2018年5月26日 (土)

体験的介護保険制度批判(追記7)

 介護施設入所中の家族に、とうとう看取り介護の段階が迫ることとなった。経口摂取がほぼ不可逆的に不能となったのだ。古い時代であれば、この段階で為すすべはなく、いわゆる老衰による死を待つばかりとなるところ、現代では胃ろうに代表されるような経管栄養処置の発達により、死を繰り延べることができるようになった。

 中でも胃ろうは元来、障碍を持つ小児患者のための栄養摂取法として海外で開発されたところ、日本では高齢者の延命処置として転用されるという独自の展開をたどったという。ここには、経営優先主義の医療界の欲望に加えて、「長寿」をよしとする風潮及び国策も絡んでいるのだろう。

 欧米では認知症が進行した高齢者に胃ろうが実施されることはほぼないというが、日本では医師から提案されることも多い。もちろん拒否する自由はあるから、選択の問題ではある。あらゆる延命処置を受けず自然の死の経過に委ねる「平穏死」という概念や実践も行なわれつつある。

 個人的には、経管栄養処置=非人道的といった教条的人道主義者でもないし、欧米のように身も蓋もない費用対効果論から、老衰者への経管栄養処置=無駄と切り捨てることにも違和感はある。

 とはいえ、回復見込みのない老衰高齢者に対する経管栄養処置に不自然さは感ぜざるを得ない。やはり苦痛のない形で、ごく自然に最期を迎えさせる「平穏死」という実践には理想的な魅力を感じる。

 しかし、「平穏死」しようにも場所の確保が必要である。病院は病気を治療して帰る場であるから、治療せず死を待つ場としてはふさわしくない。介護施設は俗に「終の棲家」とも呼ばれるが、看取り介護に必要な体制が整備された施設は多くない。

 近年は特養ホームに看取り介護の実施を促す政策導入がなされているというが、ただでさえ足りない職員の負担は重く、現在入所中の施設などは職員の研修が未達成らしく、看取り介護不可を明言している。

 考えてみれば、末期癌患者などの場合も含め、そもそも終末ケアは単なる身の回りの世話のような介護にとどまらず、最小限度の緩和的な医療処置は行い、最期に医師のみが法的な権限を持つ死亡確認を要する一連のプロセスであるから、それは医療でも介護でもなく、広い意味での看護に近い。

 自宅の一室をそうした看護場所として使用できる環境があれば、かつては一般的だった在宅死もよいだろうが、自宅にその条件がない場合はどうか。病院でも介護施設でもない「看護院」といったカテゴリーが必要なのではないだろうか。

 現状、ホスピスはそうした「看護院」に近いかもしれないが、ホスピスは末期癌患者のような重病者の終末ケアが中心で、高齢者向けではない。英語のナーシング・ホーム(nursing home)は「養老院」などと訳されることもあるが、原義的には「看護院」に近い。

 「看護院」はスタッフとして常勤医や介護士も配置されるが、その名のとおり看護師が主役であり、施設長も看護師資格を有するものとする。このような「看護院」が正式に認められれば、老衰の高齢者に不自然な延命処置を取らずとも、まさに「平穏死」できる場所が確保できるはずである。

 しかし、このような新型施設を社会保険でカバーするには、健康保険と介護保険の統合が必要かもしれず、そのためには日本の縦割り行政を廃さなければならない。同時に、「看護院」では医師が看護師の「部下」になるという通常の医療界とは逆転した体制に慣れる必要もある。医療界における医師絶対の権威主義打破も不可欠である。

*「高齢者看護施設」としたほうが、より目的・機能が明確になるかもしれない。

2018年5月21日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第8回)

8 マーティン・ヴァン・ビューレン(1782年‐1862年)

