2017年12月31日 (日)

熟れた果実の法則

 『共産論』を主軸とするブログ発信を開始して早7年目が過ぎようとしている。この間、世界経済は米国経済の見かけ上の回復・堅調や鈍化・混乱しながらも総体として成長を維持する新興国経済に支えられて、表層的には好調に見える。日本経済も平均株価2万円台を回復し、「アベノミクス」も意気軒昂のようである。
 しかし、先発国でも賃金の伸びは見られず、新興国の貧困も根本的には解消されず、稼ぎの悪い者は置き去りというまさに資本主義らしい「置いてけ堀経済」の特質がグローバルに拡散してきた。
 資本主義自体は、さらにグローバルな膨張を示して爛熟期を迎えようとしているが、それは同時に腐乱の始まりでもある。果実で言えば最高の熟れ時であり、甘くて美味しいが、腐り始めてもいる。来年以降2020年へのカウントダウンとなる中、腐った部分を慎重によりわけながら、美味の部分に群がる競争が激化するだろう。
 だが、美味の部分は富裕層―資本主義貴族―があらかた分捕ってしまうことだろう。熟れた果実を巧みに食するには安定収入のみならず、資産運用、租税回避などの法的経済的技巧とそれらを合法的に伝授する専門家ブレーンの助言も不可欠であり、それらは無産階級者にはとうていアクセスできない手段だからである。

2017年12月30日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第10回)

三 律令的神道祭祀の確立

院政と熊野信仰
 平安時代までに日本神道のあり方として定着した神仏習合が平安末期の複雑な政治情勢の中で独特の形態をまとって発現したのは、熊野信仰であった。紀伊の熊野には古くから山岳信仰の場として何らかの宗教的施設がすでにあったと考えられるが、いわゆる熊野三山として定着するのは、平安時代のことである。
 熊野の原信仰の内容は定かでないが、初期には修験道の霊場としてまず発展したと見られる。8世紀に役小角[えんのおづの]によって創始されたと伝えられる修験道という一種の神秘主義的宗教実践自体が神仏習合の土俗的な表象であり、修験者は祝とも僧とも取れる独特の宗教実践者であった。
 一方、仏教側では平安時代から浄土教の信仰が王侯貴族の間で隆盛化しており、神秘性を湛えた熊野が浄土と同視されるようになった。そうした中で、熊野本宮、熊野速玉、熊野那智の三大神社が有力化し、各社の祭神が仏教の如来や菩薩と同視される形でまさに神仏習合社として発展していったのだった。
 熊野三山は元来、別個の神社として発展してきたところ、平安初期には三山の統一が図られ、運営上も三山を統括する熊野別当職が置かれるようになっていた。熊野別当は神官ではなく、社僧であったが、仏僧が神社を管理するこの変則体制には、この時代の神仏習合が仏教優位のものとなっていたことを示している。
 とはいえ、熊野三山が単に宗教上のみならず、政治的にも強勢化した契機は歴代上皇の信仰と庇護を得たせいである。特に白河院の永久年間の参詣以降、上皇の熊野参詣が恒例化され、曾孫の後白河院の時代になると、30回を越す参詣を記録するまでになった。あたかも、熊野が院政の守護者となったかのごとくである。
 これに伴い、熊野別当の上に中央行政職として熊野三山検校が置かれたが、これは名誉職的存在で、熊野の行政管理はあくまでも熊野別当が執行した。熊野別当家は初代快慶に始まる世襲制であり、白河院から任命された長快以後、新宮別当家と田辺別当家に分裂しつつ、14世紀半ば頃まで続いていく。
 熊野別当は、院から寄進された所領を経営する封建領主となると同時に、熊野水軍の名で知られる軍事力をさえ掌握するようになり、平安末期に始まる武家の台頭という新たな情勢下で、武装化していくことにもなるのであるが、この神道の軍事化という事象については改めて次章に回すこととする。


〔お知らせ〕
当連載は、筆者の都合により、以後は同一筆者が管理する新規ブログ「ラ・ヒストリーオ」にての不定期連載とさせていただくこととなりました。連載の統一URLは、定まり次第、追って本記事にてお知らせ致します。

2017年12月28日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載最終回)

二十二 高宗・李熙(1852年‐1919年)/純宗・李坧(1874年‐1926年)

