2017年10月19日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第12回)

三 スワヒリ文明圏

スワヒリ文明圏の発祥
 今日のアフリカ東海岸中央部には、バントゥー語群を代表するスワヒリ語を共通語とする大連環地域が広がっているが、この地域はまさにバントゥー人の西からの大移動によって始まった。
 バントゥー人はすでに紀元前1000年頃には大湖沼地帯に移住し、農耕文化を担っていたと見られるが、人口増の圧力により、紀元2世紀頃までには東海岸地域に進出した。
 しかし、スワヒリ文明圏の誕生に当たっては、イスラームの伝来が不可欠の触媒となった。アラビア半島で6世紀末に創唱されたイスラームは7世紀末までには紅海を越えてアラブ商人によってアフリカ東海岸にも伝えられていた。
 その結果、バントゥー人のイスラーム化が進むとともに、アラブ人やペルシャ人の定住者も加わり、血統的にも混合しながら、アラビア語の語彙を大幅に取り込んだバントゥー語変種であるスワヒリ語が地域のリンガフランカとして形成・定着し、スワヒリ語を共通する文明圏が築かれていったのである。
 こうしたイスラームを文明化触媒とする形成過程は前章で見たサハラ交易文明圏とも類似しているが、大きく異なるのは、スワヒリ文明圏ではアフリカ黒人自身を主体とする大帝国は築かれなかったことである。その代わりに、キルワやザンジバルなど島嶼部に発達した交易都市群が栄えた。
 その理由として、この地域の民族的・文化的混淆性と海に向かって開かれた交易都市文明としての性格が想定できる。実際、この地域では共同体の発祥をシラージと呼ばれる外来のペルシャ人に求める伝承など、受動的な発祥が強調されるのである。
 しかし考古学的な証拠は、この地域の中心勢力がやはりバントゥー系黒人であり、アラブ人やペルシャ人は文明形成の触媒的な役割を担ったことを示唆している。とはいえ、政治経済的な面でのアラブ人やペルシャ人の主導性は否めなかった。

2017年10月15日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第17回)

十七 正祖・李祘(1752年‐1800年)

 22代正祖は、父荘献世子が祖父の21代英祖によって処刑されたため、一代飛ばす形で英祖の後継者となった。彼は荘献世子の子であることに内心誇りを抱いていたようであるが、君主としては祖父の路線の継承者であった。
 彼は父の刑死に関わった老論派を嫌悪し、その権益を抑制しつつも、党争は避け、祖父が敷いた蕩平策を維持し、国王権力を強化する集権的な政策を施行した。国王権力の強化は軍制改革にも及び、正祖は国王直属の親衛隊として壮勇営を創設し、国王の統帥権を強化した。こうして、国王の政軍関係の掌握力を高めることが、正祖の終生にわたる施政方針であった。
 正祖はまた、好学だった英祖から文化政策も継承し、発展させた。ことに王立図書館・公文書館の性格を持つ奎章閣を設立し、ここに重要な書籍・文献を集積するとともに、文官の研修と政策立案なども併せて行なう一種のシンクタンクとしての機能も持たせたのであった。
 正祖の時代には、従来の朝鮮にありがちだった観念論的な儒学の気風に代えて、より実証的・実用的な実学の気風が広がり、奎章閣はそうした実学研究機関としての役割も担っていた。それは、正祖の改革政治の方向性ともマッチするものでもあった。
 こうした学問の平易な実学化は伝統的な学問の担い手であった両班階級から中人以下の階級まで学問的な志向が普及する契機となり、正祖時代は朝鮮王朝史上、文化が最も花開いた時代、ある種の啓蒙時代としても記憶されている。
 一方で、この時代の朝鮮社会はキリスト教(天主教)との直面を本格的に経験した。キリスト教は先代英祖の時代に一部地方に流入してきていたが、英祖はこれを邪教と断じ、すぐさま禁圧した。
 正祖時代になると朝鮮への布教が始まり、朝鮮人カトリック教徒の活動も目立ってきた。朝鮮史上初のキリスト教会が設立されたのも、正祖時代のことである。
 正祖自身は儒学を正統思想とし、カトリック(西学)を否定しつつも、弾圧は慎重に避けていたが、身内の葬儀をカトリック式で執り行って社会問題化した両班尹持忠を処刑したことで 朝鮮初の殉教者を出した。
 キリスト教の流入は西洋人の来航ともリンクしており、正祖晩年の1797年にはウィリアム・ロバート・ブロートンに率いられた英国軍艦プロヴィデンス号が釜山に漂着するという出来事もあった。
 18世紀最後の四半世紀をほぼカバーした正祖の時代は、朝鮮社会の大きな転換点に当たっており、正祖は彼なりに時代の波をとらえた改革を進めていたが、1800年、道半ばにして没した。
 彼の政治的失敗は、父荘献世子の死にも関与した英祖の野心的な継室貞純王后に報復せず、生かしておいたことだったかもしれない。正祖よりも長生した彼女は、正祖没後、再び動き出し、正祖の息子の23代純祖を垂簾聴政によって操り、正祖の諸改革を覆してしまうのである。


