2017年5月24日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第32回)

十一 近代国家と仏教

社会主義体制と仏教
 近代になると、仏教も社会主義体制という新しい政治国家と直面する段階を迎えた。その最初の好例は、世界で二番目―アジアでは最初の―社会主義国家となったモンゴルである。
 中世にチベット仏教国として確立されたモンゴルの近代は、チベット出身の活仏ボグド・ハーンを戴く立憲君主制国家として始まったが、間もなくロシア革命の影響を受けた社会主義勢力が台頭し、最後のボグド・ハーンとなったジェプツンダンバ・ホトクト8世の逝去を機に社会主義共和制へ移行したのであった。
 その後、人民革命党社会主義体制下でもしばらく仏教は保護されていたが、1930年代、スターリンのソ連と衛星同盟した独裁者チョイバルサンの下、大々的な仏教弾圧が開始された。この時、3万人以上と言われる僧侶が殺戮される大粛清が断行され、仏教寺院は閉鎖された。
 仏教には「神」の概念はなく、社会主義的な無神論と両立できる面もあるが、当時のスターリン主義体制下ではそうした細密な考慮はなされず、宗教=反革命という定式の下、非弁証法的な仕方で仏教が否定されたのである。モンゴルで仏教が復興したのは、社会主義体制の抑圧がある程度緩和された1970年代のことであった。
 同様の事態は、共産党支配体制が確立された中国でも起きた。中国でも当初は1953年に設立された中国仏教協会を翼賛的な仏教団体として仏教が一定保護されたが、1960年代の文化大革命の時期、仏教は反革命的と断罪され、寺院は破壊の標的とされた。
 しかし、中国の場合は中国仏教そのものの弾圧に加え、後に改めて触れるチベット民族問題が絡み、チベット仏教への弾圧が激しく行なわれ、多くのチベット僧侶が迫害・殺戮された点で、二重構造的な弾圧政策であった。
 毛沢東の死没と文革終了後、その誤りが公式に認められると、中国仏教協会の指導下に仏教の復興がなされ、文革期に破壊され、荒廃した寺院の再建などの事業が行なわれたが、あくまでも共産党体制が許容する範囲内での活動である。
 他方、仏教と社会主義を対立させず、上座部仏教思想に基づく社会主義を指向したのが1950‐60年代のカンボジアとビルマであった。カンボジアではシハヌーク国王が王制の枠内での仏教社会主義を提唱した。また60年代に軍事クーデターで政権を掌握したネ・ウィンが提唱した「ビルマ式社会主義」もその系譜に含まれる。
 これら仏教社会主義体制は新奇ではあったが、内実に乏しく、カンボジアでは70年代に狂信的な大虐殺を断行する共産党の台頭を防げなかった。ビルマ式社会主義はネ・ウィン独裁体制の代名詞と化し、その民主化運動による崩壊は軍事独裁政権の反動を招いた。

2017年5月21日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第17回)

第二部 現況~未来

(6)政情不安事例①:フィジー
 平穏でのどかな印象さえ強いオセアニアであるが、ここにも民族紛争に起因する政情不安の事例がいくつか見られる。幸いそのほとんどは現時点で一応解決を見ており、現代史の出来事となりつつあるが、再燃の可能性がないわけではない。
 その一つフィジーは旧宗主国英国が移入させたインド系労働者の子孫が人口の高い割合を占めてきた点でオセアニアでも特異な状況にあったが、インド系フィジー人は独立後、経済を主導する富裕層の地位に上った。これには、多数派先住フィジー人の不満が鬱積していた。
 87年の総選挙でインド系政権が誕生すると、そうした不満を背景に、1987年に二度の軍事クーデターが勃発する。オセアニアでは極めて稀な事態であった。
 クーデター指導者シティベニ・ランブカ中佐は先住フィジー人であり、英連邦離脱・共和制移行と先住フィジー人を優遇する憲法改正を主導したことから、彼のクーデターには民族革命的要素が加わった。
 ランブカ自身、文民として92年から99年まで首相を務め、この間にフィジーは英連邦復帰を果たした。しかしランブカは99年の総選挙で敗れ、インド系のチョードリー政権に交替した。
 これに反発した先住民系武装グループによる国会占拠事件が起きると、軍部が介入、武装グループとチョードリー政権双方を排除し、ガラセ首相の先住民系政権を発足させた。しかし、06年にはガラセ首相と対立したフランク・バイニマラマ軍司令官がクーデターを起こし、政権を奪取する。
 これに対してオーストラリアやEUをはじめとする国際社会が制裁を科す中、バイニマラマは巧妙な生き残り戦術で14年の総選挙まで軍事政権を維持し続けたのであった。同年の総選挙で、バイニマラマは民族融和的なフィジーファースト党を率いて圧勝し、改めて文民政権首相として支配を維持している。
 こうして、最近十数年のフィジーはバイニマラマの長期政権下で政治的な安定は確保できているかに見えるが、打ち続くクーデターや先住民優遇策を嫌ったインド系ビジネスパーソンの海外流出やクーデター後の経済制裁の影響から、経済の低迷が続く。
 そうした中、経済制裁に加わらない中国の経済援助的進出が目立つ。中国の着眼はフィジーの水産資源にあるとされ、すでに中国国営水産会社がバイニマラマ政権とのパイプを軸に展開している。こうした新動向は、中国の太平洋進出を象徴している。