 李昰応・興宣大院君(大院君)の項でも先取りしたように、26代高宗は大院君の次男であり、先代哲宗との血縁の遠さからすれば、実質上高宗をもって王朝交代があったとみなしてもよいほどの断絶がある。
 それを裏書きするように、高宗治世の前半期はまず実父大院君、続いて正室閔妃に実権を握られ、国王は名目的な存在であった。実際、高宗は年少で即位したうえ、長じてからも政治的に無関心で、放蕩に興じていたとされる。
 従って、高宗治世の前半期は大院君及び閔妃の項で述べたことがほぼそのままあてはまることになる。高宗が図らずも親政に転じなければならなかったのは1895年、閔妃が殺害された乙未事変以降のことである。
 乙未事変の直後、親露派が巻き返しの対抗クーデター(春生門事件)で高宗を奪還しようとするも失敗、しかし親露派は翌年、再び民衆暴動を煽動する形で決起し、高宗をロシア公使館に逃げ込ませることに成功した。
 こうして親露派は高宗をロシアの庇護下に置きつつ、反露・親日派を粛清排除し、実権を掌握した。この親露政策は晩年の閔妃の路線でもあり、当面これが踏襲された形となった。そのことが、どの程度高宗自身の意思によるものかは定かでない。
 ともあれ、一国の王が外国公館内にあって執務を行なうことは、もはや独立性を喪失したに等しく、この親露期の朝鮮王朝は事実上帝政ロシアの属国であった。この状況に対し、立憲君主制への移行を目指す開化派が独立協会を結成して対抗した。
 その結果、高宗は97年、ロシア公使館を出て王宮に帰還、同年には国号を大韓帝国と改称し、自身が改めて初代皇帝(光武皇帝)に即位した。高宗光武帝は立憲君主制こそ受け入れなかったが、一定の近代化改革に乗り出す積極姿勢を見せるも、改革をやりぬくための財政基盤と手腕が欠けていた。
 そうした中、朝鮮に対する支配力の奪回を虎視眈々と狙う大日本帝国は帝政ロシアに対する攻勢を強め、領国の緊張関係はついに開戦につながる。この戦争は大方の予想に反し、日本の勝利に終わった。
 この間、日本は戦時中の1904年には第一次日韓協約をもって大韓の内政外交に関与する権限を獲得し、これを米国にも認めさせることに成功していた(桂‐タフト密約)。その延長上で、日露講和条約(ポーツマス条約)をもって日本の大韓に対する優越権を承認させた。
 この第二次日韓協約は大韓を事実上日本の保護国とするもので、もはや完全な併合まであと一歩であった。こうした日本の攻勢に対し、高宗側も抵抗を示し、07年には第二次協約の無効性を主張する密書をハーグ万国平和会議に送ったが、当時の帝国主義的な国際法常識に照らし、高宗側の主張は容れられず、この密使事件はかえって日本側の不興を買い、高宗は親露派から親日派に転じていた李完用総理の画策により退位に追い込まれることになった。
 こうして、最後まで優柔な高宗はその40年以上に及ぶ長い治世を通じてほとんど主体性を発揮することはなかった。高宗に代わって2代皇帝に即位したのは、閔妃との間の長男純宗であった。
 純宗はすでに30代に達していたが、何の実権も与えられず、日本とその代理である親日勢力の傀儡皇帝にすぎなかった。そうした中、日本は第三次日韓協約をもって大韓の国政全般の干渉権を手中にし、軍の解散にまで及んだ。
 これに対する大韓義勇軍人による抗日闘争(義兵闘争)が激化する中、日本は完全な併合を急ぎ、1910年、条約をもってついに正式の併合を実現させた。皮肉にも、自主独立への決意を込めて大韓帝国に再編してわずか13年での亡国であった。
 併合後、旧李王家は法的には日本の王公族として、皇族に準じた地位を与えられ、高宗は徳寿宮李太王の称号で19年まで、純宗も徳寿宮李王の称号で26年まで存命したが、もはや形ばかりの存在であった。
 純宗には子がなく、最後の皇太子となった高宗七男李垠は日本皇族梨本宮方子と婚姻し、その間に生まれた次男李玖が次代当主となるも、子はなく、この韓日混血王統は2005年の玖の死去により断絶した。なお、現在の李家は一般公民化したうえ、高宗五男の庶流系統が継承している。


◇伊藤博文(1841年‐1909年)

 長州閥の明治元勲かつ明治政府の初代内閣総理大臣として日本ではよく知られる伊藤が大韓帝国と改称していた朝鮮王朝と直接の関わりを持ったのは、最晩年の1905年、第二次日韓協約を受けて初代韓国統監に就任した時である。
 元来、伊藤は明治初期のいわゆる征韓論争に際しては征服反対・内治重視派に与しており、明示末の韓国併合論争に際しても国際協調を重視しつつ、併合でなく韓国の国力がつくまでの保護国化にとどめるという穏健な立場を主張していた。
 とはいえ、保護国化も完全な独立を認めず、ある種の属国として支配下に置く帝国主義的な手段であって、伊藤が反帝国主義者であったことにはならないが、大陸侵出の一環として韓国併合を急ごうとする維新以来のライバル山縣有朋ら陸軍勢力とは一線を画していたことは間違いない。
 こうした伊藤の韓国「保護」の意志は相当に固かったらしく、すでに四度も首相を経験した元老でありながら、あえて格下かつ海外常駐となる初代の韓国統監職を引き受けたことにも現れている。
 もっとも、時の韓国皇帝・高宗が日韓協約の無効を訴えたハーグ密使事件を受けても変化しなかった伊藤の穏健な立場は韓国内での抗日義兵闘争の激化を契機に転換したとも言われる。しかし、伊藤が併合を声高に唱えた形跡は見られず、義兵闘争は併合派が併合を急ぐうえで障害となりかねない伊藤に辞職を促す口実として利用されたものと考えられる。
 実際、時の韓国併合派かつ陸軍重鎮でもあった桂太郎首相から併合の最終解決策を提示されると、伊藤はこれを受諾し、保護を前提とした統監職を辞し、併合へ向けたプロセスにも協力したのであった。その四か月後、伊藤は韓国人ナショナリスト・安重根によりハルビンで暗殺されることとなる。
 安は独立運動家を多く輩出する開化派両班一族の出であり、初代韓国統監だった伊藤を日本帝国主義の象徴として標的にしたのだったが、おそらく元来日和見主義的な伊藤自身は最後まで併合強行派ではなかったのであり、独立派の真の敵は別にいたのである。