§14 宗猪三郎〈義功〉(1771年‐1785年)/義功(1773年‐1813年)

 10代藩主宗義暢が1778年に死去した時、彼には三人の幼年の息子たちが残されていた。そのうち最年長の四男猪三郎がまず家督を継いだが、彼は病弱であったのか、慣例であった将軍との御目見も果たさないまま、1785年、15歳で夭折する。
 当然継嗣もなく、宗家はお家断絶危機に直面する。ここで発揮されたのが、宗氏お家芸とも言える偽装工作であった。重臣らは慎重に幕閣とも謀ったうえ、死亡したのは末男の種寿であることにし、六男の富寿が猪三郎になりすまして継承するという工作を幕府黙認の下に行なったのである。
 こうして富寿が実質上の12代藩主におさまり、元服後は義功〔よしかつ〕を名乗り、先代の故・猪三郎にも偽装のため、同名を追贈した。とはいえ、就任時12歳だった義功治世の初期は重臣による集団指導体制であり、親政を開始したのは元服後の1787年以降のことである。
 義功は同時代の朝鮮国王正祖に似て、文教政策に力を入れ、新たな藩校として講学所(思文館)を開設したほか、後には九州本土側の飛び地田代領にも東明館を開設している。そのほか、幕府に数十年先立って、武芸の訓練を施す講武所を開設するなど、文武での人材基盤の強化に努めた。
 また義功の時代には、異国船を警戒する幕府の命により遠見番所を設置したほか、朝鮮への外国船来航にも対処するため、釜山倭館にも兵士を配置するなど、防備体制の強化を強いられたため、兄の時代に15万両にまで達していた幕府からの借財を含め、藩財政を圧迫した。
 しかし、財政難は解消されず、倹約令も実効を見なかった。義功自身も病気がちで指導力に欠けたため、家臣団の派閥・権益争いなどが絶えなかった。しかし在位期間は27年と比較的長く、死の前年には次男に無事家督を譲り、隠居した。

2017年10月11日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第4回)

