2018年7月18日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第26回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

中南米のアフリカ黒人〈2〉
 カリブ海島嶼も大西洋奴隷貿易によって送り込まれたアフリカ黒人の「輸出」先として、代表的な地域である。中でも今日ドミニカ(共和国)とハイチが分け合っているイスパニョラ島は、スペインによるアメリカ大陸初の植民地―サントドミンゴ―となった記念すべき場所である。
 当初、スペインは先住民族タイノを奴隷化して金鉱山で酷使したが、かれらが激減すると、アフリカ黒人を奴隷として連行し、先住民奴隷に置換する政策に転換した。折りしもサトウキビのプランテーションが導入されると、黒人奴隷はプランテーション労働力として使役されたのである。
 しかし、スペインの領土関心は次第にメキシコ以南の中南米大陸部に移っていき、イスパニョラ島の統治は弱化していった。その間隙を突き、新興のフランスが侵出の手を伸ばす。フランスは1659年以降、イスパニョラ島の侵略を開始し、やがて島西部の領有を宣言、1697年のライスワイク条約をもって島の西部三分の一ほどが正式にフランス領土となった。
 このフランス領サン‐ドマングはたちまちにして砂糖、コーヒー、タバコ等多角的なプランテーション経営で繁栄し、18世紀にはこの小さな島がフランス海外植民地の中でも最も富裕な場所となった。それを支えたのが黒人の奴隷労働であり、当地は18世紀大西洋奴隷貿易の一大中心地ともなったのである。
 黒人奴隷はサン‐ドマング人口の大半を占めながら、フランス政府が制定した黒人法という人種差別法制によってその劣悪な境遇が法的に正当化されていた。これに対抗して、ここでも逃亡奴隷マウォン(マルーン)が自立化した。
 しかし、ハイチのマウォンは、ブラジルのマルーンとは異なり、国家的な共同体を作らず、ゲリラ的組織として白人農園の襲撃などのテロ活動を展開した。このハイチ・マウォンのゲリラ活動はやがて史上初の黒人共和国の樹立を実現した革命へとつながっていくが、ハイチ革命に関しては後に別稿をもって改めて見ることにする。
 一方、イングランドも17世紀以降、カリブ海域への入植活動を活発化させており、セントクリストファー島を皮切りに続々とカリブ海島嶼を征服し、黒人奴隷を使役したプランテーションを営んだ。清教徒革命を成功させたクロムウェルはイスパニョラ島の征服をももくろんだが、これに失敗すると、当時スペイン領だったジャマイカを攻略・征服した。
 ジャマイカでも逃亡奴隷マルーンが18世紀を通じて戦争規模の反英闘争を展開する中で、限定的ながら自治権を獲得した。ジャマイカのマルーンによる抵抗戦争は最終的に19世紀初頭、英国が奴隷貿易廃止にいち早く踏み切る契機ともなったことで、半革命的な性格を持った(後述)。

2018年7月14日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第20回)

七 国家神道の圧制

王政復古と神道
 幕末倒幕運動の精神的・宗教的なバックボーンとなったのは、復古神道ないしはそれの直接間接の影響下にある神道思想であった。このことが、近代化革命としての歴史的意義を持つ明治維新をして、他方では王政復古・祭政一致という反近代的な形態をまとった反動革命という両義的な「革命」たらしめたと言える。
 明治維新における革命宣言とも言える「王政復古の大号令」には神道に関わる直接の言及はないが、明治政府はいち早く旧律令制下で神道行政を担った神祇官を復活させ、内閣に相当する太政官からも独立した筆頭官庁とした。そのうえで、明治三年には「大教宣布の詔」を発布した。
 この明治天皇の名による新たな詔書は大号令では言及されなかった神道の位置づけを明確にした重要文書であり、神道を国教とし、神道でもって国民のイデオロギー的統一を図る祭政一致国家を建設せんとする国家神道宣言と呼ぶべき内容を伴っていた。
 その目的を達成すべく、明治政府はキリスト教の布教方法にならってか、神道布教に専従する「宣教使」なる専門官庁を神祇官の下に設けたが、神道学派間の対立や依然として儒教重視の地方藩の反発などもあり、失敗に終わった。
 またこのような宗教統一政策は当然にも、従来神道を押しのける勢力を保持してきた仏教界の反発を招いた。彼らの巻き返しにより、国民教化は神・儒・仏の合同布教という折衷的な路線に転換され、国民教化を任務とする教部省なる官庁が新設された。
 そのうえで、国民教化を担う中央教宣組織として大教院を設置し、正式に任命された教導職をして国民教化に従事させるという新体制が用意された。しかし、このような半端な妥協策に持続性はなく、大教院が廃止解散されたのに続き、教部省そのものも廃止されることとなった。
 明治十年以降、宗務行政は内政庶務を担う内務省の所管に移された。結局のところ、神道を国教と位置づけつつ、宗教として正面から教宣するという明治政府の施策は失敗に終わったと言える。このことは通常、明治政府が神道の国教化を断念したものと受け止められているが、実際のところ、明治政府のやり方はもっと巧妙だったのである。

