2017年7月19日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第15回)

十六 尚泰王(1843年‐1901年)

 尚泰王は先代の父尚育王が若くして没したことから、1848年、幼少で即位した。そのため、治世初期の欧米列強との相次ぐ条約締結で主導的役割を果たすことはなかった。
 1850年代に琉球が締結した一連の条約のうち最初は米琉修好条約であったが、このとき米側のペリー提督は琉球征服を日本開国の突破口と認識して琉球に現れ、強硬上陸したのだった。日本に先立つ黒船来航である。
 最終的に、琉球は日米和親条約に引き続いて、不平等条約の性質を持つ琉米修好条約の締結を半ば強制されることになる。これをきっかけに、フランス、オランダとも同種条約の締結を強いられた点は、日本本国の安政五か国条約の経緯と類似している。
 こうした不平等条約の締結は、江戸幕府(将軍徳川家定)、琉球王国ともに元首が弱体であったという事情が相当に影響していると思われる。
 幼少で即位し、琉球王国最後の王となった尚泰王の治世は、日本側の幕末から明治維新をはさんで24年に及んだが、明治維新後の治世に関しては、稿を改めて見ることにする。


八´ 島津斉彬(1809年‐1859年)

 薩摩藩主の中でも特に著名な島津斉彬は若くして洋学志向の改革派であったことから、緊縮財政派の父斉興に警戒され、庶子の久光への譲位が画策されたが、斉彬はこの企てを打ち破り、お家騒動(お由羅騒動)を利用して藩主の座を勝ち取ったことは前回述べた。
 1851年に藩主に就任した斉彬は開明・開国派として藩の富国強兵に務め、後の明治維新政府の先取りのような政策を藩内で実施するとともに、養女に取った親類の篤姫を将軍家定正室として送り込み、将軍家と姻戚関係を結び、幕府との人脈を生かし、外様ゆえに幕府要職には就かないまま、幕政改革にも介入した。
 斉彬はとりわけ洋式軍備に強い関心を寄せ、側近市来四郎を琉球に送り、琉球を介してフランスから兵器の購入を計画した。この際、薩摩藩に非協力的だった琉球王府の人事に干渉し、通訳官として薩摩の評価も高い牧志朝忠ら親薩摩派の陣容に立て替えている。
 他方、幕政では家定死後の将軍後継問題で一橋(徳川)慶喜を推し、大老井伊直弼と対立した。井伊は安政の大獄の強権発動で、紀州藩主徳川慶福(家茂)を将軍に擁立、反発した斉彬は挙兵上洛を企てるが、兵の観閲中に発病し、間もなく急死した。
 存命中の父斉興や異母弟久光ら守旧派による暗殺説も囁かれる斉彬の急死は、琉球王府の権力闘争にも直接波及し、大規模な疑獄政変を引き起こすが、これについては稿を改めて見ることとにする。

2017年7月16日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第12回)

十二 光海君・李琿(1575年‐1641年)

