2017年11月19日 (日)

「ヒトラー逃亡説」の科学性

 2014年に米国政府がナチス指導者ヒトラーに関わる戦後の捜査資料を機密解除したことで、ここ数年、改めて「ヒトラー逃亡説」がクローズアップされ、米国のTV番組Hunting Hitler(History Channel)が取り上げるなど、関心を呼んでいる。
 「ヒトラーの死(自殺)」は歴史的には確定事実とされているが、それがなおも疑われるのは、第二次大戦末期、ベルリンを制圧したソ連軍主導の検視の杜撰さと、呉越同舟状態の連合国内部ですでに生じ始めていた冷戦に向かう相互不信のせいで、「ヒトラーの死」が科学的に確証されなかったためのようである。
 それで、戦後も一部で「ヒトラー逃亡説」が一種の陰謀理論として語られてきたが、公式資料の公開によってある程度検証が可能となった。とはいえ、当時ヒトラーの死を疑っていた米国諜報機関も追跡を断念し、打ち切った案件である。Hunting Hitlerは、その追跡を改めて民間で再開し、ヒトラー逃亡説を裏付けようとする試みであるが、資料の検証だけでは科学性を担保できないだろう。
 今後も国際的に手配される戦争犯罪人やテロ首魁は出てくるだろうが、その生死は世を惑わす陰謀理論の題材とされやすい。先進的なDNA鑑定などを駆使した国際的に中立な検証体制を構築する必要があるだろう。そうした技術も枠組みもなかった70年前の「ヒトラーの死」は、なお科学の余白のままである。

2017年11月15日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第19回)

十九 哲宗・李昪(1831年‐1863年)

 先代の24代憲宗は世子を残さず、夭折したため、後継問題が生じた。この時、23代純祖の王妃だった安東金氏出身の純元王后が動き、憲宗生母の神貞王后が出自した豊壌趙氏の機先を制する形で、22代正祖の弟の孫を担ぎ出した。これが25代哲宗である。
 こうした即位の経緯から、最初の三年間は大王大妃となった純元王后が垂簾聴政を取った。当然にも安東金氏の天下となり、こうした安東勢道政治は、哲宗が一応親政を開始してからも最後まで続いた。
 こうして、哲宗時代は勢道政治の弊害が最大限に発現する時代となった。具体的には、汚職の蔓延と財政破綻である。後者は、田政・軍政・還穀のいわゆる三政の紊乱という形で国家の基盤を揺るがした。
 こうした衰退現象はすでに前世紀から忍び寄っていたが、哲宗時代には、両班の事実上の私有地の拡大による農民搾取、兵役忌避と兵役代替課税の負担増、また貸米制度の高利貸化といった制度劣化現象として集中的に発現したのである。
 こうした体制の揺らぎのすべてを勢道政治の責めに帰することは困難であるが、本質的に腐敗した権力支配体制であった勢道政治には、体制を改革し、立て直す意思も能力も備わっていなかった。
 他方、ほとんど棚ぼた的に担ぎ出された哲宗も王としての資質には欠けていたようである。個人的には民心への配慮があったと言われるが、勢道政治を抑える気概も政略も持ち合わさず、晩年には政務を放棄して、酒色に溺れていった。
 民衆の体制への不満と将来への不安は、農民反乱と新興宗教への傾倒という二つの現象を引き起こした。農民反乱は、つとに純祖時代の1812年に勃発した平安道民衆蜂起が嚆矢であったが、この時は体制側にこれを短期で鎮圧するだけの余力があった。
 しかし、哲宗時代の反乱は忠清道、全羅道、慶尚道の南部地域で広範囲に継起するゲリラ戦的なものとなり、体制もこれを鎮圧し切れず、体制を内部から弱体化させる要因となった。
 一方、カトリック信者も増加し、両班層や宮廷人にまで信者が出現するほどであったが、慶尚北道出身の宗教家・崔済愚が創始した東洋的な新興宗教・東学も急速に信者を獲得していった。こうした「邪教」に対して体制は弾圧で臨むも、効果はなかった。
 不穏な情勢下、健康を害した哲宗は1863年、世子を残さず死去した。国王が二代続けて世子を残さず短命で没する事態は、体制の存続そのものにとっての危機であった。


