2018年2月21日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第19回)

四 内陸アフリカの多様性

ピグミー諸族の苦難
 内陸アフリカの熱帯雨林には、ピグミーと総称される狩猟採集民族が伝統的な生活様式を守って生活してきた。ピグミーという用語は、ギリシャ神話で小人族を意味するピュグマイオイに由来する。実際、ピグミーに属する諸民族は全般に低身長(成人男性でも150センチ前後)という遺伝的特徴を持つ。
 ピグミーは様々な言語を話す諸民族の総称にすぎず、一つの民族集団ではないにもかかわらず、低身長という共通性を持つに至った理由は必ずしも定かでないが、内陸アフリカの熱帯雨林に住み、狩猟活動を効率的に行なううえで身を隠すに適した低身長に収斂進化した結果とも想定される。
 とはいえ、ピグミー諸族には遺伝上Y染色体ハプログループB系統が比較的高率で認められる。このハプログループB系統は元来東アフリカの大地溝帯に発した遺伝子であるので、ピグミー諸族はここから内陸密林地帯へ移住したグループを祖とする集団とも想定できる。
 しかし、言語と遺伝子系統は一致しないことが常であるから、このハプログループB系統集団が言語的に分化したのは、それぞれが周辺のバントゥー系農耕民と接触する過程で、農耕民系の言語を摂取していったためと考えられる。例外として、バカ族のバカ語は分類上ニジェール‐コンゴ語族に属するとされる独自言語であるが、バカ族も第二言語としてはバントゥー系言語を話す。
 このようにピグミー諸族は完全な非接触民族ではなく、農耕民社会と接点を持ってきた狩猟採集民族であるだけに、周辺農耕民族と交易を行なう一方で、差別や迫害にもさらされてきた。中でもコンゴのムブティ族に代表されるピグミーはバントゥー系農耕民の奴隷として使役されたり、女性はバントゥー系農耕民の嫁として取られる一方的通婚習慣が行なわれてきた。
 ピグミー諸族は狩猟採集民族に共通する特徴として、国家を形成することなく、家族を単位とする比較的平等な集団生活を守ってきたことからも、国家を形成するようになった周辺農耕民との関係で劣勢になっていったのである。このことは、とりわけ現代においてルワンダやコンゴなどで民族浄化にさらされる事態を招いている。
 またその原初的生活様式と低身長の形質特徴から、近代の誤った進化理論・人種理論の中で劣等的とみなされるようになり、動物として「人間動物園」に展示されるなどの非道な扱いを受けることにもなったが、この件は後に植民地時代のアフリカ人を扱う項で見ることにしたい。

2018年2月19日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第3回)

3 トーマス・ジェファーソン(1743年‐1826年)