 第7代ジャクソン大統領による「ジャクソニアン・デモクラシー」は、引き続いて副大統領マーティン・ヴァン・ビューレンが第8代大統領に当選したことで、さらに四年間継続されることになった。とはいえ、ヴァン・ビューレンの経歴は前任者とはかなり違っていた。
 まず彼はニューヨーク州の出身であり、アメリカ独立宣言署名後に生まれた初の大統領であった。またニューヨーク(旧ニューアムステルダム)を建設した初期オランダ移民の子であった。様々な点で、初記録を持つ大統領である。
 一方で、生家があまり豊かでないため、十分な高等教育を受けることなく、徒弟修業的なプロセスを経て弁護士となり、成功を収めた点では、非名門の「庶民」の政治を強調した「ジャクソニアン・デモクラシー」の風潮に合致した人物であり、ジャクソンが副大統領に指名しただけの理由はあった。
 しかし、大統領としてのヴァン・ビューレンは成功しなかった。その主要因は、不運にも就任年度に始まった恐慌(いわゆる1837年恐慌)にあった。恐慌自体の原因論は本稿の主題から逸れるのでここでは詳論しないが、ヴァン・ビューレン政権期を越えて1840年代全般に余波の及んだこの恐慌には、ジャクソン前大統領の政策も関わっていた。
 特にジャクソンが連邦中央銀行に反対する教条主義的な発想から第二次合衆国銀行の免許延長を拒否したことに加え、正貨主義に基づく正貨流通令は地方銀行の破綻を招いた。ヴァン・ビューレンの就任は恐慌発生の5週間前であり、直接の責任はないはずだが、前政権の副大統領だったことで間接的な責任は免れなかった。
 他方、大統領としても恐慌に対して適切な対策を取ろうとせず、恐慌的デフレーションが彼の任期中続いたことで、大統領としての能力にも疑問符が付けられ、失業や負債に苦しむ大衆の怨念が募った。
 結局のところ、「ジャクソニアン・デモクラシー」の無為な延命者でしかなかったヴァン・ビューレンは先住民政策でも強制移住法を継承し、武力による土地の侵奪を継続した。もっとも、この面で白人有権者の反感を買うことはなかったのであるが、40年大統領選挙では再選を果たせず、一期で去ることになる。
 しかし、返り咲きへの執念は持ち続け、48年大統領では新党・自由土地党の候補者として出馬した。自由土地党は、ジャクソン、ヴァン・ビューレン両政権の与党であった民主党から分離し、奴隷制度が存在しない土地という意味での「自由土地」の推進を最大綱領とする当時としては進歩的な政党であった。
 とはいえ、自由土地党は西部開拓地における新規の奴隷州拡大に反対するものの、既存奴隷制度そのものの廃止には踏み込まない中途半端な立場に終始した。提訴力に欠け、ヴァン・ビューレンは10パーセントの得票率にとどまり落選、返り咲きは果たせなかった。
 もっとも、奴隷制に関するヴァン・ビューレンの比較的にリベラルな姿勢は長寿を保った最晩年の1860年大統領選で反奴隷制を掲げるリンカーン大統領候補を支援する立場を取らせ、リンカーン政権の成立に一役買ったことは特筆してよいことかもしれない。

2018年5月12日 (土)

疑問‐探求モデル

 科学的な方法論においては、初めに一個の仮説を推論的に立て、その成否を後から実験や観察によって検証するという仮説‐検証モデルがいまだ圧倒的な通念であろう。このモデルは思考経済的には合理的に見え、かつスマートでもある。
 しかし、仮説には「こうあって欲しい」という科学者の願望が混じりがちである。願望への執着が、結論を先取りしたデータ操作のような不正研究を生み出す温床ともなる。仮説‐検証モデルのそうした陥穽を回避するための代案は、疑問‐探求モデルである。
 これは初めに仮説を立てるのではなく、まず何故に?如何に?という疑問を立て、その疑問の答えを探求するという思考プロセスをたどる。疑問が疑問を呼べば、疑問が解消されるまでそのつど二次的、三次的・・・・の疑問を設定し続けるのである。
 疑問の順次探求に当たっては闇雲な試行錯誤を避けるため、仮説を設定することは許されるが、仮説は一つでなく、すべての可能的な仮説を設定し尽くした上で、実験や観察の結果と最も合致する仮説を選択するのである。
 このような思考法はなんで?なんで?と素朴な疑問を繰り返して親を困らせる子どもに似た素人思考のように見えるが、そのような素朴な探求法こそ、実は最も堅実な科学的方法論なのではなかろうか。これもまた一個の仮説かもしれぬが。

2018年5月 5日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第17回)

