2019年1月23日 (水)

弁証法の再生(連載第4回)

Ⅰ 問答法としての弁証法

(3)弁証法の第一次退潮期
 ソクラテスが真理に到達するための問答法として提起した弁証法は、弟子のプラトンに継受されていくが、プラトンにおいては、より緻密化され、対象を自然の本性に従って総合し、かつ解析していく「分析法」へと発展せられた。
 対象事物を微細に分割しつつ、その本性を解明しようとする分析という所為は、今日では諸科学において当然のごとくに実践されているが、プラトンにとって、こうした分析=弁証法こそが、もう一つの方法である幾何学と並び、事物の本性―イデア―に到達する思考手段であった。
 もっとも、プラトンにとって、イデアとは見られるものとしての幾何学的図形を典型としたから、弁証法より幾何学のほうに優位性が置かれていたと考えられる。このようなプラトンの分析=弁証法は、ソクラテスの問答=弁証法に比べると、問答という対話的要素が後退し、対象の本性を解明するための学術的な方法論へと一歩踏み出していることがわかる。
 このような弁証法のアカデミズム化をさらに大きく推進したのが、プラトンの弟子アリストテレスであった。彼は分析=弁証法という師の概念を弁証法自体にも適用することによって、いくつかの推論法パターンを分類したが、そのうちの一つが蓋然的な通念に基づく弁証法的推論というものであった。
 これは、社会において通念となっているために真理である蓋然性のある概念に基づいた推論法ということであるが、その前提的出発概念である社会通念というものが必ずしも絶対的に真理性のあるものではなく、社会の多数によって共通認識とされていることで蓋然的に真理性が推定されるにすぎないから、推論法の中では第二次的な地位にとどまることとなった。
 アリストテレスの分類上、弁証法的推論法は、より不確かな前提から出発する論争的推論法よりは確実性のある推論法ではあるのだが、彼にとっては、絶対的真理である前提から出発する論証的推論法こそが、最も確実な第一次的推論法なのであった。
 このような論証的推論法は、三段論法に象徴される「形式論理学」として定式化され、アリストテレス以降、哲学的思考法の中心に据えられ、西洋中世に至ると、大学における基礎的教養課程を成す自由七科の一つにまで定着した。
 こうして、「万学の祖」を冠されるアリストテレスにより弁証法が論証法(論理学)より劣位の第二次的な思考法に後退させられたことで、弁証法は長い閉塞の時代を迎える。これを、20世紀後半以降の現代における弁証法の退潮期と対比して、「弁証法の第一次退潮期」と呼ぶことができる。

2019年1月16日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第19回)

22 スティーブン・グローバー・クリーブランド(1837年‐1908年)