2017年5月19日 (金)

「無償化」の裏側

 憲法を改正して高等教育を無償化するという動きが急である。無償化の理念自体には大いに賛成である。だが、日本の高等教育は私学に多くを委ねてきた。その結果、私立大学(短大を含む)に在籍する学生の割合は8割に達するという。要するに、日本の学生≒私立大学生なのである。
 私学は授業料を収入源として成り立つ独立採算制の学校であるゆえに、経営者の教育理念に基づいた自由な教育が許される。これを無償化することは、倒産への道である。結局、日本における高等教育無償化は2割にすぎない国公立大学生向けのものとなる。
 ただ、国公立大学には「難関」が多いので、学生も全般に「優秀」とみなされている。かれらだけを無償とするなら、エリート奨学制度と化すだろう。国公立と私立の格差はいっそう広がることになる。全然平等ではない。もっとも、高校レベルで実施している私学向けの就学支援金のような制度によって授業料低減を図ることはできるが、これは本来の無償化とは異なる。
 ということで、日本で高等教育無償化は合理性を持たないと考えられる。なのに、突如無償化論が浮上したのは、9条改憲を急ぐ政権の思惑絡みとしか思えない。9条改憲と抱き合わせ販売の押し売りをしようという魂胆だろう。違うならお詫びするが、無償化論の裏側は冷静に見究めたい。

2017年5月11日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第4回)

一 「残アフリカ」した人々

三大言語系統の形成
 アフリカ黒人を最も重要かつ客観的な民族的指標である言語を基準に分類すると、(Ⅰ)コイサン諸語、(Ⅱ)ニジェール・コンゴ語族、(Ⅲ)ナイル・サハラ語族の三言語人系統に大別されるとするのがおおむね通説となっている。
 このうち、前回見たコイサン諸民族を包含する(Ⅰ)群は、アフリカで―より広く現生人類中でも―最古の言語を持つ諸族である可能性が高い。
 (Ⅱ)群は現代のアフリカ大陸において話者数・言語数において最大のグループであり、中でもバントゥー語群が中核を成す。バントゥー諸語を持つのはバントゥー系諸民族であり、現代アフリカ黒人中でも最大勢力を成している。
 かれらの原郷は今日のナイジェリア‐カメルーン国境付近と推定されている。おそらくは南アフリカ付近で誕生し、「残アフリカ」したグループが北西へ移住することで形成された集団であろう。形成時期は紀元前2000年頃とされ、さほど古くはない。
 かれらはやがて農耕・牧畜を身につけて繁栄し、多数の部族に分かれて拡散を始めた。バントゥー人大移動である。言わば南アフリカへと回帰していく形で、アフリカ大陸中央部から南部にかけてバントゥー系諸民族の居住地域が拡大し、南部に残留していた(Ⅰ)群の狩猟採集民族をも吸収していったであろう。
 (Ⅲ)群は名称どおり、ナイル流域・サハラ砂漠を中心に広がる言語群であり、その歴史的な代表格はスーダンのヌビア人であるが、話者数で言えば、今日のケニアとタンザニアに分布するルオ族が最大である。
 かつてサハラ砂漠はステップ緑地帯であり、豊かな地域であったことから、古くから人類の活動が見られる。そうした古サハラ人の民族系統については十分明らかではないが、南アフリカからこのサハラ緑地へと移住していったグループの末裔がこの(Ⅲ)群に包含されるかもしれない。
 文明という観点から見ると、アフリカ黒人中、最も初期に文明国家を築いたのはヌビア人であった。かれらは紀元前26世紀にはナパタを都とする王国を形成し、隣接するエジプト文明の影響下に発展し、一時はエジプト自体をも併合するのである。