第一章 古代国家と神道の形成

ヤマト神道とイヅモ神道
 いわゆる古墳時代は、全国に16万基を越える膨大な数の古墳が特定されていることからもわかるとおり、極めて地域性の強い首長制国家の乱立時代であったが、その中から、畿内を拠点とするいわゆるヤマト王権が有力化し、やがて全国的王権へと発展する。
 この畿内王権の起源に関して、筆者はつとに朝鮮半島南部の伽耶諸国から九州北部への渡来勢力がさらに東征して創始したものという説を公表しているが、その根拠として、故国に当たる金官伽耶国の始祖神話と日本神話に投影されたヤマト王権の始祖神話―いわゆる天孫降臨―の類似性を挙げた(拙稿参照)。
 この天孫系神々―天津神―の故地である「高天原」は、海を越えた大陸の暗示であり、「降臨」は渡海の暗示である。そして、天孫二二ギらの天津神にはヤマト王権を創始した集団の首長像が投影され、ヤマト朝廷の支配の根源とみなされるようになる。
 しかし、この天津神の優越性が示されるのは、国津神との対照性においてである。国津神は天津神が出現する以前から国土を治めていたとされる土着的な神々であり、その代表格たる首長神が大国主である。
 この国津神の故地はイヅモである。イヅモ王権は出雲東部に発祥し、山陰地方で勢力を張り、その影響性は北陸方面にも及ぶ裏日本における大勢力であったと見られる。
 天津神の優越性はいわゆる「イヅモの国譲り」というストーリーによって示され、この背景にはヤマト王権によるイヅモ王権の征服という史実があるという解釈が示されている。これについても、筆者は別の角度から私見を述べた(拙稿参照)。
 私見はイヅモ王権に関しても、一定の渡来的要素を認めるが(上記拙稿)、それはともかくとして、ある時点で、ヤマト王権とイヅモ王権は同盟関係を結び、やがてはヤマト朝廷へ収斂されていった過程で、ヤマトの優位性を正当化する「国譲り」の神話が政治的に作り出されたのであろう。
 ヤマト王権系の神道―ヤマト神道―は、その後現代に至る神道の基軸に据えられていき、皇室が奉ずる宗教でもあるが、一方で、イヅモ王権系の神道―イヅモ神道―も、統一神道の中に組み込まれていった。
 とはいえ、イヅモ神道も神道の個別流派として独自の地位を維持し、皇室もイヅモ神道のメッカとも言える出雲大社に礼を尽くすのは、ヤマト神道とイヅモ神道の微妙な政治的な接合関係を示している。

2017年10月 4日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第11回)

二 サハラ交易文明圏

カネム‐ボルヌ帝国
 カネム‐ボルヌ帝国は、古代から近代までチャドを拠点に広域支配した複数の継起的な王朝の総称であり、単一の帝国ではない。その全存続期間はアフリカの諸王国でも最長の1200年近くに及ぶが、チャド湖北東部に拠点を置いた前半の時代をカネム帝国、同西部に遷都した後半をボルヌ帝国と呼ぶ。
 チャドはトリポリを起点とするサハラ交易ルートの南端部に当たる地域であり、西アフリカ方面へのまさに中継地に当たり、ここを広域支配したカネム‐ボルヌ帝国もまたサハラ交易文明圏に包摂される。
 その最初期のカネム王朝はナイル・サハラ語族系の遊牧民カネンブ族によって建てられた。かれらは民族籍不詳の先住サオ人の都市国家を征服して定住化し、その高度な文化を吸収しつつ、新王朝を発展させた。しかし、11世紀後半、フマイと名乗る実力者が王権を簒奪し、新王朝を建てた。
 この新王朝の民族的出自も不詳であるが、アラブ系イエメン人の系譜を名乗るセフワ朝を称した。しかし、実際のところ、セフワ朝はやはりナイル・サハラ語族系のカヌリ人を主体としていたと考えられる。セフワ朝は13世紀に出たドゥナマ・ダッバレミ王の時、イスラーム化し、イスラーム帝国として強勢化する。
 しかし14世紀には衰退し、1376年、チャド湖西南部のボルヌ地方への遷都を余儀なくされた。王室も分裂し、存亡の瀬戸際に立たされたが、15世紀後半に出たアリ・ガジ王が王室の統一とカネム帝国時代の王都ンジミの奪回を果たした。
 16世紀後半のイドリス・アルーマ王の時代にカネム帝国時代の領域をほぼ奪回し、ハウサ諸王国も支配下に置き、ニジェール東部にまで及ぶ帝国全盛期を迎えた。その中央サハラにおける覇権は、19世紀初頭にニジェール・コンゴ語族系のフラニ人が台頭するまで続いていく。

2017年10月 1日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第16回)

十六 英祖・李昑(1694年‐1776年)

