2017年8月23日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載最終回)

第二部 現況~未来

(10)環境的滅亡危機
 当連載は「世界の縮図」というサブタイトルのもとに展開してきたが、最終章はまさに世界的な問題である気候変動がオセアニアの島嶼国家にもたらしている国家存亡の危機に関する。
 オセアニアを危機にさらしているのは、気候変動に由来する海面上昇である。海面上昇の影響はもともと低海抜の環礁が多いオセアニアの島嶼国家を直接的な水没の危機にさらす。中でもキリバスとツバルである。いずれも多数の環礁で構成された典型的なオセアニアの島嶼国家である。
 特にキリバスはいち早く政府もこの問題に取り組み、2003年から15年にかけて、キリバス政府や地球環境ファシリティー、国連開発計画、日本政府などが共同で5500万ドルを投入し、三段階に分けてキリバスの水没危機を軽減するプログラム「キリバス適応計画」を実施してきた。
 その間、2010年には同国の首都タラワ環礁で、キリバス政府の主宰による「タラワ気候変動会議」が開催され、気候変動の原因や弊害について世界に強く訴えかける即時行動を求める「アンボ宣言」を同国のほか日本や中国を含む12か国共同で採択した。キリバスは小国ながら気候変動問題では大きなリーダーシップを発揮しようとしている。
 その一方で、キリバス政府はまさに国家の消滅をも視野に、域内のフィジーへの全国民移住計画も検討している。こうした国家の環境的滅亡危機によって生じる難民―環境難民―は、従来の戦乱や飢餓から生じる難民とは異なり、まさに一国規模で発生するため、受け入れ国との間での慎重な外交交渉を必要とする。
 他方、ツバルは海面上昇に対して脆弱な地質構造を持つため、一説によれば海面上昇の進行により、最初に水没する危険が指摘されている。ただ、ツバル政府は全国民移住計画には消極的で、気候変動への世界的な取り組みにより海面上昇を抑制することを強く求めている。
 国家存亡の危機に至らないまでも、塩害による廃農や満潮時の浸水、海岸侵食の進行などはマーシャル諸島など他のオセアニア諸国でも大なり小なり見られるところである。こうした問題の解決はオセアニア域内の課題ではなく、まさに地球規模の世界的な課題である。
 最後に、ツバルのエネレ・ソポアガ首相が2015年の国連気候変動会議(COP21)で演説を締めくくった次の言葉で稿を閉じることしたい。

 ツバルのために行動しましょう。なぜなら、私たちがツバルを救えば、ツバルも世界を救うからであります。

2017年8月20日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第20回)

第二部 現況~未来

(9)中国のオセアニア進出
 オセアニア地域への中国人の進出は、清朝時代の19世紀後半以降、いわゆる苦力〔クーリー〕労働者を含めた移民の形で進み、特にオーストラリアの主要都市には大規模なチャイナタウンが形成された。その他ハワイをはじめとする島嶼地域にもそれぞれ地場のチャイナタウンが形成されていった。
 こうした華人移民は、土着した場所で財力を蓄え、政治にも進出する。パプアニューギニアで1980年代と90年代に三度首相を務めたジュリアス・チャンや、キリバスで2003年から16年まで大統領を務め、気候変動問題に関してリーダーシップを取ったアノテ・トンなどは華人系の代表的な政治家である。
 こうした華人移民集団とは別に、現代中国は国家単位でオセアニアに進出する動きを強化している。中国はかねてより、太平洋方面にアメリカを意識した二本の「列島線」なる拡大的防衛戦略ラインを引いてきたが、近年はそうした消極的な防衛ラインを超えた積極的な太平洋進出政策を展開する。
 これは、豪米同盟を基軸とする覇権が確立されてきたオセアニアに中国が割り込み、とりわけオセアニア最大のチャイナタウンを擁するオーストラリアとの経済関係を足場に、オセアニアにおけるアメリカのプレゼンスを相対的に低下させる狙いを伴っていると見られる。
 それと同時に、1971年の中国の国連加盟・台湾の脱落後も台湾と外交関係を維持する小国が少なからず残されているオセアニアにおいて、台湾に対する外交的優位性を確立するための攻勢という側面もあるであろう。
 小国の側でも域内覇権国であるオーストラリアへの従属を避けたい思惑から、中国の経済進出を利用しつつ、産業基盤の弱さを補填し、国の開発を進めたい思惑が一致する。中でも、中国との関係が近年とみに高まっているのが、フィジーである。
 フィジーは独立以来、中国とは友好関係にあるとはいえ、2006年の軍事クーデター以来のバイニマラマ政権は民主化圧力をかけるオーストラリアを回避する形で中国との経済・軍事関係を強化しており、特に軍事援助が突出していることが注目される。
 こうした中国のオセアニア進出に対して、先住民衆の間から反中感情の表出もなくはない。06年にソロモン諸島で発生した反中暴動はその予兆であった。中国の進出が経済援助的な性格を超え、覇権主義的な色彩を帯びるならば、全般的に反中感情が高まる恐れもあるだろう。