2017年5月 7日 (日)

私家版李朝国王列伝〔増補版〕(連載第9回)

九 中宗・李懌(1488年‐1544年)/仁宗・李峼(1515年‐1545年)

 暴君と化した燕山君を廃位に追い込んだ1506年のクーデターは「中宗反正」とも称されるように、新たな11代国王に擁立されたのは燕山君の異母弟に当たる中宗であった。しかし、燕山君即位時と同様、18歳の年少国王であり、彼の長い治世は「反正」には程遠かった。
 対外的には、治世初期の10年に三浦の乱が起きている。これは、15世紀前半以降、半島南部の三つの海港(三浦)に居留し、朝鮮当局の司法や徴税も及ばないような形で事実上自治を行なっていた日本人(恒居倭)が起こした反乱を対馬領主宗氏が援軍した武力衝突事件であり、その背景には朝鮮当局による日本人への管理統制強化への反発があった。
 三浦の乱を鎮圧した後は内政混乱が待っていた。中宗は勲旧派のクーデターで擁立されたにもかかわらず、彼らの増長を抑えるため、政権初期には燕山君時代に弾圧された士林派を復活させたため、これを巻き返しのチャンスと見た彼らの権勢が増した。
 特に15年から19年にかけては儒学者でもある趙光祖を中心とする士林派が実権を握り、儒学の理念に基づく急進的な改革を断行した。趙光祖は儒教的理想主義者であり、その主張には当時の朝鮮王朝では現実離れした点が多々あったうえ、科挙によらない人材登用や偽勲者の追放など勲旧派の権益を脅かす施策を進めたため、19年、勲旧派の謀略により、趙光祖をはじめとする士林派が弾圧され、趙光祖も流刑の後、賜死となった(己卯士禍)。
 これ以降、中宗治下では弾圧、陰謀、反逆事件が相次ぎ、燕山君時代に勝るとも劣らぬ政情不安に陥った。指導力を欠く中宗の宮廷では、勲旧派と姻戚の権力闘争が絶えなかった。晩年には継室文定王后とその親族の政治介入を招いた。ただ、唯一の救いは、燕山君と異なり中宗は暴君ではなかったことである。そのため、彼は44年に死去するまで、38年の長期治世を保った。
 中宗の死の前日に譲位を受けた長男の12代仁宗は成均館で学んだ好学の君主で、故・趙光祖の理想に基づく政治の復活によって父王時代に凋落した国政の改革を試みたが、李朝歴代国王中最短の在位わずか8か月にして死去した。
 その急死には不審な点もあり、仁宗の政治改革を快く思っていなかった育ての親である文定王后による謀殺説も提起されるが、真相は不明である。ただ、仁宗の早世は続く13代明宗の生母でもある文定王后とその親族にとっては密かな慶事であったことはたしかである。


§7 宗義盛(1476年‐1520年)/宗晴康(1475年‐1563年)

 宗義盛は先代材盛の嫡子として後を継いだが、時代は戦国期、対馬でも守護代家の権勢が増していた。そのような時に起きたのが、上記三浦の乱であった。この事件は直接には朝鮮在留日本人が起こしたものだが、義盛はこれに加勢する形で介入している。
 当時、宗氏はこうした朝鮮在留日本人に対しては三浦代官を派遣して管理するようになっていたため、乱に際してはむしろこれを鎮圧すべき立場にあったところ、援軍した背景には、当時権勢を増していた守護代家への対抗があったともされる。
 義盛は自ら軍勢を率いて参戦したが、結局は敗北した。結果は、朝鮮との通交断絶であった。しかし、それで終わらない粘りも宗氏の持ち味である。乱後から大内氏を通じた講和交渉に入り、わずか二年後には通交再開・講和条約に漕ぎ着けている。
 ただし、新条約(壬申条約)の内容は乱の根源であった恒居倭廃止はもとより、開港場は一箇所に制限、島主歳遣船の減便、通交許可審査の厳格化など、宗氏にとっては厳しい内容であった。しかし、宗氏はこれを受け入れるしかなかった。
 義盛の威信はこれによりいっそう低下したようであり、彼の没後、宗氏当主は宗家(本家)を離れ、盛長、将盛と分家に転々継承される混乱が続く。この間、条約改定交渉も試みられるが、成功しないまま、秀吉時代を迎えることになる。
 こうした家内混乱を収めたのが1539年、家臣団の反乱で追放された甥の先代当主将盛を継いだ宗晴康である。彼は混乱の原因であった多数の分家を整理し、宗家以外の宗氏公称を禁ずる措置を発動して、対馬所領の統一と戦国大名化を推進した。
 一度は僧籍に入っていた晴康は還俗してかなりの高齢で当主に就き、1552年に嫡子義調〔よししげ〕に家督を譲った後、当時としては異例の89歳という長寿を全うしている。年齢にかかわらず、有能かつ頑強な戦国大名型の当主であったのだろう。

