2012年5月28日 (月)

世界歴史鳥瞰(連載第37回)

第6章 略

三 帝政ロシアの成立と発展

(1)ロシアの自立
 ヨーロッパの巻き返しの動きは北のロシアでも始まった。13世紀以来ロシアを間接支配していたモンゴル系キプチャク・ハーン国は、第4章でも触れたように、早くからイスラーム化していたから、キプチャク・ハーン国に対するキリスト教ロシアの「自立運動」はイスラーム勢力からの一種の「レコンキスタ」と言えなくはない一面を持っていた。
 その中心を担ったのはキプチャク・ハーン国から徴税を請け負って台頭した有力分領のモスクワ公国であった。1462年に即位した大公イヴァン3世は1480年、ハーン国の内紛による分裂に乗じて独立、他の分領も併合して統一国家の体裁を整えた。また彼は先にオスマン帝国によって滅ぼされたビザンツ帝国最後の皇帝の姪を妃に迎え、ビザンツ帝国の継承者をももって任じ、カエサルのロシア語読みであるツァーリ(皇帝)を初めて君号として称した。
 とはいえ、この時代の帝権は封建的な門閥貴族層(ボヤール)によってなお制約されていたため、3世の孫イヴァン4世は大貴族層を粛清する恐怖政治を敷いたことから、「雷帝」の異名で怖れられた。しかし、イヴァン雷帝は強権的手段で中央集権化を推進し、後の帝政ロシアの基礎を築いた。逃亡農奴や部族を離脱した周辺遊牧民など雑多な分子から成るロシア南部の武装自由民コサックを使ってシベリア開拓の先鞭をつけたのも雷帝であった。こうして、モスクワ=ロシアはそれまで東欧の大国であったヤゲウォ朝リトアニア=ポーランド王国(同君連合)に代わって東欧の強国へ浮上していく。
 しかし、雷帝を継いだ息子フョードルは虚弱で、皇后の兄ボリス・ゴドゥノフが実権を握った。間もなくフョードルは世子を残さず死去し、これに先立ってフョードルの弟ドミトリーも不審死を遂げていたため、リューリク朝は断絶した(1598)。そこでゴドゥノフが新帝に推挙されるが、彼はドミトリー謀殺の疑惑を持たれ、政情不安に陥った。
 治世末期、ドミトリー僭称者が引き起こした内乱渦中の1605年、ゴドゥノフ帝は病没する。この偽ドミトリー動乱の背後にはポーランドがあり、ポーランドの軍事介入とモスクワ占領(1610‐12)を招く結果となった。

(2)ロマノフ朝の始まり
 ポーランドの占領に対して有力商人らの呼びかけで組織されたモスクワ解放軍によってポーランド軍が駆逐されると、ゴドゥノフ帝によって排除されていた政敵の大貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフが新帝に推挙され、ここに以後300年余り存続するロマノフ朝が開かれた。
 初代ミハイル時代は商人層も参加する一種の身分制議会であった全国会議が力を持っていたが、二代目アレクセイは帝権の強化を推進したため、全国会議も1649年以降はほとんど開催されなくなった。また、アレクセイはビザンツ帝国滅亡以来独自の教会として発展しつつあったロシア正教会の典礼改革を支持し、保守的な古儀式派を抑圧する一方、帝権による教会統制を強化した。
 対外的には、ポーランドと交戦し、西部領土を回復したほか、西欧化が進んでいたウクライナの併合を通じて西欧文化を摂取し、西欧式軍制の土台も築いた。
 同時に、逃亡農奴の無期限捜索・連れ戻しを許可したことにより、モスクワ公国のイヴァン3世時代から進んでいた農民の農奴化が完成し、ロシア農奴制が確立された。
 こうしてロマノフ朝の基礎はアレクセイの時代に築かれたと言えるが、ロシアが北の大国としてヨーロッパの舞台に登場するにはなお時間を要した。

(3)帝政ロシアへ
 17世紀まではヨーロッパの周縁的な存在であったロシアをヨーロッパの中心に押し込み、キープレーヤーの地位に押し上げたのは、アレクセイの子で、大帝を冠せられるピョートル1世であった。
 二人の異母兄の不安定な治世の後、正式に即位し、野心家の異母姉ソフィアが首謀したとされるクーデター策動を粉砕したピョートルが最初に手がけたのは、来たるべきスウェーデンとの戦争に備えた軍備強化・軍制改革であった。
 この時代のスウェーデンは1523年、デンマーク主導のカルマル同盟からの離脱を指導したグスタフ・ヴァーサが創始したヴァーサ朝の下、30年戦争を勝利に導いたグスタフ・アドルフの手腕により北の大国にのし上がっていた。ロシアが西方へ領土を拡大するには、すでに16世紀末から17世紀初頭にかけて交代して事実上の敗北を喫していたスウェーデンへの再挑戦が避けられなかった。
 その結果、1700年に始まった北方戦争はやはりスウェーデンと敵対するデンマーク、ポーランドを巻き込んで20年余りに及ぶ大戦となった。この大戦は1721年のニースタット条約をもってロシアの勝利に終わり、ロシアはバルト海東岸への進出を果たした。こうして北方におけるスウェーデンとロシアの主役交代こそが、帝政ロシアの成立を画したと言ってよい。
 元老院から正式にインペラートル(皇帝)の称号を得たピョートルは戦争と平行して文物制度の西欧化を推進し、バルト海に面するネヴァ河口に自らの名にちなんで建設した新都ペテルブルグを「西欧への窓」と位置づけた。そのうえで皇帝中心の中央集権体制の確立、とりわけ官僚制の整備とともに税制改正、産業育成にも努めた。
 ここに西のフランスに比せられるロシア型絶対王政とも呼ぶべき強力な君主主権国家体制が立ち現れた。ただ、フランスと異なるのは、ロシア型絶対王政は特有の農奴制を経済的土台としていたことである。これは農奴制を伴う領主支配制の解体の上に君主主権国家が成立したフランスとは異なり、ロシアでは元来西欧的な領主支配制が未発達であった代わりに、地主貴族制が根を張っていた事情による。ある意味からすれば、重農主義に傾斜した絶対王政なのであった。このような帝政ロシアの構制は19世紀後半の農奴解放に至るまで不変であった。
 ピョートル大帝の築いた帝政ロシアは、1725年の彼の没後に生じた一時的な混乱を経て、ともに宮廷クーデターで登位したエリザベータ・ペトローヴナ(ピョートルの娘)と、ピョートルと並び大帝を冠せられるドイツ出身のエカチェリーナ2世(ピョートルの孫ピョートル3世の皇后)という二人の女帝の手によって継承発展せられていく。
 とりわけ、エカチェリーナ2世は領土拡大に寄与し、オスマン帝国と交戦して黒海沿岸を奪い、プロイセン、オーストリアと組んでポーランド分割を断行した。また東方でも特使ラクスマンを鎖国下の日本の根室に派遣して通商を求めるなど硬軟両様の手法で対外的積極策を採った。
 彼女はまた、ほぼ同時期に並び立ったオーストリアのマリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ2世とともに啓蒙専制君主と呼ばれる新しい君主類型を作った一人であるが、農奴制についてはドン・コサックのプガチョフが指導する大農民反乱(1773‐75)を機にかえってこれを拡大・強化する反啓蒙的な反動政策を断行した。
 なお、エカチェリーナ2世の没後即位した息子のパーヴェルは女子の皇位継承を禁ずる法律を制定したため、ピョートル大帝の没後に皇后から短期間中継ぎ登位したエカチェリーナ1世を含めて計4人、通算在位67年に及び、18世紀のロシアを特徴づけた女帝はエカチェリーナ大帝をもって最後となった。

2012年5月25日 (金)

犯罪と非処罰(連載第25回)