 トーマス・ジェファーソンもまた「建国の父」の一人であるが、彼は政治哲学者でもあり、独立宣言の起草者となるなど、アメリカ合衆国の基層を成すイデオロギーの面で歴史的に重要な役割を果たした人物である。
 彼が初稿をものした格調高い独立宣言文はその実、自らが関わった先行のバージニア憲法などの憲法文書からの引用と継ぎはぎであったうえ、前回も見たように、初稿にはあった奴隷制廃止に関わる文言がアダムズの手により削除されたことで、空疎なものとなってしまったのだった。
 こうした経緯がジェファーソンとアダムズの関係を悪化させ、ジェファーソンは来る19世紀へ向けた節目となる1800年度大統領選挙に際しては、アダムズ大統領の再選を阻止すべく、アダムズが属する連邦党に反対する民主共和党から立候補し、当選を果たした。この連邦党対民主共和党の対立関係は、今日までアメリカ政治を規定し、その民主主義の発展を制約する二党支配政の萌芽となった。
 こうして満を持して第3代大統領となったジェファーソンは、今日の用語で言えば「リベラル」な政策を展開し、アダムズ前政権下の外国人及び煽動諸法の撤廃とそれによる被拘束者の釈放に努めた。しかし、奴隷解放に関してはジェファーソン自身奴隷制廃止論者を標榜していながら、政策的に進展させることはなかった。
 実際、彼はアダムズを僅差で破った大統領選挙でも、当時奴隷は選挙権を与えられていないにもかかわらず、奴隷人口の四分の三を州の有権者数に加算して選挙人数を割り当てるという歪んだ間接選挙制度の恩恵を受けていたため、“ニグロ大統領”などと揶揄される結果を招いていた。
 また、ジェファーソンは、現職トランプ大統領が会見で引き合いに出したことで波紋を呼んだように、個人的にも奴隷所有者であった。しかも、先立たれたマーサ夫人から相続した奴隷サリー・ヘミングスと事実婚関係にあり、複数の子どもをもうけたが、この事実を厳重に秘匿し、内縁妻のヘミングスさえも奴隷身分から解放しようとしなかった。
 ヘミングスは白人と黒人の混血の母と白人の父との間に生まれた四分の一黒人であり、外見上は白人化していたものと思われる。しかも、彼女はマーサ夫人と父を同じくする異母姉妹関係にあったとされる。こうした特殊事情が内縁関係につながったのだろうが、ジェファーソンは公式には異人種間婚姻に否定的であり、ここにも言行不一致が見られる。
 彼は思想的には奴隷制廃止論者ながら、終生経済的に多額の負債を抱えており、奴隷をその「担保物」として差し出していたため、奴隷を解放しようにもほとんどできなかったと弁明的に評されることもあるが、その思想上も黒人を白人より心身両面で劣った人種とみなし、同じ政府の下で共生できる存在ではないとする考えを捨てることはなかった。
 ましてや、アメリカ先住民に関してはより明白に排除の論理を有し、「アメリカ(白)人はインディアンどもを、森のけだものと一緒にストーニー山脈の奥へ押し込まなければならない」とか、「我々(アメリカ白人)は、かれら(先住民)のすべてを破壊する」などと公然と民族浄化を主張する人物でもあった。
 黒人観を含めた彼の人種観には後世の優生学思想の萌芽を思わせるものがあり、これがひいてはジェファーソンが構想し、現在まで合衆国の基本イデオロギーである「自由の帝国」(Empire for Liberty)―すなわち白人帝国主義―の土台となっているものと推察されるのである。
 ちなみに彼は、個人が武器を所持する自由の強力な擁護者でもあり、「非武装者は武装者よりも高い確率で攻撃されるかもしれないので、殺人を防ぐよりは奨励する」と論じて、個人の武器所持の自由をイデオロギー化している。
 こうした「自由」(リバティー)の空疎なイデオロギー化への寄与という点において、、まさしくジェファーソンこそは「アメリカン・イデオロギーの父」だと言えるだろう。

2018年2月15日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第12回)

四 神道の軍事化

神職武家の誕生
 武家支配体制が確立されると、有力神社の神職一族も次第に武装化し、武家化していく傾向を生じた。そうした神官武家の代表格として、前回見た熊野の関連の深い藤白鈴木氏がある。鈴木氏は神道の祖とも言える物部氏正統の古代氏族・穂積氏後裔を称し、熊野三山の一つ、熊野速玉大社の神職を世襲して強い勢力を持った熊野三党の一党を出自とする。
 鈴木一族は平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて多くの軍功を上げた。その後、承久の乱では院方に付きながらもしぶとく生き延び、南北朝時代には一族が南朝方と北朝方に分裂したが、後者に付いた一派は伊豆の江梨に移住して江梨鈴木氏を興した。他にも、藤白鈴木氏は全国的に多くの分家を興して穂積姓鈴木氏の母体となった。
 次いで、東国では信州を拠点とした諏訪氏がある。諏訪氏は出雲神話の建御名方神(タケノミナカタヌシ)を神話上の始祖と称し―そうだとすると、出雲王権系出自の可能性あり―、古代より諏訪大社の神職・大祝を世襲してきた一族であり、鈴木氏同様、平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて軍功を上げている。諏訪氏は鎌倉幕府御家人、次いで執権北条氏体制の下では北条得宗家被官(御内人)として勢力を持った。
 諏訪神社は源頼朝の崇敬と庇護を受けたため、東国の武神として東国武士の信仰を集め、勧請も盛んに行なわれたことから、諏訪神社が各地に普及する契機となった。諏訪氏を棟梁として諏訪神社氏人で固めた武士団は諏訪神党と称され、その結束力の高さを誇った。
 しかし、こうした鎌倉幕府との特段の結びつきから、幕府の滅亡時には一族の多くが運命を共にすることとなった。にもかかわらず、諏訪氏は神職としての宗教的威信を武器に、南北朝・室町時代を生き延びた。15世紀の文明年間には一族の内紛が発生したが、これを収束させた後はかえって勢力圏を拡大し、諏訪地方における戦国大名としての地位を確立していく。
 最後に、九州地方における神職武家として、阿蘇神社の神職・大宮司を世襲してきた阿蘇氏がある。阿蘇神社は土着性が強く、阿蘇氏の出自も元来は畿内王権から独立していた在地首長(阿蘇の君)の流れと見られる。畿内王権に服属してからは、朝廷から厚遇され、平安時代末期には地元武士団を統率するようになった。
 阿蘇氏も源氏方に付いて鎌倉幕府との結びつきを強め、かつ阿蘇社領が執権北条氏の預所とされたことで北条氏とも結ばれ、最盛期を迎える。しかし、南北朝時代には南朝側を強力に支持したため、北朝側から介入を受け、一族は分裂した。その後も阿蘇氏家中では内紛が常態化しながら、戦国時代には肥後守護職・菊池氏を下克上して戦国大名化していくのである。

