2018年4月18日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第16回)

五 天下人神道

東照宮と江戸幕府
 天下人を神格化する天下人神道の集大成は、徳川家康によって行なわれた。彼は臨終前の遺言で、実に事細かに神格化の手順を指示している。それはまず本拠駿府の久能山に遺体を安置したうえ、一周忌を終えた後、日光山と京都金地院に小堂を設置して拝礼させよというものであった。
 この遺命に従い、幕府は指定された三箇所に東照社を建立したのであるが、「東照」の名は家康が没後、朝廷から授与された「東照大権現」の神号に由来している。さらに、没後30年近く経過した1645年の宮号授与をもって「東照宮」と称されるようになる。
 家康がこのように詳細な遺言で自己の神格化を図ったのは、実質一代限りで終わった豊臣政権の轍を踏まず、徳川支配を恒久化するうえで支配に宗教的な権威付けを与えようとする狙いからであったのだろう。
 遺命に基づく三つの東照社のうち、久能山東照社は家康埋葬地として東照宮総社の位置づけにあり、その余は「小堂」にとどまったはずのところ、孫の3代将軍家光が江戸に最も近い日光東照社を豪勢に大改築したことから、以後は日光東照社が事実上の東照社総社的な存在となった。
 家光が日光東照社の大改築を通じて祖父家康の権威付けを改めて強化したのは、人々の記憶が薄れかけていた祖父の威光を再活性化することにより、「鎖国」という新たな段階を迎えた徳川支配体制の引き締めを図る狙いがあったと考えられる。
 家光は配下の諸大名に対しても東照社の造営を勧奨したため、徳川‐松平一門はもちろん、譜代大名や外様大名の間でもこぞって東照社の建立が流行し、今日では廃絶したものを含めれば最大でおよそ700の東照社が全国に建立されたと言われる。
 こうして江戸幕府の宗教的権威付けの支柱となった言わば「東照神道」は教義上、家康の側近でもあった天台宗僧侶・天海が提唱した山王一実神道と呼ばれる神道流派に属している。その根底にあるのは、比叡山に発祥した一種の山岳信仰である山王権現を釈迦の化身とみなす神仏習合流派であった。
 とはいえ、その最大の趣意は家康の神格化にあったから、神道としては内容空疎な、まさに政治の産物であった。実際、もう一人の家康側近であった臨済宗僧侶・以心崇伝は反習合的な吉田神道での祭祀を主張していたが、家康の遺言を盾に取った天海との論争に敗れ、山王神道での祭祀となったという経緯がある。
 ただ、崇伝が住した金地院は室町幕府4代将軍足利義持によって建立されたと伝えられる臨済宗寺院で、家康遺命による東照宮を擁し、それ自体も神仏習合を内包しつつ、全国の五山十刹以下全住職の任命権を掌握する僧録司が置かれた徳川体制における仏教統制機関に発展したのである。

2018年4月14日 (土)

仮想通貨の深層

 広い意味でのキャッシュレス化の歴史を大きく見ると、クレジット化に始まり、電子マネーから仮想通貨へと進んできている。この過程というのは、その順番で貨幣経済が高度化していく過程でもある。
 クレジット段階では与信による後払いという形で貨幣を交換し合う形がなお残されている。電子マネーは真の意味のマネーではなく、商品券に近いが、貨幣を交換し合う決裁過程が電子化される点では、貨幣というモノを交換し合う過程が抽象化されている。
 最後の仮想通貨は、「通貨」として国の信用が裏づけされていない限りではまだ電子商品券の域を出ていないとも言えるが、今後取引社会の慣習として定着するにつれ、電子化されたマネー―真の意味での電子マネー―となる可能性があり、国際的には現実にそうなりつつある。
 ここに至ると、もはや硬貨なり紙幣なりの貨幣というモノを直接やり取りするという物々交換の痕跡を残した過程は全く抜け落ち、電子化された抽象的な交換価値だけがやり取りされることになる。
 それは貨幣経済の究極的な姿とも言える。貨幣経済が高度化すると、貨幣という目に見えるモノが消失してしまうという逆説的事態である。
 しかし、それによって貨幣経済そのものが消失するわけではなく、目に見えない交換価値そのものが貨幣経済の化け物として経済を支配するようになるというホラー的世界が待っているのである。