 南北戦争終結後、共和党の北軍功労者が大統領に選出される「南北戦争功労政権」は、1884年大統領選挙で民主党のスティーブン・グローバー・クリーブランドが勝利することで、ひとまず中断された。クリーブランドは南北戦争では合法的に代替者を立てることで徴兵回避をした人物だったからである。
 クリーブランドは南北戦争とは関わらず、ニューヨーク州で法律家として身を立て、成功を収めた。次いで政界への転進を図るというアメリカの野心的な法律家が通るお決まりの道を歩む。
 手始めは、地元の選挙制保安官への当選であった。その後、バッファロー市長、さらにニューヨーク州知事と上昇を続けた。こうした経歴からも、クリーブランドの選挙巧者ぶりが窺えるが、それに加えて、彼には実際的な行政管理能力が備わっていたことも、公選公職での成功を支えたのであろう。
 履歴の頂点を飾るのが、1884年大統領選挙での勝利である。選挙戦では接戦の中、両党の中傷合戦が激しく展開されたが、クリーブランドが共和党の一部を抱きこむことに成功したのが、勝因となった。彼の選挙巧者振りがここでも発揮された。
 かくしてクリーブランドは第22代大統領に就任し、民主党にとっては16年ぶりの政権奪回となった。このような転換点の大統領らしく、彼は権威主義的な施政方針を採り、拒否権発動が頻発した。こうした議会との確執で、クリーブランド政権は行き詰まる。
 彼の最大目玉政策は関税引下げによる自由貿易への転換であったが、再選を目指した1888年大統領選挙ではこれが命取りとなる。選挙期間中、英国の駐米大使が発したクリーブランド支持を示唆するような書簡が暴露されたが、これが英国産品を利する関税引き下げを歓迎する選挙干渉と受け取られ、クリーブランドの評判を落としたのだった。
 それでも、一般投票ではクリーブランドが上回ったものの、最終結果を決する選挙人投票では共和党のベンジャミン・ハリソン候補に敗れ、クリーブランドは一期で退任、政権は再び共和党へ戻ったのだった。
 ところが、クリーブランドの異例さは、次の1892年大統領選を征して、大統領に返り咲いたことである。クリーブランド以前にも返り咲きにチャレンジした元大統領はいたが、成功したのは現時点でクリーブランドただ一人である。
 こうして第23代ハリソンをはさんで、第24代復権大統領となったクリーブランドであるが、満を持したこの変則二期目は、意に反して苦いものとなる。93年からアメリカは恐慌に入り、経済財政は行き詰ったからである。
 全米に不況が広がる中で労働者のストライキが頻発するが、19世紀アメリカを象徴する鉄道大手・プルマン社のストライキが激化すると、クリーブランドは連邦軍を投入して、武力鎮圧を図った。妥協が苦手で、権威主義的なクリーブランドの一面が如実に表れた一件である。
 先住民対策に関しては文化的同化主義者であり、これを推進するドーズ法を後押しする一方、対外的な膨張に関しては消極的で、一部で陰謀的に進められていたハワイ併合やスペインからの独立運動に揺れるキューバへの介入は承認しなかった。
 結局、クリーブランド二期目は中間選挙での与党・民主党大敗により早くからレームダック状態に陥り、民主党の新たな支持基盤となっていた労働者階級からもスト弾圧を恨まれ、政権運営は一期目以上に行き詰った。悲願の関税引き下げも実現しないまま、1896年大統領選でも民主党候補が敗れる中、任期満了で退陣するのだった。

2019年1月12日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第34回)

六 南部アフリカの蠕動

ロズウィ帝国の支配
 ジンバブウェ北東部ムタパ王国が栄えた頃、南西部にはブトワ王国が陣取っていた。この王国は 元ジンバブウェ王国を建てたカランガ人が再興し、西部の都市カミを拠点に建てた王国で、従ってその巨石文化も継承していた。世界遺産でもあるカミ遺跡群はその象徴である。
 経済的には、ムタパと同様に貿易を基盤とし、カミ遺跡群からは欧州や中国産の交易品も出土しており、同時代のムタパと並ぶ貿易立国ぶりがうかがえる。そのため、大航海時代のポルトガルとの通商外交関係を生じたことも同じである。結果、やはりポルトガルの内政干渉を受け、衰退していった。最終的には、1670年頃、新興のチャンガミレ勢力の侵攻を受け、滅亡した。
 チャンガミレ勢力はムタパ王国の王の牛飼いから身を起こしたという風雲児的な軍事指導者チャンガミレ・ドンボが編成した軍事勢力で、チャンガミレはショナ人と見られるが、その兵士はロズウィと呼ばれる強力な集団を形成した。
 アフリカの諸王国では、古くからの族長家が神性を帯びた王家として統治する伝統的支配の傾向が強く、チャンガミレのようなカリスマ風雲児が指導者にのし上がることは珍しいが、彼の強みは強力な石製武器、さらに「破壊者」を意味するロズウィ兵士のまさしく破壊性とにあったようである。
 そればかりでなく、チャンガミレ勢力は戦略的にもすぐれ、19世紀のズールー族が用い、英軍を苦しめた「雄牛の角」戦略と呼ばれる三分割陣形を先駆的に取り入れていたことを示すポルトガル側記録が残されている。
 チャンガミレ・ドンボはそうした強力な軍事力でポルトガル勢力を駆逐し、ジンバブウェ高原での支配力を広げた。彼の没後、指導者はチャンガミレの名称とマンボの王号を名乗り、王朝化していった。そして、やがては対ポルトガル戦争で協調したムタパ王国をも滅ぼし、ジンバブウェ高原の覇者となるのである。
 その軍隊の名称をとってロズウィ帝国とも呼ばれるこの新興国は、経済的にも牧畜農業を基盤に、金鉱、さらにはアラブ商人との交易など多角的な産業を展開し、19世紀後半まで存続した。兵器製造と併せれば、技術と経済を結合させたまさに帝国化の常道をたどったことになる。