20 交通犯罪(下)―公共交通事故について

pencil現代の科学技術社会を特徴づける事象として、鉄道、船舶、航空機といった公共交通機関の著しい発達があるが、それに伴い、これら公共交通機関による死傷事故も跡を絶たなくなっている。
 こうした公共交通事故は、自動車事故とは異なり、より複雑な機械的システムとそれを運営する法人企業組織を背景として生起してくることから、自動車事故のように、端的な過失犯として処理し切れないことが多い。
 そこで、公共交通事故が発生した場合は、まず事故原因の調査を先行させることが合理的である。そのために中立的な事故調査機関を常設すべきである。この先行調査の結果、ないしはその過程で個々の交通機関要員の業務上過失が明らかとなった場合は、そこで初めて捜査機関に通報され、犯罪として過失責任を究明するための予備的な捜査が開設される段取りとなる。
 

pencilただし、船舶や航空機の場合は、事故に関わった航海士や操縦士の過失の有無とは別に、航海士や操縦士としての職務上の義務を適切に果たしたかどうかという観点からの審判手続きがあって然るべきである。この点、日本では海難事故については海難審判の手続きが用意されているが、航空事故については同様の手続きが存在しない。しかし、両者の類似性からすれば、「航空審判」という手続きが置かれることが望ましい。
 こうした審判手続きと過失犯としての責任を究明する司法手続きとは目的を異にするとはいえ、両者の結論が完全に齟齬を来たすことは好ましくない。とりわけ、審判手続きでは義務違反なしとされながら、司法手続き上は有罪とされるねじれは当事者に当惑と司法不信をもたらすであろう。そこで、審判手続きは司法手続きに先行して進められる必要があり、審判の結果、実質無罪に相当する義務違反なしとの結論が出た場合には、要員を改めて訴追することは禁止されるべきである。
 なお、要員の業務上過失が認められた場合の処遇については、過失犯を論じた第14章で述べたところが妥当する。
 

pencilところで、組織を背景として引き起こされる公共交通事故では個々の要員の過失責任を追及するだけでは不十分であったり、個々の要員の過失を立証し切れないことも多い。そこで、こうした場合は組織体の安全対策不備を一つの犯罪行為とみなして対応する必要も出てくる。
 ただし、これはいわゆる組織犯罪とは異なり、法人・団体としての過失犯罪であるので、組織犯罪法の出番とはならず、別の対応が必要となる。同時に、ここでも「犯罪→非処罰」の定式は貫徹される。
 この点、事故を引き起こした運営組織に対しては、再発防止のための具体的な対策の策定を義務づける処分を行うとともに、所要の対策を怠ったことにより得られた利益を没収する処分を併科することがさしあたり有益と考えられる。
 なお、こうした組織に対する処分は単なる行政処分ではなく、司法手続きによって科せられる一種の保安処分である。

2012年5月24日 (木)

犯罪と非処罰(連載第24回)

20 交通犯罪(上)

pencil交通犯罪は交通手段が発達した現代社会に特有の現象であり、かのベッカリーアの想像を超えた現代型犯罪である。交通犯罪を広く取れば、鉄道や船舶、航空機に関連する犯罪も含まれるが、本章では最も日常的な自動車に関連するものに限定して論じる。
 

pencil交通犯罪の大半は過失犯であるが、速度違反や飲酒運転など道路交通法違反の罪は故意犯である。いずれにせよ、交通犯罪に「重罪」はほとんどない。
 ところが、近年の日本では交通犯罪の厳罰化がキャンペーン的に推進され、集中的な刑の引き上げが実行されてきた。交通犯罪は日常的なだけに応報刑論の反動的な揺り戻しの舞台となりやすい一面がある。
 しかし、客観的に見て交通犯罪に真の意味での「重罪」はないのであるから、やみくもな厳罰対応は非科学的な感情論にすぎない。特に交通犯罪の中心を占める自動車運転中の過失による死傷事故は、運転者の過失という人的要素ばかりでなく、道路状態と自動車の性能という物的要素が要因となって引き起こされる。典型的には、見通しの悪い道路で欠陥車を運転している人が不注意であれば、極めて高い確率で死傷事故が発生するであろう。このように自動車運転中の過失による死傷事故は道+自動車+人という三要素が三位一体的に絡み合って惹起される。
 ちなみに、日本では交通事故の裁判上、事故者たる被告人が自動車の欠陥を抗弁として主張することが難しく、不用意に主張しようものなら、かえって責任転嫁の方便として糾弾されかねない。ここには、そうした物的・客観的要素よりも人間の不注意のような人的・主観的要素を偏重する主意主義的・唯心論的な日本社会の思考パターンがみてとれるとともに、日本資本主義の象徴であるクルマがまさしく無瑕疵の物神として崇拝されているようにも見える。
 

pencilともあれ、人的要素に関しても、事故者を厳罰に処する事後報復的な対応ではなく、そもそも運転適性のない者を事前に運転そのものから遠ざけることの方がはるかに効果的である。具体的には、著しく注意散漫な者や運動神経に制約がある者、アルコール・薬物依存傾向のある者に対しては運転免許を認めないか、少なくとも矯正的な特別講習を義務づけ、問題傾向の顕著な改善が認められるまでは免許を保留とすることである。
 他方、道路交通法規に基づく行政的な交通取締りは、交通事故防止にとって有効ではあるが、あまりに瑣末すぎる規則は誰も守り切れず―しばしば交通警官ですら!―、無意味である。また、あまりに多すぎる交通刑罰法規も刑罰のインフレ状態を結果し、かえって刑罰の効果を失わせる原因となる。
 各種道路交通法違反については、まず速度違反や酒気帯び運転などのように、それ自体に死傷事故の危険が内包されているような危険運転行為に限って犯罪とみなし、その他の細かなルール違反は行政罰に委ねる「非刑罰化」を大胆に推進する必要がある。
 この点、道路交通法上の行政罰として反則金があるが、そうした金銭的ペナルティーだけでなく、運転免許停止・剥奪の制度も整備すべきである。特に速度違反や酒気帯びなどの危険運転の累犯者に対しては、免許剥奪処分が効果的である。ただ、これは行政罰というより保安処分の一種と言える。
 

pencilところで、近年の交通犯罪厳罰化キャンペーンの中ではとりわけ飲酒運転が標的となってきた。その結果、飲酒運転の罪そのものの刑が引き上げられたことはともかくとしても、飲酒運転をするおそれのある者に対して車両や酒類を提供した者から同乗者にまで連座的に刑事責任を問う規定が出現するに至った。
 これらの者が明白に飲酒運転者と共犯関係にある場合を超えて、飲酒運転をするおそれという事前判断不能な他人の行為にまで責任を負わせるのは、自己の行為についてのみ刑事責任を問われるという個人責任原則をも破る、それこそルール違反の規定と言わざるを得ない。
 実効性という観点からしても、飲酒運転の現場に同席していた同乗者はともかく―同乗者には飲酒運転を幇助した従犯が成立する可能性がある―、車両・酒類提供者にまで飲酒運転の確実な制止役を期待することなど無理な話である。
 そもそも日本のようにモータリゼーションが高度に進んだ大クルマ社会で酒類の販売規制が緩やかであれば、飲酒と運転が容易に結びつくのは必然である。酒類に対する宗教的禁忌などから酒類の製造・販売が禁止されている国、逆に酒類の販売規制は緩やかであるが、モータリゼーションがほとんど進んでいない国では当然にも飲酒運転はまれである。
 そこで、日本でも本気で飲酒運転の撲滅とは言わないまでも大幅な減少を目指すのであれば、酒類の販売規制の強化とともに、脱モータリゼーションにも正面から取り組まなければならない。
 それは無理だというならなぜであろうか。考えられることは、酒類製造・販売業界及び自動車業界の利益を損なうからである。そうだとすると、刑事責任の原則に反してまで強行される実効性も疑わしい厳罰化・連座責任化とは、社会正義などではなく、そうした業界利益の隠れ蓑にすぎないことになりはしまいか。
 

pencil「非処罰」の構想の下でも、速度違反や酒酔い運転などそれ自体に過失による死傷事故の危険を内包する危険運転は犯罪行為であるが、それらは本質上行政取締上の犯罪であって、多くは犯罪性向の低い犯行者によるものであるから、その処遇としては第一種矯正処遇または保護観察とすれば十分である。ただし、危険運転行為の累犯者は、上述したような運転免許剥奪処分に付するほか、第二種矯正処遇を用意してもよいだろう。
 問題は、こうした危険運転中の過失によって死傷事故を起こした者の処遇である。といっても、第14章で述べたように、軽過失は業務上過失の場合を除き犯罪とすべきでないのであったから、ここで過失とは重過失及び業務上過失の場合である。
 この点、日本刑法上はこうした場合一切をあいまいな構成要件を持つ「危険運転致死傷罪」にくるめて、ほぼ傷害致死罪に匹敵する厳罰を科するわけであるが、この規定の違憲性については第14章で指摘した。
 道路交通法に違反する危険運転行為とその間に犯された過失行為とは一連であっても危険運転行為中に必ず過失行為を犯すと決まっているわけではない以上、本来別個の故意行為と過失行為であるから、両者は併合罪と理解すればよい。
 第5章で論じたように、併合罪については犯罪パッケージの中で犯罪学的に見て最も中核的な犯罪の処遇に従うのであったところ、確率的に過失による死傷事故を起こしやすい危険運転中に事故を起こすのは、元来危険運転行為に内包されていた危険が現実化しただけのことであるから、中核的な犯罪とは速度違反なり酒酔い運転なりの道路交通法違反の罪にほかならない。従って、その罪の処遇、つまり原則的に第一種矯正処遇または保護観察に付することになる。
 ただし、例外として、職業運転手による業務上過失の場合及び過失累犯の場合は、その反社会性ないし犯罪性向の強さを重視して第二種矯正処遇とし、保護観察は除外する加重規定を置くことを考えてもよい。
 

pencilなお、いわゆるひき逃げへの対応について、現行道路交通法のようにこれを「救護義務違反」として別個に犯罪行為とするのは身柄を拘束されていない被疑者が逃走することを犯罪としない刑法の立場と矛盾する。逃走という方法は司法上正規的な防御権の行使ではないとしても、無罪の推定を受ける被疑者に対しては禁止すべからざる一つの条件反射的な防御行動として犯罪とはみなされないのである。
 ひき逃げも、自動車運転中の過失被疑者の逃走の一形態である以上、それ自体を独立した犯罪として、あるいは加重事由としてとらえることは正しくない。
 この点でも、ひき逃げに対する報復的厳罰化の主張が近年唱えられているが、ひき逃げ防止のためにはむしろ、逃走せず自ら事故を通報し、被害者救護を尽くした事故者は犯罪性向の低さを考慮して、軽い処遇を与えること―刑罰の場合であれば、刑の必要的な減軽事由とする―の方が効果的である。