 14代宣祖には長く嫡男が生まれず、その晩年は後継問題で揺れていた。庶長子の臨海君は性格上の問題から後継候補を脱落し、最有力候補は庶次子光海君だったが、これには明が長男でないことを理由に世子としての認証を拒否したため、後継者は容易に定まらなかった。
 そうした中、正室と死別した宣祖が嫡子にこだわり、後継問題の混乱を懸念する重臣らの反対を押して迎えた継室仁穆[インモク]王后が1606年に初の嫡男永昌大君を生んだことで懸念は的中し、永昌大君を推すグループ(小北派)と光海君を推すグループ(大北派)の対立が起きる。
 朝廷の党争に深入りしない主義だった宣祖が後継指名しないまま08年に死去すると、幼少の永昌大君ではなく、光海君を推す声が強まり、彼が15代国王に即位した。即位後の光海君は権力基盤を固めるため、永昌大君を処刑し、仁穆王后も廃位・幽閉するとともに、同母兄臨海君まで謀殺するという身内への容赦ない粛清を断行した。
 結果として、光海君政権は、大北派の天下となった。大北派とは、宣祖晩年に実権を握っていた東人派が南人派と北人派に分裂したうちの後者から、さらに先の後継問題をめぐって分裂した一派で、メンバーは古参官僚を主体としていた。
 光海君政権は、死の前年07年に第一回通信使を派遣して日本との和議に先鞭をつけていた父の方針を継承して、09年には成立間もない江戸幕府と正式に講和した。以後、この己酉約条が江戸時代を通じて朝日関係の基本的な修好条約として機能していく。
 また内政面では、李朝創始以来の税制であった貢納制を抜本的に改正し、これも父の在位中に食糧難対策として一年間の時限法として施行されたことのある大同法を正式に導入した。
 従来の貢納法では特産品による納税が困難であったことから、原則として土地ごとに定められた米で納税する方法に改めたのであった。この制度の施行は大地主層の両班や大商人の抵抗により当初は京畿道限定であったが、光海君の廃位後に拡大され、1677年までに一部地域を除いて、全国に拡大されていった。
 治世後期の課題は、女真系の後金(後の清)の攻勢に苦しむ明からの援軍要請であった。光海君は秀吉の朝鮮侵略時の明の援軍への謝意やかつて自身の世子冊封に反対した明への気兼ねから、援軍に応じたが、19年に大敗したため、後金と講和し、中立政策に転じた。これは間もなく後金が清として新たな中国大陸の覇者となったことからすると、先見であった。
 このように光海君は為政者として父以上の手腕を発揮したと言えるが、23年、雌伏していた西人派が幽閉中の仁穆王后を担ぎ出して決起し、光海君を拘束・廃位、江華島へ追放した。代わって、光海君の甥に当たる仁祖が即位した。
 このクーデターの結果、光海君は五代前の燕山君と並んで、後世の追贈によっても廟号を与えられない「暴君」として名を残すこととなったが、廃位直後に死亡した燕山君と異なり、20年近い配流生活を過ごし、66歳まで存命した。
 おそらく光海君が「暴君」とされたのは、異母弟や同母兄らを葬り去った身内への粛清のゆえであろうが、むしろ彼が息を吹き返した西人派によってあっけなく廃位に追い込まれたのは、「暴君」どころか、その権力基盤はなお磐石でなかったことを示している。
 光海君はその後も政治的には名誉回復されることはなかったが、これは以後の王統がすべて仁祖の子孫で占められたせいであろう。しかし現代の歴史的評価のうえでは、病的な逸脱行動が目立った燕山君とは異なり、二度にわたる日本の侵略で打撃を蒙った国土を立て直し、内政外交上実績を残した光海君は名誉回復されつつあるようである。


§9 宗義智〈続〉

 前回も見たとおり、義智は先代宣祖時代に対朝鮮関係改善の土台を築いていたが、当時、朝鮮側でも、宣祖から光海君への政権交代があった。しかし、義智は光海君の新政権とも巧みに交渉して1609年、ついに己酉約条の締結に成功した。これによって途絶していた対朝鮮貿易が再開された。
 朝鮮側は宗氏に朝鮮王朝の官職を付与し、日本国王使としての資格も認証したが、日本への警戒心はなお強く、宗氏使節団の漢城上京の原則禁止、またかつて紛争の元ともなった日本人居留民を制限するため、日本人の倭館からの禁足など厳しい統制を加えた。
 江戸幕府も宗氏を一種の辺境領主として遇し、対朝鮮の外交通商権を与え、対馬藩の負担で新たに釜山に建設された豆毛浦倭館を通じた貿易の独占権も付与するなど、厚遇している。ここには、まさに義と智を備えていたらしい義智の手腕への幕府の高評価が反映されているのだろう。
 もっとも、己酉約条交渉に当たっては、義智の養父で先代の義調が九州本土から招聘し、対朝鮮外交に当たらせていた臨済宗僧侶景轍玄蘇の補佐の功績も大きかったことはたしかである。
 しかし、徳川家康より一年先立ち1615年に48歳の壮年で義智が死去し、後を継いだ息子義成の代になると、対馬藩が朝鮮との和平交渉の過程で幕府の国書を偽造していた事実が発覚し、宗氏を揺るがす一大事に発展することになるのである。