2018年2月10日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第18回)

四 内陸アフリカの多様性

ルワンダ王国の少数支配体制
 キタラ帝国が解体していく過程でいくつかの王国が分流していったが、それら脱キタラ帝国群の中でも14世紀頃に建国されたルワンダは独特の少数支配構造により独自の地位を築き、最盛期コンゴ方面まで勢力圏を広げ、強勢化した。
 ルワンダ王国では人口の20パーセント程度にすぎない牧畜民が王(ムワミ)及び王に次ぐ高い権威を持つ王母をはじめとする支配階級を形成し、人口の大多数を占める農耕民を支配するという少数支配構造が早くに形成された。牧畜支配階級はトゥツィ、農耕被支配階級はフトゥと呼ばれ(他に狩猟被支配階級としてトゥワ)、両者は民族的に異質と認識されるようになった。
 しかし、トゥツィとフトゥは共にバントゥー系の言語と文化を共有し合う関係であり、民族としては近縁関係にある。それが民族的な相違として認識されるようになったのは、地域の牧畜民と農耕民の抗争の過程で、家畜所有者として経済的に優位にあった牧畜民が政治的にも農耕民を従属させる過程で支配の正統性を理由づける必要があったことによるものだろう。
 19世紀までにトゥツィ系の王から土地を安堵されたトゥツィ系族長がフトゥ系農耕民に労働させる準封建的なシステムが確立されると、フトゥはある種の農奴的存在の代名詞になった。その意味で、トゥツィ/フトゥは他のアフリカ諸国における民族・部族の種別ではなく、社会階級の種別とみなしたほうがより正確であろう。
 このような寡頭支配構造はしかし、ドイツ、続いてベルギーが19世紀末から20世紀半ば過ぎに至るまで、隣接のトゥツィ系王国ブルンディと併せて植民地支配を確立した際には極めて好都合であったので、大いに利用された。
 これに付随して、西洋近代的な「人種」の理論が持ち込まれ、支配階級トゥツィのハム族出自説―だとするとトゥツィは「黒人」ではないことになる―という擬似科学理論が流布されるようになった。
 こうした俗流人種理論に基づく分断政策は、ルワンダ独立期の共和革命により王国が打倒され、多数派フトゥが支配権を奪取すると、20世紀末には旧支配層トゥツィを標的とした民族大虐殺という惨事の遠因となったのであるが、この件に関しては後に改めて言及する。

2018年2月 5日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第2回)

2 ジョン・アダムズ(1735年‐1826年)