2012年5月22日 (火)

天皇の誕生(連載第20回)

第5章 「倭の五王」の新解釈

(2)「珍」と「済」の関係

「続柄不明」問題
 『宋書』によると、珍の後、443年に倭国王・済が遣使してきた。ところが、同書は前の珍と済との続柄を記していない。同書は原則として前後の続柄を明記している五王の中で、珍と済の関係だけは何も言及しないため、その沈黙の意味が問題とされてきた。
 ただし、後の唐代に編纂された『梁書』では、珍が「彌」に補正されたうえ、彌と済は親子関係とされている。しかし、これは200年近くも後の時代の史書であって、五王の遣使があった5世紀代の同時代に編纂された『宋書』が続柄を記さなかったということには重大な意味がある。
 これを単なる記載漏れとして片づける説もあるが、妥当とは思われない。なぜなら、冒頭触れたように、『宋書』は五王の他の続柄は原則として明記している以上、珍と済の続柄だけは偶発的に落としたとは考えにくいからである。
 そうすると、結局、宋側では珍と済の続柄を把握できなかったのだとみなさざるを得ない。なぜ把握できなかったかと言えば、済が説明しなかったか、もしくは宋側が済の説明に疑問を持ったためということになろう。
 いずれにせよ、済が珍との関係について単純明快な説明を与えなかった理由については次節で改めて検討することにしよう。

「済」の全うな遣使
 済は、443年と451年の二度遣使した記録が残るが、初めの443年にはただ単に「倭国王」とだけ自称している。これは、前の珍が例の大仰な自称をしたこととは対照的である。済はなぜ珍が希望して果たせなかった「使持節都督」の称号獲得にもう一度トライしようとしなかったのだろうか。
 一つには、先代の珍が誇大な自称をして失敗したことの反省に立って、ということも考えられようが、済が珍とは全く別系統の「倭国王」であったならば、珍のような自称をする必要がなかったということも考えられる。
 ところが、面白いことに、451年遣使の時には、宋側から初めて「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事」を除正されている。ただ、これが済の申請に基づくものか記されていない。どうやら済は珍とは異なり、自ら積極的に除正を求める意欲が乏しかったように見える。
 しかも、注目すべきは、宋が授与した「六国諸軍事」の管轄領域から百済が除外されている代わりに、「加羅」が加わったことである。
 百済を除外したのは、宋側ではすでに百済王に「都督諸軍事」の称号を授けていた以上、倭が百済を支配しているはずがないということを知っていたからであるが、一方で畿内王権の王家ルーツであり、小国ながらも独立国であった加羅(加耶)を加えているのは、第三章でも触れたように、宋が朝鮮半島南部の実情を正確に把握していなかったことによるものであろう。
 ちなみに、新羅や任那、秦韓、慕韓(馬韓)まで雑然と一括して―しかも、加羅と実質上重複する任那や、秦韓、馬韓など旧国名も混在する―倭国王の管轄領域に含めていることも不正確であり、これも宋が半島南部の情勢に明るくなかったことの表れと思われる。
 とはいえ、済は珍のように誇大な自称をしないことによって、かえって珍が望んだものにほぼ近い称号を見事ゲットしたわけで、全うな遣使の成果を出したのである。このことも珍との大きな違いであり、総じて言えば、済は前の讃・珍二王とは系統が異なるように思われてくるのである。

(3)「済」と「興」の正体

王朝交替説
 『宋書』によると、済が死去し、後を継いだ子の興が462年に遣使している。済の没年は記されていないが、451年から462年までの間に死去したことは確実である。興の遣使はほぼ父・済の遣使を踏襲したもので、別段新たな称号の除正を求めたこともなかったようである。
 宋側では、皇帝(第4代孝武帝)の詔をもって「倭王の世子興は、累代にわたる忠誠を継いで、海外で宋王朝の藩屏となり、開化し、辺境を平定し、恭しく貢献して、新たに辺境の王位を継いだ」と興をほめ、父・済と同じく「安東将軍・倭国王」を改めて授号している。
 皇帝は興に賛辞を送っているわりには、現状維持的で、先代の済と同様に扱っているのは、済・興父子の連続性の強さを物語っていると言えよう。
 そうすると、従来「倭の五王」とひとくくりにされてきた中でも、最初の讃・珍兄弟とその後の済・興父子(最後の「武」はさしあたり保留にしておく)とはやはり別系統と見たほうがよいように思われる。
 もっとも、先の興に対する孝武帝の詔の中で、「累代にわたる忠誠を継いで」云々とあることから、倭王家は連続的であるとする反論もあろうが、これはあくまでも宋側の認識を示したものであって、しかも詔での外交辞令であるから、そこに客観性を認めることには無理がある。
 そこで、仮に王朝交替を想定するとすれば、それは珍の遣使年とされる438年から、済の最初の遣使年である443年までの間に起きた事変ということになる。しかし、この間に倭国内部で王朝交替を裏づける根拠・史料は乏しく、憶測の域を出ないように思われる。

偽装遣使説
 讃・珍と済・興の間の不連続性を説明するもう一つの―いささか大胆な―仮説は、後の済・興の遣使は百済王による倭王を装った偽装遣使であったのではないかというものである。
 このような特異な遣使の背景事情として想起すべきは、前に述べた毗有王の登場である。彼は、高句麗対策として新羅との同盟という歴史的政策転換を決行したことから、百済のゆるやかな統制下にある侯国であった倭国に対する統制を強化することを企図していた。
 そこへ、倭国王珍による誇大自称による遣使の報が入った。しかし、『三国史記』でも平和的な事績が記録される毗有王はこれに怒って兵を差し向けるような人物ではなく、もっと手の込んだ術策を思いついた。それは、倭国独自の遣使を禁止するにとどまらず、百済側で倭国王名義を冒用して遣使するという方法である。
 これを間接的に裏づけるのは、先述したように、済の遣使はごく全うで、過大な除正を求めるものではなかったこと、一方で、宋側からの「使持節都督」の授号では「百済」が慎重に除外される内容となっていたこと、そして何よりも「済」という百済を想起させる意味深長な一字名を使用していたことである。
 ちなみに、毗有王は本来の百済王名義でも440年と445年に宋へ遣使しており、その間にはさむ形で「倭国王済」名義で遣使していたことになり、彼が高句麗対策として倭を含めて百済‐倭‐南朝というラインを強化しようと腐心していたことを裏づける。
 それにしても、毗有王は何故に百済王名義を直接に名乗らずに「倭国王」名義を冒用するという方法を採ったのであろうか。
 おそらく、東晋時代以来、自身が中国皇帝から冊封を受けていた百済王が宋から同様に冊封を受けていた倭王を侯王として一種の冊封を行うことは「無断二重冊封」として宋側の譴責を受けかねないため、その事実を秘する必要があったためではないかと思われる。
 そのうえで、百済としては倭単独の遣使の継続性を装って、先のような百済を除外した称号を倭国王に帯びさせることによって、かえって百済の独自性を強調するという効果をも狙ったものと推測できるのである。
 さて、このように済・興父子による一連の遣使を百済による偽装遣使ととらえた場合、「済」は毗有王に、「興」は455年に死去した毗有王を継いだ世子・蓋鹵王[がいろおう]に比定することができる。そして、この蓋鹵王による「興」名義での遣使が先の462年のそれであり、彼は「倭国王」として皇帝の賛辞を受けたわけである。

補注 偽装遣使説よりも穏当な仮説として、倭王が百済の統制の下、その指示に従って遣使したとする考え方もあり得よう。ただ、この場合、珍と済の続柄不明問題が解き難くなる。なお、偽装遣使といっても、偽装の事実が宋側に発覚しないよう、実際の遣使は倭人団を使って実施したものであろう。

2012年5月21日 (月)

天皇の誕生(連載第19回)