§16 宗義和(1818年‐1890年)

 宗義和〔よしより〕は、兄の先代義章が嫡男なく死去した後を養子として受け、15代藩主に就任した。朝鮮との通商関係が閉塞した対馬藩にとって激動期の藩主であり、特に幕末と重なる治世晩期は波乱に満ちていた。
 最初の問題は、家督問題であった。義和は多くの側室を抱えていたが、中でも碧という平民出自の側室を寵愛するあまり、野心的な碧の教唆により、士分出自の側室が生んだ子を廃嫡し、碧の生んだ子を嫡子とする恣意的な決定を下したことで、お家騒動を招いたのだった。
 正室との間に子がなかったことが原因とはいえ、このような恣意的世襲は封建法の精神に反していた。しかし結局、碧の子が夭折したことを契機に決定は撤回され、碧も追放処分となった。この時、反碧派を形成したのが、義党という保守的な一派である。
 この問題が決着したのもつかの間、1861年には帝政ロシア軍艦ポサドニックが対馬に来航し、半年ほど対馬芋崎を占拠するという事変が勃発した。ロシア側の狙いは極東進出に必要な不凍港の租借という点にあった。その目的に沿って、ロシア側は無断で兵舎や練兵場などの建設を強行した。
 これは、大名封土とはいえ、江戸時代の日本が初めて外国に侵略された重大事件であった。事件は英国の介入を得て解決したが、辺境防備の無力をさらけ出した対馬藩では、江戸家老が幕府と密議し、宗氏の河内移封・幕府の対馬直轄移行が決まりかけた。
 しかし、これに反発した国元の義党が決起し、移封計画の中心人物であった江戸家老・佐須伊織を暗殺した。義党は尊皇攘夷派であり、前藩主義章の長州出身の正室であった慈芳院を通じて長州と結び、対長同盟を成立させたのであった。
 こうして実質的なクーデターを成功させた義党は、義和にも隠居を求め、藩主を嫡子に復帰していた義達〔よしあきら〕に交代させた。これにより、対馬藩では若い新藩主を擁した義党主導で、親長州の攘夷政治が展開されていくことになる。
 ちなみに、1863年に隠居した後の義和は明治維新を越えて20年近く長生し、廃藩置県後は余生を主に地元神社の神職として過ごして、明治23年(1890年)に没した。

2017年11月12日 (日)

資本主義的貴族制

 このところ、国際調査報道組織の手により、パナマ文書、パラダイス文書と、世界各国の富裕層・大資本がタックスへブンを利用して租税回避行為を行なっている実態が続々と暴露されている。その内容を見ると、現代資本主義社会における致富行為の技術的なカラクリがよくわかる。
 資本主義社会は生まれより能力―金を稼ぐ能力―に基づく社会と喧伝されているわけだが、金を稼ぐ能力に加え、稼いだ金を隠す能力も要求されているということである。それと同時に、これら富裕層・大資本の資産額の天文学的数値、また文書に名前の挙がる一部富裕層の暮らしぶりは、まさに現代の貴族―大資本も法人貴族―と呼ぶにふさわしいものである。
 それも個人的な能力の証だと抗弁したところで、資本主義社会でも共通して認められている相続制度を介して、蓄積した資産は子孫に継承されていくのであるから、経済的には世襲貴族も同然である。考えてみれば、中世以来の王侯貴族たちも、先祖は卑賤であったり、出自不詳であることが少なくないのであって、祖先の特定人物の成功の結果が子々孫々に継承されているだけである。
 そうした構造は、「能力社会」を標榜する資本主義社会でも変わりない。現代=晩期資本主義は、それ以前の勃興・成長期資本主義と比べても、貴族制の顕著化・固定化を進行させるだろう。それによって、資本主義は柔軟性を失い、閉塞した半封建的経済に陥っていくと展望される。

2017年11月 9日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第14回)