2019年1月 9日 (水)

言語発展論(連載第20回)

第3部 新・世界言語地図

三 印欧‐阿亜語環

 インド‐ヨーロッパ語族(印欧語族)は、童話でも有名なグリム兄弟による近代的な比較言語学の確立を経て構築された最も体系的に立証される語族であり、まさに「語族」の代名詞的存在である。
 インドとヨーロッパを広域的につなぐこの語族は、地理的に見れば「語環」に近い性質をも持つが、比較言語学的にすべての包摂言語が共通の印欧祖語から派生・分岐したことがかなりの確度で証明できるために、「語族」にまとめることができている。
 この語族はまた、総体として屈折語の特徴を共通指標とするから、屈折語の代名詞でもあり、「屈折語族」と呼んでもよいほどである。この屈折語としての共通特徴を持つもう一つの語族としてアフロ・アジア語族(阿亜語族)と呼ばれるものがある。
 この語族は古くは聖書の神話的な民族分類に影響されて、セム‐ハム語族などと指称されていたが、今日ではアフロ‐アジアという地域的な名称に変更されている。ただ、この語族の地域的分布はおおむね北アフリカと西アジアに集中するため、精確には北アフロ‐西アジア語族と呼ぶべきかもしれない。
 阿亜語族は印欧語族のように共通祖語がいまだ再構されていないため、厳密には「語族」というより、「語環」に近い性格を持つ。そのうえで、動詞の活用変化に現れる屈折的特徴を大きくとらえれば、印欧語族との外的なつながりを認め、「印欧‐阿亜語環」というグループを想定できるかもしれない。
 両語族をつなぐ人類遺伝子上の系統はHaplogroup R1bである。この遺伝子系統は印欧語族系民族間で特に顕著に認められるが、阿亜語族系民族間にも拡散的に認められ、両者をつなぐ鍵となっているからである。
 実際に両語族の交錯がはっきりと現存言語に残されているのが、マルタ語である。地中海のマルタの公用語であるマルタ語は欧州では唯一の阿亜語族・セム語派に分類される言語であり、発生的には中世シチリア島がイスラーム勢力に支配されていた時代の公用語であったシチリア・アラビア語に起源があるとされる。
 一方で、マルタ語は印欧語・イタリック語派に属するシチリア語からも多くの単語を取り込んでおり、語彙的には印欧語族との共通性も持つため、阿亜語族と印欧語族の両者の特徴を併せ持つ興味深い複合言語として確立されている。こうして、マルタ語は少数言語ながら、「印欧‐阿亜語環」を象徴する言語という地位にあると言える。
 「印欧‐阿亜語環」という超域的な言語群を想定することは、今日の世界秩序において、宗教政治的にしばしば激しく衝突する欧米と中東の対立関係を言語学的な観点から止揚することに寄与するかもしれない。

2018年12月31日 (月)