六 復古神道への道

神国思想の興隆
 神道はその後に流入してきた儒教や仏教―特に仏教―の影響を受け、習合宗教の色彩を強めていったが、こうした文化融合に対しては反動が現れるのが常である。神道においては、仏教と習合した本地垂迹説に対する反動が南北朝時代に顕著となる。
 その最初の隆起が皇室祭祀の本拠たる伊勢神宮に現れたことは偶然ではない。すなわち、伊勢神道である。伊勢神道は伊勢神宮外宮神職を世襲してきた度会氏が興した神道流派であり、仏より古来の神を優位に置く反本地垂迹説を軸とする。
 しかし、伊勢神道は単純な反本地垂迹説にとどまらず、皇祖とされる天照大神を祀る内宮に対して、外宮の主祭神たる豊受大神を天照大神よりも優位にある普遍神と規定し、ある種の一神教的な立場を打ち出したことに特徴があった。
 その一方で、伊勢神道は元寇以来、ナショナリズムの思想として台頭してきていた「神国思想」、すなわち日本を古来の神々によって加護された国と認識する国粋思想を改めて活性化させ、これを強く打ち出したのであった。
 神国思想を唱えながら、皇祖・天照大神を否定するかのような所論は一見矛盾しているように思えるが、伊勢神道がこのような逆説を提示した背景として、本来マイナーだった外宮の権威を上昇させようという伊勢神宮内部における権力闘争も絡んでいたと推測される。
 一方で、伊勢神道創始者たる度会家行が南北朝動乱渦中で南朝を支持したことで、伊勢神道は南朝、とりわけ南朝総帥となった北畠親房に影響を及ぼし、南朝の理論的支柱となった。ところが、南朝が最終的に敗れたことにより伊勢神道は勢力を失い、代わって京都の吉田神社神職の吉田兼倶が創始した吉田神道に道を譲ることになる。
 吉田神道は教理上は伊勢神道の反本地垂迹説・神国思想を継承するとされるが、実際のところは習合的で、他宗派を排斥するのではなく、儒・仏・道三教を枝・葉・花実になぞらえつつ、日本古来の随神(かんながら)の道を法の根本とする止揚的な立場を採った。
 しかし吉田神道の強みは教理以上にその政治力にあり、兼倶は北朝を擁して権力を確立した足利将軍家と深く結びつき、「神祇管領長上」を称して、全国の神職の位階を授ける権限すら獲得し、全神社の頂点に立った。
 同時に、敬虔な仏教徒でもあった時の後土御門天皇にも進講を通じて取り入り、天皇から本拠の吉田神社境内に建てた斎場所大元宮を「神国第一之霊場、本朝無双之斎庭」としてお墨付きを得ることにも成功したのである。

2018年5月 3日 (木)

共産論・総目次[改訂第二版]

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より全記事をご覧いただけます。


序文
 ページ1

第1章 資本主義の限界

(1)資本主義は勝利していない
 ◇ソ連邦解体の意味 ページ2
 ◇ソ連型社会主義の実像 ページ3
 ◇ソ連型社会主義の失敗
 ◇資本主義の「勝利」と「未勝利」

(2)資本主義は暴走していない
 ◇グローバル資本主義の実像 ページ4
 ◇「資本主義暴走論」の陥穽

(3)資本主義は崩壊しない
 ◇ケインズの箴言 ページ5
 ◇打たれ強い資本主義

(4)資本主義は限界に達している
 ◇三つの限界 ページ6

(5)共産主義は怖くない 
 ◇二方向の限界克服法 ページ7
 ◇共産主義のイメージ 

第2章 共産主義社会の実際(一):生産

(1)商品生産が廃される 
 ◇利潤追求より社会的協力 ページ8
 ◇無償供給の社会
 ◇文明史的問い 

(2)貨幣支配から解放される 
 ◇交換価値からの解放 ページ9
 ◇金融支配からの解放
 ◇共産主義と社会主義の違い

(3)計画経済に再挑戦する 
 ◇古い経済計画モデル ページ10
 ◇環境計画経済モデル
 ◇計画の実際
 ◇非官僚制的計画

(4)新たな生産組織が生まれる  
 ◇社会的所有企業と自主管理企業 ページ11 
 ◇生産事業機構と生産協同組合 
 ◇諸企業と内部構造
 ◇農業生産機構 ページ12
 ◇消費事業組合