2017年7月12日 (水)

東西融合医学

 今日、単に「医学」と言えば、西洋医学を指すと決まっているが、原因不明の様々な症状に悩まされるようになると、西洋医学の限界を痛感する。
 病体を壊れた機械のように修理する西洋医学は命に関わるような急性的症状への外科手術を含めた緊急対処や当面の症状軽減のための対症的薬物治療は得意だが、直ちに命に関わらない慢性的かつ多臓器的な症状―実は健康問題の大半を占める―への根治療法は不得手である。
 その点、病体をより総合的に把握する東洋医学の一環である中医や漢方は、西洋医学の知らない治療法の宝庫のようである。ただし、その欠点は経験優位で科学的な確証(エビデンス)が不充分なことである。
 東洋医学を科学的に解明し直したうえ、西洋医学と融合し、その不得手な領域を克服する医学体系の脱構築的再編が求められる時代ではないかと思う。その点、東洋医学は科学の余白というより、空白地帯かもしれない。
 未来の医療は、西洋医学至上ではなく、東西融合医学に基づき、医師も東西両医学体系を身につけた施術者であるべきではないか、と願望する。

2017年7月 5日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第34回)

十一 近代国家と仏教

インドの仏教復興運動
 発祥地インドでは伝統的なバラモン→ヒンドゥー教に押し返されて極小宗派となった仏教であるが、近現代になって、反カースト差別の政治運動と結びつく形で部分的な復興の動きがある。
 その創始者ビームラーオ・アンベードカルはカースト制度最下層身分ダリットに出自し、戦後独立したばかりのインドの法務大臣や憲法起草者を務め、「インド憲法の父」とも称される法律家・政治家であって、宗教家ではない。政治家としての彼の最大の目標はインドの宿痾とも言うべきカースト差別廃絶にあった。
 彼は死の直前に仏教に改宗したにすぎないが、この時、彼の支持者である50万人規模のダリットも集団改宗したことで、戦後インドにおける仏教復興運動が開始されたとみなされる。
 こうした経緯から、この運動はアンベードカル独自の仏典解釈に強く影響されている。例えば、仏教における根本概念である輪廻転生・因果応報はカースト差別の正当化に利用されかねないことから否定されるなど、合理主義的な性格が強い。
 従って、このアンベードカル主義仏教を厳密に分類することは難しいが、内容上は上座部仏教を土台としながらも、後発の大乗仏教や密教まで包摂した止揚的な新仏教であり、ある種の仏教系新興宗派とみなすこともできるかもしれない。
 こうしたアンベードカル主義の仏教運動は、彼の死後も支持者らによって継承され、インドにおいて一定の勢力を保持している。政党では、ダリットを支持基盤とする中道左派政党である大衆社会党にも浸透し、同党は2007年のウッタル・プラデーシュ州議会選挙に勝利して、州政権を獲得した(12年選挙では敗北下野)。
 とはいえ、インドにおける仏教徒人口は1パーセントに満たず、釈迦による創唱当初の勢いは見られない。多数派ヒンドゥー教からの批判も根強く、全国的な広がりには程遠いが、現代インド仏教はカースト差別克服問題と結びつく形で独自の展開を見せていることは間違いない。
 なお、前回も見たとおり、インドは1959年以来、北部ヒマーチャル・プラデーシュ州のダラムサラ(ダラムシャーラー)にダライ・ラマ14世とチベット亡命政府の存在を認め、庇護している。結果として、ダラムサラはインドにおけるチベット仏教拠点として定着した。
 しかし、インド連邦政府は中国との関係維持のため、ダライ・ラマあるいはその支持勢力による政治的活動には否定的であり、もともと微妙な中印間における微妙な外交問題となっている。

2017年6月28日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第6回)