2017年8月17日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第13回)

十三 仁祖・李倧(1595年‐1649年)

 16代仁祖は14代宣祖の孫に当たり、伯父の光海君を打倒した西人派のクーデターによって擁立された。そのため、このクーデターは仁祖反正とも称される。クーデターに際して最大の動機となったのは、光海君の中立的外交政策であった。
 その点、西人派は親明・反後金の保守的外交政策を掲げ、光海君と対立した。しかし、親明・反後金政策は、間もなく明が倒れ、後金が清として中国大陸の新たな覇者となったことにより、かえって国難を招くことになる。
 まず1627年、明の朝鮮駐留軍を撃破した後金軍に侵攻され、朝鮮は窮地に陥る。この時は後金に抑留されていた朝鮮武将の仲介により和議が成立するも、朝鮮は後金を兄とする兄弟盟約の締結を余儀なくされた。
 この後、明を打倒し、清朝を樹立した2代皇帝ホンタイジは36年、朝鮮に対して従来の兄弟関係から君臣関係への移行を要求してきた。仁祖政権は一部の有力な宥和論を退けてこれを拒否、戦争準備に入った。
 しかし、これは両国の軍事力の格差を見誤る策であった。36年、軍事力で勝る清は10万の大軍をもって電撃作戦で侵攻、わずか5日で首都漢城を制圧した。仁祖は漢城南方に退避して抗戦するも、45日で降伏した。
 その結果、仁祖はホンタイジの前で臣下として三跪九叩頭の礼を強制される屈辱を味わったうえ、朝鮮は11項目から成る従属的な講和条件をもって清の冊封に下ることとなり、この関係は以後王朝最期まで続く。かくして、仁祖反正はかえって朝鮮の国際的な地位を低める結果をもたらしたのである。
 一方、清に対する従属的な関係を強いられたはけ口を対日修好関係に求めるべく、仁祖は、光海君時代までは秀吉による朝鮮侵略の戦後処理を目的とした回答兼刷還使という名目での朝鮮通信使を正式の通信使に格上げさせつつ、在位中に三度派遣している。
 仁祖は26年在位した後、1649年に死去するが、以後の朝鮮国王はすべて仁祖の子孫の系統で占められることとなったので、清への従属という新展開とともに、爾後、王統的には「仁祖朝」とも呼ぶべき新たな歴史が始まると言える。


§10
 宗義成(1604年‐1657年)

