴任した典型的な職業政治家として成功する。
 ジョンソンが政治的地盤としたテネシー州は南北戦争においては南部連合に参加したが、ジョンソン自身は南部連合に反対する連邦残留派に属していた。当時テネシー州選出上院議員だったジョンソンは、南部連合諸州選出上院議員のうちただ一人辞職しないという気骨も示したのであった。
 このように南部出身ながら合衆国の分裂に反対する姿勢は、当時のリンカーン大統領にとっては都合のよい人材と映った。そこで、二期目を目指すリンカーンは国民統一党名義―実態は共和党―で戦った1864年大統領選で、民主党員のジョンソンを副大統領候補に抜擢、当選後ジョンソンは第二次リンカーン政権の副大統領に就任した。
 そして翌年、リンカーンが凶弾に倒れると、大統領のお鉢が回ってきたというわけである。しかし、ジョンソンは連邦残留派とはいえ、南部出身の奴隷制護持派という点では、リンカーンとは明確な一線を画していた。そのため、リンカーン大統領から引き継いだ南北戦争の戦後処理策(リコンストラクション)においても、南部に対しては微温的な対応に終始したのである。
 具体的には、解放奴隷に公民権を付与する憲法修正14条に反対しつつ、解放奴隷の処遇を州の判断に委ね、南軍指導者の恩赦を積極的に行なった。これに対しては、南部の占領統治を主導していた共和党強硬派から強い反発を受けた。当時強硬派は議会で多数派を握っていたことから、ジョンソン大統領の拒否権発動が多発し、議会との対立は頂点に達した。
 そうした中、ジョンソンが不仲の陸軍長官を罷免したことが連邦法に違反するという理由で、史上初めて弾劾裁判にかけられる羽目になったが、審理を担当する上院でわずか一票の僅差で無罪となり、大統領の地位は保全された。
 こうしてどうにかリンカーン前大統領の残り任期を全うしたジョンソンであるが、二期目を目指した1868年大統領選では古巣の民主党から出馬したものの、予備選挙で敗退し、再選の望みは絶たれた。
 この予備選は「ここは白人の国だ、白人に統治させよ」という露骨に人種差別的なスローガンを掲げた当時の民主党の立ち位置を示す選挙となったところ、奴隷制支持者とはいえ、リンカーン政権の副大統領を務めたジョンソンは、南部に地盤のある民主党にとっては裏切り者と映じたのであろう。
 しかし、この後も、ジョンソンは国政への執念を捨てず、連邦議員への返り咲きを何度か試みた後、1875年に連邦上院議員への当選を果たし、大統領経験者としては至上唯一の連邦上院議員となるが、皮肉にも、その年の夏、体調を崩して急死した。
 こうして、ジョンソンは前任の“偉人”リンカーン大統領の影に隠れ、およそ100年後、暗殺されたケネディ大統領を引き継いだ奇しくも同名の大統領以上に目立たず、かつリンカーンとは異なり、奴隷制廃止に抵抗したことで歴史に悪名を残すこととなった。

2018年10月11日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第30回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