(5)土地は誰のものでもなくなる
 ◇共産主義と所有権 ページ13
 ◇土地所有制度の弊害
 ◇共産主義的土地管理制度
 ◇天然資源の管理

(6)エネルギー大革命が実現する
 ◇新エネルギー体系 ページ14
 ◇脱原発への道
 ◇「原発ルネサンス」批判  

第3章 共産主義社会の実際(二):労働

(1)賃労働から解放される
 ◇賃労働の廃止 ページ15 
 ◇資本主義的搾取の構造
 ◇新・奴隷解放宣言 ページ16
 ◇労働と消費の分離

(2)労働は全員の義務となるか
 ◇労働の義務と倫理 ページ17
 ◇職業配分のシステム
 ◇労働時間の短縮 

(3)純粋自発労働制は可能か
 ◇人類学的問い ページ18
 ◇3K労働の義務?
 ◇職業創造の自由

(4)婚姻はパートナーシップに道を譲る
 ◇婚姻家族モデルの揺らぎ ページ19
 ◇登録パートナーシップ制度
 ◇人口問題の解

(5)「男女平等」は過去のスローガンとなる
 ◇男女格差の要因 ページ20
 ◇共産主義とジェンダー

第4章 共産主義社会の実際(三):施政

(1)国家の廃止は可能だ
 ◇エンゲルスの嘆き ページ21
 ◇「税金奴隷」としての国民
 ◇「戦争奴隷」としての国民
 ◇民衆会議体制 ページ22
 ◇主権国家の揚棄 

(2)「真の民主主義」が実現する 
 ◇「選挙信仰」からの覚醒 ページ23 
 ◇代議員抽選制
 ◇非職業としての政治
 ◇「ボス政治」からの脱却

(3)地方自治が深化する
 ◇基軸としてのコミューン自治 ページ24
 ◇三ないし四層の地方自治
 ◇枠組み法と共通法

(4)官僚制が真に打破される 
 ◇立法・行政機能の統合 ページ25
 ◇法律と政策ガイドライン
 ◇一般市民提案
 ◇官僚制の解体・転換

(5)警察制度は必要なくなる
 ◇犯罪の激減 ページ26
 ◇警防団
 ◇犯罪捜査局と交通警邏局
 ◇特別捜査機関

(6)裁判所制度は必要なくなる
 ◇共産主義司法制度 ページ27
 ◇衡平委員と真実委員会
 ◇矯正保護委員会
 ◇護民官及びオンブズマン
 ◇法令解釈委員会
 ◇民衆会議弾劾法廷

第5章 共産主義社会の実際(四):厚生

(1)財源なき福祉は絵空事ではない
 ◇福祉国家の矛盾 ページ28
 ◇二つの福祉社会
 ◇無償の福祉

(2)年金も生活保護も必要なくなる
 ◇年金制度の不合理性 ページ29
 ◇共産主義的老後生活

(3)効率的かつ公平な医療制度が提供される
 ◇地域圏中心の医療制度 ページ30
 ◇医師の計画配置
 ◇保健所の役割
 ◇科学的かつ公正な製薬

(4)充足的な介護システムが完備する 
 ◇介護の公共化 ページ31
 ◇介護と医療の結合
 ◇「おふたりさま」老後モデル

(5)名実ともにバリアフリーが進む 
 ◇脱施設化 ページ32
 ◇障碍者主体の生産事業体
 ◇「反差別」と心のバリアフリー

(6)環境福祉住宅が実現する
 ◇賃貸/ローンからの解放 ページ33
 ◇公営住宅供給の充実
 ◇環境と福祉の交差

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(1)子どもたちは社会が育てる
 ◇親中心主義からの脱却 ページ34
 ◇義務保育制
 ◇地域少年団活動

(2)構想力と独創性が重視される
 ◇先入見的イメージ ページ35
 ◇資本主義的知識階級制
 ◇知識資本制から知識共産制へ

(3)大学は廃止・転換される
 ◇知識階級制の牙城・大学 ページ36
 ◇学術研究センター化

(4)遠隔通信教育が原則となる
 ◇学校という名の収容所 ページ37
 ◇脱学校化へ向けて

(5)一貫制義務教育が始まる 
 ◇ふるい落としからすくい取りへ ページ38
 ◇基本七科の概要
 ◇職業導入教育

(6)真の生涯教育が保障される
 ◇人生リセット教育 ページ39
 ◇多目的大学校と専門技能学校
 ◇高度専門職学院
 ◇ライフ・リセット社会へ

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(1)商品崇拝から解放される
 ◇「人間も商品なり」の資本主義 ページ40
 ◇本物・中身勝負の世界へ