 ジョン・アダムズは、ワシントン初代大統領の下、副大統領を二期務めた後、引き続いて第2代大統領に選出された。そのような経緯から、初代の影に隠れて目立たない宿命を負うこととなったが、アダムズも17世紀の古い開拓移民一族にルーツを持つ「建国の父」の一人である。
 アダムズの出自バックグラウンドはワシントンとは大きく異なる。アダムズはハーバード大学出身、法廷弁護士の経歴を持つが、その点で弁護士が政界への有力な登竜門となる米国の伝統の始まりを成す人物であった。しかも、ワシントンのような奴隷所有者でもなかった。そのため、アダムズは終生奴隷を所有することはなかったが、奴隷制廃止論者でもなく、彼の奴隷制に関する考え方は「棚上げ論」であった。
 そのことは、アメリカ独立宣言起草時から顕著であった。後に彼の再選を阻止して第3代大統領となるトマス・ジェファーソンが起草した独立宣言には当初、奴隷廃制止に関わる文言が予定されていたところ、奴隷所有者層が少なくなかった「建国の父」の間で異論が起き、分裂危機に直面したため、アダムズの仲裁により文言が削除されたのである。
 これにより、独立宣言は奴隷制廃止に言及せず、当初の合衆国憲法にも奴隷制禁止規定は置かれないこととなった。大統領となっても、アダムズは奴隷制に関しては議論しないことを主義とした。こうした態度は合衆国の分裂を避けるための法律家らしいプラグマティズムと評することもできるが、棚上げすることで合衆国における奴隷制廃止を、独立革命で倒した旧宗主国英国よりも遅らせる要因となった。
 一期だけで終わったアダムズ大統領の事績として特筆されるのは、外国人及び煽動諸法の制定である。これは米国市民権の取得要件を厳格化する改正帰化法、危険外国人の強制退去措置を定める友好的外国人法、戦時下での敵性外国人の強制収容・退去措置を定める適性外国人法、政府に対する虚偽・中傷文書の出版を禁止する煽動法という四法から成る総合治安立法であった。
 違憲論を押して推進されたこの立法は当時、フランスと敵対関係に陥り、戦争危機にあったという状況下での対策措置であったが、内容的には移民・外国人排斥と言論統制を強化するものであることは明らかであり、このうち適性外国人法はその後も存続し、第二次大戦当時の悪名高い日系人強制収容政策の根拠法としても援用された。
 それ以外の法律は時限法として改廃されたとはいえ、「自由」と「移民」の国と評されてきた合衆国の根底にある抑圧の要素を先取りする内容を有し、その潜在要素が入国規制の強化や「国境の壁」の建設に動き、かつ政権批判言論を「虚偽報道」とみなして排斥しようとする現職トランプ大統領の下で再び活性化されようとしているとも言えよう。
 大統領としては一期で終わったアダムズだったが、彼の子孫は第6代大統領となったジョン・クインシー・アダムズをはじめ、東部マサチューセッツを地盤に政治家を多く輩出する東部エリート政治門閥の先駆けともなった。その意味では、アダムズこそ公式の貴族制度を持たない米国におけるブルジョワ・エリート支配の創始者とみなすこともできる。

2018年1月25日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第11回)