シエラレオーネとライベリア
 19世紀に入り、イギリスを起点に奴隷貿易及び奴隷制廃止の流れが生じる中、西アフリカに二つの特異な植民地が設定された。今日ではそれぞれ独立国として存在しているシエラレオーネとライベリアである。*ライベリアは日本では「リベリア」と表記することが慣例化し、筆者も従来これに従ってきたが、本稿では正規発音に近い「ライベリア」と表記する。
 この両植民地が特異なのは、いずれも白人が征服植民地ではなく、反対に解放された黒人奴隷をアフリカに帰還させる形で「黒人植民地」として成立した点である。奴隷貿易・奴隷制廃止の潮流の中で、解放された黒人奴隷をアフリカへ送り返すという奴隷貿易とは逆の流れが生じたのである。
 このうちシエラレオーネは、イギリスの奴隷解放運動家グランヴィル・シャープが提案して最初の入植者を送り出すが、現地の先住部族テムネ人との衝突や風土病のマラリアなどの蔓延により失敗した。何度かの失敗の後、1792年、現在シエラレオーネの首都でもあるフリータウンが建設され、以後、「自由の町」を意味するこの地が英領西インド諸島やカナダからの解放奴隷の入植地として発展する。
 フリータウンは1808年以降、正式にイギリス領植民地となり、奴隷貿易取締りの拠点ともなる。この地に入植した解放奴隷たちは現地先住民と通婚しつつ、クリオと呼ばれる支配的勢力に成長し、その領域をフリータウンから今日のシエラレオーネを構成する広域に広げていったのである。
 一方、シエラレオーネの東で隣接するライベリアは、アメリカからの解放奴隷の入植地として建設された。アメリカでも19世紀に入ると、奴隷制廃止運動が隆盛化するが、そうした中で、シエラレオーネを参考に、西アフリカへ解放奴隷を帰還させるプロジェクトがアメリカ植民協会を中心に立ち上がる。
 その経緯については、すでに先行連載『ハイチとリベリア』の中で詳述したので(拙稿参照)、繰り返しは避けるが、シエラレオーネとの大きな相違点として、ライベリアは1847年にアフリカ大陸初の共和政国家として独立したことがある。これはライベリアの支配勢力となった解放奴隷アメリコ・ライベリアンがその名のとおり、思想的にも故地アメリカ合衆国の強い影響を受けていたためでもある。
 経緯や思想に違いはあれ、両植民地の支配勢力となった解放奴隷とその子孫集団は、人口構成上10パーセントにも満たない少数派ながら、それぞれの地で長く政治経済を掌握する支配勢力に上ったが、このような少数支配体制は後々、従属下に置かれた先住黒人諸部族からのある種階級闘争を惹起することになっただろう。

2018年10月 3日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第24回)

八 議会神道の時代

議会神道への道
 連合国軍による占領下、「神道指令」によって国家神道が禁じられる中で、神道界の統一団体として設立されたのが神社本庁であったが、1952年の占領終了と日本の主権回復は、神道界にとっての重要なエポックとなった。
 神社本庁は占領終了から四年後の1956年、「敬神生活の綱領」(以下、単に「綱領」という)と題する簡潔な文書を発した。「神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である」の宣言に始まる「綱領」は、明治維新後の「大教宣布の詔」とも内容的に重なるような神道復興宣言であった。
 ただ、その法的性質は、天皇の詔勅ではなく、あくまでも民間宗教法人の公式文書にすぎなかったから、「綱領」の発布=国家神道の復活ということにはならない。とはいえ、神道界の包括宗教法人という地位を持つ神社本庁の公式綱領文書であり、これが神道の政治力回復への重要な契機となったことも否定できない。
 実は神社本庁は早くも占領終了の翌年1953年、戦前内務・文部両官僚を歴任した初代事務総長・宮川宗徳を参議院選挙の候補者に擁立したが、落選に終わっている。
 この後、政界進出の動きはしばらく停滞するも、1969年、神社本庁の政治団体として「神道政治連盟」(以下、単に「連盟」という)を結成、各回の国会議員選挙で神道界を代弁する候補者の推薦と支援を行なう方針を決めた。
 「連盟」自体は政党ではないので、神道系政党が結党されたわけではなかったが、その綱領第一項で「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」と宣言する「連盟」は、戦後憲法の政教分離原則を事実上否認し、議会政治を通じ国家神道を新たな形で復権させるに等しい任務を帯びた団体であった。
 神職を候補者に立てるという直接参加的な当初の方針を転換し、外部候補者を広く見定めた結果として、「連盟」が推薦・支援する候補者はほぼ保守系、その大半は自由民主党(自民党)の候補者で占められることとなり、「連盟」と自民党の関係性は極めて密となった。
 「議会神道」と呼ぶべきこの新戦略は的中し、やがて「連盟」推薦議員の増加により300名近くの所属議員を擁する「神道政治連盟国会議員懇談会」なる超党派―実態はほぼ自民党系―議員団の結成にまで至るのである。