三 スワヒリ文明圏

キルワ貿易王国の盛衰
 スワヒリ文明圏は多くの交易都市国家に分かれ、領域的な国家はほとんど形成されなかったが、その例外として、10世紀半ば頃から16世紀初頭まで存続したキルワ王国がある。
 キルワ王国は、伝承上イラン南西部シーラーズの王子が創始したとされる。「王子」かどうかは別にしても、この地域の有力なペルシャ系商人層が王権を形成したとして不思議はない。
 王朝創設者のペルシャ人アリ・イブン・アル‐ハサン・シラージはキルワ島を在地バントゥー系部族長から買い取って都市を建設したという商業的な伝承からも、キルワ王国が商人によって建てられた可能性は高い。
 こうした建国経緯を反映して、キルワ王国には肌の白い支配層と黒人の奴隷層とが厳然と区別される人種差別的な身分制度が存在しており、バントゥー系黒人の地位は低かったが、一方で、イスラームに改宗したバントゥー系を含む中間層レベルでは混血が進み、実質的にはスワヒリ系国家として発展したものと見られる。 
 キルワ王国の経済基盤は圧倒的に、奴隷貿易を含む外国貿易に置かれていた。12世紀末に当時、金の集積地として繁栄していた現モザンビークの港湾都市ソファラを支配下に入れると、金交易の利権を独占して躍進した。この頃には、ザンジバル島も支配下に入れたキルワ王国は、13世紀以降、地域の大国となる。
 宗教的にはイスラーム系国家であり、キルワには大モスクも建設された。しかし、完全にはイスラーム化しない土着的な要素も残していたようである。13世紀頃にイエメンとの宗教的交流が深まったことを反映して、同世紀後半には王統もシラージ朝からイエメン系とされるマフダリ朝に交代している。
 これが実際の王朝交代か標榜上の宗旨替えかは不明であるが、このマフダリ朝の下、キルワ王国は最盛期を迎え、14世紀にキルワを旅した旅行家イブン・バットゥータは、キルワの壮麗さを称賛している。
  しかし、15世紀に入ると、王朝内部で権力闘争が激しくなり、王権が弱体化していく中、16世紀初頭にポルトガル艦隊の攻撃を受けて破壊された。その後は、統一性を失い、アラビア半島新興のオマーンの支配に下ることになる。

2017年11月 5日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第6回)

二 天皇制の創出と神道

宗教戦争:仏教との相克
 昆支大王による宗教改革の成果は永続的なものであり、その基本路線は以後、ヤマト王権により継承されていくが、6世紀の欽明天皇(大王;当時、天皇号はまだ存在しなかった)の時代になると、王朝開祖である昆支大王=応神天皇の神格化が大規模に行なわれる。
 その経緯は、別連載の拙稿で明らかにしたように、私見によれば昆支=応神天皇の孫に当たる欽明はクーデターにより異母兄らを排除して王位に就いた経緯から、自身の王権の強力な正当化を必要としており、それが祖父の神格化であったのだろう。
 そうした目的から開始されたのが、後に八幡信仰として定着していく新たな信仰体系である。実際、伝・応神天皇陵に隣接し、実質上最初の八幡宮と考えられる誉田八幡宮や、後世になって八幡総社の地位を獲得する宇佐神宮が欽明時代の由緒と伝えられることも、その裏付けとなろう。
 一方で、6世紀前半には仏教が王朝の先祖の地でもある百済から伝わった。伝来年には諸説あるが、552年説を採る『日本書紀』によれば、欽明自身は仏典と仏像を献上した百済の使者に欣喜雀躍したとあり、仏教を素直に受容しようとしたことが窺える。
 ただし、同時に、欽明は、仏教の取り扱いについて、一人では決めないとして慎重姿勢を取り、群臣に諮問している。ここで、蘇我氏と物部・中臣氏が意見対立したため、仏教は当面、擁護派の蘇我氏に預けることとされた。
 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の和風諡号どおり、ヤマト王権の領土を大きく拡張した征服王でもあった欽明の長期治世が終わると、王権は彼の軟弱な息子たちのために後退していく。そうした中で、改めて仏教の扱いをめぐり、王朝を揺るがす動乱が発生する。
 仏教擁護派の先頭に立った新興の豪族蘇我氏は、私見によれば自身も百済系豪族であり、心情的にも権勢確立のためにも仏教に依拠しようとしていた。対して、仏教排斥派の巨頭であった豪族物部氏は、私見によれば、ニニギのライバルとも言える伽耶系渡来集団の長ニギハヤヒを祖とする古来の豪族である(拙稿参照)。
 物部氏は、昆支大王による百済系王朝樹立後も巧みに生き残り、昆支大王による宗教改革の過程で、大神神社の神班物者(かみのものあかつひと;神への供物を分かつ人)に一族の伊香色雄が任命されたことを契機に、宗教・軍事両面で権勢を持つ最強豪族集団に成長していっただけに、古来の神道を脅かす外来宗教には敵対的であった。
 こうして、仏教派と排仏派の衝突は不可避であった。しかしよく知られているように、この宗教戦争は蘇我・仏教派の勝利に終わり、蘇我氏は王権を実質上簒奪する地位に上り詰める(拙稿で述べたとおり、私見は名実ともに蘇我王朝が成立したと解している)。
 これ以来、仏教は政治とも密接に結びつくが、神道に完全に取って代わったわけではなく、二元的な形で独特の神仏習合体系が形成されていく。しかし、これは続く第二次宗教改革とも関連してくるので、稿を改めて取り上げることにする。