政治化する証券市場経済

 証券市場が外部情勢に反応して変動することは20世紀以来の法則的傾向であるが、2018年はそれが際立った年であった。特に米中貿易戦争をはじめ、トランプ米政権の施策ばかりか、独裁傾向を強めるトランプ総統の鶴の一声ツイッターにすら敏感に反応して、米国市場は数十年ぶりという大幅な下落を来たすなど、「トランプ下落相場」の様相を呈した。
 もっとも、当のアメリカや日本をはじめ、先発資本主義諸国の実体経済は見かけ上好調を維持していながら、証券市場は不調という乖離現象は、その逆の証券バブル現象を含め、現代資本主義経済における実体/資産の分裂という症候を示す一例と言える。
 とりわけ昨今の分裂現象は、証券経済が上部構造たる政治の動向によって即応的に左右され、政治化していることを示す。「神の見えざる手」どころか、「人の見え見えの手」である。元来、社会の上下構造は相互に連関しており、相即不離の関係にあるが、一寸先は闇と言われる政治現象によって左右されればされるほど、経済は不安定さを増す。
 証券経済の不安定さは時間差をもって実体経済にも影響し、実体経済不況を招く可能性がある。証券経済の政治性が増すほどに実体経済も波及的に不安定化し、資本主義経済は総体として恒常的に不安定なものとなっていくだろう。今年と比べて大きく変わる見込みもない2010年代最終の来年は、いよいよ資本主義末期症状が顕著となる年かもしれない。

2018年12月30日 (日)

言語発展論(連載第19回)

第3部 新・世界言語地図

二 世界祖語の絶滅

 「語環」による言語分類に入る前に、現存する世界の民族言語(絶滅言語を含む)に共通する祖語―世界祖語―は再構できるかという問題にも一言しておきたい。もしそれが可能なら、新たな世界語の創案にも大きく寄与するだろうからである。
 この問題に関しては、20世紀初頭、イタリア人言語学者アルフレード・トロンベッティが10万年乃至20万年前に使用されていた人類祖語の可能性を正式に提唱して以来、言語学界の傍流においてではあるが、研究が続けられてきた。
 近年では、アメリカの言語学者メリット・ルーレンらが、コイサン諸語やオーストラリア先住民諸語など、現存民族言語の中でも特に古い発祥を持つと考えられる諸言語の音韻や語形の比較対照により、数十個の世界語源を抽出したとするが、言語学界主流ではヘテロドクシカルな超仮説として扱われているようである。
 人類のアフリカ発祥・出アフリカ仮説に立つならば、アフリカで最初に言語を獲得した現生人類の集団内で共有された原始言語Xは、出アフリカ集団によってアフリカの外へ持ち出されたことは間違いなかろうが、その後、人類の世界的拡散・定住の過程で原始言語Xは忘却され、相互に疎通できないほど多岐にわたる民族言語に分岐していったのだろう。
 現在では原始言語Xが絶滅して超歴史的な年月を経過しており、古い発祥を持つといってもせいぜい数千年程度と考えられる諸言語の音韻や語形の比較だけからXを再構することは至難となっているものと思われる。仮に再構できても、部分的にとどまり、そこから直接に体系的な文明言語に再編することは不可能だろう。
 かくして、現状は世界祖語再発見への期待を封じつつ、「語環」による現存民族言語の再分類に取り組むべき時であろう。ただし、包摂概念である「語環」概念によって、現存言語間の内的な関連性がより解明される可能性はあるかもしれない。

2018年12月26日 (水)

言語発展論(連載第18回)