第五章 「倭の五王」の新解釈

5世紀に入って、中国南朝宋に連続的に遣使したことが記される「倭の五王」。讃・珍・済・興・武と中国式一字名でイニシャルのように記された五王は、果たして一連の「倭国王」であったのであろうか。

(1)「讃」と「珍」の遣使

「讃」の遣使まで
 4世紀には中国側史書から姿を消していた倭の動向が久しぶりに中国側史書で確認されるのは、『宋書』倭国伝に見えるいわゆる「倭の五王」の筆頭「讃」による421年の南朝宋への遣使である。
 これは、邪馬台国女王・台与によると見られる266年の西晋遣使から数えて実におよそ160年ぶりとなる中国外交の再開であり、この長い外交的ブランクも3世紀の邪馬台国と4世紀以降の畿内王権とが連続していないことの傍証の一つとなる。
 このようにおよそ1世紀半ぶりとなる中国外交再開―実質上は新規外交―の背景を考える前提として、それまでの経緯を追ってみたい。
 まず、第三章の末尾で見たように、4世紀末に畿内王権と百済との修好が正式に開かれ、「質」として派遣されてきて外交・諜報工作を担った腆支太子が405年、父・阿莘王死去を受けて王位に就くため、倭兵の護衛を受けて帰国したことは記した。
 王位に就いた腆支がまず初めに取り組んだことは、父王の遺志を継いで、父王の代に高句麗に奪われた半島の覇権を取り戻すことであったが、そのためには強力な水軍を擁する倭をいっそう緊密に百済陣営に組み込み、百済の勢力圏に収めておく必要があった。
 そこで彼は、中国式冊封体制に準じて倭王を授封し、倭を侯国化することで、百済の勢力圏に置くことを企てたのである。百済は後代の5世紀後葉に入ると、支配領域に王・侯を配置して統制する王・侯制を施行するが、その原初形態は5世紀初頭の腆支王代に開始されたと考えられる。ただ、半島領土で王・侯に任ぜられるのは王族であったが、倭という枢要な外地では、倭王を百済王族に準じた地位で処遇しようとしたものであろう。
 私見によれば、こうした百済による倭の侯国化を認証するしるしが、次のような銘文が金象嵌で刻まれた例の石上神宮所蔵七支刀なのである(*は判読不能箇所)。

(表)泰*四年*月十六日丙午正陽造百錬鉄七支刀*辟百兵宜供侯王****作
(裏)先世以来未有此刀百濟王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世

 この銘文冒頭に記された「泰*四年」という年紀について、通説は宋の一つ前の南朝であった東晋の年号「太和四年」(西暦369年)と読み、同年に時の百済王子・貴須(近尚古王の子で、後の近仇首王)が「倭王旨」に献上したものと解釈していることは、第三章でも紹介した(実際上369年説内部でも銘文解釈は様々に分かれている)。
 しかし、東晋の年号は「泰和」ではなく「太和」であり、複雑な象嵌技法で「太」を画数の多い「泰」に造るのも不自然であること、仮に倭が百済の上国であれば、天子の臣下を意味する「侯王」という表現は無礼であること、一般に倭との外交関係記事を重視する『三国史記』には近尚古王代に倭と修好した記事が見えないことなどから、369年説には疑問が多い。
 もっとも、より対等な関係の修好がこの時に開かれたと修正的に解釈する説もあるが、それにしても「侯王」という呼びかけは無礼であるし、また王子ごときが王に献物するというのも真に「対等」とは言えない(百済王と世子の連名と解する説もあるが、立ち入らない)。
 この点、私見によった場合の銘文の読み方としては、「奇生聖音」の箇所を、通説とは異なり、「奇しくも聖音に生き」(計らずも釈尊の加護の下に生きて)と解釈する少数説を採ったうえで、腆支王が倭王を百済の侯王として認証したしるしに下賜したものが七支刀であると解することになる。
 ちなみに、「首」に通ずる「旨」とは、当時まだ漢字が普及していなかった倭の独自の王号ではなく、まさに腆支が百済の侯王たる倭王に授号した王号と推定される。
 このように解した場合、「泰和四年」とは東晋ではなく、百済の独自年号であり、それは腆支王四年(408年)に当たる。これを間接に裏づける記録として、『三国史記』は409年に倭が遣使して夜明珠(蛍光性の宝石か)を贈り、腆支王が優礼して接待したとある。前年の七支刀下賜のことは記事に見えないが、409年の倭の遣使はその前年の侯王叙任への答礼と見ることもできる。
 ところで、腆支王がこのような年号を建元したと推定される根拠として、父の仇であり、同時代のライバルでもあった高句麗の好太王(広開土王)が「永楽」という類似年号を建元していたことへの対抗心に加え、腆支王が一種の「革命」によって王位に就いたことも関係している。
 『三国史記』によると、阿辛王死去後、腆支の二番目の弟・訓解が摂政に就き、腆支太子の帰国を待っていたが、王の末弟・磔礼[せつれい]が訓解を殺して王位を簒奪してしまった。
 一方、腆支は倭にあって父王の訃報に接し、帰国を請い、倭兵の護衛を受けて百済国境へ達すると、王都・漢城からの使いが来て、情勢説明があり、帰国を控えるよう忠告されたので、倭兵を引き留めて警護させ、海中の島で時機を待った。そうするうちに、民衆が王位簒奪者・磔礼を殺害して腆支を王に迎えたという。
 こうした即位の経緯からも、腆支王は人心一新と政情安定を願って、「泰和」という年号を制定したものと思われるのである。
 ちなみに、「百済世子が奇しくも聖音に生きた」という一句には、百済世子として倭の「質」となって命がけで外交工作に携わったうえ、無事帰国したものの、如上のような「革命」の結果王位に就いた波乱の人生を振り返っての感慨が込められており、こうした点でも、これを形式的に貴須王子などに当てはめるよりも合理的ではないだろうか。
 なお、銘文中に「聖音」というような仏教的文言が見られるのは、百済には早くも384年に東晋から仏教が伝来していたことから説明がつく。もっとも、仏教の普及は百済でも6世紀代と見られているが、王族など支配層の間では徐々に浸透し、改まった文脈では仏教的文言も用いられるようになっていたものと思われる。

補注 私見によった場合の銘文解釈は、さしあたり次のようになる。(表)泰和四年*月十六日丙午の正午、百回も鍛えた鉄の七支刀を造った。この刀なら百回の戦でも避けることができ、恭しい侯王にふさわしかろう。(裏)いまだかつてこのような刀はなかった。百済王世子(たる自分)は計らずも釈尊の加護の下に生きたことから、倭王旨のためにこの刀を造り、後世まで伝え示さんとするものである。

「讃」の遣使の背景
 こうして倭(畿内王権)は5世紀初頭、百済の侯国としてその勢力圏に組み込まれたとはいえ、中国の冊封と同様、それは多分にして形式的・儀礼的な臣従にすぎず、内政外交全般が百済の統制下に入ったわけではなかった。
 それでも、特に外交に関しては一定の制約があったと見られ、倭王名義での独自の中国遣使は制限されていたのではないだろうか。その傍証と言えるのは、『宋書』では最初の遣使者・讃を「倭讃」、あるいは単に「讃」としか記しておらず、珍以下の四王とは異なり、王称が付されていないことである。
 そのこととも関連して、初回の421年遣使でも、皇帝(高祖・武帝)は「倭讃」の遠方からの遣使をほめて除授を賜うであろうと詔しながら、具体的には何も除正された形跡がない。次いで、讃は425年にも、司馬曹達なる使者を派遣して、上表文を提出し、特産品を献上したとあるが、ただそれだけで、やはり何の除正も記されない。
 要するに、宋側でも「讃」が独立国の王かどうかを確認できず、正式の冊封は保留したとしか考えられないのである。これは、百済が宋建国の420年に直ちに冊封されたのとは対照的である。
 一方、百済では420年に腆支王が死去し、子の久爾辛[くにしん]が即位するが、この王は弱体で『三国史記』でも何の事績も記されないまま、427年に死去している。
 おそらく、倭王(畿内王権の首長)であったことは間違いない讃は、腆支王死去のタイミングを見計らって、翌421年に独自の中国遣使に踏み切ったつもりであったが、百済の侯王という地位に制約されて、独自に「倭国王」名義を使うことができず、中国側からその心意気は買われたものの、倭国王としての認証すら受けられなかったのである。二度目の遣使では、司馬姓の漢人系(もしくは漢族系百済人)かと思われる使者まで遣わし、上表文も提出したにもかかわらず、結果は得られなかった。こうして、讃による遣使は失敗に終わったのである。