2018年4月11日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第22回)

四 内陸アフリカの多様性

ダルフール首長国の盛衰
 「フール人の祖国」を意味するダルフール王国は、かつてサハラ交易圏の中央サハラ方面を超域的に支配したカネム‐ボルヌ帝国に従属していたが、16世紀末に独立王国を建設した。その担い手であるフール人は元来は南部アフリカからスーダン西部に移住、農耕民として定着したナイル‐サハラ語族系民族集団である。
 しかし、ダルフール首長国の由来はやや複雑である。ダルフール首長国の建国前、この地にはアラブ系またはナイロート系とも見られるツンジュル王国が存在していた。しかし、ツンジュル族は少数派であり、王は次第に多数派フール族と通婚し、フール化していった。
 16世紀に現れたツンジュルの王スルタン・ダリは母方からフール族の血を引く人物で、独自の法典を定めるなどダルフール王国化の基礎固めをした。そして実質的なダルフール首長国建国者と目されているのが、彼の曾孫に当たるスレイマン・ソロンである 
 スレイマンはツンジュル王国を解体し、数十回に及ぶ遠征を通じてダルフールの領土を拡張した。その領域は南のナイロート系センナール首長国を侵食するに至った。こうした遠征・領土拡張は奴隷狩りを兼ねており、スレイマンは武器や軍馬と奴隷のバーター取引を積極的に行い、軍備増強を進めていった。
 スレイマンはイスラーム教徒であり、ダルフール首長国をイスラーム国とする上でも創始者であったが、イスラームが正式に国教となったのは、彼の孫アフメド・バクルの時代と見られる。彼は領土の面でもナイル河東岸方面まで拡張し、ダルフールを多民族帝国に完成させた。
 しかし、彼の死後、息子たちの間で王位継承争いが起き、18世紀には60年近い内戦期に入り、帝国は衰退していく。18世紀末の内戦終結後、何人かのスルターンの下で中興が図られるが、最終的に1875年、オスマントルコ宗主下エジプトのムハンマド・アリー朝によって滅ぼされ、エジプトの支配に下った。
 ところで、ダルフールには13世紀以降にアラビア半島からダルフールに移住してきたアラブ系遊牧民集団バッガーラも割拠した。かれらは半独立状態を保ち、水や牧草地の権利をめぐってフール族とは緊張関係にあり、19世紀前半には時のスルターン、モハメド‐エル‐ファドルがバッガーラを攻め、数千人を虐殺した。
 このフール族とバッガーラの対立は、遠く21世紀になって今度はアラブ系政府軍に支援されたバッガーラによるフール族をはじめとする非アラブ系住民の虐殺という逆転した形を取って、より大規模な人道危機として発現することになる。

2018年4月 5日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第6回)

6 ジョン・クインジー・アダムズ(1767年‐1848年)