 宗義成は、近世大名対馬藩主宗氏二代目として、初代の父義智の後を継いだ。二代目にはおうおう苦難がのしかかることが多いが、彼の場合は藩の存続に関わる重大な不祥事であった。先代が幕命により朝鮮との国交回復交渉に当たっていた際、幕府の国書を偽造していた一件が発覚したのである。
 対馬藩がこのような挙に出たのは、交渉過程で朝鮮側が幕府の国書の先提出を要求してきたところ、そのような屈辱的対応をしかねたことにあったようである。結局、藩では幕府の国書を改ざんして形式上朝鮮側の要求に応じつつ、朝鮮側の「回答使」を幕府側が求めた正式の「通信使」と偽って、その返書も改ざんするという二重改ざんという手の込んだ偽装で交渉をまとめていたのである。
 実のところ、こうした対朝鮮関係での文書偽造は、宗氏にとっては中世の守護大名時代からの常套手段であり、ある種のお家芸であったのだが、この件に限って露見したのは、自ら改ざんにも関与した家老柳川調興〔しげおき〕の内部告発による。
 野心家で、幕府中枢ともつながっていた調興は幕府直臣の旗本に昇進することを狙って義成と対立したため、対抗策として内部告発に出たようである。この一件は時の将軍家光自らが裁く公開訴訟に発展したが、調興敗訴・弘前藩預かり、義成は咎めなしという結果に終わった。
 このように内部告発者側だけが責任を問われたため、「柳川一件」とも称される不公平な裁定は、おそらく幕府としても、朝鮮情勢に明るい宗氏の存続を認めたほうが得策という政治判断の結果であろう。しかし、藩で対朝鮮外交に当たっていた調興や、臨済宗僧侶規伯玄方らの実務者が罪状を問われ追放された結果、宗氏の朝鮮外交は行き詰まった。
 それに付け入る形で、幕府は新たに宗氏の対朝鮮外交を補佐する朝鮮修文職を置き、京都五山僧を対馬に派遣する制度を創設した。これにより、以後の対朝鮮外交では幕府の統制権と宗氏の代官的性格が強まるのである。これは、家光政権の情報・貿易統制=「鎖国」政策とも関連する大きな転換点であった。

2017年8月 9日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第7回)

二 西アフリカ人の商業文明

二つの大河流域
 ヌビア人の王国が衰亡した後、アフリカ黒人の活動中心は西アフリカへ遷移していくが、この地域ではニジェール河とコンゴ河という二つの大河の流域に最初の文化圏が発展していく。
 このうち、ニジェール河流域では紀元前3000年紀から農耕が始まっているが、ナイル河流域のような文明圏に発展することはなかった。その後、紀元前5世紀頃から紀元後にかけてナイジェリア中央高原でノク文化と呼ばれる鉄器文化が栄える。
 この文化の担い手は、その代表的な生産品である土偶の人物特徴からすると、明らかにアフリカ黒人であるが、民族籍は特定されていない。ノク文化遺跡からは公共建造物も発見されているが、全体として古拙な特徴を残しており、文字体系も備えた大文明圏に発展することはなかった。
 やがて、この流域ではバントゥー人とも同系のニジェール・コンゴ語族に属するマンデ語派諸族の首長制村落群が出現するが、その中からガーナが優勢化し、早ければ紀元4世紀には王国を形成したとされる。ガーナ王国は後に隊商中継貿易で巨富を築くことになる。
 もう一つのコンゴ河流域は熱帯雨林地帯であり、長期にわたり、狩猟採集社会が維持された。その担い手民族は不詳だが、バントゥー人大移動で移住してきたバントゥー系民族が鉄器と農耕をもたらすことで、最初の文化的発展の土台が築かれたと推定される。
 この流域の民族は交易ネットワークでつながるバントゥー系で統一されていったが、政治的な王国形成はニジェール流域よりやや遅れ、14世紀のコンゴ王国の成立を待つ必要があった。

2017年8月 6日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第35回)