2018年7月 7日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第10回)

11 ジェームズ・ノックス・ポーク(1795年‐1849年)

 第11代大統領ジェームズ・ノックス・ポークは、アメリカの歴史上最も知名度の低い大統領かもしれない。ポークは弁護士となった後、下院議員・議長やテネシー州知事を歴任したアメリカではよくある履歴を持つベテラン政治家であったが、民主党から大統領候補に指名された時には全国的に無名に近い存在であった。
 彼が立候補した1844年大統領選では旧メキシコ領土のテキサス併合問題が大きな争点となっていた。この時、民主党から大統領返り咲きを目指していた元大統領ヴァン・ビューレンは「良識派」としてテキサス併合に反対したが、このことをめぐって民主党主流派の反発を買ったヴァン・ビューレンが指名を失ったため、代替候補として急遽立てられたのがポークであった。
 ポークはノースカロライナ州の奴隷所有農場主の家に生まれ、自身も父から奴隷を相続した奴隷所有者であった。そのため、ポークは一貫して南部奴隷州の擁護者であり、南部に基盤を持つ民主党にとっては知名度のなさを差し引いても好都合な候補者であった。
 本選挙でポークの対抗馬となったのは、より知名度の高いホイッグ党のヘンリー・クレイであった。彼は1824年以来、たびたび大統領選に挑戦してきた「常連」であった。クレイ陣営はポークの知名度のなさを揶揄する作戦で攻撃したが、僅差で勝利したのはポークであった。
 ポークは大統領就任に当たり、再選は目指さないことを公約し、それを守ったことで政治野心のなさを示したが、一期だけのポーク政権最大の“成果”は、米墨戦争の勝利であった。米墨戦争はテキサス州併合問題を契機として勃発した国境紛争であった。
大統領の地位には野心を示さなかったポーク大統領であるが、アメリカ領土の拡張に関しては、テキサス州の州境を拡張しようとする野心を隠さなかった。そのことが元々国境線が曖昧だった隣国との武力衝突を招いたのだ。
 彼の任期中の多くを費やした戦争で、ポークはアメリカに勝利に導いた。戦果として、広大なカリフォルニアを獲得したほか、戦争を終結させたされたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコ側に領土の三分の一程度を割譲させることに成功した。
 こうしてポーク大統領は現在、トランプ現職が「壁」を建設しようとしている米墨国境線の基礎を築いた“功労者”なのである。その代償であるかのごとく、ポークは大統領退任後、わずか三か月で急死することとなった。死因はコレラと見られている。

 

2018年6月30日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第25回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