 第6代大統領ジョン・クインジー・アダムズは第2代ジョン・アダムズ大統領の子息であり、政治職の世襲を認めない米国にあって、現時点で二組しかない父子二代大統領のうち、最初の例に当たる。同時に、いわゆる「建国の父」の子女世代からの初の大統領という初記録に覆われた人物である。
 恵まれた政治一族の生まれにふさわしく、クインジーはヨーロッパでエリート教育を受け、多言語を身につけたうえ、帰国後はハーバード大学を卒業して弁護士となった。今日でも米国の政治家登竜門として有力なコースを歩んでいる。
 彼の政治歴は若干26歳の時、初代ワシントン大統領からオランダ担当閣僚に任命された時に始まっている。その後も父アダムズ政権を含む複数の政権でロシア担当閣僚や英国大使などを務め、外交で活躍した国際派であり、一代前のモンロー政権では二期にわたり国務長官を務め、モンロー主義外交の実務を担当した。
 クインジーは、こうした外交の実績を引っさげて1824年大統領選挙で勝利したのであった。しかし、大統領としてのクインジーの事績は芳しいものとはならなかった。前任モンロー大統領の下では民主共和党の実質的な一党政となり、「好感情の時代」と称される安定した政局であったが、24年大統領選がこの平穏を破ったからである。
 民主共和党がクインジーを支持する連邦主義的なグループと彼の対抗馬であった強硬派アンドリュー・ジャクソンを支持する州権主義的なグループに分裂し、クインジー派が国民共和党を名乗って分離したのである。その結果、クインジーの政権ではジャクソン派からの議事妨害が激化し、重要法案が通らないなど「呪われた政権」とまで称された。
 この対立はクインジーが再選を目指した28年大統領選に持ち越され、その後の米大統領選の宿痾となるネガティブ・キャンペーンが展開された。勝利したのは、かのジャクソンだった。結局、クインジーは父と同様に一期で大統領の座を去ることになった。
 この史上初のネガティブ・キャンペーン選挙で特に中傷されたのは、クインジーの先住民政策であった。クインジーはジャクソンのように武力により先住民から土地を奪うのではなく、条約に基づいて土地を購入するという穏健な方法を主張し、すでに白人が侵奪した土地についても再交渉しようとしていた。これが手ぬるいとして攻撃されたのだった。
 こうした施策からも見えるとおり、クインジーには良識的な一面があり、そのことは彼の奴隷制廃止論にも現れている。またしても史上初めて、かつ唯一、大統領退任後に改めて下院議員に転じたクインジーは、議会における奴隷制廃止派の代表格として南部の奴隷所有者層に対抗したのである。
 テキサス州を獲得した米墨戦争を南部奴隷州拡大の企てとして批判した彼は、いずれ米国が奴隷制をめぐって分裂し、内戦となることを予見していた。そうした点では、後のリンカーン大統領の予言者とも言える人物であった。
 クインジーは有能な外交家であり、「黒書」に含めるには惜しい良識と信念の人であったと思われるが、むしろそれゆえに、白人の「自由の帝国」を志向して対内的にも対外的にも膨張を続けていた合衆国民の野心と相容れず、大統領としては失敗者に終わったのだろう。

2018年3月31日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第15回)

五 天下人神道

豊臣秀吉と豊国神社
 天下人を神格して祀る「天下人神道」が本格的に創始されるのは、戦国時代以後である。戦国の天下人たちはそれ以前の源氏に象徴される皇族由来の「由緒」ある武家ではなく、出自も不確かな下克上大名から出ているため、それぞれ家系を仮冒するばかりでは飽き足らず、自らを神格化して祭祀の対象とさせることを欲した。
 戦国天下人の先駆者となった織田信長は時に唯物論者・無神論者と評されることもあるが、八幡神を祀る石清水八幡宮の修復や長く途絶していた伊勢神宮式年遷宮の復活など、伝統的な神道復興に少なからず関心を示している。
 一方で、イエズス会宣教師ルイス・フロイスに対し「自分自身が神である」であると語り、安土城内に「梵山」と称する大石を安置して信長の御神体として家臣や領民に礼拝を求めたと言われ、自己神格化と見られる行動をも示している。
 彼が謀反を乗り切って存命していれば、信長を主祭神とする神社を自ら建立した可能性もなくはないが、周知のとおり天下統一の夢は道半ばで挫折したため、「信長神社」は残らなかった。ただ、明治初頭になって織田氏子孫が治めた旧天童藩が先祖信長を顕彰するため、京都の船岡山に信長を祀る建勲神社(たけいさおじんじゃ)を建立したが、これは近代の追善的な宗教施設にすぎない。
 信長を継いだ豊臣秀吉は、信長より自己神格化に積極的であった。秀吉は死に際して自身を「新八幡神」として祭祀するよう遺言したとされる。源氏とは程遠い低い出自の秀吉が自己を源氏氏神の八幡神になぞらえようとしたのは、源氏と同格たらんとする彼なりの強烈な上昇志向の表れだったのだろう。
 ところが、朝廷は秀吉の遺志に反して「豊国乃大明神」の神号を授与した。この新たな神号は「兵威を異域に振るう武神」を含意すると宣示され(朝鮮侵略を示唆)、結局、秀吉神社は「豊国神社」として、京都東山に建立された。遷宮は吉田神道を主宰する吉田家によって執り行なわれ、社務職・社僧とも吉田家が独占するなど、当時の神道界の領袖たる吉田家との関わりが深かった。
 しかし、天下人神道の悲哀は、天下人が交代すれば排除されることである。1615年に新たな天下人徳川家康によって豊臣氏が滅亡に追い込まれるや、秀吉は神号剥奪、豊国神社も容赦なく廃絶されるのである。その再興は、明治維新後、秀吉の「皇威を海外に宣べ(た)」功績(これも朝鮮侵略を示唆)を再評価した明治天皇の沙汰によってなされたのである。