十二 現代政治と仏教

日本の「議会政仏教」
 日本では明治政府による廃仏毀釈政策の結果、中世以来の伝統仏教勢力が急速に閉塞することとなり、仏教は神道に劣後する二級宗教に転落した。その一方で、昭和に入ると、伝統仏教勢力の外部で新興の仏教団体を創立する動きが見られた。
 それらの教団には日蓮宗・法華系標榜宗派が多いことが特徴であるが、そこには、既存宗派の枠にはまらない日蓮宗の持つ在野的性格が影響しているのかもしれない。しかし、戦時体制下で神道系も含む新興宗派全般に対する当局の監視が強まり、創価学会のように幹部が検挙され、弾圧される場合もあった。
 戦後は、憲法で保障された信教の自由の下、新興仏教団体が無数に創立されていく。そうした中で、戦前創立の大規模な教団の中には、議会政治に直接間接に参加するものも現れた。いち早く系列政党を結成し、国政に進出したのは法華系の創価学会(以下、学会と略す)である。
 学会は1956年に初めて傘下参議院議員を出したのを契機に、64年には正式に公明党を結成し、67年総選挙で25名の当選者を出して以来、中道を標榜する議会政党として今日まで定着、1990年代以降は、たびたび連立政権の一角を担うに至っている。
 ちなみに近年、学会同様に系列政党の幸福実現党を通じた議会参加を試みているのは仏教ベースの独異な教義を持つ幸福の科学であるが、現状、少数の地方議員を擁するものの、国政では地歩を築いておらず、現時点で国政レベルへの進出で学会以上の成功を収めている仏教系団体は存在しない。
 また、戦前に法華系の霊友会から分派した立正佼成会は戦後の選挙運動を通じて主として自由民主党(自民党)を支援してきたが、ライバル関係にある学会系の公明党が自民党と連立を組むと流動化・個別化し、旧民主党・民進党系の支持に傾斜していると言われる。
 このように日本の戦後政治は、伝統仏教勢力以上に新興仏教勢力と議会政とのつながりにおいて、他の仏教諸国にも見られない独自の展開を見せている。もっとも、こうした言わば「議会政仏教」は、憲法が信教の自由とともに規定する政教分離原則との緊張関係を常にはらんでおり、特に教団系列政党の政権参加は憲法上も機微な問題を提起することは否定できない。
 ところで、90年代半ば、松本と東京で化学兵器テロ事件を起こし、世界を震撼させたオウム真理教は、日本では珍しい上座部仏教に近い教義を持つ新興仏教団体であったが、かれらも当初は国政参加を狙い、選挙に参加するも目的は達成されなかった。それを契機に教団は過激化・武装化に走り、テロ事件を惹起するに至ったとされる。
 平和なイメージの仏教がテロに関与することは稀であり、教団被害対策に当たった弁護士一家惨殺など敵対人物を標的とする多数の凶悪事件を組織的に起こしたオウム真理教はあまりにも特異な存在であったが、「国家」の樹立まで目論んだとされる教団は現代日本における議会政仏教への過激なアンチテーゼだったのかもしれない。

2017年7月31日 (月)

オセアニア―世界の縮図(連載第19回)

第二部 現況~未来

(8)政情不安事例③:ソロモン諸島

 ソロモン諸島はメラネシア系住民を主体とする島嶼国家かつ多部族多言語社会であり、1978年の独立以後も、国家の統合性に困難を抱えていた。そうした中、1990年代までに主島であるガダルカナル島への隣島マライタの人口増による移住者が急増、先住者との間で土地などの権利をめぐり紛争が多発した。
 この紛争はガダルカナル先住者が組織した民兵団「ガダルカナル革命軍」によるマライタ移民攻撃へとエスカレート、対抗上マライタ移民も民兵団「マライタの鷲軍」を組織して対抗したことから、内戦へ突入した。内戦は2000年に頂点を迎え、現職首相がマライタの鷲軍に誘拐される事態にまで立ち至った一方、数度の和平協定も実効性を持たないまま、03年まで内戦は続き、国の法秩序は崩壊の危機に瀕した。
 そこでソロモン諸島議会は外国の介入援助を要請、ここに至り、オーストラリアとニュージーランドが主導する「ソロモン諸島地域支援ミッション」が組織され、約2000人の国際警察軍部隊がソロモン諸島に進駐した。これを契機に、ようやくソロモン紛争は終息に向かった。
 以後、国家の統合性を目指した国家再建が行なわれていくが、政情不安は06年に再び表面化する。これは時の首相が中国人実業家から議会での選出票を買収するために収賄したとの疑惑を持たれたこと契機とし、ガダルカナル島にある首都ホニアラではチャイナタウンが集中的に襲撃される反中暴動に発展、チャイナタウンがほぼ焼失した。
 この事態は再び国際警察軍部隊の増派と首相の辞任により終息したが、現在も台湾と外交関係を維持しているソロモン諸島における21世紀初頭のこの一件は、中国系資本のオセアニア進出とそれに伴う中国系移民との摩擦という近年の現象を先駆ける事件であったと言える。

2017年7月26日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載最終回)