(2)誰もが作家・芸術家
 ◇市場の検閲 ページ41
 ◇インターネット・コモンズの予示
 ◇開花する表現の自由

(3)マス・メディアの帝国は解体される
 ◇メディアの多様化 ページ42
 ◇誰もが記者 

(4)競争の文化は衰退する
 ◇資本主義的生存競争 ページ43
 ◇共存本能?
 ◇共産主義的切磋琢磨
 ◇究極の自殺予防策

(5)シンプル・イズ・ザ・ベスト
 ◇シンプルな社会文化 ページ44
 ◇四つのシンプルさ
 ◇人間の顔をした近代

第8章 新しい革命運動 

(1)革命の主体は民衆だ
 ◇革命という政治事業 ページ45
 ◇マルクス主義的模範回答
 ◇困難な「プロレタリア革命」
 ◇「プロレタリア革命」の脱構築 ページ46
 ◇「搾取」という共通標識
 ◇民衆の革命

(2)共産党とは別様に 
 ◇革命運動体としての民衆会議 ページ47
 ◇革命前民衆会議の概要
 ◇自主福祉活動
 ◇政党化の禁欲
 ◇赤と緑の融合

(3)革命にはもう一つの方法がある
 ◇革命の方法論 ページ48
 ◇民衆蜂起
 ◇集団棄権

(4)まずは意識革命から
 ◇「幸福感」の錯覚 ページ49
 ◇「老人革命」の可能性
 ◇文化的革命戦略
 ◇有機的文化人

第9章 非暴力革命のプロセス

(1)革命のタイミングを計る
 ◇社会的苦痛の持続 ページ50
 ◇晩期資本主義の時代
 ◇世界民衆会議の結成

(2)対抗権力状況を作り出す
◇未然革命 ページ51
◇集団棄権の実行
◇政治的権利としての「棄権」
◇対抗権力状況の開始

(3)革命体制を樹立する
 ◇対抗権力状況の解除 ページ52
 ◇移行期集中制
 ◇「プロレタリアート独裁」との違い

(4)移行期の工程を進める
 ◇移行期工程の準備 ページ53
 ◇初期憲章(憲法)の起草
 ◇共和制の樹立
 ◇革命防衛
 ◇土地革命
 ◇基幹産業の統合
 ◇農業の再編
 ◇経済移行演習
 ◇移行期行政
 ◇軍廃計画の推進
 ◇司法革命
 ◇初期憲章の施行

(5)共産主義社会が始まる
 ◇最初期共産主義 ページ54
 ◇通貨制度の廃止
 ◇計画経済の始動
 ◇社会革命の進行
 ◇全土民衆会議の発足
 ◇政府機構の廃止
 ◇軍廃計画の実行
 ◇完成憲法の制定
 ◇成熟期共産主義から高度共産主義へ

第10章 世界共同体へ

(1)「ドミノ革命」を起こす
 ◇マルクスとエンゲルスの大言壮語 ページ55
 ◇革命の地政学

(2)地球共産化を実現する
 ◇世界共同体の創設 ページ56
 ◇世界共同体の基本構制
 ◇グローバル計画経済
 ◇共産主義の普遍性

(3)国際連合を脱構築する
 ◇国連という人類史的経験 ページ57
 ◇人類共同体化
 ◇五汎域圏
 ◇世界公用語の論議
 ◇南半球重視の運営
 ◇非官僚制的運営
 ◇経済統合機能の促進
 ◇人権保障部門の強化
 ◇地球観測体制の整備
 ◇地球規模での戦争放棄

(4)恒久平和が確立される
 ◇常備軍の廃止 ページ58
 ◇司法的解決と紛争調停/平和工作
 ◇軍需経済からの決別

あとがき ページ59

2018年4月30日 (月)