2018年3月29日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第21回)

四 内陸アフリカの多様性

マサイ勢力圏の形成と後退
 ナイロート系諸族の中でも、独自の生活様式を固守してきたのがマサイ族である。マサイ族自身の口伝によれば、かれらは元来トゥルカナ湖北方の低地ナイル谷付近に発祥したが、15世紀以降に南下を開始し、18世紀頃までに現住地であるケニア、タンザニア内陸部に定着した。
 その過程で先住民を征服・吸収していったと見られるが、その証拠はかれらのY-DNAにおいて、非黒人のソマリ族などと共通するハプログループE1b1bが最も高頻度に確認され、ナイロート系のハプログループA3b2は次順位にとどまることにも現れている。この結果は、南下してきたナイロート系征服者の数が決して多くなかったことを示唆する。
 少数集団が征服者となり得た秘訣は、強靭な身体を生かした戦闘力の高さにあったと見られる。実際、マサイ族の男性にとって最も重要な任務は戦士としてのそれであり、適齢男性全員がモランと呼ばれる訓練された戦士となり得る体制にある。こうした戦闘集団としての強さのゆえに、マサイ族は国家を形成せず、原初的な部族共同体を維持しながら、19世紀には大地溝帯のほぼ全域に及ぶ勢力圏を築いた。
 また奴隷化されることなく、民族的独立を維持し得たのも、マサイ族の戦闘能力を恐れた奴隷商人たちが奴隷狩りの対象としなかったがためであった。マサイ族自身、東アフリカのバントゥー系諸族のように自ら奴隷商人化して奴隷貿易に手を貸すようなこともなかった。
 前近代のアフリカ大陸において、奴隷化されず、かつ奴隷貿易に手を貸さずして独立した勢力圏を維持したマサイ族の存在は極めて稀有であった。こうした安定したマサイ勢力圏で、かれらはナイロート諸族のシンボルとも言える家産の牛の放牧を中心とする遊牧生活様式を固守していた。
 しかし19世紀末、おそらく外部から持ち込まれた牛肺疫や牛疫の蔓延による牛の大量死という災害で打撃を受けたことに続き、20世紀初頭には英国との二次の不平等条約によってマサイ族の土地は削減され、植民地主義が拡大する中、マサイ勢力圏は後退を余儀なくされていく。 

2018年3月26日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第5回)

5 ジェームズ・モンロー(1758年‐1831年)