2017年4月30日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第12回)

十三 尚穆王(1739年‐1794年)/尚温王(1784年‐1802年)/尚成王(1800年‐1804年)

 14代尚穆〔しょうぼく〕王は、父の先代尚敬王が死去した時はまだ10代と若く、すでに退官していた蔡温が薩摩藩の命により引き続き実質的な宰相格を務めた。この間、1756年の清国冊封使の接受も蔡温が仕切っている。
 蔡温が完全に引退した後、彼に匹敵するような実力を持った宰相は出ず、尚穆王代には重臣の合議が機能したと見られる。その成果として、86年に発布された琉球発の成文刑法典・琉球科律がある。これは従来、不文慣習法や判例に委ねられた刑法を集大成して、法治国家としての基盤を整備した意義を持つ。
 尚穆王が在位した40数年は比較的安泰無事であり、清国や薩摩藩との関係も良好であった。世子尚哲は好学の秀才と謳われ、73年から翌年にかけて薩摩藩を表敬訪問し、時の藩主島津重豪の歓待を受けるが、88年、父に先立って30歳で早世した。
 そのため、尚穆王を継いだのは孫の尚温王であった。彼も年少での即位ながら、父尚哲に似て好学と見え、教育制度の改革に乗り出した。すなわち、従来福建人にルーツを持つ久米村出身者が独占してきた中国留学生(官生)の制度の改革と新たな最高学府・国学の創立である。
 この教育制度改革は自身も久米村出身であった国師・蔡世昌を中心に断行されたため、彼は久米村出身者から激しい糾弾攻撃を受けた。その結果、98年には暴動に発展したため、王府が強制介入し、久米村出身者を弾圧した。このいわゆる官生騒動は王府主導で鎮圧され、以後、国学による高等教育制度が定着する。
 だが、父以上の短命で、18歳にして夭折した尚温王を継いだのはわずか2歳の長男尚成王であったが、これも翌年に夭折したため、尚哲の四男尚灝(しょうこう)が17代国王に即位することとなるというように、この時期の琉球王朝は王位継承に揺らぎが生じていた。


六´ 島津重豪(1745年‐1833年)

 島津重豪〔しげひで〕が8代薩摩藩主となったのは先代の父重年が若年で死去した11歳の時であり、祖父継豊が死去するまで、その後見を受けた。継豊没後は外祖父による後見を経て、親政を開始する。
 重豪は薩摩藩では久方ぶりに長寿を保つ藩主となるが、その半生は大きく三期に分かれる。第一期は上述した年少時の後見期であるが、第二期が表向き隠居する天明七年(1787年)までの親政期である。
 この時代から、重豪は藩政改革に取り組む。好学の重豪が最も注力したのは文教政策であった。その一環として藩校や武芸道場、天文研究所、医学校などを矢継ぎ早に設立した。このような政策は、重豪が歓待した琉球王世子尚哲を通じて、その子である尚温王による上述の教育改革に影響を及ぼした可能性がある。
 ただ、財政的には父の時代に幕府(将軍家重)から「手伝普請」として不当に課せられた木曽三川の治水事業(宝暦治水)の負の遺産もあり、重豪の諸政策は終生を通して藩の財政悪化を促進することになる。
 中でも隠居後、大御所として主導した蘭学への傾斜と華美好みは、自身による粛正改革策への転換を導くことになるが、この重豪治世第三期については稿を改めて見ることにする。

2017年4月26日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第31回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