一 「残アフリカ」した人々

ヌビア人の文明化
 西洋中心的な視点で、しばしば「非文明的」ととらえられがちなアフリカ黒人であるが、紀元前の時代にいち早く文明化したのは、エジプト南部からスーダン北部にかけてナイル流域に展開したヌビア人であった。
 ヌビア人は、ナイル‐サハラ語族に属する代表的な民族であり(アフロ‐アジア語族説もあるが、立ち入らない)、エジプト第1王朝時代と同時期にすでに発達した都市国家のようなものを形成したとの説もあるが、史料・情報不足のため、詳細は把握できない。
 鉱物資源の豊富なヌビア地方は強勢化したエジプト王国の侵略を受け、植民地支配下に置かれたが、エジプト新王国時代の紀元前11世紀前半頃、エジプトの混乱を突いてナパタを首都に独立したと見られる。このいわゆるクシュ王国は、王都と王朝を代えながらも紀元後350年まで持続していく。
 ヌビア人は長くエジプトの支配下にあった関係上、初期クシュ王国(ナパタ朝)はエジプト文明の強い影響を受け、ヒエログリフ文字やエジプト神アモンの信仰、ミイラ製作、ピラミッド築造技術などを取り込んだ派生文明の性格を帯びていた。
 強勢化したクシュ王国は、紀元前760年から656年までの約一世紀、ついに斜陽の「本家」エジプトを征服・併合し、第25王朝を樹立した。しかし、下エジプトでリビア人主導の反乱が起き、下エジプトを失ったのに続き、アッシリアの侵攻を受けて第25王朝は崩壊、クシュ王国自体も南のメロエに遷都を余儀なくされた。
 しかし、この敗退は新たにメロエを首都とする新時代の始まりであり、クシュ王国の全盛期を築いたのである。メロエは鉱物資源、農業土壌ともに豊富で、交易上もアビシニア(エチオピア)経由で紅海からインド洋で出る拠点となったからである。
 他文明の摂取に長けていたらしいヌビア人はアッシリアが得意とした鉄器製造技術を取り入れ、鉄製兵器製造で軍事的にも強大化し、エジプト文字とギリシャ文字双方から形成した独自のメロエ文字を創案した。「本家」より小ぶりながらも、王墓ピラミッドの築造も精力的に行なわれた。聖書でも、クシュ王国の繁栄ぶりは記されている。
 ちなみに、メロエ朝独自の特徴として、その時代としては異例なことに、ローマ軍との交戦で勝利し、ストラボンの歴史書にも言及されたアマニレナスや、全盛期を演出し、ヌビア独自のライオン神アペデマクの神殿で知られるアマニトレら、女王を多く輩出したことがある。女王はカンダケと呼ばれ、女戦士としての性格も持っていたようである。
 しかし、クシュ王国は北アフリカ、エジプトへの拡大を狙うローマ帝国の圧迫に加え、王朝の内紛も手伝って、衰退に向かう。最終的には、紀元350年、南アラビアから移住してきたと見られるセム系民族の新興アクスム王国(エチオピア)によって滅ぼされたのである。
 その後、ヌビア人はキリスト教を受容したアクスム王国の影響下に、三つのキリスト教系小国を形成したが、これらは統一されることのないまま、7世紀以降、イスラーム勢力の侵攻により、衰滅の道をたどる。

2017年6月21日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第14回)

十五 尚育王(1813年‐1847年)

 琉球にも西洋列強の手が及び始めた19世紀前半の時期に登位した尚育王は、前回も見たように、父王が晩年精神障碍のため執務不能となったことから、10代から摂政として政務を執っていた。
 在位中は、来航する列強との折衝に追われることが多かった。まず1844年にフランス海軍が宣教師テオドール‐オギュスタン・フォルカードを伴って来航した。王府はフォルカードの滞在を許したが、2年後には退去させている。
 同年には英国海軍が宣教師バーナード・ジャン・ベッテルハイムを伴って来航した。王府はフランスの先例どおり退去を求めるも、抗し切れず、医師でもあったベッテルハイムは琉球王室の祈願寺であった護国寺に居座り、当局の監視を受けながらも8年間にわたり医療及び布教活動を行なった。彼は聖書の琉球語翻訳も手がけるなど、琉球における最初のキリスト教宣教師として事績を残している。
 尚育王の国葬の際、ベッテルハイムが群衆に囲まれ、殴打されるという外交問題に発展しかねない事件が発生している。ベッテルハイムの布教が大衆間では快く思われていなかったことを示唆する事件であった。
 尚育王は年齢的にはさらに20年ほど生きて琉球王国最後の王となった可能性もあったが、47年、30代にして没した。摂政時代を合わせれば、約20年の治世であった。