四 神道の軍事化

熊野別当と武家政権
 前章末尾で見たように、平安時代末の院政期になると、熊野三山が院の庇護を受けて政治的にも伸張したのであるが、熊野別当家は同時に軍事力も獲得するようになる。特に熊野水軍である。熊野水軍は紀伊半島南東部の熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とし、この時代の在地水軍勢力の例にならい、海賊を兼ねていた。
 熊野別当家はこの熊野水軍の統制権を掌握し、かれらを通じて瀬戸内海方面にもにらみを利かせた。一方で、武装化した熊野山衆徒も配下に抱え、一定の地上戦力も擁していた。
 そうした軍事力を背景に、熊野別当家は源平両氏の台頭期を生き延びていく。中でも平清盛と同時代の第18代別当湛快は清盛を支援し、平治の乱でも平氏の勝利に貢献して、平氏との密着関係を強めた。しかし、当時の熊野別当家は新宮別当家と田辺別当家の二大勢力に分かれ、源平両氏のいずれに付くかで内紛の様相を強めていた。
 折りしも清盛の死後、第21代別当に就任した湛増(前記湛快の次男)は、源平両氏の抗争が激化する中、両陣営から支援を要請されたため、一説によれば闘鶏で占いをしたと伝えられるほど、源平抗争の中で難しい舵取りを迫られていた。
 実のところ、湛増は当初、父の路線を継いで親平氏派であったのだが、親源氏派であった新宮家との戦闘に敗れたことや、平氏政権の瀬戸内海方面への勢力拡大を不満とする熊野水軍勢力の意向も汲み、親源氏派に乗り換えたのである。ちなみに、源義経の半伝説的な従者・武蔵坊弁慶が湛増の庶子と伝えられることも、弁慶以上に湛増と義経の結びつきを示唆するものかもしれない。
 実際、義経から平氏追討使に任じられた湛増は、源平最終合戦の壇ノ浦の戦いに自ら熊野水軍を率いて参戦、源氏の勝利に貢献した。この功績により、湛増は源頼朝から上総に所領を安堵されるとともに、熊野には地頭守護職を置かずに別当家の直接支配を維持するある種の自治特権が保証されたのである。
 熊野別当家はこうして財政的にも強大な地頭兼自治的領主として鎌倉幕府の機構に組み込まれていった。しかし、承久の乱が転機となる。この乱は熊野三山の伝統的な庇護者であった院と政治的な恩顧を受ける幕府の抗争であったため、両者の板ばさみとなった熊野別当家はいずれを支持するで家中が分裂、混乱した。
 乱が幕府勝利に終わると、幕府は息のかかった鶴岡八幡宮別当・定豪を熊野三山検校職に任じるとともに、乱で上皇方に付いた熊野反徒の追及を徹底し、熊野への統制を強めた。幕府も執権北条氏に乗っ取られて久しい14世紀に入ると、熊野別当家は勢力を失い、14世紀半ばを最後に史料上からも姿を消したのである。

2018年1月17日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第17回)

四 内陸アフリカの多様性

キタラ帝国とその解体
 広大なアフリカ大陸の内陸部は多様な農耕民と牧畜民・遊牧民が交錯割拠するところとなり、生活様式の相違ゆえの紛争が古くから絶えない領域であった。そのため、統一的な帝国の成立は大陸の他領域に比べてもいっそう困難であった。
 そうした中で、最も早くに広域的な王権を形成したのはバントゥー系のニョロ族であった。キタラ帝国とも呼ばれるその起源はアフリカ特有の口伝史のゆえに確定できないが、青銅器時代に遡るとする説もある。最盛期には、今日のウガンダを拠点にタンザニア、コンゴ、ルワンダ、ブルンディ、マラウィにまでまたがる広域を支配したため、大湖沼地域から東アフリカのスワヒリ文明圏をつなぐ交易ルートを押さえて経済的にも繁栄した。
 ただ、実際のところ、これら地域には部族単位の小首長国(王国)が林立しており、キタラ「帝国」の内実はそれら小首長国の連合体にすぎず、その統合性は常に不安定だったと見られる。各首長国はそれぞれの生活様式に適合するよりよい土地を求めて自立志向を強め、16世紀頃までに帝国は事実上解体され、名目的なものに移行したと見られる。
 伝承上は神聖なるオムカマの称号を持つ王の愛牛の死が悪い予兆となったとされるが、帝国解体の現実的な契機となったのは、北部からナイル‐サハラ語族に属するルオ族が侵入し、帝国の王権を簒奪したことにあったようである。その結果、旧支配層は南部に逃れ、統合性を失った帝国は分解し、アンコーレ、トロ、ブガンダ、ブソガ、ルワンダ等の諸王国が自立していった。
 名目上のキタラ帝国はその後もなお存続したが、19世紀中頃になると、ブガンダやルワンダ、アンコーレなどが国力をつけて台頭し、名目上の帝国を蚕食していったため、「帝国」は今日のウガンダの小王国ブニョロに断片化されることとなった。

2018年1月11日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第1回)