◇宗武志(1908年‐1985年)

 近世に朝鮮との通商を一手に担いながら、明治維新による廃藩後はその役目を終え、日本の一華族(伯爵)となっていた宗氏であったが、韓国併合後、旧朝鮮王家と姻戚関係を持つ数奇な運命を得た。1931年、時の宗氏当主である宗武志伯爵に高宗の王女・徳恵翁主が嫁いだのである。
 通商関係を独占していた時代にも縁戚関係を持つことがなかった両家が関係の途絶えた近代になって縁戚関係を生じた背景には、上述のように高宗七男李垠が日本皇族梨本宮方子と通婚したのと同様、日韓併合下で日韓上流階層の血統的一体化も演出するという政治力学が働いたのかもしれない。
 徳恵翁主は高宗が日韓併合後、日本王族徳寿宮李太王熈と改称した最晩年の1912年に生まれた娘で、父は幼少の頃に死去している。一方、武志は対馬藩最後の藩主だった宗重正の甥に当たり、父は旧上総久留里藩主黒田家の婿養子に出ていたが、重正の子が継嗣なく死去したため、宗氏当主の家督を継いだ。
 併合の象徴のような宋‐李婚姻はしかし、徳恵の精神疾患のため、不幸な結果に終わった。彼女の病状は長女出産後に悪化し、武志の献身的な介護によっても改善せず、戦後の1955年に離婚、62年に韓国に帰国した(89年死去)。
 ちなみに二人の間の一人娘・正恵は日本で大学に進学、日本人と結婚するが、やはり何らかの精神疾患に悩み、両親離婚の翌56年に遺書を残して失踪、行方不明のまま離婚に至るという二重の悲劇に見舞われている。なお、戦後、英文学者・詩人として身を立てていた武志は徳恵と離婚直後に日本人と再婚し、大学教授・理事として職務を全うしている。

2017年12月20日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第9回)

三 律令的神道祭祀の確立

鎮護国家と神仏習合
 
前回見たように、律令制の下、神道は神祇官によって中央管理される儀礼的な宗教として確立される一方、律令制確立期である奈良時代には、仏教が朝廷によっても高く奉じられるようになる。特に聖武天皇と光明皇后は仏教に深く帰依し、東大寺や国分寺の創建を主導、仏教を国家鎮護の支柱として据えた。
 このような鎮護仏教と神道の関係性は複雑であり、簡単にはとらえ難いが、さしあたり神道は天皇の権威の源泉であり、国家儀礼の支柱であるの対し、仏教は国家の精神性を補強する護国宗教として措定されたと言えるかもしれない。
 このような関係性は、神宮寺という新たな宗教施設の創出にもつながっている。神宮寺は古来の神社に付設された仏教寺院であり、その役割は神社に祭られた神々を守護することであったが、その根底には神道の神々を仏の化身とみなす本地垂迹思想があった。
 このような神宮寺は皇室祭祀の聖地である伊勢神宮にすら大神宮寺という名で存在した記録があるが、これは奈良時代末には廃絶したようである。理由は寺僧の乱妨によるとされるが、さすがに神道聖地への神宮寺付設は不適切とみなされたのかもしれない。
 神宮寺とは逆に仏教寺院を守護する鎮守社という宗教施設も創設され、その最も著名な例は藤原氏の氏寺である興福寺とその鎮守社・春日大社である。その他、聖武天皇肝いりの東大寺も九州の宇佐八幡宮を勧請する形で鎮守社とした。その本社宇佐八幡宮にも神宮寺として弥勒寺があった。また当初は平安京鎮護を目的とする官寺として創建された東寺は秦氏の氏神社であった伏見稲荷大社を鎮守社とした。
 このような神仏習合が政治的陰謀として発現したのが、宇佐八幡宮偽神託事件である。著名な事件の概要は省略するが、この件の発端は、時の女帝・称徳天皇の寵臣であった仏僧・道鏡の弟で大宰帥・弓削浄人〔ゆげのきよひと〕と大宰府で神祇を司る大宰主神の習宜阿曾麻呂〔すげのあそまろ〕が「道鏡に皇位を継がせるべし」旨の宇佐八幡宮神託が下ったと虚偽の奏上をしたことに始まる。
 事件の中心にあった道鏡自身、多くの門弟を育てた法相宗の高僧・義淵の門弟にして、禅にも通じた仏僧でありながら、祈祷や奇術も行なう男巫的な性格を併せ持つ“怪僧”であり、神仏習合を一身で体現した人物であったようである。
 この神託を通じた奇想天外な皇位簒奪未遂の陰謀は、勧請によって東大寺の鎮守社となり、その中央での権威を増した宇佐八幡宮が仏僧の道鏡と通じて皇位継承問題にまで関与しようとしたもので、神仏習合なくしては考えられなかった事件であろう。宗教の混淆が時に悪政も招く一例である。