 外交史における「モンロー主義」で記憶されている第5代大統領ジェームズ・モンローは、独立宣言に署名した「建国の父」以外から出た最初の大統領である。実際のところ、モンローは独立戦争に従軍し、独立前の植民地代表機関・大陸会議(連合会議)の代議員を歴任しているため、米国史上はモンローも「建国の父」に含めることが多い。そう見れば、モンローは「建国の父」世代最後の大統領とも言える。
 事実、彼もまた前任者たちと同様、バージニア州出身であるが、生家はつましい中流農園だった。そのため、彼の夢は実家を越える大農園主になることであったが、その夢は早くに諦め、政治の道に入った。その際、実家の農園を売却していたが、別に奴隷付きの小農園を保有し、奴隷を酷使していた。
 彼を有名にしたのは、最初に述べたように、合衆国外交の基本方針となった「モンロー主義」であった。この原則は南北アメリカに対する西欧列強の植民地化を以後認めず、西欧列強による新大陸干渉に反対するという南北アメリカ大陸全域での「独立宣言」にほかならない。
 これにより、中南米各国の独立が促進され、今日につながるラテンアメリカの地政学的勢力図が形成されたので、モンロー主義は歴史を大きく変える意義を持ったと評価される。しかし、この政策の裏には、若く不安定な諸国の多いラテンアメリカを合衆国の「裏庭」として自己の勢力圏内に収めようという帝国主義的狙いがあった。
 その一方で、モンローは合衆国内での白人開拓地を拡大すべく、先住民排除政策を推進した。その際、モンローは絶滅、強制移住、同化の三つを巧みに使い分けようとした。絶滅に関しては、一期目初年の1817年に発動したフロリダのセミノール族虐殺作戦がある。この作戦で司令官として派遣され名を上げたのが、後に大統領となるアンドリュー・ジャクソンであった。
 強制移住に関しては、二期目任期末年の1825年に議会を動かして強制移住法案を上程させたが、これは任期中に実現せず、後にジャクソン政権下で本格的に始動した。先住民を狩猟民から農耕民に転換させるという同化に関しては、先住民の文化的抵抗もあり、容易に実現しなかった。
 モンロー主義の他に彼の名を歴史に残したのは、アフリカのリベリアの首都モンロビアである。大西洋をまたいだ遠くアフリカの地に彼の名が刻まれたのは、モンローがリベリアへの奴隷帰還政策の強力な支持者として、任期中にもこれを推進したからである。
 モンローは大統領就任前、バージニア州知事在任中にたびたび奴隷の反乱事件に遭遇し、特に1800年には反乱グループによるモンロー知事誘拐計画が発覚したが、彼はこうした反乱事件には徹底した鎮圧策で応じていた。彼は奴隷制度を悪と認識していたが、それを英国のせいにし、奴隷制度廃止論を打ち出す代わりにアフリカ帰還という追い出し策を支持したのである。
 モンローは公然とレイシストの信条を口にするほど無神経な人間ではなかったけれども、国務長官時代にユダヤ系外交官を解雇したことがあり、反ユダヤ主義者でもあったと見られる。
 モンローの「名言」として知られる「この大地は、最大多数の人類を養うために与えられたのであり、特定の民族や国民は、自らの生活と安らぎに必要な分以上に、他者が欲するものを差し控えさせる権利を持たない。」という言葉も、表面上は英米で普及していた功利主義哲学の表現であるが、彼にとっての「最大多数」とは自らを含む白人を指していたことは明白である。

2018年3月17日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第14回)

