世界歴史鳥瞰(連載第37回)
第6章 略
三 帝政ロシアの成立と発展
(1)ロシアの自立
ヨーロッパの巻き返しの動きは北のロシアでも始まった。13世紀以来ロシアを間接支配していたモンゴル系キプチャク・ハーン国は、第4章でも触れたように、早くからイスラーム化していたから、キプチャク・ハーン国に対するキリスト教ロシアの「自立運動」はイスラーム勢力からの一種の「レコンキスタ」と言えなくはない一面を持っていた。
その中心を担ったのはキプチャク・ハーン国から徴税を請け負って台頭した有力分領のモスクワ公国であった。1462年に即位した大公イヴァン3世は1480年、ハーン国の内紛による分裂に乗じて独立、他の分領も併合して統一国家の体裁を整えた。また彼は先にオスマン帝国によって滅ぼされたビザンツ帝国最後の皇帝の姪を妃に迎え、ビザンツ帝国の継承者をももって任じ、カエサルのロシア語読みであるツァーリ(皇帝)を初めて君号として称した。
とはいえ、この時代の帝権は封建的な門閥貴族層(ボヤール)によってなお制約されていたため、3世の孫イヴァン4世は大貴族層を粛清する恐怖政治を敷いたことから、「雷帝」の異名で怖れられた。しかし、イヴァン雷帝は強権的手段で中央集権化を推進し、後の帝政ロシアの基礎を築いた。逃亡農奴や部族を離脱した周辺遊牧民など雑多な分子から成るロシア南部の武装自由民コサックを使ってシベリア開拓の先鞭をつけたのも雷帝であった。こうして、モスクワ=ロシアはそれまで東欧の大国であったヤゲウォ朝リトアニア=ポーランド王国(同君連合)に代わって東欧の強国へ浮上していく。
しかし、雷帝を継いだ息子フョードルは虚弱で、皇后の兄ボリス・ゴドゥノフが実権を握った。間もなくフョードルは世子を残さず死去し、これに先立ってフョードルの弟ドミトリーも不審死を遂げていたため、リューリク朝は断絶した(1598)。そこでゴドゥノフが新帝に推挙されるが、彼はドミトリー謀殺の疑惑を持たれ、政情不安に陥った。
治世末期、ドミトリー僭称者が引き起こした内乱渦中の1605年、ゴドゥノフ帝は病没する。この偽ドミトリー動乱の背後にはポーランドがあり、ポーランドの軍事介入とモスクワ占領(1610‐12)を招く結果となった。
(2)ロマノフ朝の始まり
ポーランドの占領に対して有力商人らの呼びかけで組織されたモスクワ解放軍によってポーランド軍が駆逐されると、ゴドゥノフ帝によって排除されていた政敵の大貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフが新帝に推挙され、ここに以後300年余り存続するロマノフ朝が開かれた。
初代ミハイル時代は商人層も参加する一種の身分制議会であった全国会議が力を持っていたが、二代目アレクセイは帝権の強化を推進したため、全国会議も1649年以降はほとんど開催されなくなった。また、アレクセイはビザンツ帝国滅亡以来独自の教会として発展しつつあったロシア正教会の典礼改革を支持し、保守的な古儀式派を抑圧する一方、帝権による教会統制を強化した。
対外的には、ポーランドと交戦し、西部領土を回復したほか、西欧化が進んでいたウクライナの併合を通じて西欧文化を摂取し、西欧式軍制の土台も築いた。
同時に、逃亡農奴の無期限捜索・連れ戻しを許可したことにより、モスクワ公国のイヴァン3世時代から進んでいた農民の農奴化が完成し、ロシア農奴制が確立された。
こうしてロマノフ朝の基礎はアレクセイの時代に築かれたと言えるが、ロシアが北の大国としてヨーロッパの舞台に登場するにはなお時間を要した。
(3)帝政ロシアへ
17世紀まではヨーロッパの周縁的な存在であったロシアをヨーロッパの中心に押し込み、キープレーヤーの地位に押し上げたのは、アレクセイの子で、大帝を冠せられるピョートル1世であった。
二人の異母兄の不安定な治世の後、正式に即位し、野心家の異母姉ソフィアが首謀したとされるクーデター策動を粉砕したピョートルが最初に手がけたのは、来たるべきスウェーデンとの戦争に備えた軍備強化・軍制改革であった。
この時代のスウェーデンは1523年、デンマーク主導のカルマル同盟からの離脱を指導したグスタフ・ヴァーサが創始したヴァーサ朝の下、30年戦争を勝利に導いたグスタフ・アドルフの手腕により北の大国にのし上がっていた。ロシアが西方へ領土を拡大するには、すでに16世紀末から17世紀初頭にかけて交代して事実上の敗北を喫していたスウェーデンへの再挑戦が避けられなかった。
その結果、1700年に始まった北方戦争はやはりスウェーデンと敵対するデンマーク、ポーランドを巻き込んで20年余りに及ぶ大戦となった。この大戦は1721年のニースタット条約をもってロシアの勝利に終わり、ロシアはバルト海東岸への進出を果たした。こうして北方におけるスウェーデンとロシアの主役交代こそが、帝政ロシアの成立を画したと言ってよい。
元老院から正式にインペラートル(皇帝)の称号を得たピョートルは戦争と平行して文物制度の西欧化を推進し、バルト海に面するネヴァ河口に自らの名にちなんで建設した新都ペテルブルグを「西欧への窓」と位置づけた。そのうえで皇帝中心の中央集権体制の確立、とりわけ官僚制の整備とともに税制改正、産業育成にも努めた。
ここに西のフランスに比せられるロシア型絶対王政とも呼ぶべき強力な君主主権国家体制が立ち現れた。ただ、フランスと異なるのは、ロシア型絶対王政は特有の農奴制を経済的土台としていたことである。これは農奴制を伴う領主支配制の解体の上に君主主権国家が成立したフランスとは異なり、ロシアでは元来西欧的な領主支配制が未発達であった代わりに、地主貴族制が根を張っていた事情による。ある意味からすれば、重農主義に傾斜した絶対王政なのであった。このような帝政ロシアの構制は19世紀後半の農奴解放に至るまで不変であった。
ピョートル大帝の築いた帝政ロシアは、1725年の彼の没後に生じた一時的な混乱を経て、ともに宮廷クーデターで登位したエリザベータ・ペトローヴナ(ピョートルの娘)と、ピョートルと並び大帝を冠せられるドイツ出身のエカチェリーナ2世(ピョートルの孫ピョートル3世の皇后)という二人の女帝の手によって継承発展せられていく。
とりわけ、エカチェリーナ2世は領土拡大に寄与し、オスマン帝国と交戦して黒海沿岸を奪い、プロイセン、オーストリアと組んでポーランド分割を断行した。また東方でも特使ラクスマンを鎖国下の日本の根室に派遣して通商を求めるなど硬軟両様の手法で対外的積極策を採った。
彼女はまた、ほぼ同時期に並び立ったオーストリアのマリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ2世とともに啓蒙専制君主と呼ばれる新しい君主類型を作った一人であるが、農奴制についてはドン・コサックのプガチョフが指導する大農民反乱(1773‐75)を機にかえってこれを拡大・強化する反啓蒙的な反動政策を断行した。
なお、エカチェリーナ2世の没後即位した息子のパーヴェルは女子の皇位継承を禁ずる法律を制定したため、ピョートル大帝の没後に皇后から短期間中継ぎ登位したエカチェリーナ1世を含めて計4人、通算在位67年に及び、18世紀のロシアを特徴づけた女帝はエカチェリーナ大帝をもって最後となった。