2017年12月17日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第21回)

二十一 閔玆暎・明成皇后(1851年‐1895年)

 26代高宗の正室・閔玆暎は通称で「閔妃」と呼ばれるように、驪興閔氏の出であった。閔氏は孔子の高弟・閔子騫の末裔を称する中国系の豪族であったが、さほど有力家系ではなかったところ、大院君の正室にして高宗の生母が閔氏の出であったことで、俄然有力化したのだった。
 閔玆暎(以下、通称により閔妃という)が高宗妃に選定されたのも、高宗生母の推薦あってのことであった。当時の実権者で閔妃の舅となる大院君としても、従来勢道政治で権勢を誇った安東金氏を一掃するうえで、閔妃は利用しやすいと考えたようであるが、この目論見は外れた。
 閔妃は政治的な野心家であり、嫡男(後の純宗)を生むと、大院君追い落としのため、閔氏の派閥を作って権力闘争に乗り出すようになった。その結果、彼女は、大院君追放に成功し、閔氏を中心とする新たな勢道政治が復活した。
 実権を握った閔氏は、排外主義的だった大院君の路線を転換し、開国へ向かった。手始めは、明治維新直後の日本との関係構築であり、その結晶が1876年の日朝修好条規である。しかし、この条約は朝鮮にとり極めて過酷な不平等条約であり、後代の日韓併合につながる伏線であった。
 当時の閔妃は日本の力を借りて朝鮮近代化を図ろうとしており、特に軍の近代化を急ぎ、西欧的な新式軍隊を創設した。しかし、これが裏目となる。封建的な旧式軍隊を放置したことで、旧軍人の不満が高まり、1882年のクーデター(壬午事変)につながる。
 閔妃暗殺を狙ったこの事変では、多数の閔妃派要人が殺害されたが、辛くも脱出に成功した閔妃は清の軍事力に頼り、事変の首謀者と名指した大院君を清に連行させることで、復権を果たした。
 これにより清に借りを作った閔妃は日本をさしおいて清に接近するが、他方でロシアにも接近するなど、閔妃には時々の情勢に応じて周辺大国の後ろ盾を得ようとする事大主義的な傾向があり、このことは文字どおり、自身の命取りにもなる。
 1884年に親日開化派が起こしたクーデター事件(甲申政変)では、再び清の軍事力を借りて、復権した大院君を三日天下で追い落とすことに成功したが、日清戦争で閔妃の最大の後ろ盾となっていた清が敗れると、今度は親露政策に活路を見出そうとする。
 これに不信感を抱いた日本と結託した大院君ら反閔妃勢力が蜂起し、宮殿に乱入して閔妃を殺害した(乙未事変)。こうして、大院君との20年に及ぶ熾烈な権力闘争に明け暮れた閔妃体制は突如、終幕した。
 この間、閔妃は正式に女王に即位することなく、王后の立場のまま、政治的に無関心・無能な高宗に代わって実権を保持していたのだが、周囲や外国からは事実上の朝鮮君主とみなされていた。その意味で、彼女は従来、朝鮮王朝でしばしば見られた垂簾聴政型の王后とは異なり、君主と同格の王后であった。
 彼女の反動的な勢道政治と事大主義は朝鮮王朝の命脈を縮めたが、一方で限定的ながら朝鮮近代化の先鞭をつけたのも、閔妃であった。特に文教分野では、キリスト教宣教師を招聘して朝鮮初の西洋式宮廷学院や女学校の設立を主導し、西洋近代的な文物・価値観の導入にも寛容であった。
 しかし、一方で呪術に凝るなど近代主義者としては限界があり、その政治路線も日和見主義的で、一貫しなかった。その点では、ほぼ同時期の清で実権を持った西太后と対比され、ともに近世から近代へ移り変わる激動期の中朝両国に出現した独異な女性権力者として注目すべきものがある。


◇黒田清隆(1840年‐1900年)