五 天下人神道

武家の八幡神信仰
 武家社会になると、天下を目指す武家が積極的に氏神を奉じ、家運と戦勝祈願の対象とするようになり、ついには自身を神格化した宗教施設の築造に及ぶ者まで現れた。こうした天下人―その志望者も含め―が奉じる神道は、当然にも強い政治性を帯びたが、この新たな神道のあり方を「天下人神道」と呼ぶことができる。
 その嚆矢をなしたのは、源氏による八幡神信仰であった。八幡神とは、応神天皇を神格化したもので、本来は平安時代以降、皇室が天照大神に次ぐ第二の皇祖神と位置づけて崇敬の対象としてきたものであった。それは、応神天皇こそが天皇王朝の実質的な始祖と言うべき存在だったからにほかならない。
 実は源氏台頭以前、平安時代中期の関東で大反乱を起こした平将門が天皇を凌駕せんとして「新皇」を称したとき、「八幡大菩薩」の神勅によりその地位を授与されたと主張したことがある。この「八幡大菩薩」とは八幡神と仏教の菩薩とが習合されたもので、元来は聖武天皇の血統が途絶え、桓武天皇が即位した時、天災が相次いだため、聖武天皇の霊の祟りを鎮めるためとして、八幡神が出家して菩薩となったとの想定で八幡神に授与された称号であった。
 将門がこれを持ち出したのは、自身が天皇王朝を凌駕しようとする野望を正当化するためであったろうが、興味深いことに、将門の乱を鎮圧する朝廷側も石清水八幡宮で調伏祈願を行なっているのである。このように八幡神が軍神的なシンボルとなったことで、武家の間で急速に信仰が広まったと見られる。
 なかでも清和天皇を始祖とする賜姓皇族である清和源氏は八幡神を氏神として明確に位置づけて全国に勧請するのであるが、その嚆矢は清和源氏中で最も繁栄した河内源氏二代目棟梁の源頼義であった。彼は前九年の役で勝利した後、河内の私邸に壺井神社を創建して八幡神を勧請、これを総氏神としたのである。
 これは以後、一族によって篤く継承され、やがて頼義の子孫である頼朝が鎌倉幕府を開いた際、八幡神を新たな「首都」となった鎌倉に勧請して、有名な鶴岡八幡宮を開いたのであった。その結果、鶴岡八幡宮は幕府及び鎌倉武士全体の守護神としての政治的権威をも帯びることとなった。
 もっとも、頼朝は自身を神格化して祀るほど自惚れてはいなかったようであるが、関東を中心とした東日本には頼朝を主祭神とする白旗神社が散在している。その中核は鶴岡八幡宮摂末社の白旗神社である。その由緒は必ずしも定かでないが、一説には頼朝の妻北条政子が1200年、前年に没した頼朝が朝廷より「白旗大明神」の神号を受けた時に創建したという。
 しかし、白幡神社はあくまでも鶴岡八幡宮に付属する摂末社にすぎず、その他の白旗神社には頼朝の政敵となった義経を祭る例すら混在している状況で、やはり源氏流を称した後の徳川家康を祀る東照宮のような形で個人的な神格化が公式に普及することはなかったのである。

2018年3月13日 (火)

アフリカ黒人の軌跡(連載第20回)

四 内陸アフリカの多様性

ナイロート諸族とセンナール首長国
 内陸アフリカで大きな割合を占める民族集団として、ナイロート民族がある。かれらは、ナイル諸語として包括される言語を共有する集団である。代表的な所属民族としてルオ族、マサイ族、ディンカ族、ヌエル族、シルック族などがある。
 この集団の発祥地は今日の南スーダンに属する白ナイル河流域の大湿地スッド付近と見られ、紀元前3000年紀頃に現れ、牛を重要な物資とする牧畜民としての生活様式を確立していった。
 ナイロート民族中最初に王国を形成したのは、シルック族である。かれらは15世紀末に伝説的な王ニイカングの下に統一され、16世紀までには白ナイル河西岸に強力な王国を形成した。シルック王国は牛の牧畜を基礎に、穀物栽培や白ナイルでの漁業を組み合わせた経済活動を営み繁栄するとともに、白ナイルを航行する軍用カヌーを駆使した強力な水軍を擁した。
 シルック王国最大のライバルは、北で隣接するイスラーム系センナール首長国であった。センナール首長国の支配民族フンジは非ナイロート系であるが、その出自は不詳である。首長国の民族構成はヌビア系、ナイロート系からアラブ系まで含む多民族だったと見られる。
 シルックは17世紀前半、強力な騎兵隊を擁するセンナールに対し、白ナイルの交易ルートをめぐって長期の戦争に入ったが、最終的にセンナールが勝利した。しかし17世紀後半になると、それまでの首長連合的な体制を中央集権化することに成功したシルックが盛り返し、衰退するセンナールを尻目にファショダを首都として繁栄を続けた。
 他方、今日の南スーダンで最大人口を占めるディンカ族はナイロート民族発祥地スッドに長くとどまり、国家を形成しない伝統的な生活様式を維持していたと見られるが、17世紀後半にシルックとセンナールの境界域に進出し強勢化したため、シルックとセンナールは同盟に転じ、これを牽制した。
 しかし、センナールが衰亡した19世紀に入ると、ディンカ族とヌエル族の連合勢力が台頭し、ナイル水系のソバト河を越えて白ナイル流域に支配権を広げると、シルックも19世紀後半に衰亡していくのである。