七´ 島津斉興(1791年‐1859年)

 島津斉興は、いわゆる近思録崩れのクーデターにより隠居に追い込まれた父斉宣に代わって、祖父重豪によって若くして藩主に擁立された経緯から、祖父が没した1833年までは当然にも祖父の傀儡藩主に過ぎなかった。
 しかし親政を開始すると、晩年の祖父が見出していた下級藩士出身の調所広郷を家老に抜擢して、藩政改革を断行させた。そのため、斉興の時代は調所改革の時代と重なる。調所改革の目的は放漫財政家の重豪時代に500万両にまで達していた負債の整理ということに尽きていた。
 そのために調所は事実上のデフォルト策、琉球を通じた清との密貿易、琉球征服以来薩摩藩直轄となっていた旧琉球領奄美諸島での黒糖搾取(黒糖地獄)などの強硬策をもって比較的短期のうちに財政再建を果たし得たのであったが、そのつけは政争に巻き込まれての横死であった(自殺説あり)。
 政争とは、斉興の後継をめぐる嫡子斉彬と庶子久光の間でのお家騒動―町人出身の久光の生母お由羅の方の名にちなみ、「お由羅騒動」と呼ばれる―であった。封建的発想では嫡子の斉彬後継が正論だが、重豪の気質を受け継ぎ「蘭癖」のあった斉彬を嫌う調所は、主君の斉興とともに久光を推していた。
 だが、幕府中枢と通じた斉彬派の画策により、調所は密貿易の件を国策捜査で追及される中、急死したのである。その2年後には久光派であった斉興も幕府の介入によって隠居に追い込まれ、斉彬に藩主の座を譲ったのであった。

2017年6月18日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第11回)

十一 宣祖・李昖(1552年‐1608年)

 宣祖は伯父に当たる先代の明宗の世子が夭折し、他に男子なく、しかも父の徳興大院君も早世していたことから1567年、明宗の死去を受けて14代国王に即位した。10代での即位から40年余りに及んだその治世は四期に分けられる。
 第一期は治世初期の改革期である。民生に配慮する若い国王は先代明宗が外戚を排除して開始した儒教的改革政治を継承し、引き続き士林派を重用した。その過程で、文学科目を偏重した科挙制度の改正も主導した。
 だが、この第一期の善政も士林派内部の派閥抗争のせいで暗転する。治世第二期の75年頃から始まるこの抗争は、沈義謙率いる東人派と金孝元率いる西人派の間で発生した。この両派の対立の根底には朱子学内部の理論党争があった。
 ここでは詳細に立ち入らないが、東人派は保守的で朱子の学説を踏襲する李滉、西人派は朱子の学説に拘泥せず、より合理主義的かつ実践的な志向性を持つ李珥に近い派閥であった。両派の争いは理論党争にとどまらず、官職をめぐる権力闘争に発展した。
 当初は柔軟な李珥が両派の仲介役として対立をある程度止揚していたが、84年に彼が他界すると、押さえが利かなくなり、以後は西人派と東人派の間で政権が行き来する政情不安に陥った。
 そうした中、対日防衛という重要問題をめぐる両派の対立が国家の存亡に関わる事態を招来する。元来、李珥は強兵論を説き、死の前年には女真や日本の侵略に備えるべく、「養兵十万」を宣祖に進言していた。これに対し、保守的かつある意味では平和主義の東人派は反対した。この対立は秀吉の朝鮮侵略の直前に派遣された日本視察団にも反映され、当時の東人派政権は日本の侵略可能性を警告した西人派正使の報告を無視した。
 この政策判断の誤りは、実際に警告が現実のものとなったとき、高くつくこととなった。朝鮮側では「壬辰倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉による第一次朝鮮侵略(文禄の役)で、軽武装だった朝鮮軍は日本の封建領主連合軍を撃退できず、首都漢城は陥落、宣祖も義州まで逃亡して明の介入を要請しなければならなかった。
 しかし、明からは朝鮮朝廷の頭越しに対日講和交渉をされたあげく、その交渉も決裂して、「丁酉倭乱」と呼ばれる秀吉の第二次侵略(慶長の役)を受けるが、これは秀吉の急死による日本軍撤退という僥倖に助けられた。こうして92年の「壬辰倭乱」に始まり、98年の「丁酉倭乱」で終わる宣祖治世第三期は朝鮮王朝創始以来最大の亡国危機の時代であった。
 これを乗り切った宣祖晩年の第四期は後継者問題で揺れるが、その詳細は次の光海君の項で言及する。この時期の宣祖の外交上の功績は、豊臣政権から徳川政権に交代した日本と早期に講和し、1607年に第一回朝鮮通信使を派遣したことである。この対日国交回復を最後の事績として、宣祖は翌年死去したのである。
 その治世は中近世の過渡期にあって内憂外患に見舞われたが、自らは党争に深入りすることなく長期治世を保ち、どうにか内政外交上の課題を処理して李朝体制の命脈をつないだことは、宣祖の功績であった。