 明治維新後、近代的外交制度の下、長く朝鮮との通商関係を担ってきた対馬の宗家が退き、対朝鮮外交も外務省の所管に移った。初期の対朝鮮外交を政治レベルで主導したのが、後に第2代内閣総理大臣となる黒田清隆である。
 黒田は下級薩摩藩士の家に生まれた典型的な倒幕志士出身の明治元勲である。明治新政府ではまず北海道開拓という地味な分野からキャリアをスタートさせている。黒田は近代陸軍軍人でもありながら、帝国主義的な膨張には消極的で、征韓論に対しては内治重視の反対の論陣を張った。
 そういう黒田が1876年、朝鮮との国交交渉を担当する全権弁理大臣(大使)として締結したのが、日朝修好条規である。朝鮮の武力征服には反対しながらも、不平等条約としての性格が強い修好条規を通じて朝鮮を操縦していくという内治派の政略が反映されていたと見られる。
 もっとも、条約締結までの下交渉で活躍したのは外交官の森山茂(1842年‐1919年)であり、森山は77年に退官し元老院に転じるまで、ほぼ一貫して対朝鮮外交を担当したエキスパートであった。彼は当初、宋氏を通じた交渉に固執していた朝鮮側で大院君が失権し、明成皇后が実権を握った政変をとらえ、巧みに交渉して修好条規締結の環境整備をしたのだった。
 一方、黒田は森山の義弟(実妹の夫)でもあった政商・五代友厚との癒着が問題視された開拓使官有物払下げ疑獄で糾弾されながら、訴追は免れ、薩長重鎮として1888年には内閣総理大臣に就任している。
 しかし、朝鮮との不平等条約締結に寄与した黒田が、自国と欧米列強との不平等条約の改正交渉では頓挫し、国粋主義者による大隈外相襲撃事件を機にわずか1年半で内閣総辞職に追い込まれたのは皮肉であった。

◇三浦梧楼(1847年‐1926年)

 三浦は長州藩士・奇兵隊出身の近代陸軍軍人であり、西南戦争では政府軍の側で戦績を上げたが、黒田とは対照的に薩長藩閥政治に反対の論陣を張り、開拓使官有物払下げ疑獄では糾弾側に身を置いた。同時に議会開設・憲法制定を求める建白書を提出して左遷されるなど、民権派とは距離を置きつつ軍部内で反主流派を形成した。
 結局、三浦は黒田らに象徴される藩閥政治が跋扈した間は冷遇され、陸軍中将で退役せざるを得なかった。彼が再び日の目を見るのは、第二次伊藤博文内閣下で1895年、駐朝鮮全権公使に任命された時である。時の朝鮮は明成皇后の天下であった。
 ところが、着任後間もなく、三浦は皇后が王宮内で暗殺された乙未事変首謀者として検挙されることとなった。三浦は本国召喚後、広島で拘束され、旧司法制度の予審にかかるが、証拠不十分で免訴となり、釈放された。本国主導でのこの司法処理は、正式裁判を回避する真相隠蔽の疑いが強い。
 事変の黒幕は復権を狙い、日本にも接近していた大院君であった可能性が高いが、当時の複雑な朝鮮内政及び国際情勢の中、駐在外交官の三浦がどのような役割を果たしたのかは結局、不明のままである。その後の三浦は枢密顧問官となりながら終始藩閥打倒を唱え、政党政治の仲介人となるなど、内政上の立場は首尾一貫していた。

2017年12月13日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第16回)

三 スワヒリ文明圏

島嶼部への拡大
 スワヒリ文明は東アフリカ沿岸部を発祥地とするため、それが海を越えてアフリカ島嶼部にも浸透していくのは必然であった。中でもコモロ諸島である。コモロは東アフリカの大島であるマダガスカルと大陸部(現モザンビーク)の中間に位置する四つの島を中心とした諸島である。
 大陸部に近い位置からも最初の入植者は大陸から移住してきたバントゥー系黒人と見られ、かれらが文化的な基層となった点では、東アフリカ大陸部と類似している。しかしコモロは海洋に開かれた性質上、その後アラブ人・ペルシャ人や隣接するマダガスカル人なども加わり、高度の人種的混成が進んだ。
 イスラームが到来したのは10世紀頃であり、キルワ王国の成立年代からさほど隔たっていないところを見ると、キルワ王国をはじめとするスワヒリ文明圏に早くから組み込まれていたと考えられる。実際、10世紀以降のコモロはスワヒリ文明圏の貿易圏における主要なハブ港市として発展していく。
 文化的にイスラームが恒久化し、言語的にもコモロ語は島嶼言語としての独自性を持ちながらバントゥー語系に属し、かつスワヒリ語に類似しており、コモロ諸島はスワヒリ文明圏の辺境を成している。
 後にオマーンがザンジバルを征服して東アフリカ一帯に勢力圏を広げた後も、コモロは総体として独立を維持したが、統一国家の形成には至らず、島ごと、あるいは島内の集落ごとに首長制を形成する分裂状態が長く続いた。
 ちなみにコモロの東沖に位置するマダガスカルはインドネシア方面からの移住者によって早くから開拓され、言語・文化的にマレー系の要素が強い「アフリカの中のアジア」と言うべき独異な性格を帯びたが、大陸からバントゥー系黒人の移住者もあり、マダガスカル人はアジア系とアフリカ系との混血性の強い民族である。
 中でもマダガスカルの民族構成上四番目に大きなツィミヘティ族は18世紀頃、東アフリカから逃亡してきた奴隷の子孫集団と見られており、バントゥー系の血統が最も濃い民族集団である。しかしかれらはスワヒリ語やスワヒリ文明圏の慣習を捨て、先行マダガスカルの文化に同化したため、脱スワヒリ化したスワヒリ文明人とも言える。


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2017年12月 8日 (金)

神道と政治―史的総覧(連載第8回)