2017年10月29日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第18回)

十八 純祖・李玜(1790年‐1834年)/憲宗・李奐(1827年‐1848年)

 23代純祖は先代正祖の次男であったが、11歳での即位となったため、先々代英祖の継室で、正祖没後に政治的に復権した貞純王后の垂簾聴政を受けた。貞純王后は反正祖の実力者として、雌伏しつつ復権の機を窺っていたのである。
 彼女の垂簾聴政期は3年ほどだったが、その間、正祖時代に台頭した実学派学者らを弾圧・粛清する反動政治を展開し、かつ自身が出自した安東金氏の政治力を高め、以後「勢道政治」と呼ばれる安東金氏の専横時代の道筋を準備した。
 純祖は、晩年になって安東金氏を牽制すべく、もう一つの豪族豊壌趙氏を対抗的に起用して競わせるが、このような政策は両氏の権力闘争を激化させ、かえって政情不安を招いただけであった。さらに、妃の出身である豊壌趙氏を起用し、摂政として政務を主導していた孝明世子に先立たれたことも、純祖にとっては打撃であった。
 結局、純祖は34年に及ぶ長期治世だったわりに具体的な成果には乏しく、この間に朝鮮王朝を衰微させる反動的な「勢道政治」が確立されただけであった。
 純祖に続いて立った24代憲宗は孝明世子の遺子で、純祖の孫に当たるが、父と同様、7歳という年少での即位となり、祖母の純元王后が7年にわたり垂簾聴政を取った後に、親政を開始した。
 しかし、先述したとおり、憲宗の母神貞王后は豊壌趙氏であったため、安東金氏との権力闘争はいっそう激化した。そうした政情不安に加え、憲宗自身も病弱のため、国王権力は決定的に低下し、その15年ほどの治世中に二度のクーデター未遂事件に見舞われた。
 一方で、従来からのカトリック弾圧政策にもかかわらず、社会の動揺と将来への不安から、キリスト教信者の増加を抑止することはできていなかった。体制は頑強に弾圧の度を増し、多くの殉教者を出すが、効果はなかった。
 治世末期になると、東アジアへの進出を狙う西洋列強の外国船の朝鮮接近が頻発した。この状況は隣国日本の幕末とも似ていたが、朝鮮当局の対応は徹底した排撃一辺倒であった。
 そうした中、憲宗は1849年、23歳で早世してしまう。かくして、西洋暦でちょうど1800年に即位した純祖から数えて、19世紀前半をほぼカバーした純祖/憲宗の時代は、朝鮮王朝が内憂外患に悩まされる時代の始まりとなった。


§15 宗義質(1800年‐1838年)/義章(1818年‐1842年)