2018年3月 5日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第4回)

4 ジェームズ・マディソン・ジュニア(1751年‐1836年)

 第4代ジェームズ・マディソン大統領は、アメリカ独立宣言に署名した「建国の父」としては最後の大統領である。彼も前任ジェファーソンと同様にバージニア州出身で、生家は奴隷を所有するタバコ農園主というこの時代のアメリカ支配階級のまさに代表者であった。
 にもかかわらず、彼が歴代大統領の中で比較的好感されているのは、合衆国憲法の主たる起草者であり、なかんずく後から追加された人権宣言に相当する修正10箇条の起草者として名を残したからである。彼は抑制と均衡を旨とする権力分立とともに多数派の専制から個人の権利を擁護するという自由主義政治哲学の主唱者でもあった。
 しかし、マディソンのこうした自由主義の真意は、自身が出自した地主階級の利益の護持という点に隠されていた。実際、彼は将来地主階級が少数派に転落し、弱体化した場合を想定し、憲法は多数者に対抗して少数の富者の私有財産を守るために定立されるべきものと論じていたのである。
 また奴隷制に関しても、南部経済の重要な要素として存続を支持する典型的な南部人であり、前任ジェファーソンのように奴隷制廃止の思想と経済的社会的現実との間で道徳的な葛藤を示すこともなかった。その代わり、彼は大統領就任の前後を通じて、奴隷のアフリカ帰還運動の主唱者となり、大統領退任後の1830年代にはアフリカのリベリア植民地に奴隷を帰還させる役割を担ったアメリカ植民地協会の会長を務めている。
 大統領時代のマディソンはアメリカ史上最初の対外戦争となった米英戦争を指揮したことで記憶されている。米英戦争は表向きはまさに米国と旧宗主国英国との戦争であったが、その裏には先住民戦争という性格も色濃かった。実際、独立以後、白人入植活動の活発化につれ、先住民諸部族の抵抗も激しさを増しており、その先住民勢力を旧宗主国の英国が影で支援しているとみなされていたのだ。
 両国の準備不足もあって、膠着状態のまま3年近く続いたこの戦争の最大の犠牲者は先住民であり、多数の部族が殺戮され、土地を追われた。先住民が排除された土地は、当然にも白人植民者の新たな開拓地となった。
 もっとも、マディソン自身は先住民に対して保護者的な立場で臨み、白人入植者から先住民の土地を守る大統領令も発したが、これに異議を唱え拒否したのが、後に大統領にのし上がる米英戦争の「英雄」アンドリュー・ジャクソンであった。
 米英戦争中、アメリカ経済はインフレと財政赤字に見舞われ、独立以来最悪状況に陥った。マディソンはかねて連邦政府の権限拡大に反対する民主共和党の中心人物であったため、中央銀行の設立にも消極的であったが、戦費調達の必要から、最初の任期中に失効していた中央銀行を復活させた(第二次合衆国銀行)。
 この第二次合衆国銀行はマディソン大統領二期目任期の最終盤に業務を開始し、彼の置き土産となったが、白人の西部開拓を奨励するための無規律な貸付と大量の紙幣発行がインフレを助長し、マディソンの退任後、銀行の強硬な貸付金回収措置は1819年恐慌の引き金を引くことにもなる。
 米英戦争を機とするマディソンの日和見主義は、英軍による首都ワシントン焼き討ちと大統領の一時的な避難という屈辱的体験を経て、強力な連邦軍の保持に反対する持論を撤回し、今日の米軍に通じる強力な連邦軍の保持を支持するようにもなったのである。

«神道と政治―史的総覧(連載第13回)

2018年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30