三 律令的神道祭祀の確立

神祇官の創設
 持統天皇時代に最初の整備がなされ、彼女が準備した続く奈良朝下で完成を見た日本型律令体制においては、神道の管理も律令的統治の中に明確に位置づけられた。朝廷の祭祀を統括する神祇官の職制がそれである。
 神祇官は一般行政を統括する太政官とは別途、形式上はその上位に位置づけられる上級官署であったことからも、天皇王朝が統治上神道をいかに重視したかが看て取れる。
 もっとも、神祇官の長官職である神祇伯の官位は従四位下とされ、太政官長官職で実質的な宰相格であった左大臣の正二位または従二位相当に比較しても低位であったから、神祇官の優位性はまさに儀礼的な意味合いにおいてにほかならず、神祇官が国政において主導的な役割を果たすことはなかった。その意味では、律令的天皇王朝は厳密な意味での「祭政一致」ではなかったとも言える。
 とはいえ、神祇官の職掌は朝廷の祭祀に始まり、諸国の祝部名帳や神戸戸籍の管理、大嘗祭・鎮魂祭の挙行、巫や亀卜のような秘儀に至るまで、神道に関わるおよそすべての業務を司り、現代風に言えば宗務行政庁としての役割を果たした。
 神祇伯の初例は必ずしも明確でないが、記録上は大宝律令制定前、持統天皇に任命された中臣大嶋と目されることは元来、中臣氏が神官職を所掌してきたことからして順当である。中臣氏はやがて、持統天皇の寵臣として律令制整備に尽力し異例の立身を果たした傍系同族の藤原不比等の子孫のみが藤原姓を許されたことに伴い、本宗家中臣氏が神祇官職を歴任する家系として確立された。
 神祇伯は世襲職ではなかったが、大嶋以降、奈良時代中頃までは歴代中臣氏が独占しており、何代かの中断をはさんで大中臣氏と改姓し、さらに平安時代初期まで神祇伯を独占し続けた。言わば、祭祀は中臣氏が、政治は同族藤原氏が分担する体制ができたわけである。
 一方、実際の祭祀や亀卜など秘儀の実務を行なう職掌として、神部や卜部といった下級職があったが、中でも卜部は亀卜を主任務とする職掌であり、地方から卜術に優れた者が抜擢された。そうした中、その名も卜部氏が中央貴族集団として形成され、やがて天皇専属の亀卜職たる宮主職を独占するに至るのである。

2017年12月 3日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第20回)

二十 李昰応・興宣大院君(1820年‐1898年)

 勢道政治に呑まれ、全く権能を発揮できなかった25代哲宗が1863年に没すると、転機が訪れた。まだ存命していた24代憲宗生母の神貞王后が動き、26代国王として、全くの王室傍流にあった李昰応の次男・高宗を即位させる。
 李昰応は22代正祖の異母弟の養子の四男という王室の遠縁で、血統上は16代仁祖の子孫に当たるが、すでに王族としての待遇はされていない一族の出自であった。従って、李昰応自ら王位に就くことはできず、その次男を神貞王后の養子とした上で即位させるという変則的な手法が採られたのだった。
 李昰応の一族は先述したように、王族待遇を受けていなかったため、青年時代の彼はならず者と交際するなどの無頼生活を送っていたが、実のところ、政治的な野心は隠し持っていたようで、さしあたり神貞王后に接近し、その評価を勝ち取ったことが、立身出世の契機となった。
 李昰応には長男もあったが、年少の次男に白羽の矢が立ったのは、そのほうが神貞王后‐李昰応ラインで操作しやすいと踏んだからであろう。この新体制では、李昰応が国王実父・大院君の立場で政治の実権を握った。
 実権を掌握した大院君・李昰応は正式の国王ではないものの、彼が実権者だった時期には、事実上国王を凌ぐ実質的な君主であった。彼の新体制には、改革的な要素と保守的な要素の二面性があった。
 改革的要素は主として内政面で、従来弊害著しかった勢道政治の一掃を図ったことである。最高機関である議政府を立て直し、勢道勢力以外からの人材登用を行なったほか、三政の紊乱を正すため、法典の整備や監察制度の強化なども断行した。
 他方で、王族を要職に就けて王室の権力を強化したほか、改めて国教・国学としての儒教を重視し、キリスト教を弾圧するなどの保守的な一面があった。
 しかし、大院君政治の保守的な一面が最も色濃く現れたのは、対外政策であった。この頃になると、ロシアやフランス、アメリカなど列強が朝鮮に開国を迫るようになってきたが、李昰応はこれをことごとく排撃する強硬方針で臨み、たびたび洋擾事件を引き起こした。
 李昰応の失敗は、勢道勢力排除の目的から、息子高宗の妃として、自身の正室の出身でもあった傍流門閥・驪興閔氏出身の閔妃を立てたことであった。彼女は野心家であり、次第に大院君と敵対するようになる。
 しかし、専制君主のように振舞う大院君に対しては、王室家長的な立場の神貞王后からも批判を受けるに至り、1873年、ついに大院君弾劾書が提出され、大院君は失権することとなった。
 代わって実権を握ったのは、高宗ではなく、閔妃であった。しかし、闘争的な李昰応の政治生命はこれで尽きることなく、ここからさらに二度の復権を果たすのである。
 一度目の復権は、1882年、壬午軍乱の時である。この政変は、閔妃体制が導入した新式軍隊に不満を持つ旧式軍隊の軍人らが主導したクーデター事件であったが、この際、大院君が担ぎ出される形で復権したのである。
 しかし、第二次大院君政権は清と結託した閔妃側の策略によって失敗に終わり、大院君は清国に連行、幽閉されてしまう。しかし、大院君はなおも復権を画策し、清から帰国すると、新興宗教の東学党に接近するという奇策に出る。
 1894年には東学党を主力とする甲午農民戦争を利用しつつ、閔妃と険悪化していた明治日本にも接近し、日本を後ろ盾に、二度目の復権を果たすのである。しかし、これは日本の傀儡に近い政権であり、たちまち日本との不和に陥り、短期間で失権させられた。
 すでに70歳を越えていた李昰応はなおも復権に執着し、ついには改めて日本と結託し、閔妃暗殺計画に加担することになる。彼は閔妃を排除して、孫の永宣君を新国王に擁立する計略を練っていたのだった。こうして閔妃暗殺は1895年、実際に起きたが(乙未事変)、直後に親露派の対抗クーデターが起き、李昰応の計略は砕かれた。
 乙未事変を機に、従来から不和だった高宗とも決裂、以後の李昰応は完全に政治の表舞台から退き、98年、その波乱に満ちた長い生涯を閉じた。彼は生涯正式の国王とはならなかったが、孫の純宗の時、国王に準じて大院王を追号されている。
 李昰応は、政治的に無能な息子の高宗に代わり、衰退の一途だった朝鮮王朝を一時的に建て直し、延命しようとしたが、対外政策が保守的に過ぎたことや、晩年は野心的な嫁の閔妃との権力闘争に明け暮れたことで、その延命努力は相当に減殺されてしまったと言える。