 宗義質〔よしかた〕は先代の父義功から死の前年1811年に年少で家督を継承し、13代藩主となった。そうした事情から、成長するまでは親政を行なえず、家臣団は派閥・利権抗争に走った。父の時代からの藩政の動揺が継続したのである。
 財政経済面でも、朝鮮貿易の収支が悪化をたどる中、治世中1823年と31年の二度にわたる城下府中の大火が追い討ちをかけ、藩の斜陽化は覆うべくもなかった。対馬藩が接待役を務める朝鮮通信使も、朝鮮王朝・幕府双方の財政難もあり、義質が家督を継いだ1811年が最後となったが、財政難の藩にとってはこれ幸いだったかもしれない。
 こうして対馬藩主の栄進の最大足がかりでもあった朝鮮通信使接待がなくなったにもかかわらず、義質は歴代藩主中でも最高位の左近衛少将に昇任したが、その翌年、死去した。享年39歳ながら、在任期間は26年と比較的長かった。
 後を長男義章〔よしあや〕が継いだが、病弱と見え、わずか3年で死去した。幕末へ向けた転換期に短命藩主が続いたことは、藩政の行方を危うくした。加えて、義章が正室を長州藩主毛利家から迎え、長州藩との姻戚関係を生じたことが、幕末、長州藩の動静に巻き込まれる要因ともなるのだった。

2017年10月26日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第13回)

三 スワヒリ文明圏

ザンジュ階級の形成
 スワヒリ文明圏で、人口構成上最大を占めていたのはバントゥー系黒人であったが、アラブ人はかれらをアラビア語で「黒人の土地」を意味する「ザンジュ」の名で呼んだ。この語は、今日タンザニアに属する自治地域ザンジバルに残されている。
 ザンジュはアラブ人らの交易相手でもあったが、アラブ人はザンジュに対して差別的な意識を持っていたことは間違いない。例えば、10世紀のアラブ人地理学者アル‐ムカッダシーは、ザンジュを「黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々」と決めつけているが、当代第一級の知識人ですらこの程度の認識であったことがわかる。
 その結果、ザンジュはアラブ‐ペルシャ商人層が主導したスワヒリ都市では奴隷階級として使役された。また何世紀にもわたって輸出され、アラブ奴隷貿易における中心的な「商品」とすらされたのである。ザンジュ奴隷は東南アジアを経由して、遠く中国王朝にまで「貢物」として献上され、中国文献に「僧祇奴」として転写記録されている。
 アッバース朝ではザンジュを奴隷兵士として徴用することもあったが、イラク南部の農業地帯では農園労働者としてザンジュが送り込まれた。かれらは過酷な労働条件下に置かれていたことから、9世紀後半、アラブ人革命家に煽動されて反乱を起こし、十数年にわたり地方革命政権を維持したほどの力量も示した。
 他方、ザンジュの乱直前期まで生きたアッバース朝の文学者で、アラビア散文文学の祖とも目されるアル‐ジャーヒズは、祖父がザンジュであったとされ、一部ではアラブ‐ザンジュ間の通婚もなされていたことがうかがえる。
 スワヒリ都市にあっては、アラブ‐ペルシャ系との通婚による混血はいっそう進んでいたと思われ、後代にはアラブ‐ペルシャ系とバントゥー系の区別は実質上つかなくなったであろうが、さしあたり初期スワヒリ文明圏の黒人ザンジュ階級は従属的なものであった。

2017年10月23日 (月)

神道と政治―史的総覧(連載第5回)