アフリカ黒人の軌跡(連載第23回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

コンゴとンドンゴ
 アフリカ黒人はイスラーム勢力によって奴隷化され、北アフリカ・中東地域からインドにも送り込まれてきたが、より組織的かつ大洋をまたぐ遠距離の人口移送が展開されるようになるのは、西欧列強主導の大西洋奴隷貿易が開始されてからのことである。
 奴隷貿易のシステムにおいては、アフリカの地元国家が奴隷狩りによって奴隷を集めて奴隷商人に売却することが慣習化されていたが、そのシステムは大西洋奴隷貿易ではよりいっそう露骨に現れていた。黒人奴隷の積み出し窓口となったことから「奴隷海岸」と称されるようになったアフリカ西海岸沿いの諸国はほとんどがそうした奴隷貿易国家として台頭し、かつそのために衰亡する運命をたどった。
 大西洋奴隷貿易の初期において奴隷貿易国家として台頭したのは、アフリカ中部大西洋岸に位置したコンゴ王国である。コンゴ王国が発祥したコンゴ河流域は熱帯雨林地帯であり、紀元前5000年紀から狩猟採集文化が発達した。その担い手民族は不詳だが、バントゥー人大移動で移住してきたバントゥー系民族が鉄器と農耕をもたらすことで、最初の文化的発展の土台が築かれたと推定される。
 この流域の民族は稠密な交易ネットワークでつながったバントゥー系で統一されていったが、政治的な王国形成はやや遅れ、14世紀末にルケニ・ルア・ニミなる人物が初めて王国を建設した。以来マニコンゴと称される王が統治した。
 コンゴ王国は大航海時代のポルトガルといち早く通商関係を持ち、キリスト教も受け入れた。15世紀末のンジンガ・ンクウ王が洗礼を受けてポルトガル風にジョアン1世を名乗って以来、ポルトガル化が進む。
 ジョアン1世の息子ンジンガ・ムベンバ=アフォンソ1世が16世紀前半期、長期治世で王国の全盛期を築いたが、その財源は主に奴隷輸出で得ていた。しかし、沖合いのサントメ島に拠点を置く奴隷商人の横暴を統制できず、奴隷貿易の規制に失敗したアフォンソ1世の死後、コンゴは衰退し、ポルトガルの属国として名目的な存在に落ちる。
 落ち目のコンゴに代わって南隣のコンゴ属国だったンドンゴが16世紀後半頃台頭し、奴隷貿易国家としての座を争い、実質的な独立を勝ち取る。しかし、その代償としてポルトガルによる植民地化が進んだ。ンドンゴはポルトガル支配に抵抗を試みるが、最終的に1671年に征服された。

2018年4月26日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第7回)

7 アンドリュー・ジャクソン(1767年‐1845年)

 アンドリュー・ジャクソンの名はこれまでにも数回登場しているが、それは先住民虐殺を指揮した冷酷な軍人としてであった。彼は大統領就任前から黒書に記すべき黒歴史を持つ人物である。その代表的なものは、クリーク族とセミノール族への民族浄化作戦であった。
 ジャクソンは職業軍人ではないが、13歳で大陸軍に義勇参加し、独立戦争の従軍経験を持つ人物としては最後の大統領となった。先住民虐殺作戦を指揮した頃は、当時ジャクソンが弁護士兼奴隷プランテーション経営者として移り住んでいた辺境地テネシーの民兵隊(州軍)に参加していた。
 このようにジャクソンはテネシーを地盤に対先住民強硬派として台頭し、大統領候補指名を獲得した点で、それまでの歴代大統領とはかなり異なる履歴を持っていた。出自的にも、父の代に移住してきた北アイルランド移民の子であり、古くからアメリカに土着した裕福な「名門」ではないため、十分な高等教育を受けておらず、様々な職を遍歴している。
 そのため、彼は二度目の出馬となった1828年の大統領選では「庶民」の代表者を標榜し、東部名門エリート出自の現職アダムズに挑んだのである。この選挙は、アダムズの項でも触れたように、史上初の汚いネガティブキャンペーンが展開されたが、その勝者は「戦争の英雄」イメージを売り込んだジャクソンであった。
 「ジャクソニアン・デモクラシー」の標語で知られるジャクソン大統領の政権運営は正式な閣議によらず、「キッチン・キャビネット」と揶揄された内輪的な外部の識者の非公式会合によることが多かった。そうした内輪のジャーナリストには、政権賛美の提灯記事を書かせて世論操作を行なった。
 こうした内輪重視の政権運営は、政府の官僚も大統領支持者からの自薦他薦による政治任命とする猟官制の導入へとつながった。政府官僚を短期間で入れ替えるこの制度は汚職防止に資するという触れ込みだったが、実際は大統領中心の権威主義的な政権運営の道具であった。
 ジャクソンは「庶民」の味方を標榜したが、この「庶民」とは彼のような白人開拓者を意味しており、先住民は明白に敵であった。ジャクソンの最も悪名高い政策として、先住民の集団強制移住がある。これは「インディアン移住法」を通じて先住民を不毛な西部の保留地へ囲い込む政策である。
 こうした強硬姿勢の裏には、「奴ら(先住民)には知性も勤勉さも道義的習慣さえない。奴らには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしない奴らが環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。」という演説に象徴される確信的な白人優越思想があった。
 奴隷制に関しても、自身多数の黒人奴隷を所有する農園経営者でもあり、奴隷制廃止論者を嫌悪していた。もっとも、奴隷制擁護のようなイデオロギー的な問題に関しては、ジャクソン政権で最初の副大統領を務めた保守理論派のジョン・カルフーンに委ねられた部分が大きかった。
 ジャクソンは連邦に対して州の権限を尊重する州権主義者であり、その観点からマディソン政権下で創設されていた中央銀行(第二次合衆国銀行)の免許更新を認める法案に拒否権を発動した。その結果、金融政策の司令塔を失い、乱立された州銀行の多くが経営難となり、二期目任期末年の1837年恐慌とその後の長期不況の要因を作った。
 ジャクソンは中央銀行は庶民の利益にならないとも主張していたが、庶民の味方ジャクソンが1835年、失業した塗装工の男に銃撃され、史上初の大統領暗殺未遂に遭ったのは皮肉なことであった。ちなみにこの時、ジャクソンは群衆の面前で、取り押さえられた犯人をステッキで殴打したと伝えられるが、これも彼らしい「庶民的」な演出であったのだろう。
 名門エリートに対抗して「庶民」を強調する「ジャクソニアン・デモクラシー」の実態とは、選挙権(白人男性選挙権)の拡大を背景に大衆煽動と世論操作を手法とする白人ポピュリズムの先駆とも言え、これは遠く21世紀の現職トランプ政権の性格に最も酷似しているように思われる。