 20代景宗が急死した後を受けて即位した異母弟の21代英祖は、生母淑嬪崔氏が最下層の賤民階級出自という異例の王である。景宗の生母禧嬪張氏も中人階級出自ながら一時は王妃に昇格した異例の人物であったように、父王である19代粛宗の姻戚には出自身分を問わない気風があったようである。
 兄景宗の急死は延礽君を名乗っていた世弟英祖もしくはその支持勢力である老論派による毒殺とする風評もあるが、真相は不明のままである。ただ、英祖は即位するや、兄王の支持勢力であった少論派を排除し、老論派政権を形成したことはたしかである。
 しかし、1728年に少論派によるクーデター未遂事件(戊申政変)を経験した英祖は父王のように相対立する党派を交互に入れ替える「換局」の手法を採らず、老論派と少論派を平等に遇し、相互に牽制させる「蕩平策」と呼ばれる勢力均衡策を編み出した。
 この方法で英祖は以後、長期にわたる安定的な治世を維持した。その間、減税策や飢饉対策となるサツマイモ栽培の奨励など、民生に配慮する政治を行なった。また印刷技術の改良により、書籍の出版を支援し、庶民の知識の向上も図るなど、生母が下層階級出自の英祖の治世は歴代王の誰よりも庶民に篤い傾向を見せた。
 しかし、治世後半期、健康問題を抱えた英祖は後継者の荘献世子に代理聴政を取らせるようになっていたところ、少論派に近い荘献世子は老論派と対立し、1762年、老論派による告発により、英祖の命で廃位、米櫃への監禁による餓死という残酷な手法で処刑された。
 荘献世子の罪状は殺人を含む非行とされていたが、彼は当時、政争の中で精神を病むようになっていたとされ、荘献世子の刑死を招いた壬午士禍は、当時英祖の継室貞純王后を後ろ盾とした老論派による謀略だった可能性も指摘される。
 ただ、英祖は荘献世子存命中の1759年に荘献の子で自身の孫に当たる8歳の李祘を世孫に冊立していたところを見ると、荘献世子は実際病んでおり、後継候補としての可能性は事実上すでに消失しかけていたのかもしれない。
 後に、英祖は荘献世子に「思悼世子」の諡号を追贈したが、完全に赦したわけではなく、世孫李祘を正式に後継者とするに当たり、夭折した長男孝章世子の養子としたうえで後を託している。こうして、英祖は李氏王朝歴代王では最長の52年に及ぶ治世を終え、これまた歴代王で最長寿の83歳で死去した。
 英祖は強力だった父王粛宗の後継者にふさわしいまさに英君であり、その善政は次代の孫正祖にも継承された。粛宗から短命の景宗をはさみ、英祖、そして正祖の治世が終わる18世紀末年までの120年余りは、完全には封じ込め難い党争に左右されながらも、朝鮮王朝にとって最後の繁栄期だったと言える。


§13 宗義如(1716年‐1752年)/義蕃(1717年‐1775年)

 宗義如〔よしゆき〕は先代義誠の嫡男であったが、父が1730年に死去した際は年少のため家督を継げず、二年間は叔父の方熈〔みちひろ〕が中継ぎ的に藩主を務め、32年に正式に藩主となった。義如は享保元年の生まれであり、彼が藩主となった時、幕府側では将軍吉宗による改革が断行されていた。
 しかし、吉宗の享保改革は、対馬藩にとっては悪夢の一面があった。それは朝鮮貿易における主要な輸入品であった木綿や朝鮮人参の国産化奨励策である。特に後者は義如が藩主となる直前、日光御薬園にて国産化に成功、幕府は諸藩のみならず、一般向けにも国産人参の種子(御種人参)を配布し、栽培が普及したことから、1760年代には輸入の必要性がほぼ消失してしまったのである。
 このため、対馬藩の生命線である朝鮮貿易の収支が落ち込み、かねてからの財政難を悪化させた。そのため、家臣の知行借り上げや幕府からの年一万両に及ぶ補助金支給といった緊急経済対策を講じる羽目となった。そのうえ、義如自身も52年、折から流行していた天然痘のため急逝した。
 嫡男はまだ幼少のため、後を継いだのは、1739年以来、家老職にあった弟の義蕃〔よししげ〕であった。彼は家老として幕府からの補助金獲得交渉に当たるなど、兄藩主の右腕として藩政を支えていた。義蕃は十年の治世の後、甥で義如の嫡男義暢〔よしなが〕に譲位し隠居したが、自身が死去する前年まで実権を保持するなど野心的な一面があった。
 しかも、義暢は親政開始から四年で死去したため、義蕃の治世はほぼ義蕃時代の継続期間であった。この間も財政難は続き、朝鮮通信使接待費まで幕府からの援助に頼り、元来難儀な離島からの参勤交代を三年一度に軽減する措置を受けるなど、藩の維持に苦心している。