第3部 新・世界言語地図

一 言語分類の刷新

 言語の発展という問題をめぐって、第1部では「通則的概観」と題し、自然言語の発生から計画言語の創案に至る人類言語一般の発展過程を概観した。次いで第2部では「英語発展史」と題し、現時点において事実上の世界語(世界公用語)の地位にある英語の発展過程を概観した。
 これらに続く第3部では、「新・世界言語地図」と題して、現存する世界の自然言語(民族言語)を新たな視点から分類し直し、その内的な関連性を検証していく。この作業を通じて、現存民族言語の新たな言語地図を作成し、最終的な目標である真に中立的な世界語の創案につなげる契機を発見してみたい。
 その際の大きな視点として、「語環」(inter-linguistic area)という概念を用いる。「語環」とは、伝統的な言語学では「言語連合」(linguistic area)と呼ばれてきた包括的な類縁言語群の概念をさらに進化させた包摂的概念である。
 両概念の違いは微妙であるが、「言語連合」が共通祖語の言語遺伝的な同定を条件とする「語族」よりも広く、共通の文法的・音韻的特徴を指標として言語のまとまりを観念しようとするあまり、その設定が曖昧で、安定しない嫌いがある。 
 そこで、「語環」の設定に際しては、言語遺伝性についても改めて考慮に入れつつ、文法的・音韻的特徴に加えて、各言語使用民族の遺伝人類学的系譜関係から、地理学的・地政学的な事情に至るまで、種々の要素が総合的に比較考慮される。
 このような包摂的言語群としての「語環」の内部に通常は複数の語族が編入されるが、単独の語族で一個の「語環」を形成するケース、従来は「語族」と認識されてきたが「語環」として把握したほうがよいケースもある。また、例外としてどの「語環」にも属しない完全な独立語も存在する。

2018年12月19日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第18回)

20 ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド(1831年‐1881年)

 第20代ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド大統領は、第18代グラント大統領から続く「南北戦争功労政権」の三人目に当たる。オハイオ州出身の弁護士で、南北戦争に志願従軍という履歴は、前任のヘイズ大統領とそっくりで、ヘイズのコピーのようであった。
 連邦下院議員経験も同じであったが、州知事を経験したヘイズと異なり、ガーフィールドは下院議員から直接に大統領の座を射止めた。連邦上院議員や州知事より下位とみなされる連邦下院議員職から大統領に直行したのは、現時点でもガーフィールドただ一人である。
 彼は1880年大統領選挙で、返り咲きを狙ったグラントや「シャーマン法」に今も名を残すジョン・シャーマン上院議員といった大物を退けて、共和党の指名を獲得したうえ、本選挙では民主党が擁立した南北戦争の北軍英雄ウィンフィールド・スコット・ハンコックを破っての勝利であった。
 このようにガーフィールドは運と老練さを兼ね備えていた。下院議員時代にはグラント政権下の汚職事件で名前が挙がったが、起訴されず切り抜けており、抜け目のない人物でもあった。しかし、その抜け目なさがあだとなったか、ガーフィードの在位は彼の暗殺により、半年余りで突然終わった。
 リンカーンに続き史上二件目となった大統領暗殺事件の犯人は、チャールズ・ギトーなる弁護士であった。その犯行はリンカーン暗殺に見られたような政治的陰謀ではなく、ギトーがガーフィールドの選挙運動を支援したにもかからわず、政権にポストが得られなかったことへの私怨による単独犯行であった。
 こうして、ガーフィールド政権は史上二番目に短いわずか180日余りで終わったが、本来は自身もその犠牲となった猟官制の改革や、教育を通じた黒人の地位向上などの進歩的な政策を持っていた大統領であったが、在任が短期にすぎたため、実現は後継者に委ねられた。

21 チェスター・アラン・アーサー(1830年‐1886年)