2018年4月18日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第16回)

五 天下人神道

東照宮と江戸幕府
 天下人を神格化する天下人神道の集大成は、徳川家康によって行なわれた。彼は臨終前の遺言で、実に事細かに神格化の手順を指示している。それはまず本拠駿府の久能山に遺体を安置したうえ、一周忌を終えた後、日光山と京都金地院に小堂を設置して拝礼させよというものであった。
 この遺命に従い、幕府は指定された三箇所に東照社を建立したのであるが、「東照」の名は家康が没後、朝廷から授与された「東照大権現」の神号に由来している。さらに、没後30年近く経過した1645年の宮号授与をもって「東照宮」と称されるようになる。
 家康がこのように詳細な遺言で自己の神格化を図ったのは、実質一代限りで終わった豊臣政権の轍を踏まず、徳川支配を恒久化するうえで支配に宗教的な権威付けを与えようとする狙いからであったのだろう。
 遺命に基づく三つの東照社のうち、久能山東照社は家康埋葬地として東照宮総社の位置づけにあり、その余は「小堂」にとどまったはずのところ、孫の3代将軍家光が江戸に最も近い日光東照社を豪勢に大改築したことから、以後は日光東照社が事実上の東照社総社的な存在となった。
 家光が日光東照社の大改築を通じて祖父家康の権威付けを改めて強化したのは、人々の記憶が薄れかけていた祖父の威光を再活性化することにより、「鎖国」という新たな段階を迎えた徳川支配体制の引き締めを図る狙いがあったと考えられる。
 家光は配下の諸大名に対しても東照社の造営を勧奨したため、徳川‐松平一門はもちろん、譜代大名や外様大名の間でもこぞって東照社の建立が流行し、今日では廃絶したものを含めれば最大でおよそ700の東照社が全国に建立されたと言われる。
 こうして江戸幕府の宗教的権威付けの支柱となった言わば「東照神道」は教義上、家康の側近でもあった天台宗僧侶・天海が提唱した山王一実神道と呼ばれる神道流派に属している。その根底にあるのは、比叡山に発祥した一種の山岳信仰である山王権現を釈迦の化身とみなす神仏習合流派であった。
 とはいえ、その最大の趣意は家康の神格化にあったから、神道としては内容空疎な、まさに政治の産物であった。実際、もう一人の家康側近であった臨済宗僧侶・以心崇伝は反習合的な吉田神道での祭祀を主張していたが、家康の遺言を盾に取った天海との論争に敗れ、山王神道での祭祀となったという経緯がある。
 ただ、崇伝が住した金地院は室町幕府4代将軍足利義持によって建立されたと伝えられる臨済宗寺院で、家康遺命による東照宮を擁し、それ自体も神仏習合を内包しつつ、全国の五山十刹以下全住職の任命権を掌握する僧録司が置かれた徳川体制における仏教統制機関に発展したのである。