2017年9月28日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第3回)

第一章 古代国家と神道の形成

首長国家と氏族祭祀
 邪馬台国は弥生時代最末期のクニの集大成と言えるものであったが、『魏志倭人伝』の記述によれば、当時の倭では人が死ぬと、土を封じて塚を作ったとある。こうした盛り土型の墳墓が各地に盛んに築造された時代がいわゆる古墳時代であるが、この時代の神道のあり方はほとんど考古学的史料による推定しかできない。
 その点、初期の首長級墳墓から宗教儀礼的な用具が多く出土することに鑑みると、各首長は政治的な指導者であると同時に宗教指導者でもあったことが伺える。古墳時代後期にあっても、例えば群馬県高崎市の豪族居館遺跡・三ツ寺遺跡では祭祀施設の跡が検出されており、地域首長にとって祭祀が不可欠の役割であったことを示している。
 さらに、日本独特の墳墓形式とされる前方後円墳の構造は、主丘である円墳の前部に祭祀を行なう方形部を接続したものと見られ、前部で葬祭や祖先崇拝の宗教儀式が行なわれていたものと考えられる。言わば祭祀施設付き墳墓であり、祭祀の重要性がここからも伺える。
 ちなみに、近時は邪馬台国の所在地を畿内とみなしたうえ、初期の前方後円墳である奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼陵に比定するような向きも見られる。そうだとすれば、邪馬台国の祭祀がその後のヤマト王権祭祀の基礎となった可能性も出てくるであろう。
 ただ、邪馬台国では女王とその男弟が聖俗機能を分有する聖俗二元制が採られていた可能性を前回指摘したが、古墳時代における無数とも言える地域首長国ではこうした聖俗二元制を明確に示す証拠は見出せない。むしろ、首長(男性)は最高司祭を兼ねていた可能性が高く、邪馬台国の構造とは相違が見られる。また、ヤマト王権から発展した後の天皇制も聖俗一元制であった。
 そうしたことからすると、古墳時代を特徴付ける地域首長制国家の祭祀は、相互に類似性や影響性はあったとしても、それぞれの地域的な独自性を持った祭祀体系を備えていたと考えられる。そして、こうした地域首長が後にヤマト王権に服する有力氏族集団に発展したことから、草創期の神道は各氏族祭祀としての性格を帯びていたとも考えられるのである。

2017年9月24日 (日)

アフリカ黒人の軌跡(連載第10回)

二 サハラ交易文明圏

ハウサ諸王国群
 
サハラ交易文明圏で活動したもう一つのグループとして、ハウサ人を挙げなくてはならない。ハウサ人は今日では西アフリカの大国ナイジェリアで最大人口を要する主要民族となっているが、その故地は東アフリカのヌビア地方と見られている。
 もっとも、伝承上はイラクのバクダッドの王子バヤジダを遠祖とするというが、遺伝子上ハウサ人が最も近いのはナイル・サハラ語族系のナイロート族であるとされるから、かれらは元来、ナイル・サハラ語族だったと推定される。
 とはいえ、現在のかれらの言語ハウサ語は、古代エジプト語やアラビア語も広く包含されるアフロ・アジア語族の一分岐チャド語派に分類される。これはおそらく、かれらが西方へ大移動する過程のチャド付近で、使用言語の交替を経験したためと考えられる。
 ハウサ人は西暦700年頃までに大移動を終え、13世紀頃から今日のニジェール南部・ナイジェリア北部にかけての地域に多数の都市国家を形成した。これらの都市にはそれぞれ王ないし首長がおり、都市王国の形態を取っていた。
 西アフリカ定着後は周辺のマンデ系民族などからイスラームを受容し、イスラーム化していった。ただ、ハウサ諸王国は統一されることなく、時の西アフリカ覇権国家ソンガイ帝国とチャド方面の覇権を握るカネム‐ボルヌ帝国の間を埋める緩衝国家群としてそれぞれがサハラ交易の中継ぎで収益を上げていた。
 強いて言えば、最も古いハウサ都市国家の一つであるザリアと後発のケッビが二強としてライバル関係にあったが、いずれも統一帝国を形成するには至らなかった。ハウサ諸王国は19世紀初頭に新興のソコト帝国に征服されるまで長く持続したが、これはあえて不安定な統一帝国を構築しなかったおかげとも言えるだろう。
 こうしてハウサ人は政治的に分裂しながらも、商業を通じて総体としてはナイジェリア北部で強固な地盤を確立し、西アフリカ最大の民族集団に成長するとともに、その言語ハウサ語はスワヒリ語と並びブラックアフリカにおける商取引上の共通語(リンガ・フランカ)の一つとなっていった。