「珍」の誇大自称
 次に『宋書』が記録する倭の遣使は、讃の弟とされる「珍」による438年の遣使である。珍は兄王の失敗を反省してか、今度は一転して、「使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」なる大仰な自称をしたうえで、除正を求めたのであった。
 この自称で「使持節都督諸軍事」とは、当該地域の軍事統制権を中国皇帝から授権された総督であることを示しているが、注目されるのはここに「百済」を含めて、倭国王が百済まで軍事的に統制しているように主張したことである。
 これは、この時代、倭が百済の侯国であったことを考えれば、全く逆であった。思うに、珍は宋の皇帝から百済に対する軍事統制権まで含めた除正を受けることで、百済の侯国という地位から脱しようとしたものであろう。
 ところが、宋はすでに百済に冊封していたのであるから、珍の主張の嘘は直ちに見破られた。その証拠に、珍の除正は単なる「安東将軍・倭国王」にとどまったのであった。今度は、一応「倭国王」の認証は得られたものの、百済王が授号されていた「鎮東大将軍」号よりも格下の「安東将軍」号のみで、希望した使持節都督の除正は受けられなかったわけである。
 しかも、倭国王が百済を支配しているかのような自称をしたことは、当の百済にも伝わったであろうことは想像に難くない。時の百済王は、427年の久爾辛王死去を受けて即位した久爾辛王の子(『三国史記』は腆支王の庶子説も併記する)・毗有[ひゆう]王であった。
 この王はかなり有能で、引き続き懸案である対高句麗政策として、4世紀以来敵対関係にあった新羅と同盟する歴史的な外交政策の転換を行った(433)。これによって、半島情勢は大きく変化する。このことが、倭にも大きく影響してくる。
 先述したように、倭(畿内王権)は伊都国を服属させて以来、伊都国の「反新羅」の立場を継承し、大規模な新羅侵攻作戦を展開していた。一方、王族未斯欣を「質」に使った新羅の対倭外交工作も未斯欣の逃亡事件で失敗に帰していた。
 そこで、毗有王としては、祖父(もしくは父)の腆支王が敷いた倭を侯国化する政策をさらに強化して、倭の反新羅政策を改めさせる必要を感じていたであろう。そうした時に、百済を倭が統制しているかのように偽った自称の下、倭王が独断で宋へ遣使したとの報が王の耳に入ってきたのである。

2012年5月20日 (日)

共産論Q&A:Ⅱ生産と労働♯1

♯1 共産主義経済全般

Q1:文明史的に見て、貨幣経済の廃絶は反文明的・反動的でさえあるのはないか?

A1:この問いはⅠ♯2でも取り上げた二つの論点、すなわち「物質文明」と「進歩」ということに再び関わってきます。
初めの「物質文明」ですが、共産主義も生産活動を軸とする物質文明を否定するわけではありません。しかし、それはもはや富の追求・蓄積ではなく、人間の生存を第一義とするようなものでした。富の蓄積は交換の連鎖によってなされるため、貨幣交換が必須ですが、分配を第一義とするような物質文明の下での生産活動は蓄積するためでなく、分配するために行われるのですから、もはや貨幣交換を必要としないのです。従って、このような共産主義的物質文明にとって、貨幣経済の廃絶は反文明的どころか、まさしく文明的なのです。
一方、「進歩」という点に関しては、「進歩の中の復帰」ということを指摘しました。すなわち、共産主義は先史時代の貨幣なき経済への「復帰」をモチーフとするのでした。しかし、これは単純な反動的復古なのではなく、資本主義から共産主義へ進歩していく中での「復帰」なのです。言わば、参照項としての過去の再現です。この点を改めて強調しておきます。

Q2:貨幣経済を廃したところで、物々交換経済へ戻るだけで、しょせん交換経済自体は闇で続くのではないか?

A2:第2章(4)で論じたように、共産主義経済は計画経済を基軸としますが、いわゆる統制経済ではなく、個々人のレベルで物々交換を行うことまで禁圧するわけではありません。従って、こうした個人的な物々交換取引は決して「闇」ではなく、「表」の合法的な経済行為なのです。具体的に言えば、青空市やインターネット上の物々交換サイトなどは何ら規制対象とはなりません。
ただ、その場合、通用範囲が限定された事実上の貨幣的な物が出現してくる可能性はあり、このことが貨幣経済廃絶と矛盾しないかという問題は生じるかもしれません。しかし、そうした部分的・自生的交換経済は共産主義経済全般と矛盾するものではなく、むしろ共産主義経済の一部門として受容することができます。共産主義は、ある種の社会主義のように、民衆の経済的自由を圧殺するものではないからです。

Q3:物々交換を広範囲に容認するなら、結局第2章(2)で強調されているような「交換価値からの解放」は実現しないのではないか?

A3:物々交換と貨幣交換とを区別する必要があります。経済史的に見れば、後者は前者から発達したものですが、物々交換における交換は必ずしも交換価値だけで規定されるのではありません。物々交換は貨幣という第三項的な媒体によって媒介されないだけに、交換に供される物の使用価値が大いに関係してくるのです。
例えば、AとBの間で物々交換する場合、Aは洋服、Bはボールペンというような物々交換は通常成立しません。しかし、Aは洋服、Bは帽子というような物々交換なら成立する可能性はあるでしょう。この場合、Aは帽子の使用価値を、Bは洋服の使用価値を欲しているからこそ、両者間の交換が成立するのであって、Aの洋服と代価相当の貨幣x円を交換する場合のように、Aの洋服とBの帽子の交換価値が等価だから交換が成り立つのではないのです。
ただし、物々交換も、それが定型化・大量化されていけば、貨幣交換に近づくことはあり得ます。例えば、スーツ1着と交換するには必ず普段着3着を必要とするといったルールが形成される場合、普段着が貨幣的に機能していることになります。しかし、こうしたローカル・ルールに基づく慣習的な通貨相応物の形成は限定的な現象であり、貨幣=通貨が廃される共産主義経済が全体として使用価値中心に回っていくことに変わりありません。

Q4:あらゆる財・サービスが無償供給になると、生産者が無責任になり、品質・安全性が大きく損なわれるのではないか?

A:この問いは、反面として、有償供給ならば生産者が責任をもって品質・安全性を担保するという前提に立っているようですが、果たしてそうでしょうか。現実には有償供給体制の下、粗悪で危険な財・サービスが商品として出回っています。有償供給制の下では、財・サービスを商品として売ることに重点が置かれるわけですから、むしろ品質や安全性を偽装としてでもとにかく「売る」ということが至上命題となります。このことが、悪質・詐欺商法の絶えることがない要因です。
これに対し、無償供給制の場合は、交換価値が消失するため、使用価値が前面に出てきます。つまり品質や安全性が直接に問われるのです。このことを第2章(1)で「あらゆる財・サービスが商品ではなく、「モノ自体」として生産・供給される」と表現しました。それゆえ、生産者はこれまで以上に品質や安全性には神経を使うようになると予測されます。この傾向は、無償供給制の下では、職人的な注文生産方式が復活し、生産者の職人気質が高まることによっても後押しされるでしょう。

Q5:完全な無償供給システムにすると、公衆の需要が爆発的に増大し、日用品を中心に決定的な物不足が生じることが避けられないのではないか?

A:なるほど有償供給システムの下では有償という形で貨幣交換を求められることが有効需要の抑制につながっているわけでしょうが、それはあくまでも原理的なことです。むしろクレジットの普及により、大量消費への衝動は高められているのです。
これに対して、無償供給システムの下では、貨幣交換が需要を抑制することがない反面、使用価値が前面に出ることによって、消費者による財・サービスの価値選択が厳しく行われ、かえって需要は適正に抑制されると考えられます。従って、決定的な物不足を懸念する必要はないでしょう。
それでも抑制し切れない需要に対しては、取得数量規制の導入によって対処することができますし(第3章(1)参照)、重要な日用品については生産企業に余剰生産を義務づけることで物不足に対応することができます(第2章(4)参照)。

Q6:サービスの全面無償化は、とりわけ交通機関の大混雑、高速道路の大渋滞といった社会問題を常態化させるだけではないか?

A:この質問は前問とも関連しますが、有形的な財と違って無形的なサービスに関しては、たしかにご指摘のような懸念はあります。
ただ、高速道路に関しては渋滞緩和のため時間帯や車種による通行規制を導入することができますし、これは同時に環境・騒音対策にもなります。
その他の交通機関の大混雑に関しては、これも大量消費に相関する大量交通が資本主義の象徴でもあるわけですが、共産主義社会ではそうした側面にも変革が及ぶことを期待してよいのではないでしょうか。特に「通勤地獄」に関しては、第3章(2)で指摘したように、職業配分システムを通じて職住近接が実現することで、根本的に解決される可能性があります。

Q7:物品供給所を通じた取得数量制限付きの無償供給システムとは、結局のところ統制経済下での配給制に等しいのではないか?