2018年4月14日 (土)

仮想通貨の深層

 広い意味でのキャッシュレス化の歴史を大きく見ると、クレジット化に始まり、電子マネーから仮想通貨へと進んできている。この過程というのは、その順番で貨幣経済が高度化していく過程でもある。
 クレジット段階では与信による後払いという形で貨幣を交換し合う形がなお残されている。電子マネーは真の意味のマネーではなく、商品券に近いが、貨幣を交換し合う決裁過程が電子化される点では、貨幣というモノを交換し合う過程が抽象化されている。
 最後の仮想通貨は、「通貨」として国の信用が裏づけされていない限りではまだ電子商品券の域を出ていないとも言えるが、今後取引社会の慣習として定着するにつれ、電子化されたマネー―真の意味での電子マネー―となる可能性があり、国際的には現実にそうなりつつある。
 ここに至ると、もはや硬貨なり紙幣なりの貨幣というモノを直接やり取りするという物々交換の痕跡を残した過程は全く抜け落ち、電子化された抽象的な交換価値だけがやり取りされることになる。
 それは貨幣経済の究極的な姿とも言える。貨幣経済が高度化すると、貨幣という目に見えるモノが消失してしまうという逆説的事態である。
 しかし、それによって貨幣経済そのものが消失するわけではなく、目に見えない交換価値そのものが貨幣経済の化け物として経済を支配するようになるというホラー的世界が待っているのである。

2018年4月11日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第22回)

四 内陸アフリカの多様性

ダルフール首長国の盛衰
 「フール人の祖国」を意味するダルフール王国は、かつてサハラ交易圏の中央サハラ方面を超域的に支配したカネム‐ボルヌ帝国に従属していたが、16世紀末に独立王国を建設した。その担い手であるフール人は元来は南部アフリカからスーダン西部に移住、農耕民として定着したナイル‐サハラ語族系民族集団である。
 しかし、ダルフール首長国の由来はやや複雑である。ダルフール首長国の建国前、この地にはアラブ系またはナイロート系とも見られるツンジュル王国が存在していた。しかし、ツンジュル族は少数派であり、王は次第に多数派フール族と通婚し、フール化していった。
 16世紀に現れたツンジュルの王スルタン・ダリは母方からフール族の血を引く人物で、独自の法典を定めるなどダルフール王国化の基礎固めをした。そして実質的なダルフール首長国建国者と目されているのが、彼の曾孫に当たるスレイマン・ソロンである 
 スレイマンはツンジュル王国を解体し、数十回に及ぶ遠征を通じてダルフールの領土を拡張した。その領域は南のナイロート系センナール首長国を侵食するに至った。こうした遠征・領土拡張は奴隷狩りを兼ねており、スレイマンは武器や軍馬と奴隷のバーター取引を積極的に行い、軍備増強を進めていった。
 スレイマンはイスラーム教徒であり、ダルフール首長国をイスラーム国とする上でも創始者であったが、イスラームが正式に国教となったのは、彼の孫アフメド・バクルの時代と見られる。彼は領土の面でもナイル河東岸方面まで拡張し、ダルフールを多民族帝国に完成させた。
 しかし、彼の死後、息子たちの間で王位継承争いが起き、18世紀には60年近い内戦期に入り、帝国は衰退していく。18世紀末の内戦終結後、何人かのスルターンの下で中興が図られるが、最終的に1875年、オスマントルコ宗主下エジプトのムハンマド・アリー朝によって滅ぼされ、エジプトの支配に下った。
 ところで、ダルフールには13世紀以降にアラビア半島からダルフールに移住してきたアラブ系遊牧民集団バッガーラも割拠した。かれらは半独立状態を保ち、水や牧草地の権利をめぐってフール族とは緊張関係にあり、19世紀前半には時のスルターン、モハメド‐エル‐ファドルがバッガーラを攻め、数千人を虐殺した。
 このフール族とバッガーラの対立は、遠く21世紀になって今度はアラブ系政府軍に支援されたバッガーラによるフール族をはじめとする非アラブ系住民の虐殺という逆転した形を取って、より大規模な人道危機として発現することになる。

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