 銃撃から二か月後に死去したガーフィールド大統領を引き継いで第21代大統領となったのは副大統領チェスター・アラン・アーサーである。彼もまた南北戦争ではニューヨーク州軍で従軍した経験がある。ただ、その活動は実戦より参謀や需品のような裏方ではあったが、アーサー政権もグラント政権以来続く「南北戦争功労政権」の一環とみてよいであろう。
 アーサーはカナダとの二重国籍であったため、出生地はカナダで、大統領資格を持たないのではないかとの疑惑が大統領選挙当時からくすぶったうえ、汚職に関与した疑いも持たれ、清廉なイメージはなかった。
 しかし、いざ大統領に就任すると、彼は前政権の政策を引き継ぎ、公務員制度改革に乗り出す。いわゆるペンドルトン法であり、これにより、連邦公務員の採用と昇任に試験が導入されることになった。猟官制が基本で官僚制と縁のなかったアメリカでは画期的であった。
 ただ、同法が適用されるのは連邦官庁の中級以下の職にとどまり、上級職はなお猟官制であると同時に、選挙を経ても入れ替わらない中級職以下は、「影の政府」と呼ばれる官僚制の跋扈を結果することになった。猟官制と官僚制の欠点の双方が不安定にミックスされた近代アメリカ行政機構の始まりである。
 さらに、アーサー大統領は中国系アメリカ人の公民権取得を認めない中国人排斥法や中国人女性の入国を制限するペイジ法に署名し、20世紀前半まで続く中国人排斥政策を追求した。他方で、南部の黒人や先住民のためには教育を通じた地位の向上を目指すも、有効な手を打つことはできなかった。
 アーサーは再選を目指して1884年大統領選挙の予備選に立候補したが、ベテラン議員で、ガーフィールド政権とアーサー政権初期に国務長官を歴任したジェームズ・ブレインに敗れ、引退した。すでに健康を害しており、引退から二年後には没している。総じて、ガーフィールド‐アーサー時代は、アメリカ大統領史上印象が薄いものとなった。

2018年12月 8日 (土)

弁証法の再生(連載第3回)

Ⅰ 問答法としての弁証法

(2)ソクラテスの問答法
 弁証法の基底は「問答法」であるが、こうした「問答法」としての弁証法を最初に確立したのは、ソクラテスであった。アリストテレスによれば弁証法の創始者とされるゼノンの弁証法はまだごく初歩的な弁論術にとどまっており、その内容も不確かな点が多いが、ソクラテスの問答法は、弁証法の歴史における実質的な元祖と言い得る特質を備えていた。
 彼の問答法をめぐっては、しばしば「ソクラテス式問答法」の名のもとに様々な議論がなされているが、彼の問答法の特徴は、相反する命題を徹底的に対質させる点にある。それは、彼の高弟プラトンが自身の著作で示した「勇気」の本質をめぐるソクラテス式問答法の実際に象徴されている。
 しかし、それは相反する命題間で論争を戦わせて相手を論破するという現代における“ディベート”の論争ゲームとは次元の違う対論である。ソクラテスの問答法の実質は反証ということにあるが、ここでの反証とは、対立命題を否定する証拠を提出してその命題の正当性を崩すという消極的な証明にとどまらず、そこから容易に結論を導けない難問―アポリア―を浮上させようとするものである。
 その点で、ソクラテス式問答法の最終目標を確定的な真理の証明にあるとする解釈は妥当ではない。彼は対立命題を反証して別の真理へ誘導しようとしているのではなく、別の問いを立てさせようとする。
 言い換えれば、解答を導くのではなく、問いを導き、さらにそこから、未知の真理を浮かび上がらせるのである。彼の問答法が比喩的に「産婆術」と呼ばれたのも、このようにいまだ知られていなかった新しい真理を浮上させることの手助けをする手段であったからにほかならないだろう。
 また彼の有名なモットー「無知の知」も、こうした文脈からとらえれば、単なる知的謙虚さの自覚にとどまらず、いまだ知られていない知見の謂いであったとわかる。そのような未知の真理を浮かび上がらせるためには、無知の自覚が必要であるという限りでは、「無知の知」は知的謙虚さの箴言でもあろう。
 しかし、このようなソクラテスの方法論は、政治的には危険視されかねない。それは既知の命題への批判的反証活動を活性化させるからである。彼の時代、それは政治社会の基盤であった宗教的な教条との対決が避けられなかった。ソクラテスが青年を堕落させる宗教的異端者として有罪・死刑を宣告され、毒殺刑に処せられたことには理由があったのである。
 実際のところ、ソクラテスは「弁明」の中で自身主張しているとおり、無神論者でも異端宗教者でもなかったが、ソクラテス式問答法が神の存在について展開されたときには、あらゆる宗教が措定する神の存在に関する絶対前提が反証に付され、揺らぐ可能性は十分にあった。当時のアテナイ当局は、そうした危険性を嗅ぎ取り、言わば予防的保安措置としてソクラテスを葬ったのであろう。
 こうして、弁証法創始者ゼノンと同様、ソクラテスも政治犯として命を絶たれることになった。彼の後も弁証法実践者は程度の差はあれ、政治的に迫害されることがしばしばあったことは決して偶然ではない。弁証法は、政治的には我が身の安泰を保証してくれない方法論である。それは、彼がまさに弁証法の主題とした「勇気」を必要とする哲学方法論なのかもしれない。