§9 宗義智(1568年‐1615年)

 宗義智〔よしとし〕は、宗氏にとって最も困難な戦国時代末期から江戸時代草創期の大変動期に宗氏当主となった人物である。本来、彼は追放された元当主宗将盛の息子の一人であったが、養父宗義調によって早世した二人の兄の後、当主に擁立された。
 しかし、秀吉の九州征伐という難局に対処するべく、いったん義調が当主に復帰したため、当主の地位が確定するのは、義調が死去した1588年である。この頃、宗氏は明を征服する際の先導役として朝鮮を日本に服属させるという無理難題を要求する秀吉の意向に沿って朝鮮との交渉を担わされ、苦慮していた。
 明の冊封国であった朝鮮が明の征服に手を貸す可能性はなく、義智の交渉も当然ながら挫折し、秀吉の朝鮮出兵を迎える。義智は名将小西行長の娘婿でもあり、行長とともに文禄・慶長の両戦役で大活躍し、戦績を上げている。朝鮮との交戦が義智の本意であったかは疑問であるが、対馬の辺境領主が天下人に逆らえる立場にはなかった。
 こうして、宗氏は秀吉配下の武将・大名としてその地位を確立するのであるが、そのことは秀吉死後に来る関ヶ原の戦いで反徳川の西軍に与するという結果をもたらすことになる。
 先にも触れたように、宗義智は豊臣派のキリシタン大名小西行長の娘婿であったことから、関ヶ原の戦いでは西軍の中心的部将として参戦、伏見城攻撃などで活躍している。しかし、周知のとおり、この天下分け目の戦いは西軍の敗北に終わった。
 義父の行長は捕らわれ、処刑されたが、義智は詰問にとどまり、改めて対馬藩を安堵される幸運を得、義父とは運命が分かれた。この特別措置は、二度にわたった秀吉の出兵で大きく損なわれた対朝鮮関係の改善を重視していた家康が誰よりも朝鮮に通じた宗氏の存在を不可欠と認識していたことによる。
 ただし、代償として、義智は最初の正室で行長の娘でもあったキリシタンの妙(洗礼名マリア)を離縁しなければならなかったが、宗氏は義智を初代とする近世大名として明治維新まで生き延びていくことになるのである。
 かくして初代対馬府中藩主となった義智にとって最初の大仕事は、朝鮮との和平条約の締結であった。しかし、当初朝鮮側の態度は硬く、朝鮮側は先行条件として、朝鮮出兵時に王陵を破壊した戦犯を引き渡すよう要求してきた。
 これに対し、対馬藩は朝鮮出兵とは全く無関係の罪人の喉を水銀で潰し、尋問に答えられぬよう発声不能にしたうえで該当の「戦犯」として引き渡すような術策を弄する交渉を展開した結果、朝鮮側の態度は軟化していった。
 これにより、早くも宣祖存命中の1605年には暫定的な和平が成立、07年には第一回朝鮮通信使の派遣にまで漕ぎ着けたのであるが、正式の和平条約の締結は宣祖の死去と続く朝鮮王朝内の政変により、持ち越しとなる。