タイ系諸王朝と仏教政治
 現在、東南アジアで仏教と政治の関係が最も密で、上座部系仏教政治の「大国」と言えるのはタイであるが、元来は精霊信仰が盛んだったタイ族の仏教受容過程については記録が少なく、不明な点が多い。
 少なくとも、仏教が国教的地位になったのは周辺諸国と比べて決して早かったわけではなく、おおむね14世紀のことである。それには、二つの王朝的流れがあった。一つはタイ中心部に成立した王朝スコータイ朝、もう一つはタイ北部に成立したラーンナー朝である。
 後者はチェンマイを中心に栄えた王朝であるが、先住のモン族の影響を受け、上座部仏教を導入した。特に14世紀中葉の第5代パーユー王の頃から仏教を積極的に保護するようになった。しかしラーンナー朝は16世紀後半以降はビルマの支配に下り、短い復興後は後述チャクリー朝に吸収されていく。
 前者のスコータイ朝では元来その支配を受けてきたクメール王朝の影響下に上座部仏教が浸透したと考えられるが、仏教が本格的な国教的地位を確立するのはさらに下り14世紀後半、第6代リタイ王代であった。この頃の王朝は南に成立した同じタイ族系アユタヤ朝やタイ族の分派とも言えるラーオ族が建てたラーンサーン朝のような後発諸国の台頭により圧迫されていた。
 そこで、リタイ王は王朝建て直しのため遷都するとともに、仏教を国家の精神的支柱に据え、自ら出家して仏教に帰依した。「仏法王」を称したリタイ王は仏教書を執筆するほど仏教の普及に尽くした。彼はまた上座部仏教の聖地であるセイロンから高僧を招聘して寺院の長に据え、タイ仏教の中核となるサンガ制度の土台を築いた。
 こうしたスコータイ式仏教政治はライバルのアユタヤ朝やラーンナー朝、ラーンサーン朝にも伝わり、同様の仏教政治が導入される。スコータイ朝はリタイ王の努力にもかかわらず衰退を続け、15世紀前半にはアユタヤ朝に吸収された。そのアユタヤ朝も上座部仏教国ながら、クメール王朝の影響も強く、ヒンドゥー的な色彩も帯びていた。
 18世紀、ビルマのコンバウン朝によって破壊され、滅亡したアユタヤ朝の後、一代限りのトンブリー朝を経て成立し、今日まで続くチャクリー朝においても仏教政治の基本は継承されたが、19世紀、重要な改革が二代にわたる王によって加えられる。
 最初はラーマ4世によるサンガの規律強化であり、この時に厳格な戒律をもって統制された新サンガのタンマユット僧団と旧来のサンガであるマハー僧団の二大サンガの対抗状況が生じた。
 続くラーマ5世による大規模な社会改革では、サンガ法を通じたサンガの宗教法人化と全僧侶の僧籍編入という国家管理政策が導入された。この画期的な改革により、タイ仏教は国家の保護統制下に置かれるようになった。
 その後、タイは周辺諸国とは対照的に西洋列強の植民地支配を免れたため、キリスト教宣教というお決まりの改宗干渉を受けることなく社会に深く定着し、タイの国家・社会の上部構造的支柱として確立されていった。
 大僧正(ソムデートプラサンカラート)を頂点とするサンガ制度は20世紀の立憲革命を経て、法的に変遷を重ねており、特にタイ近代政治を特色づける歴代軍事政権はサンガの統制管理をめぐり、しばしばサンガと微妙な関係に立つとともに、サンガ自体の腐敗も指摘される。
 なお、タイと民族文化的に近縁なラオスについても言及すると、先述ラーンサーン朝も全盛期を作った16世紀のセーターティラート王代には国章ともなっている仏塔タート・ルアンの建立がなされるなど仏教国として栄えたが、同時にアニミズム信仰も根強く、仏教と混淆していた。
 ラーンサーン朝は17世紀末に王位継承をめぐって三分裂し、18世紀後半にはトンブリー朝、続いてチャクリー朝の支配に下った後、仏泰戦争の結果、19世紀末にフランスの保護国として実質的な植民地に編入された。そのため、この先、ラオス仏教はタイ仏教とは大きく運命が分かれる。
 第二次世界大戦後の独立、インドシナ戦争を経た1975年の革命後、ラオスはマルクス‐レーニン主義国家となり、標榜上は無神論体制であるため、仏教と政治は分離されたが、なお国民のおよそ70パーセントは仏教徒とされる。