中南米のアフリカ黒人〈1〉
 大西洋奴隷貿易によって奴隷として送り込まれたアフリカ黒人たちが集中したのは、中南米(ラテンアメリカ)地域であった。初期の大西洋奴隷貿易はポルトガルが主導したため、ポルトガル植民地であったブラジルに送り込まれた奴隷が多かった。
 1500年代からおよそ三世紀にわたって続いたブラジル黒人奴隷制において、ブラジルに送り込まれた黒人の総数は400万人とも言われ、現在でもブラジル人口の約7パーセントをアフリカ黒人系が占めているところである。
 ブラジルの黒人奴隷は金鉱労働者のほか、砂糖、タバコなどのプランテーション労働者として使役された。かれらの出自も遺伝子系統の研究調査によって次第に判明してきているが、主としてオヨやダホメなどアフリカ西海岸の奴隷供給諸国から送り込まれた西アフリカのヨルバ族系と、アンゴラやコンゴから送り込まれたバントゥー系に大別される。
 ヨルバ族系奴隷の間では、アフリカから持ち込まれた部族宗教にカトリックや先住民信仰などが習合して形成されたカンドンブレと呼ばれる民間信仰儀礼が発展し、今日までアフリカ系人口の多い北東部を中心に保持されている。
 今日ブラジルの民族舞踊として著名なサンバも、北東部のアフリカ黒人奴隷が伝統的な舞踊に西洋舞踊の要素を取り込んで形成した舞踊音楽と考えられている。カポエイラのようにアフリカ伝統の格闘技と組み合わさった舞踊音楽もまた、アンゴラ人奴隷が発祥させたと言われる。このように、ブラジルのアフリカ黒人たちはブラジル独自の文化の形成にも寄与した。
 他方で、アフリカ人奴隷の置かれた重労働に虐待的な懲罰という過酷な状況は、多くの逃亡奴隷マルーンを生んだ。逃亡奴隷はブラジル各地でキロンボと呼ばれる共同体を形成して独自の自給自足ないし相互交易を行い、またしばしば白人プランテーションを襲撃・略奪した。
 中でも17世紀初頭、北東部に形成されたキロンボ・ドス・パルマーレスは、キロンボの連合拡大により最盛期2万人の人口を擁する一種の自治国家に発展した。カポエイラは、パルマーレス戦士の戦闘術でもあった。
 先住民や貧困層白人なども吸収しつつ独立を目指したパルマーレスは17世紀後半、ポルトガルに敗れて奴隷として連行されたコンゴ王国王族の出身とも言われるガンガ・ズンバとその甥ズンビの下で一種の王国として最盛期を迎えるが、ズンビがポルトガル植民地軍に敗れ、一世紀近い歴史を閉じた。

2018年6月23日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第19回)

六 復古神道への道

垂加神道と復古神道
 林羅山が広めた神儒合一論は幕藩体制下の御用宗教となり、体制との密着性を強めたが、それは当然にも幕府支配の正統性を根拠づけることに狙いがあった。これに対する反発は同じ神儒合一論内部から現れた。山崎闇斎の創始した垂加神道がその初例である。
 闇斎は羅山と同様に浪人の子であったが、羅山とは異なり、体制に密着することはせず、在野の儒学者の立場にとどまった。彼の垂加神道も神儒合一論の亜種とはいえ、天照大神に対する信仰を中心に置き、その子孫たる天皇が統治する道こそが神道なりと説いた点で、復古神道につながる要素を包蔵していた。
 しかし、闇斎の生きた17世紀は江戸幕府の体制確立期でもあり、垂加神道が時代の波に乗ることはなく、在野の思想に終わった。しかしその影響は次の18世紀、尊王論という形を取って確実に結実した。闇斎の孫弟子に当たる竹内敬持は京の公家たちに垂加神道を講義したことで幕府に睨まれ、宝暦事件及び明和事件という二つの尊王派弾圧事件に連座して流刑に処せられた。
 江戸幕府全盛期とも言える18世紀に神道と結びつけて尊王論を提唱することは、政治的に危険な企てであった。しかし、国学という文芸論の形でならば幕府の検閲を潜り抜けることが可能であった。国学集大成者の本居宣長が弾圧されることなく生涯を終えた所以である。しかし、彼のキー概念である「神ながらの道=古道」には、神道的要素が内包されていた。
 そうした本居国学の密かな宗教的要素を実際に神道として抽出昇華させたのが、本居に傾倒した平田篤胤である。篤胤は本居の門弟ではなく、その没後に私淑したにすぎないが、本居の「神ながらの道=古道」をベースに、儒教や仏教を排除した純粋の日本神道の復活を提唱したことから、その流派は復古神道と呼ばれる。
 晩年の篤胤は自身の著作を上皇や天皇に献上するなど、朝廷への接近を図ったが、幕府の暦制を批判したため、江戸追放、著述禁止という弾圧処分を受けた。しかし、復古神道は尊王論を神道的に裏づけ、篤胤の死後、尊皇攘夷論に基づく倒幕運動に精神的な影響を及ぼした。
 また、篤胤は膨大な著作の一部を大衆にも向けたことから、彼の思想は識字層の町人や豪農といった庶民階級にも浸透し、幕末倒幕運動の土俗的なベースを形成した。こうして、復古神道は反体制の政治と強く結びついて、幕藩体制を揺さぶることになるのである。