A:そうではありません。いわゆる配給制は配給の対象品目と数量が予め定められた特殊な分配制度ですが、共産主義下の無償供給システムは、全品目(無形的サービスを含む)について実施される全一的な分配制度です。従って、取得数量制限付きという点を除けば「統制」の要素は希薄であり、むしろ消費者は自由に自ら必要な品目を選択・取得することができる自由度の高い供給システムとなるはずです。
さらに、物品供給所は今日の商店と同様に個人で自由に設立することもできますから、この点でも配給機関が予め指定されている配給制とは異なり、自由度の高いシステムと言えるでしょう。

Q8:物品供給所での取得数量確認手続きとは具体的にどのように行われるのか、またそれは厳密に実行できるのか?

A:物品供給所での取得数量確認手続きは、外形的には現在の商店で行われている会計の手続きに似ています。ただ、貨幣交換が行われないため、代価の支払いは必要なく、単に取得品目と数量をチェックし、在庫管理のデータを作成するだけです。この点では、現在スーパーマーケットなどで使用されているパーコード式レジスターのシステムは、取得数量確認手続きにも応用できると思われます。
ただ、厳密性に関してはある程度妥協せざるを得ないでしょうが、物品供給所で物品を取得するに当たっては、予め発行されたカードの提示を必要としたうえ、取得数量確認手続きにおいて同一カードでの取得状況を照合し、家族など他人を使った取得数量制限違反の重複取得を防ぐことができるでしょう。なお、取得数量確認手続きを経ないで物品を持ち出す行為は、ちょうど商店での万引きと同様、窃盗罪となります。

Q9:土地の無主物化は旧所有者への補償なしに行われるのか?

A:はい。土地の無主物化は、いわゆる公用収用とは異なり、補償の手続きを必要としません。この点については土地所有権者から多くの批判・反発も予想されますが、土地の無主物化は所有権という法権利の内容そのものに切り込むまさしく革命的施策ですので、理解していただくほかないところです。

Q10:第2章(5)で説かれるように私有財産制を否定しないのでは、共産主義として不徹底であり、結局は持てる者と持たざる者の階級格差が解消されないのではないか?

A:「共産主義=私有財産の否定」という定式は正確ではありません。「共産」とは生活動が同的に行われることをいうのであり、単に財産が共有されることではないのです(ただし、一部耐久財の「社会的共有」については第2章(5)を参照)。従って、私有財産制が否定されないからといって「共産主義」として不徹底ということにはなりません。
これに対して、持てる者と持たざる者の階級格差という現象は、私有財産制から生じるのではなく、簡単に言えば資本家・経営者と労働者、現代では労働者間での上級労働者と一般労働者、さらに一般労働者間での正規労働者と非正規労働者といった資本主義社会に特有の稼得源ないし稼得形態の格差に由来しています。
このような格差は、共産主義社会では当然にも消失していきます。もちろん共産主義社会でも経営者と労働者の区別は存在しますが―自主管理企業では両者の区別は存在しません―、それは職種の差異であって、もはや稼得源・稼得形態の格差ではないのです。従って、経営者=持てる者、労働者=持たざる者といった階級格差は発現しません。

Q:11「社会的所有」(第2章(3)参照)というあいまいな概念規定では、共産主義のバックボーンである「生産手段の共有」というテーゼが不鮮明かつ不徹底になるのではないか?

A:「共産主義=生産手段の共有」という定式は広く普及してきたものですが、それは不可能な定式でした。「生産手段の共有」といったところで、文字どおりに全生産手段を社会的に共有することなどできませんし、また必要もないことですから、結局のところ、それは社会の基幹産業―現代では環境負荷産業とほぼ重なります―の生産企業が私企業形態で運営されるのではなく、社会に帰属し、社会的に監督されるという意味で「社会的所有」の下に置かれるということに尽きるのです。従って、ある意味ではたしかに「不鮮明かつ不徹底」なのですが、それでよいのです。

※『共産論』全文はこちらからご覧いただけます。

2012年5月18日 (金)

犯罪と非処罰(連載第23回)

19 累犯問題について

pencil前三章で見た性犯罪・薬物犯罪・組織犯罪はいずれも短期間で同一または同種の犯行を繰り返す累犯が多いことで共通性がある。そのほか窃盗罪なども古くから累犯が多く、こうした累犯問題こそが教育刑論を台頭させた要因でもあった。
 しかし、教育刑論も刑罰制度が本質的に持つ応報的な要素を完全に払拭できず、限界を露呈してきたことから、「矯正悲観論」を生み出し、再び応報刑論への反動的揺り戻しを招くようになった。米国で1990年代に導入された「三振アウト法」、すなわち三回重罪を犯すと自動的に終身刑に処す制度はそうした揺り戻しを象徴するものであった。
 日本では、つとに現行刑法上「再犯加重」の制度を備えており(刑法57条)、所定要件を満たす再犯者を加重処罰する政策を採っている。こうした事実上矯正の放棄に等しい累犯への厳罰化政策は刑罰制度を維持する限り避け難い「最終解決」の方法なのである。
 

pencilまた、近年は特に性犯罪者の再犯防止のためとして、刑務所を出所した者にGPS監視装置を装着して行動を常時監視する政策が各国で導入されるようになっているが、これはさほど罪状が重くなく終身刑や長期の厳罰には処し得ない性犯罪者に対しては比較的短い刑期の中で十分な矯正が行えないまま出所を認めざるを得ないという限界を、出所後の行動追跡によってカバーしようという苦肉の策にほかならない。さらに進んで性犯罪の前科を持つ住民の情報を近隣に開示して警戒を呼びかけるという制度の導入例もある。
 こうして再犯の危険に対処するため対象者のプライバシーを否定し、社会的孤立を強いる策に走らざるを得ないのも、矯正の限界というよりは、応報を本質とする刑罰制度そのものに内在する限界のゆえなのである。
 ただ、性犯罪者の中には小児性愛者のように矯正困難な者も含まれていることから、矯正悲観論の象徴となりやすいことはたしかだが、それは矯正科学の遅れのゆえであって、そうした遅れをもたらす桎梏となっているのも刑罰制度なのである。その意味で、累犯問題は刑罰制度自身の影法師である。
 

pencilこの点、「非処罰」の構想の下では、格別の累犯対策は必要としない。それは更新付きユニット制を採る「矯正処遇」の制度自体に累犯対策が組み込まれているからである。すなわち対象者の再犯の恐れがなお除去されていないと判断されれば矯正ユニットが更新され、科学的に適切な矯正プログラムが課せられるからである。
 もっとも、科学的な矯正プログラムがいかに進歩しても、再犯防止の究極の決め手は更生保護にある。その意味で、累犯対策は更生保護の最重点課題に位置づけられなければならない。
 中でも量的に多い窃盗犯の再犯防止が重要である。窃盗犯の中には実際、刑務所と一般社会の間を頻繁に往復するような人生を送る者も少なくないため「常習犯」と呼ばれ、日本法上は「常習累犯」として特別法(盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律)で別途加重処罰される。
 しかし、「常習」という表現は非科学的であり、差別的でもある。窃盗累犯は犯罪の性癖を持っているのではなく、場合によってはあえて自ら服役を望んで同一の犯行を反復しているにすぎず、そうした反復性は一般社会で安定的に生活していくことができないことの表れにほかならない。更生保護が特に重要となるゆえんである。
 一方、質的な面では組織犯罪関係者の更生サポートも大きな課題である。かれらの場合は犯罪組織が事実上の「職場」となっていることから、まさに犯罪行為が“職業”と化しており、犯罪への固執性が強い。そこで、更生保護を通じて各自の適性を生かした正業への“転職”を支援していくことが重要となる。
 

pencilそれにしても、こうした更生保護の充実・成功をもたらすには、社会の構造が大きく変わらなければならない。要するに、更生を妨げ、人を再犯に走らせる究極的要因、すなわち誰しも労働力として評価されなければ生活が困難となる資本主義経済という体制を再検討に付し、人生やり直しがより容易となるような社会体制を構築することである。その点で、累犯問題の解決は社会変革にとっての試金石でもある。

2012年5月17日 (木)

犯罪と非処罰(連載第22回)