2017年4月22日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第16回)

第二部 現況~未来

(5)日系オセアニア人たち
 戦後の日本は敗戦の結果、オセアニア地域の領土をすべてアメリカの信託統治の形で没収されて以降、この地域にもはや領土は保有していないが、今日でもオセアニアにおいて無視できない人的勢力として、日本人の血を引く日系オセアニア人がある。
 その中心はアメリカのハワイ州である。ハワイ州はアメリカ50州中、アジア系住民が優位を占める唯一の州であるが、その中で日系は現在、フィリピン系に次ぐ第二位で、約18万人と推計される。
 かれらの多くは明治維新後、1924年の排日的な移民法の制定に至るまで続いた移民の子孫たちであり、第二世代以降は日系ハワイ人として定着し、社会に根を張って政治的にも力を持つようになる。
 その象徴は、日系人初―アジア系としても初―の州知事として1974年から86年まで3期12年にわたりハワイ州知事職を全うした日系二世のジョージ・アリヨシである。さらに、2014年には日系人として二人目のデービッド・イゲが州知事に当選した。イゲはハワイ日系人に多い沖縄移民系としては初となる州知事である。
 また各州代表院としての性格が強い連邦議会上院では、故ダニエル・イノウエがハワイ州選出上院議員として1963年から半世紀近く多選を重ね、民主党で重きをなした。彼は大統領継承順位第3位となる上院仮議長まで務め、規定上は合衆国大統領に最も近い位置まで届いた日系人でもあった。
 なお、2013年にハワイ州選出上院議員に当選した戦後の日系一世メイジー・ヒロノは、全米で初のアジア系女性上院議員でもある。
 日系人の政界進出は戦前、南洋諸島統治の中心であったパラオにも見られる。純粋の日系人とみなすことができるか微妙だが、85年に暗殺されたハルオ・レメリク初代大統領はパラオ人男性と日本人女性の間に生まれている。第5代のクニオ・ナカムラ大統領も混血だが、父が日本人であり、日系人とみなされている。
 ミクロネシアの故トシオ・ナカヤマ初代大統領も父が日本人の混血日系人であり、第7代マニー・モリ大統領は日系四世である。その他、マーシャル諸島でも、第3代ケーサイ・ノート大統領は祖父が日本人の日系三世である。
 これら混血系も含めた日系オセアニア人の多くは戦前の貧しさゆえの経済移民、あるいは植民地統治の結果としての移民の子孫たちであるが、戦後もビジネス目的や生活目的で、オーストラリアやニュージーランドにも場所を広げて続いているオセアニア移住者の子孫が現地で定着すれば、新たなメンバーを加えて日系オセアニア人の勢力が発展していくであろう。

2017年4月20日 (木)

私家版李朝国王列伝〔増補版〕(連載第8回)

八 燕山君・李㦕(1476年‐1506年)

 9代成宗が1494年に死去した後を継いだのは、18歳の世子李㦕であった。年齢的に見て大妃の後見が必要なはずであったが、生母尹氏は去る82年に賜薬を下され、処刑されていた。
 弱小両班の生まれながら成宗の寵愛を受けた王后尹氏は性格と素行に問題があり、呪詛事件を起こして降格されたうえ、尹氏のもとを訪れた成宗の顔面をひっかくという前代未聞の粗暴な不敬の罪により処刑に至ったのだった。この賜死事件が、燕山君の治世に大きな影を落とすことになる。
 即位当初こそ父王時代の施策を継承し安定した治世だったが、父王の時代に登用されるようになった士林派に対して、勲旧派の巻き返しが始まる。彼らは未熟な王を唆して士林派の追い落としを狙った。そのため、燕山君の治世では度重なる士林派弾圧が実行された。だが、弾圧は次第に相手を選ばぬものに変わっていく。
 決定的だったのは、1504年の甲子士禍である。この事件は、国王側近が生母尹氏の死の経緯を王に吹き込み、その死に関わった人物の大量検挙・処罰を断行させた事件であり、弾圧対象は士林派を越えて一部勲旧派にも及び、尹氏賜死を主導した燕山君の祖母仁粋大妃すら糾弾され憤死するほどであった。
 これらの弾圧事件は王自身が主導したというより、若い王を唆して政敵の排除を図ろうとする一部側近者らの画策によるものであり、ここには後見役を持たない若年君主の弱点が現われている。
 結果として多くの有為の人材が失われ、朝廷では姻戚や宦官が跋扈するようになった。とりわけ、賎民出身ながら芸能に優れていたため、燕山君に寵愛された後宮の張緑水は政治的にも権勢を持つようになり、その親類も栄進した。
 一方、燕山君は政務を放擲して女性たちとの遊興に耽るようになり、高麗王朝時代からの高等教育機関である成均館すら遊廓に変えてしまうほどであった。諫言する重臣は処刑され、もはや手に負えない乱心の暴君であった。
 そうした中、ついには勲旧派でさえ危機感を抱くようになり、1506年、クーデターが実行される。孤立無援状態にあった王はあえなく廃位され、江華島へ配流された。燕山君に封じられたのはこの時であり、後世の追贈を含めて廟号を持たない最初の李朝国王となった。
 このクーデターでは燕山君の側近者や先の張緑水のほか、王子も全員処刑されるという徹底した燕山君系統根絶が図られた。燕山君自身も配流からわずか二か月にして30歳で急死している。公式には病死とされているが、タイミング的には疑念もある。
 病的な燕山君の治世は李朝体制にとって一つの転機であり、これ以降、李朝ではしばらく英主を欠き、求心力を喪失した朝廷では重臣らが党争を繰り広げる動揺の時代に突入していく。