2017年9月20日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第15回)

十五 粛宗・李焞(1661年‐1720年)/景宗・李昀(1688年‐1724年)

 父の第18代顕宗の後を受けて1674年に14歳で即位した第19代粛宗は、朝鮮王朝では久々に半世紀近い長期治世を保つ王となった。彼は政治的にも早熟と見え、年少で即位したにもかかわらず、当初から親政を試みた。
 しかし、当時の朝廷では顕宗時代の党争を制した南人派が専横していたため、粛宗は1680年、自ら介入して南人派を追放、西人派の政権に立て替えた(庚申換局)。西人には、嬪の立場から王妃、さらに大妃に栄進した母后の明聖王后や粛宗正室の仁顕王后も付いてこれを支えた。
 ところが、王と王妃の支持を得て国政を握った西人派も間もなく、王の外戚に近い少論派とこれに批判的な老論派とに分裂・抗争するありさまであった。そこで、粛宗は89年、一転して西人派を追放して、南人派を呼び戻した(己巳換局)。
 当時の南人派は粛宗の野心的な嬪で、後の20代景宗を産んだ禧嬪張氏を後ろ盾としており、89年の己巳換局は子どもを産めなかった仁顕王后を廃位して、禧嬪張氏を王妃に昇格させる彼女と南人派の策動という一面があった。
 禧嬪張氏は支配階層両班より下位の中人と呼ばれる一種の中産階級出自(生母は賎民)から王妃に栄進した異例の人物であるが、その野心家ぶりのゆえに「悪女」とみなされることも多い。実際、粛宗は彼女を頂点とする南人派の専横を懸念し、94年に再度介入して張氏を嬪に降格、仁顕王后を復位させたのであった(甲戌換局)。
 張氏は最終的に1701年、仁顕王后の死去に関連し、これを呪詛したとする罪で賜薬により処刑されたが、これは復権した西人派の謀略とも言われる(彼女の性格からすれば、王妃への復位を狙い、実際に呪詛した可能性もなくはない)
 こうして粛宗時代の前半期は党争とそれに王自らが介入して政権を立て替える「換局」と呼ばれる事態の繰り返しであった。しかし、こうした王主導での一種の政権交代が王権強化にとってプラスに作用した可能性もあり、粛宗は強力な王権を背景に内政外交上かなりの成果を上げている。
 まず税制面では従来地域限定適用にとどまっていた大同法の適用を咸鏡道、平安道、済州島を除く全域に拡大した。またかねてなかなか定着しなかった貨幣経済を普及させるため、統一銅銭・常平通宝を常時発行し、全国に流通させた。
 外交通商面では徳川幕府治下で安定繁栄し始めていた日本との関係を重視し、在位中三度にわたり通信使を派遣したほか、倭館貿易の振興にも努めた。また国境画定にも積極的で、大陸側では清との間の白頭山定界を明確にしたほか、日本との間でも鬱陵島の領有権を明確にした。 
 さらに従来タブーとされた歴史修正に踏み込んだのも粛宗の特質であり、彼は第7代世祖が起こした癸酉靖難で犠牲となった「死六臣」の名誉回復や廃位され年少で処刑された6代端宗の追贈などを主導したが、こうしたことも粛宗の強力な王権なくしてはあり得なかっただろう。
 粛宗時代の後半期は比較的平穏であったが、結局嫡男は生まれず、禧嬪張氏が産んだ息子を世子とするほかなかった。こうして1720年、粛宗の死を受けて即位したのが20代景宗である。しかし、彼は生母が処刑されたことを契機に精神疾患にかかっていたと言われ、王としては父と比べるべくもない弱体であった。
 そこで、当時実権を握っていた西人‐老論派はより壮健聡明と見られた異母弟の延礽君を後継者の世弟に立てたうえ、延礽君の代理聴政をもくろむが、これに少論派が反撃、老論派を弾圧し追い落とした。
 実権を握った少論派は病弱で生殖も望めない景宗に養子を取って延礽君を排除しようとするも、24年に景宗が急死したことで、このもくろみも潰えたのであった。後継者は予定どおり延礽君で決まり、これが第21代英祖となる。