十六 尚泰王〈続〉

 明治維新後の尚泰王政権は、明治新政府の廃藩置県政策の中で国の存亡がかかる正念場を迎える。明治政府は従来、清と薩摩藩への二重統属を認め、幕府とは薩摩藩を通じた間接支配関係を維持してきた徳川幕府とは異なり、琉球を正式に日本領土に組み込もうとしていたからである。
 結果、明治政府は1872年、いったん尚泰王を琉球藩王に奉じたうえ、日本の華族として処遇した。その後、明治政府は琉球に対し、清国との歴史的な冊封関係の解消を迫ったが、琉球側は難色を示した。これに業を煮やした政府は1879年、武力を背景とした外交圧力により琉球藩を廃し、沖縄県を設置した。
 日本側では「琉球処分」と称されるこの過程は、実態として、「琉球併合」であった。ある意味で、これはその後の大日本帝国による武力を通じた領土拡大政策の出発点ともなったと言える。これにより、日本領土は中国、東南アジア方面をも見据えた南方に延伸されたからである。
 この間、尚泰王の影は薄く、日本との交渉は三司官など伝統的な王府閣僚に任せ切りで、積極的に指導力を発揮した形跡はない。藩王の地位を剥奪された後の尚泰は東京移住を命じられ、沖縄を離れるとともに、侯爵の身分を与えられた。
 これに対し、尚泰の次男尚寅と四男尚順らは1890年代末、沖縄県知事職の尚家世襲制と自治権の付与を求める公同会運動を起こし、事実上の復藩を政府に陳情するも、認められず、結局、沖縄県の日本統合は確定した。
 尚泰は侯爵として静かな余生を過ごし、帰郷は許されないまま1901年に急逝するが、琉球国王経験者としては唯一、20世紀まで生きた人物となった。その後、旧尚王家(第二尚氏)は、長男尚典を介して、今日も一般人として存続している。


八´ 島津久光(1817年‐1887年)/忠義(1840年‐1897年)

 薩摩藩側で最後の藩主となったのは島津忠義であるが、彼は先代斉彬の甥であり、実父は斉彬と藩主の座を争った野心的な久光であった。そのため、忠義体制下では、久光が「国父」と称され、大御所として実権を握った。
 こうして正式に藩主に就かないまま最高実力者となった久光は藩政改革の中で、後に明治政府の首班として台頭する大久保利通ら、明治維新後に活躍する若手藩士を登用し、かつ自らも幕末の公武合体運動、さらには倒幕運動でも主導的役割を果たし、薩摩藩を明治維新の主役に押し立てる功績を残した。
 その後、旧大名級としては例外的に明治政府に関与を続けるも、本質的に保守的な久光は明治政府の急進的な政策にはついていけず、特に廃藩置県には強硬に反対した。結局、彼は1876年、鹿児島県となった郷里へ隠居する。そのため、本来は薩摩も宗主として当事者であるはずの「琉球処分」問題に関与することもなかった。
 一方、息子の忠義は当初は父久光の後見・実権体制下で主体的役割を果たすことなく、その後も、大久保や西郷隆盛らに藩政を委ね、終始受け身であった点、琉球最後の尚泰王とも通ずるところがある。そして、尚泰同様、維新後は政府の命により東京に移住した。
 忠義は父とともに公爵を授爵され、貴族院議員も務めたが、1888年には政府の許可で帰郷していた忠義が明治政府で重要な役割を果たすことはなく、父の死の10年後、1897年に鹿児島で死去した。東京で客死した尚泰に対する扱いとは対照的であった。

2017年7月19日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第15回)

十六 尚泰王(1843年‐1901年)

 尚泰王は先代の父尚育王が若くして没したことから、1848年、幼少で即位した。そのため、治世初期の欧米列強との相次ぐ条約締結で主導的役割を果たすことはなかった。
 1850年代に琉球が締結した一連の条約のうち最初は米琉修好条約であったが、このとき米側のペリー提督は琉球征服を日本開国の突破口と認識して琉球に現れ、強硬上陸したのだった。日本に先立つ黒船来航である。
 最終的に、琉球は日米和親条約に引き続いて、不平等条約の性質を持つ琉米修好条約の締結を半ば強制されることになる。これをきっかけに、フランス、オランダとも同種条約の締結を強いられた点は、日本本国の安政五か国条約の経緯と類似している。
 こうした不平等条約の締結は、江戸幕府(将軍徳川家定)、琉球王国ともに元首が弱体であったという事情が相当に影響していると思われる。
 幼少で即位し、琉球王国最後の王となった尚泰王の治世は、日本側の幕末から明治維新をはさんで24年に及んだが、明治維新後の治世に関しては、稿を改めて見ることにする。