§6 宗材盛(1457年?‐1507年)

 宗材盛〔きもり〕は燕山君とほぼ同世代で重なる宗氏当主であった。偽使を用いた朝鮮通交を拡大したやり手の父貞国から家督を継承した材盛は父の政策を継承したと思われるが、時代は応仁の乱を経て戦国時代に入ろうとしていた。
 九州辺境地対馬でもその波を避けることはできなかったと見え、材盛の頃から下克上的な動きが見られる。それは、材盛が1501年に代官(事実上の守護代)に任命した一門の宗国親の権勢が増大したことである。材盛は最晩年には息子義盛に家督を生前譲与していたと見られるが、その頃には国親による領主権の侵食が顕著になっていた。そのことが、材盛死から三年後の日朝紛争・三浦の乱にもつながる。

2017年4月14日 (金)

アフリカ黒人の軌跡(連載第3回)

一 「残アフリカ」した人々

コイサン諸民族の由緒
 アフリカ黒人の中でも最も古い由緒を持つと想定されているのが、コイサン諸民族である。コイサン諸民族とはコイコイ族とサン族の総称であり、ともに南部アフリカのカラハリ砂漠を中心とした地域で今日でも狩猟採集生活をする種族である。
 かれらは現生人類の系譜上最古の分岐を示すY染色体ハプログループAを高頻度で保有することから、初期現生人類に最も近いと考えられている。ただし、Aの保有頻度でみれば、今日の南スーダンの多数派ディンカ族も高頻度であるから、初期集団のスーダン方面への拡散も想定される。
 とはいえ、コイサン諸民族は現在まで現生人類発祥地をほぼ離れず、かつ狩猟採集の生活様式を固守している点(ただし、コイ族は牧畜民)、極めて保守的集団とも言える。かれらの保守性は形質的にも言語的にも顕著である。
 形質的には女性の臀部が脂肪によって大きく突出する脂臀が知られる。縮れ毛などの特徴は他のアフリカ黒人と共通だが、肌色はさほど濃くなく、黄褐色に近いことは、初期現生人類の形質的特徴を推定するうえで参照項になるかもしれない。
 言語的な特徴は、舌打ちするときの音に近い吸着音による音素が豊富であることである。コイサン諸語と包括されるかれらの言語に音素の種類が極めて多いのは、原初の言語が語彙よりも音素の区別によって様々な意味を表現していたことの痕跡と考えられる。
 もっとも、今日のコイサン諸民族が初期現生人類の直接の純粋子孫というわけではなく、かれらは後に今日のナイジェリア方面から南下してきたバンツー系の新たなアフリカ黒人集団と接触し、相当に混血もしたことにより、血統的にも言語的にも相互浸透し合って、今日のコイサン諸民族となったと見るべきであろう。
 そのため、今日のコイサン諸民族はかなりの多様性を示しており、かつて形質的に「カポイド」、言語的には「コイサン語族」と包括されたコイサン諸民族のくくりは、その有効性に疑問が持たれているところではある。

«仏教と政治―史的総覧(連載第30回)

2017年5月
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