§12 宗義方(1684年‐1718年)/義誠(1692年‐1730年)

 宗義方〔よしみち〕は兄の4代藩主義倫が夭折した後を10歳ほどで継いだが、当時はまだ父の義真が後見役として藩政を掌握していたため、義方が親政を開始したのは父が没した1702年以降のことである。
 義方時代の事績としては、農民を武装動員し、対馬農業の基軸であった焼畑の敵となる猪や鹿を駆除する「猪鹿追詰」に成功したことがある。
 地方自治体における害獣対策の先駆けとも言えるこの策は、時の将軍綱吉が看板政策としていた「生類憐みの令」に抵触する恐れのある政策であったが、問責されなかったのは、「生類憐みの令」の運用が存外柔軟であったとする近年の説を裏付けるかもしれない。
 一方、義方は同時代の朝鮮側で対日関係を重視した粛宗が派遣した朝鮮通信使の接待役を務め、特に6代将軍家宣の就任祝いとして朝鮮通信使が来日した際の接待を行なった功績により、江戸幕府から肥前の飛び地で若干の加増を認められた。
 とはいえ、実高は2万石程度の小藩に変わりなかったうえ、義方の時代には父義真時代の繁栄が翳り始め、財政難が顕著になっていた。そこで、倹約令を出するも、効果は見られなかった。
 義方には嫡子がなく、後は弟の義誠〔よしのぶ〕が養子として継いだが、義誠もまた財政難に苦しみ、倹約令を発するも、効果は見られなかった。結局、義方・義誠兄弟藩主の通算36年余りは、対馬藩にとって長い斜陽の始まりの時代であったと言える。

2017年9月17日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第2回)

一 古代国家と神道の形成

邪馬台国と国家祭祀
 神道は特定の創始者と創始年を特定できない伝統宗教であり、原初のアニミズムに起源を持つことはほぼ間違いない。そのため、初めから政治との関わりが濃厚だったいわゆる世界三大宗教とは異なり、元来は民間信仰の性格が強かったはずである。
 それがいつ頃から政治との結びつきを持ち始めたのかは史料もなく不明としか言いようがないが、日本の古代国家揺籃期における国家祭祀に関する最も古い記録は、やはり『魏志倭人伝』の記述であろう。とはいえ、その記述はごく簡潔である。
 そこではまず民間の宗教的習俗として、何らかの事を起こすに際して、骨を焼き、火の裂け目を見て吉兆を占う卜占の存在に言及され、それは亀の甲羅を用いる中国の「令亀の法」のやり方と似るとも指摘されている。これは邪馬台国に限らず、日本―中国側が「倭」と認識していた限りの領域―の共通習俗として描かれている。
 より政治と関わる記述としては、邪馬台国女王・卑弥呼の人物紹介の箇所で、女王が「鬼道」に使え、民衆をよく惑わすという簡単な記述があるのみである。ここで言う「鬼道」の内容について具体的な記述はないが、女王自身も卜占的な祭祀を執り行う立場にあり、民衆もそれを篤く信仰していた様子が伺える。
 卑弥呼推戴の経緯は、小国間での長年の内乱を終結させることにあったとも記されているから、卑弥呼が体現した宗教は民衆のみならず、小国の首長ら支配層をも従わせ、戦乱を収拾し、和平を保障するような力を帯びていたことをも裏書きしている。
 邪馬台国の地理的位置づけについてはいまだに論争は決着していないが、この国家が何処に所在しようと3世紀の弥生時代末期における日本の代表国家であったことは間違いなく、この国にはすでに祭政一致の政治体制が存在したことも間違いない。
 邪馬台国の政治では夫婿を持たない卑弥呼女王の男弟が摂政のような役割を負っていたとされ、また諸国の検察も邪馬台国傘下の伊都国に置かれた「一大率」が掌握したとあることからも、女王は俗権を超越し、専ら国家祭祀を受け持つ聖俗二元的な体制が採られていたとも解釈できる。この点、後の律令国家では天皇が聖俗にまたがる権威を持ったのとは構造が異なっている。
 そうしたことから、日本における3世紀の古代国家揺籃期の時代から国家祭祀が形成され始めていたことは確認できるとしても、それが後の神道の直接の祖と言えるかどうか、まして卑弥呼が神道における主神でもある天照大神の実在モデルかどうかについては断定できない。