18 組織犯罪

pencil単なる共犯現象を超えた犯罪の組織化、すなわち組織犯罪はすぐれて現代的な犯罪現象である。しかも、現代の犯罪組織はほぼ例外なく合法・違法の双方にまたがるビジネスを展開する経済組織でもある。それはしばしば合法的な資本や公権力とさえも直接・間接に結びついている。
 こうして現代組織犯罪は、資本主義経済の地下部門を成す構成要素であるとさえ言えるのであり、その「根絶」は資本主義経済体制そのものにメスを入れない限り不可能である。そうはいっても、資本主義が打倒されるまで、組織犯罪を拱手傍観していればよいというわけではない。現時点に立った組織犯罪対策は必要である。
 しかし、「犯罪→刑罰」図式の下における組織犯罪対策は単なる共犯処罰を超えて、「組織」そのものへの刑罰的介入に及ばざるを得ないため、結社の自由を脅かすという懸念を常に抱え込むことになる。逆に言えば、「犯罪→刑罰」図式の下では結社の自由を犠牲に供することなしに本格的な組織犯罪対策はなし得ないとさえ言えるのである。
 これに対して「非処罰」の構想の下では、組織犯罪対策にあっても刑罰は用いず、矯正処遇を中心とした対策を用意しているから、結社の自由の侵害に対する懸念はゼロとは言わないまでも、相当に軽減はされるであろう。
 

pencilさて、組織犯罪対策というと、組織犯罪法のような特別法を制定して対処することが一般的で、日本でも諸国に遅れて1999年に「組織犯罪処罰法」(正式名称は「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」)が制定されているところであるが、こうした特別法へ飛ぶ前に一般法たる犯罪法典上での対策が先決である。
 その一つは「共謀罪」条項の創設である。「共謀罪」は一般の共犯規定に該当しない場合でも、特定の犯罪の実行を相互に合意すること自体を犯罪とみなすもので、この条項があれば共謀された犯罪の実行そのものは担わなかった犯罪組織の構成員のほか、共謀した準構成員や外部の協力者まで一網打尽にできる利点があることから、組織犯罪対策上強力な武器となるのである。
 このような規定はしかし、結社の自由に対する脅威が大きいとして、日本では激しい論議の的となってきたところである。しかし、「共謀罪」条項と結社の自由を両立させることは可能である。
 この点、前述したように、「非処罰」の構想では、共謀罪に対しても刑罰は科さず、矯正処遇で臨むのであるから、これだけでも結社の自由への侵害は軽減されるのであるが、それにとどまらず、「共謀罪」が成立する基本犯罪を一定の「重罪」に限定することで、結社の自由を確保するのである。
 この場合、「重罪」の範囲をどう定めるかという問題が残るが、「非処罰」の構想の下で「重罪」とは、最高で第三種または第二種矯正処遇に相当する罪ととらえておけばよいだろう。このような「重罪」の共謀に絞って犯罪とするのであれば、およそ合法的な活動を行っている正当な結社の自由が脅威にさらされることはまず考えられない。
 こうした「共謀罪」の処遇については、類型を分けて定められる必要がある。ひとくちに「共謀」といっても、その態様には「正犯的共謀」と「従犯的共謀」とがあるからである。
 「正犯的共謀」とは、例えば犯罪組織のリーダーが特定の犯罪の実行を組織に命じる場合が典型である。こうした場合、リーダーは犯罪の実行行為を自ら担わず、共謀のみにとどまることがむしろ普通であるが、リーダーの地位は実行役の正犯と同等かそれ以上とさえ言えるのであるから、その処遇は正犯に準ずる。
 実は、日本法上、この型の「共謀罪」は「共謀共同正犯」としてつとに最高裁判所の判例で古くから認められてきたのであるが、刑法上に明文の規定はなく、判例に示されたその成立要件もあいまいであって、罪刑法定主義の要求を満たしていない疑いがある。
 他方、「従犯的共謀」とは、ある者が正犯を幇助まではしなくとも、犯罪の謀議に補助的に参加し、自らも合意形成に関わったような場合である。この場合、従犯そのものは成立しないが、その地位は従犯に準ずると言え、原則として従犯の処遇(第一種矯正処遇または保護観察)でよい。ただし、組織犯罪の場合は一般の共謀犯よりも犯罪性向が高いことから、第二種以下の矯正処遇とし、保護観察は与えるべきでない。
 

pencilこうした「共謀罪」からさらに進んで犯罪組織を結成し、またはこれに加入すること自体を犯罪として規定する「犯罪結社罪」を創設することも必要である。
 これは組織犯罪対策の予防的な武器であるが、同時に事実上犯罪組織の定義条項ともなるものである。すなわち、本罪の下に結成や加入が禁じられる組織とは、団体の活動として継続的に第三種または第二種の矯正処遇に相当する犯罪行為を実行するための団体である。
 つまり、ここでも「結社」の目的となる犯罪行為は「共謀罪」と同様に「重罪」に限定される。さらに「継続性」を要件とすることによって、一回的な犯罪行為を実行するために組織されたグループや本来合法的な活動をするために組織された団体がたまたま団体ぐるみで犯罪行為を実行したような場合は犯罪組織には該当しないことになり、結社の自由は確保される。
 さて、「犯罪結社罪」の犯行者は通常犯罪性向は高いも病理性は低い者であるから、その処遇としては最大でも第二種矯正処遇を相当とするが、犯罪組織に加入した者の中には弱みを握られて消極的に引きずり込まれたような者もあり得ることから、保護観察相当の場合も認められよう。そうすると、同罪の処遇としては、第二種以下の矯正処遇または保護観察が相当である。
 

pencil以上の「共謀罪」及び「犯罪結社罪」の創設は言わば総論的な組織犯罪対策であったが、各論的な対策として冒頭でも言及した組織犯罪法の制定がある。
 組織犯罪法の目玉は金融機関の秘密口座を利用した複雑な資金操作によって犯罪組織の収益を隠す資金洗浄(マネー・ロンダリング)への規制にあるが、そうした経済的締め付けだけでは不十分であり、組織そのものの強制解散・非合法化措置が必要である。これは先の「犯罪結社罪」とも連動しながら組織そのものを消滅させる措置として究極的な組織犯罪対策となり得るものである。
 強制解散の対象は犯罪組織そのものであるが、関連企業や組織の隠れ蓑として設立された各種団体も含まれ、法人格を取得している場合はその剥奪と資産没収にも及ぶ。
 このように、強制解散措置は強力な効果を伴う団体版保安処分と言うべきものであるから、適正手続きを保障するためにも裁判所の司法手続(公開裁判)によらなければならない。

2012年5月16日 (水)

犯罪と非処罰(連載第21回)

17 薬物犯罪

pencil薬物犯罪は嗜癖・依存症と密接に関わり、精神保健行政・精神医療とも交錯するするため、これを刑罰に“依存”してコントロールしようとすることに限界があることは明白である。
 しかし、日本を含むアジアでは薬物依存を退廃的な性癖とみなし、薬物犯罪に対して必罰主義・厳罰主義―最大で死刑を科する国さえもある―で臨もうとする発想が強い。薬物犯罪に死刑を科することのない日本でも、規制薬物の単純所持や自己使用にかなり重い懲役刑を科する政策を続けている。
 一方で、麻薬の所持や自己使用については非犯罪化しつつ、嗜癖問題としてコントロールしようとする国も欧州を中心に増加してきている。日本でも一部で「大麻解禁論」が提起されている。
 

pencil一般に、薬物規制の要否やその方法は、薬学・医学の現代的な水準に照らして行われなければならない。従って、薬学的・医学的に見て明白な有害性―とりわけ自己使用を犯罪行為として取り締まるうえでは、薬理作用による他者加害の高度な危険性―が立証されない薬物に関して、単純所持や自己使用を犯罪として取り締まることは無意味である。
 このことは、当該薬物を嗜好品として全面的に自由化することを意味しない。例えば、輸入・販売の方法や購入条件を規制するなど薬事行政上の規制や取締りがなお必要な場合はあるからである。
 一方、薬学的・医学的に明白な有害性が認められる薬物にあっても、その自己使用自体は犯罪というよりも薬物依存症という一つの精神疾患の症候であるから、犯罪としての取締りよりも、精神保健福祉上の保護的対応が不可欠である。
 

pencilただ、自発的に医療機関を受診する依存症者は少なく、通常は規制薬物の所持容疑で摘発されて自己使用の事実も判明することが多い。そうした点では、規制薬物の単純所持は一つの取っ掛かりとしてなお犯罪として残すが、その処遇は対物的処分としての没収で十分であろう。
 そのうえで、所持者の自己使用が判明した場合は、捜査機関から所管行政機関に通報し、行政機関が対象者に指定医療機関等での治療命令を発するようにするのである。この命令に反して治療を受けようとしない者に対しては、さらに裁判所の命令により指定医療機関等へ強制収容することも可能とする。
 他方、有害な規制薬物の密輸・密売などの営利的な行為は、しばしば犯罪組織の資金獲得手段となるところでもあり、薬物犯罪取締りの中核的対象を成す。
 こうした組織犯罪型薬物犯罪に対する処遇は、組織犯罪対策そのものと重なる部分もあるが、犯罪組織のメンバーのように犯罪性向が類型的に高い犯行者が少なくない一方で、金欲しさからの一過性の売人や運び屋なども含まれることも考えると、第二種以下の矯正処遇または保護観察が相当であろう。
 

pencil以上のような規制薬物の所持をはじめとする犯罪行為類型については、特別法ではなく、一般法たる犯罪法典上に基本的な規定を置くべきである。
 この点、1907年(明治40年)に制定された日本刑法は当時の時代状況を反映して、あへん煙についてのみ規定を置いているが、犯罪法典上では取り締まり対象となる規制薬物の種類を限定する必要はなく、規制薬物のリストは特別法の定めに委ねてよい。
 日本ではこうした特別法として、覚せい剤取締法、大麻取締法、あへん法、麻薬及び向精神薬取締法など複数の法律が林立しているが、これでは一般市民にとって規制薬物取締体制の全貌が見えにくく、告知機能を十分に果たせない。
 そこで、こうした個別の規制法を統合して、例えば「規制薬物取締法」といった法律に一本化して規制薬物のリストを一覧的に明示すべきである。
 繰り返しになるが、そのリストは薬学・医学の現代的水準に照らして常に検証に付されなければならない。さしあたり大麻がリストから外れる可能性はあるが、反対論も強い。ここで大麻をめぐる高度に科学的な論争に決着をつけることはできないが、重要なことはそうした議論そのものをタブーとして凍結してしまわないことである。