§17 宗義達(1847年‐1902年)

 宗義達〔よしあきら〕は、前回も見たように、当初世子に決定されていながら、異母兄との家督継承争いに巻き込まれ、一度廃嫡された後、最終的に世子として返り咲くという異例の登位を経験している。また、父が親長州派・義党の圧力で隠居に追い込まれた後、若くして継承した経緯からも、藩政は義党に握られた。
 これに対して、反義党派は佐幕的な俗論党を結成して対抗し、幕末の対馬藩政は若い藩主の下、倒幕派と佐幕派の二大派閥に分裂し、揺れ動いたのである。そうした中、第一次長州征伐で長州藩が幕府に敗北したことを契機に俗論党が決起し、家老大浦和礼に率いられた義党を大量検挙・処刑するという政変を起こした。俗論党のリーダーで、義達の伯父でもあった勝井員周の名を取り、勝井騒動と呼ばれるこの政変は義党の巻き返しにより混沌を極めた。
 義達はここでようやく派閥対立の解消に乗り出し、まず自身の後見人でもあった勝井を討伐したうえ、義党の新指導者であった平田達弘をも斬首し、両派の内紛を鎮圧した。そうした情勢下、戊辰戦争が勃発すると、義達は新政府側に立って親征するが、大坂まで進軍したところで終戦となった。
 明治維新後、義達改め重正は、版籍奉還により対馬府中藩主を返上し、改めて厳原藩知事に任命されたことで、最後の対馬藩主となる。明治最初期の重正に与えられた役割は、明治政府と朝鮮王朝との外交窓口となることであった。旧対馬藩と朝鮮の歴史的な通商関係が考慮されてのことである。
 しかし、これも廃藩置県により重正が藩知事を免官されると、国交交渉も新設されたばかりの外務省に移管され、重正は外務省ナンバー4の外務大丞に任ぜられた。近代外交官への転進である。しかし、時の朝鮮王朝は保守的な大院君が実権を持ち、旧来の対馬藩外交使節以外による国交交渉を拒否した。
 外務省を通じた近代外交を基本方針とする明治政府はこれに応じず、大院君の失権まで対朝鮮外交は閉塞を余儀なくされた。二度にわたり外務大丞を務めた義達も充分な役割を果たせないまま、外務省を去ることになった。重正は後に伯爵に叙せられるも、明治政府で要職に就くことはなく、20世紀をまたいで没した。

2017年11月26日 (日)

アフリカ黒人の軌跡(連載第15回)