小序

 アメリカ合衆国大統領(以下、米大統領と略す)は、国民の投票によって選出される世界初の国家元首として、初代ジョージ・ワシントンから現職ドナルド・トランプに至るまで45代を数える。
 米大統領は国王―王冠なき国王―になぞらえられるほど、君主に近い広範な権限を保持しながら、その200年以上の歴史の中で、これまでのところ専制的な独裁者を出さない仕組みを維持してきたため、民主主義の象徴として称賛されることが多い。
 実際、初代ワシントンをはじめ、「偉人」として語られる歴代大統領は多い。筆者も少年期に何人かの米大統領の子供向け偉人伝を読まされた記憶がある。たしかに、表面的に見れば米大統領は「偉人」揃いなのかもしれないが、物事には必ず裏面がある。
 当連載は目下、トランプ現職大統領が歴代米大統領とは異質に見える大統領像を示して国際的にも論議を呼び、改めて合衆国大統領に対する関心が高まっている中、現職と比較対照される歴代米大統領の「裏の顔」をあぶり出そうといういささか意地の悪い試みとなる。
 具体的には、初代ワシントンから最直近の44代オバマまでの44人の米大統領について、表に出ない「裏の顔」を一人ずつ探っていく。その際、人格的な中傷に及ぶのではなしに、あくまでも公的に記録された大統領としての事績に潜む裏面をあぶり出す手法による。前置きはこれまでとし、早速本論に入っていこう。


1 ジョージ・ワシントン(1732年‐1799年)

 ジョージ・ワシントンは、アメリカの首都ワシントンにその名を恒久的に残した言わずと知れた初代大統領である。その他、西海岸のワシントン州や現代の原子力空母ジョージ・ワシントン号に至るまで、ワシントンの名を冠した事物は多く、現代でも崇拝されている初代である。
 ワシントンは独立前のバージニア植民地で、プランテーション経営者の家庭に生まれた。ワシントン家はジョージの曽祖父が17世紀に英国から移住してきた古い移民一族であり、中流ではあったが、その時代の習慣どおり、黒人奴隷所有者でもあった。
 ジョージも代々のプランテーションを継承し、最盛期には300人を越える黒人奴隷を使役して、小麦栽培を中核に醸造にも手を広げる多角的なプランターとして成功していた。そうしたことから、大統領となってもワシントンは奴隷制に反対することはなく、大統領官邸に複数の家事奴隷を連行し、使用していた。
 記録によれば、ワシントンは「個人的に」奴隷制を嫌悪していたというが、そうした個人的な心情が奴隷制廃止に政策を導くことはなかった。それどころか、当時官邸が所在した進歩的なペンシルベニア州では州内に6か月居住する奴隷の解放を義務づけていたことから、官邸の奴隷使用人を自身の地元バージニアとの間で頻繁に入れ替える脱法行為をしてまで奴隷を維持していたのである。
 このような点で、ワシントンは南部奴隷州を代表する典型的な「名士」の一人だったのであり、であればこそ、初代大統領として旧13植民地を一つに統合することができたのであろう。ただ、彼が初代大統領となり得た決定的な理由は軍歴にある。
 ワシントンはアメリカ独立戦争時に創設されたレジスタンス組織で後の米軍の前身でもある大陸軍の総司令官を独立戦争期間を通じて務め、多くの戦果を上げている。これも米国正史上は大いに美化されているが、彼が独立戦争過程で多くの先住民を攻撃し、殺戮したことは故意に看過されている。
 ワシントンは先住民を蛮族視どころか、猛獣になぞらえてその絶滅を目標としていた。特に独立戦争過程で「敵の敵は味方」とばかり英国側についた東部のイロコイ族を標的とする1779年の大規模な掃討作戦では、革製品の素材とするためにイロコイ族の皮を剥いだとされるような非人道行為も辞さなかった。
 大統領就任後も、先住民を合衆国建設の障害物として絶滅させる民族浄化の考えを変えることはなく、新たに創設された正規陸軍による浄化作戦を継続した。こうしたことからも、先住民にとってのワシントンは独立の英雄などではなく、民族とかれらの町の破壊者なのであった。
 かくして、奴隷制と先住民絶滅という他民族の苦痛・流血の上にアメリカ白人合衆国の土台を築いたのは、まさしくワシントン初代大統領の「功績」なのである。その意味で、支配層白人種にとっての彼は「偉人」であるが、被支配層有色人種にとっては「悪人」である。