二 天皇制の創出と神道

第一次宗教改革:イヅモ神道の導入
 神道はヤマト王権の祭政一致体制を支える宗教的基盤となり、やがて天皇制律令国家の制度的基盤ともなるわけであるが、そこへ至るまでの過程は想定されている以上に複雑である。
 すなわち、二つの大規模な宗教改革の間に内乱を招いた仏教の伝来と受容という経過が挟まれる。このような見方はあくまでも私見であって、決して通説的に確立されたものではないが、一つの管見として提示する。
 まず、前章では行論上やや曖昧にヤマト神道とイヅモ神道の接合ということを述べたが、このような接合が成るに当たっては、政変を契機とする宗教改革の介在が想定される。このことはすでに別稿で詳論したので、そちらへ譲るが、遅くとも4世紀前葉までに成立したいわゆるヤマト王権は5世紀後葉に王朝交代の政変を経験している。
 それは、九州北部を経由して東征してきた伽耶系渡来人を主体とする王朝から、帰化した百済王子が創始した百済系渡来人を主体とする王朝への交代である。ヤマト神道とイヅモ神道の接合が起きたのは、この政変で成立した新王朝の宗教改革の結果である。
 伽耶系王朝下のヤマト王権の宗教は、天孫降臨に象徴される始祖神話に、三輪山を聖山拠点とするヤマトの土着的な信仰体系を継承加味したものであったろうが、この旧王朝を倒した百済系王朝は新たにイヅモ神道を導入したのである。
 そこには、イヅモ王権との神聖同盟という外交的な新政策が大きく影響しているが、旧王朝系勢力を宗教面から統制支配するという内政的な目的もあったと考えられる。そうした宗教改革を主導した君主(オオキミ)が、正史上にいわゆる「応神天皇」―昆支大王―であった。
 三輪山をイヅモ神道系聖山に作り変えたこの第一次宗教改革は、後に見るように、およそ一世紀後に再び覆されるのであるが、イヅモ神道の接合という成果は永続した。
 実際、三輪山自体を本殿とする大神神社の主祭神である大物主大神はイヅモ神道における大国主の「和魂」(=安らかな魂)とみなされ、配神としてまさに大己貴神(=大国主神)を祀っているのである。なお、昆支大王による宗教改革の詳細に係る私見も別稿にて詳論したので、これも管見ながら参照願いたい。

2017年10月19日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第12回)

三 スワヒリ文明圏

スワヒリ文明圏の発祥
 今日のアフリカ東海岸中央部には、バントゥー語群を代表するスワヒリ語を共通語とする大連環地域が広がっているが、この地域はまさにバントゥー人の西からの大移動によって始まった。
 バントゥー人はすでに紀元前1000年頃には大湖沼地帯に移住し、農耕文化を担っていたと見られるが、人口増の圧力により、紀元2世紀頃までには東海岸地域に進出した。
 しかし、スワヒリ文明圏の誕生に当たっては、イスラームの伝来が不可欠の触媒となった。アラビア半島で6世紀末に創唱されたイスラームは7世紀末までには紅海を越えてアラブ商人によってアフリカ東海岸にも伝えられていた。
 その結果、バントゥー人のイスラーム化が進むとともに、アラブ人やペルシャ人の定住者も加わり、血統的にも混合しながら、アラビア語の語彙を大幅に取り込んだバントゥー語変種であるスワヒリ語が地域のリンガフランカとして形成・定着し、スワヒリ語を共有する文明圏が築かれていったのである。
 こうしたイスラームを文明化触媒とする形成過程は前章で見たサハラ交易文明圏とも類似しているが、大きく異なるのは、スワヒリ文明圏ではアフリカ黒人自身を主体とする大帝国は築かれなかったことである。その代わりに、キルワやザンジバルなど島嶼部に発達した交易都市群が栄えた。
 その理由として、この地域の民族的・文化的混淆性と海に向かって開かれた交易都市文明としての性格が想定できる。実際、この地域では共同体の発祥をシラージと呼ばれる外来のペルシャ人に求める伝承など、受動的な発祥が強調されるのである。
 しかし考古学的な証拠は、この地域の中心勢力がやはりバントゥー系黒人であり、アラブ人やペルシャ人は文明形成の触媒的な役割を担ったことを示唆している。とはいえ、政治経済的な面でのアラブ人やペルシャ人の主導性は否めなかった。

2017年10月15日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第17回)

十七 正祖・李祘(1752年‐1800年)