2018年12月 5日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第33回)

六 南部アフリカの蠕動

ムタパ王国の盛衰
 前回見たように、ジンバブウェ王国に代わって台頭してきたのがムタパ王国であった。この王国は、一名ムウェネムタパ王国(ポルトガル語転訛モノモタパ)とも呼ばれるように、ジンバブウェ王国のムウェネ=王子が建てたムタパ=領土(国)という建国伝承に由来している。
 この伝承からすれば、王国建国者はジンバブウェ王国支配層のカランガ人だった可能性があるが、多数派を占める臣民は現代ジンバブウェで最大民族を占めるショナ人だったと見られる。その意味では、ムタパ王国が現代ジンバブウェの基礎を成したとも言える。
 ムタパ王国は15世紀前半頃の建国初期から積極的な膨張主義政策を志向し、王国の最大版図は今日のジンバブウェから隣国モザンビークの一部に及んだ。とはいえ、その内部構造は征服した小王国を従属支配する連合王国の性格が強く、その支配は集権的ではなかったと考えられる。
 しかし、勢力圏が拡張された結果、王国はジンバブウェ高原からインド洋沿岸に至るまでの交易路を確保し、経済的な基盤とした。また銅や金の採掘も行い、鉱物税を通じて資源国としても栄えたと見られる。
 こうして16世紀初頭までに、ムタパ王国は南部アフリカにおける最大級の交易国家として大国化していたが、それはポルトガルの大航海時代と重なっていた。16世紀前半、ムタパはポルトガルと通商関係を樹立するが、それは西アフリカのコンゴと同様、王国凋落の始まりであった。
 16世紀後半からポルトガル人宣教師によるキリスト教の布教が始まったことで、宮廷にもキリスト教徒が増加した。当初、王国は伝統宗教保守派に配慮し、宣教師を処刑したが、これはポルトガルによる報復的な十字軍介入を招いた。
 何とかこの介入を阻止した後も、ムタパ王は元来不安定な版図維持のためポルトガル人勢力に依存したため、17世紀初頭には経済基盤の鉱山をポルトガルに割譲する条約を締結させられた。
 これを機に、ムタパはポルトガルの間接支配を受けるようになる。その後、ポルトガルを排除する試みもなされたが、1629年、時のマブラ王が洗礼を受けたうえ、初のキリスト教徒王となり、ポルトガル王に臣従を誓ったことで、王国は公式にポルトガル属国となった。
 その後、17世紀末、ムタパ王国は王の牛飼いから身を起こしたというチャンガミレ・ドンボが南部に建国したロズウィ王国を頼ってポルトガル勢力の放逐に成功したことがあだとなり、同国に領土を蚕食されていき、18世紀前半までに事実上王国は崩壊、名目だけの存在として細々と存在するばかりとなった。

«アメリカ合衆国大統領黒書(連載第17回)

2019年1月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31