2017年9月13日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第9回)

二 サハラ交易文明圏

マリ/ソンガイ帝国の繁栄
 ガーナがムラービト朝の攻撃を受けて衰亡した後、西アフリカはしばらく混沌とした情勢に陥るが、その中で優勢だったのは、やはりマンデ語派のスースー族が建てたスースー王国であった。
 これに対し、スースー王国の支配下にあったマンディンカ族が伝説的英雄スンジャータ・ケイタの指導で反乱を起こして勝利、ケイタがマリ王国を建てた。この新王国は非常な成功を収め、ガーナの実質的な後継者として、金を資源的基盤としたサハラ交易を掌握し、経済的にも繁栄を極めた。
 この頃から次のソンガイ帝国の時代にかけ、ニジェール河中流域のオアシス都市トンブクトゥはサハラ交易の中継拠点として繁栄し、西欧にも「黄金郷」として知られるほどとなった。トンブクトゥにはイスラーム商人のほか、知識人も集まったことから、西アフリカにおけるイスラーム教学の中心ともなり、この地域のイスラーム化をさらに深化させる役割も果たした。
 マリは14世紀前半に出たマンサ・ムーサ王の時、その最盛期を迎える。彼は巨額の資産を有するとともに、敬虔なイスラーム教徒でもあり、1324年に大がかりなイスラーム聖地メッカ巡礼を挙行して名を残した。その際、大量の金の喜捨を行なったため、金相場が暴落したとの逸話も残る。 
 周辺小王国を服属させ、域内人口が5000万人ともされる帝国的隆盛を極めたマリであったが、14世紀後半以降は弱体化し、南北から外部勢力の侵攻をたびたび受け、衰退していく(最終的滅亡は17世紀前半)。代わって、覇権を握ったのはソンガイ王国であった。
 その発祥民族であるソンガイ族はガーナやマリを担ったニジェール・コンゴ語族ではなく、ナイル・サハラ語族に属しており、元はニジェール上流域のガオを首都とする独立王国として繁栄したが、マリ帝国時代はマリに服属していた。
 ガオはマリが衰退した14世紀後半以降、優勢となり、スンニ・アリ王の時、マリを破りソンガイ帝国の基礎を築く。しかし、後を継いだ息子のスンニ・バルは1493年、ソニンケ族出身の軍人アスキア・ムハンマドのクーデターで王位を追われた。
 このクーデターの背景には、イスラームへの帰依を拒否したスンニ・バルへのイスラーム勢力の反発とガーナ以来、閉塞していたソニンケ族の権力奪還という二つの要素があったように見える。アスキア・ムハンマド王は、イスラーム教を主軸とする体制を確立するとともに、伝統のサハラ交易をいっそう強化し、ソンガイ帝国の全盛期を作った。
 しかし、晩年失明したアスキア・ムハンマドが息子たちによって廃位された後は、王位継承争いが激化する中、ソンガイは衰退していく。最終的には16世紀末の1592年、北アフリカで勢力を強めていたモロッコに侵攻され、滅亡した。

«私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第14回)

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