2012年5月15日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第36回)

第6章 略

二 「西洋近代」の黎明(続き)

(5)宗教改革から30年戦争へ
 ルネサンスが〈反〉ではないにせよ、〈脱〉キリスト教的な方向の精神‐文化革命であったとすれば、同時期に並行した宗教改革はキリスト教内部における精神革命と言うべきものであった。それはルネサンスの精神も一部取り込みながら、しかしルネサンスとは違い、社会的動乱を巻き起こすほど「西洋近代」の産みの苦しみと言うべき側面が強かった。
 この宗教改革がルネサンス発祥地の北イタリアではなく、―前哨戦として、かのフィレンツェにおけるサヴォナローラの失敗に終わった宗教改革があったとはいえ―ドイツで始まったのは、失墜の最中にあったローマ教皇にとって、保守的かつ分裂状態のドイツは経済的な収奪の基盤となっていたため、とりわけ農民層のローマ教皇への反発は強く、ルターの主張は農民反乱(大農民戦争)の火をつけるほどにドイツ農民の心をとらえたからであった。
 一方、ルターよりも急進的なカルヴァンがスイスに迎えられたのは、当時のスイスが1291年のウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン三邦の永久同盟以来、ハプスブルグ家の支配に抵抗を続けながら形成されてきた連邦共和国―後に1648年のウェストファリア条約で正式に独立が承認される―として自由な改革的気風を保持していたからであった。とりわけカルヴァンが拠点を置いたジュネーブは新教プロテスタントの総本山となった。
 ルターとカルヴァンには違いもあったが、ひたむきな信仰を通じた神の恩寵と万人祭司主義の教義―ある意味では神への絶対的帰依を説くイスラーム教への接近とも言える―は階級を超えて人々の心をとらえて北ヨーロッパを中心に勢力を拡大し、今日にまで至るカトリックとプロテスタントの恒久的分裂を画した。
 しかし、当初は旧教側の反撃も激しかった。1519年から神聖ローマ皇帝を兼ねたスペインのカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)は1529年、シュパイヤーの国会でルター派を禁止し、これに同派が抵抗(プロテスト)したことでプロテスタントの名が生じた。しかし、肝心のローマ教皇がハプスブルグ家を警戒し、フランスと結ぶという誤算から皇帝も譲歩を強いられ、晩年の1555年、アウクスブルクの国会でルター派領邦君主の信仰の自由を容認したのだった。
 こうして宗教改革という波をかぶった旧教側も消極的な反撃にとどまらない積極的な攻勢に出ていく。それはヨーロッパ外のアメリカ大陸やアジアへの布教というキリスト教の「輸出」であった。実は「普遍」を意味するカトリックはこのような世界布教を通じて初めて真にカトリックになったと言ってよかった。
 そもそも大航海と植民自体が「キリスト教と香料」と言われたように、「野蛮人」への布教と改宗という目的を伴っていたが、明白に海外布教を目的として結成されたのが有名なイエズス会である。スペインの軍人イグナティウス・ロヨラがまさにルターの宗教改革運動渦中の1534年にパリで結成したこの修道会は、ローマ教皇の承認の下、宣教師をアメリカ大陸やアジア方面を中心に派遣し、組織的な布教活動を開始した。早くも1549年には日本に到達したフランシスコ・シャビエル(ザビエル)もイエズス会創設メンバーの一人であった。またシャビエルが願って果たせなかった中国布教に17世紀初頭に初めて成功したのも、イエズス会士マテオ・リッチであった。
 こうしてキリスト教の「輸出」は東アジアにまで及び、やがて非ヨーロッパ世界をして「西洋近代」という波に直面させる契機ともなるのである。
 さて、旧教と新教の対立は17世紀に入って新たな局面を迎える。1618年にはハプスブルグ家の支配下にあったボヘミアでカトリック反動政策が強行されようとしたことへのプロテスタント派の蜂起を機に、30年戦争が勃発した。
 この戦争は宗教戦争として始まりながらデンマークやスウェーデンなど北欧の新教系諸国の介入に、旧教国同士フランスとスペインの対立も絡む全ヨーロッパ規模の大戦に転化し、戦場となったドイツを荒廃させたが、講和に際し、副産物としてウェストファリア条約という近代的な多国間条約の先例を産み落としたのだった。

(6)仏宗教戦争と英国国教会
 宗教改革の主要な舞台はドイツであったが、カルヴァン派が浸透したフランス、イングランドでも独特の形で宗教改革の波が起きていた。
 ローマ教会の大分裂以来、ローマ教皇から半ば独立した固有のカトリック(ガリカニスム)が優勢であったフランスでも、ここではユグノーと呼ばれたカルヴァン派が少数派ながら有力となり、1568年以降、王室をはじめとする多数派カトリック側と内戦状態に陥った。その過程では、三代の国王の母として宮中で実力を持ったカトリーヌ・メディシスの謀略でユグノー派が大量虐殺される事件(サン・バルテルミの虐殺)も発生した。
 40年近くに及んだ内戦に終止符を打ったのは、プロテスタントであったブルボン朝創始者アンリ4世で、彼は1589年の即位に当たりカトリックに改宗する一方、ナントの勅令でユグノーの信仰の自由を容認した。しかし、彼の孫・ルイ14世は1685年、この勅令を廃止し、ユグノー弾圧策に転じたため、商工ブルジョワジーに多かった多数のユグノーが国外へ亡命し、経済危機を招いたほどであった。
 これに対して、イングランドでは事情を異にする。イングランドはルターにも先立つ最初の宗教改革者とも言うべき14世紀のウィクリフ以来、彼の説を奉じたロラード派の拠点となっていたが、カトリックの歴代王朝はこれを抑圧していた。とりわけテューダー朝創始者ヘンリー7世はアーサー王太子の妃にカトリックのアラゴン王女を迎えるなど、カトリックの牙城スペインとのパイプを強化した。
 ところが、夭折した兄アーサーに代わってテューダー朝第二代国王となったヘンリー8世は妊娠した愛人アン・ブーリンと再婚するため、兄嫁だったキャサリン王妃と離婚することを望んだ。しかし、ローマ教皇は離婚に否定的な教義に従い、ヘンリーの離婚を認可しなかった。
 曲折の末、ヘンリーは離婚を強行し、教皇から破門されたため、彼は教皇から独立してついに国王を最高首長とする独自の教会組織を立ち上げてしまった(1534)。これによって、今日まで続く英国国教会の分離がプロテスタントよりも一足先に確定した。
 こうして宗教的教義に反してでも個の自由を貫いたヘンリーは―統治者としての彼は個の自由を認めず、自らに反対し、裏切る者を容赦なく処刑したが(アン・ブーリンも同様の運命をたどる)―、新しいルネサンス型人間を自ら体現していたと言えるかもしれない。  さて、ヘンリーを継いだ息子エドワード6世が夭折した後、イングランド初の女王として王位に就いたエドワードの異母姉メアリー1世は、父に捨てられた母キャサリンを慕う敬虔なカトリック教徒であったため、王配にもスペイン王子フェリペ(後のスペイン国王フェリペ2世)を迎え、親スペインのカトリック反動政治を展開した。その過程でプロテスタントを大量処刑したため、「流血メアリー」の汚名を残すこととなった。
 このカトリック反動政治はメアリーの5年ほどの治世をもって終わり、国教派の異母妹エリザベス1世(アン・ブーリンの娘)の即位により国教会が復活、定着していく。
 しかし、国教会は言わばイングランド版カトリックという体のものであったため、これに飽き足らないスクワイヤー(郷士)を中心とする新興ブルジョワ層に多かったカルヴァン派はピューリタン(清教徒)として批判勢力を成し、17世紀半ばには清教徒革命の原動力ともなっていく。一方、国教会とローマ・カトリックの対立も17世紀末頃までは完全には終息せず、これは後年、名誉革命の要因ともなる。
 というように、イングランドでは国教会をはさんで右にローマ・カトリック、左にピューリタンが三つ巴となって17世紀の社会動乱を引き起こすのである。

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