2018年6月16日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第9回)

9 ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(1773年‐1841年)

 ジャクソニアン・デモクラシーの脆弱な継承者・第8代ヴァン・ビューレン大統領を破り、新たな時代を拓いたのは9代大統領ウィリアム・ヘンリー・ハリソンである。ニューヨーク出身のヴァン・ビューレンに対し、ハリソンはバージニア州の古い奴隷プランテーション経営者の家に生まれた。
 ここで再びバージニアの「名門」奴隷所有者という初期アメリカ支配層に政権が戻ったことになる。ただし、ハリソンはジャクソニアン・デモクラシーを専制的・反動的と批判し、産業発展のためのインフラ整備や国立銀行の創設、保護関税といった連邦主導の重商主義的「経済計画」を提唱して台頭したホイッグ党から当選した初の大統領という新しさもあった。
 しかし、経歴の点ではジャクソン同様、軍人出身であり、対先住民掃討作戦に参加した。特に米英戦争渦中、英国と連携する強力な部族であったショーニー族指導者テカムセを戦死させたテムズの戦いに勝利し、白人社会の英雄となった。
 こうした履歴を引っさげて政界に転身したハリソンは1836年大統領選でヴァン・ビューレンに敗北したものの、次期40年大統領選では「戦争の英雄」を前面に宣伝する派手なイメージ選挙運動を展開し、当選を勝ち取ったのだった。
 ところが、不運なことに、就任時68歳のハリソンは1841年3月、まだ寒風の吹く日にコートを着用せず、ほぼ二時間近い就任演説を行った強がりがたたり、肺炎を起こして就任からわずか31日で死去、史上最短在任大統領という不名誉な歴史を作ることとなった。


10 ジョン・タイラー
(1790年‐1862年)

 現職大統領急死という史上初の事態を受けて、取り急ぎ政権を継承したのが、副大統領ジョン・タイラーであった。もっとも、当時の合衆国憲法では副大統領の自動昇格は規定されておらず、憲法上は疑義が残ったため、「棚ぼた政権」と揶揄されることとなった。
 タイラーもハリソン同様、バージニア州の奴隷所有者の出身であり、所属もホイッグ党であったが、大統領としての彼はホイッグ党の綱領の大半に反して、南部諸州の権限擁護、南部の領土拡張策などを追求する守旧的態度をとった。 
 またタイラーは奴隷制を悪と認識し、自身の所有奴隷については厚遇していたと言われるが、南部奴隷州の権限擁護という守旧的姿勢から、奴隷制廃止を提起することはなかった。
 与党ホイッグ党に敵対したため、党を除名され、史上初の無党派大統領となったタイラーは議会を軽視する独裁的手法でたびたび議会と対立、在任中拒否権発動は9回にも及んだ。こうした脱ホイッグの集大成は政権末期のテキサス併合問題であった。
 元メキシコに属したテキサスはアメリカ人入植者による独立戦争の結果、「テキサス共和国」として分離独立していたところ、タイラー大統領はホイッグ党の反対を押して、テキサスのアメリカ併合・テキサス州成立を承認したのである。
 タイラーは1844年大統領選に出馬して再選を目指したが、この選挙ではテキサス併合問題が大きな争点となり、反対派のホイッグ党と賛成派の民主党という対立構図が作られていた。
 しかし、タイラーは併合賛成派の民主党からも支持を得られず、国民民主共和党なる小政党を結成して出馬せざるを得なかった。敗北は目に見えており、票の分裂を恐れた民主党からも引退要請を受けたタイラーは結局、大統領選からの撤退を余儀なくされたのである。

2018年6月13日 (水)