三 スワヒリ文明圏

オマーン=ザンジバルの成立
 東アフリカの黒人奴隷ザンジュを語源とするザンジバル島は、前回見たキルワ王国の領土であったが、同王国が衰亡した後、ここを支配したのは最初はポルトガル、次いでアラビア半島南部のオマーンであった。
 オマーン自身、16世紀初頭以来、ポルトガルの支配下に置かれていたが、17世紀前半、イスラーム少数宗派イバード派を奉じるヤアルビー家が台頭し、イマーム王朝を樹立した。このヤアーリバ朝はポルトガルからの独立戦争に勝利し、ポルトガルを本国オマーンから撃退したばかりか、40年近い攻防戦を経てザンジバル島からも駆逐することに成功したのである。
 これ以降、ザンジバル島はオマーンの東アフリカ拠点となり、オマーンは東アフリカ沿岸、紅海沿岸、ペルシア湾岸を結ぶ中継貿易の利権を掌握する海洋貿易帝国として大いに繁栄していく。その後、ヤアーリバ朝はイランによって滅ぼされるが、すぐに同じイバード派のブーサイード家が奪回し、新たなブーサイード朝を建てた。
 その結果、ザンジバルは引き続きブーサイード朝オマーンの領土となる。このオマーン=ザンジバルの支配層は明白にアラブ系であり、アラブ支配下では旧来のキルワ支配層を成したイラン出自とされるシラージも、バントゥー系アフリカ人とともに従属階級に置かれた。
 しかしこの時代になると、シラージ系とバントゥー系の血統的相違はますます相対化され、バントゥー化したシラージはスワヒリ語を母語とし、スワヒリ語圏の商業を担いつつ、スワヒリ語を内陸部まで拡大する役割を果たしたと見られる。
 ザンジバルは19世紀前半にオマーンの新首都となるが、間もなく王朝の内紛から分離独立し、改めてザンジバル王国が成立する。しかし、支配層は引き続きアラブ系のブーサイード朝分家であった。この頃になると、アラブ系とバントゥー化したシラージ系の混血も進み、スルターン自身にも、残された写真からすると母系からバントゥー黒人の血が注入されていたように思われる。
 とはいえ、引き続き従属階級のままに置かれたアフリカ黒人がザンジバルで主体性を獲得するのは、シラージと共同して決起した1964年のザンジバル革命によってザンジバル王国が打倒されてからであった。

2017年11月22日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第7回)

二 天皇制の創出と神道

第二次宗教改革:「天照神道」の確立
 仏教を定着させた蘇我体制(蘇我王朝―私見)は、半世紀ほど続いた後、7世紀半ばのいわゆる大化の改新によって倒され、旧王朝が復活した。この復活王朝(後昆支朝―詳しくは拙稿参照)は、二度と王権を簒奪されないためにも、君主(オオキミ)の権威を高める必要に迫られていた。
 その表れが「天皇」称号の創始であり、天皇王朝を支える律令的諸制度・機構の整備という事業であったが、それが本格化したのは、壬申の乱を経て権力を掌握した天武天皇の時代からである。天皇称号の使用も彼の時代からと言われるゆえんである。
 天皇という称号自体に天皇の至上性が表現されているが、形式的な称号だけでは足らず、宗教的なイデオロギーとしても、天皇は神の化身とみなされた。万葉集所収の天武代の和歌に、「大君は神にしませば」と詠まれたゆえんである。
 このような君主の神格化は、古代王権においては世界各地で見られるところであるが、日本の場合は古来の神道による権威付けが志向された。そうした権威付けの決定策として、新たな宗教改革が実行されたのである。その実行者は天武ではなく、その皇后で天武没後に皇位を継承した持統天皇である。
 持統主導で行なわれた宗教改革の本旨をひとことで言うなら、天照大神を最高神とする「天照神道」の確立である。従前の神道は王朝始祖・応神天皇=昆支大王が実行した第一次宗教改革における三輪山イヅモ神道を基調としていたところ、持統はこれを覆したのである。
 そのうえで、天照大神という女神とこれを祀る伊勢神宮を新たに皇室祭祀の中心に持ち出したのである。天照大神は元来、三輪山周辺の土着信仰上の神であったらしいが、第一次宗教改革の結果、排除されていたものを改めて再発見したのは持統特有のある種フェミニズムの反映であったと思われる(拙稿参照)。
 持統がこうした宗教改革―ある面では復古的宗教反動―を断行するに当たっては、まさに三輪山イヅモ神道の代弁者とも言える大三輪氏の職を賭した反対を受けたが、彼女は対抗上、藤原氏の助力を得て改革を貫徹したのである。
 後に天皇王朝下最強の貴族となる藤原氏―旧姓中臣氏―は、神話上の始祖が天孫降臨に随行したとされる伽耶系渡来人を遠祖とする豪族で、元は神と人とを媒介する霊媒者的な神官であったと見られる。かれらは仏教受容をめぐる内乱では反仏教派に与しながら、蘇我王朝下も生き延びた巧みな政略的一族であった。
 藤原氏の権勢をも高めた第二次宗教改革と「天照神道」の確立は、同時に行なわれた律令的天皇王朝制度の整備と相まって、天皇王朝の永続性を担保する精神的な土台となっていったものと思われる。
 ただし、第二次宗教改革後も仏教は排斥されず、むしろ天武‐持統時代には多くの官寺が建立され、仏教の国家管理化も推進されていたが、仏教は天皇制そのものの基礎というよりは、護国祈願的な観点からの国教という位置づけを持ち、天皇制の基礎となる神道とは役割が分担された二元的な国教体制が確立されていくことになる。

«「ヒトラー逃亡説」の科学性

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