八´ 島津斉彬(1809年‐1859年)

 薩摩藩主の中でも特に著名な島津斉彬は若くして洋学志向の改革派であったことから、緊縮財政派の父斉興に警戒され、庶子の久光への譲位が画策されたが、斉彬はこの企てを打ち破り、お家騒動(お由羅騒動)を利用して藩主の座を勝ち取ったことは前回述べた。
 1851年に藩主に就任した斉彬は開明・開国派として藩の富国強兵に務め、後の明治維新政府の先取りのような政策を藩内で実施するとともに、養女に取った親類の篤姫を将軍家定正室として送り込み、将軍家と姻戚関係を結び、幕府との人脈を生かし、外様ゆえに幕府要職には就かないまま、幕政改革にも介入した。
 斉彬はとりわけ洋式軍備に強い関心を寄せ、側近市来四郎を琉球に送り、琉球を介してフランスから兵器の購入を計画した。この際、薩摩藩に非協力的だった琉球王府の人事に干渉し、通訳官として薩摩の評価も高い牧志朝忠ら親薩摩派の陣容に立て替えている。
 他方、幕政では家定死後の将軍後継問題で一橋(徳川)慶喜を推し、大老井伊直弼と対立した。井伊は安政の大獄の強権発動で、紀州藩主徳川慶福(家茂)を将軍に擁立、反発した斉彬は挙兵上洛を企てるが、兵の観閲中に発病し、間もなく急死した。
 存命中の父斉興や異母弟久光ら守旧派による暗殺説も囁かれる斉彬の急死は、琉球王府の権力闘争にも直接波及し、大規模な疑獄政変を引き起こすが、これについては稿を改めて見ることとにする。

2017年7月16日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第12回)

十二 光海君・李琿(1575年‐1641年)

 14代宣祖には長く嫡男が生まれず、その晩年は後継問題で揺れていた。庶長子の臨海君は性格上の問題から後継候補を脱落し、最有力候補は庶次子光海君だったが、これには明が長男でないことを理由に世子としての認証を拒否したため、後継者は容易に定まらなかった。
 そうした中、正室と死別した宣祖が嫡子にこだわり、後継問題の混乱を懸念する重臣らの反対を押して迎えた継室仁穆[インモク]王后が1606年に初の嫡男永昌大君を生んだことで懸念は的中し、永昌大君を推すグループ(小北派)と光海君を推すグループ(大北派)の対立が起きる。
 朝廷の党争に深入りしない主義だった宣祖が後継指名しないまま08年に死去すると、幼少の永昌大君ではなく、光海君を推す声が強まり、彼が15代国王に即位した。即位後の光海君は権力基盤を固めるため、永昌大君を処刑し、仁穆王后も廃位・幽閉するとともに、同母兄臨海君まで謀殺するという身内への容赦ない粛清を断行した。
 結果として、光海君政権は、大北派の天下となった。大北派とは、宣祖晩年に実権を握っていた東人派が南人派と北人派に分裂したうちの後者から、さらに先の後継問題をめぐって分裂した一派で、メンバーは古参官僚を主体としていた。
 光海君政権は、死の前年07年に第一回通信使を派遣して日本との和議に先鞭をつけていた父の方針を継承して、09年には成立間もない江戸幕府と正式に講和した。以後、この己酉約条が江戸時代を通じて朝日関係の基本的な修好条約として機能していく。
 また内政面では、李朝創始以来の税制であった貢納制を抜本的に改正し、これも父の在位中に食糧難対策として一年間の時限法として施行されたことのある大同法を正式に導入した。
 従来の貢納法では特産品による納税が困難であったことから、原則として土地ごとに定められた米で納税する方法に改めたのであった。この制度の施行は大地主層の両班や大商人の抵抗により当初は京畿道限定であったが、光海君の廃位後に拡大され、1677年までに一部地域を除いて、全国に拡大されていった。
 治世後期の課題は、女真系の後金(後の清)の攻勢に苦しむ明からの援軍要請であった。光海君は秀吉の朝鮮侵略時の明の援軍への謝意やかつて自身の世子冊封に反対した明への気兼ねから、援軍に応じたが、19年に大敗したため、後金と講和し、中立政策に転じた。これは間もなく後金が清として新たな中国大陸の覇者となったことからすると、先見であった。
 このように光海君は為政者として父以上の手腕を発揮したと言えるが、23年、雌伏していた西人派が幽閉中の仁穆王后を担ぎ出して決起し、光海君を拘束・廃位、江華島へ追放した。代わって、光海君の甥に当たる仁祖が即位した。
 このクーデターの結果、光海君は五代前の燕山君と並んで、後世の追贈によっても廟号を与えられない「暴君」として名を残すこととなったが、廃位直後に死亡した燕山君と異なり、20年近い配流生活を過ごし、66歳まで存命した。
 おそらく光海君が「暴君」とされたのは、異母弟や同母兄らを葬り去った身内への粛清のゆえであろうが、むしろ彼が息を吹き返した西人派によってあっけなく廃位に追い込まれたのは、「暴君」どころか、その権力基盤はなお磐石でなかったことを示している。
 光海君はその後も政治的には名誉回復されることはなかったが、これは以後の王統がすべて仁祖の子孫で占められたせいであろう。しかし現代の歴史的評価のうえでは、病的な逸脱行動が目立った燕山君とは異なり、二度にわたる日本の侵略で打撃を蒙った国土を立て直し、内政外交上実績を残した光海君は名誉回復されつつあるようである。