「平穏死」と医学

 以前の当連載で「平安死」について書いた。「平安死」とは、通常は「安楽死」という不当な名称で呼ばれている死に方を我流に言い換えたものであったが、これと紛らわしいのが「平穏死」である。

 「平穏死」は病で終末期にある人が延命治療を受けずに、自然の死の経過に委ねることをいい、正式な医療用語ではないが、一部の医師の提唱により実践が始められている。「平安死」との決定的な違いは、致死性薬物によって人為的に死をもたらすのではなく、自然の死の経過に委ねる点である。

 そのため、「平安死」は末期癌その他の重病で治療回復不能となった人について問題となるのに対し、「平穏死」は主として老衰期の高齢者について問題となることが多い。

 「平安死」は患者本人の明白な意思表示に基づくことが絶対条件であり、他者の意思によって実行された場合は、たとえそれが近親者であっても法的に殺人罪そのものである。しかし、「平穏死」の場合、当該の高齢者がすでに意思表示できなくなっているため、近親者の要望に基づくことが多い。

 しかし、本人の壮健時の意思が不明な場合に、近親者の意思だけで「平穏死」させることには不穏さも残る。「平穏死」は当該の高齢者が老衰期にあり、特に経口摂取不能であり、経管栄養処置によらない限り、延命できない状態に達したことが前提条件となる。

 このような老衰状態の判定は、医師及び言語聴覚士による厳格な判断基準によって厳正になされる必要がある。その判定が不確かであると、「平穏死」は「放置死」となり、保護責任者遺棄致死か、最悪殺人罪に問われかねないことになる。

 その点、従来から議論される「尊厳死」が主に昏睡瀕死状態での人工呼吸器の装着に関して問題となるのに対し、「平穏死」はもっと死の手前の段階での延命処置の当否が問題となることからしても、専門医による客観的な判定のガイドラインが必要であろう。

 やや疑問を覚えるのは、「平穏死」を提唱している医家らが、医学的な判断よりも、人は無理な延命をせず、平穏に死すべきといった死生観ないし生命倫理を優先しているように見えることである。生死に関わる問題にそうした哲学が絡むことはすべてに共通だが、医療現場で実践するには、医学的な判断が優先されるべきはずだ。

 「平穏死」の提唱者は日本では盛んに実施されている胃ろうに代表されるような経管栄養処置に批判的であるが、これも「管につながれて生かされるのはかわいそうだから」というような感情論ではなく、それらの処置に延命効果が実際どの程度あるのかという医学的な検証によって可否の答えを出さなければならない。

 「管につながれて生かされるのはかわいそう」という感情論を拡大すれば、経管栄養処置が日常不可欠な先天性障碍者(児)も「平穏死」させたほうがよいということになりかねず、これではナチス的な強制安楽死の思想とリンクしてしまう恐れもあるのである。

 上述のような医学的な諸問題が解決しない間は、「平穏死」は「平安死」の場合ほど明白でなくとも、本人の事前意思表示が確認できる場合に限定しておかざるを得ないのではないかと考える次第である。


[追記]
筆者は「平穏死」に否定的なわけではない。むしろ老衰期高齢者に効果も不確かな延命処置を施す日本的慣習は、病院経営を優先した患者不在医療の一環ではないかとの疑いを持つ。客観的なガイドラインに基づく限り(絶対条件)、「平穏死」は老衰期高齢者への最も人道的な終末期ケアになるかもしれない。ただし、「平穏死」の場所確保という問題の解決も必要であることについては、別稿で論じた。

2018年6月 6日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第24回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