2017年6月15日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第33回)

十一 近代国家と仏教

チベット「自治」と仏教
 チベット仏教拠点のチベットの近代は、それぞれ革命によって樹立された中華民国にソ連という新興国、そして英国という大国による覇権争いに巻き込まれる辛酸を舐めた。
 しかし、その間、ダライ・ラマを元首とする祭政一致体制―ガンデンポタン―が本質的に変化することはなかった。それほど、チベット仏教とチベット政治は一体的であったのだった。
 その点、チベット仏教ドゥク派系ブータンでは、早くから聖界指導者シャブドゥンと俗界指導者デブが分離し、最終的には両者が統一され、1907年に豪族ウゲン・ワンチュクが世襲君主に選出されて以降、英領インド、次いで独立インドの庇護下で緩やかな独立を維持しつつ、漸進的に近代的な立憲君主制(ワンチュク朝)へ移行していったのとは対照的であった。
 とはいえ、19世紀末から20世紀初頭におけるチベットの困難な時期に統治したダライ・ラマ13世は、ある程度の近代化を試みた。特に税制や軍制の近代化と文化の欧化である。その背後にはチベット支配を強めようと画策する英国の援助があった。こうした親英・欧化政策は一部の保守的な寺院勢力の反乱を招いたが、13世はこれを乗り切った。
 しかし、13世が1933年に没すると、チベットに対する中華民国の影響力が強まる。後継のダライ・ラマ14世(現職)は39年に「発見」された後、中華民国によって庇護・擁立された。
 大きな転換点は、49年の中国共産党体制の樹立である。チベット政府はこれを機に完全な独立を狙ったが、独立を許さない中国が51年にチベットに侵攻、短時日で全土を征服した。これにより、チベットは中国の支配下に入り、形式的な「自治」が与えられることとなった。
 こうした武力制服に対するチベット人の抵抗は50年代を通じて激化し、動乱となる。対する中国軍の反撃も虐殺を辞さないすさまじいものであった。
 14世は59年、インドのダラムサラに脱出し、亡命政府を樹立する。一方、中国側はチベット仏教ゲルク派においてダライ・ラマに次ぐ権威を持つパンチェン・ラマ10世を優遇し、ある種の対立教皇のような形で庇護する政策を採った。
 チベット人の抵抗はその後も断続的に継続されているが、ダライ・ラマ14世は亡命政府を率いつつ、ガンジー的な非暴力主義抵抗を続け、こうした抵抗を「分離主義」とみなして容認しない中国政府がチベットに再び戒厳令を敷き、抑圧を強めた89年にはノーベル平和賞を受賞した。
 一方、中国側は89年のパンチェン・ラマ10世死没を受け、95年に当時6歳のチベット児童をパンチェン・ラマ11世に認定し、10世の後継に擁立したが、当局はその直前、ダライ・ラマ14世自らがパンチェン・ラマ11世に認定していた別のチベット児童を連行、失踪させたため、以後、パンチェン・ラマ自体も並立状態にある。
 その後、14世は2011年をもって政治的に「引退」し、政治権力を亡命政府に委譲するとともに、ダライ・ラマ転生制度の廃止も示唆している。これは実質的に政教分離体制への移行を促進するものであり、チベット仏教における歴史的な大転換となるため、議論を呼んでいる。
 また、14世は仏教とマルクス主義の融合を有効な統治体制として指摘するなどの思考実験的な提言も行なっている。現在、チベット仏教は中国支配と自身の現代化との間で岐路に立っていると言えよう。

2017年6月12日 (月)

オセアニア―世界の縮図(連載第18回)