2018年9月26日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第29回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

アメリカ奴隷制廃止運動と黒人
 アメリカの黒人奴隷は南部では人口の相当部分を占めていたとはいえ、少数派であることに変わりなく、ハイチのように革命的決起を可能にするような条件はなかった。そのため、ハイチ革命の影響が及ぶこともなく、19世紀の奴隷制廃止運動において必ずしも主体的役割を果たしていない。
 とはいえ、18世紀から裁判を通じて自由を勝ち取ろうとする奴隷が存在したことがアメリカの特徴である。その先駆けとして、マサチューセッツの黒人奴隷クウォク・ウォーカーがいる。ガーナ出自の奴隷二世と見られる彼は、1780年のマサチューセッツ憲法の文言「人は生まれながらにして自由かつ平等」を根拠に奴隷からの解放を訴えて勝訴、同州をアメリカ合衆国最初の奴隷制廃止州とするうえで貢献した。
 しかし、連邦のレベルで同様に解放を求めて提訴したドレッド・スコットは成功しなかった。彼は奴隷制廃止州へ転居し、自由身分となって同じ奴隷出身の女性と結婚しようとしたが、1857年、連邦最高裁判所は多数決をもって彼の解放を否定した。多数意見は奴隷制廃止州へ移転しても、奴隷は解放されず、黒人がアメリカ市民となることはできないとして、奴隷制護持に軍配を上げたのだった。
 他方、カリブ海域の奴隷たちのように、武器を取って反乱を起こす奴隷も見られた。あまり知られていないことだが、18世紀初頭のニューヨークでの奴隷反乱を皮切りに、19世紀半ばにかけて、未遂を含めた奴隷の反乱事件はアメリカでも300件近く起きていた。
 南部奴隷州の代表であるバージニア州では1800年、未遂に終わったガブリエルの反乱があった。ガブリエルは読み書きのできる鍛冶職人であり、仲間を集めて決起を企てたが、事前に計画が露見し、逮捕処刑された。これを機に、州当局は奴隷の解放を制限し、奴隷の教育を禁ずる反動的法律を制定、奴隷制を強化した。
 こうした抑圧の中で発生したのが、1831年のナット・ターナーの反乱である。決起に成功し、多数の白人を殺害したこの反乱については、別連載『奴隷の世界歴史』の中でも言及したが(拙稿参照)、この流血事態をもってしても奴隷制は動かなかった。
 例外的に、言論活動を通じて奴隷制廃止を訴えたのがフレデリック・ダグラスである。メリーランド州の奴隷だった彼は主人から密かに授けられた読み書き能力を元手に北部へ逃亡後、奴隷制廃止運動家となり、南北戦争から奴隷解放宣言までを見届けた。
 その後、ダグラスは連邦保安官や駐ハイチ総領事などの公職を歴任、泡沫政党ながら平等権党から黒人系では史上初めての副大統領候補に指名されるなど、奴隷出身者としては異例の経歴を積んだ。
 ダグラスと同年代の女性活動家として、ハリエット・タブマンも特筆すべき存在である。彼女もメリーランド州の奴隷として生まれ、奴隷を南部から北部の奴隷制廃止州へ逃す運動であったいわゆる「地下鉄道」を通じて北部へ逃れ、後に自らも地下鉄道の支援者として活躍した。
 彼女はまた南北戦争に従軍看護師兼北軍スパイとして参加し、北軍の勝利に貢献している。戦後は女性の権利運動家としても活躍を見せ、2020年には史上初めて、黒人系としてドル札紙幣の表面に肖像が印刷される予定となっている。

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