オヨとダホメ
 西アフリカにおける奴隷供給諸国の中で、最も歴史が古いと見られるのはオヨ王国である。オヨはナイジェリアにおける主要民族の一つであるヨルバ族が立てた王国であり、1400年頃、ヨルバ系最古の王国であるイフェよりも遅れて西方に建国された。
 当初はマイナーな存在であったが、ハウサ諸王国やソンガイ帝国とともにサハラ交易に参画して蓄積した富を元手に台頭した。大航海時代のヨーロッパに対しては奴隷供給を通じていち早く通商関係を持ち、見返りに軍備増強を推進したのである。こうしてオヨはヨルバ系諸国唯一と言われる騎兵隊を擁し、16世紀末までにイフェを圧倒して、ヨルバ系諸国の頂点に立つ。
 他方、17世紀半ば、オヨの南にはアジャ族が建てたダホメ王国が建設された。アジャ族は元来、今日のベニンの海岸地方にいたが、内陸に移住して当地のフォン族を服属させ、王国を建設した。こうした征服王朝の常として、ダホメは当初から中央集権的な軍事国家の性格が濃厚であった。
 オヨとダホメは、コンゴと異なり、共に西欧列強に対する奴隷供給国家として富国強兵を図ることに躊躇いがない点で、互いにライバル関係に立った。18世紀前半に出たダホメのアガジャ王はダホメの領土を拡張し、奴隷供給国家としての地位を確立したが、オヨとの戦争には勝てず、治世末期の1730年以降、ダホメはオヨの属国となった。
 この時から約1世紀の間はオヨが全盛期を迎えるが、ダホメの従属は形式的なものにとどまり、ダホメは実質的な独立を維持し、繁栄を続けた。一方、オヨは19世紀に入ると、フラニ族系の新興イスラーム系国家ソコト帝国に圧迫され、衰退する。
 ちょうどそのタイミングでダホメに登場した9代国王ゲゾは1830年、オヨを攻撃して実質的な滅亡に追込み、オヨに取って代わりダホメの全盛期を築いた。ゲゾは大規模な奴隷狩りで奴隷供給国家としての基盤を強化しつつ、西欧における奴隷貿易禁止の動向にも留意し、将来を見越してパームオイルの輸出に注力するなど経済基盤の多角化も図った。
 一方で、ゲゾは4000人規模の女性銃士隊を組織するなど軍備を強化しつつ、国内にはスパイ網を形成して恐怖政治を敷くなど専制君主として君臨したが、暗殺と見られる1858年の彼の死後、ダホメは衰退する。
 衰退の要因は奴隷貿易の廃止と関わっている。ゲゾ王は治世中に奴隷貿易の廃止を宣言したが、実際にはなお続行しており、彼の後継者もそうであったが、19世紀末になると立ち行かなくなり、1890年から94年にかけて、フランスとの二次の戦争に敗れ、フランス領土に下ったのである。

2018年5月30日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第18回)

六 復古神道への道

神儒合一論と徳川幕府
 室町時代に吉田神道が神道界を制圧した後、戦国時代に入ると、戦国大名らはその出自の不確かさを補うかのように、自己を神格化する趣向が大なり小なり示したが、その頂点に立ったのが天下人神道であった。これは、宗教であると同時に、自己の権力の正統性を誇示するまさに政治そのものであった。
 このような神道と政治の混淆は、初代家康を神格化した東照宮信仰に依拠した徳川幕府の成立によっていっそう明瞭となった。しかし、幕府の政治理論上の体制イデオロギーは圧倒的に儒教(朱子学)に置かれたため、儒教と神道を整合的に説く必要性が生じた。
 この要請に応えたのが、浪人の子という低い身分から家康側近にのし上がった儒学者・林羅山である。羅山は神道と儒教を同視する神儒合一論の提唱者として知られるが、このような思想は羅山の師であった藤原惺窩に由来している。公家出身の惺窩自身、家康から仕官を要請されたが固辞し、門弟の羅山を推薦したという因縁がある。
 より政治的だった羅山は惺窩の比較的素朴寛容な神儒合一論を純化し、排仏思想を徹底するとともに、神道界のエースであった吉田神道をも批判の俎上に乗せた。結局のところ、羅山の神儒合一論は習合説ではなく、彼が体制イデオロギーの座に据えようとしていた儒教の優位を前提に、儒教と神道の同一性を相当強引に論じようとする教条であった。
 例えば皇室祭祀の象徴である三種の神器が『中庸』における智・仁・勇の三徳を表すものであるとの羅山の論は、十分な根拠を欠く類推的な憶断にすぎないが、これも儒教理論に神道を無理に同期させようとする羅山流合一化の特徴である。
 もっとも、宗教的には習合的な武家政権の本質を維持していた徳川幕府は羅山の理論に完全に準拠したわけではなく、徳川家宗派でもあった浄土宗を中心に仏教も保護統制しつつ、1665年の諸社禰宜神主法度制定以降、羅山が敵視した吉田神社を神道本所として全国の神社の総社的地位を認証している。
 羅山の儒教ベースの神儒合一論は江戸時代前期においては彼の権威とあいまって強い影響力を持ち、多くの追随者を得たが、中期以降になると変化が生じ、神道に重きを置く修正理論が台頭してきた。これはやがて国粋思想とも合流し、復古神道という幕藩体制を揺るがす反動的潮流を生み出す下地ともなる。