第二部 現況~未来

(7)政情不安事例②:パプアニューギニア
 パプアニューギニアの本島は、その名のとおりパプア人を主体とするが、本島の東に位置するブーゲンビル島は言語・文化の異なるメラネシア人系を主体とし、伝統的にソロモン諸島との関係が深い。
 しかし、ドイツ植民地時代に本島と併せてドイツ領ニューギニアにくくられ、独立後もそのままパプアニューギニア領に引き継がれた。そうした事情が内戦として表出したのが、ブーゲンビル島紛争であった。
 分離独立運動は島の銅山開発利権も絡む形で1975年のパプアニューギニア独立直後から始まるが、本格化したのは1988年以降、武装組織ブーゲンビル革命軍の下、一方的に独立を宣言してからである。
 旧宗主国オーストラリアの支援を受けた政府軍との間の内戦は91年にいったん停戦協定に至るもすぐに破棄され、オーストラリアとニュージーランドの仲介による最終的な和平は世紀をまたいだ2001年のことであった(内戦自体は98年終結)。
 その間97年には、弱体な政府軍を補充するべく政府が結んだ英国民間軍事会社からの不透明な傭兵契約をめぐって、不満を持った軍部がクーデター未遂事件を起こすなど、内政の混乱も重なった。
 最終的なブーゲンビル和平協定では自治政府の樹立、将来的な独立住民投票など、譲歩的な合意がなされ、紛争は終結した。しかし、新興独立国家での長期内戦の悪影響は大きく、内戦で破壊されたブーゲンビル島首府のアラワはいまだ再建途上、首府機能も一時的に遷されている状態である。
 現在、ブーゲンビルは自治州という形態で2000年以降自治政府の施政下にあり、19年には独立を問う住民投票も予定されていることから、その結果次第では再び何らかの紛議が再燃する可能性もなくはない状況であり、行方が注視される。

2017年6月 7日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第5回)

一 「残アフリカ」した人々

バントゥー人大移動
 現在、アフリカ黒人中における最大勢力を形成しているバントゥー系諸民族は、西アフリカでの誕生から間もなく、拡大・大移動を開始する。このバントゥー人大移動は、ずっと後にゲルマン人大移動が欧州大陸の歴史を作ったように、アフリカ大陸の歴史を作った。
 バントゥー人大移動はゲルマン人のそれに比べても長く、紀元前1000年頃から紀元後300年頃に及ぶ千年単位の長い年月をかけて行なわれたと考えられる。その契機は、オリエント方面から移住してきた集団から農耕を学んだことにあるとされる。
 この集団は欧州にも農耕をもたらした民族で、Y染色体ハプログループR1bを共通指標とするコーカソイド系民族である。かれらはアフリカではチャド、カメルーン付近に定住し、そこにいた原バントゥー人に農耕を伝えるとともに、現在までその遺伝子を西アジア的なアフロ‐アフリカ語族に属するチャド系民族に残している。
 農耕を体得したバントゥー人らは、より肥沃な農耕適地を求めて移動を開始する。最初は中央アフリカの熱帯雨林が目指されたが、東アフリカのサバンナ地帯や大湖沼地域にも拡大していく。アフリカ黒人故地とも言える南アフリカへの拡大はやや遅れ、紀元後に大湖沼地域から部族ごとに移動していったようである。
 こうして、バントゥー人はいったん故地の南アフリカを出た後、農耕を身につけ、長い年月をかけて再び故地へ帰還する「帰ってきたアフリカ人」となったのである。現在、バントゥー系に包含される民族数は数百に及ぶ。
 ただ、かれらは移動先で土着した15世紀頃に至るまで政治的な国家を形成することはなく、族長に率いられた部族共同体社会を維持していたと見られる。この点、既存のローマ帝国内に侵入して、帝国から国家形成のノウハウを吸収し得たゲルマン人と異なり、当時のアフリカ大陸にはローマ帝国に匹敵する統一国家は存在していなかった。
 アフリカへ侵出していったローマ帝国自身も北アフリカ以南にまで手を伸ばそうとはしなかった。一方、ナイル河沿いのエジプトとその影響下に栄えたヌビア人の王国も地中海や西アジアに目を向けており、アフリカ大陸全土をカバーするような帝国には膨張しなかったため、バントゥー人がその支配下に入り込むこともなかったのである。

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