 22代正祖は、父荘献世子が祖父の21代英祖によって処刑されたため、一代飛ばす形で英祖の後継者となった。彼は荘献世子の子であることに内心誇りを抱いていたようであるが、君主としては祖父の路線の継承者であった。
 彼は父の刑死に関わった老論派を嫌悪し、その権益を抑制しつつも、党争は避け、祖父が敷いた蕩平策を維持し、国王権力を強化する集権的な政策を施行した。国王権力の強化は軍制改革にも及び、正祖は国王直属の親衛隊として壮勇営を創設し、国王の統帥権を強化した。こうして、国王の政軍関係の掌握力を高めることが、正祖の終生にわたる施政方針であった。
 正祖はまた、好学だった英祖から文化政策も継承し、発展させた。ことに王立図書館・公文書館の性格を持つ奎章閣を設立し、ここに重要な書籍・文献を集積するとともに、文官の研修と政策立案なども併せて行なう一種のシンクタンクとしての機能も持たせたのであった。
 正祖の時代には、従来の朝鮮にありがちだった観念論的な儒学の気風に代えて、より実証的・実用的な実学の気風が広がり、奎章閣はそうした実学研究機関としての役割も担っていた。それは、正祖の改革政治の方向性ともマッチするものでもあった。
 こうした学問の平易な実学化は伝統的な学問の担い手であった両班階級から中人以下の階級まで学問的な志向が普及する契機となり、正祖時代は朝鮮王朝史上、文化が最も花開いた時代、ある種の啓蒙時代としても記憶されている。
 一方で、この時代の朝鮮社会はキリスト教(天主教)との直面を本格的に経験した。キリスト教は先代英祖の時代に一部地方に流入してきていたが、英祖はこれを邪教と断じ、すぐさま禁圧した。
 正祖時代になると朝鮮への布教が始まり、朝鮮人カトリック教徒の活動も目立ってきた。朝鮮史上初のキリスト教会が設立されたのも、正祖時代のことである。
 正祖自身は儒学を正統思想とし、カトリック(西学)を否定しつつも、弾圧は慎重に避けていたが、身内の葬儀をカトリック式で執り行って社会問題化した両班尹持忠を処刑したことで 朝鮮初の殉教者を出した。
 キリスト教の流入は西洋人の来航ともリンクしており、正祖晩年の1797年にはウィリアム・ロバート・ブロートンに率いられた英国軍艦プロヴィデンス号が釜山に漂着するという出来事もあった。
 18世紀最後の四半世紀をほぼカバーした正祖の時代は、朝鮮社会の大きな転換点に当たっており、正祖は彼なりに時代の波をとらえた改革を進めていたが、1800年、道半ばにして没した。
 彼の政治的失敗は、父荘献世子の死にも関与した英祖の野心的な継室貞純王后に報復せず、生かしておいたことだったかもしれない。正祖よりも長生した彼女は、正祖没後、再び動き出し、正祖の息子の23代純祖を垂簾聴政によって操り、正祖の諸改革を覆してしまうのである。


§14 宗猪三郎〈義功〉(1771年‐1785年)/義功(1773年‐1813年)

 10代藩主宗義暢が1778年に死去した時、彼には三人の幼年の息子たちが残されていた。そのうち最年長の四男猪三郎がまず家督を継いだが、彼は病弱であったのか、慣例であった将軍との御目見も果たさないまま、1785年、15歳で夭折する。
 当然継嗣もなく、宗家はお家断絶危機に直面する。ここで発揮されたのが、宗氏お家芸とも言える偽装工作であった。重臣らは慎重に幕閣とも謀ったうえ、死亡したのは末男の種寿であることにし、六男の富寿が猪三郎になりすまして継承するという工作を幕府黙認の下に行なったのである。
 こうして富寿が実質上の12代藩主におさまり、元服後は義功〔よしかつ〕を名乗り、先代の故・猪三郎にも偽装のため、同名を追贈した。とはいえ、就任時12歳だった義功治世の初期は重臣による集団指導体制であり、親政を開始したのは元服後の1787年以降のことである。
 義功は同時代の朝鮮国王正祖に似て、文教政策に力を入れ、新たな藩校として講学所(思文館)を開設したほか、後には九州本土側の飛び地田代領にも東明館を開設している。そのほか、幕府に数十年先立って、武芸の訓練を施す講武所を開設するなど、文武での人材基盤の強化に努めた。
 また義功の時代には、異国船を警戒する幕府の命により遠見番所を設置したほか、朝鮮への外国船来航にも対処するため、釜山倭館にも兵士を配置するなど、防備体制の強化を強いられたため、兄の時代に15万両にまで達していた幕府からの借財を含め、藩財政を圧迫した。
 しかし、財政難は解消されず、倹約令も実効を見なかった。義功自身も病気がちで指導力に欠けたため、家臣団の派閥・権益争いなどが絶えなかった。しかし在位期間は27年と比較的長く、死の前年には次男に無事家督を譲り、隠居した。

«神道と政治―史的総覧(連載第4回)

2017年11月
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