2018年5月26日 (土)

体験的介護保険制度批判(追記7)

 介護施設入所中の家族に、とうとう看取り介護の段階が迫ることとなった。経口摂取がほぼ不可逆的に不能となったのだ。古い時代であれば、この段階で為すすべはなく、いわゆる老衰による死を待つばかりとなるところ、現代では胃ろうに代表されるような経管栄養処置の発達により、死を繰り延べることができるようになった。

 中でも胃ろうは元来、障碍を持つ小児患者のための栄養摂取法として海外で開発されたところ、日本では高齢者の延命処置として転用されるという独自の展開をたどったという。ここには、経営優先主義の医療界の欲望に加えて、「長寿」をよしとする風潮及び国策も絡んでいるのだろう。

 欧米では認知症が進行した高齢者に胃ろうが実施されることはほぼないというが、日本では医師から提案されることも多い。もちろん拒否する自由はある。あらゆる延命処置を受けず自然の死の経過に委ねる「平穏死」という概念や実践も行なわれつつあるが、普及はしておらず、延命拒否者は「死に場所」を失う恐れもある。

 個人的には、経管栄養処置=非人道的といった教条的人道主義者でもないし、欧米のように身も蓋もない費用対効果論から、老衰者への経管栄養処置=無駄と切り捨てることにも違和感はある。

 とはいえ、回復見込みのない老衰高齢者に対する経管栄養処置に不自然さは感ぜざるを得ない。人為的な延命を回避し、ごく自然に最期を迎えさせる「平穏死」の実践には理想的な魅力を感じる。

 しかし、「平穏死」しようにも場所の確保が必要である。病院は病気を治療して帰る場であるから、治療せず死を待つ場としてはふさわしくない。介護施設は俗に「終の棲家」とも呼ばれるが、看取り介護に必要な体制が整備された施設は多くない。

 近年は特養ホームに看取り介護の実施を促す政策導入がなされているというが、ただでさえ足りない職員の負担は重く、現在入所中の施設などは職員の研修が未達成らしく、看取り介護不可を明言している。

 考えてみれば、末期癌患者などの場合も含め、そもそも終末ケアは単なる身の回りの世話のような介護にとどまらず、最小限度の緩和的な医療処置は行い、最期に医師のみが法的な権限を持つ死亡確認を要する一連のプロセスであるから、それは医療でも介護でもなく、広い意味での看護に近い。

 自宅の一室をそうした看護場所として使用できる環境があれば、かつては一般的だった在宅死もよいだろうが、自宅にその条件がない場合はどうか。病院でも介護施設でもない「看護院」といったカテゴリーが必要なのではないだろうか。

 現状、ホスピスはそうした「看護院」に近いかもしれないが、ホスピスは末期癌患者のような重病者の終末ケアが中心で、高齢者向けではない。英語のナーシング・ホーム(nursing home)は「養老院」などと訳されることもあるが、原義的には「看護院」に近い。

 「看護院」はスタッフとして常勤医や介護士も配置されるが、その名のとおり看護師が主役であり、施設長も看護師資格を有するものとする。このような「看護院」が正式に認められれば、老衰の高齢者に不自然な延命処置を取らずとも、まさに「平穏死」できる場所が確保できるはずである。

 しかし、このような新型施設を社会保険でカバーするには、健康保険と介護保険の統合が必要かもしれず、そのためには日本の縦割り行政を廃さなければならない。同時に、「看護院」では医師が看護師の「部下」になるという通常の医療界とは逆転した体制に慣れる必要もある。医療界における医師絶対の権威主義打破も不可欠である。

*「高齢者看護施設」としたほうが、より目的・機能が明確になるかもしれない。

«アメリカ合衆国大統領黒書(連載第8回)

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