2017年12月31日 (日)

熟れた果実の法則

 『共産論』を主軸とするブログ発信を開始して早7年目が過ぎようとしている。この間、世界経済は米国経済の見かけ上の回復・堅調や鈍化・混乱しながらも総体として成長を維持する新興国経済に支えられて、表層的には好調に見える。日本経済も平均株価2万円台を回復し、「アベノミクス」も意気軒昂のようである。
 しかし、先発国でも賃金の伸びは見られず、新興国の貧困も根本的には解消されず、稼ぎの悪い者は置き去りというまさに資本主義らしい「置いてけ堀経済」の特質がグローバルに拡散してきた。
 資本主義自体は、さらにグローバルな膨張を示して爛熟期を迎えようとしているが、それは同時に腐乱の始まりでもある。果実で言えば最高の熟れ時であり、甘くて美味しいが、腐り始めてもいる。来年以降2020年へのカウントダウンとなる中、腐った部分を慎重によりわけながら、美味の部分に群がる競争が激化するだろう。
 だが、美味の部分は富裕層―資本主義貴族―があらかた分捕ってしまうことだろう。熟れた果実を巧みに食するには安定収入のみならず、資産運用、租税回避などの法的経済的技巧とそれらを合法的に伝授する専門家ブレーンの助言も不可欠であり、それらは無産階級者にはとうていアクセスできない手段だからである。

2017年12月30日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第10回)

三 律令的神道祭祀の確立

院政と熊野信仰
 平安時代までに日本神道のあり方として定着した神仏習合が平安末期の複雑な政治情勢の中で独特の形態をまとって発現したのは、熊野信仰であった。紀伊の熊野には古くから山岳信仰の場として何らかの宗教的施設がすでにあったと考えられるが、いわゆる熊野三山として定着するのは、平安時代のことである。
 熊野の原信仰の内容は定かでないが、初期には修験道の霊場としてまず発展したと見られる。8世紀に役小角[えんのおづの]によって創始されたと伝えられる修験道という一種の神秘主義的宗教実践自体が神仏習合の土俗的な表象であり、修験者は祝とも僧とも取れる独特の宗教実践者であった。
 一方、仏教側では平安時代から浄土教の信仰が王侯貴族の間で隆盛化しており、神秘性を湛えた熊野が浄土と同視されるようになった。そうした中で、熊野本宮、熊野速玉、熊野那智の三大神社が有力化し、各社の祭神が仏教の如来や菩薩と同視される形でまさに神仏習合社として発展していったのだった。
 熊野三山は元来、別個の神社として発展してきたところ、平安初期には三山の統一が図られ、運営上も三山を統括する熊野別当職が置かれるようになっていた。熊野別当は神官ではなく、社僧であったが、仏僧が神社を管理するこの変則体制には、この時代の神仏習合が仏教優位のものとなっていたことを示している。
 とはいえ、熊野三山が単に宗教上のみならず、政治的にも強勢化した契機は歴代上皇の信仰と庇護を得たせいである。特に白河院の永久年間の参詣以降、上皇の熊野参詣が恒例化され、曾孫の後白河院の時代になると、30回を越す参詣を記録するまでになった。あたかも、熊野が院政の守護者となったかのごとくである。
 これに伴い、熊野別当の上に中央行政職として熊野三山検校が置かれたが、これは名誉職的存在で、熊野の行政管理はあくまでも熊野別当が執行した。熊野別当家は初代快慶に始まる世襲制であり、白河院から任命された長快以後、新宮別当家と田辺別当家に分裂しつつ、14世紀半ば頃まで続いていく。
 熊野別当は、院から寄進された所領を経営する封建領主となると同時に、熊野水軍の名で知られる軍事力をさえ掌握するようになり、平安末期に始まる武家の台頭という新たな情勢下で、武装化していくことにもなるのであるが、この神道の軍事化という事象については改めて次章に回すこととする。

«私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載最終回)

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