§9 宗義智〈続〉

 前回も見たとおり、義智は先代宣祖時代に対朝鮮関係改善の土台を築いていたが、当時、朝鮮側でも、宣祖から光海君への政権交代があった。しかし、義智は光海君の新政権とも巧みに交渉して1609年、ついに己酉約条の締結に成功した。これによって途絶していた対朝鮮貿易が再開された。
 朝鮮側は宗氏に朝鮮王朝の官職を付与し、日本国王使としての資格も認証したが、日本への警戒心はなお強く、宗氏使節団の漢城上京の原則禁止、またかつて紛争の元ともなった日本人居留民を制限するため、日本人の倭館からの禁足など厳しい統制を加えた。
 江戸幕府も宗氏を一種の辺境領主として遇し、対朝鮮の外交通商権を与え、対馬藩の負担で新たに釜山に建設された豆毛浦倭館を通じた貿易の独占権も付与するなど、厚遇している。ここには、まさに義と智を備えていたらしい義智の手腕への幕府の高評価が反映されているのだろう。
 もっとも、己酉約条交渉に当たっては、義智の養父で先代の義調が九州本土から招聘し、対朝鮮外交に当たらせていた臨済宗僧侶景轍玄蘇の補佐の功績も大きかったことはたしかである。
 しかし、徳川家康より一年先立ち1615年に48歳の壮年で義智が死去し、後を継いだ息子義成の代になると、対馬藩が朝鮮との和平交渉の過程で幕府の国書を偽造していた事実が発覚し、宗氏を揺るがす一大事に発展することになるのである。

2017年7月12日 (水)

東西融合医学

 今日、単に「医学」と言えば、西洋医学を指すと決まっているが、原因不明の様々な症状に悩まされるようになると、西洋医学の限界を痛感する。
 病体を壊れた機械のように修理する西洋医学は命に関わるような急性的症状への外科手術を含めた緊急対処や当面の症状軽減のための対症的薬物治療は得意だが、直ちに命に関わらない慢性的かつ多臓器的な症状―実は健康問題の大半を占める―への根治療法は不得手である。
 その点、病体をより総合的に把握する東洋医学の一環である中医や漢方は、西洋医学の知らない治療法の宝庫のようである。ただし、その欠点は経験優位で科学的な確証(エビデンス)が不充分なことである。
 東洋医学を科学的に解明し直したうえ、西洋医学と融合し、その不得手な領域を克服する医学体系の脱構築的再編が求められる時代ではないかと思う。その点、東洋医学は科学の余白というより、空白地帯かもしれない。
 未来の医療は、西洋医学至上ではなく、東西融合医学に基づき、医師も東西両医学体系を身につけた施術者であるべきではないか、と願望する。

«仏教と政治―史的総覧(連載第34回)

2017年8月
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